投稿者「yamamogura」のアーカイブ

飯田橋駅(写真)千代田区側 ID 9810 昭和50年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9810は昭和50年頃、飯田橋駅前や牛込橋を外堀通りから撮影したものです。ID 9780も昭和50年頃、同じ画角の遠景です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9810 飯田橋駅前と牛込見附

 また田口重久氏の「歩いて見ました東京の町」05-14-40-1「神楽坂下交差点から牛込見附を」 1975-08-14も、ほぼ同時期の写真です(下図)。

田口重久「歩いて見ました東京の町」05-14-40-1「神楽坂下交差点から牛込見附を」 1975-08-14

 最も手前は外堀通りで、自動車が2台、並走しています。ガードレールの向こうは牛込濠です。柵の角柱の間から水面が光っているようです。

外堀通り。TV。気まぐれ本格派全編(1977年)「水面が光っている」

 濠の向こうに電車が走っていて、水道橋方面の1番線ホームに入線しています。よく見ると行き先幕は「千葉」と読めます。電車の屋根には丸いベンチレーターしかなく、まだ冷房化されていません。
 左端の三角屋根は飯田橋駅西口駅舎で、軒上には「飯田橋駅」の看板があります。その前の牛込橋の自動車は左から右へ走っています。この時期には逆転式一方通行が牛込橋側に延長されていたので、撮影が午前中だったことが分かります。
 下の部分拡大図ではAの電灯は背が高く、主に道路を照らすものでしょう。Bの電灯は背が低く、歩行者を照らし、千代田区のものでしょう。
 2つあるCは渡櫓わたりやぐらでした。Dの建物は日本歯科大学体育館で、Eは日本歯科大学別館でした。

 写真の中央やや左の「林不動産」の看板と、その左右の建物は線路際の土手にあった商店でした。この商店は飯田橋駅の駅舎整備で2010年頃に撤去されました。

1975年 住宅地図 矢印は「林不動産」

飯田橋西口の土手沿いの店舗(2009年 ストリートビュー)

逆転式一方通行の延長・補遺

文学と神楽坂

地元の方からです

 神楽坂通りの逆転式一方通行が、千代田区側に延長された時期について、新たな発見がありました。
 以前の記事では昭和52年(1977)には千代田区側に延長になっていると考察しましたが、その後の写真資料から、さらに時期を絞り込めました。
 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 52と53では、昭和36年(1961)4月、牛込橋側の車道にセンターラインが引かれ、車とバイクが対面で走っています。
 昭和37年(1962)頃のID 55と56もセンターラインがあります。昭和37年3月発行「新宿区15年のあゆみ」の写真も同じです。
 しかし田口重久氏の「歩いて見ました東京の町」の05-14-37-1から-3(昭和42年2月)の写真はセンターラインがなくなり、自動車は牛込橋いっぱいに広がって走っています。
 以上から昭和37年〜42年の間に、牛込橋で逆転式一方通行が実施されたことが分かります。

通行時期ウィキメディア
=東京新聞
朝日新聞渡辺功一氏
歩道(2色、高い縁石)昭和29年
対面通行昭和31年以前
陶器店での交通事故昭和31年。他にも事故が多発
一方通行昭和31年不明不明
逆転式一方通行を発令昭和33年昭和36年
昭和36年5月
不明
逆転式一方通行(神楽坂通り)実施中昭和34年頃(ID 7002ID 31)、昭和35年頃(ID 5510
逆転式一方通行(牛込橋)昭和37年から42年までに実施中
歩行者天国の発令(神楽坂通り)
昭和45年11月15日
歩行者天国の実施中昭和47年秋?(ID13152)昭和48年2月(ID 8805)昭和51年頃(ID 11482
逆転式一方通行の範囲拡大不明昭和54年

飯田橋駅(写真)西口 ID 8267, 8269, 8270, 8286 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8267と8269と8270と8286は「昭和44年頃か」として、飯田橋駅西口周辺を撮影したものです。
 牛込橋の桜は葉が落ちて裸木になっています。ID 8269と8270の歩行者はコートやマフラー姿が目立ち、冬から早春にかけての時期と思われます。ID 8267と8286では建物の窓が何カ所も明いていて、小春日和だったかもれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8267 飯田橋駅舎から見た飯田橋、神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8286 飯田橋駅舎から見た飯田橋、神楽河岸

 ID 8267と8286は飯田橋駅のホームの市ヶ谷側、西口に向かうスロープの下から撮った写真です。正面の橋は牛込橋で、写真説明にある「飯田橋」は写っていません。線路は中央・総武線1番線で、新宿駅方面から御茶ノ水駅方面に乗客を運びます。
 右下は飯田濠ですが、この頃、悪臭に悩んでいて、アオコもありました。また建物については……

AーD 神楽坂警察署跡地の警視庁の施設。第2機動捜査隊や神楽坂下巡査派出所、寮などに使われた。 E 新宿区役所土木課
1 立喰そば? 2 二鶴?
ⅰ 家の光会館 ⅱ 理科大 ⅲ 双葉ビル ⅳ 理科大 ⅴ 田口屋ビル

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8269 飯田橋、飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8270 飯田橋、飯田橋駅

 ID 8269と8270は飯田橋駅西口前から神楽坂下に向け、早稲田通りの牛込橋などを撮ったものです。牛込橋は戦前に架けられたコンクリート橋で、路面は石畳でした。
 街灯は2種類あります。中央やや左の逆円錐形は千代田区のものでしょう。そのすぐ左は新宿区で、神楽坂と同じ大きな円盤形の街灯が2本あり「神楽坂通り」の表示もあります。右側は円盤型カバーが外れているようです。
 千代田区と新宿区の境界付近の電柱には街灯放送用の拡声器がついていて、「神楽坂 ナカノ」の電柱広告があります。
 早稲田通り沿いの警視庁の建物は、牛込橋の土橋の崖下に建っています。建物の右奥には銀鈴会館の屋上広告、さらに揚場町のセントラルコーポラスが見えます。

全住宅案内地図帳 昭和44年 共施設地図株式会社

飯田橋駅(写真)東口 ID 652, 662, 664, 12102, 12103, 12105, 12106 昭和54年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 652、662、664、12102、12103、 12105、12106は昭和54年(1979)3月、日本国有鉄道(国鉄)飯田橋駅東口を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 652 飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12102 飯田橋駅 切符売り場

 ID 652とID 12102は東口構内の写真です。現在は「東口コンコース階」といいます。
 天井の電光パネルは「国鉄きっぷうりば/TICKETS/→」「ご案内/国鉄450円までのきっぷは/自動きっぷうりばでお求めください/520円以上のきっぷは窓口でお求めください」「自動/き(っぷうりば)」「定期券・回数券はこの先を/左に曲って5番窓口(へ)/(お回りください)↑」「450円/220円」
 下部はポスターなどを貼った立て看板が構内を区切っています。「みどりの窓口/駿台電算専門学校」「(こんに)ちは幸せさん」「旅先でこまったら 旅行者援護所/いい旅。/東京YMCA国際ホテル学校」「青梅鉄道公園/経理専門学校4月生募集中 簿記 税理士 公認会計士/東京C.P.A.専門学院」「周遊指定地のご案内/安房白浜・外房海岸/鴨川加入者ホーム/旭簡易保険保養センター/潮来簡易保険保養センター」
 左奥に「禁(煙)/タイ(ム)/朝8:00-9◯/夕17:00-18◯」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12103 飯田橋駅 ガード下

 ID 12103は飯田橋駅ガード下の写真です。ガードの向こうには千代田区飯田橋四丁目の南東部で「きそば」と「中村屋」の看板が見えます。ガード内には駅名板「飯田橋駅/IIDABASHI STATION」があり、右には東口の入り口があり、看板は「UC(C) コーヒ(ー)/空缶は空缶(入れに)/コーヒー」。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 662 飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12105 飯田橋駅前

 ID 664とID 12105は東口の外部を撮ったものです。ホームは高架上にあります。乗客は数人だけで、電車が出た直後でしょう。柱の駅名標は「いいだばし」。
 奥のビル(千代田区)の広告は「漫画 ギャンブルエイト 株式会社コミック社」「写植版下 (282)8231 (株)公栄社」「ダンス 初心者 年配者」「サ〇リ/ダ〇ヤ〇〇シッド」。
 駅入り口に「飯田橋駅 IIDABASHI STATION」、右に「定期券うりば→」。構内はID 652の電光パネルが見えています。
 駅の外には「お食事」「喫茶」があり、これは喫茶店「ニューラ(イオン)」です。
 さらに東部に縦看板があり、「新春謝恩/おつまみ半額(¥250より)/キーボトルオールド¥2350/(5時~7時)/ミスサントリー」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 664 飯田橋駅附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12106 飯田橋駅 ガード下

 ID 664とID 12106では、水道橋方向のプラットホーム先端部を追っています。屋根はなくなりますがホームはまだ続いています。
 ホームの屋根からは吊り下げで「いいだばし」の駅名標と「地下鉄のりば」。ガードの上に「中央線 JNR 飯田橋駅」、ガードの下に「大型最徐行」と (最高速度40キロ)。
 左側には地下鉄の出入口(現在のA1出口)があり、帝都高速度交通営団のSマーク、「地下鉄」と「飯田橋駅」の看板が見え、さらに遠くに「消火栓」のマークがあります。
 なおID 673も同時期の写真です。

地下鉄飯田橋駅(写真)昭和54年 ID 642-43, 12017-18, 12073

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 642と643、ID 12017と12018は昭和54年(1979)2月、ID 12073は3月に地下鉄飯田橋駅を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 642 地下鉄飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12017 地下鉄東西線飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 643 地下鉄飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12018 地下鉄東西線飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12073 飯田橋駅構内出口表示

 1964年(昭和39年)12月23日、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)東西線の飯田橋駅が開業し、1974年(昭和49年)10月30日、営団地下鉄有楽町線の駅が開業しました。飯田橋駅の隣の駅は東西線では九段下と神楽坂、有楽町線は市ケ谷と江戸川橋です。
 したがって、1枚目と2枚目は東西線の場合で、駅名標はタイル壁に埋め込まれているようです。
 地元の方によれば、3枚目と4枚目は九段下方の地上出口(現在のA5出口)から撮影したものです。前方のビルは1961年12月完成のマンション(階下を商業施設にした「下駄履き住宅」)で、 千代田区飯田橋4丁目にあります。現在の名称は「飯田橋サンポーロハイツ」です。
 また5枚目は九段下方の出口(現在のA5出口)表示です。
 地下鉄出口は日本医科大学第一病院の前にありました。現在は「東京区政会館」が建っています。地下鉄出口はバリアフリー型に改修されましたが、今もほぼ同じ位置にあります。
 なお、ID 641も同時期の東西線を撮ったものです。

2022年「飯田橋サンポーロハイツ」(Google)


箪笥町(写真)明治神宮遷宮祭、昭和33年 ID 5367

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5367は昭和33年(1958)、明治神宮遷宮祭記念新宿区商業観光まつり自動車パレードを撮影したものです。場所は箪笥町です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5367 明治神宮遷宮祭記念新宿区商業観光まつり自動車パレード(北町現大久保通り)

 これはID 6338やID 6340と同一の明治神宮遷宮祭のパレードでしょうか。ID 5367は雨で路面が濡れている点が大きく違います。
「データベース 写真で見る新宿」は、同じ「明治神宮遷宮祭記念新宿区商業観光まつり」の写真を複数、公開しています。その中には「少女鼓笛隊」が晴天でパレードしているものもあります。(ID 70667069) 一方、花自動車パレードは写っていません。
 ウィキペディアによれば「10月31日夜、遷座の儀が行われ~14日まで都内各所で奉祝行事が行われた」とあり、このパレードはID 6338などと別の日だったかも知れません。
 遠くに東京厚生年金病院(現在はJCHO 東京新宿メディカルセンター)が見えます。屋上の丸い建物は展望室です。
 2〜3メートル先に、急に道路は下向きの坂になります。これは弁天坂です。
 パレードは神楽坂(現在は神楽坂上)交差点から大久保通りを通り、北町方向に向っています。ここでの先頭自動車はオープンカーでしたが、雨のため屋根をつけています。次の自動車は雨に降られても大丈夫、大きなアヒルの着ぐるみをきています。
 電柱は木製もコンクリート製もありそうで、左側は右側と比べて一般的には背は高く、柱上変圧器があります。横断幕は「安全速度」。路面電車の軌道があり、架線も多くなっています。右の建物などは……

  1. 看板「ベニヤ板・木曽檜・秋田杉・一般材・梚立請負/株式会社 大崎材木店販売所」
  2. トラック「株式会社 大崎材木店」
  3. 電柱広告「牛込犬猫病院」
  4. 看板「葬祭◯◯具一式御用達 ◯◯商店」「葬儀と花(輪)」

 昭和39年の住宅地図があります。大崎材木店はその時でも営業中です。現在は3階建ての「大崎ビル」になり、1階は「メゾンカイザー」です。
 葬祭店(地図の「大川」)は大川商店で、その後「神楽坂斎場」になりましたが2020年ごろ解体されました。

1964年 住宅地図

Google地図 現在(2023年4月)


南蔵院(写真)昭和44年頃か ID 14135-42

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14135からID 14142までの8枚は新宿区箪笥町にある天谷山竜福寺南蔵院を撮ったものです。これは「箪笥町(写真)南蔵院 昭和44年頃 ID 8294」として出た写真と似ていて、同じく冬期の写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14136 南蔵院

