日別アーカイブ: 2013年6月12日

袋町|一平荘

文学と神楽坂

 袋町に非常に綺麗な料亭「一平荘」がたっていました。いいたいことはわかっています。倉本さんの「拝啓、父上様」の主人公は一平です。しかし、この一平荘と関係はありません(多分)。

『ここは牛込、神楽坂』第12号「お便り投稿交差点」に素晴らしい手紙があります。以下引用です。

   坂の上のまちの思い出   船橋市 西 幸子
 昭和19年7月、太平洋戦争は遂にサイパンが陥落し、負け戦を認めざる得ない事態に追い込まれた。東都空襲間近しと言われ、疎開が始まった。故郷のある人が羨ましかった。神楽坂は軒並み店を閉め、愛日小学校も月はじめから自宅待機となった。そして遂に、隣組を挙げてのお別れ会となったのである。お互い、光照寺の境内に銭湯ほどの防火用水槽を掘り、べたべたコンクリートを塗り付けた仲間である。お寺の庫裏の大釜でごはんを炊きあげ、たくさんのお握りを作った。お握りはプラチナのように光っていた。苦心して集めた白米であった。子供たちはうれしそうに周りをうろうろ。
 隣組の一員でもある料亭一平荘の広間が提供され、十家族が顔を揃えた。配給のお酒を飲み交わし料亭心尽くしの肴をつついて、この日は國民服やもんぺの生活を忘れたのである。
 一平荘は、もと旗本の水野十郎左衛門の屋敷跡といわれ、立派な歌舞伎門が光照寺前にあり、奥深く、さるすべりが美しかった。広い庭では、昼は山鳩が啼き、夜は梟の声も聞こえた。幡随院長兵衛が謀殺されたという風呂場は当時まで残してあったという。少し前までは、夕方、打水をした石畳を、神楽坂のきれいどころが、三味線箱を担いだ男衆を従えて出入りする絵のような光景が見られたが、その頃になると塀に軍馬が繋がれ、長剣を光らせた軍服姿が入っていくという状態に変わっていた。隣組の連中のほとんどが初めての料亭だったと思う。場所柄、花柳輔八さん、長唄の勝喜賀さんがおられ、お決まりの軍歌のあとは隠し芸ならぬ玄人の芸を堪能されてもらった。一平荘の綺麗なお内儀も、清元の「北州」を披露され、一同大いに盛り上がった。
 そしてその翌日、皆は信州へ、秋田へ、新潟へと、散り散りに別れて行った。(略)
 袋町は、翌20年の4月と5月、通りを挟んで2回にわたって焼失した。袋町から北町、中町、砂土原町、市ヶ谷にかけては、うっ蒼と樹木が茂る江戸時代からの屋敷町だったが、何とも惜しい焼失だった。

一平荘2巴水の一平荘

 線画は昭和12年の「火災保険特殊地図」です。「割烹 一平荘」と大きく書いてあります。
 また、絵は()(すい)の昭和東都著名料亭百景「神楽坂一平荘」です。
 前面の踊り場は道路から1メートル以上離れて、視線を遮る門塀まわりがあり、しかし閉鎖感をやわらげ、床仕上げにはおそらく石。門構えを入ってもまだ大自然があります。いい感じに作っています。

 また『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店(わらだな)、地蔵坂界隈いま、むかし」では座談会を行っています。司会は日本出版クラブの大橋祥宏氏、袋町・光照寺住職の糸山氏、袋町・山本犬猫病院の山本氏、袋町・三和商店の吉野氏です。

司会 出版クラブのところにあった一平荘というのは、そのとき焼けたわけですね。
糸山 ええ、戦災で焼けて、その後、税金が払えなくて物納したとか。その跡が市ヶ谷商業の運動場になったんです。
山本 私は一平荘で結婚式をしたんです。昭和18年だったと思いますが。
吉野 私もそうです。やはり18年にここで。
山本 私はそのまま出征したんです。あの一平荘は別のところにできた一平荘とは関係ないんですよ。
糸山 ここにあった一平荘は上野に移りましたが、税金が払えなくて、精養軒に売ったそうです。
司会 一平荘の中をのぞいたことはありますか。
糸山 この会館の前の銀杏の木の横に大きな酒樽があって、それが茶室になっていたんです。
吉野 ええ、そうでした。

別のところにできた一平荘 昭和55年まで現在の若宮町「割烹加賀」の場所にありました。昭和59年までにはなくなっています。

 日本橋に「一平」という料理店があります。昭和4年から神楽坂で日本料理の料亭「一平荘」をしていたようです。これが本当ならば創業は昭和4年でしょうか。

袋町|名前はどうして?

文学と神楽坂

 袋町(ふくろまち)の名前はどうして付いたのでしょうか?

 まずウィキペディアを見ます。「坂上は牛込北御徒町(現・北町)に入るところで御徒組の門に突き当たり、袋小路となっていたため袋町と呼ばれた」と書いてあります。「袋小路」とは行き止まりになっていて通り抜けられない小路。なるほど。でも、間違いなのです。

 北に行くS状の坂は戦前にはなかったわけすが、南に行くのは? 南に行くのは全く問題なく行ける。袋小路はどこにもなく、ウィキペディアのように袋町という理由はありません。

袋町4

 やはり地図を見てみます。延宝年中(1673~81年)にできてきます。ただし、現在のように大きくはありません。ごくごく小さな小さな場所を2つとっています。
袋町6

 明治2年、牛込袋町と牛込光照寺門前を合併し、牛込袋町となり、さらに明治5年、近隣の旧武家地や光照寺境内などを併合し、明治44年、現在の袋町になります。牛込袋町になったのは明治以降です。

 昭和51年の「新宿区町名誌」によれば「藁店(わなだな)横町の奥で袋地になっているので袋町になった」と書き、平成22年の「新修 新宿区町名誌」では「肴町の横町で袋道であるため、袋町と名付けた(町方書上)」と書かれています。町方書上では「肴町横町ニ而袋道ニ御座候」と書いています。なお、「袋地」と「袋道」では意味が違い、「袋地」とは、他人の土地に囲まれて、公道に出られない土地のこと。「袋道」は「袋小路こうじ」に同じで、「行き止まりになっていて通り抜けられない小路」。つまり、江戸時代の袋町と明治の袋町についてその説明は全く違うのです。この「袋町」は明治時代ではなく、江戸時代の言葉です。

 新宿区歴史博物館学芸員の北見恭一氏は『まちの手帖』でこう書いています。

行き止まりで通り抜けできない町、周囲を他人の土地に囲まれた所という意味ですが、この場合も地蔵坂を上った奥にあるためこう呼ばれたのでしょう。江戸時代の袋町は、光照寺に接した狭い町で、明治二年(1869)に光照寺及び門前町と合併して現在の袋町ができました。

 北町と接する大きさは江戸時代では全くありません。