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漱石先生の書き潰し原稿|内田百閒

文学と神楽坂


内田百閒

内田百閒氏

 内田百閒(ひゃっけん)氏の「漱石山房の記」(昭和29年、角川文庫)です。
 氏は小説家、随筆家で、生年は明治22年5月29日。没年は昭和46年4月20日。東京帝大独文科卒。夏目漱石に私淑し、在学中から俳句や写生文を発表。代表作は『贋作吾輩は猫である』『阿房列車』など。法政大教授でした。

 漱石先生が朝日新聞に「道草」を連載せられた當時、木曜日の晩に漱石山房へ行つて見ると、板敷の書齋の絨氈の上に、こつち向きに据ゑてある先生の黒檀の机の脚の外側に何か少し書いた原稿用紙が積み重ねてあつて、それが毎週見る毎に次第に高くなる樣であつた。あれは何ですかと尋ねて見たら、書き潰しが溜まつたのだよと云はれた。
 漱石先生に消したり直したりして汚くなつた原稿用紙は新聞社へ渡されなかつた樣で、その度に紙を新らしくして、初めから書き直されたらしい。先生の專用せられた原稿用紙は橋口五葉氏の考案した木版を刷つたものであつて、縁の額には竜の模樣があつた。判は大きかつたけれど、半切であつたから、書き直しをされても大した事はなかつたと思はれる。
 しかしその書き潰しが段段高くなつて、七八寸もある様に見えて来ると、私にはそれが気になり出した。先生は一枚一枚破いてそこいらに散らかすよりは、さうしてきちんと重ねておいた方が始末がいいと云ふだけの事でさうして居られるに違ひないが、もつと溜まつて、邪魔になり出したら、どうするのであらうかと云ふ事が心配になつた。先生が捨ててしまはない内に買ひたいものだと考へて、同じく漱石山房へ出入してゐた岡田耕三君と、も一人だれだつたか忘れたが、私と三人でその書き潰しの原稿用紙を頂戴したいと云ふ事を、恐る恐る先生に申し出たところが、そんな物がいるなら持つて行つてもいいよと先生が云つたので、早速三人で分けた。(中略)
 さうして貰つて来た書き漬しの原稿用紙を私は大切にしまつておいたが、長い間にその内の幾枚かを二三の知友に割愛した。近年になつて郷里岡山の恩師木畑竹三郎先生にも二三葉を差上げたところが大変にお喜びになつて巻物にして保存したいから、その由来書を私に書けと命ぜられたので、右の次第を拙文に綴つたのである。

 で、「新宿区夏目漱石記念施設整備基金」を出すと必ず新宿区から貰える『道草』の草稿、つまり書き潰しです。道草

橋口五葉 はしぐちごよう。版画家。橋本雅邦に師事。独自の近代浮世絵版画を完成。夏目漱石・泉鏡花・永井荷風らの本も装丁。生年は明治13年12月21日。没年は大正10年2月24日。享年は満42歳。



[硝子戸]

神楽坂通り(3丁目南東部)

助六と龍公亭
 3丁目南側最東部の歴史です。赤い色で書きました。この図の左側は北西部の坂上で、見番横丁に入っていく横丁があります。さらに下に行くと北には「神楽坂仲通り」が見えます。反対側は一応「神楽坂仲坂」と名前をつけておきます。この赤い部分を大正元年から現在まで見ていきます。

1912

東京市区調査会『東京市及接続郡地籍地図』大正元年

 では、この上の地図を見ましょう。大正元年で、羽生写真館がありました。今ではこの写真館はなく、いつ消えたのかわかりません。ここに助六と龍公亭もあったはずです。飯田公子氏の本『神楽坂龍公亭物語り』によれば龍公亭は明治31年に創業し、助六は明治43年に創業したので、店舗はあるはずですが、この地図には書いていません。(地図は東京市区調査会『東京市及接続郡地籍台帳』と『東京市及接続郡地籍地図』大正元年から)

 次は大正7年です。地図は飯田公子氏の本『神楽坂龍公亭物語り』から取った「大正6年の神楽坂地図」です。このうち、左上に見られる越前屋から山本漬物屋までです。

 当然、羽生写真館はなくなっています。「あやめ寿司」はのちの龍公亭です。田原屋果物店は有名な5丁目の田原屋の弟がやっていました。あと、越前屋はなにをやっていたのでしょうか、わかりません。

 次は大正11年ごろの、関東大震災が始まる直前です。印屋はなくなりました。竹村アメヤは「菓子屋」になっています。山田レストランは「カフェー山田」に変わりました。あとは変わりません。(新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)から)

1927
 次は昭和5年頃です。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」からで、上半分が昭和5年頃です。下半分は1996年の地図です。一番左の越前屋は榎本文具店に変わっています。また「菓子屋」は天壽堂飴店になっています。カフェ山田は同じ場所で変化はなく、河合洋品屋は山本茶店に変わりました。あやめ寿司は龍公亭飯店に変わりました。しかし、経営陣は同じです。住吉メリンスも「呉服・住吉屋」と同じでしょう。山本漬物店は「山本骨董店」になりました。これも同じ山本になっているので、同じ経営陣なのでしょう。
 1930&1996 1937年(昭和12年)では最後の戦前の地図です。ビヤホールは「カフェ山田」でしょう。スシヤはあやめ寿司を指しています。その右手の無名の店は助六です。田原屋果物店が続き、「山本骨董店」ではなく「丸山薬局」になっています。(都市製図社の『火災保険特殊地図』昭和12年)

