日別アーカイブ: 2018年8月11日

船河原橋と蚊屋が淵

文学と神楽坂

 神楽河岸、飯田橋、船河原橋、蚊屋が淵の4つは「新撰東京名所図会」第41編(東陽堂、1904年)で書いてありました。

    ●神樂河岸
神樂河岸は、牛込門外の北岸にして、神樂町一丁目より揚場町及び下宮比町の一部なる前面に横る一帯の河岸地をいふ。もとは市兵衛河岸●●●●●叉は市兵衛雁木●●●●●●と稱したり。そはむかし此所に岩瀬市兵衛●●●●●の屋敷ありしに因る。
牛込警察署は此河岸地の南端に在り。
目下當地の北端より飯田町の方に煉瓦にて基底を作り、新橋を架設し居れり。是は市區改正の計畫に據るものにして、下宮比町より津久戸前町等を貫通して開創すべき道路と連絡せむが爲めなりといふ。
    ●飯田橋
飯田橋は、神樂河岸の北端卽ち下宮比町の東隅なる河岸より、飯田町九段阪下の通りに連絡する架橋をいふ。今より凡そ十七八年前に架設したるものなり。前項の新架橋落成せぱ撤去せらるべきか。

[現代語訳]
    ●神楽河岸
 神楽河岸は、牛込御門外の北岸で、神楽町一丁目から、揚場町と下宮比町までの、一帯の河岸地をいう。もとは市兵衛河岸や市兵衛雁木といったが、昔、ここに岩瀬市兵衛の屋敷があったからだ。
 牛込警察署もこの河岸地の南端にある。
 当地の北端から飯田町の方に向かって煉瓦で基礎を作り、目下、新しい橋をかけようとしている。これは市区改正の計画によるもので、下宮比町から津久戸前町などを貫通して、新しい道路に連絡するためだという。
    ●飯田橋
 飯田橋は、神楽河岸の北端、つまり下宮比町の東隅の河岸から、飯田町九段阪下までの道路に連絡する橋をいう。今からおそよ17、8年前、架橋ができたが、前項の新しい橋が落成するとこの橋も撤去するべきといえないか。

 神楽河岸については、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」によると

 明治の終りか大正の始めまで神楽河岸の地名はなかった。揚場河岸の続きとしていたらしい。今も見附際の所にペンキ塗りの元牛込警察署があり柳の並木と共に明治らしい面影がある。戦後警察は牛込警察署として南山伏町16に移っている。警察が河岸地にあった時分は明治5年第3大区5~6小区の巡査屯所として発足したのが始めで、明治14年第二方面牛込区神楽町警察署と改められた。その年3月牛込警察署と改名された。

昔の船河原橋と飯田橋。神楽河岸。

昔の船河原橋と飯田橋。神楽河岸。新道路も開始予定。明治28年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。
牛込門 江戸城の外郭につくった城門。「牛込見附」「牛込御門」と同じ。
揚場町 町名は山の手で使用する商品を運送する荷を揚げる物揚場になったため
しも宮比みやび 江戸時代は武家地。明治2年、武家地を開いて宮比町に。宮比神社を祀る祠を建てたので宮比町と。ただし、この宮比神社は現在ない。明治5年、付近の武家地跡を合わせ、台地上を上宮比町(昭和26年からは神楽坂四丁目)、台地下は下宮比町である。下宮比町の変更はない。
雁木 がんぎ。船着き場や桟橋さんばしの階段。
基底 基礎となる底面。
架設 橋や電線などを支えを設けて一方から他方へかけ渡すこと。
市区改正 東京市区改正事業。明治時代から大正時代の都市計画。明治21年(1888年)東京市区改正条例が公布。道路を拡幅し、路面電車の開通し、上水道の整備などを行った。
據る よる。たよりとなる足場とする。よりどころ
津久戸前町 津久戸明神前にあるため、津久戸前町と呼ばれた。明治2年、牛込西照院前と併合し、牛込津久戸前町となり、明治44年、さらに津久戸町となる。
開創 かいそう。初めてその寺や事業を開くこと。
架橋 橋を架けること。その橋。
明治の終りか大正の始めまで 明治28年の「東京実測図」(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)では、ここを神楽河岸と呼んでいました。明治中旬でもう神楽河岸に呼称が変わったのです。一方、明治20年「神楽坂附近の地名」(新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』、1970年)では、明治20年以降に神楽河岸に呼称が変わったとしています。つまり、明治20年代に変わったのでしょう。
南山伏町16 新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)「大正11年 東京市牛込区」を見ると、南山伏町16は大久保通りに直接接していませんでした。南山伏町1番地から2番地までは確実に移動したのでしょう。なお、牛込警察の住所は1番15号です。

    ●船河原橋
船河原橋は、牛込下宮比町の角より、小石川水戸邸、卽ち今の砲兵工廠の前に出る道路を連絡する橋をいふ。俗にドンド橋或は單にドンドンともいふ。江戸川落口にて、もとあり。水勢常に捨石激して淙々の音あるに因る。此橋を仙臺橋とかきしものあれども非なり。仙臺橋は水戸邸前の石橋の稱なるよし武江圖説に見えたり。松平陸奥守御茶の水開鑿の時かけられしには相違なしといふ。
    ●蚊屋が淵
蚊屋かやふちは船河原橋の下をいふ。江戸川の落口にて水勢急激なり。或はいふ。中之橋隆慶橋の間にて今おほまがといふ處なりと江戸砂子に云。むかしはげしき姑、嫁に此川にて蚊屋を洗はせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。

[現代語訳]
    ●船河原橋
 船河原橋は、牛込区下宮比町の角から、小石川区の旧水戸邸、つまり今の砲兵工廠の前に出る道と連絡する橋をいう。俗にドンド橋、単にドンドンともいう。江戸川が落下する場所に堰があった。水の勢いは、投石に激しくぶつかり、常に高く、ドンドンという音がしていた。この橋を仙台橋と書いたものあるが、これは間違いだ。武江図説では、仙台橋は旧水戸邸前の石橋だと書いてある。旧松平陸奥守の「御茶の水」の橋は開削の時に、架橋して、現在はない。
    ●蚊屋が淵
 船河原橋の下面を蚊屋が淵という。神田川中流が落下する場所であり、水勢が急激だ。江戸砂子では、別の説を出し、中之橋と隆慶橋の間に相当し、現在は大曲という場所がそれだという。昔、ひどい姑がいて、嫁にこの川で蚊帳を洗わせていたが、浅瀬は速く、水に蚊帳をとられ、嫁はその蚊帳に巻かれて死亡したという。

船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。

台紙に「東京小石川遠景」と墨書きがある。牛込見附より小石川(現飯田橋)方面を望んだ写真らしい。明治5年頃で、江戸時代と殆ど変化がないように思える。遠くに見える橋は俗称「どんと橋」と呼ばれた船河原橋であろう。堰があり手前に水が落ちている。しかし水 位は奥の方が低く、水は奥へと流れているらしい。堀は外堀である飯田堀で、昭和47年、市街地再開発事業として埋め立てられ、ビルが建った。内川九一の撮影。六切大。(石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

 「旧」の旧字。
砲兵工廠 ほうへいこうしょう。旧日本陸軍の兵器、軍需品、火薬類等の製造、検査、修理を担当した工場。1935年、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は現在、後楽園球場に。
道路 現在は外堀通り。
ドンド橋 船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちて、どんどんと音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
落口 おちぐち。滝などの水の流れの落下する所
 せき。水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。
捨石 すていし。土木工事の際、水底に基礎を作ったり、水勢を弱くしたりするために、水中に投げ入れる石。
激して 激する。げきする。はげしくぶつかる。「岩に激する奔流」
淙々 そうそう。水が音を立てて、よどみなく流れるさま
仙臺橋 仙台橋。明治16年、参謀本部陸軍部測量局の東京図測量原図(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-16.html)を使うと、おそらく小石川橋から西にいった青丸で囲んだ橋が仙台橋でしょう(右図)。
武江図説 地誌。国立国会図書館蔵。著者は大橋方長。別名は「江戸名所集覧」
開鑿 かいさく。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
蚊屋が淵 「半七捕物帳」では「蚊帳ケ淵」と書かれています。
中之橋 中ノ橋。なかのはし。神田川中流の橋。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
大曲り おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。
江戸砂子 えどすなご。菊岡沾涼著。6巻6冊。享保 17 (1732) 年刊。地誌で、江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。
はげしき 勢いがたいへん強い。程度が度を過ぎてはなはだしい。ひどい。
蚊屋 かや。蚊帳。蚊を防ぐために寝床を覆う寝具。