日別アーカイブ: 2016年5月31日

軽い心|神楽坂二丁目

文学と神楽坂

 昭和42年までには神楽坂二丁目に「メトロ映画館」がありましたが、この年、この「メトロ映画館」と「バーみなみ」「麻雀」はなくなり、「CLUB 軽い心」が開店します。
 この地図は国立国会図書館の住宅地図(発行は住宅協会地図部)から取っています。軽い心(S42とS45)
 さらに昭和44年には「喫茶 軽い心」と「パブ・ハッピージャック」に変わります。インターネットで熊谷興業の歴史を読むと、昭和43年(1968年)、レストラン「ハッピージャック」開店、昭和44年(1969年)、純喫茶「軽い心」を開店と書いてあります。そして、昭和57年(1982年)には「カグラヒルズ」に変わり、「軽い心」はなくなりました。
 新修新宿区史編集委員会『新修新宿区史』(新宿区役所、昭和42年)を見ると、昭和42年、この写真が出ています。新修新宿区史(昭和42年)。飯田橋駅の方から見た神楽坂
「神楽坂まちの手帖」の第1号で講談社の小田島雅和氏は

 club軽い心。遠景九時頃に句会が終わると、まだまだ話し足りなくて、坂下近くにあった「軽い心」という喫茶店に流れることが多かった。この店はかつてキャバレーだったそうで、格別珈琲がおいしいわけでもなかったが、キャバレーの造りそのままで、ボックスごとの仕切りがやたらに高く、隣のボックスが見えないようになっている。喫茶店としては何とも妙で、それが気に入って、私は個人的にもよく利用した。

「神楽坂まちの手帖」第4号の「神楽坂まちかど画廊」で
 最近でこそ奇想天外な店名に驚かなくなったが、「軽い心」の看板は当時はずいぶんと人目を引いた。ではいったいなんの店か。知っている人は、神楽坂の古いなじみである。クラブとあるが、平たくいって、いまはほとんど死語となったキャバレーである。昭和30年代前半のある日の風景である。
「神楽坂まちの手帖」第5号の「読者のページ」で高瀬進氏は
 「軽い心」、キャバレー時代、1度覗いたことがあります。爆笑王林家三平さんが、本当に面白く、腹を抱えて笑ったものです。「軽い心」はその後、喫茶店になり、よく昼寝したのを覚えています。場内が広く、そして暗かったので妙に落ち着けました。
「神楽坂まちの手帖」第7号の「神楽坂、坂と路地の変化40年」で三沢浩氏は
 1980年1月の日曜日。歩行者天国の終わる5時前。今の「カグラヒルズ」の位置には、キャバレー「軽い心」の大きな間口があった。一度だけ誘われて入ったが、天井の高い巨大な空間で、美女が各テーブルに坐り、ある客たちは音楽に合わせて踊っていた。脂粉の香り、酒の匂いが満ちて、神楽坂の栄華がそこにあった。それは夜の世界、神楽坂の路地には料亭が並び、芸者の数も多かった。
 また神吉拓郎氏の『東京気侭地図』に随筆「神楽坂の灯」があります。
 喫茶店の名前にもいろいろあるけれど、「軽い心」というのをご存じだろうか。
 中央線の電車が、飯田橋の駅にかかるとき、神楽坂の見当を一瞥すると、丁度そのあたりに「軽い心」と大きな看板が上っている。
 昭和47年、加藤倉吉氏がつくった銅版画「神楽坂」もここに掲載します。このころは「喫茶 軽い心」になっています。

銅版画の『神楽坂』。写真ではありません。版画です。

銅版画の『神楽坂』

「カグラヒルズ」に変わった時、壁面看板「各階 名店ぞろいの! カグラヒルズへどうぞ」と売り込み、また、1階はハンバーガーの「ウェンディーズ」になり、しかし、「ウェンディーズ」は日本で撤退し、かわって平成26年(2014年)には「マクドナルド」に、さらに平成28年(2016年)からはドラッグストア「マツモトキヨシ」に変わっています。