1937

 1952年(昭和27年)は戦後になります。榎本文具店は「金井敏雄」になり、飴店は岡田印章にかわりました。これは6番地です。一方、5番地では助六が左に、龍公亭は右に変わっています。また「田原屋」はなくなり、ヒデパーマにかわっています。4番地は山本薬局になっています。上の「丸山薬局」はやはり間違いで山本薬局のままの方が考えやすいと思います。(都市製図社の『火災保険特殊地図』昭和27年)
1952

 1960年頃、『神楽坂まちの手帖』第12号の「神楽坂30年代地図」です。左は「花菱」で、初めてのフランス料理がでてきました。岡田印章は岡田印房にかわりました。助六と龍公亭が続き、蘇家成に変わっています。ヒデ・パーマと山本でおしまいです。
1960年CCF20130523_00096

 同じ1960年の地図を出しておきます。すこしあとにでたのでしょうか、蘇家成は空き家になりました。(住宅地図は新宿区西部[1960]住宅協会から。国立国会図書館で調べています)1960年
 1962年は全く変わっていません。(住宅地図は新宿区西部[1962]住宅協会)
1962年
 下の1970年は国立図書館のコピーが悪く読めない場所もありますが、空想力を使って「西洋料理花菱」「岡田印房」「はきもの助六」「龍公亭飯店」「コーヒー5番」「ヒデ美容室」「山本薬局」と変わっているはずです。(住宅地図は国立国会図書館の「新宿区西部[1962]住宅協会 新宿区1970年度版 渋谷逸雄」から)
1970年
 1980年は「ハナビシ」「岡田印房」「助六 3F」「龍公亭」「五条ビル 5F」「ヒデ美容室」「山本薬局」です。(住宅地図は国立国会図書館の「新宿区1980年度版 日本住宅地図出版」)

1980
 1985年は下の地図で「(名前はわからず)」、「岡田印房」、「助六」、「龍公亭」、おそらく「五条ビル」の「B1コーヒーハウス」、「ヒデ美容室」、「山本薬局」です。(神楽坂青年会の『神楽坂まっぷ』(1985)から)
1985

 1990年は「神田印刷仮営業所」「岡田印房」「助六」「龍公亭飯店」「五条ビル」「ヒデ美容室」「山本薬局」です。「五条ビル」は大きくなって平面的にヒデ美容室のほぼ1.5ぐらいは大きくなっています。(住宅地図は国立国会図書館の「新宿区1990 ゼンリン」から)

1990

 1996年は上から4番目の地図と同じ地図です。上は昭和5年頃、下は1996年の地図です。「携帯電話専門店HIT SHOP」「岡田印房」「助六履物」「龍公亭飯店」「タゴール」「ヒデ美容室」「芳進堂3丁目店」があります。1930&1996

 2001年は「HITショップ神楽坂店」「岡田印房」「助六」「龍公亭飯店」「五条ビル」「ヒデ美容室」「神楽坂山本ビル」です。(住宅地図はGrand Map グランマップ Version 1.01という地図のプログラムから取りました)

2000

 2010年は「ルーシー飯田」「岡田印房」「助六」「龍公亭ビル」「神楽坂センタービル」「神楽坂山本ビル」で、ヒデ美容室がなくなり、五条ビルと合わせて「神楽坂センタービル」に変わりました。(住宅地図は「新宿区201010 ゼンリン」)

2010

 2015年は「ルーヒーローゼ」。次は名前を調べると「TheRoom」でした。「助六」「龍公亭」「神楽坂センタービル」「神楽坂山本ビル」に変わりました。「TheRoom」が一番新しく2013年10月にできました。これも縦たっだ文字を勝手に横に変えています(地図は神楽坂通り商店会編の『神楽坂マップ』)

2015

 ほとんどは大きなビルに代わっていますが、小さな店もあります。つまり、大企業やビルのオーナーと、小さな店舗です。本当は、小さな店舗も大企業並に変えたいと思っているのでしょうね。あるいは、顔が見える店舗と、顔を見せない企業とに分けることもできます。顔が見える店舗がある間は、みんなの街、庶民の町なのです。

大正7年越前屋印屋 竹村アヤメ山田レストランと河合洋品店あやめ寿司助六下駄屋田原屋果物店と住吉屋呉服山本漬物店
大正11年菓子屋カフエー山田と河合洋品店山本骨董店
昭和5年頃榎本文具店天壽堂飴店カフエー山田と山本茶店龍公亭山本薬局
昭和12年6ビヤホール日原屋
昭和27年金井敏雄岡田印房助六ヒデパーマ
昭和30年フランス花菱蘇家成
空室
1970年コーヒー
1985年
2010年ルーシー飯田神楽坂センタービル山本ビル

●花菱
 レストラン『花菱』は戦後に開業した店ですが、田原屋と同じく料亭さんにも仕出しで料理を提供していました。サラダやステーキやシチューがおいしかったのを覚えています。黒い小判型の漆塗りの弁当箱に入った洋食弁当は二段重ねになっていて、芸者さんたちに人気でした。お座敷でお客様と一統に食べたりしない芸者さんたちに、気の利いたお客様は、時に洋食弁当を取ってご馳走するのです。そうすると芸者さんたちはたいそうご機嫌になってサービスも倍増するというわけです。父の妹二人と、その夫たちもたまたま兄弟でしたが、その二夫婦で一緒にレストランをやっていたのです。神楽坂で人気のあった『花菱』も夫たちが病気になったことから昭和の終わりに幕を閉じてしまいました。

 私のアルバムの中の神楽坂。飯田公子。かぐらむら。76号。平成26年