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14137 南蔵院 狛犬

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14138 南蔵院 狛犬

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14139 南蔵院 狛犬

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14140 南蔵院 狛犬

 2023年現在の現在の南蔵院は下の写真のように左の本堂と右の大聖歓喜天堂が並んでいます。昭和44年には本堂はありませんでした。
 本堂や墓苑が奥まっていますが、手前の部分は大久保通りの拡幅で道路になる予定です。

南蔵院

 現在の南蔵院です。左の本堂と右の大聖歓喜天堂です。 本堂は昭和44年以降にできました。

本堂

 大聖歓喜天堂は昭和44年にあったものと全く同じです。歓喜天の梵名ぼんめいはナンデイケーシユヴァラといい、仏教の守護神でした。

大聖歓喜天堂

 狛犬は右と左で口の形が違っています。右の狛犬は口を開いての音声を、左の狛犬は口を閉じてうんの音声を出しています、密教では、この2字を万物の初めと終わりを象徴します。
 大聖歓喜天堂の右、墓苑に向かう道には小屋があり、物置のように使われています。なお、手水鉢は神社の施設で、ここにはありません。

新宿生活館(写真)ID 13228~30 昭和47〜55年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13228~13230は、新宿生活館を撮ったものです。撮影時期は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13228 箪笥町 新宿生活館

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13229 箪笥町 新宿生活館

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13230 箪笥町 新宿生活館

 中央に見える建物は新宿生活館です。半地下だと考えるなら3階と屋上で、半地下でないとすると4階と屋上です。その手前に武田製作所と読めない「商会」。奥には日東書院があります。
 新宿区史年表では、昭和62(1987)年4月、新宿生活館を「新宿老人福祉センター」と改称しています。建物は同じですが「生活館」として記録されているので、この3枚は昭和62年より昔の写真です。
 住宅地図について、図書館では昭和50年から昭和59年まできちんと1年ごとにありますが、私のコピーは昭和50年、55年、57年の3年間だけです。昭和50年では新宿生活館のすぐ右に「幸家スポーツ」があります。55年では「喫茶 麻里」、57年には「古明地花代」に変わっています。また武田製作の左に昭和50年で「菊地電気商会」、昭和55年に「菊地電気」、57年に「つるや人形研究所」に変わっています。私は左は「菊地電気商会」、右は「幸家スポーツ」を取りたいと思います。したがって昭和55年以前です。

 「幸家スポーツ」は昭和49年には同じですが、昭和47年には「富沢」になりました。したがっておそらく昭和47年よりも新しいものだと思います。つまり昭和47年~昭和55年でしょう。

 街灯は2つあります。背の高いものと背の低いものです。前者は自動車に、後者は歩行者用でしょうか。

 

下宮比町会(写真)大正13年 ID 10798

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10798は大正13年(1924)、牛込区下宮比町会の会合を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10798 牛込区下宮比町会

 「大正十三年九月一日午前十一時五十八分 大正大震災一週年 牛込區下宮比町會」と墨書したのぼりが大木に貼ってあります。老若男女が整列し、多くの人は胸元にお札のようなものを入れています。
 右端に百度石があり、おそらく筑土八幡神社で撮影したと思います。背後の家から左の建物に渡り廊下が架けられていますが、その建物は足場で囲われています。震災の被害を修繕しているのでしょう。よく見ると左端の振り向いている女の子は狛犬に乗っています。
 また右端の建物は布で覆われ、屋根瓦が波打っている様子が分かります。土蔵のようなものが崩れかけているようです。
 おそらくは関東大震災1周年を期に町会一同が参拝して家内安全を祈願し、神札を授与された時の記念写真でしょう。右端の男性の印半纏に「親和會」の文字が見え、これが世話役だったかも知れません。
 震災直前、大正12年の筑土八幡神社の写真があります。手前の大木と奥の老樹、渡り廊下、狛犬などが確認できます。大正12年の本殿前の大木は、大正13年の木の形が同じですが、現在の社務所前にある桜と枝ぶりが違います。

築土山に鎮座す。明治5年村社に列せられた。東京市公園課。東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第二輯。大正12年

 下宮比町にはかつて宮比神社が鎮座しており、明治四十年に筑土八幡神社の境内に遷座しました。このID 10798の参道が現在と同じなら、右に分かれて続く先に宮比神社が祀られています。第2次大戦で焼失し再建されました。社殿の前の鳥居には「享和二年」(1802年)の刻印があります。百度石も場所を移して境内に残っています
 下宮比町会は現在、隣の揚場町と一体化して「飯田橋自治会」となっていますが、今も筑土八幡神社の氏子地域です。

新見附濠(写真)昭和50年 ID 10797

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10797の説明は「昭和50年、飯田濠」とあります。これは間違いで、1kmほど離れた新見附濠を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10797 飯田濠

 正面に、斜めに上がって途中で水平になる橋が見えます。「市ヶ谷水管橋」と呼ばれる水道本管のための特殊な橋で、昭和6年に完成しました。

新東京名所市ヶ谷見附跨線水道橋
東京市の水道が、中央線と外濠をオーヴァするところ、市ヶ谷見付に架設された總長322呎の水道橋、幅員15呎で、徑間は56呎3連、58呎3呎1連連の5徑間。下路鋼鈑桁橋で、橋臺は混凝土、橋脚鐵筋混凝土造。

 外濠を走る現在のJR中央線を昭和4年に複々線化したことに関係して建設したものでしょう。水管橋の下には釣り堀があります。
 水管橋の向こうの三角屋根(田口氏02-00-47-01市ヶ谷駅 1967-08-19)が旧国電の市ヶ谷駅です。
 写真は新見附橋から撮影したものと思われます。この濠は牛込濠の一部でしたが、明治期に新見附橋が建設され、市ヶ谷寄りの南側が新見附濠と呼ばれるようになりました。
 土手の木々がうっそうと繁っているので季節は夏でしょう。外濠は下流の飯田橋に向けて徐々に深くなるため、上流側ほど水質汚濁が起きやすい環境です。この写真でもアオコが水面の広い範囲を覆っています。
 浅い濠にはメリットもあり、後の地下鉄有楽町線建設工事では濠の中を開削する工法を採用しました。
 写真奥の土手の上の千代田区九段南では複数のビルを建設中です。土手の下は中央線の10両編成の通勤電車が行き違ったところですが、車両の屋根上は丸いベンチレーターのみで冷房はありません。旧国電の冷房車は山手線の昭和45年(1970年)が最初で、写真の昭和50年は非冷房車の方が多い時代でした。
 飯田濠ではこの当時、埋め立ての再開発を行っていました。

愛日小学校(写真)給食見学 ID 10794

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10794は昭和39年、新宿区北町の愛日小学校の給食を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10794 愛日小学校 給食見学

 黒板に「六月十九日」とあります。昭和39年6月19日は金曜日でした。父母の参観日の様子でしょう。教室の後ろの母親らは外出着で、就学前の子ども連れやおんぶ紐の姿もあります。暑い日らしくサッシ窓が開いています。
 黒板は低学年らしく平仮名ばかりです。生徒は木製の2人掛けの机で、横にランドセルを掛けています。
 机の数は前後6列、一番右は7列あります。左右は見切れている左側にもう1列ありそうです。4×6+1=25の机に2人ずつで、1学級50人です。
 文部省は50人だった義務教育の学級定員を昭和39年度から45人に引き下げました。ただ教室や教員が不足していて守られないケースもあったようです、
 給食は角形トレーに厚めの食パン。2枚もらっている男の子もいます。主菜と副菜の2品を先割れスプーンで食べています。小さめのお椀は脱脂粉乳と思われます。第2次大戦敗戦後の米国からの援助物資として始まり、地域によっては昭和40年代まで続きました。

愛日小学校の歴史では…

期間出来事
明治3年東京府第三校開設(愛日校の前身)
明治13年7月牛込区北町26番地に吉井学校と市ヶ谷学校の二校を合併、愛日校を創立。
昭和20年5月戦災で校舎全焼する。
昭和21年4月愛日国民学校は閉鎖し、児童は市谷、津久戸、牛込仲之小学校に移る。
昭和27年9月東京都新宿区立学校設置条例により、愛日小学校の設置が決まる。
昭和31年12月東京都新宿区北町26番地に、小学校として我が国最初の4階建て鉄筋コンクリート校舎建築に着手する。(第一期工事)
昭和32年3月東京都教育委員会より、東京都新宿区立愛日小学校設置が認可。
昭和32年4月学区域変更により、市谷、津久戸、牛込仲之小学校より、1年から5年まで786名を受け入れ、入学式を市谷小学校で行う。
昭和32年9月新校舎で第2学期始業式を行う。(第一期工事完成)

 昭和29年、学校給食法が制定されました。また農林水産省「ふるさと給食自慢」の献立例では、昭和39年、「揚げパン、ミルク(脱脂粉乳)、おでん」という献立が出ています。

箪笥町(写真)南蔵院 昭和44年頃 ID 8294

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8294は南蔵院を撮ったものです。撮影は「昭和44年頃か」と書いてあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8294 南蔵院

 石の門柱に小さく「南蔵院」の表札があります。その右に「大聖歓喜天」の石標、よく見ると左側にも同じくらいの高さの石標があります。現在は新しい門柱に代わっていますが、両脇の石標は残っています。
 本堂がやや奥まって建っているのは大久保通りの拡幅計画に備えたものです。本道の後ろのコンクリートの建物は前田建設牛込北町寮で、2016年頃までありました。
 歩道と車道との間には段差があります。昭和35年(1960年)のID 565とは違うのはガードレールができたことです。右側の電柱にはパチンコ「おおとり」と「旅荘駒」の広告があります。
 前の大久保通りには都電13系統の石畳の軌条があります。その脇の車道は、良く見るとピンコロ石で舗装してあります。この部分は「弁天坂」と呼ばれる坂なので、滑りにくくしたものでしょう。
 大久保通りの都電は昭和45年(1970)に廃止されました。
 南蔵院は真言宗豊山派の寺院で、長く読むと、天谷山竜福寺南蔵院です。住所は新宿区箪笥町42番地でした。元和元年(1615年)吉祥山福正院と称して、早稲田に創建、弁財天2体を上宮・下宮として祀っていましたが、御用地となり、延宝9年(1681)上宮と共に当地へ移転し、南蔵院と改号しました。なお、もう一体の下宮は弁天町の宗参寺に祀られています。

箪笥町(写真)牛込北町 昭和30年代末 ID 5737

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5737は大久保通りと牛込中央通りとを結ぶ牛込北町交差点を撮ったものです。右手前から左奥に向けて大久保通り、左から右奥への道路が牛込中央通りです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5737 箪笥町(現大久保通り)

 電柱や街灯は少なくても3種類あります。一番目は背が最も高い電柱でコンクリート製で配電線や柱上変圧器もあり、2番目は木製で擬宝珠のような飾りがあり、路面電車の架線柱でよく見られ、3番目は最も低く、腕木の上にボンボリ型2個の街灯があります。
 石畳の軌道は都電13系統で、上空には架線が張り巡られています。また街灯の間にはしめ縄風の飾りが張ってあります。
 信号機の背面板はゼブラ柄です。
 撮影の年が不明ですが、ID 5736と同じ年で、つまり昭和30年代末でしょう。

牛込北町交差点(昭和30年代末)
  1. 電柱広告「加藤産婦人科」
  2. (く)らしにカラーを 東洋紡のダイヤモンド毛糸/合理的生活に木村屋のパン食を/ヤマザキバン/ナショナル/木村屋製(パ)ン/雪印アイスクリー(ム)
  3. 電柱広告「貸衣装 山本」/牛込北町(都電停留所)
  4. 雪印チーズ/森永キャラメル/明治バター/木下商店/明治ミルクチョコ(レー)ト/〇〇〇木下菓子/たばこ
  5. 強力パンビタン/宝命堂薬舗
  6. 電柱広告「中河電気」

住宅地図。1965年。牛込北町付近


新宿生活館(写真)昭和35〜38年 ID 5736

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5736は大久保通りと新宿生活館などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5736 箪笥町生活館(旧牛込区役所)付近(現大久保通り)

