日別アーカイブ: 2016年6月24日

城跡と色町

文学と神楽坂

 国友温太氏は『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)で、新宿のいろいろな事柄を書いています。この文章は色町たる神楽坂を描いています。

城跡と色町(昭和47年1月)

 「お元日ね、そりゃ忙しかった。ご祝儀は背中に入れてもらうんです。家に帰ってね帯をほどくとバサって落ちるほど」
 神楽坂の待合のおかみ(元芸者・60歳)は全盛時代を振り返る。三業地待合、料理屋、芸者屋の三種の営業が許可された区域)といえば、新宿区内ではまずここがあげられる。だが戦後、町の賑わいは昔日のそれと比すべきもない。三業地そのものが、バー、キャバレーに押されたのも原因だろう。
 もっとも、牛込警察署は、45年秋の交通安全運動で、安全PR用冊子をドライバーへ手渡すのを芸者さんに頼んだほどだから、同署ではまだ、その色気の及ばす効果について、深い関心を寄せているに違いない。
 ここは明治中期から盛んになった所だが、当時その道の案内書のランク付では、一等地は柳橋、新橋で、神楽坂は四等地。が、善国寺(俗に毘沙門さま)の縁日もあって、山の手随一の景況だった。
 昭和初期に至り、その隆盛を新宿駅周辺に奪われ、また、関東大震災の被害を受けなかったので「空襲も大丈夫とタカをくくった」(町の古老)結果、焦土と化し復興も遅れた。ちなみに、昭和4年の芸者の数619、44年12月調べでは171。
 ところで、ここは新宿区内で古い歴史を持つ。およそ400年前には、小田原・北条氏の家臣牛込氏がおり、神楽坂通り北側高台には牛込城があったという。神楽坂5丁目の一部は、家康江戸入国前から町屋があった。北条氏滅亡後、牛込氏は徳川氏に従い、城も廃されたのであろう。
 洋の東西を問わず、城には怨念が漂い、色町は脂粉にまつわる人間模様の舞台となる。その命運において、城跡と色町は何か因縁めくのである。


北側高台 袋町にありました。北側ではないと思う。
脂粉 べにとおしろい。転じて、化粧。

 さて、この文章は簡素なものですが、問題は同時に付く写真です。下の「大正時代の神楽坂通り」はどこなのでしょうか。左手の前方には「琴三味線洋楽器」が見えます。続いて「正確なメガネ」が見え、さらに後方には「ほていや」が見えます。新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)によれば「ほていや呉服店」はかつて肴町(現、神楽坂5丁目)にありました。しかし、これ以外はなにもわかりません。

大正時代の神楽坂通り。菊岡三味線、機山閣、三角堂、ほていやが見えます

 では、岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」の肴町(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年)を見てみると、

L

 昭和五年頃、「ほていや」は同じように出てきますが、他に昭和5年頃に「菊岡三味線」が出てきます。写真に出てくる「琴三味線洋楽器」はこれではないでしょうか。しかも、店舗には「岡」の文字が浮かんでいます。その右側に「菊」もすこしだけ写っています。
 さらに逆さまの「岡菊」の隣の店舗は「本」を売っているのではないでしょうか。これは上の写真で店舗には機山閣(KIZAN-KAKU)と書いていると思います。

拡大図(本と三角堂)

 また、神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では「三角堂」というめがね屋もありました。右端に「三角」が出ています。店舗の上にも「堂角三」と書いてあるようです。
 もう一つ、虫眼鏡を使って見ていきます。左側から「ほていや」の一軒隣は濱田メリヤス。その次が上田屋履物店。巨大な矢印は? ほかには何もないので不明。〇に翼の生えたようなマークは有名なブランドか、と地元の方。その川崎第百銀行があり、キリンビールがあるのは田原屋でしょう。望楼、つまり遠くを見るための高いやぐらがある建物は不明ですが、白十字か恵比寿亭かも、と地元の方。

大正時代の神楽坂通り

 以上、この写真は肴町(現、神楽坂5丁目)から坂下の方向を見た写真だと思っています。