日別アーカイブ: 2013年4月8日

料亭「松ケ枝」(昔)|若宮町

文学と神楽坂

 今ではなくなってしまいましたが、若宮町に佇む大料亭「松ケ枝(まつがえ)」がありました。場所はここで、創業は明治38年。平成2年頃まで営業し、平成4年以前に駐車場になり、平成14年、マンション「クレアシティ神楽坂若宮町」になりました。地図・空中写真閲覧サービスのCKT893(平成1年、1989/10/20)では中央の⭕️ですが、CKT921(平成4年、1992/10/10)は駐車場になります。

松ヶ枝(平成元年と4年)

『ここは牛込、神楽坂』第8号で筆者(おそらく編集長の立壁正子氏)は「ありし日の料亭『松ヶ枝』のこと」を書き、

 設計したのは神楽坂六丁目の木村建築事務所の故木村兵吉氏。
「これが取り壊されたとき、昔を知る者としては涙が出る思いでしたよ。まさに強者(つわもの)どもが夢の跡という感じで」
 と、開口一番、事務長さん。
「この建物ができたのは、昭和二十八年で、その後二回ほど増改築して、二階に三十畳の広間ができたんです」
 それにしてもすごいスケール。広さは「駐車場も含めて四百坪」。幾つかの棟が廊下で結ばれているところなど、平安時代の寝殿造りを思わせるが……。(中略)
 この渡り廊下の床板が木琴のように横に何枚も敷かれていたというが「あれは作曲家の古賀政男氏のアイデア」だったとか。一方では、こんな有名人の遊びもあったのだ。
「庭には立派な池もあって、その池の中に張り出した釣殿つりどのみたいな座敷があってね。池には橋が架かっていて、鯉もいたけど、あれは確か……」
 と、ここで、今 は亡き元総理の名が…。
 恐らく田中角栄氏の名前が出たのでしょう。
 水野正雄氏は『神楽坂まちの手帖』第5号『花街・神楽坂の中心だった料亭「松ケ枝」』で、
「松ケ枝がどんなに大きくて繁盛していたかは、下働きの女中だけで50人はいたことを話せば想像できるでしょう。下働きの女中さんというのは、料理もここで作っていましたから食器を洗ったり、掃除をしたり浴衣や敷布を洗濯したり。」
元松ケ枝のマンション

 データベース写真で見る新宿から神楽坂で引くと写真14(ID 76とID 11837とも同じ)がでます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11837 神楽坂5-37善国寺の横の道

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 76 裏道、寿司作前 昭和54年1月5日.j

 この青色の点(写真14の撮影の点)から「寿し作」を見ると、右側は松ヶ枝の壁で、「正面の大きな木の下の黒板壁が昔の駐車場になります」と地元の人。ちなみに、現在はマンション「クレアシティ神楽坂若宮町」です。築年月は2002年10月です。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

 創業者はお(たけ)さんで、お(たけ)さんは民主党の代議士・三木武吉の妾さんです。神楽坂で一番の料亭だといわれていました。
 ちなみに三木武吉代議士では一番有名なものはwikipediaの語りによれば

戦後、公職追放解除後の第25回衆議院議員総選挙では、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に…と、三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。

 ただし、エピソードが違えばこの妾の数も違っています。

某日、演説中に「六人の妾はどうした!」と聴衆から野次られると、即座に「いや、六人ではなく正確には七人いるが、皆、キチンと面倒を見ているから御心配無用!」と切り返したというのは、あまりにも有名な逸話である。(浅川博忠『自民党ナンバー2の研究』(講談社文庫,2002年,p.185)

 元総理大臣田中角栄が芸者辻和子と逢っているのもここ料亭、松ヶ枝です。辻和子氏の「熱情―田中角栄をとりこにした芸者」(講談社、2004)では

 戦後、まっ先に復興したのは神楽坂でも有数の待合だった松ヶ枝まつがえですが、まだ桃山という屋号やごうで仮営業だった頃のことです。そこのお座敷に呼ばれたのがおとうさんとの最初の出会いだったのですが、なにしろ大方の芸者衆がまだ疎開先から帰ってきておりません。若い子といったら、わたしとなな子さんぐらいしかおりませんでしたから、わたしが呼ばれたのだと思います。
 でもそのときは、一対一ではなく、おとうさんが経営する建築会社で設計図を描いている中西さんという方とご一緒でした。なんでも、おとうさんが新潟から出てきてすぐの頃にお友だちになり、かつては鶯谷うぐいすだにに二人で一つ部屋を借りて住んでいたこともあったとか、そんな話をしていました。
「おれ、選挙に落ちちゃったんだ」
 おとうさんは、その年の四月に行われた戦後第一回目の総選挙に出身地の新潟のほうで立候補したけれど、あえなく落選してしまったと言っていました。でも、すでに戦後の土建ブームがはじまっていて景気がよかったせいか、おとうさんの顔からは暗いものがまるで感じられませんでした。
 そのときにはもう髭を生やしていて、おとうさんの髭はちょび髭と思われていますが、正確には横にびっしりと生えた立派なお髭でした。
おとうさん 田中角栄のこと