 撮影の年は不明ですが、いくつかの手がかりから推理します。
 大久保通りの中央には、石敷の都電13系統の軌条があります。13系統は昭和45年(1970)3月に廃止されます。
 左側の道路標識に「NO PARKING」などの英語表示があります。現在の文字のない標識は昭和39年(1969)の東京オリンピックを機に採用され、順次、変更が進みました。
 大久保通りの先に、昭和28年(1953)竣工の東京厚生年金病院の丸い塔屋がかすんで見えます。しかし、その右側に文英堂ビル(岩戸町)が見えません。大きな「B」の時が印象的な文英堂の旧東京支社ビルの竣工は昭和39年(1964)で、地下に郵便局が入っていました
 左手前の商店の並びは昭和35年(1960)の住宅地図とよく合致しています。また『新宿区15年のあゆみ』(昭和37年刊)の牛込生活館の写真は前面の歩道に街灯がなく、ID 5736はそれより新しい写真でしょう。昭和35〜38年頃ではないかと思います。
 写真中央のコンクリート3階建ての牛込生活館は旧・牛込区役所です。関東大震災の被災後、昭和3年に再建しました。第2次大戦でも焼け残り、昭和22年(1947)に新宿区が発足したときには区役所になりました。昭和25年(1950)年1月に区役所が歌舞伎町に移転し特別出張所に降格。さらに昭和26年5月に、東京都の「新宿生活館」として開館しました。新宿区史によれば新宿生活館は昭和40年(1965)4月に東京都から新宿区に移管されました。移管を前に撮影したのかもしれません。
 旧・四谷区役所もほぼ同時期に「文化会館」に改められました。廃止になった区役所を活用したものと思われます。
 ここの牛込生活館は戦前の区役所の1~2階部分に手を加えているようです。また3階のアーチ窓の高さに、戦前は時計のようなものが突き出していました。また、看板になっていて、無理をすれば「新宿生活館」と読めそうです。
 大久保通りの電柱は少なくても3種類あります。1番目は背が最も高い電柱でコンクリート製で配電線や柱上変圧器があります。2番目は木製で擬宝珠のような飾りがあり、これは路面電車の架線柱のようです。3番目は低く、おそらく鉄製です。左右の腕木の植えにボンボリ型2個の街灯があり、道路照明を兼ねていたようです。
 車道は舗装してあり、歩道との段差はありません。この様子は昭和20年代後半のID 9492や昭和35年(1960年)のID 565と似ています。通行人はコート姿で、街灯にはセールのような飾りがあります。年末の風景かもしれません。
 特記すべきは、複数の民家に汲み取りトイレ用の「臭突しゅうとつ」(煙突形の装置で悪臭を外に出す)があることです。この付近は戦災を免れており、戦前の建物が残っていた可能性もあります。

箪笥町生活館(旧牛込区役所)付近(現大久保通り)

箪笥町(昭和30年代)
  1. 街灯。駐車禁止の標識。
  2. (贈)答器・記念〇・一般家庭用品/◯漆器産地直売/漆工芸有限(会)社東京出張所都新宿区箪笥町2(2)番地/福島県会津郡
  3. 綜合保健剤/ビタホルン/〇〇元 亀井薬品株式会社
  4. 電柱広告「質は加藤質店」
  5. 宝◯ ネオンサイン(地図では「天ぷら宝来」)
  6. ショーケースのある店(地図では「堀田肉店」)
  7. 牛込◯◯(牛込印刷 路地をはさんで両側)
  8. 電柱広告「横井小児科」「松永質店」
  9. 文秀堂(電柱広告)三菱マーク(三菱鉛筆?)
  10. 店舗(地図では「東京新聞専売所」)
  11. つるや(電柱広告)(地図では「つるや人形研究所」)電柱広告「横井小児科」
  12. 新宿生活館
  13. (東)亜自動車
  1. 安くてきれいな/元祖 貸衣装/オーサトヤ/大里屋
  2. 山本貸衣装

住宅地図。昭和35年 人文社

住宅地図。昭和39年(1964年)箪笥町付近

住宅地図。昭和40年(1965年)箪笥町付近

牛込柳町(写真)昭和51年 ID 441

文学と神楽坂

全く場所はわかりませんでした。これは地元の方からです。

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 441は、昭和51年(1976)6月、牛込柳町(市谷柳町)交差点付近の写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 441市谷柳町、箪笥町方向

 写真説明では「市谷柳町、箪笥町方向」とあり、交差点から東側の大久保通りの坂(焼餅坂)の上がりはじめであるようです。しかし当時の住宅地図と写っている店名が一致しません。
 一方、反対の西側の坂(若松町方向)の住宅地図には写真の店名があるので、説明の向きを間違えたものでしょう。

住宅地図。2013年7月牛込柳町付近(google)

住宅地図。1978年 牛込柳町付近

 街灯は2種類あるようです。1つ目は円盤形の大型蛍光灯で、首のところで大きく曲がり、その中に無名の名札らしきものがついています。2番目は高い電柱についた道路照明灯です。
 写真左側の白くて高いビルはマンション「シャトレブーケ」(1972年01月築)で、現在もあります。
 また写真中央の「カワ◯◯◯◯」は地図では「カワカミくつ店」で、2013年のストリートビューでは店名が確認できます。
 柳町交差点の地名は「市谷柳町」ですが、「牛込柳町」として親しまれてきました。かつての都電の停留所や、現在の都営地下鉄江大江戸線の駅名も「牛込柳町」です。
 空気が流れにくいスリバチ地形が原因の「排気ガス禍」で昭和45年、全国的に有名になりました。

 この写真は排ガス問題より少し後です。子どもの立つ左側の交通標識は読めませんが、おそらく交差点内に車が止まらないよう促す「ゴー・ストップ規制」でしょう。

牛込柳町(昭和51年)
  1. オリエント ROYAL CHALLENGER(洋服店)
  2. 鈴木商店 鈴木金物店
  3. カワ◯◯◯店(カワカミ靴店)DC
  4. 質 松永 松永◯◯ 松永質店
  5. 電柱。加藤産婦人科。笹川時計◯◯店
  6. 金子◯◯製作所 数軒おいて
  7. 白いマンション(シャトレブーケ)

神楽坂2丁目(写真)お祭り 大正10年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「新宿風景Ⅱ」(2019年)の「44 神楽坂地域のお祭り 大正10年(1921)頃」で、この写真は博物館のものではなく、個人のものです。

神楽坂地域のお祭り 大正10年頃

 神輿を大勢でかついでいます。地面は砂利で、写真右奥に向かってゆるやかに上り坂のようです。
 この場所を特定する手がかりがいくつかあります。ひとつは店の前に立っている柱です。

 まず[B]は街灯で、角柱から丸い灯りが2つ突き出し、柱の上には擬宝珠のような飾りもあります。これは大正12年の神楽坂通りの[C]と同じものでしょう。
 [A]は2色塗りで背が低く、一軒に1つずつあるようです。おそらく催事の提灯かぼんぼりを掲げるための仮設のもので、類似のものは昭和10年の写真(「東京市内商店街ニ関スル調査」昭和11年)にあります。
 もうひとつの手がかりは店の看板です。神輿の一番上の鳳凰に隠れた看板は、なんとか「高等製靴舗 ◯崎屋」と読めます。現在もあるオザキヤ靴店(休店中)と思われます。
 以上から、神楽坂2丁目の坂下付近の撮影とみていいでしょう。
 もう少し写真を詳しく見ます。神輿の担ぎ棒は前後に長く、左右がないのは裏道を練り歩くのに適した形にしたのでしょう。
 神輿をかつぐ人の印半纏は、いくつかの種類が混じっています。かぶり物もハチマキ、ほおかむり、カンカン帽など統一されていません。恐らく複数の町会の混成部隊です。
 背中に「五」の字がいくつか見えます。この時代は神楽町1-3丁目までしかないので、近隣の東五軒町、西五軒町の町会かも知れません。ただし牛込町誌第1巻(大正10)によれば、当時1丁目は若宮八幡神社、2-3丁目は市ヶ谷八幡神社の氏子で、五軒町の属する筑土八幡神社とは異なっていました。
 もうひとつ、牛込町誌第1巻「若宮町之部」に興味深い記事があります。

神輿の新調 当神社(注・若宮八幡)は従来、神輿の設なかりしを遺憾とし、大正九年八月町内氏子有志は…拠金を得てこれを新調せり。大正十年より神輿渡御のことあり

 この写真が、若宮町の町内会の新たな神輿を撮影したと考えると、とても楽しいでしょう。若宮町は、わずかですが第2次大戦で焼けなかった地域があり、貴重な写真が残ったのかもしれません。

神楽坂2丁目(大正10年頃)
  1. 「芳屋」「や」「切手折詰調進」「(味)の素」(お椀形のマーク)
  2. 「新型」「高等製靴舗」「◯崎屋」「靴 崎屋」(尾崎屋)
  3. (一軒)
  4. 「砂」(砂糖屋)

新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」昭和45年

日本新劇史

文学と神楽坂

 松本克平氏の「日本新劇史」(筑摩書房、1966年)から芸術倶楽部の誕生を見ていきます。新劇では一元論「金銭だけ」ではなく、二元論「研究所」も大事だとして、島村抱月は「芸術座研究所」、改名して「芸術倶楽部」を作りました。

 まず抱月が彼の牙城とたのんだ芸術倶楽部建築のいきさつ、、、、から紹介してゆきたい。
 大正4年10月号創刊の芸術座の機関誌「演劇」には、「芸術座の創立当時からの根本計画だつた芸術座研究所は今回愈々竣成を告げて名称も芸術倶楽部と改め8月20日芸術座全部移転した」という知らせと演劇学校開校の記事を掲げている。これまでの事務所は牛込区西五軒町34番地の貸席清風亭であった。
 すでにたびたび述べたように大正3年7月18日より24日まで、大正博覧会の演芸館に『復活』を一日二回、50銭の奉仕料金で出演して大好評をうけた関係で、博覧会終了後の解体に際し、安い値段で木材の払下げを受けて改築したものであった。設計図が出来上がったのは『クレオパトラ』『剃刀』の帝劇公演が終わった同年10月末のことであった。はじめ神楽坂肴町停留場付近の土堤の上の展望のきく高台に柱を組み立てたが、4年2月4日の暴風雨のために倒壊してしまったので、工事中止のやむなきにいたり、さらに牛込横寺町9番地に敷地を改めて、7ヵ月目に完成したのであった。「幾多の困難を排して予定を実現するに到つたのは当事者一同密かに誇りとするところである」と控え目に喜びを語っているだけである(払下げの入札価格と建築費その他でだいたい7000円と推定される)。抱月はこの倶楽部を文化人の憩いの場、会合の場にしようと夢みていた以外に、ここでやる研究劇に精魂を注ぎ、俳優の再教育を目ざして、須磨子中心のスターシステムに代るべき新しい俳優を育て上げる学校にしようと考えていたのであった。だが工事の挫折は予算の膨脹を招き、危機はさらに危機を生んで芸術座を窮地へ追い込んでいった。建物が完成した時、いちばん最初に訪れてきたのは恐ろしい債鬼であった。そしてこの債鬼に追い立てられて台湾へ、朝鮮、大連へ、さらに浅草常盤座へと矢つぎばやの活動を余儀なくされたのであった(中村吉蔵筆「芸術座の幕の閉るまで」より)。自分の小劇場を完成しながらそこで念願の研究劇をやる時間と経済の余裕を芸術座は当分の間持てなかったのである。
牙城 がじょう。「牙」は大将の旗。城内で大将のいる所。城の本丸。根拠地。ねじろ。
西五軒町34番地の貸席清風亭 西五軒町の北部は目白通り、首都高速と神田川に、東は新宿区東五軒町に、南は赤城元町に、西は水道町と築地町に接する。清風亭は北にあった。地図は

東京市及接続郡部地籍地図https://dl.ndl.go.jp/pid/966079/1/454

肴町停留場 現在は「牛込神楽坂駅前停留所」
9番地 9番地のほかに、8番地や10番地があります。詳細は別項で。
文化人の憩いの場 これはフランス語の客間(サロン)を意味するもので、貴族やブルジョアが日を定めて客間を開放し、文化人、学者、作家らを招いて、知的な会話を楽しむ場。
債鬼 さいき。借金や掛金をきびしく取り立てに来る人。借金とり。
浅草常盤座 ときわざ。明治17年、浅草公園六区で初の劇場として始まる。歌舞伎、新派劇、連鎖劇等を興行し、映画を上映した。ほかに大正6年「浅草オペラ」の発祥の場、昭和23年には「浅草ストリップ」の発祥の場である。1991年、閉鎖。
矢つぎばや 物事を続けざまに手ばやくすること。

 まことに超人的な巡業ぶりであった。
 まず大正4年早々信州をふり出しに、九州博多、長崎、鹿児島の旅に出た。その間工事は進められていた。8月20日、事務所移転の時ちょっと帰京して、8月24日には早くも出発、秋田、山形を巡り、そのまま北海道へ渡り函館、小樽、札幌、旭川を打って9月末一旦帰京、その月のうちに台湾へ渡っている。左に芸術座記録よりその長期興行を略記する。(略)
 まことに凄じい巡業である。留守中の工事は相馬御風、中村星湖、片上伸、石橋湛山、尾後家省一の諸氏が協力、学校と雑誌の方は中村吉蔵、田中介二が協力して意外に早く竣成開校の運びとなったのであった(上山草人との『復活』をめぐる訴訟事件は、九州巡業中のことであることはすでに述べた)。
 新劇の堕落、新派以下の新劇と小山内たちから罵倒されながら、抱月は建築費のためにこうして苦闘していたのであった。
 泥まみれのこの頃の抱月について水守亀之助は「読むことも書くことも止めてしまつたといふ荒廃時代」と言っている(『わが文壇紀行』より)。抱月には寸暇もなかったのである。後世に金玉の文字を残すことを念願としている個人芸術家の眼には、集団のために自分を拠げ出している演劇人の自己犠牲は、荒廃としか映じなかったのである。そしてただ「実行の人」として、その文才を惜しまれただけで、その行動の底に燃えていた夢と理想は演劇人にも文壇人にも理解されなかったのである。作家と演劇人の世界の隔り、批評と行動の溝は、全然食い違っていたのであった。この乖離は昭和の現在にまで尾をひいている。

