日別アーカイブ: 2016年8月18日

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑩

 演劇学者で名著『歌舞伎細見』の著者である飯塚友一郎の生家で、別に精米商と質屋をも兼営していた飯塚酒場その坂の右側にあって、現在では通常の酒屋――和洋酒や清涼飲料や調味料の販売店でしかなくなっているが、戦前には官許()()()なるものを飲ませる繩のれんのさがった居酒屋であった。酒の飲めない私もいつか誰かに連れられていって卓の前に坐ったことがあるが、我こそは明日の星よとみずからにたのんだ無名の芸術家たちが、まだ生活水準の低かった労働者と肩を接して安酒の酔いに談論風発していた光景には忘れがたいものがある。
 が、こんど私がそこへ脚をはこんだのは、その横か裏かにあったはずの芸術倶楽部所在地を確認したかったからにほかならない。
 島村抱月坪内逍遥文芸協会と袂を分って我が国最初の新劇団である芸術座を創始したのは大正二年九月で、『サロメ』『人形の家』の上演など主として翻訳劇の紹介に力をつくしたが、翌三年三月帝劇で上演したトルストイの『復活』は、劇中に挿入した中山晋平作曲の『カチューシャの唄』の大流行と相俟って四百回を越える上演記録をうちたてて、演劇の通俗化を批難されるに至った。そのため抱月は研究公演の必要を感じて、四年秋に収容人員二百五十名の小劇場として横寺町十一番地に建築したのが芸術倶楽部であったが、彼は日本全国では死者十五万人に及んだスペイン風邪から肺炎におかされて、大正七年十一月五日に芸術倶楽部の一室で歿した。そして。その死後は彼の愛入で事実上芸術座の舞台の人気を一人でささえていた女優の松井須磨子主宰者となって劇団を維持していたが、八年一月有楽座で『カルメン』公演中の五日未明に、師のあとを追って芸術倶楽部の道具置場で縊死した。
 最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や寺社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので、芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やむなく飯塚酒店に入って三十代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらぴっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。

歌舞伎細見 かぶきさいけん。1926年(大正15)に発行した歌舞伎の研究書。「世界」や題材により系統的に整理・分類し、由来や梗概(こうがい)、参考書がついています。系統的、網羅的な作品はほかに類書はなく、歌舞伎研究に重要な業績です。
官許 かんきょ。政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと
にごり にごりざけ。発酵させただけで(かす)()していない白くにごった酒。どぶろく
繩のれん なわのれん。縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。店先に繩のれんを下げた居酒屋・一膳飯屋など
談論風発 だんろんふうはつ。はなしや議論を活発に行うこと
横寺町11番地 間違いです。9番地が正しい。芸術倶楽部で。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月(ほうげつ)氏と女優の松井須磨子(すまこ)氏を中心に、主に研究劇を行いました。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成しました。
スペイン風邪 1918年から19年にかけて全世界的に流行したインフルエンザN1H1亜型のこと。
主宰 人々の上に立ち全体をまとめること。団体・結社などを運営すること
現場へ行ってとまどった 現在はプレートがあります。

 このへんから早稲田、あるいは大久保通りの先にある若松町一円にかけては明治大正期にわたる文士村の観があって、その詳細はここで追いきれるものではない。が、私は芸術倶楽部の所在地と同時に教えられた尾崎紅葉住居跡だけは、なんとしても尋ねずにいられなかった。それは、私が十数年前に徳田秋声の伝記を出版する以前から果したいと考えていた夢の一つだったからでもある。いや、そう言っては私自身がすこし可哀そうである。私は十数年前にも、そしてつい近年もそのへんを歩いていながら、人様に道をたずねるのがあまり好きではないばかりに、探し当てられなかっただけのことでしかなかった。
 飯塚酒店からさらに二百メートルほど先へ行くと、やはり右側に三孝商店という酒屋がある。横丁をへだてた先隣りは青物商だが、その青物商の前に黒く塗った鉄柵をもつ路地があって、なかは私道だが、その袋路地のゆきどまりの左側が横寺町47番地の紅葉旧宅跡で、紅葉時代からの家主であった鳥居家の当主秀敏夫妻が現住している。まず、その家屋の前に掲示されている標識を写しておこう。

新宿区文化財
旧跡 尾崎紅葉旧居跡
明治の文豪尾崎紅葉は、ここに明治二十四年二月から、三十七歳で死去する明治三十六年十月まで住んだ。鳥居家には、今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆二枚がある。
   初冬やひげそりたてのをとこぶり 十千万
   はしたもののいはひ過ぎたる雑煮かな 十千万堂紅葉
旧居は十千万堂と呼び、二階建て。階下は八畳、六畳、三畳と離れの四畳半があり、二階は八畳と六畳の二間であった。戦災で焼失したが、庭は当時のままである。
ここで紅葉は、有名な「多情多恨」や未完の「金色夜叉」などを執筆した。
昭和五十一年九月
                 新宿区教育委員会

早稲田 早稲田通りは青色。
大久保通り 大久保通りは赤色。
若松町 若松町は中央やや下の赤の場所。
早稲田通りと大久保通り
文士村 若松町の文化人は、区内に在住した文学者たちを使って調べてみると、飯塚友一郎小川未明、岸田国士、国木田独歩、窪田空穂、島田青峰、高田早苗田山花袋、野口雨情、昇曙夢、三宅やす子、宮嶋資夫、矢口達、若山牧水などでした。
住居跡 紅葉氏の住居は横寺町47番地でした。
三孝商店青物商紅葉旧宅跡 この三か所を示します。さらに紅葉氏の塾生が集まった十千万堂塾も出しました。十千万堂塾は箪笥町4~7番地のどこにあるのか、わかりませんが、新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書く「神楽坂と文学」「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」では5番地だといっています。

標識 旧と新のプレートを示します。
紅葉旧居跡
紅葉旧居跡

 折よくご夫妻が在宅されて、なんの連絡もせずにいきなり訪問した私は茶菓の饗応にまであずかるという、まったく予期せぬ歓待を受けた。その上、標識に記されている二句の現物や、紅葉の本名である尾崎徳太郎と印刷された通常の名刺を縦半分に切断したような細長い名刺や、尾崎家の遺族が記念に印刷して関係者に配布したらしい写真帖などもみせられたが、最大の収穫は桝の大きめな方眼紙に鳥居家当主の手で精緻にえがかれた旧居の間取り図であった。
 紅葉宅に泉鏡花小栗風葉柳川春葉の三人が玄関番として住みこんでいたことは幾つかの書物に記載されているが、私は『徳田秋声伝』を執筆したとき三人の起居した玄関の間が二畳か三畳か確認できぬままに終った。その後『日本文壇史』を書いた伊藤整が「朝日新聞」記者のインタビューに応じて私の書いた通りに語っているのを読んで責任を感じていたが、こんどようやくそれも氷解した。面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである。
 標識に《当時のまま》と記されている庭も案内されたが、尾崎家の子女が育つにつれて玄関ではしだいに仕事がしづらくなっていた風葉は、鏡花が祖母と榎町で所帯を持ったあと、尾崎家の地からおりていける地つづきに二階建ての貸家が空いたのに眼をつけて、同門の春葉と秋声にそれを借りて文学修業の共同生活をしようと提案した。その勧誘をした場所が前記の万盛庵で、そのうちに他の門下生も集まって来て紅葉の家塾の観を呈したために、彼等が詩星堂と名づけていた合宿寮が文壇では十千万堂塾とよばれるに至った。文学上ではもちろんのこと、物質的にもなにがしかの援助を受けていたために、紅葉の家塾とみなされたのである。が、その援助にも、かぎりはあった。われわれの先輩作家は、一本の巻煙草を二つに千切って分け合うというような暮しぶりをしていたのである。戦後の作家生活とは雲泥の差が、そこにはあった。塾のあった場所の地籍は箪笥町であったが、「ここをだらだらと下ったところにあったんです」と鳥居家の当主が指さしたその地点は、しかし、垂直な崖に変形してしまっていた。
 徳田秋声の昭和八年の短篇『和解』は、自邸の庭続きに新築したアパート「フジハウス」へ、困窮していた泉鏡花の実弟泉斜汀(本名=豊春)が転がりこんできて急死したのを機会に、鏡花が謝意を表するために訪問したところから、師の紅葉をめぐって長年つづいた確執も解消して、打ち揃って十千万堂跡をおとずれるいきさつを叙したものだが、『和解』という表題にもかかわらず、二人のあいだのしこりは完全に氷解したわけではない。そういう屈折した心理を、たんたんとのべているところに味わい深いもののある作品とみるべきであろう。母堂が朝日坂五条坂とよんでいたという話も、私はそのとき鳥居家の当主からきいた。

榎町 えのきちょう。東京都新宿区にある地名
万盛庵 当時は蕎麦屋。後に鳥料理の川鉄になりました
箪笥町 たんすまち。東京都新宿区の町名で、横に長い町です。箪笥町はここ
和解 昭和8年3月30日、泉斜汀氏の死亡と葬式があり、徳田秋声氏と泉鏡花氏との曰く言いがたい関係を描く作品
朝日坂 泉蔵院に朝日天満宮があるため。https://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/
五条坂 朝日天神は五条の天神様と呼ばれたため。https://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/

二句の現物 今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)で、二句の現物のコピーを見られます。

紅葉の二句で現物

フジハウス 徳田秋声旧宅は文京区本郷6丁目6−9。フジハウスは6-2です。空襲はなく、当時のままです。フジハウス1

とんかつさくら、藪そば[昔]|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 「藪そば」や「肴町」を調べるため、ここでは昭和63年(1988年)3月に実施した座談会を取り上げます。神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1~3集(2007~9年)「肴町よもやま話①~③」に書いてあります。なお、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主。(現、Miss Urbanのところで営業中)(当方の注。Miss Urbanもなくなり、「おかしのまちおか」になっています)。「高須さん」はレストラン田原屋の店主です。
 なお「肴町」は昔の名前で、現在は「神楽坂5丁目」です。また、万長酒店も、山下漆器も、亀十パンも、田原屋もなくなっています。

馬場さん そろそろ昔のことを知っている方が少なくなってきたので、今日は五丁目の役員会として、相川さんから肴町を振り返っていただきます。ここにいろいろ資料を持ってきておりますから、昔を回顧しながら座談会をしていきたいと思います。関東大震災の頃からか、あるいは昭和の初期でいきますか?
相川さん 私は、関東大震災のときは子どもで十ニ歳でしたね。
馬場さん この手元にある山下さんがお持ちの「昭和五年近辺の地図(二十八頁)」というのがありまして、震災時分と照らし合わせながら、表通りから順に、どんな町並みだったのかということをお話しいただきたいと思います。

昭和五年近辺の地図

 以上は一般論で、これからは各論です。なお、上の「昭和五年近辺の地図」は、昭和45年に新宿区教育委員会が作った「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」と全く同じ地図です。

馬場さん まず、五丁目一番地。「上州屋」はいまのどこになりますか? いまの「かなめ寿司」さんのところ(ampm。現、コアビル)にお蕎麦屋さんがありました。上州屋さんというのは何屋だったですか?

神楽坂5丁目(1)

 現在は五丁目一番地ではなく、五丁目1-1です。現在のampmは「とんかつ神楽坂さくら本店」です。

相川さん そう、上州屋さんは、下駄屋さん。その和田さんが地所と家屋の権利をもって三丁目の「菱屋」さんへご養子に入った。
馬場さん 天利さんへ? あの、市会議員やった?
相川さん その人のところへ入った。市会議員は義理のお父さんになる。
山下さん いま、大学の先生している?
馬場さん それは、あのうちの娘婿、和田さんの姉さんっていうのは、和田チョウセイさん?
相川さん そう、小唄の先生。それで、奥の崖の方へ家をこしらえて、そこが昔の住まいです。
馬場さん 和田さんがやっていたときの薮蕎麦というのはかなり大きい地所だった?
相川さん とても大きく、でもそれは借地ですよ。
馬場さん 借地でも商売そのものは大きくて、相当人数が入れた?
相川さん 店は小さいんです。店があって、後ろに調理場があって、離れに住まいがあるんです。三つの家が建っていました。

 これは藪蕎麦(ampm、とんかつさくら本店)の話です。

相川さん すぐ隣の「大和屋」さんという漆器屋には蔵があった家なんですが、「大和屋」さんと蔽蕎麦さんの間に路地をこしらえまして、それで住まいの方へ薮蕎麦さんは入っていった。もちろん、調理場からも行かれますけどね。表から来たお客さんはその横から入っていく。
馬場さん 隣の大和屋さんというのがすでに、勧信(注)のいまの駐車場の方にきていたのですか? (注)今の勧信は万長酒店の跡地で、この時期の勧信は現在の百円パーキング。
相川さん そうです。
佐藤さん 相川さん、尾沢さん(注2)との間に路地がありませんでしたか?
(注2)尾沢さんは大きな薬局で、現在は牛込郵便局が一階に入居しているビルを建設。
相川さん いやいや、尾沢さんとの間にはカクエイ尾沢というのをこしらえて、「くすり屋」さんとの間をアーチにして、寺内の連中が通れるようにした。それはもともと尾沢さんの地所なんです。
馬場さん 今、郵便局に入るようなもんだ(笑)。
佐藤さん 僕は子どものころ、薮のおばちゃんのところは和田さんに向かって、うちから右側の路地を入っていくと、坪庭みたいのがあって家に入っていく。
馬場さん それは終戦後よ。
相川さん それは終戦後だけれども、そこが空いていたから尾沢さんが使わせていたのよ。
馬場さん 当時、昭和五年くらいは、まだぎっしりと家が建っていた頃ですが、尾澤さんはまだ敷地いっぱいに建てない頃だからね。

 現在の店舗、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」、昭和12年と昭和27年の「都市製図社」「火災保険特殊地図」、1960年の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)、建物名や建物ごとの居住者を記載している住宅地図(昭和55年)を加えると、こうなります。上州屋から東京貯蓄までの5店舗が、現在の3店舗に減っています。地図では上州屋はここです。

北西南東
大正11年前相馬屋宮尾仏具S額縁屋(ブロマイド)尾沢薬局
大正11年頃東京貯蓄銀行小谷野モスリン神楽屋メリンス大和屋漆器店上州屋履物
戦後つくし堂(お菓子)藪そば
1930年巴屋モスリン松葉屋メリンス山本コーヒー
1937年3222ソバヤ
1952年空ビル宮尾仏具牛込水産東莫会館パチンコサンエス洋装店
1960年空地喫茶浜村魚金
1963年倉庫洋菓子ハマムラ牛込水産
1965年かやの木(玩具店)魚金
1976年第一勧業信用組合第一勧業信用組合
駐車場
第一勧業信用組合
駐車場
1980年サンエス洋装店
1984年(空地)寿司かなめ等
1990年駐車場駐車場郵便局
1999年ナカノビルコアビル(とんかつなど)
2010年空き地ベローチェ
2020年相馬屋神楽坂TNヒルズ
(焼肉、うを匠など)
神楽坂テラス
(Paulなど)
コアビル
(とんかつ)


武田芳進堂[昔]、新泉とISSA

文学と神楽坂

 西側で藁店に接する神楽坂上に近い5丁目の2店舗です。現在はISSA(セレクトショップ)プラス福服(リサイクル着物)の一店と神楽坂新泉(焼肉)の一店になっています。

 なお、武田芳進堂は戦前は神楽坂5丁目の三つ角(神楽坂通り)から一軒左にあり、戦後は三つ角そのままにありました。『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「芳進堂。金刺兄弟出版部。肴町32。『最新東京学校案内』『初等英語独習自在』など。現在の芳進堂ラムラ店」と出ています。現在では飯田橋駅のラムラ店に出店しています。

 一軒左は「ゑーもん」でしたが、2014年、閉店し、現在は神戸牛と和食の店「新泉」になっています。

岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年) 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」から
昭和5年と平成8年 藁店の右の店舗

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」から。「相川さん」は棟梁で街の世話人で、大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主。昭和十年に福井県から上京。

馬場さん それから中河さんのところ、いまの中河さんのところが武田さんだったのね。武田さんがここ来て、ここに中河さんが。じゃあ、中河さんも戦後ですか?
相川さん 昭和五年に来たんです。こっちの横丁(わらだな)へ。南町の井沢さんという地主がいまして、その人がこの一画をもっていたんです。
馬場さん いまのどこんところ? 富永さん(注)のところ?(注。光照寺に向かう坂(わらだな)の角から2件目。現在の居酒屋「もん」のところ。)
相川さん ああ、そうね。富永さんのところはそっくりそうですね。戦前の中河さんのお店(注)は小さかったからね。(注。現在の「ゑーもん」で電気店を運営していた)
山下さん 中河さんはこちらへいらしたのは昭和五年ですか?
馬場さん 表通りに来たのは戦後よ。
相川さん 戦後は表通りに来た。中河さんが地主さんから頼まれて、「分譲しなくちゃ財産税を納められない」って。それで物納したものかどうしようかって来た。「それじゃ、借りたい人に売りましよう」ってその世話一切を中河さんが引き受けた。戦前、武田さん(注)のところを中河さんが買ったわけ。(注。現在は洋品店ISSA。前は芳進堂という書店だった)
馬場さん 角が武田さんになったのでこれがいいか悪いかはわからないですね、結果とするとね。当時はそんなことを言った人もいるんですよ。これだけは角がいいかはわからない。