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船河原橋と蚊屋が淵

文学と神楽坂

 飯田橋と船河原橋の2橋と、神楽河岸、蚊屋が淵については「新撰東京名所図会」第41編(東陽堂、1904年)で書いてありました。

    ●神樂河岸
神樂河岸は、牛込門外の北岸にして、神樂町一丁目より揚場町及び下宮比町の一部なる前面に横る一帯の河岸地をいふ。もとは市兵衛河岸●●●●●叉は市兵衛雁木●●●●●●と稱したり。そはむかし此所に岩瀬市兵衛●●●●●の屋敷ありしに因る。
牛込警察署は此河岸地の南端に在り。
目下當地の北端より飯田町の方に煉瓦にて基底を作り、新橋を架設し居れり。是は市區改正の計畫に據るものにして、下宮比町より津久戸前町等を貫通して開創すべき道路と連絡せむが爲めなりといふ。
    ●飯田橋
飯田橋は、神樂河岸の北端卽ち下宮比町の東隅なる河岸より、飯田町九段阪下の通りに連絡する架橋をいふ。今より凡そ十七八年前に架設したるものなり。前項の新架橋落成せぱ撤去せらるべきか。
[現代語訳]
    ●神楽河岸
 神楽河岸は、牛込御門外の北岸で、神楽町一丁目から、揚場町と下宮比町までの、一帯の河岸地をいう。もとは市兵衛河岸や市兵衛雁木といったが、昔、ここに岩瀬市兵衛の屋敷があったからだ。
 牛込警察署もこの河岸地の南端にある。
 当地の北端から飯田町の方に向かって煉瓦で基礎を作り、目下、新しい橋をかけようとしている。これは市区改正の計画によるもので、下宮比町から津久戸前町などを貫通して、新しい道路に連絡するためだという。
    ●飯田橋
 飯田橋は、神楽河岸の北端、つまり下宮比町の東隅の河岸から、飯田町九段阪下までの道路に連絡する橋をいう。今からおそよ17、8年前、架橋ができたが、前項の新しい橋が落成するとこの橋も撤去するべきといえないか。

河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。
牛込門 江戸城の外郭につくった城門。「牛込見附」「牛込御門」と同じ。
揚場町 町名は山の手で使用する商品を運送する荷を揚げる物揚場になったため
しも宮比みやび 江戸時代は武家地。明治2年、武家地を開いて宮比町に。宮比神社を祀る祠を建てたので宮比町と。ただし、この宮比神社は現在ない。明治5年、付近の武家地跡を合わせ、台地上を上宮比町(昭和26年からは神楽坂四丁目)、台地下は下宮比町である。下宮比町の変更はない。
雁木 がんぎ。船着き場や桟橋さんばしの階段。
基底 基礎となる底面。
架設 橋や電線などを支えを設けて一方から他方へかけ渡すこと。
市区改正 東京市区改正事業。明治時代から大正時代の都市計画。明治21年(1888年)東京市区改正条例が公布。道路を拡幅し、路面電車の開通し、上水道の整備などを行った。
據る よる。たよりとなる足場とする。よりどころ
津久戸前町 津久戸明神前にあるため、津久戸前町と呼ばれた。明治2年、牛込西照院前と併合し、牛込津久戸前町となり、明治44年、さらに津久戸町となる。
開創 かいそう。初めてその寺や事業を開くこと。
架橋 橋を架けること。その橋。

    ●船河原橋
船河原橋は、牛込下宮比町の角より、小石川水戸邸、卽ち今の砲兵工廠の前に出る道路を連絡する橋をいふ。俗にドンド橋或は單にドンドンともいふ。江戸川落口にて、もとあり。水勢常に捨石激して淙々の音あるに因る。此橋を仙臺橋とかきしものあれども非なり。仙臺橋は水戸邸前の石橋の稱なるよし武江圖説に見えたり。松平陸奥守御茶の水開鑿の時かけられしには相違なしといふ。
    ●蚊屋が淵
蚊屋かやふちは船河原橋の下をいふ。江戸川の落口にて水勢急激なり。或はいふ。中之橋隆慶橋の間にて今おほまがといふ處なりと江戸砂子に云。むかしはげしき姑、嫁に此川にて蚊屋を洗はせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。
[現代語訳]
    ●船河原橋
 船河原橋は、牛込区下宮比町の角から、小石川区の旧水戸邸、つまり今の砲兵工廠の前に出る道と連絡する橋をいう。俗にドンド橋、単にドンドンともいう。江戸川が落下する場所に堰があった。水の勢いは、投石に激しくぶつかり、常に高く、ドンドンという音がしていた。この橋を仙台橋と書いたものあるが、これは間違いだ。武江図説では、仙台橋は旧水戸邸前の石橋だと書いてある。旧松平陸奥守の「御茶の水」の橋は開削の時に、架橋して、現在はない。
    ●蚊屋が淵
 船河原橋の下面を蚊屋が淵という。神田川中流が落下する場所であり、水勢が急激だ。江戸砂子では、別の説を出し、中之橋と隆慶橋の間に相当し、現在は大曲という場所がそれだという。昔、ひどい姑がいて、嫁にこの川で蚊帳を洗わせていたが、浅瀬は速く、水に蚊帳をとられ、嫁はその蚊帳に巻かれて死亡したという。

船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
 「旧」の旧字。
砲兵工廠 ほうへいこうしょう。旧日本陸軍の兵器、軍需品、火薬類等の製造、検査、修理を担当した工場。1935年、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は現在、後楽園球場に。
道路 現在は外堀通り。
ドンド橋 船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちて、どんどんと音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
落口 おちぐち。滝などの水の流れの落下する所
 せき。水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。
捨石 すていし。土木工事の際、水底に基礎を作ったり、水勢を弱くしたりするために、水中に投げ入れる石。
激して 激する。げきする。はげしくぶつかる。「岩に激する奔流」
淙々 そうそう。水が音を立てて、よどみなく流れるさま
仙臺橋 仙台橋。明治16年、参謀本部陸軍部測量局の東京図測量原図(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-16.html)を使うと、おそらく小石川橋から西にいった青丸で囲んだ橋が仙台橋でしょう(右図)。
武江図説 地誌。国立国会図書館蔵。著者は大橋方長。別名は「江戸名所集覧」
開鑿 かいさく。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
蚊屋が淵 「半七捕物帳」では「蚊帳ケ淵」と書かれています。
中之橋 中ノ橋。なかのはし。神田川中流の橋。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
大曲り おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。
江戸砂子 えどすなご。菊岡沾涼著。6巻6冊。享保 17 (1732) 年刊。地誌で、江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。
はげしき 勢いがたいへん強い。程度が度を過ぎてはなはだしい。ひどい。
蚊屋 かや。蚊帳。蚊を防ぐために寝床を覆う寝具。

川柳江戸名所図会⑦|至文堂

文学と神楽坂

次は高田から戸山方面へいって見る。

山 吹 の 里

新宿区の戸塚一丁目から、豊島区の高田一丁目へ、神田上水を渡る〈面影橋〉の北詰オリジン電気会社の門前に「山吹の里」と刻んだがある。
 この碑には「貞享三丙寅歳十一月六日」という文字がある。
 貞享3年は、西暦1686年、五代将軍綱吉の時代で、この伝説が、今から300年ぐらい前には、このようなが建てられる程に確立していたようである。
 この辺りは神田上水に沿い、家も散在していたのであろう。もちろん山吹のみならず、いろいろな野草もあったに違いない。大体が原っぱで狩猟地でもあったろうし、この伝説の地としては格好の場所である。
 ただし実は山吹の里とはかなり広く、東南一帯のやや高い方まで指していたのではないかという。「江戸名所図会」では、太田道濯が「一日戸塚金川辺に放鷹す」と記されている。金川は戸山屋敷から出て、穴八幡の前を流れ、曲折して、遂には神田上水に入っていた小川であるから、そうするとずっと東南に当る。
 さて道濯、太田持資は、永享四年(1432)~文明十八年(1486)という人物で、江戸の開祖であるから、東京都庁の前に狩姿の銅像が建てられている。
 持資がある日狩に出て、鷹がそれたので追ってこの辺りまで来たところ、急雨にあい、生憎雨具の用意がなかったので、傍の農家をおとずれ、を所望した。この時一人の少女が、花盛りの山吹の一枝を折取って無言のまま持資にさし出した。持資はその意味が分らず、腹を立てて帰り、近臣にその話をすると中に一人心利きたる者が進み出て、これは簑がなくてご用立てできないことの断りの意味でしょうと言った。

  後拾遺和歌集第十九雑五
   中務卿兼明親王
 📘小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、簑かる人侍りければ、山吹の枝を折りてとらせて侍りけり。心もえでまかり過ぎて、又の日山吹の心もえざりしよしいひおこせて侍りける、返事にいひ遺しける。
    📘七重八重花は咲けども山吹の
       みの一つだになきぞかなしき

📘この詞書は「京都の小倉の家に住んでいたが、雨の日に蓑を借りに来た人がいる。山吹の枝を折って渡したが、理解できず、退出したが、別の日、その訳を尋ねてきたので、この返事を送った」
📘あでやかに七重八重に咲く山吹は、実の一つもなく、それがかなしい。わが家には蓑一つもない。

高田 東京都豊島区の町名。右図を参照。ちなみに、のぞき坂は都内でも急な坂である。
戸山 東京都新宿区の町名。新宿区の地理的中央部にあたる。右図を参照
山吹の里 「山吹の里」は「山吹の里」伝説からでたもので、武将・太田道灌は農家の娘に蓑を借りようとして、代わりに一枝の山吹を渡されたという挿話です。本当にその場所はどこなのか、そもそも伝説は正しいのか、わかりません。