上山草人との『復活』をめぐる訴訟事件 「日本新劇史」によれば…
 当時九州を巡業していた上山草人は鹿児島で須磨子の『復活』大当りの評判をきいたのであった。そして土地の記者団や興行師から懇望され、ついに千秋楽の夜は一夜稽古の「そのカチューシャを演出しなければならなかった」と言っている。以後、草人は朝鮮、支那、満州、台湾にかけて十六ヵ所で、山川浦路のカチューシャでこの『復活』を売り物にして巡業したのであった。やるに到ったその言いわけがまた振っている。「砂糖入りのロシヤパンが流行るのなら普通のパン屋でも精々甘い所を焼出さなければなるまい」
「これでは芸術座が渡鮮する時の利害に対する影響は頗る重大です」として抱月も鈴木弁護士に依頼して上山草人を相手取って興行権侵害の告訴をおこした。早稲田の師弟はこうして法廷で相見えることになったのである。
 草人は大陸巡業の帰り、四国の宇和島に来てはじめて自分が抱月に訴えられていることを大阪朝日新聞の特派員から知らされた。草人はこの事件を義侠的に引き受げてくれた鈴木弁護士の一団に一任した。その後さまざまな曲折を見せたが、結局、裁判長がものわかりのいい人で、法廷から抱月と草人を会議室に呼び入れ、法服をぬいでから、「貴君方は社会の先覚者でいらっしゃるのだから、こんな感情問題はさらりと水にお流しになったらいいでしょう」(草人著『煉獄』より)と物柔らかに和解を勧めたので至極簡単にけりがついた。つまり示談になったのだった。原作がトルストイで、脚色がアンリ・バタイユで、それを抱月が翻案したのでは著作権、上演権問題は曖昧になってくる。だが作曲の著作権があるので、中山晋平も原告の仲間に加えられ、新聞のはやし立てるなかで、審理がつづけられた結果、唄の著作権だけは侵害の事実が明白となった。晋平はこの事件の結末についてこう書いている。判決言渡しの直前、裁判長が法服をぬぎ捨てて、島村、上山の原被告に面接、「文化人同志の間で余り黒白を明白にすることも望むところではあるまいから、近代劇協会は今後この唄を使わぬということを条件に和解してはどうか」と勧告、両氏とも異議なくこれを諒として、告訴はとり下げられ、新聞は両氏の笑って握手している写真を掲げて社会面を賑わしたと。

小山内 小山内薫、おさないかおる。明治、大正で劇作家、演出家、小説家。東京帝国大学を卒業し、同人誌『新思潮』(第1次)を創刊。松竹撮影所長から、大正13年、土方与志らとともに築地小劇場を設立。生年は明治14年7月26日、没年は昭和3年12月25日。享年は48歳。

 写真は芸術倶楽部の全景。二階正面の三つの窓の上に横に並んだ五つの○の中には、右から芸術倶楽部という浮彫りの字が一つずつはめこまれている。その上の大型の○の中には芸術座のマークである仮面(マスク)の浮彫りがはめこまれている。一階正面中央の窓の左側が事務所と応接室であったという。

芸術倶楽部の全景。松本克平「日本新劇史」(筑摩書房、1966年)から

 二階正面の突き出た窓の処は個室(二室とも三室ともいう)であり、個室の裏側は二階廊下を隔てて二階の客席があったという。二階の個室は脚本の読み合わせや、外部の人々の小集会にも貸したという。空いている時は劇団員の寝泊りにも使っていた。
 一階正面左手の黒い処は玄関であり試演場への入口であった。客席の両脇と後方は廊下であり、通路であった。入口のさらに左の突出た横板の一階建の部屋らしいものは手洗所であり、その奥は台所になっていた。座員は手洗所の外側を廻って台所の脇の内玄関から稽古場その他へ(下手廊下奥)出入りしていた。(次頁は筆者の想像による見取図)

芸術倶楽部

若宮町(写真)令和4年、ID 17060~62

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17060~17062は、令和4年(2023)3月、若宮町から善国寺方面を望む写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17060 若宮町から善国寺方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17061 若宮町から善国寺方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17062 若宮町から善国寺方面を望む

 この道は「毘沙門横丁」と呼ばれ、ほぼ同じアングルの写真が過去にもあります。左側は料亭「松ヶ枝」のあった場所でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14050 若宮町から善国寺方面を望む。平成31年

新宿区『ガレキの中から、30年のいま』昭和53年3月

昭和30年代の料亭「松ヶ枝」資料提供:新宿歴史博物館(上村敏彦「東京花街・粋な街」街と暮らし社、2008年)

 松ヶ枝の創業は明治38年。廃業は不明ですが、牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第8号(1996)では

松ヶ枝は、K興業の手に渡りしばらく営業していたが、オーナーの死後、取り壊され、周囲をコンクリートで固めた駐車場となったまま今日に至っている。
K興業 国際興業です。
オーナー 小佐野賢治氏です。死亡は1986年(昭和61年)10月27日。
駐車場 平成2年(1990)には住宅地図では松ヶ枝はありますが、確かに1995年には駐車場に。クレアシティ神楽坂若宮町は2002年10月に完成。

 オーナーの死後、直ちに取り壊されたとすると、松ヶ枝は昭和62年頃に廃業し、一方、住宅地図を信用すると、廃業は平成2年以降ですが、住宅地図の印刷は数年間遅れるのが普通です。「ここは牛込、神楽坂」も平松南氏の「神楽坂まちの手帖」(けやき舎)も廃業は何年なのかを書いていません。

若宮町(令和4年)
  1. クレアシティ神楽坂若宮町
  1. (神楽坂もりのいえ)
  2. 果房 メロンとロマン
  3. (かぐらビル)
  4. サンライズ神楽坂と自動販売機
  5. 神楽坂 たれ焼肉のんき

地蔵坂(写真)藁店 ID 7804-7806, 14104、昭和41年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7804-7806とID 14104は地蔵坂(藁店わらだな)を撮ったものです。時期は「昭和41年頃か?」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7804 袋町 地蔵坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7805 袋町 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7806 袋町 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14104 袋町 地蔵坂入口の建物

 西側の電柱はすべてコンクリート製で細い柱上変圧器がありますが、東側には木製のものもありました。車道は滑り止めのオーリングを使い、下水は道路の側溝を流れています。
 これは昭和41年(1966年)でしょうか? 「旅館 竹兆」は住宅地図の昭和47年(1972年)にはなく、昭和48年(1973年)では出てきます。昭和39年までには「松竹荘」は一軒だけですが、昭和40年から47年までは「田中医院」と一緒に出てきて、昭和48年には再び1軒だけの「松竹荘」として登場しますが、「歯科 佐々木」と一緒に出るのは全くありません。「あかつき」は昭和49年に始めて出てきて、田口重久氏の写真でも昭和49年に出てきます。つまり昭和49年が正しいとこになります。
 これでよければいいのですが、まだ出ていない建物も考えます。地蔵坂と神楽坂通りを結ぶ場所にある武田芳進堂(現・八潮第二ビル)と中河電気(現・八潮ビル)です。武田芳進堂は昭和46年9月に、中河電気は昭和43年9月に大きなビルが完成しています。どちらも5階建てなので、見えるはずですが、ありません。ビルは完成するのに1年ぐらいかかるので、昭和42年以前にこの写真4枚が撮られたものでしょう。
 住宅地図についてはただただ印刷が遅すぎたようです。

地蔵坂(昭和41年頃)
正面突き当たりに相馬屋文具店
  1. 道路標識。指定方向外進行禁止。 (逆転式一方通行を示す標識)
  2. 日本盛。〇◯ あかつき
  3. 電柱看板「すき焼 恵比寿 ココ」
  4. シャッターの降りた店(地図では八百屋)
  5. 家屋2軒
  6. 電柱看板「理髪 モリワキ ここ 」「斉藤医院」
  7. 松竹荘「歯科 佐々木」広報板
  8. 家屋1軒。「車庫につき 駐車お断り」
  9. 旅館 竹(兆)
  10. 電柱看板「質 は 上値 サ〇〇〇 のフクヤ袋町 4」「日本出版クラブ」
  11. 電柱看板「質 大久保」「日本出版クラブ」
  12. 道路標識。8-20。(駐車禁止)(区間内)
  1. 電柱看板「加藤産婦人科」
  2. BAR Hayama ニッカバー
  3. (川島)病院


大久保通り(写真)岩戸町 ID 17075

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17075の資料名は「A3出口から神楽坂上を望む」となっています。撮影は令和4年(2022)2月で、岩戸町から北東向きに撮っています。なお、「A3出口」とは「牛込神楽坂駅」のA3出口を指しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17075 A3出口から神楽坂上を望む

 中央の道路は大久保通り。似た写真はID 14053にあります。
 歩道の縁石が黄色い破線になっているのは「駐車禁止」の標識。
 続いて、自転車レーン(普通自転車専用通行帯)があり、そのマークは「自転車ナビマーク」(右図)
 大久保通りは片側1車線の対面通行で、最高速度は40 km。センターラインで黄色の実線は「追い越しのためのはみ出し禁止」の標識。
 遠く見える空中の道路標識は「道路標識 転回禁止」(転回禁止)と「道路標識 追い越しのためのはみ出し通行禁止」(追い越しのためのはみ出し通行禁止)、その下に「」(区間内)
 さらに遠くの「神楽坂上交差点」ははっきりとは見えません。

牛込神楽坂駅(令和4年)
  1. ブリリアントコート神楽坂(マンション)
  2. 87ビルディング岩戸町
  3. パレステュディオ神楽坂シティタワー(東京シティ信用金庫 神楽坂支店)(赤いビル)
  1. 赤い郵便ポスト
  2. (文英堂ビル)
  3. KXビル(旧赤玉ビル)アーチ状の入口
  4. (日交神楽坂ビル)
  5. (牛込神楽坂駅)
  6. コスモ ホウエイ(茶色のビル)
    ーーー神楽坂通り
  7. 神楽坂5丁目ビル(セブン-イレブン 神楽坂5丁目店
  8. 神楽坂アインスタワー(最も高いビル)

岩戸町

松井須磨子の臨終|飯塚友一郎

文学と神楽坂

飯塚友一郎 飯塚友一郎氏は『随筆 腰越こしごえ帖』(書物展望社、昭和12年)で松井須磨子氏の自殺について書いています。飯塚友一郎氏は横寺町の飯塚酒場の子供で、演劇研究家。東京帝国大学法学部卒業後、10年間弁護士を開業し、同時に歌舞伎を研究。大正15年『歌舞伎細見さいけん』にまとめ、昭和7年に日本大学芸術学部教授。生年は明治27年11月11日、没年は昭和58年4月21日。享年は88歳。

     松井須磨子の臨終

 容易に段落のつかぬ仕事を持つ身には、暮も正月も、氣ぜはしく、あわたゞしく過ぎて今日はもう一月五日だ。さうだ、一月五日といへば松井須磨子の命日ではないか。忘れもせぬ大正八年の今日があの日だつた。

 私は、須磨子の生前中に別段の私交があつたわけでもなく、又、あんまり物覺のいゝ方でも決してないのに、何故、この日が記憶に殘つてゐるかといふと、不思議な因緣で彼女の臨終の物音を、恐らく誰よりも一番近く耳に聞いたからだ。臨終の物音といふのは、をかしな言ひ方だが、御承知の通り彼女は藝術倶樂部の一番奥まつた物置で、テーブルと椅子を踏臺にして、梁へ紐をかけて、その踏臺を足蹴りにして縊死をとげた、そのガターンといふ物音だつた。
 その頃、私は牛込横寺町の藝術倶樂部と、すぐ隣接した宅から大學に通つてゐた。殊に私の起居する奥の離れ座敷は、建仁寺垣をへだてて藝術倶樂部の建物とは三四間しか離れてゐない。その窓から、島村抱月の靜かに淋しい顏がのぞかれたり、須磨子の喚聲叫聲が洩れたりしてゐた。
 須磨子は、よく近所へ買物などに出かける時、櫛巻に白粉氣もなく洗ひざらしの浴衣か何かで、極く世帶じみた風をしてゐた。當時豪勢な帝劇女優などゝ比べて、凡そ女優らしくない、長屋のおかみさんか女工の樣だと、近所の者は陰口をきいてゐた。それに誰いふとなく須磨子は横暴で、抱月先生はじめ一座の男優までも尻に敷くといふ噂も立つて、近隣の評制はあまり芳しくなかつた。
気ぜわしい 気忙しい。あれこれと気持ちがせかれて、落ち着いていられない。
建仁寺垣 竹垣の一種。京都の建仁寺で初めて用いた。竹を敷き詰めて、縦に密に並べる。

櫛巻 くしまき。女性の髪の結い方。髪をくしに巻きつけてまげとした手軽な結い方

櫛巻 コトバンク

 ところが前年、大正七年十一月に急に抱月を失ふと、須磨子の愁嘆は實に人の見る目にも氣の毒で、さすがに世間の同情は翕然として、この孤獨の女王に集まつた。藝術座の正月興行は有樂座メリメエの「カルメン」だつた。いつも新劇などは振向きもしない家人が、珍らしく有樂座の須磨子を見ようと言ひだしたのは、恐らく須磨子その人の悲劇に關心をもつたに違ひなかつた。私共が三日に見物した有樂座の「カルメン」は、新劇には珍らしく興行價値百點の大入だつた。「煙よ煙、一切合切みな煙」と空うそぶくカルメンの頬に、ほんとうの涙が光つてゐるように、見物には見えるのだつた。
 それから、中一日置いて五日の未明、私は夢うつゝのうちに隣りでガターンといふ物音を聞いた。何時頃だつたか、とにかく夜明け前だつたが、別段氣にも止めず、叉、ぐつすり寝込んで、少し寝坊して九時頃起きると、隣りの様子が何となくざわめいてゐる。そのうちに須磨子が自殺したといふ報が、どこからともなく舞ん込でくる。
「物置で椅子卓子踏臺にして首を縊つたのだとさ。」と家人に聞かされて、私は明け方のあのガターンといふ物音をはつきりと、それと結びつけて思ひ出した。後で聞くと、藝術倶樂部の人々はみんな、ずつと離れた表の方に寢てゐにので、誰も奥の物置の物音などには氣がつかず、夜が明けてから、たしか小使が、何かの拍子に圖らずも、死骸を發見したのだといふ。して見ると、やはり私が一番、彼女の死の床の近くに寢てゐわけになるのかしら。
翕然 きゅうぜん。多くのものが一つに集まり合うさま
有楽座 高等演芸場として東京の有楽町に建てられた日本最初の洋式劇場。 1908年11月1日開場。定員は桟敷を含めて900人。従来の平土間ではなく椅子指定席。食堂と休憩室も設置。
メリメエ Prosper Mérimée。プロスペル・メリメ。フランスの作家。代表作は中編小説の「カルメン」(1845)
カルメン スペインを舞台にしてロマの女カルメンと竜騎兵ドン・ホセの恋愛悲劇
新劇 旧劇(歌舞伎)に対する明治以降に興った近代演劇,戯曲(ドラマ)が土台になる
卓子 たくし。つくえ。食卓。テーブル。
踏臺 実際に縊死した時の踏み台が出ています。https://dl.ndl.go.jp/pid/966251/1/24

 も一つ奇しき因緣は、その須磨子の遺言狀が届けられて、それを最初に手に握つたのがまだ娘時代の今の私の妻であつた。須磨子はその前夜、お詑と後事を托した遺言狀を認めて、それを翌早朝、牛込余丁町坪内家へ届けるように甥に當る青年に命じた。その青年も知らずにその書面を余丁町へ持參したが、妻の記憶によると、たしか起きぬけに玄關で受取つたといふから、朝七時頃でもあつたらうか。その頃は誰も、何も知らなかつたらしい。その時恰も兩親は熱海の別宅へ滯在中だつた。妻は、その受取つた書面を何の氣なしに懷にはさんで、朝の用事などを片づけてゐると、それから一時間餘も經つた頃、新聞記者が、どやどやと押かけてきた。はじめてそれが、たつた今しがた自殺した人の遺言狀と知つて、妻はぞつとしたといふ。
 薄氣味わるく懷中から摘み出たした遺言狀を、新聞記者はどうしても見せろといふ。いえ宛名人が留守だから、御見せできません。それならば表書きだけでも、といつたやうな押問答が繰返されたが、そうと知つては、早速熱海へ届けなければと、人を派したのであつた。

 私は、その年の夏に大學を卒業した。そしてその翌年、緣あつて結婚したのが、この遺言状を何の氣なしに手にした今の妻である。何の氣なしに臨終の物音を最初に耳にした男と、何の氣なしに遺言狀を最初に手にした女とが、こうして一緒になつてゐるのも、不思議な因緣「である。(昭和十二年一月)
表書き おもてがき。手紙や文書などを包む用紙(封筒など)の、表面に書く文字。
因緣 前世から定まった運命。宿命。以前からの関係。ゆかり。

五冊の母子手帳|田中奈那子

文学と神楽坂

 田中奈那子氏が書いた『五冊の母子手帳』(講談社、1994年)です。1981年、氏は東京都内で初、日本で3組目の5つ子を出産しました。このとき、氏は1947年に生まれて、34歳でした。
 帝王切開で目が覚めるところから、ここでは始めます。

 私は、「田中さん起きて! 生まれましたよ。男の子と女の子がいますよ」といわれたことを、ぼんやりと覚えています。(中略)
 五人とも未熟児でしたが、とくに体重の軽いはじめは、NICU(新生児集中治療室)に、ほかの四人は中等症病室へと、別れて入れられました。ひかるには軽い呼吸障害がみられたそうですが、ほかの三人と同じく酸素吸入の必要はなくすみました。
 それからは、パパが大騒ぎのうずに巻きこまれて大変な思いをします。
 この日、主人は手術のことを聞いて、会社を休んで私の母とともに病院に詰めていました。出産のことは、ごく身近な人にしか報告してありませんし、また無事に五つ子が生まれても、私たちは公にするつもりはありませんでした。まして、マスコミには内緒にしてもらうはずでした。
 ところが、生まれるのと同時にNHKが取材にきて、あれよあれよという間に病院は報道陣でいっぱいになり、記者会見をしないなら、明日、神楽坂の家へ訪ねていきますよ、会社のほうへ行きますよ、といわれてしかたなく記者会見をすることになってしまいました。
「東京で初めての五つ子誕生」は、私たちの想像以上に大きなニュースだったのです。
 突然、五人のパパになり、突然マスコミに囲まれた主人。五人とも小さいけれど元気、その喜びを家族や病院のスタッフと喜びあう間もなく、なんともあわただしいことでした。
神楽坂 「神楽坂まちの手帖 第15号」(けやき舎、2007年)の田中ひとみ氏の「『かくれんぼ横丁の名付け親』と『東京の5つ子ちゃん』」では
 孫たちが遊んでいる姿を見て、石畳の路地に「かくれんぼ横丁」という名前を付けられたという森川安男さん。残念ながらご高齢のため数年前に亡くなられましたが、今回はそのお嬢さまにお会いすることが出来ました。
 彼女こそ、二十数年前「東京の五つ子ちゃん」のお母様として話題になった田中奈那子さんです。「出産した直後からTVや雑砧などマスコミが騒がしかったんです。それに子育てに毎日忙しかったから、当時のことはあまり思えていないわね」とのこと。横丁の名付け親がご尊父であったこともご存知なく、「あら、そうだったの?」と、意外な表情をされていました。
 下図は1984年の住宅地図です。森川安男氏はすでに亡くなり、田中奈那子氏も別の住所に住んでいます。

青色は「かくれんぼ横丁」 住宅地図。1984年

 私と五人の子どもが、日赤医療センターを退院したのは、出産から二ヵ月半が過ぎた11月17日のことでした。
 一度に五人の子どもですから、それまで私たち夫婦が住んでいた、2DKのアパートには入れません。私の神楽坂の実家に身を寄せることになりました。この家ではに夫のふるさと、佐賀県の竹内市長から贈られた、これからの冬場にはおあつらえ向きの、五枚の厚手のベビーガウンも待っていました。
 いよいよ子育て戦争の始まりです。一日の猶予もありません。私の母と父、姉、親戚のおねえさん、そして私の五人が、かかりっきりになることになります。主人は会社がありますから、あまり期待はできません。それどころか主人には五人の扶養家族がふえた分、ひたすら働いてもらわなければならないと思っておりました。
2DKのアパート 夫婦のアパートと森川安男氏の家はわずか1分ほど離れた場所に住んでいました。

 神楽坂料亭の奥まった一角。(夫婦は)しもた屋風の家を改造した二階建ての木造アパートに住んでいる。そこから歩いて一分ほどのところに黒ベイの家がある。五代前から神楽坂に暮らし、仕立屋を長く営んでいた奈那子さんの両親、安男さん(70)、倫江(みちえ)さん(67)夫婦の自宅である。
読売新聞1981年9月5日夕刊

 退院をじっくり喜ぶ時間さえなく、授乳、おむつがえ、洗濯、沐浴の繰り返し。生まれてまもない赤ちゃんは、だれでもそうですが、ほぽ三時間おきにおなかをすかせて泣きます。わが家の五人もそうでしたが、五人が五人、ばらばらに三時間おきですから、こちらはゆっくりする時間、眠る時間がありません。
 私は、損な性分だと思うのですが、どんなに疲れていても、お昼寝とか、ちょっと横になってうとうと、ということができません。夜、ふとんに入ってでないとだめなのです。(中略)
 不思議なことに、隣に寝ている主人がせきをしても起きないのに、子どもがぐしゅんというだけで、目がぱっちり覚めてしまいます。これが母性というものなのか、とわれながら感心しましたが、隣の主人はと見ると、まったく気がつかないようでぐっすり眠りをむさぼっています。思わずムカッとして、たまには目を覚まして気づかったっていいじゃない、と憎まれ口の一つもたたきたくなったものです。が、生後数ヵ月は、まとめて三時間以上眠ったことがなく、慢性睡眠不足でいつもふらふらしていたような気がします。(中略)
 けれども、睡眠時間は相変わらず足りませんし、一日にやるべき仕事は山積みで、やってもやってもきりがなく、私にも疲れがたまっていました。夜がきたと思ったら、あっというまに朝がきてしまった、という感じで毎日が過ぎていました。「神様、私に一日30時間ください」とまじめに思っていたのですから、今ふりかえると心身ともに疲れ果てていたのです。
 思い余って、五つ子の先輩である、鹿児島県徳之島の上木さんに電話をかけたのもそのころです。子どもたちをお風呂に入れ、ミルクを飲ませて一段落ついた夜の八時ごろでした。いきなりの電話にもかかわらず、上木千恵子さんは、「半年はしっちゃかめっちやかやるしかないんですよ。でも半年がまんしたら、ずいぶん楽になりますよ」と話してくださいました。五分程度の電話だったと思います。それでも、私の気持ちもすっと楽になれ、半年間だからあと少しがまんして頑張ろうと、目の前が明るくなったものです。(中略)
 みどりみやこにとっては初節句、ひなまつりを神楽坂の私の実家で迎えたのは、生後ちょうど半年でした。このころになると、あした以外は夜中にミルクをほしがって起きることもなくなり、ようやく四時間くらいはまとまった睡眠がとれるようになりました。
「半年すぎると、楽になるから」と励ましてくださった徳之島の上木さんの言葉に納得がいきました。思えば、その言葉にすがってなんとかやってこれた気がします。三時間おきに繰り返していた哺乳瓶の煮沸消毒も、いつの間にかやらなくなっていました。もっともこのころになると、ミルクの飲む速度にも大きな差が出てきて、哺乳瓶の乳首の穴の調節が大変でした。S、M、Lの乳首で台所が占領されそうでした。五つ子を育てるすさまじさは、こんななんでもないささいなところにもあるのでした。
沐浴 髪を洗い、からだを洗うこと。湯や水を浴びて、からだを清めること。湯あみ。
上木さん 2組目の五つ子の母親です。ちなみに最初はNHKの山下さんでした、

矢来能楽堂(写真)昭和47年 ID 12155、令和4年 ID 17578, 17579

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12155、17578、17579は矢来能楽堂を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12155 矢来能楽堂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17578 矢来能楽堂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17579 矢来能楽堂

 最初の写真の撮影は昭和47(1972)年9月、残りの2枚は令和4(2022)年10月で、時間差50年があります。「データベース 写真で見る新宿」には、さらに古い昭和27年のID 9842もあります。何回か化粧直しをしているようですが、建物は同じです。
 公益社団法人観世九皐会所有の能楽堂で、明治41(1908)年、神田西小川町に舞台を設けるも、関東大震災で焼失。昭和5(1930)年、矢来町の現在地で復興、昭和20(1945)年5月24日、空襲でまた焼失。戦後の昭和27(1952)年、現在の舞台を完成。平成23(2011)年、国の登録有形文化財に登録。

 矢来能楽堂は、能・狂言の公演・稽古に使用し、観世九皐会の主催公演や、所属能楽師の公演が主体で、ほかに矢来能楽堂での小学校修学旅行や狂言体験教室、中学校の能楽体験講座、大学講堂での能狂言観賞会開催、官公庁招聘の能楽ワークショップ、建築物の国際学会イベントで能楽堂見学会など。
 客席総数は座敷席を含んで237席。地階に喫茶室があります(360°バーチャルギャラリー)。

矢来能楽堂

新潮社(写真)昭和44年 ID 8282

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8282は、昭和44年(1969)頃、矢来町の新潮社の前から北に向かって写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8282 矢 来町 新潮社

 右の社屋が新潮社本館です。この社屋は昭和41年8月に落成しました(佐藤俊夫「新潮社七十年」新潮社)。右側の街灯は左側の背の高い街灯と違って、私設灯(軒灯)でしょう。
 ID 114(昭和45年3月)よりも少し前の写真です。すでに新潮社の2棟の社屋の間にあった石造旧社屋はなくなっています。一方、石造本社が残っているID 121 新潮社前(昭和56年)とは矛盾しますが、ID 121の撮影時期が間違っています。
 右の歩道と車道の間には側溝がありますが、縁石は低く段差がほとんどないように見えます。
 後ろ姿の女性の右の郵便ポストは新潮社の敷地(植え込み)内にありますが、私設ポストではなく、郵便局の管理だと思われます。おそらく新潮社から場所を借りているものでしょう。
 左側のトラックの側面には「株式会社三原製本所」の文字が見えます。運転台と荷台の隙間から道路標識「車両進入禁止」が見え、その下にある横書きの銘板は「新潮社〇〇部」でしょうか。地図によれば車庫になっています。
 道沿いの店の看板は「理容後藤」、前の電柱の縞模様も「後藤理髪店」でしょう。地図では「ゴトウパーマ」です。
 電柱の上にの突き出し広告は「大日本印刷」と読めます。出版・印刷の町らしい1枚です。

住宅地図。1970年

矢来町(写真)明治末期 赤城神社の山車 ID 156

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 156は、明治末期、矢来町派出所付近で赤城神社祭礼の山車だしを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 156 赤城神社祭礼山車、矢来町派出所付近

 写真説明の矢来町派出所は現在、牛込警察署矢来町地域安全センターといい、下図の✕印です。1世紀を経た現在も、牛込天神町交差点の同じ場所に交番があります。
 広場のような場所で、道は左奥に向かって下っています。山車を曳く人が右に並んでいるので、坂を上る途中でしょう。
 路面は舗装されていないだけでなく、大きくうねっている部分があります。
 人々の服装は長袖や薄手の着物で、おそらく秋祭りです。赤城神社の祭礼は現在でも9月です。雨模様らしく、傘を差している人が目立ちます。
 周囲は店舗が並んでいるようてすが、左の「理髪舗」以外は読めません。
 山車を見ている人は沢山いて、人力車も出ています。多くは和服を着ていますが、左側の白い洋服を着た人は帽子をかぶり、ニッカボッカーらしいズボンをはいています。
 以下は全くの想像ですが、中央の立派な石造りの建物は「田中銀行牛込支店」ではないでしょうか。右にカーブする道は人力車も走れる程度に平らです。三角形の道の中央部(薄水色)に盛り上がりがあることも理解できます。この盛り上がりを避けつつ、山車が神楽坂方の赤城神社に戻ってくる様子ではないかと思います。

東京市及接続郡部地籍地図-天神町交差点付近

矢来町交番と天神町交差点 Google

矢来町(写真)町並み 昭和30年頃 ID 124

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 124は、昭和30年(1955)頃、矢来町を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 124 矢来町

 この写真は「新宿区史」(昭和30年)の挿画として使われたものです。小見出しは「山の手住宅地」「台地上の宅地としての利用例を示す。写真は矢来町」。本文は「牛込は本区の東北部にある高度20米から40米の台地である。牛込台地の特徴は小日向台或は関口台から観察できるとおり、小日向・関口の両台が神田上水が急崖となって臨むに対し、牛込台の北面は赤城社・筑土社附近を除いてこの低地に向ってゆるやかな傾斜をなしでいる。」
 これから、地元の方は……

 手がかりが少ないので、撮影場所を大胆に考えてみます。
 中央の地平線に早稲田大学の大隈講堂が見えます。その左の遠くに三角屋根の建物群が見えますが、これはID 12145「神楽坂上空(昭和35年)」を参考にすれば、早大の早稲田キャンパスでしょう。

 一方、ほぼ同時期のID 13029「赤城神社より遠望(昭和28年)」に比べると撮影位置は低く、一般的な2階屋の窓くらいから撮影しているようです。
 商店はなく道は舗装されていません。木造の平屋も多く、早稲田通りや牛込中央通りから入った場所でしょう。雪が残っているので季節は冬で、写真右が北だと思います。
 もう一度遠景に戻って、大隈講堂の右手前に四角い窓の並んだコンクリート造らしき大きな建物が見えます。屋上には切り文字看板があるようです。病院や工場のような建物でしょう。この建物はID 13029でも左端に写っているようです。

地理院地図 矢来町付近

 当時の地図から推測すると、大日本印刷の榎町印刷工場が有力候補になります。この仮定が正しければ、撮影場所は日本興業銀行矢来町社宅(旧・酒井家矢来屋敷)付近ではないでしょうか。


 

矢来町(写真)第二交差点 昭和63年 ID 123

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 123は、昭和63年(1988)2月、矢来町の早稲田通りと牛込中央通りとの三叉路を西から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 123 矢来町

 遠くに見える信号機(矢来第二交差点)から右に行くと牛込中央通りになり、対面通行です。まっすく進むと早稲田通りの逆転式一方通行の区間に入ります。
 逆転式は、0時から12時まで写真前方から奥に向かって、13時から24時まで奥から前方に向かって車が走ります。写真では信号機の右側にある回転式の交通標識が「一方通行出口」になっており、撮影は午後でした。
 神楽坂1~5丁目では逆転する平日12-13時に歩行者天国を挟みますが、この矢来町の区間にはそれがありません。細かくは神楽坂通りの交通規制を見てください。
 また信号手前の区間は、その先の逆転式の区間と大差ない道幅を対面通行にしています。このため歩道が非常に狭く、場所によっては危険を感じるほどです。この状態は現在も変わっていません。

矢来町(昭和63年)
  1. 駐車場
  2. (横断歩道)
  3. 電柱。雨森歯科、このさき。旺文社。
  4. .東京(都) 水道(局下)水局 指(定工)事店 水道下水工事 萬水(工)業
  5. (道路標識・指定方向外進行禁止)
  6. 信号機(右折矢印信号)
  7. (横断歩道)
  1. (横断歩道)
  2. 質 ヌマベ
  3. クリーニング
  4. 白〇 宮川 ジャノメ
  5. 信号機(裏側)
  6. 明治生命 トーヨーサッシ

住宅地図。昭和63年。

矢来町(写真)昭和47年 21番地 ID 122

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 122は、昭和47年(1972)9月、矢来町の21番地を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 122 矢来町21番地

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12156 矢来町21番地

 昭和47年に、なにか事件があったのでしょうか。この年、グアム島で元日本陸軍兵士の横井庄一氏は見つかり、「浅間山荘」で連合赤軍が籠城し、沖縄は返還され、 田中角栄氏が「日本列島改造論」を発表し- 第1次田中角栄内閣が発足、カシオ計算機は世界で初めてのパーソナル電卓を販売しました。
 番地表示は右側の門柱らしきものに埋め込まれていますが、読むと「牛込区矢来町21番地」で、右から左への古い横書きでした。
 牛込区時代の矢来町には21番地が2つあります。もともとは早稲田通りの北側で、現在の地下鉄東西線神楽坂駅の2番出口(早稲田方)付近でした。
 昭和初期に番地が改められ、それまで広大だった3番地などが細分されました。新たに矢来町の西側、東榎町に近いあたりに21番地ができました。従来の21番地は1ケタ増えて、121番地に変わったのではないかと思います。
 牛込区が新宿区になるのは1947年(昭和22年)3月15日なので、ID 122は戦前に建てたものでしょう。戦災焼失区域の地図では、21番地も121番地も被害を受けています。大谷石の塀は焼け焦げているようにも見えます。
 ただ121番地は一本道なので、撮影場所は21番地でしょう。地図上で「突き当たりに家がある」という条件は2か所考えられます。

住宅地図。1973年。

 ID 122の写真は奥に向かって緩い坂で、さらに右折して下っており、これに合致するのは上の箇所ではなく、下の箇所です。この場所の2022年のストリートビューを見ると、突き当たりの家は変わっていないようにも見えます。

矢来町21番地、2022年、google

 最後に、なぜこの写真を撮影したのでしょう。「区内に在住した文学者たち」では矢来町21番地の文学者はいませんでした。芸能人の場合も、自宅に本名を使う場合、芸名を知るのはまず不可能です。単に「牛込区」の古い表札が珍しかったからかも知れません。

新潮社(写真)昭和30年後半 ID 121

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 121は、新潮社前を撮ったものです。撮影時期は昭和56年(1981)頃と説明されていますが、この正門は大正時代のものなので、昭和41年8月までになくなっているはずです(佐藤俊夫「新潮社七十年」新潮社)。したがって撮影は昭和40年(1965)以前のいつかです。さらに下の3枚目の写真を見ると、昭和34年(1959年)には奥の倉庫ができています。そうすると、撮影は昭和34年から昭和40年まででしょうか。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 121 新潮社前

 佐藤義亮氏が明治29年、月刊誌「新声」を創刊し、明治37年、月刊誌「新潮社」を創刊、大正2年、矢来町で社屋を建て、大正12年、4階建ての新社屋を建築しました。

 この大正期の社屋があるのは矢来町71番地です。ID 121の手前に見える社屋は、元は72番地でした。この建物には玄関がなく、奥にある石造りの旧社屋を手前に建て増したものでしょう。ID 121では古い玄関と、その上の丸みを帯びた旧社屋の外壁が確認できます。

新潮社

 さらに奥にも別棟(倉庫)が続いています。ここは元の69番地です。
 手前の72番地は1957年、69番地の別棟(現在は営業部書店係)は1959年の完成でした。さらに国立国会図書館で調べると1966年「新潮社新社屋落成記念」(新潮社、昭和41年)が出版されています。新潮社は発展と共に本社を建て増したようなので、何が新社屋なのか分かりにくいようです。
 現在の新潮社本社は、石造社屋を取り壊し、4階建てのビルを奥に伸ばした形になっています。玄関も新しくなりました。また別棟も含め、すべてが「矢来町71番地」に合筆されています。

新潮社。営業部書店係と本館

矢来町(写真)中の丸 昭和45年 ID 118-120

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 118からID 120までは、昭和45年、矢来町の中の丸を撮ったものです。ただし、ID 118とID 119の撮影時期は昭和45年3月、ID 120は昭和45年4月となっています。
 この写真の解釈2つを上げてありますが、コメントの方が正しいでしょうね。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 118 矢来町中の丸あたり

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 119 矢来町中の丸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 120 矢来町中の丸

 ID 118は自動車が遠くに走っています。T字路だと思われ、おそらく一方通行か、あるいは対面通行でもほとんど自動車は通らない場所でしょう。中の丸というのは明治時代に矢来町3番地は巨大な区域なので旧殿、中の丸、山里の3つのあざに分けていました。中の丸は中の丸御殿の跡の意味で、北東部分(下図で橙枠)になります。
 ここでT字路になる場所は9か所です。

 次は電柱を見ていきましょう。電柱の位置はまず不変ですが、ただし変わるものもあるので、ここからは全て推量です。ID 118-120のコンクリート製と木製の電柱は右側にあります。
➀ 左側だけ ➁ 左側だけ ➂ T字の中央に電柱1本
➃ 電柱0本 ➄ 右側だけ ➅ 左側だけ
➆ 電柱は遠くの左側1本と近くの右側1本
➇ 右側だけ ➈ 左側だけ
 これからすると、➄か➇だけが正しく、うち➄では電柱の位置が違うので、➇でしょうか?

 一方、地元の方は違う方法でこの難問に取りかかります。

 一連の写真は、ID 120に見える木塀の家を中心にお屋敷町のイメージを狙ったのでしょう。この写真の撮影場所を推理してみます。
 条件は以下になります。
1) 電柱が3本見えるので、60-70mある平坦で真っ直ぐな道。
2) 突き当たりに塀がある。(複数の建物ではない)
3) 車が通行しにくい。(4m幅に拡幅されていない)
4) 左側には少なくとも4軒の家が道に迫って立っている。
 これを1970(昭和45)年当時の中の丸付近の住宅地図と照らし合わせると、➀-➃が候補に浮上します。(矢印は撮影方向です)これを個別に検討します。

1970 矢来中の丸周辺b

 ➀は2016年のストリートビューで古いブロック塀が壁の写真があり、おそらく違います。
 ➁は雨水用の側溝が右側にあり、また2013年のストリートビューで突き当たりの古いブロック塀の様子が違います。
 ➂は地図上では真っ直ぐに見えますが、出口付近がカーブしていて写真と印象が違います。
 ➃は塀など写真の面影はありませんが、条件には合致しています。
 もう1点、注目すべきはID 118の樹木の間に見える人工物らしきものです。これは恐らく、突き当たりの家の向こうに4階以上のビル(屋上のテントのようなもの?)が見えていると思われます。
 ➃の位置からは牛込中央通りに面した旺文社のビルが見えていたはずで、この点でも④が最も可能性が高いと思います。

 最初にこの50年で矢来町に新しい道路がてきたんだと知りませんでした。反省です。

矢来能楽堂(写真)昭和45年 ID 117

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 117は、昭和45年3月、矢来能楽堂の裏を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 117 能楽堂うら

 この写真を撮った番地は矢来町53番地と60番地の間の通りでした。左側の電柱は背が高く、コンクリート製で、街灯もあります。一方、右側の電柱は背が低く、おそらく木製でしょう。左の側溝ははっきり見えませんが、右はきちんと見えます。
 右側の木造平屋は地図によれば「魚定」ですが、通りに沿ってトロ箱(木箱)が積んであり、「魚錠」とも読めます。
 その木の壁で見切れているのは佳作座の上映案内で、「チキチキパンパン」「空軍大戦略」と推測できます。ID 64、ID 8317も昭和45年(1970年)3月に「チキチキバンバン」を上映中で、同時期の撮影かもしれません。
 「魚錠」から1軒置いて矢来能楽堂が見えます。その前のトラックには人が集まっており、野菜売りの行商の八百屋でしょうか。


矢来町(写真)矢来公園 昭和45年 ID 115, 116

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 115と116は、昭和45年3月、矢来町のある一部を撮ったものです。以前は矢来町3番地あざ山里といいました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 115 矢来山里

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 116 矢来山里

 ID 115の右側とID 116の左側は矢来公園です。昭和44年に開園しています。小浜藩邸跡、杉田玄白生誕地で、後に園内に碑が建てられました。
 また令和2年には、ID 116の公園の奥にあった鏑木清方氏の旧居跡を新宿区の史跡として指定しました。案内板は公園入り口付近にあります。

       新宿区指定 史跡

かぶら清方きよかたきゅうきょあと
所 在 地 新宿区矢来町三十八番地三
 指定年月日     令和元年六月三日
 日本画家・鏑木清方(1878~1972)は、大正15年(1926)9月から昭和19年(1944)まで、現在の新宿区矢来町38番地3に暮らした。ここ新宿区矢来公園の東に隣接する一帯である。
 清方は、本名を健一といい、明治11年(1978)に東京神田に生まれた。13歳の時に、浮世絵の流れを汲む水野みずの年方としかたへ弟子入りし、美人画を得意とする画家として地位を固めていった。
 矢来町の家は、大正15年(1926)9月より賃借ちんしゃくし、のちに購入して、懇意の建築家・吉田よしだ五十八いそやへ依頼し、応接間や玄関を改築して制作環境を整えた。清方はこの家を「夜蕾やらいてい」と称した。
 代表作となる「築地つきじ明石町あかしちょう」(昭和2年)のほか「三遊亭さんゆうてい圓朝えんちょうぞう」(昭和5年、重要文化財)など絵画史に名を残す名作をこの地で多く制作した。
 なお、鎌倉に移転後の昭和29年(1954)には文化勲章を受章した。
   令和2年2月28日
新宿区教育委員会

鏑木清方旧居跡

矢来町(昭和45年)
  • ID 115
  • 電柱広告 牛込台さこむら診療所
  • 電柱広告 神楽坂ゴルフ
  • ID 116
  • 交通標識 自転車を除く 一方通行路 
  • 広告 東京ガス 牛込サービス店
  • 広告 土地家屋アパー(ト) 有限会社 神楽坂商事

矢来公園付近(全国地価マップ

柳町交差点の排気ガス禍。昭和45年

文学と神楽坂

 自動車排気ガスの汚染地域、新宿区の牛込柳町交差点付近で住民の中に、鉛が体内に蓄積しているという報告がありました。 昭和45年5月22日、読売新聞の朝刊は……

 交差点の排気ガス禍深刻
体内に鉛異常値
文京医療生協医師団の調査
厚生省・都も重視 新宿・柳町

 全国各地で新しい公害禍がこのところ連日のように発見されているが、自動車排気ガスの最汚染地域、東京・新宿の牛込柳町周辺の住民に、正常人に比べ最高7、8倍もの鉛が体内に蓄積されているというショッキングな調査結果が21日夕、革新系の文京医療生協医療団(安達繁団長)から発表された。この鉛公害の発生源は、ハイオクタン・ガソリンに添加されている四エチル鉛などの鉛化合物ではないかと同医師団はみており、これが自動車の排気ガスにまじって野放しに放出されているため、すりばちの底のような立地条件にある同交差点一帯の住民の健康をむしばんでいると推定している。(中略)
健康障害、住民も陳情
 この調査の対象は、同交差点を中心として半径70㍍以内の地域に住む人たち66人で(中略)鉛の血液中濃度、尿中濃度、それにアンケートによる自覚症状の3点を中心に、検診に当たった。採取した血液、尿を氷川下セツルメント病院で原子吸光分光光度計を使い検査した。
 同医師団の説明によると、検診を受けた66人のうち58人までが血中、尿中濃度とも正常人の平均値を大幅に上回り、最高7、8倍もの高い数字が出た。
 血中濃度の場合、最高は37歳の男百㏄中138㍃・㌘(1㍃・㌘は百分の1㌘)が検出され、これは平常値同20㍃・㌘の2倍以上となっている。さらに60㍃・㌘を越す人が15人もあり、平常値以下の住民はわずか8人だった。
 一方、尿中濃度の最高値は47歳の主婦で、1㍑中152㍃・㌘。尿中の平均値は、学者によっては、同20㍃・㌘から60㍃・㌘まで見解の幅があるが、同医師団の主張するように20㍃・㌘をとると、実に8倍近い数値。(中略)
長谷川豊厚生省公害課課長補佐の話「原子吸光分光光度計はカドミウム、亜鉛の測定に使われているが、鉛の場合は感度が落ちるので、なれた人でないと誤差が出やすい。だが、これだけの結果が出たことは放置できない事実だ。さっそく資料を提供してもらい、学識経験者、試験機関で内容を検討してみたい。そのうえで対策を立てることになろう」(後略)
読売新聞 昭和45年5月22日朝刊

 朝日新聞の夕刊3面では……

 排気ガスで広がる鉛中毒   新宿・牛込柳町交差点 
蓄積、普通人の7倍
   住民調査 25%が職業病なみ
 自動車の排気ガスによる汚染が、東京でいちばんという新宿の牛込柳町交差点付近の住民の中に、排気ガス中の鉛が体内に異常に蓄積している――と21日、文京医療生活協同組合医療団(団長、安達繁 同生協理事長)が集団検診の報告を発表した。それによると、血液中の鉛の値が、労災補償で認められる鉛中毒の基準を越えている人が49人中13人もいて、排気ガスによって多くの慢性鉛中毒患者が発生しつつあることが明らかだ、という。(後略)
朝日新聞 昭和45年5月22日夕刊

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7427。牛込柳町の交通渋滞 昭和40年代には、急増する自動車の排気ガスによる大気汚染も問題になった。市谷柳町は、排気ガスによる鉛公害で注目を集め、その後のガソリン無鉛化のきっかけとなった。昭和(戦後) / 昭和45年3月25日

 次のシンポジウムでは、東京医科大学教授の赤塚京治氏は銅の定量分析は極めて難しく、誤差は出やすいと明記します。

 無鉛化ガソリンへの道  シンポジウム
【牛込柳町の調査結果】住民49人のうち、血液100㏄中の鉛の量は最高で138ガンマ。普通の人は(日本での測定値では約20ガンマといわれる)の7倍近くもの蓄積されている。21ガンマ以上の人が41人もいる。
赤塚氏(東京医科大学教授 公衆衛生学) この結果は異常に高いと思う。世界保健機関(WHO)が昭和42年に、16カ国に鉛の蓄積量を問合わせたことがある。その時の結果では16カ国平均は17ガンマだった。トップはフィンランド26ガンマ。日本は20ガンマ。(中略)わが国では、鉛を取扱う人が100㌘の血液の中に鉛が60ガンマ出たら精密検査を受けることに決まっている。これは国によっては70-90ガンマにしているところもある。牛込柳町交差点付近の人々の場合、この範囲を越えている人もいる。鉛を扱っている工場でも警戒が必要なぐらいのきわめて高濃度のものだ。血液や尿中の鉛の定量分析は技術的にもむずかしい。さらに調査を何度もくりかえしてゆく必要があろう――
朝日新聞 昭和45年5月31日朝刊

 また、週刊現代の「牛込柳町の鉛害データに重大疑義あり–公害騒動の火つけ役・文京医療生協と都庁、東京医大のいい分はこんなに違う」(講談社、昭和45年7月2日)で東京医科大学教授(衛生学・公衆衛生学)の赤塚京治氏は

(都水道局の安全基準によって、上水道には1㍑中100㍃グラムまで鉛がはいっていいことになっている。だから、1日2㍑の水を飲めば、それだけで実に200㍃グラムの鉛が体内にはいりこむことになる)(中略)
 人間の大小便による鉛の処理能力は、1日1.31㍉グラム(1310㍃グラム)もあるのです。だから食事と呼吸によって入ってきた鉛は、それほど心配することはないと思います。

 一方、東京都は検査を行います。「日本におけるガソリン無鉛化の経緯と通産省の役割」で都の検査の結果を示します。203人のうち血中鉛量21μg以上は8人(4%)であり、41μg以上はいませんでした。一方、生協の調査では49人のうち42人(86%)が異常で、41μg以上は30人(61%)でした。
文京医療生活協同組合医師団及び東京都による調査結果 (単位 人)

生協調査(単位 人)都調査(単位 人)
血液100㏄中の鉛量(単位μg)13810
81-10070
61-8050
41-60170
21-40128
0-207195

 さらに第2次検診では牛込柳町199人を検査、尿中鉛は1人が要注意ライン60μgで、血中鉛注意ライン30μgがセロでした(読売新聞 昭和45年7月18日朝刊)。また江戸川区、千代田区、足立区、世田谷区の318人は血中、尿中鉛とも労働衛生基準を下回っていました(読売新聞 昭和45年10月13日朝刊)。
 どうも生協医療団の検診はおかしいと思われ始めました。しかし……

 柳町検診への疑問 

鉛の測定は、専門家でさえ正確なデータをつかむのはむずかしいといわれているが、まだまだ稚拙な域を出ていない測定技術で、それも一回ぽっきりの住民検診で、業界の〝バックアップ〞になってはたまらない。「異状なし」の根拠を、労災基準の適用数値に求めていることも、解せないことの一つだ。住宅地は鉛工場ではない。住民が「公害と職業病を同一視している」といきまくのも、当然である。
読売新聞 昭和45年6月28日朝刊

 まあ、これで終わることにしましょう。一方、警視庁はその対策を取り、増設信号機は2015年まで続きました。現在はなくなっています。

 交差点を素通りに

 警視庁、柳町公害で対策 
 左折禁止 日中は大型車締出し 
 東京都新宿区牛込柳町交差点の排気ガス公害の対策を検討していた警視庁交通部は30日、交差点の手前に系統式信号機3つふやして車をさばき、土地が低くなっている交差点では車が止らせないことに決めた。また、左折禁止もあわせて6月10日ごろをめあてに実施する。同庁はこの措置で、交差点付近の排気ガスが減るものと期待している。

牛込柳町交差点の改善施設

 この交差点は東西方向の「大久保通り」と南北方向の「外苑東通り」が交わっており、信号機が現在4つある。ここで車や路線バスがエンジンをかけたままとまり、発進の際にエンジンをふかすのが排気ガスの多い原因のひとつとされている。
 こんどの措置は――
 ➀交差点から東に120㍍離れた大久保通りに西行きの信号機一機を、また西に120㍍離れて同通りに東行きの信号機一機をそれぞれふやし、そこに車の停止線を設ける。この新設信号機と今ある四つの信号機は、特殊な系統式にして、東行きの車と西行きの車は、新設信号機の青信号でスタートすると、交差点をストップすることなしに通過できる。
 ➁これが東西方向の車が通りぬけた瞬間、南行きと北行きの信号機が青色になり、南北方向の外苑東通りの車が流れ出すようにする。
 ➂二つの信号の組合せによって車をさばくと、新設信号機ができる付近は土地は高いので、交差点付近のように排気ガスがたまることはない。
 ➃交差点から二,三〇㍍のところにあるハス停は、渋滞の原因になるので、新設信号機の外側に移す。
 ➄交通部は、これとは別に6月1日から午前8時-午後8時の間、路線バスを除く大型車締出すことにしており、新しい信号や左折禁止とあわせて、効果が注目される。
朝日新聞 昭和45年5月30日夕刊

矢来町(写真)75番地等 昭和45年 ID 113-4, 8312-3

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 113と8312、ID 114と8313は、昭和45年3月、矢来町75番地を中心に撮ったものです。なお、前後の通りは牛込中央通り、左右の路地には名前はありません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 113 矢来町71、新潮社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8312 牛込中央通り 新潮社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 114 矢来町71、新潮社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8313 牛込中央通り 新潮社前

 左側でこの写真を撮った番地は矢来町3番地、先に行くと61番地です。右側はトラックが見えるのは77番地、車が渋滞しているのは75番地でした。
 左側の電柱は背が高く、コンクリート製で、柱上変圧器や街灯もあります。右側の電柱は背が低く、おそらく木製です。街灯は道の両側にありますが、同じ道の他の場所(77~82)は片側しかありません。新潮社前の街灯は奥まった位置にあり、私設灯(軒灯)の可能性が高いと思います。現在でも新潮社の敷地(植え込み)内に街灯が立っています。

矢来町(昭和45年)
  1. (日本英語教育協会)(3番地)
    ――無名の路地
  2. (黃 キザ)クラ 桜 白鷹 ハクタカ 〇〇本醸 和泉屋酒店 日本盛 和泉屋酒店 (61番地)
  3. 電柱広告「  加藤」
  4. 道路標識・横断歩道 (横断歩道)
  5. 第一パン
  6.  (一方通行)
  1. 歩道に出ているトラック(旺文社)(77番地)
  2. 後ろ向きの道路標識
  3. 電柱広告は見えない
    ――無名の路地
  4. 横地医院 内科 小児科(75番地)
  5. 新潮社 4階建て(71番地)

住宅地図。昭和45年

矢来町(写真)77-82番地 昭和45年 ID 107-112

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 107-112は、昭和45年3月、矢来町の牛込中央通りを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 107 矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 108 矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 109矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 110矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 111矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 112矢来町77~82、旺文社前

 番地でいうと左側はほとんど矢来町1番地です。1番地が広大なのは、矢来町の名の由来になった酒井家の矢来屋敷の主要部分が分筆されないまま、現在も団地(矢来町ハイツA棟~J棟)として一体で使われているからです。
 右側は矢来町82番地が中心で、直行する道路を越えると、奥に行くときに81番地、79番地、78番地、77番地の順に並んでいます。現在は78番地と79番地を合わせて大きな78番地になりました。
 ID 8311はID 107-112と同じ時の写真だと考えます。この数台のなかに車種も同じでナンバープレートも同じ車があり、他の車でも車種が同じものもあり、ID 8311も同じく「昭和45年3月」だと考えます。
 ID 107~110で、左側のプレハブは「キュービクル式高圧受電設備」(高圧変電設備、キュービクル)でしょう。発電所からの電気は6,600Vですが、それを100Vや200Vの電気に変圧するため、機器一式を金属製の外箱(筐体)に収めたものです。

