三百人の作家④|間宮茂輔

文学と神楽坂

 そんな賑やかさの中に、坂本紅蓮洞という特異の人物が、時おりまざったことも書き残しておいていいことであろう。通称「ぐれさん」の坂本紅蓮洞はもとより作家ではなく、そうかといって演出家でもない、何が専門であったのかわたしなどにはわからなかったが、ともかく芝居、劇団の方面では一種の木戸御免的な存在で、いつも酒の匂いをぷんぷんさせ、江戸っ児らしい巻き舌でものを言っていた。「ぐれさん」こと坂本紅蓮洞は当時もうかなりの年輩で、アルコール中毒らしい舌のもつれを危かしい腰つきに老残といったふうな哀しみが感じられた。広津和郎は時どきウイスキーなど奢ってやっていたようである。
 この暗い紅蓮洞と全くちがい、ふさふさした白髮のおカッパ頭をして眼の可愛らしいひとが、坂下のコーヒー店へ来ていつも独りで腰かけていた。噂によると、何んでも目白とか雑司ヶ谷とか遠いところから神楽坂まで毎日こつこつと歩いて来て、一杯のコーヒーを、ゆっくり味うと、十銭銀貨をテーブルの上において、また目白の方角へ帰って行くというのである。やがてわたしはこの童話にでて来るおじさんのような人が、じつは秋田雨雀であることを知った。
 大正十二年のそのころ、秋田雨雀はどんな立場にいてどんな仕事していたのだろうか。この追想記ではわたしはいっさい年譜や年鑑の類にたよらない建前なので、当時の秋田雨雀についてはハッキリとはわからない。しかし日本の新劇運動に心を傾けて来たこの人は、数々の劇作戯曲や演劇研究の大きな功績にもかかわらず、いつも静かで、つつましやかで、一杯のコーヒーにたのしい憩いを求めるかのようにみえた。秋田雨雀はそのうちわたしや長田などとも話をするようになり、するとわたしたちはこの先輩にコーヒーを二杯のめるようにするため、自分らのテーブルへ招じることもあるようになった。
 「秋田さん、こっちへいらっしゃい」
 そしてその勘定をわたしらが払えば、秋田雨雀は自分でさらに一杯のめるわけになる。というのも、うそか本当か、彼は奥さんから毎日十銭ずつコーヒー代をもらって散歩に出て来るのだという噂が伝わっていたからである。新劇運動に一生を捧げたこの人が今日もなお八十歳の高齢で、俳優や演出家の育成に当っていることはたれにも知られているとおもう。

 浅見淵氏が書く『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「未明と雨雀」では

 その頃の神楽坂の登場人物で忘れられないのに、小川未明のほかに、なお秋田雨雀がいる。小躯に茶色のコールテン服をまとい、午後の二時頃になると、雑司ケ谷の奥から、これまた判で押したように、神楽坂の山本という床が板敷きの学生専門の珈琲店に、決まって端整な顔を現わした。そこで一休みすると、またテクテクてくって銀座方面に出かけ、新劇の楽屋をひと回りしてくるのである。つまり、雑司ヶ谷から銀座のあいだを往復するわけだが、じつにこれが毎日なのだ。その頃、雨雀はなんの仕事もしておらず、つまりそれが毎日の日課だったのだ。昔は畸人がいたものである。
コールテン

コールテン

木戸御免 相撲や芝居などの興行場に、木戸銭なしで自由に出入りできること。
かなりの年輩 大正12年で年齢は56~57歳でした。
老残 ろうざん。老いぼれて生きながらえていること。
当時の秋田雨雀 年齢は40歳。やはり童話、戯曲を書き、プロレタリア芸術運動に参加しています。
コールテン 布地の一種。丈夫でビロードに似た木綿織りで、表がうね織りのもの。英語のコーデュロイ corduroyから。レコード拭きにも利用した。
畸人 きじん。奇人。性質や言動が常人と異なっている人。変人。

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