神楽坂|河合陶器店…今日やってなかった

文学と神楽坂

 ついになくなってしまいました。山下漆器店と同様に、河合陶器店もなくなってしまいました。大久保通りを変更し、18メートルだった道路を総計30メートルに拡幅し、道路になるという流れは変えられず、閉店しました。詳しくは山下漆器店の項に。

都市計画道路。東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)から「都市計画情報」を選び、「新宿区」最下の「同意する」から「表示切替」で「都市計画道路」だけを選ぶとでてきます。

 これは以前の話ですが……、河合陶器店は、昔も今も「角のせともの屋」だったのです。陶磁器食器、金魚鉢、園芸用土、植木鉢、香取線香のぶた、招き猫、福助、狸の置物などを販売していました。下は昔の写真です。

河合

 将来は大久保通りの拡張があり、ここは道路になります。それでなくなったわけです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。

 神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では……。なお、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。

相川さん それから河合(陶器店)さんですね。
馬場さん あれはまったく変わらないね。
山下さん 大きな樽かなんかを飾ってあったのを思い出すね。角のところへね。
相川さん 二階のベランダにずっと瀬戸物を飾ってあった。
山下さん そのときは天利さんが長屋を建てていたんだね。
相川さん そうそう。
山下さん だから、うちで家を建てるときに、河合さんが、あれは三階だったんかね、うちの上まで使っていたらしい。そのことをちょっと言われたことがあったんですよ。


神楽坂通り
神楽坂の通りと坂

神楽坂|河合陶器店…今日やってなかった” に1件のフィードバックがあります

  1. 岡田 透

    うわ〜、この写真、懐かしいです。
    この角地、実は我が家系にとって曰く因縁のある土地なんです。
    私の曽祖父に当たる岡田三百三(みおぞう)と云う人物は、幕末期から東京で口中医(現在の歯科医)をやってまして、本店が九段下の俎橋手前の角地(現在は九段北一丁目のスターバックス)、支店が、この神楽坂上角地だったんです。
    で、明治20年頃、その九段下の本店に辿り着いて岡田三百三に弟子入りしたのが、長野から出て来てきた青年、中原市五郎。
    その中原市五郎さんは、神楽坂上角地の支店を任され、その後新制となった歯科医試験に合格し、三百三の九段下の本店を買い取り、そこで日本初の「歯科医」を名乗り、その後、日本歯科大学の創始者となる訳です。
    日本歯科大学とその関連施設が、九段下から飯田橋の間に点在している理由は、そんな経緯があるようです。
    そんな事実を知ったのは、ここ5年ほどの事。
    30年前、サラリーマン時代の私は、そんな経緯なんて全く知らずに、飯田橋から神楽坂上まで上り、左に曲がってモスバーガー本部を度々訪れていたのです。
    帰り道の信号待ちで、河井陶器店を正面に見ながら「風情のある店だな〜」なんて思っていたのです。

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