新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり―戸塚・落合編」昭和60年

http://www.shinjuku-shakyo.jp/district/center/totsuka/

http://www.shinjuku-shakyo.jp/district/center/totsuka/

戸塚一丁目 新宿区の町名。この本『川柳江戸名所図会』は昭和47年に書かれた本です。昭和50年に、新しい住所表示に変わりました。右の地図では①が現在の戸塚一丁目ですが、昭和50年以前には①から⑤まですべてを含めて戸塚一丁目と呼びました。この戸塚一丁目(①~⑤)は戸塚地区では東端に当たります。
高田一丁目 豊島区の町名。一丁目~三丁目に分かれて、一丁目はその南端。山吹の里もここにあります。
神田上水 かんだじょうすい。日本最古の上水道で、水源は武蔵野市井の頭公園の井の頭池。神田・日本橋・京橋などに給水した。明治36年(1903)廃止。
面影橋 おもかげばし。「おもかげ橋」とも。神田川に架かる橋。面影橋の西には曙橋、東には三島橋がかかる。
北詰 北側と同じ。
オリジン電気会社 オリジン電気会社は現在移転した。何かを建築中
 記念で文字を刻んだ石。いしぶみ。
貞享三丙寅歳 貞享三年は1686年。丙寅はひのえとら。
綱吉 とくがわつなよし。徳川綱吉。江戸幕府の第五代将軍。在職は1680年から1709年まで。生類憐みの令を施行し、元禄文化が花開いた。
山吹 バラ科ヤマブキ属の落葉低木。八重咲きのものは実がならない。
江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌。7巻20冊。前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主の斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代が、名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪の絵を加えて解説。
太田道濯 室町時代中期の武将。長禄元年 (1457) 、江戸城を築いて居城とした。
戸塚 以前は戸塚村で、町になり、昭和7年、淀橋区になると、戸塚村は戸塚一丁目から四丁目までと諏訪町に変わりました。
金川 かに川とも。現在は暗渠化。水源は都保健医療公社大久保病院の付近の池。日清食品前、新宿文化センター通り、職安通り下、戸山ハイツ、馬場下町、穴八幡宮、早稲田鶴巻町を流れ、西早稲田の豊橋付近で神田川に合流。写真は落合道人(Ohiai-Dojin)の「金川(カニ川)の流域を概観してみる。」https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2015-10-21から
放鷹 ほうよう。放鷹。鷹狩たかがりをすること。
戸山屋敷 尾張藩徳川家の下屋敷だった。現在は戸山公園、都営戸山ハイムアパート、戸山高校、東戸山小学区、早稲田大学文学部、国際医療研究センター、国立感染症研究所などに。左図は東陽堂の『新撰東京名所図会』第42編(1906)から。
穴八幡 東京都新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。1728年(享保13年)、八代将軍徳川吉宗は疱瘡祈願で流鏑馬を奉納した。右図では赤い四角。なお、楕円は戸山屋敷にある湖「大泉水」。
開祖 初めて一派を開いた人。
狩姿の銅像 現在は東京国際フォーラムにある銅像
それた 逸れる。予想とは別の方向へ進む。
 みの。かやすげなどの茎や葉や、わらなどを編んで作った雨具。肩からかけて身に着ける。
心利く こころきく。気がきく。才覚がある。
後拾遺和歌集 ごしゅういわかしゅう。第四番目の勅撰和歌集。20巻。白河法皇下命、藤原通俊撰。1086年成立、翌年改訂。
中務卿 なかつかさきょう。中務省の長官。朝廷に関する職務の全般を担当。
兼明親王 かねあきらしんのう。醍醐天皇の第十六皇子。
小倉 京都嵯峨の小倉山付近
侍り はべり。「いる」の謙譲語
心もえ 心も得ず。理解できない。よくわからない。
まかる 地方や他所へ行く。許可を得て、宮廷や貴人の所から離れる。退出する。
よし 文節末に付いて、詠嘆の意を表す。
いひおこす 言ひ遣す。言ってよこす。

 このように武将が少女にやり込められたというようなことは、川柳子の興を惹き、多くの句が作られている。
  姿見のあたり道濯雨やどり        (四一・34)
 一説に〈姿見橋〉というのがやや北にあったとし「江戸名所図会」もそれに従っているが、実は、面影橋の別名と考えた方がよいらしいという。
  どふれと言て山吹折て来る        (三九・14)
  少々こもでも能と太田いゝ      (明六宮3)
  御返事に出す山吹無言也         (三八・23甲)
  武蔵野て山吹を客へ出し        (五一・27)
  やさしさなひ花を折て出し      (三七・6)
  傘の山吹くんで出し          (五一・29)
  騎射いやしからざる申訳       (一二七・89)
  賤心有て山吹見せるなり         (四三・9)
 小倉百人一首、紀友則の歌「久かたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」をふまえている。
  娘山吹の花を出してなあに       (天二雀2)
 謎仕立。
  太田わけ是が雨具かヤイ女        (七五・8)
  気のきかぬ人と山吹おいてにげ      (二五・3)
  山ぶきの花だがなぜと太田いゝ      (二二・17)
  どふ考へても山吹初手解せず       (二九・8)
  道濯の紋、桔梗と結んで、
  山吹ヘ濡桔梗傘      (一五三・4)
  ぬれた桔梗へ山吹の花を出し       (二七・7)
  山吹を桔梗へ出したにわか雨       (三三・7)
 その他には、
  山吹を出す頃傘をかつぎ出し       (二六・24)
   簑壱有るとやさしい名立たず     (二八・33)
 成程これは理屈だ。
  どうくわん見づしらず故かさぬなり   (明五仁3)
 成程これももっとも、雨具を借りて返さぬ奴も多い。
  簑より山吹のないつらい事       (三五・40)
 この山吹は金のことである。
  後拾遺の古歌を道濯後にしり       (八二・31)
  さて山吹が気に成ると御帰館後      (一三八・29)

姿見姿見橋面影橋 面影橋と姿見橋は別なのか。下の新宿区の説明では、左の「江戸名所図会」の挿絵のように別々の橋である可能性があるが、おそらく同じ橋だとしています。面影橋,俤橋,姿見橋,俤の橋,姿見の橋
一方、広重が書いた「高田姿見のはし俤の橋砂利場」(安政四年)では、別の橋が中央右に架かっています。

どふれ 「どうれ」と同じ。「どふれ」とはならず、正しくはないのですが、これ以外はなさそうです。
こも 薦。菰。マコモを粗く編んだむしろ。多くはわらを用いる。
 せん。身分が低い。いやしい。さげすむ。いやしむ。あるいは、自分を謙遜していう語。
なひ なし。無し。
 だん。決定する。決断。
くんで くむ。汲む。水などをすくい取る。系統・流れを受け継ぐ。
騎射 きしゃ。うまゆみ。馬上で行う弓矢の競技。
騎射笠 きしゃがさ。武士が騎射や馬の遠行で使った竹製の網代あじろ編みの笠。
いやしからず 「いやしい」は「身分・階層が低い。下賤だ」
賤心 しずこころ。品が悪い心。洗練されていない心。下品な心。
紀友則 きのとものり。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。
しづ心 「しづ心」は「しづこころ。落ち着いた心」。「しづ心なく」は「落ち着いた心がなく」
太田わけ 「訳」「分け」では意味が通りません。不明ですが、もし「太田わけ」から「田わけ」だとすると、この言葉は「江戸時代に農民が田畑を分割相続したこと」、これから「たわけ」が出てきて、つまり「愚か者」になります。
どふ これも「どう」ではないでしょうか?
道濯の紋 「丸に細桔梗」です。
欠け込む 不明です。建築用語では「部材を接合するために、部材の一部を欠き取ること」。家相学では「家の一部が無い状態」。防水用語では「立上り防水層の納まりを良くするために、下地面にVカットを入れたり、段差を付けたりすること」。「欠く」は「一部分をこわす、備えていない」。「欠けていたが、桔梗の傘をはめ込んだ」。あるいは「駆け込む」(走って中に入る)の意味でしょうか。
どうくわん どうかん。太田道灌と同じ。
山吹 大判・小判の金貨。黄金。色がヤマブキの花の色に似ているから

 さてこのような話には、とかく後日話が尾ひれをつけてつづくものである。そもそもこの草深い地に、このような気の利いた娘がどうしていたかということであるが、一説に、応仁の乱を東国に落ちのびた武士の娘であろうという。その後、道濯は、その才を愛でてこの娘を召し出して妾としたともいう。
 またこの娘には母親がなく、父が迎えた後妻の腹に妹が生れた。そこで母親が、この娘の名であった「紅皿」というのを妹の名とし、この娘には「欠皿」という名を与えたという。またこの紅皿の碑が大久保の大聖院(西向天神)にあり、古文書も見出されたそうで、道濯の死後尼となり余生を送ったことになっているそうである。
 さて、その後の道濯は、
  山吹の己後簑箱を持せられ        (五四・14)
 と用意周到となる。
 大体道濯はそもそも一介の武弁ではなく風流の道も心得ていたのだが、一般にはこの山吹の一件で開眼されたということになっている。
  づぶぬれに成てかへると哥書ヲかい    (一七・3)
  風流の道を鷹野の雨で知り        (七五・35)
  雨やどりまでぶこつな男なり      (二〇・16)
  雨舎りから両道な武士となり       (筥二・39)
というような句もある。

