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大久保通りの拡幅[明治の市区改正](明治26年)

文学と神楽坂


地元の方からです

 牛込区史(昭和5年)によれば、東京市区改正委員会は明治22年(1889年)、「道路の新設拡張が70線」を主体とする「市区改正設計」を決めました。その中に「第四等道路」として次の計画があります。

第三十五、牛込揚場町第二等線より津久戸前町に至り、左折して肴町・山伏町通り、原町等を経て、戸山学校に至るの路線。

 これが後の大久保通りです。「第二等線」は同時に計画した外堀通りを指します。
「市区改正設計」には実現しなかったものも多いですが、大久保通りはおおよそ完成しました。多くの部分は、屋敷や寺社の間を通る細い道を何度かに分けて広げたものです。
 たとえば明治22年4月16日開催の東京市区改正委員会29号会議で「牛込肴町他2カ町道路取拡」を決めています。火事で焼けた跡の再建を許さず、東京府が買い上げる内容です。

当府牛込区牛込肴町今暁消失ニ罹リ候場所ハ市区改正審査ニ於テ第三四等道路ニ決定ノ路線ニ係リ候……

 また明治26年(1893年)には、この時の広い道路を南西に少し伸ばして下水を新設することを決めました。「道幅八間」とあるので14.4メートルです。

 本格的に道を広げる計画は明治26年10月19日開催の第102号会議で決定しました。議第179号の7として岩戸町から現在の牛込柳町まで、議179号の8として柳町から南側(現在の外苑東通り)を拡幅します。予算は両計画合計で5万507円17銭5厘を計上しました。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784706/123
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784706/124
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784706/125

 この3図を結合したものに今の地名を書き込みました。太線または二重線が当時の道、青線は拡張予定の道です。旧・牛込区役所は、道だったところに敷地を拡張しました。

 大久保通りの拡幅計画の図はシンプルですが、牛込北町と神楽坂上の中間付近に線が3本になって分かりにくい部分があります。ここは原資料に間違いがあると思われるので、拡大して修正した図をつけます(下図)。

南蔵院付近 道路台帳

 この修正図と、区が公表している道路台帳を突き合わせると、明治の道路拡幅がしっかり実施されたことが分かります。

南蔵院付近 道路台帳

 大久保通りと外苑東通りは現在、終戦後に策定した都市計画に従って新たな拡幅工事が進んでいます。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

松平定安伯爵の神楽坂邸(昔)神楽坂3丁目

文学と神楽坂

地元の方からです

 神楽坂3丁目には「出羽様」と呼ばれた大きな邸がありました。邸の主は出雲松江藩の第10代(最後)の藩主であった松平定安で、官位は出羽守、明治維新後は伯爵に叙せられました。私家版の詳細な伝記(昭和9年刊)が残っています。
 この中から、神楽坂邸に関する部分を拾い読みします。新字・新かなに改め、適宜省略しています。
 明治3年10月、旧藩主時代から江戸にあった官邸・私邸の「拝借期限」が向こう3カ月間だと明治政府から通達されます。

 これにおいて東京府内に適当の邸宅を物色し、翌4年8月朔日(明治4年8月1日)に至り、牛込神楽町3丁目3番地(原注。後6番地と改まる)の邸地を購入し、もって新邸を営むに至れり。すなわち該地は旧旗本高木義太郎・筧四郎・押田求馬の邸宅なりしが(中略)その代金として1,755円を交付せり。
 更に隣地武沢楠之助の邸宅を購入してこれを合併せり。(中略)宅地2374坪4勺、崖地105坪4合8勺と定められる。

 買い取ったうち武沢・筧・押田の3邸は「若宮通り」と書いてあります。松平定安は同年9月19日に、この神楽坂の新邸に入りました。
 松平家は続けて、周辺に土地を求めます。

(明治)4年12月19日には、牛込肴町において屋宇1カ所を購入し、これを質貸の店にあて…
 7年12月13日にいたり、牛込岩戸町3番地内において、本邸地に接続せる地所102坪1合6勺ならびに土蔵・納屋を購入し、翌8年3月、同町2番地(原注、鈴木重右衛門所有地)191坪9合7勺ならびに土蔵を購入せり。

 この肴町の「質貸の店」については別に記述があります。

 旧藩士中の東京に居住せる者にとり、幸いにひとつの金融機関を得、おおいに生活上に利便を受くるに至れり。

 つまり家禄を失った旧藩士を救済するための質屋でした。この店は明治9年3月10日に閉鎖し、後に別の場所で続けられました。
 また、この時代の岩戸町は神楽町3丁目の松平邸に隣接していました。ここに邸を広げたのでしょう。現在の三菱UFJ銀行神楽坂支店の裏に当たります。

明治東京全図(明治9年)松平邸付近、「花」は華族

 松平定安伯は、この神楽坂邸を本邸として過ごします。明治5年の年譜には

5月2日、松江邸の鎮守たりし稲荷社および八重垣社を神楽坂邸に安置す。

 とあります。明治16年の「五千分一東京図測量原図」では、松平邸内の最も東側(坂下側)に参道らしきものと、その周辺に社寺がいくつかあります。いずれかが「稲荷社」と思われ、これが見番横丁に今もある「伏見火防稲荷神社」のルーツです。

稲荷社 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

 松平定安伯は一度は養子・直応に家督を譲ったものの復帰、明治15年11月に再び隠居します。

28日、(定安は後継者である)優之丞公をして、神楽坂邸に起居せしめんとし、この日来、同邸に修繕を加えし

 その直後の12月1日、別邸の根岸邸で急逝します。享年48歳。
 実子の優之丞は伯爵を継いで松平直亮と改名。貴族院議員などとして活躍しました。明治25年10月版の華族名鑑(博公書院)では神楽町に住所があります。明治26年3月版では四谷に転居しています。

 神楽坂の「出羽様」の邸跡には明治26年に新たな道路が作られ、芸者屋や料理屋が林立する花街に姿を変えました。それでも中央部に「神楽坂演芸場」があったのは、元が大邸宅だったため比較的まとまった土地が確保できたからかも知れません。牛込町誌 第1巻(大正10年)によれば、神楽町3丁目6番地の2,773.65坪の所有者は松平直亮氏ひとりでした。つまり芸者屋も寄席も地代を納めることで、四谷に引っ越した松平伯爵家の生活を支えていたのです。

牛込町誌 第1巻(大正10年)「神楽坂演芸場」