松井須磨子|神楽坂

文学と神楽坂


松井須磨子

 松井須磨子氏は最初の明治・大正の女優です。それまでは女形が女性を演じていました。最後は神楽坂の側の横寺町の『芸術倶楽部』で自殺しました。実は1ヶ月前、元早稲田教授で劇作家の島村抱月氏が、同じ『芸術倶楽部』でインフルエンザにかかって死亡しました。後追い心中でした。
 ふーん、なるほど、そうなんだと考えていると、甘い。まだ本当は何が起こったのか、まだまだ、わかっていません。
 松井須磨子氏は田舎生まれで気が強く、美人では……うーん、いろいろありますが、はい、なく、しかし、しかし、真の女優です。島村抱月氏は気が弱く、現在の早稲田大学を卒業し、文芸評論家で、英国に行きたくさんの舞台を見た劇作家で、恋に悩む考えはここまで外に出さなくてもいいのにと思ってしまいます。
 河竹繁俊氏の『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』(毎日新聞社)で中山晋平氏の手記を引用し、抱月氏の思いを書いています。

 大正元年の三月大阪ヘノラをやりに行ったとき、東儀(鉄笛)が誘惑しようとしたんだ。けれども女(=松井須磨子氏)はそれをきらってぼくの所へのがれてきた。ぼくはそれを救ってやったんだが、それをしおに女は僕におちいった訳たんだ……ノラにしてもマグダにしても、ぼくの芝居であの女は成功したんだ。あの女もぼくを悪くなく思ったろうし、ぼくも女が可愛いかった。……あの女の芸術は、ぼくがあの女になり変ってやったようなものなんだ。ねえ中山君、まったくぼくのノラで、ぼくのマグダなんだ。

『人形の家』でノラ、『故郷』のマグダは2人とも松井須磨子氏が演じた女性です。
 同じく抱月が須磨子に書いたラブレターの1節では

 あなたはかわいい人、うれしい人、恋しい人、そして悪人、ぼくをこんなにまよわせて、此上はただもうどうかして実際の妻になってもらう外、ぼくの心の安まる道はありません。

 これ以外にも沢山書いてありますが、おなじです。
 これも『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』にでていますが、本来は田辺若男氏の『俳優』(春秋社、昭和35年)から引用してあるようです。

 鹿児島で「復活」をやった千秋楽の夜。宿へ引き上げてきてタ食の膳にむかった時、抱月と須磨子の室から、突然経営部の小村光雄の室へけたたましく電話がかかった。小村が取るものも取りあえず飛んで行くと、まじめで生一本な抱月は、やや青ざめて腕ぐみをしなから、「もう芸術座を解散しなければならない」と沈痛にいう。小村がけげんな顔をして、そのわけをたずねると、事情がおおよそわかった。顔なじみの土地の文学芸者から、羽織の裏へ抱月に揮が依頼された。そこで「わか胸の燃ゆる思いにくらぶれば、けむりは薄し桜島山」と書いた。書きおわるやいなや、それを見ていた須磨子は、抱月のタ食の膳を蹴とばし、行李の中から羽織や着物を投げ出して、びりびりと引き裂き、はては抱月に組みついてきたのであった。「お前が日本一の文士なら、私も日本一の女優だ」「なに、この成り上り者、誰れのおかげでそうなれたと思う」と、売りことばに買いことば、「お前こそ成り上り者だ。憚りなから、私は武士の家の血統に生れてる人間だ――」と、須磨子は引っこもうとしない。「度しがたい女だ。もう芸術座は解散する」というので、小村の室に電話かとんだわけだった。小村にしてみれば、二人のいさかいは珍らしいことでもないので、まアまアとその場をおさめて引きとった。
 ところが――その翌朝、鹿児島駅の待合室で、小村の話を聞いて、不安そうな一座の俳優たちの視線を受けた二人は、テレクサイ顔をしている抱月のそばへ「先生――」と須磨子が寄り添って行って、何やらひそひそと笑いながらささやきかわしている。「――天真爛漫。そこがいいのだ」と、抱月は小村に語ってすましていたという。夫婦喧嘩は犬も喰わないという標本を見せつけられて、一座も呆然としてうなずいたという。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください