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見番横丁の開設[明治の市区改正](明治26年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 神楽坂3丁目のうち1番地と6番地は他の番地に比べて広く、宅配便の業者を困らせることがあります。江戸期の大名屋敷などをひとつの番地にしたことが原因と思われます。

明治7年の神楽坂(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 6番地は旧・松平出羽守の邸で、明治維新後も華族として住んでいたようです。立ち退き後、今もある路地が開設されます。その資料があります。

東京市区改正委員会議事録 第6巻151コマ 牛込区神楽町三丁目民有道路開設 180°回転

 明治26年、現在の見番けんばん横丁と、それに続く三叉路を「開設」したことが分かります。神楽坂通りと「若宮町通り」への出口は道幅「二間半」、途中は「三間」と広くとっています。
 図には「民有道路開設之図」とあります。これが私道を意味するかどうか分かりません。現在の新宿区道路台帳では、この道路はすべて区道です。途中から幅が広くなる様子などは計画通りと思われます。ただ見番横丁の現在の入り口は3.16メートルしかなく、計画の2.5間(4.5メートル)よりもかなり狭まっています。
 もう1点、注目したいのは「六番ノ内 崖」「若宮町通り」という記載です。
 「六番ノ内 崖」のは、南側にある小栗横丁の道ではありません。小栗横丁と見番横丁の間に今もあるガケでした。

新宿区道路台帳 見番横丁と小栗横丁

 つまり松平出羽守の邸のガケ下に民家がありました。崖下は一部を除いて若宮町です。後に、このガケを東側から降りるために熱海湯の階段が作られました。
 また、この図の「若宮町通り」という表記は他の資料に出てきません。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「神楽坂附近の地名」では「出羽様下」と記載しています。ただ位置関係から見て、本来の「出羽様下」はガケ下一帯、現在の小栗横丁の西側入り口付近の民家を指していたと考える方が自然に思えます。

神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

「牛込区神楽町三丁目民有道路開設」は東京市区改正委員会の「報第47号幹事会」で処理し、明治26年10月19日開催の「第102号会議」に報告されました。大久保通りの拡幅を決めたのと同じ会議でした。
 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)によれば、崖に接したのは道路ではなく等高線でした。

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

出羽様下 「出羽様下」では不明ですが、牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第2号の竹田真砂子氏の「銀杏は見ている」によれば「出羽様」は……

(本多横丁の)反対側、今の宮坂金物店(現・椿屋)の横丁を入った所には、旧松平出羽守が屋敷を構えていて、当時はこの辺を「出羽様」と呼んでいた。だいぶ前、「年寄りがそう言っていた」という古老の証言を、私自身、聞いた覚えがある。

  ただ市区改正の地図に基づけば、旧松平出羽守の屋敷があった時には宮坂金物店の横丁は出来ていなかったことになります。