日別アーカイブ: 2017年1月30日

青葡萄③|尾崎紅葉

文学と神楽坂

      (二)
自分(じぶん)(かど)()ると駈出(かけだ)した。寺町(でらまち)往来(わうらい)納涼(すゞみ)士女(ひと)()るやうで、撞着(つきあた)りさうでならぬから、()岩戸(いはと)(ちやう)()れて、一直線(いつちよくせん)(みち)(いそ)いだ、気圧(きあつ)(ひく)く、()すやうな暑熱(あつさ)銀砂子(ぎんすなご)ほど(ほし)はあるが、渠泥(どぶどろ)引攪旋(ひつかきまは)したやうな(そら)(くら)さに、西北(にしきた)雲間(くもま)から薄紫(うすむらさき)電光(いなづま)(しきり)(ひらめ)いては、道端(みちばた)の「ゆであづき」の赤行燈(あかあんどん)(あたり)()える。
一町(いつちやう)ばかりの砂礫道(じやりみち)蹂躪(ふみにぢ)つて、黒白(あやめ)()かぬ芥坂(ごみざか)駈上(かけあが)つた。大信寺(だいしんじ)横町(よこちやう)(やみ)(さぐ)つて、倉皇(そゝくさ)長屋門(ながやもん)(はい)ると、はや跫音(あしおと)聞着(きゝつ)けて、春葉(しゆんえう)(しよく)()つて玄関(げんくわん)()つてゐた。
(かれ)(かほ)()ると(ひと)しく
西木(にしき)如何(どう)した。」  と(たづ)ねると、
(おく)四畳半(よでふはん)。」  と案内(あんない)した。
玄関側(げんくわんわき)八畳(はちでふ)()にははや蚊帳(かや)()つてある。これは祖父母(そふぼ)寝所(ねどころ)である。(しか)両箇(ふたり)とも(つぎ)()(ひたひ)(あつ)て、憂愁(いうしう)満面(まんめん)(あふ)れてゐた。
開放(あけはな)した(えん)(さき)から(すゞ)しい(かぜ)蚊帳(かや)(そよ)いで、(まくら)(かよ)(むし)()(きこ)える。平生(いつも)(には)正面(しやうめん)百日紅(さるすべり)(えだ)燈籠(とうろう)()るのが、今夜(こんや)(やみ)で、葉越(はごし)(ほし)(かず)()えるばかり。台所(だいどころ)には三分心(さんぶしん)玻璃燈(ランプ)黯澹(あんたん)として、(をんな)どもの(さゝや)(こゑ)がする。(さい)乳児(ちのみ)とは午後(ひるすぎ)から生家(さと)へ行つて、留守(るす)であるから、家内(かない)森閑(しんかん)として()()えたやう。祖父母(そふぼ)自分(じぶん)()ると、這出(はいいづ)るやうに左右(さいう)から詰寄(つめよ)せて、西木(にしき)大変(たいへん)だよ。如何(どう)だらうねえ。と(ひど)(あわ)てゝゐた。自分(じぶん)()ちながら、
心配(しんぱい)することは()いよ。」
言捨(いひす)てゝ、(えん)折曲(をりまが)つて、正面(つきあたり)一間(ひとま)(とびら)()けた。
取片附(とりかたづ)いた四畳半(よでふはん)片隅(かたすみ)に、(ちや)染返(そめかへ)した木綿(もめん)更紗(さらさ)二布(ふたの)蒲団(ぶとん)()いて、(すそ)(はう)手織(ており)柳条(じま)木綿(もめん)掻巻(かいまき)(たく)して、(それ)細削(ほそこ)けた(すね)()せて、有松絞(ありまつしぼり)浴衣(ゆかた)兵児帯(へこおび)()いて、背面(うしろむき)(まくら)(はづ)しかけて、気怠(けたる)さうに秋葉(しうえう)(よこた)はつてゐた。
[現代語訳]自分は門をでると駆け出した。寺町の往来には納涼の男女がいるようで、突き当たるのが怖く、そこで岩戸町のほうに曲がって、あとは一直線に道を急いだ。気圧は低く、蒸むような暑さで、銀砂子ほど星はあり、どぶの泥をひっかきまわしたような天の黒さがあった。西北の雲間から薄紫色の稲妻がしきりにひらめき、道端にある「ゆであづき」の赤行燈のあたりで消えていった。
 一町ばかりの砂利道を踏みにじって、真っ暗な芥坂を駈け上がった。大信寺横町の闇を探り、そそくさと長屋門をはいると、はや足音を聞きつけて、春葉はロウソクをとって玄関に待っていた。 彼の顔を見ると同じことだが、
「西木はどうした。」
 と尋ねると、
「奥の四畳半に。」
と案内した。 玄関わきの八畳の間には蚊帳が速くも釣ってある。これは祖父母の寝所である。しかし二人とも次の間で額をあつめて、憂愁は満面にあふれていた。
 開放した縁側から涼しい風が蚊帳にそよいで、枕に通う虫の音も聞こえる。いつもは庭の正面で百日紅の枝に灯籠を釣るのだがが、今夜は闇で、葉を越えて星の数が見えるだけ。台所には三分心のランプが暗く、女性たちのささやく声がする。妻と乳児とは午後すぎから生家へ行き、留守である。家の内部は森閑として火は消えたよう。祖父母は自分を見ると、はいだしてきて、左右から詰め寄り、西木が大変だよ。どうだろうねえ。とひどく慌てていた。自分は立ちながら、
「心配することはないよ。」
と言い捨てて、縁側を曲がって突き当たりの一間の扉を開けた。
 取り片付いた四畳半の片隅に、茶色に染め返した木綿更紗の大きな蒲団を敷き、すその方に手織で柳条の木綿の夜着を着て、細くこけたすねをのせて、有松絞の浴衣に兵児帯を巻いて、背面には枕をはずしかけて、けだるく秋葉は横になっていた。

寺町 通寺町と横寺町の2つを指しています。どちらも涼み客が多くなっていたのでしょう。
織る いろいろなものを組み合わせ、一つのものを作り上げる。
撞着 どうちゃく。つきあたること。ぶつかること。
つと ある動作をすばやく、または、いきなりする。さっと。急に。不意に。
岩戸町 右図を。
銀砂子 ぎんすなご。銀箔(ぎんぱく)を粉にしたもの。絵画や蒔絵(まきえ)などで使う。
ゆであづき ゆであずき。あずきをゆでてうす甘く味つけしたもの。煮あずき。
一町 約109メートル。
黒白 あやめ。文目。模様。色合い。
辨かぬ あやめもわかず。文目も分かず。暗くて物の区別もつかない。
芥坂 ごみ坂。五味坂がありますが、おそらく右図の赤矢印で示す坂を指しているのでしょう。
大信寺 新宿区横寺町43番地にある浄土宗の大信寺。本尊は阿弥陀如来像。号は金剛山如来院。
横町 おそらく寺の南東部から北西部にかけて横町があったのでしょう。
倉皇 そうこう。蒼惶。落ち着かない。あわてる。「そそくさ」は、落ち着かず、せわしなく振る舞う。あわただしい。「そそくさと帰る」
長屋門 長屋を左右に備えた門で、伝統的な門形式の一つ。尾崎紅葉の借り家(右図)も非常に簡単な長屋門でした。
秉る とる。手に持つ。しっかり持つ。
斉しく ひとしく。二つ以上の物事の間に、性質や状況で同一性がある。よく似ている。
奥の四畳半に 以上は右図の家の場所でわかります。これはこの地図から書きました
鳩める あつまる。あつめる。鳩首(きゅうしゅ)は、鳩が首を寄せ集めるように、人々が集まり額を寄せ合って相談すること。
憂愁 うれえ悲しむこと。気分が晴れず沈むこと。
 和風建築で、部屋の外側につけた板張りの細長い床の部分。縁側。
百日紅 サルスベリ。ミソハギ科の落葉中高木。
燈籠 とうろう。灯籠。灯明を安置するための用具。
三分心 幅が1cm弱のランプの芯。
黯澹 暗澹。薄暗くはっきりしない。
 ひ。女の召使い。下女。はしため。
森閑 しんかん。深閑。物音が聞こえずひっそりとしている。
染返す そめかえす。染め返す。色があせてきたものを、もとの色または別の色に染め直す。
木綿更紗 ポルトガル語のsaraçaから。木綿地に、人物・花・鳥獣などの模様を多色で染め出したもの。室町時代末にインドやジャワなどから南蛮船で運ばれて来て、日本でも生産したもの。
二布 ふたの。二幅。並幅の倍の幅。
手織 ており。手織り。動力を用いず手織り機などで布を織ること。
柳条 しま。縞。織物模様の一種。洋服地のストライプに当たる。筋とも。
掻巻 綿入れの夜着。
 ひだ。衣服の細い折り目。
細削ける 「こける」は動詞の連用形に付いて、その動作が盛んに長く続いて行われる意味を表す。「痩せこける」は「やせて肉が落ちる」「ひどくやせる」
有松絞 名古屋市緑区有松・鳴海付近で産する木綿の絞り染め。
兵児帯 和服用帯の一種。並幅か広幅の布で胴を二回りし、後ろで締める簡単な帯。

青葡萄②|尾崎紅葉

文学と神楽坂

(うち)から使(つかひ)のある(ごと)に、(こゝ)から上下(うへした)応対(おうたい)するのは(れい)であるのに、今夜(こんや)(かぎ)つて、(かれ)一寸(ちよつと)()ふ。(すこぶる)不審(ふしん)()へなかつた。
不審(ふしん)()へなかつたのは、他聞(たぶん)(はゞか)やうな内密(ないみつ)用事(ようじ)のあるべきを(しん)ぜぬからである。(さう)()(こと)()い、とは(おも)ひながら、如何(いか)なる(こと)()つて()くかも(はか)られぬ(ひと)()である、もしや凶事(きやうじ)などではあるまいか、と不図(ふと)(かんが)へると、何彼(なにか)()しに慌忙(あわたゞ)しく階子(はしご)()りて、上框(あがりがまち)()て、(ふたゝ)び、(なん)だ、と(たづ)ねた。
(かれ)(ます/\)(こゝろ)()りげ気色(けしき)で、
少々(せう/\)申上(まをしあ)げたい(こと)が………。」
自分(じぶん)背後(うしろ)居並(ゐなら)此家(このや)(もの)()かせたくない(ふう)()える。此時(このとき)自分(じぶん)(むね)(あや)しく(とゞろ)いたのである。さて(かれ)入口(いりくち)の一(しつ)(みちび)いて、()たび、(なん)だ、と(たづ)ねた。
()けて()たのか、(かれ)(しきり)(はず)(いき)(した)から、
西木(にしき)(くん)容躰(ようだい)(よろし)くございませんから、早速(さつそく)(かへ)りくださいまし。」
()(こゑ)(ふる)へてゐる。
[現代語訳]家から使いがあるたびに、ここから上下で応対するのは普通だが、今夜に限り、彼は「ちょっと」といった。これはすこぶる不審にたえない。 不審にたえなかったのは、他聞をはばかるような内密の用事はあるとは信じてはいないし、そんなものはない、とは思うが、いかなることが降って湧わくかもわからない。これが人の世だ、もしや凶事などではないが、とふと考える。なんとなく、あわただしくなってきて、階段をおりて、上がりがまちにでて、また「なんだ」と訊ねた。
 彼はますます意味があるような気色で、
「少々申しあげたい事が………。」
と自分の背後にいるこの家の沢山の人には聞かせたくないようだ。このとき自分の胸はあやしくとどろいたのである。そこで彼を入口の一室に導き、三回目の「なんだ」と尋ねた。 駆けてきたのか、彼はしきりにはずむ息の下から、
「西木君の容体がよろしくごさいませんから、早速お帰りくださいまし」
と言う声は震えていた。

不審 疑わしく思うこと。
他聞を憚る たぶんをはばかる。他人に聞かれては困る。世間に知られるとさしさわりがある。
内密 表ざたにしないこと。ないしょ。内々。
何かなしに なんとなく。理由はわからないが。
上框 玄関や勝手口の段差部分に取り付ける化粧材。右図を。
心ありげ こころありげ。意味有りげ。いみありげ。何か特別な意味がありそうな様子。言葉に表さない含みがありそうな様子
 人を表す名詞に付いて、複数の人を尊敬や親愛の意を込めて言い表す。多くの人。
異しく あやしく。怪しく。妖しく。不気味な感じがする。神秘的な感じがする。
過む はずむ。弾む。勢む。呼吸が激しくなる。荒くなる。
西木 西木秋葉。実際は「小栗風葉」氏のこと。

西木(にしき)病気(びやうき)? (なん)だ、(なん)だ、(なん)だ?」
自分(じぶん)渠等(かれら)草稿(さうかう)()()()たぬ(ところ)(いた)ると、一抹(いちまつ)朱棒(しゆばう)(くら)はしながら(つね)絶叫(ぜつけう)する、(その)絶叫(ぜつけう)(もつ)(かれ)(ことば)(なん)じた。
西木(にしき)()ふは、(わが)門下(もんか)秋葉(しうえふ)である。(かれ)は二週間(しうかん)(まへ)から胃弱(ゐじやく)()むで、服薬(ふくやく)をしてゐるのであるが、(この)二三日は(しよく)(つか)へるとて、(かゆ)()つて、坐臥(ごろ/\)してゐたのではないか。今日(けふ)午後(ひるすぎ)まで異常(ゐじやう)()かつたものが、脚気(かつけ)衝心(しようしん)や、脳充血(なうじうけつ)のやうに、(ひと)呼立(よびた)てるほどの劇変(げきへん)のあらう道理(だうり)()い。
容躰(ようだい)()くない」、などゝは、文字(もんじ)(じやう)意義(いぎ)(おい)てこそ(かる)いが、実際(じつさい)は、「死に(ひん)」と()ふやうな場合(ばあひ)(もち)ゐられる、容易(ようい)ならざる(ことば)である。(だれ)大病(たいびやう)(すぐ)()い、といふ電報(でんぱう)(ぶん)は、(おほ)臨終(りんじう)(のち)(もち)ゐられる気安(きやすめ)文句(もんく)()ぎぬ。容躰(ようだい)()くないとは、九死(むづかしい)()ふのを(ひと)()らせる隠語(いんご)である。
自分(じぶん)()解釈(かいしやく)したから、(ゆめ)かと(おどろ)いた。
[現代語訳]「西木の病気? 何だ、何だ、何だ?」
 自分が誰かの草稿を見て意に満たない場所を発見すると、朱筆で打撃を与えつつ、常に絶叫する。同じ絶叫をもって彼の言葉を非難した。
 西木という奴は、つまり、わが門下の秋葉だが、二週間も前から、胃弱でやすみ、服薬をしていた。この二、三日は食がつかえるといい、おかゆを食べて、ごろごろしていたのではないか。今日の昼すぎまで異常のなかったものが、脚気衝心や、脳充血のように、人を呼立るほどの劇変のある道理はない。
「容体がよくない」などとは、文字上の意義こそ軽いが、実際は「死に瀕する」というような場合に用いる、容易ではない言葉だ。「これこれが大病すぐ来い」という電報の文は、多く臨終が終わってから用いられる気安めの文句に過すぎない。容体がよくないとは、難しいというのを人に知せる隠語である。
 自分はそう解釈したから、夢かと驚いた。

一抹 いちまつ。絵筆のひとなすり、ひとはけの意味から。ほんのわずか。かすか。ここでは一回の意味でしょう。
朱棒 朱筆。朱墨用の筆。朱墨の書き入れ。
吃わす くらわす。食らわす。他人に打撃を与える。「吃」は「どもる」「食べる」の意味。
絶叫 ぜっきょう。出せるかぎりの声を出して叫ぶこと。
痞える つかえる。胸がふさがったような感じになる。
坐臥 ざが。座臥。坐臥。すわることとねること。
脚気衝心 かっけしょうしん。脚気に伴う心筋障害。心臓肥大と脈拍数増加が著しく、急性心不全を起こすこともある。
脳充血 脳の血流量が増加した状態。精神的興奮、頭部の加熱、飲酒などが原因の動脈性充血と心臓病、肺気腫、激しい咳嗽などが原因の静脈性鬱血がある。
瀕す ひんす。瀕する。よくない事態がすぐ間近にせまっている。さしせまる。
九死 きゅうし。ほとんど死を避けがたい危険な場合。「九死に一生を得る」とは危ういところで奇跡的に助かる。
隠語 いんご。特定の社会・集団内でだけ通用する特殊な語。例えば「たたき」は強盗、「さつ」は警察など。

如何(どふ)したのだ?」
(われ)ながら震声(ふるひごゑ)(するど)問詰(とひつ)めた。
(かれ)四辺(あたり)(みまは)て、(きは)めて小声(こごゑ)に、
()(しや)(はじ)めました!」
()(しや)! 秋葉(しうえう)(すで)()せり、と()くも(おな)じやうに、(ひし)(むね)(こた)へたが、(たちま)猛然(まうねん)として、(たと)へば、()()ひたる武者(むしや)(ゆう)()したるやうに、
(よし)()け! 医者(いしや)は?」
四辺(あたり)(しの)(こゑ)ながら、(かれ)(みゝ)には破鐘(われがね)(ごと)(ひゞ)いたであらう。(かれ)(はし)りかけた()棯向(ねぢむ)けて、
(ケー)()(まゐ)りました。」
自分(じぶん)(うなづ)くのを()るより(はや)()むで()つた。(ひと)(おどろ)かすまい、と自分(じぶん)(ことさら)従容(しようよう)として(せき)(かへ)ると、
客来(きやくらい)かね。」  と(かく)一人(ひとり)(たづ)ねた。
親類(しんるゐ)のものが()たので、()かずはなるまい。」
何気(なにげ)()(こた)へて、取散(とりちら)してある煙管(パイプ)や、手巾(ハンカチーフ)懐中物(くわいちうもの)などを手早(てばや)(をさ)めた。
()たのは親類(しんるゐ)のものか。天下(てんか)に「()」を親類(しんるゐ)()(ひと)があらうか、口実(こうじつ)()らうに、親類(しんるゐ)とは(いま)はしいことを()つたものである。無心(むしん)ながらも親類(しんるゐ)()つたは、這箇(この)()」を歓迎(くわんげい)せねばならぬ非運(ひうん)(てう)ではあるまいか、と(おも)はれた。
自分(じぶん)綽々(しやく/\)として身支度(みじたく)をした(つもり)であつたが、有繋(さすが)(つね)ならぬ(ところ)()えたか、一座(いちざ)(もの)()はずに()(そば)て、自分(じぶん)(こゝろ)()まむとする気色(けしき)であつた。
就中(なかにも)(つね)から(するど)(イー)()(まなこ)烱〻(ぎろ/\)(きらめ)た。()へば(かなら)(こた)へると()(エチ)()(した)さへ(うご)かなかつた。渠等(かれら)(なに)()(うたが)つたに相違(さうゐ)ないのである。
[現代語訳]「どうしたのだ?」
と我ながら声は震えてるが、するどく問い詰めた。
 彼はあたりを見回して、極めて小声で、
「吐瀉を始めました!」
 吐瀉とは嘔吐と下痢だ! 秋葉は既に死亡した、と聞くのも同等で、ひしひしと胸にこたえた。だが、たちまち猛然として、まるで傷を負った武者が勇気をだしたように、
「よし、行け! 医者は?」
 あたりを忍ぶ声だったが、彼の耳には割れ鐘のごとく響いたであろう。彼は走りかけた身をねじむけて、
「K氏がまいりました。」
と自分でうなづくのを見るより速く飛んで行った。人を驚かすまい、と自分はことさらに落ち着いて席に帰ったが、
「客が来たのかね。」
と客の一人は訊ねた。
「親類のものがきたので、行かずはなるまい。」
と何気なく答えて、あちこちにあったパイプや、ハンカチーフ、懐中物などを手早く収めた。
 来たのは親類のものなどあるがない。「死」は親類の人ではない。口実である。しかし、親類とは忌まわしいことを言ったものである。気が利かないけれど、親類と言ったのは、この「死」を歓迎せねばならない非運のきざしではあるまいか、と思ったのだ。
 自分はゆとりはあって身支度をしたつもりだったが、さすがに常ならぬところが見えたのか、一座は物もいわずに目をそばめて、自分の心を読もうとする気色があった。
 なかでも常から鋭いE氏の眼はぎろぎろときらめいた。言えば必ず答えるというH氏の舌さえ動かなかつた。彼らは何となく疑ったに相違ないのである。

眗す 見回す・見廻す。まわりをぐるっと見る。
吐瀉 はいて、くだすこと。嘔吐と下痢。
犇と 外部からの働きかけが身や心に強く迫ったり感じたりする様子。 寒さがひしと身にこたえる。寂しさがひしと胸にせまる。
徹える 胸にこたえる。心に強く感じる。身にしみる。
破鐘 われがね。ひびの入った釣鐘。その音から、濁った太い大声。
K氏 加藤医師で、紅葉氏の学友でした。
従容 しょうよう。ゆったりと落ち着いているさま
綽々 しゃくしゃく。落ち着いてゆとりがあるさま。
側める そばめる。横へ向ける。横目で見る。
就中 なかんずく。その中でも。とりわけ。
烱烱 けいけい。炯炯。(目が)鋭く光る。
晃く きらめく。煌めく。光り輝く。きらきらする。