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正宗白鳥|毒

文学と神楽坂

正宗白鳥2 正宗白鳥氏の『毒』です。氏の生年は明治12年(1879年)3月3日。没年は昭和37年(1962年)10月28日。『毒』は明治45年、作者が33歳になる時に出版されています。なお、差別用語や放送禁止用語になる言葉もありそうですが、原文を尊重して、そのままにしておきます。

 そして賑かな神樂坂の方へ足が向いたが、其處は緣日らしくて、平生(ふだん)よりも一層雜杳してゐた。
 彼れは次第に足を緩めて、夜店などを傍見してゐたが、毘沙門(びしゃもん)境内の見世物小屋から、客を呼ぶ皺嗄れた聲が聞えると、何氣なく其處へ近寄つた。
 左右に汚れた小屋が向合つてゐる。
 左の長い小屋には、鷄のやうな手足を備へた若い女が、さまざまの藝をしてゐる繪看板が掛つてゐる。右の小さい小屋には、入口に細長い爺さんが突立つてゐて、幕の内に鐡漿(おはぐろ)をつけた婆さんが坐つてゐる。そして婆さんの命令に應じて、幕の影から幼い細い聲が洩れて來た。
傍見 直接的なかかわりをもたずに,近くからながめていること。傍観。
境内の見世物小屋 境内に見世物小屋がありました。明治の毘沙門堂縁日の画(明治37年1月初寅の日、東京名所絵図、東陽堂、1904)では
新撰東京名所図会 善国寺毘沙門堂縁日の画 昭和の境内を書いた図は『ここは牛込、神楽坂』第3号に書いてあります。毘沙門の境内
 この第3号の説明で、新小川町のますだふみこ氏は
 毘沙門様で、一番始めに思い出すのは、はずかしながら御門を入って左右にあった「ダガシヤ」さん。両方ともおばあさんが一人でお店番。焼麩に黒砂糖がついたのが大好物でした。
 塀のところには「新粉ざいく」の小父さん。彩りも美しい犬や鳥、人物では桃太郎、金太郎などが、魔法のように小父さんの指先から生まれてきます。
 それから御門の脇のお稲荷さんにちょっと手を合わせ、次は浄行菩薩様のおつむを頭がよくなるようにタワシでゴシゴシ。虎さんの足をちょんちょん。一番最後にごめんなさい、御本尊様に『頭がよくなりますように』と無理なお願い。

 おそらくこの前にある庭に見世物小屋もあったのでしょう。

鐡漿 おはぐろ。御歯黒、鉄漿。歯を黒く染めること。江戸時代には既婚婦人のしるしとなりました。

「生れましたは下谷したや竹町(たけちやう)三十番地。お手々が四つであんよ(、、、)が四つ……」
「これは新聞にも出ました因果な子供で御座います。今暫らくの壽命ですから、息のある(うち)に御覧を願ひます」と、爺さんが後から付足した。
「これは麹町(こうぢまち)二丁目鷄屋の娘、親の囚果が子に報い……」と、左の方でも木戸番が平気な顔して叫んでゐる。濃い白粉と濃い臙脂(べに)で色取った女の顏のみが幕の中に見えた。
 香取は顏を背けて逃げるやうに其處を出て、濠端へ下りた。
下谷竹町 御徒町駅を西に見て、現在は台東区台東3丁目です。昭和17年(1942年)の『最新大東京案内図』では下谷竹町
麹町二丁目 これは千代田区(以前は麹町区)麹町二丁目です。現在の地図では麹町2丁目
囚果 いんが。以前に行ったことが原因となり、その結果が現れること。
報い むくい。受けた行為に対して、同じような行為で返すこと。
臙脂 べに。べにばな(紅花)から作った染料。べに。紅花はキク科の越年草で、口紅や染料の紅を作ります。