応仁の乱 おうにんのらん。室町時代末期、継嗣問題に端を発し、東西両軍に分れ、応仁1年から文明9年(1467~77) までの11年間、京都のみならず、ほぼ全国で争った内乱。
紅皿 べにざら。紅皿欠皿は昔話で、継子いじめの話。先妻の娘を紅皿、後妻の娘を欠皿といい、紅皿は奥方になる。
欠皿 かけざら
大聖院 西向天にしむきてん神社。新宿区新宿6-21-1。以前は新宿区東大久保2-240と書いていた。碑は中央部がえぐられていて詳細は不明
己後 いご。以後。これから先。今後。
簑箱 「みのはこ」と読むのでしょう。簑を入れる箱。
哥書 かしょ。「哥」は「歌」の原字。和歌の本でしょう。
ぶこつ 無骨。武骨。洗練されていない。無作法。
両道 りょうどう。二つの方面。二道。「文武両道」

 道濯の歌として伝えられるものに、
 📘置かぬもありけり夕立の
     空より広き武蔵野の原
 📘わがは松原つゞき海近く
     富士の高嶺を軒端にぞ見る
 📘急がずば濡れまじものを旅人の
     あとより晴るゝ野路の村雨
 この最後の歌をもじって、
  山吹の後濡れまじものとよみ      (三八・2)
  黒路の村雨山吹ののちにはれ        (四一・33)
  夕立にぬれぬ古歌を知たやつ       (三六・35)
  晴間を待古歌を知る雨舎       (四一・36)
 また後世、対比の面白さをねらった句が出て来るが
  和漢の雨舎持資始皇          (筥二・27)
  松ぬらさず山吹ずぶぬらし       (二九・13)
  松はしのがせ山吹はぬらす也        (三七・6)
 秦の始皇帝が泰山を下った時、風雨に襲われ、松の木蔭に避け、其徳により、松に五太夫の位を与えたという故事がある。
  文武の雨舎資朝持資          (二八・12)
 徒然草第一五四段、日野資朝が東寺の門に雨を避け、片輪者を見て帰り、庭の盆栽の類いを取り捨てたという。
  夕顔官女山吹おしやらく        (二九・4)
  夕顔は源氏物語夕顔巻で、直接ではないが、花が扇にのせてさし出される。この夕顔という女を官女というのはちとおかしいようでもある。
  梅山吹は文と武に手を取らせ       (二六・10)
 梅は安倍宗任のことであろうか。

📘雨が降っていないところもある。夕立の空よりも武蔵の野は広大だから。
📘私の小さな家は松林が続き、海の近くで、家の軒端からは富士の雄姿を見上げることができる。なお、「わが庵」は江戸城ではないでしょうか。
📘急がなければ、濡れなかったのに。野原の道でにわか雨は旅人のあとを追って晴れていく。

 晴れた朝に草の上などにみられる水滴。
村雨 むらさめ。強く降ってすぐ止む雨。にわか雨。降り方が激しかったり、弱くなったりする雨。
軒端 のきば。軒の端。軒の先端。
黒路 不明。「こくろ」「くろろ」で検索しましたが、ありません。
持資 太田左衛門大夫持資もちすけで、太田道灌どうかんと同じ。
始皇 始皇帝。しこうてい。中国、秦の初代皇帝。前221年、中国を統一して絶対王制を敷いた。郡県制の実施、度量衡・貨幣の統一、焚書坑儒による思想統一、万里の長城の修築、など事績が多い。しかし、急激な拡大と強圧政治に対する反動のため、死後数年で帝国は崩壊。
しのがせ 凌がせる。「凌ぐ」は苦痛や困難に屈しないで、耐えしのぶ。苦難を乗り越える。
泰山 たいざん。中国山東省済南市の名山。五岳の一つ。
資朝 日野資朝。ひのすけとも。鎌倉末期の公卿。後醍醐天皇に登用、討幕計画を進めたが、幕府側にもれて、佐渡に流罪、のち斬首。
官女 宮中や将軍家などに仕える女
おしやらく おしゃらく。御洒落。おしゃれ。おめかし。
夕顔 源氏物語の作中人物。三位中将の娘で、頭中将の側室。若い光源氏の愛人となるが、互いに素性を明かさぬまま、幼い娘を残して19歳で若死。佳人薄命の典型例
安倍宗任 あべのむねとう。平安時代中期の武将。奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤。貴族が梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」(私の故郷にもあるこの花は、我が故郷では梅の花だと言うのだが、都人は何と呼ぶのだろう)と見事な歌で答えました。

川柳江戸名所図会⑥|至文堂

文学と神楽坂

 神楽坂にあった万昌院に忠臣蔵の敵役、吉良上野介の墓がありました。大正10年、この万昌院も、墓も、その他をひっくるめて中野区に移転しました。
 そのほかの問題も出てきます。「申」はどう読むのでしょうか。

万 昌 院

筑土八幡の裏に当る所にあった寺で、町名は筑土八幡町であった。久宝山万昌院という。この寺は曹洞宗であって、吉良家の菩提寺で、上野介の墓もこの寺にある。
 しかし上野介への反感から、一般からは寺もいっしよに敬遠された。
   人ごゝろ万昌院へ行人なし        (天五高2)
   万昌院へ参るのは茶人也         (五〇・33)
   吉良の寺あれかと指をさした      (五〇・31)
 元禄十五年十二月十五日早暁、首級義士泉岳寺へ持ち去られたあと、吉良家からは、万昌院へ亡骸が送られた。
   首の無とむら万昌院          (筥四・29)
   万昌院引導に首がなし         (藐・7)
   牛込とへわかれる首と胴         (五〇・36)
   万松と万昌へ行首と胴           (九五・8)
 泉岳寺は万松山という。もう一つ泉岳寺との句、
   牛込と牛町寺は敵味方           (九五・23)
 そこで吉良家の頼みにより、寺から時の寺社奉行へ願い出たので、ようやく首は吉良家へ戻り、改めて万昌院へ届けられ、十九日に至ってようやく埋葬することができたという。

万昌院

万昌院、久宝山万昌院 ばんしょういん。くほうざんばんしょういん。天正2年(1574年)に創建。大正10年、中野区に移転。右図は明治20年の地図。
吉良上野介 吉良上野介。きらこうずけのすけ。旧暦元禄14年3月14日、1701年4月21日、浅野あさの内匠たくみのかみが、江戸城松之大廊下で、吉良上野介に斬りかかった。徳川綱吉は激怒し、浅野内匠頭は即日切腹。元禄15年12月14日、1703年1月30日、浅野家筆頭家老の大石おおいしくら蔵助のすけ以下47人が吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった。のちに赤穂義士47人の忠臣蔵になった。
菩提寺 ボダイジ。先祖代々の墓や位牌をおき、葬式や法事を行う寺。檀那だんなでら
曹洞宗 そうとうしゅう。鎌倉仏教の1つ。黙照禅で坐禅に徹する。
人ごころ 人間らしいやさしい心。愛情や誠意のある心。正気。人間としての正常な意識。
茶人 ちゃじん。茶の湯を好む人。茶道に通じた人。茶道の宗匠。普通の人と違った好みのある人。物好き。
 きり。かぎり。だけ。しか。だけしか。
首級 しゅきゅう。討ちとった敵の首。しるし。
義士 ぎし。「赤穂あこう義士」の略。人間としての正しい道を堅く守り行う男子。義人。
泉岳寺 せんがくじ。港区高輪にある曹洞宗の寺。開基は徳川家康。赤穂あこう義士の墓がある。
吊う とむらう。弔う。人の死を悲しみいたむ。弔問する。死者のために葬儀・供養・法要を営む。
引導 人々を導いて仏の道に入れること。正しい道に導くこと。葬儀の時、僧が死者に解脱の境に入るように法語を与えること。
 東京都港区の地名、旧区名。増上寺や東京タワーがある。
万松 泉岳寺の山号は万松ばんしようざん
牛町 うしまち。港区高輪の都営泉岳寺駅の周辺です。
時の その時の。
寺社奉行 江戸幕府の職名。寺社およびその領地の人々などを管理し、その訴訟を受理・裁決した。

その時の吉良家から万昌院への送り状があって、寺の宝物の由である、その文言は、

         覚
 一 紙包 二つ
  右の通り阿部飛弾守様被仰渡候由にて、泉岳寺より使僧を以て、遣無相違諸取申候御願故と忝無く奉存候弥々上野介死体の儀御所置可被下候為其如斯御座候、以上
     午十二月十六日
            吉良左兵衛内
              左右田孫兵衛
              斎藤  宮内
      万昌院御役僧中

というのであるが、私は原文を見ていないから、誤なきを保し難い。紙包二つというのは、一つは首級、一つは上野介の守袋であるという。

被仰渡候 おおせわたされそうろう。命じられる。
使僧 しそう。使者として遣わす僧。
無相違 そういなく
申候 まをしさふらふ。もうしそうろう。
御願 ごがん。貴人の祈願・立願を敬意をこめていう語。御祈願
忝無く かたじけなく。もったいない。恐れ多い。
奉存候 ぞんじそうろう
弥々 いよいよ。その時期がついにやって来たさま。とうとう。その時期が迫っているさま。
可被下候 くださるべくそうろう。くださるようお願いします。
為其 そのため
如斯 かくのごとく
保し ほし。「保する」は「たもつ。守る。保証する」
守袋 まもりぶくろ。守り札を入れて身につけておく袋。おまもり。

 こういう珍妙な事件を、川柳子が見逃そうはずはなく、いろいろにうたわれている。
   その首を寺から貰ふごうさらし      (五〇・41)
   ぼだひ所へからだと首が二度に来ル    (天二松2二77)
   首と胴万昌院へ二度に来る        (五〇・35)
   その首の請取状がたからもの       (明二桜2)
   首壱請取申什物            (傍五・18)
 ところがこの万昌院という寺は、大正十年に、当時芝三田功運町にあった同じく曹洞宗の功運寺と合併し、中野区上高田4-14-1へ移転した。昭和通りを西へ、環状六号線を横切り、右側、正見寺と派出所との間を右へ坂を下り、やや上りになった辺り、右側落合火葬場の裏手に当り、この辺りは寺が多い。
 本堂裏の墓地に、吉良家の一画があり、同じような形をした石塔が四基あり、その右端が上野介のであって、碑面には四行に
  元禄十五年十二月十五日
  霊性寺殿実山相公大居士
  従四位上左近衛少将吉良
  前上野介源義央朝臣
と刻まれている。
 なお50篇に忠臣蔵関係の句が多いのは、「角力十結満会忠臣蔵一式題 文日堂評」というのがあり、240句ばかり拾録されているからである。また95篇に多いのも「天川屋儀平追善の会 仮名手本忠臣蔵一題 附・弐度目の清書追会」として、500句ばかりが載せられているためである。

ごうさらし 業晒し、業曝し。前世の悪業の報いによって受けた恥を世間にさらすこと。
ぼだい所 菩提所。煩悩ぼんのうを断ち切って悟りの境地に達する所。死後の冥福めいふく
請取状 うけとりじょう。中世以降、ものの受領の証拠として差し出す文書。
 不明ですが、多分「そうろう」でしょう。岡田甫校正の「俳風柳多留」(三省堂、昭和51年)では「連語体ではないが、の文字は残した」と書いてあります。「連語」とは「二つ以上の単語が連結して、一つの単語と似たような働きをもつもの」だそうです。まずhttp://mojizo.nabunken.go.jp/で「くずし字」を調べてみました。作、河、酒、駿、比、斗、北などがでてきます。どうも違うようです。そこでを使った状況を調べ直しました。
べくのさみせんを見せで彈  (二三・40)
○今心も乱れ須田の土手     (四三・15)
○居能嶋がらと馬にでる      (四三・30)
○居ちとはたらく目が廻り    (四四・31)
○入聟ほどあつかわれ      (四七・30)
また「三七・19」には「居一題」として45句が載っています。たとえば
○居花より團子うちながめ      -秀
○居寢所で杖を尋ねてる       琴我
○口がるで尻のおもたひ居      志丸

これから「居」は5文字で、おそらく「いそうろう」「居候」でしょう。「居候」とは「縁者でも雇用人でもなく、他人の家で生活する同居人。雑用をしながら食事と勉学をする食客」です。また「」は「そうろう」か「コウ」であり、「申」は「申候」で、「まをしさふらふ」「もうしそうろう」「もうしそろ」になります。くずし字でも右図のようにありました
什物 じゅうもつ。日常使用する道具類。什器。寺院の所有する種々の器財。資財。
拾録 しゅうろく。集めて記録する。
追善 ついぜん。死者の苦を除き冥福を祈るため、法会などの善事を行うこと。

川柳江戸名所図会④|至文堂

文学と神楽坂

 善国寺の川柳についてです。

鎮護山善国寺

さてまたもとへ戻って、濠端から神楽坂を上り切った辺り、左側、古くは肴町、今は神楽坂五丁目という所にがある。
 そもそもは馬喰町にあり、寛文十年、麹町六丁目横町、御厩谷という所へ移った。そこでその谷を善国寺谷というように成る。
     谷の名に寺名末世置みやげ      (六六・36
いうような句のできるわけは、さらに「武江年表」寛政五年の項に「麹町善国寺去年火除のため地を召上げられ、神楽坂に代地を給はりけるが、今年二月普請成就して、二十七日毘沙門天遷座あり」と記されているようにまた移転したのである。
     あら高くなる谷から坂の上      (六六・31)
     三度目面白い地へ御鎮座       (六六・30)
     所かへてんてこまふかぐら坂     (八一・3)
 本尊毘沙門天は加藤清正守護仏であったとも伝え、尊仰篤く、芝金杉の正伝寺品川の連長寺と共に知られた。
     むりな願ひも金杉と神楽坂       (六六・29)

 日蓮宗鎮護山善国寺です。
馬喰町 東京都中央区日本橋馬喰町です。
御厩谷 おんまやだに。御厩谷坂とは千代田区三番町の大妻通りを北から南に下がる坂。
善国寺谷 現在は千代田区下二番町の間より善国寺谷に下る坂。坂上に善国寺があり、新宿通りから北へ向って左側にありました。坂下のあたりを善国寺谷といい、御厩谷とは無関係。
末世  仏教で、末法の世。仏法の衰えた世。のちの世。後世。道義のすたれた世の中。
置き土産 前任者が残した贈り物、業績、負債。
六六・36 この「川柳江戸名所図会」にはどこにも書いてありませんが、江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この本も「誹風柳多留」の句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇をまとめました。これは66篇の句集36です。ちなみにこの作者は「百河」です。
武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永1)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18)から1848年(嘉永1)まで、続編はその翌年から1873年(明治6)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
普請 家を建築したり修理したりすること。多数の僧に呼びかけて堂塔建造などの労役に従事してもらうこと。
遷座 せんざ。神仏や天皇の座を他の場所に移すこと。
あら 驚いたり、意外に思ったり、感動した時などに発する語。
てんてこ 「てんてこ」とは里神楽などの太鼓の音で、その音に合わせた舞
まふ 舞う。音楽などに合わせて手足を動かし、ゆっくり回ったり、かろやかに移動したりする。
加藤清正 かとうきよまさ。安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。
守護仏 守護本尊。守り仏。一生を守り続けている仏。生年の十二支を求め、8体の仏から決定する。
芝金杉の正伝寺 港区芝の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天がある。
品川の連長寺 正しくは蓮長寺。品川区南品川の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天像を祀る。

 縁日の日である。
     ゑん日が千里もひゞく神楽坂      (一五〇・10)
虎は千里行って千里かへる」ということわざをふまえている。
     寅の日におばゞへこ/\善国寺     (六六・30)
「おばゞへこ/\」というのは、当時の流行語であったらしい。ここでは老婆が腰をへなへなと動かす形容である。
 他に句もある。
     おばゞへこ/\の気あるやかましい  (天二満2)
     おばゞへこ/\の気あるでむつかしい  (二〇・26 末四・18)
     おばゞへこ/\がおすきで困り    (一〇三・4)
 これらの句は姑婆がまだ色気があって、聟を困らせるというようなことであろう。
     きざな事おばゞへこ/\罷出る     (傍三・41)
 これは吉原遣り手か。
     寅詣牛へひかれし善国寺        (六六・35)

縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すると御利益があるという。
 十二支の第3番目。寅の日には婚礼などを避けたが、「虎は千里を行って千里を帰る」といい、出戻ることを避けるためだった。時刻では、午前4時の前後2時間を「寅の刻」「寅の時」という。方角は東北東。
ひびく 音が遠くまで達する。ある場所で大きな音や声が発せられて、大きく聞こえる。
虎は千里行って千里かへる 虎が、一日のうちに千里もの距離を行き、さらに戻って来ることができる。活力に満ちた、行動力のあるなどを表す言い回し。
おばば 御祖母。祖母や老年の女性を親しんでいう語
へこへこ 張りがなく、へこんだり、ゆがんだりしやすいさま。頭をしきりに下げるさま。また、へつらうさま。ぺこぺこ。
気ある  興味や関心がある。特に、恋い慕う気持ちがある。
やかましい 音や声が大きすぎて、不快に感じられる。さわがしい。
 もこ。むこ。結婚して妻の家系に入った男性。
姑婆 「こば」? 祖父の姉妹。父方の叔母。
きざな 服装・態度やものの言い方などが気取っていて、いやみだ。
罷出る まかりでる。人前に出る。出てくる。
吉原 江戸幕府が公認した遊廓。浅草寺裏の日本堤で、現在は千束4丁目付近。
遣り手 遊郭で客と遊女との取り持ちや、遊女の監督をする年配の女。
寅詣 とらまいり。寅の日に毘沙門天に参詣すること。

 神楽坂のさらに上、通寺町の右側に多くの寺があり、その一つに龍峯山保善寺というのがあった。ここは山門に「獅子窟」というがかけられていて、世俗獅子寺〉といった。この寺は今は中野区昭和通りに面した所に移っている。
 またその先隣に蒼龍山松源寺という寺があった。俗に〈猿寺〉という。この寺では猿を飼っていた。ある時、住持が江戸川の渡船に乗ろうとした時、猿に引留められて乗船を思い止まり、そのため沈没溺死を免れたという話が伝えられている。この寺も獅子寺と同様中野区昭和通りに移転しており、門前に猿の像を載せた「さる寺」という柱を立てている。
     牛込で獅々猿よりもはやる寅      (六六・35)
 この句はこれらの寺々と善国寺とを獣で比べたのである。
 さて神楽坂や善国寺関係の句が多く六六篇にあるのは、同篇に「牛込神楽坂毘沙門天奉納額面会」が催された時の句、一四八句が載っているからであって、ここにあげた外にも、いろいろあるが省略する。しかし他の篇にはあまりこの寺の句は見当らない。

明治20年「東京実測図」(新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」から)

龍峯山保善寺 盛高山保善寺(赤)。現在は中野区上高田1-31-2に移動。
獅子窟 ししくつ。「窟」はあな、ほらあなの意味。
 書画を枠に入れて室内の壁などに掛けた文句や絵画。その枠。
世俗 せぞく。俗世間。俗世間の人。世の中の風俗・習慣。世のならわし。
獅子寺 三代将軍徳川家光が牛込の酒井家邸を訪問した折り保善寺に立寄り、獅子に似た犬を拝領した。これから「獅子寺」という
蒼龍山松源寺 蒼龍山松源寺(青)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。
猿を飼っていた 佐藤隆三氏や芳賀善次朗氏の「猿寺」を参照。
江戸川 これは利根川の支流です。千葉県北西端の野田市関宿せきやどで分流し、東京湾に注ぐ。
はやる ある一時期に多くの人々に愛好する。流行する。 客。

愛がいない部屋|石田衣良

文学と神楽坂

 石田衣良氏の『愛がいない部屋』(集英社、2005年)です。始めに「おわりに」を紹介します。ここに本を書いた意図が書かれています。

 恋愛短篇集もついに三冊目になりました。
 これまでは二十代、三十代と年齢別に書いてきたけれど、今度はどうしよう。では人生のある時ではなく、場所を限定して書くことにしよう。それなら超高層の集合住宅がおもしろそうだな。東京では百を超えるガラスとコンクリートの塔が空をさしています。今の時代を映す背景としてぴったりだし、一棟のマンションに舞台を圧縮することで、さまざまな対比が鮮やかに描けるかもしれない。
 タワーマンションが建つ街は、以前住んでいた神楽坂にしよう。その名も「メゾン・リベルテ」。自由の家という名のマンションに住む、そう自由ではない人々の暮らしを、これまでよりすこしだけリアルに書いてみよう。この本はそんな気もちで始めた連作集です。

 では、最初の「空を分ける」から

「このマンションは二年まえに竣工しました。計画段階では、地元の住民から超高層への反対運動がありましたが、今では問題なく周辺住民とスムーズにいっています」
 扉が開くとエレベーターの奥は鏡張りだった。防犯対策だろうか。
「どうぞ」
 ボタンを押したまま成美がいった。階数表示がつぎつぎと点滅しながら、操作盤を駆けあがっていく。梨花は息をのんで、耳抜きをした。こんな贅沢なマンションに住めるのも、割安なルームシェアのおかげだ。梨花ひとりではとても手のでる物件ではなかった。建物の案内は続いている。
「当初の計画では地上四十三階建てでしたが、話しあいの結果、地上三十三階となり、公開緑地を多くすることで落ち着きました。最上階は展望室と来客用の宿泊施設などです。ほとんどは分譲ですが、賃貸物件もいくつかあります」
 エレベーターは十九階で停止した。中央の吹き抜けを内廊下が四角くかこんでいた。博人は手すりから顔をのぞかせ、したを見おろしてから、ガラスの屋根を見あげた。梨花も同じようにする。遥か下方に放射状に大理石の組まれた明るいロビーが落ちていた。博人はのんびりという。
「うえを見ても、したを見てもきりがない。なんだか、このマンションだけでひとつの街みたいだ。ぼくたちは中の上くらいのところに住むんだな」
 梨花はうなずいて博人の横顔をそっと見つめた。広告代理店のクリエイターがどんな仕事をするのかよくわからないが、ものをつくる人の細やかな神経を感じさせる横顔だった。廊下の先から成美が声をかけてくる。
「こちらです。どうぞ」
 部屋番号は1917号室だった。梨花は贅沢な共有部分から、ため息のでるような室内を想像していたが、ドアのなかは案外普通のつくりだった。ロビーと同じ大理石は張ってあるが玄関は狹く、まっすぐ奥に延びる廊下も余裕たっぷりというわけではなかった。不動産会社の女は、天井まで届くシューズクローゼットを開けて、配電盤のブレーカーをあげた。先に立って部屋にあがり廊下をすすんでいく。図面に目を落としていった。
「廊下の左右に個室がひとつずつあります。六畳と変形の七畳で、どちらも大容量のクローゼットがついています。全部で六十平米ちょっとの2LDKになります」
 博人と梨花はドアを開けて室内を確かめた。どちらの部屋も窓は吹き抜け側にあいているので、それほど明るくはなかった。天気の悪い日には昼間でも照明が必要だろう。

ルームシェア roomshare。ひとつの住居を他人同士が、共同で借りたり、共有して居住すること
公開緑地 地方公共団体の条例要綱等に基づき、土地所有者と地方公共団体などが契約を結び、緑地を一定期間住民の利用に供するために公開するもの。
クリエイター 創作家、制作者。広告クリエイターとは広告制作でコピーライトやCMプランニングを中心に行う人。
シューズクローゼット Shoe Closet。玄関で靴を入れるための収納箱。下駄箱
クローゼット 衣類を仕舞う洋風の空間。押入れ。
LDK リビングルーム(居間)とダイニング(食堂)とキッチン(台所)

アライバル社の広告から(https://www.arrival-net.co.jp/article/condominium/kagurazaka_einstower/)

 建物のモデルは「神楽坂アインスタワー(Eins Tower)」なのでしょう。これは神楽坂五丁目にあり、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションで、普通の分譲マンションではありません。2018年、67.37㎡の価格は6,180万円。なお、ドイツ語のeinsは「ひとつ、1」。
 東急リバブルの広告では……「タワーマンション特有の共用施設の充実、フロントサービス、24時間有人管理、24時間総合監視システム、オートロック、防犯カメラ、モニター付きインターホンと徹底した安全管理体制が設けられています。室内はバリアフリー、ディスポーザー、カウンター付きシステムキッチン、オートバスなど生活設備も充実しています」

 さて別の章「いばらの城」では

アライバル社の広告から


「なんて名前」
「メゾン・リベルテ神楽坂。ほらもうさっきから見えてるよ」
 茂人は美広の指さす空を見あげた。白く輝く積乱雲を背に、この街には似あわない巨大な超高層ビルが灰色の切り絵のように空を占めている。
「あんなところか。すごく高いんじゃないの」
「部屋によってはそうでもないみたい」
 その物件は神楽坂上の交差点近くに建っていた。周辺の公開緑地もかなりの広さがあリ、ちょっとした公園なみである。エントランスはホテルのように広々としていた。中央が巨大な吹き抜けになったロビー階には、ファミリーレストランやコンビニ、本屋や花屋まである。休日のせいか オープンカフェの日傘のテーブルはほとんど埋まっていた。一番端の席に、妙に目立つ真紅のストールを巻いた小柄な老女が座って、こちらをじっと見つめていた。

オープンカフェ 道路側の壁を取払ったり店の前に客席を設けたり、開放的な演出を凝らしたカフェやレストラン。
ストール 婦人用の細長い肩掛け

 残念ながら、神楽坂アインスタワーには「ファミリーレストランやコンビニ、本屋や花屋」はありません。 

猿寺|佐藤隆三と芳賀善次朗

文学と神楽坂

 猿寺について佐藤隆三氏と芳賀善次朗氏を取り上げます。最初は佐藤隆三氏で、氏は昭和6年には東京市主事であり、『江戸の口碑と伝説』(郷土研究社、昭和6年)という本を書いています。ちなみに口碑こうひとは、古くからの言い伝えや伝説のことです。
 元禄の頃、住職の徳山和尚が渡船に乗ろうとすると猿が現れ、自分の裾を取り、また他の主人との話もあり、乗船できませんでした。しかし、目の前で、この渡船は沈没してしまいます。猿のおかげで難を免れたという話です。

     猿寺
 東中野桐ヶ谷の大通りに、猿寺といふがある。本名は松源寺であるが、山門の前に「さる寺」と刻付け猿の附いた大きな石標が建てゝある。この寺はもと牛込通寺町にあつたが、明治三十九年に此處に移轉したものだ。
 元祿の頃、この寺に徳山と云ふ有德の和尚が居つた。時々境内に猿がやつて來て惡戯をするので、和尚も困つてゐたが、別に人畜に害を加ふる譯でもないからその儘にして置いた。或日和尚の留守の時に、小僧と仲間ちうげんが面白半分に、猿を本堂に追ひ込んで生捕りにし、繩で縛つて置いた。そこへ淺草橋場の檀家の者がお詣りに來て、何程かの鳥目を小僧と仲間に與へて、猿を貰つて行つた。和尚はその後境内に猿の出なくなつたことを氣にも留めなかつた。
 翌年の春、花の咲く頃、和尚は向島の檀家に招かれ、小僧を連れて、竹屋渡場迄やつて行くと、花見の連中がワイ/\騒ぎながら渡舟を待ってゐる。和尚も舟に乗らうと岸に立つてゐると後より法衣の裾を引張るものがある。振り向いて見ると一匹の猿であつた。變な猿だと思つてゐる所へ、猿に逃げられたと云って駈けつけて來たのが、橋場の檀家武藏屋の主人であつた。この猿は松源寺の境内にゐた猿だと聞いて、懐かしげに思ひ、武藏屋の主人と話をしてゐるうちに、舟は多くの人を乘せて出て終つた。仕方なしにモー一舟待つてゐると、その舟は餘り多くの人が乘つたものだから、川の中程で引繰り返り、泣くやら叫ぶやら大騒ぎとなつた。無論助け舟も出たことであるが、溺死する者も尠くはなかつた。和尚と小僧は猿のお蔭で、命拾ひをしたことを喜んだ。歸りがけに武藏屋に立寄って譯を話して、その猿を貰ひ受け、寺で大事に飼ふことにした。
 五代將軍綱吉公、鷹狩の歸途この寺に立寄られた時、猿にお目がとり、和尚よりこの話を聞いていたく感心せられ、その後綱吉公より雲慶の作と稱する、猿を彫刻した扁額を賜はつたので早速その額を本堂にかゝげた。それ以来猿寺と人が呼ぶ様になつたと云ふ。

 蒼龍山松源寺(左側の青い多角形)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。
刻付け きざみつけ。材料や表面を刻む、切る、刻み込む
山門 寺院の門。寺院。寺院は元来、山中に建てられたため
石標 ある事を記念し、後世に伝えるために記しておく石。石碑。目印の石。道標に立てた石。
牛込通寺町 現在は神楽坂六丁目21番地。
元禄 1688年~1704年。江戸幕府将軍は5代目の徳川綱吉つなよし
有德 うとく。ゆうとく。徳行のすぐれていること。
仲間 ちゅうげん。中間。武家の奉公人で、城門の警固や行列の供回りなどに使った。
檀家 だんか。だんけ。寺院に属し布施する家か信者
浅草橋 東京都台東区浅草橋。秋葉原の東に位置する。
鳥目 ちょうもく。銭や金銭の異称。江戸時代の銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたから。
境内 神社・寺院の敷地内
向島 むかいしま。東京都墨田区の隅田川東岸の旧区名。中小工場・住宅・商店が密集し、墨堤の桜や百花園の月見で有名だった。
竹屋の渡し 現在の言問橋のやや上流の山谷堀から、向島三囲みめぐり神社(墨田区向島二丁目)を結んでいた。
橋場 現在の白鬚橋付近。隅田川の渡しとしては最も古い。白鬚橋が完成し、渡しは廃止された。
尠く 「少なく」と同じ
雲慶 平安時代末期から鎌倉時代初期に活動した仏師。
稱する 称する。となえる。呼ぶ。
扁額 へんがく。門戸や室内などに掲げる横に長い額。横額

 次は芳賀善次朗氏の『新宿と伝説』(東京都新宿区教育委員会、昭和44年)の「恩返しをしたサル」です。氏については新宿区戸塚第一小学校の校長であり、新宿区の伝説や伝承をまとめています。

九 恩返しをしたサル
  場 所 神楽坂六丁目21番地
  時 代 江戸時代 元禄(1688―1703)のころ
 ここに松源寺という寺があり、徳山という高僧がいた。時々境内にサルがやってきていたずらをするので、和尚は困っていたが、別に人畜に危害を加えるわけではないので、そのままにしておいた。
 ある目、和尚の留守の時に、小僧と仲間がおもしろ半分にサルを本堂に追い込んで、生けどりにし、なわでしばった。和尚はかわいそうだから放してやれといっているところへ、浅草橋場のだん家の者がお参りにきた。その人はいくらかの金を小僧と仲間に与え、その猿をもらい受けていった。
 翌年の春の花時、和尚は向島のだん家に招かれ、小僧をつれて竹屋の渡し場までやってくると、花見の連中が大勢ワイワイ騒ぎながら渡し舟を待っていた。
 和尚も舟に乗ろうと岸に立っていると、後から衣のすそを引っ張るものがいた。振り向いて見ると、一匹のサルであった。変なサルだと思っていると、そこヘサルに逃げられたといって駆けてくる人がいた。みれば橋場のだん家武蔵屋の主人であった。
 武蔵屋の主人が、「このサルは松源寺からもらってきたものだ」と話しているうちに、舟は出てしまった。和尚はしかたなしに、つぎの舟を待っていた。ところが舟はあまり多くの人を乗せたため、川の中ほどでひっくり返り大騒ぎとなった。すぐさま助け舟は出たもののでき死者まで出る始末であった。
 サルのおかけで、結局和尚と小僧は命拾いをしたのである。帰りがけに和尚は喜んで、武蔵屋に立ちより、そのサルをもらい受け、大事に飼うことになった。
 五代将軍綱吉公は、鷹狩りの帰りに、この寺に立ち寄られ、和尚から恩返しをしたサルの話を聞いて、いたく感心されたということである。その後、綱吉公から雲慶の作と称するサルを彫刻したへん額を賜った。それ以来、この寺を土地の人々がサル寺と呼ぶようになった。
  出 典 ○江戸の口碑と伝説 佐藤隆三著 昭和6年10月 郷土研究社発行
  解 説 松源寺は、明治末年、道路拡張のため、中野区上高田一丁目に移転した。

川柳江戸名所図会③|至文堂

文学と神楽坂

 次は「江戸川」です。「神田川」は、東京都の井の頭池を泉源にして、中心部をほぼ東西に流れて隅田川に注ぐ川ですが、そのうち中流部、つまり、関口大洗おおあらいぜきからスタートし、外堀と合流するふな河原かわら橋の川までを「江戸川」と呼んでいました。ちなみに当時の上流部は神田上水、下流部は神田川と呼んでいました。1965年(昭和40年)、河川法が改正され、神田上水、江戸川、神田川3つをあわせて「神田川」と呼ぶようになりました。

江 戸 川

ここで江戸川をさかのぼってみる事にする。井の頭に発する上水が、関口で分れ、一方は神田上水としてやや上を流れて、後楽園を過ぎ、神田川水道橋の所でで渡って神田に入るが、他方は落ちてこの江戸川となり、東へ流れ、大曲と称する辺から南流して、お濠へ合流して神田川となる。
 橋は関口橋江戸川橋華水橋掃部橋古川橋石切橋大橋ともいう)・中の橋、曲ってから隆慶橋とんど橋である。
 中の橋の辺りは、白鳥が池といったという。後に、大曲のところにかけられた橋を白鳥橋というのはその故であろう。

江戸川 ここでは神田川中流のこと。神田上水の余水を文京区関口台の江戸川橋付近で受け、飯田橋付近で外堀の水を併せて神田川となる。現在、神田上水、江戸川、神田川はすべて神田川になる。
井の頭 いのかしら。東京都武蔵野市と三鷹市にまたがる地区。中央に武蔵野最大の湧水池である井の頭池がある。神田川の源流。
上水 飲料などで管や溝を通して供給する水。水道水。汚物の除去や殺菌が行われている。
関口 文京区西部の目白台と神田川にまたがる地域。地名の起源は、江戸最初の上水道、神田上水の取入口、大洗おおあらいぜきがあったため。
神田上水 江戸初期、徳川家康が開削した日本最古の上水道。上図を。現在は廃止。
後楽園 文京区にある旧水戸藩江戸上屋敷の庭園。中心に池を設け、その周囲を巡りながら観賞する。上図を。
神田川 東京都の中心部をほぼ東西に流れて隅田川に注ぐ川。昔は上流部を神田上水、中流部を江戸川、下流部を神田川といった。
水道橋 千代田と文京両区境の神田川にかかる橋。地名は江戸時代に神田上水からの導水管を渡す橋があったため。
 とい。水を送り流すため、竹・木などで作った溝や管。神田上水の水道橋では上空をわたす管、掛樋かけひがありました。
神田に入る 神田上水は小石川後楽園を超えると、水道橋駅の先の懸樋(上図の右下を参照)で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水する。
大曲 おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。橋は白鳥橋と呼ぶ。

延宝7年(1679年)「江戸大絵図」

関口橋 関口の由来には、奥州街道の関所とする説と神田上水の大洗ぜきとする二説がある。せきとは「河川の開水路を横断し流水の上を越流させる工作物」。
江戸川橋 「江戸川」とはかつて神田川中流部分(大滝橋付近から船河原橋までの約2.1km)の名称。江戸川橋は中流域で最初の橋梁
華水橋 はなみずばし。江戸川の桜並木と関係があるのか、わかりません。
掃部橋 かもんばし。江戸時代、橋のそばに吉岡掃部という紺屋があったことから。
古川橋 昔、神田川は古川ふるかわと称した時期があり、橋の南詰側には昭和42年まで西古川町、東古川町の地名があった。
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」
大橋 おおはし。石切橋のこと。
中の橋 中ノ橋。なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
とんど橋 現在は船河原ふなかわらばし。船河原とは揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原から。船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちる水音がして、ほかに「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていた。
白鳥が池 大曲から飯田橋に至る少し手前まで、大昔には「白鳥池」という大きな池があったようですが、延宝7年(1679年)の「増補江戸大絵図絵入」(上図参照)ではもうありません。
白鳥橋 しらとりばし。湿地帯で、神田川の大きな池があったという。

 さて、この川には紫色を帯びた大きな鯉が多くいて美味であったところから、幕府御用として漁獲禁断の場〈お留川〉となっていた。
    鯉までも紫に成江戸の水        (明三信1)
    お上りの鯉紫の水に住み         (三七・25)
 江戸は紫染のよいところであった。
    こくせうになぞとほしがる御留川     (二七・28)
 こくせうは〈濃汁(こくしょう)〉、鯉を濃い味噌汁でよく煮たもの、いま〈鯉こく〉という。
    奪人の無いむらさきの御留川      (一三五・33)
    紫を人の奪ぬ御留川          (六〇・2)
論語に「子日、紫之奪朱也。」とあり、意味は間色が正色を乱すことであるという。その語を借りたしゃれである。

 紫色を帯びた大きな鯉が多かったというおそらく事実は、岡本綺堂氏が小説「むらさき鯉」でも書いています。

お留川 おとめかわ。御留川。河川や湖沼で、領主の漁場として一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
紫染 紫根染。しこんぞめ。ムラサキ(紫)の根から抽出した染料を使った染色。灰汁を媒染とする。
こくせう 濃漿。こくしょう。魚や野菜などを煮込んだ濃い味噌汁。鯉こくなど。
鯉こく こいこく。鯉濃。鯉を筒切りにして、味噌汁で時間をかけて煮込んだ料理。「鯉の濃漿」から
奪人 人から奪う、獲得するなどの意味。
論語 孔子の書とされる儒教の経典。四書五経の一つ。20編からなる。
悪紫之奪朱也 紫の朱を奪うをにくむ。朱が正色なのに、今では間色の紫が朱に代って用いられることがあるが、これには警戒したい。「奪」は地位を奪う、取って代わる、圧倒する。

    江戸川小松川鶴の御場      (一一二・34)
 葛飾の小松川は幕府の鶴の猟場であった。
    車胤王祥江戸川の名所なり      (一ニー・21)
 鯉のほか、螢も名物であった。昔、支那の晋の車胤という者、家が貧しくて油が買えず、螢を集めて本を読んだという故事は、「螢の光」という歌で知られている。
 王祥は、二十四孝の一人で、冬に継母が鯉が食べたいというので、川の氷の上に寝ころんでいると、氷がとけて鯉が躍り出、捕えて母に供したという話がある。
 螢について「絵本風俗往来」には「螢の名所は、落合姿見橋の辺・王子谷中螢沢目白下江戸川のほとり……」とある。姿見橋や、目白下はこの川のすぐ上流であるから、この川一帯にも見られたのであろう。
 橋の内、石切橋のしも、大曲のかみにかかる橋が〈中の橋〉である。この辺りを〈鯉ヶ崎〉とも言った。
    中の橋一本ほしひと言所         (明二仁5)
    むらさきの鯉濁らぬ橋の下        (二八・5)
 橋の名は、日本橋・新橋のように、連声で「ばし」と濁音になることが多いが、中の橋は濁らず清んで訓むということと、濁らぬ水ということもかけているのであろう。

小松川 東京府南葛飾郡小松川村は「つる御成おなり」と呼ぶ鶴の猟場でした。
御場 普通は「御場」は幕府の御鷹場おたかばのこと。鷹場は鷹狩りを行う場所。
猟場 りょうば。狩りをするのに適している場所。かりば
車胤 しゃいん(不明~400)。中国東晋の官吏、学者、政治家。灯油を買うことができず、蛍の光で勉強した話で有名。
王祥 おうしょう(185~269)。継母にも孝行を尽くし、生魚を食べたいというので、真冬に凍った池に行き、服を脱ぎ氷の上に横になった。氷が溶けて割れ、大きな鯉が二匹躍り出た。王祥は捕まえて継母に捧げ、継母も王祥をかわいがったという。
故事 昔あった事柄。古い事。昔から伝わってきている、いわれのある事柄。古くからの由緒のあること。
二十四孝 にじゅうしこう。中国古来の代表的な親孝行の24人。虞舜、漢の文帝、曽参・閔損・仲由・董永・剡子・江革・陸績・唐夫人・呉猛・王祥・郭巨・楊香・朱寿昌・庾黔婁・老萊子・蔡順・黄香・姜詩・王褒・丁蘭・孟宗・黄庭堅。
絵本風俗往来 正しくは「江戸府内 絵本風俗往来」。明治38年、江戸の好事家が江戸の町の移り変わりや町家・武家の行事のさまざまを300枚以上の大判挿絵を添えて描いた本。蛍については「中編巻之参」5月で出ています。
姿見橋 おちあいすがたみばし。姿見の橋と面影橋は別々の橋なのか、同じ橋なのか、私には不明です、新宿区がだした「俤の橋・姿見の橋」を参考までに。
王子 東京都北区中部の地名。桜で有名な飛鳥あすか山公園がある。
谷中螢沢 やなかほたるさわ。近くの宗林寺周辺は江戸時代には蛍の名所「蛍沢」がありました。
目白下江戸川 めじろしたえどがわ。目白台下にある江戸川(神田川)に大洗堰があり、また桜で有名でした。
鯉ヶ崎 「江戸志」では「此川に生ずる鯉は世の常の魚とことにして、味ひははなはだ美なり、されどみだりに取ことを禁ぜらる、此川の内中の橋の邉を鯉か崎といへりといふ」と書いています。
むらさきの鯉 紫色を帯びた鯉が多かったため。

川柳江戸名所図会⑤|至文堂

文学と神楽坂

「藁店」と書いてありますが、由井正雪のことが中心です。由井正雪は榎町に軍学塾「張孔堂」を開き、門弟は一時4000人以上でした。由井正雪は藁店にも住んだことがあるようです。

藁   店

牛込に榎町という町がある。
  本郷春木うしこみ夏木なり (三二・42)
 本郷に春木町というところがあるのに対比させた句である。牛込を昔は<うしこみ>ともよんだ。
 この榎町に由井正雪張孔堂という邸宅を構え、門弟四千人を擁していたという。
   うし込のがつそうきものふといやつ    (天二・三・二七)
 この句、一七・39には「うしこみの」となっている。がっそうとは、総髪、なでつけ髪で、正雪の風采を語っている。ッ
   牛込先生とんだ事をたくらみ       (傍三・33)
 神楽坂を上り、善国寺を通り越してすぐの左への横丁を袋町という。もと行き止まりになっていたからだという。またこの辺りに藁を扱う店があったので〈藁店〉ともいう。
   わらだなでよベ逃げてくなまこうり   (五七・29)
 藁でなまこをくくると溶けるという俗信による句である。もっとも藁店というのは他にもあって、たとえば筋違橋北詰の横丁も藁店という。それはここで米相場が立っていたからだという

静岡市菩提樹院の由比正雪像

榎町 えのきちょう。新宿区の北東部にある。
春木 現在は本郷3丁目の大部分。
由井正雪 ゆいしょうせつ。江戸初期の兵法家。軍学塾「張孔堂」を開き、クーデターを画策。出生は1605年。享年は1651年。
張孔堂 楠木流軍学の教授所、軍学塾「張孔堂ちょうこうどう」を。塾名は、中国の名軍師2人、張子房と諸葛孔明に由来する。この道場は評判となり一時は3000人もの門下生を抱えたという。諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた。
邸宅 場所は牛込榎町の広大な道場でした。しかし、事件の6年後に生まれた新井あらい白石はくせきは、正雪の弟子から聞いた話として、正雪の道場は神田連雀れんじゃく町の五間いつまの裏店であったと書いています。
がっそう 兀僧。江戸時代の男の髪形。成人男子は前額部から頭上にかけて髪をそり上げた(月代さかやきを剃らした)が、剃らず、のばした髪を頭上で束ねたもの。
きものふとい 肝の太い。物に動じない。大胆である。
とんだ事 幕府転覆を企てたこと。事前に発覚し、由井正雪は自刃した。これが慶安事件です。
袋町 現在の袋町は大きい(右図の紫の場所)のですが、江戸時代では小さい場所(藁店の一部で赤の場所)でした。
藁店 わらだな。藁を売る店。店を「たな」と呼ぶ場合は「見せ棚」の略で、商品を陳列しておく場所や商店のこと。
なまこうり 海鼠売り。ナマコを売る人。季語は冬

 さて、正雪が藁店に住んだとも考えられていたようで、
   御弓丁からわら店へ度々かよひ      (天三松2)
 御弓丁は、後の本郷弓町で、丸橋忠弥の住んでいた所である。
   藁店は今も雲気を見る所         (桜・12)
 この句は今と昔とを対比させているわけであるが、今の方は、幕府の天文台のことで、はじめ神田佐久間町にあったものを、明和二年、吉田四郎三郎によって、この藁店へ移した。しかし西南方の遠望に障りがあるというので。その子の吉田靱負の時、天明二年に浅草堀田原へ引越した。此句は明和四年であるから此句の作られた時はまだ藁店にあった。
 もう一方、昔の方は、正雪のことで、慶安四年四月二十日の晩、道灌山に同志と集って手筈を定めたが、丸橋忠弥の軽率から露見し、忠弥は二十四日召捕られた。正雪は駿府にいたが、26日早朝、旅館梅屋方を立出て、東の方の空を仰いで天文を占ったところ、陰謀の露見を知り、自決したという。
 この句の作者は、正雪が牛込にいて雲気を見たと誤解して、昔、正雪が雲気を見、今は天文台で雲気を見ると対比させたわけである。

藁店に住んだ 昭和43年、新宿区教育委員会の『新宿の伝説と口碑』13.「由比正雪の抜け穴」では「神田連雀町(今淡路町)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいたくすのき不伝ふでんの道場をまかせられて、光照寺のところに移ってきた」と書いてあります。
御弓丁 おゆみちょう。明治時代は弓町。現在は 東京都文京区本郷2丁目の1部です。
丸橋忠弥 まるばしちゅうや。宝蔵院流槍術の達人。江戸時代前期、慶安4 (1651) 年、由井正雪らとともに江戸幕府倒壊を計画したが、事前に発覚。町奉行に逮捕され、品川で磔刑に処した。
雲気 うんき。空中に立ち上る異様の気。昔、天文家や兵術家が天候・吉凶などを判断する根拠にした。
吉田四郎三郎 1703-1787年、江戸時代中期の暦算家。明和元年、幕府天文方となり、宝暦暦の修正案をまとめた。佐々木文次郎の名で知られたが、晩年吉田四郎三郎に改名。
吉田靱負 吉田四郎三郎の子
浅草堀田原 現在は台東区蔵前の「国際通り」の「寿3丁目」交差点から「蔵前小学校」交差点までの地域です。
道灌山 どうかんやま。荒川区西日暮里付近の高台。そばに開成中学校・高等学校がある。
駿府 現在の静岡県静岡市。

 しかし駿府にいたという句もあって
   悪人するがと江戸でおつとらへ     (安八松4)
   ふとひやつするがと江戸でとらへられ   (安六松3)
   ふてゑ奴ッ江戸と駿河でとらへられ    (筥初・37)
   十能に達し久能で雪消へ        (一三四・3)
   不屈な雪駿州へ来て消る         (五四・33)
と言っている。また正雪が天文に達していたことについては、
   正雪にわか雨にあわぬなり      (安六義5)
という句もある。また、朝食の膳に向い、飯の上に立つ湯気によって露見を悟ったともいうので、
   冷飯を喰ふと正雪知れぬとこ       (五九・29)
   大望もすへる駿河の飯の湯気       (一四八・3)
 飯の饐えるにかけて言っている。

十能 じゅうのう。点火している炭火を運んだり,かき落したりする道具
久能 くのう。久能村で、静岡県の中部にある。
不屈 どんな困難にぶつかっても、意志を貫くこと。
すえる。饐える すえる。飲食物が腐ってすっぱくなる。

川柳江戸名所図会②|至文堂

文学と神楽坂

 つづいて軽子坂、船河原、とんど橋、猪牙ちょき舟を取り上げます。

軽 子 坂

江戸川合流してくる少し手前、左側を揚場町という。船着場で荷揚げをしたからである。この辺りから濠に直角に上る坂を軽子坂という。軽子は荷揚げの人足、軽籠あしかもっこ)で荷を運ぶ人夫のことである。それらの住居があったので坂の名となったという。
 今は飯田橋から新宿へ行く都電に大体平行になっている。
   楽になるまでお杖にかるこ坂     (一一三・34)
   忠義に重き士の住む軽子坂      (一〇三・17)
 これらの句は、この坂の左側に、大久保彦左衛門の邸があったのでそれを言ったものであろう。

船 河 原

船河原というのは、いま揚場町と言っている所で、国電飯田橋駅の濠を隔てた向う側である。
 昔はこの辺も河原のようになっていて、船が着いたものであろう。
   舟河原今家並さん瓦         (六六・37)
 昔は船河原と言ったが、今は人家が建てこめて、しかも瓦としては上等の桟瓦が使われているというので、荷揚げ等で繁昌し、住民の懐も楽になって行ったことを物語るのであろう。

 ごう。城を取り囲む、水のある堀。ほり。飯田橋~四谷の牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠は神田川に通じている。
江戸川 三鷹市の井の頭池を水源として、東京都の中央部を東西に流れて両国橋上手で隅田川に合流する川。上流部を神田上水、中流部を江戸川、下流部を神田川と呼んでいたが、1965年、河川法改正で全体を神田川と総称することになった。
合流 江戸川(神田川)と外堀が合流する。
揚場町、軽子坂 右の地図を参照。
軽籠 「軽籠」で「かるこ」と読みます。縄で編んだ目の粗い網の四隅に、棒を通す縄をつけた、土石運搬用の道具。もっこ。
あしか 不明。
お杖 つえであれば、杖を敬っていう語。「楽になるまでは、杖を頼って軽子坂を上ろう」でしょうか?
大久保彦左衛門  戦国時代から江戸時代前期の武将。幕臣。家康・秀忠・家光の三代に仕える。天下のご意見番。その子孫が神楽坂に住んでいたのでしょうか? 右図を参照。
家並み 家が続いて並んでいること。
船河原 揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原の意。
河原 川の流れに沿う平地で、ふだんは水の流れていない、石や砂の多い所
さん瓦 桟瓦。さんがわら。断面が波形で,一隅または二隅に切り込みのある瓦。

とんど橋

江戸川が、濠に入る所にかかる橋で、今は大久保通りを飯田橋から水道橋へ向う都電の渡る橋である。
 仙台侯が、お茶の水の堀割りをした時、かけたものといい、仙台橋という名もあったという。橋の下に水堰の捨石があって、水音が高いので、とんど橋という。また船河原橋ともいう。
   神楽坂付て廻ッてとんど橋       (一三五・31)
   おもしろし岩戸神楽にとんど橋     (重 出)
 さてこの第一句は、少し意味が分りにくいが、橋が神楽坂の直下にある訳ではないということと、神楽とその太鼓の音とを結んだものであろう。
 第二句は、神楽坂の坂上に岩戸町というのがあるところから、つらねて天鈿女命の天の岩戸の神楽とし、さきの句と同じく、太鼓の音との結びであろう。

牛込の猪牙

柳橋からの猪牙舟は、大川へ出て、上流へ山谷堀へ行くか、下って深川へ行くのが普通であるが、稀には、神田川をさかのぼって行ったものもあるらしく、次のような句がある。
   牛込へこいでくちよきのやぼらしさ   (天七・一〇・一五)
   牛込に悪所くるひを知らぬ猪牙    (一六七・25)
   牛込の舟蒲焼を不断かぎ        (五二・9)
 この最後の句は、猪牙に限らない、運び船でもあり得るが、水道橋のところに、うなぎやがあったという。そこを通る度に鰻香がただようのであろう。
   水戸ばし御びくにうなぎ丸でかい    (天三鶴1)
という句もある。

とんど橋 船河原橋のこと。江戸川落とし口にかかる橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。
仙台侯 「仙台藩主」のこと。しかし封地名に「侯」をつけるほうが多かった。例えば「仙台侯」など。
堀割り 地面を掘ってつくった水路。濠
つらねて 列になるように位置させる。一列に並べ、または、つなぐ。
天鈿女命 あまのうずめのみこと。記紀神話の女神。天照大神あまてらすおおみかみが天の岩屋に隠れた時、その前で踊った。
猪牙 「猪牙ちょきぶね」から。江戸時代、屋根のない舳先へさきのとがった細長い形の小舟。
大川 東京都を流れる隅田川の下流部における通称。
山谷堀 さんやぼり。隅田川の今戸から山谷に至る掘割。吉原の遊郭への水路として利用。現在は埋め立てされ「山谷堀公園」になった(左図を参照)。
深川 東京都江東区の町名。
ちよき 「猪牙」のこと
くるひ 「狂い」では物事の状態・調子が正常でないこと。悪所狂い(あくしょぐるい)とは、遊里に入りびたって酒色にふけること
不断 とだえないで続く。決断力に乏しい。「普段」と当てて、日常、平生へいぜい、いつも。
かぎ 「嗅ぎ」でしょう。鼻でにおいを感じとること。「牛込の舟は蒲焼の匂いをいつも嗅いでいる」
水戸ばし 東京都葛飾区小菅一丁目、綾瀬川に架かる橋(右上図を参照)
御びく 魚籠びく。とった魚を入れておく器。
丸でかい 完全で、欠けたところのないこと。まるごと。江戸の吉原遊郭で、遊女の揚代が倍額になる日

川柳江戸名所図会①|至文堂

文学と神楽坂

 実は川柳を調べる場合、どうやって調べればいいのか、わかりませんでした。例えば新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(平成9年、1997年)に、みずのまさを氏が書いた「切絵図と川柳から見た江戸時代の神楽坂とその周辺」があります。たくさんの川柳が出ていますが、いったいどこで調べたのでしょう。
 ようやくわかりました。まず「切絵図と川柳…」の出典は「川柳江戸名所図会」(至文堂、昭和47年、新宿区は比企蟬人氏がまとめ)でした。また川柳の原典は当然ながら江戸時代の「誹風はいふうやなぎ多留だる」167篇11万句です。では、最初に「川柳江戸名所図会」から「神楽坂」を取り上げます。
 しかし、みずのまさを氏の「切絵図と川柳…」について、この文献は「川柳江戸名所図会」を使ったものだとはっきりと書いてはいません。まったく。

神 楽 坂

牛込御門から濠を渡り、真直ぐに上りになる坂である。神楽坂という名については、いろいろと説があるようであるが、ここでは省略する。坂の上に岩戸町という名の町がある。
   神楽坂上に岩戸面白し         (四六・12
   神楽坂あるで近所に岩戸丁        (三四・28)
   おもしろし岩戸神楽にとんど橋      (六六・36)
   御百度で岩戸もねれる神楽坂       (六六・31)
 善国寺のお百度、岩戸は女陰をさす。
   岩戸町せなァ戸隠様だんべへ       (六六・31)
 信州から来た下男。
   諸国迄音にきこへた神楽坂        (六六・32)
   御やしろのあたりにかなう神楽坂     (安七智2)
   神楽坂ひどくころんで        (一四七・8)
 お神楽の面にたとえる。
   あふげ神垣近き神楽坂         (六六・34)

岩戸町 神楽坂上から西南にある町(右図)。あまの岩戸いわととは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟で、太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの伝説の舞台である。
四六・12 これは46篇12丁の意味です。江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この「川柳江戸名所図会」も「誹風柳多留」から取った句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇11万句をまとめました。
とんど橋 船河原橋のこと。江戸川落とし口にかかる橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。
御百度 願い事がかなうように社寺に100回お参りをする。お百度を上げる。
ねれる 寝ることができる。
だんべへ 「だろう」の意の近世東国語。だんべい。だんべえ。
やしろ  社。神をまつってある建物。神社。屋代やしろ。神が来臨する仮設の小屋や祭壇など
かなう 願望が実現する。叶う。適う。敵う
替り面 かわりめん。顔つきが以前と変わること
あふげ 「あふぐ」で、仰ぎ見る。尊敬する。
神垣 かみがき。神域を他と区別するための垣。神社の周囲の垣。玉垣たまがき瑞垣みずがき斎垣いがき

「切絵図と川柳から見た江戸時代の神楽坂とその周辺」では神楽坂という由来についていろいろ書き、それから川柳になります。「川柳江戸名所図会」で出た川柳がすべて出てきます。

 ○あふげ此神垣近き神楽坂
 ○御やしろのあたりにかなふ神楽坂
 この2句は前記の御やしろに囲まれた神楽坂をうたったものです。
 ○神楽坂ひどくころんで替わり面
 転ぶほど急坂であったこと、お神楽のヒョットコ面が想像されます。
 ○諸国迄音にきこへた神楽坂
 無論、音は神楽にかけたのでしょうが、それにしても、音から神楽坂は有名だったのですねえ!

 また岩戸町については、項を改め、

 善国寺も岩戸町内にあり、現神楽坂通りの眞中に岩戸町1丁目があります。現岩戸町(大久保通り東側)は明和4年(1767)から火除明地になって雑司ヶ谷の百姓の菜園拝借地となっています。(切絵図(3)参照)
○神楽坂上に岩戸は面白し
○神楽坂あるで近所に岩戸丁
○御百度で岩戸もねれる神楽坂
最後の句は善国寺のお百度詣り、岩戸は女陰をさします。