矢来町(昭和45年)
  1. キュービクル。 さわらぬこと DANGER 貼紙せぬこと 東京電力 NO.牛 00
  2. 長い万年塀(日本興業銀行矢来寮)
  3. 電柱看板「ほねつぎ 加茂」
  4. 8-20 (駐車禁止)(区間内)
  1. 瓦屋根の2階屋
  2. 地図で「中島会計事務所」
  3. 瓦屋根の2階屋
  4. 天ぷらそば 更科
  5. 電柱看板「旺文社」
  6. 東京朝日新聞牛込北町専売所
  7. 荒木表具店。表具師◯◯◯◯◯ TEL ◯◯◯◯◯◯
  8. 数軒
  9. 消火栓
  10. 三菱のマーク(三菱石油ガソリンスタンドは地図上に見当たらず。燃料店か)
  11. 旺文社事業部


横寺町(写真)飯塚酒場跡 昭和40年頃 ID 13610

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13610は、横寺町の朝日坂にある飯塚酒店を撮ったものです。ID 13610の資料名は「飯塚酒場跡」、時期は「昭和40年頃か」です。「酒場さかば」「居酒屋いざかや」は酒を飲ませる店、「しゅてん」(他にさかだな、さかみせ、さかてん、さけみせ)「酒屋さかや」「酒販店しゅはんてん」は酒を売る店で、本来は違う意味です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13610 飯塚酒場跡

 飯塚酒場は第2次世界大戦前、酒造業の規制が緩かった時代に安価な「にごり酒」(雑酒)を製造販売し、それを呑ませる店として繁盛しました。
 戦後、自家醸造の酒(にごり酒など)は出しませんでした。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)では……

精米商と質屋をも兼営していた飯塚酒場はその坂の右側にあって、現在では通常の酒屋――和洋酒や清涼飲料や調味料の販売店でしかなくなっているが、戦前には官許にごり、、、なるものを飲ませる繩のれんのさがった居酒屋であった。

 野田宇太郎の『文学散歩』では……

 戦災がひどく、道の両側に並んだ寺々と共に商家などにも戦前の面影は更にないか、ほぼこの町の中央にあった飯塚酒店が、戦前の官許にごりの店でなく普通の酒類店としてではあるが、復興も早かったことは、横寺町に辿る文学史の一つのたしかな道標でもあった。

 写真の看板は「清酒※澤之鶴 飯塚酒店」とあり、普通の酒屋です。飯塚酒店は田口重久氏の昭和50年でもあり、住宅地図では平成に入っても営業していました。現在は店はなく、飲料とタバコの自販機が置いてあります。

05-05-34-1芸術倶楽部跡遠景 1975-08-28

 今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)では……

 飯塚酒場の官許にごり酒のことは、野田宇太郎氏、野口富士夫氏などいろいろな人の本に書かれていますが、まだ子供だった私でもあの賑やかな雰囲気はよく覚えています。勿論私の記憶にあるのは酒場の中の賑わいより、いいご機嫌で縄のれんを出て来た人たちで賑わう酒場前の光景です。足下の危なくなった人もいれば、大声で放吟する人もいましたが、不思議と「酔っぱらいは嫌だなあ」と思った記憶はありません。荒縄でしばった侭のみかん箱を片手に、通りすがりの人に誰彼となく一個ずつみかんを配っている気のいい酔っぱらいもいたし、客は皆楽しそうに見えました。
 ところでその官許にごりの看板ですが、「官許」の文字が縦長で、右からの横書きになっていたため、私はてっきり「鯛」とか「繊」の字のような一字だと思いこみ、なんという字だろうと前を通る度に首をひねっていました。ある時母に何という字かと尋ねて、やっと官許だとわかったのですが、大事なことを忘れてしまっているのに、そういう小さな思い出はいつまでも消えません。
(鳥居)

横寺町(写真)尾崎紅葉旧居跡 ID 13520, 13525 昭和30年代

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13520とID 13525は昭和30年代頃、尾崎紅葉旧居きゅうきょ跡に撮ったものです。氏は、明治24(1891)年3月から死亡する(明治36年10月30日)まで、12年半、横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。

ID 13520 新宿歴史博物館「写真で見る新宿」尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13520 尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代

 ID 13520は、昭和29年の野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年)の写真とよく似ています。垣根は四ツ目垣です。ただし、ID 13520は真新しいモルタル造の家に変わっています。玄関脇の廃材は古屋を解体したものかも知れません。

野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年)

ID 13525 新宿歴史博物館「写真で見る新宿」尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13525 尾崎紅葉旧居跡

 ID 13525は、イチジクと思われる木のそばの井戸を狙っています。周囲は雑然としていて、ゴミ箱らしき木箱や物干の竿かけ、半ば開いた勝手戸のようなものが写っています。建物の裏庭のようです。
 この写真は恐らく、尾崎紅葉宅にあった井戸でしょう。位置はわかりませんが徳田秋声氏の『和解』(昭和8年)では……

 それは勿論O―先生の旧居のことであつた。その家は寺から二町ばかり行つたところの、路次の奥にあつた。周囲は三十年の昔し其儘であつた。井戸の傍らにある馴染の門の柳も芽をふいてゐた。門が締まつて、ちやうど空き家になつてゐた。
「この水が実にひどい悪水でね。」
 K―はその井戸に、宿怨でもありさうに言つた。K―はここの玄関に来て間もなく、ひどい脚気に取りつかれて、北国の郷里へ帰つて行つた。O―先生はあんなに若くて胃癌で斃れてしまつた。
「これは牛込の名物として、保存すると可かつた。」
 O―とK―は 尾崎紅葉泉鏡花です。
「馴染の門の柳」については、後藤宙外氏の「明治文壇回顧録」(昭和11年)で……

門を入つて左側の塀際に、目通り径五六寸程の枝垂柳が一本あつたのである。

 したがって「門」の左側に「柳」があり、そのそばに「井戸」があったはずです。
 井戸は門の外だったかもしれませんが、内では流しや風呂場が近いので便利だったでしょう。現代の地図では以下の場所にあたるかもしれません。

【尾崎紅葉 旧宅位置想像図】赤が47番地(鳥井家)、青が紅葉旧居、緑が井戸

心の日月|菊池寛

文学と神楽坂

 菊池寛氏の「心の日月」は雑誌「キング」の昭和5年1月号から6年12月号まで連載されれた長編小説です。岡山県に住む皆川麗子が主人公で、親が決めた結婚相手がいましたが、彼に対する嫌悪感は強く、家を飛び出し、同じ岡山県の学生磯村晃と東京の飯田橋駅で待合せをします。

 磯村は、牛込市ケ谷に近い寄宿舎にゐた。そこは、キリスト教と関係のある寄宿舎で、監督が可なり厳重だと云ふことをきいてゐた。経営者が岡山県人なので岡山県人も、沢山居ると云ふ話だつた。そんな寄宿舎へ麗子がいきなり訪ねて行くことは、相手にどんな迷惑をかけることか分らなかつた。それに、麗子の顔を見知つてゐる学生でもゐたら、自分の東京にゐることが、自分の家に知れることになるかも知れないと思つた。
 で、麗子は、牛込に着いたら、とにかく電話で容子を訊いて見ようと思つた。
「ね、もし。」
 彼女は、運転手に話しかけた。
「何です。」
「まだ牛込へ来ませんの。」
「いゝえ。もうすぐ牛込ですよ。そこの橋が飯田橋で、を渡れば牛込ですよ。」
「こゝから、市ヶ谷は近いでせうか。」
「えゝ。もう、三四町です。」
「ぢや、わたし一寸茲で、おろして貰ひたいわ。」
「はい。」
 運転手は、すぐ橋の左側のに車をとめた。見るとそこに、その往来を横ぎつて高架線があり、道の直ぐ左側にその高架線の停車場があつた。飯田橋駅とかいてあつた。麗子が、運転手に賃銀を払ふとき、数台、連結した電車が、麗子の頭上を轟々と通りすぎた。
「この電車は、どこへ行きますの。」
「これですか、これは省線ですよ。」
 麗子は、なるほどこれが、新聞でよく知つてゐる省線電車だなと思つた。
 麗子は、車から降りると公衆電話をさがした。公衆電話は橋向うにあつた。麗子はすぐ、電話の所へ行つた。もう、一分の中には磯村の声がきかれるかと思ふと、麗子は胸が、踊り始めた。でも、公衆電話には。五十近い老婆が、はつて居り、麗子は三四分の間いら/\しながら、待つてゐた。
「お待遠さま。」
 老婆は麗子に挨拶して出て行つた。麗子は、急いでその小さい六角の建物の中には入ると、電話帳をくり出した。割合に早く牛込四八〇五番と云ふ番号が出て来た。
 五銭の白銅を入れると、それは麗子の胸を、おどろかしたほどの高いひゞきを出した。
「あなたは、牛込の四千八百五番ですの。ぢや、聖陽学舎でございますの。磯村さんは、いらつしやるでせうか。」
 麗子は、おづ/\しながら訊いた。
「一寸お待ちなさい!」
 麗子は、自分の名前を訊き返されたりするのではないかと、ビク/\してゐたが、そんなことはちつとも、訊かれないので、ホツとした。もう、今度声が聴かれると、それが磯村の声だと思ふと、麗子は全身の血潮が受話器を当てゝゐる左の耳に、奔騰して来る思ひがした。
「もし、もし、僕磯村です。あなたは。」
 それは、たしかに磯村のなつかしい声だつた。
「わたくし、皆川です。」
「皆川?」
 磯村には、麗子が東京へ来てゐるなどとは、夢にも思ひつかぬらしかつた。
「皆川ですの。岡山の。」
「まあ! 麗子さんですか。」
 電話口に於ける磯村の驚きが、ハツキリ感ぜられた。
「えゝ。」
キング 大衆娯楽雑誌で、1925年(大正14)1月、講談社の野間清治氏は「万人向きの百万雑誌」を出そうとして創刊。翌年には150万部になりました。
容子 様子。容子。外から見てわかる物事のありさま。状況。状態。
 ここ。ほかに此処、此所、此、是、爰も「ここ」
三四町 1町は約109m。3~4町は327~436mで、約400m
 たもと。そば。きわ。
省線 鉄道省の電車の通称。汽車と省線電車の2つに分かれた。
くり出す 順々に引き出す。事実を探り出す。
白銅 5銭白銅貨幣。大正5(1916)年に制定。昭和9年では1銭はおおむね現在の250円(https://ameblo.jp/kouran3/entry-12069419540.html
血潮 ちしお。体内を潮のように流れる血。激しい情熱や感情。
奔騰 ほんとう。非常な勢いで高くあがること。勢いよくかけのぼること

「東京へいらしつたのですか。」
「えゝ。」
「今どこです。今どこに居るのですか。」
「飯田橋駅の前ですの。」
「飯田橋駅ですか、ぢや、すぐ此方こちらへいらつしやいませんか。」
「でも、私を知つてゐる方がいらつしやるでせう。こちらへ来て下さいませんか。」
「行きます。すぐ行きます。飯田橋駅ですね。」
「さうですの。飯田橋駅の入口のところにゐます。牛込の方から橋を渡つて来るとすぐ駅の入口があるでせう。」
「えゝ分りました。すぐ行きます。今から十分位に行きます。」
「ぢや、どうぞ。」
 麗子は、急に嬉しくなつてしまつた。もう十五分もすれば、磯村に会へると思ふと、胸が躍りつづけるのだつた。
 麗子は、公衆電話を出るとすぐ橋を渡つて、駅の入口のところへ引き返して来た。そして、駅の時計と自分の腕時計が、二三分違つてゐるのをなほしてから、ぢつと自分の腕時計を見ながら待ち始めた。
 磯村とは、手紙でこそ、可なり親しくなつてゐるが。打ちとけて話し合つたことは、殆んどないと云つてもいゝので、麗子はうれしさの中にも、多少の不安があつた。でも、二言三言話せば、すぐ凡てを打ちあけられる人に違ひないと思つてゐた。十分は、すぐ経つた。麗子は橋の袂まで行つて、牛込から渡つて来る人を、一人一人磯村でないかと、目をみはつてゐた。そのうちに、また五分過ぎた。十分位と、おつしやつても支度に五分位は、かゝるに違ひないと思つてゐた。そのうちに、また五分経つた。
 でも、十分とおつしやつたのは、私に勇気づけて下さるための好意で、ほんたうは三十分位かゝるかも知れない。麗子は、さう思つて、心の中に芽ぐんで来る不安の感じを、ぢつと抑へつけてゐた。だが、その中に到頭三十分になつた。麗子は、堪らなくなつて、駅の売店の十四五の女の子に訊いた。
こゝから、市ケ谷へ行くのは何分かゝるでせうかしら。」
「市ケ谷なら、十分もあれば行けますよ。」
「そんなに近いのですか。」
「電車で、二停留場ですもの、歩いたつて、十分とはかゝりませんわ。」
 麗子は、それをきくとだん/\不安になつて来た。なぜ/\来て下さらないのでせう。自分が、上京したことを、迷惑にお考へになつて、来て下さらないのかしら、麗子は磯村に対する不安と疑間とが、心の中に芽ぐんで行くのをどうすることも出来なかつた。その内に、時間が、泥濘の中を、きしり行く車輪のやうに、重くるしくうごいて、また十分たつた。初から、云へば四十分経つた。麗子は、気持が真暗になり、目をとぢると、涙が浮びさうにさへなつた。一分一分、いらくした不安のために、胸がズタ/\に刻まれて行くやうだつた。また、その内に五分経ち、十分経つた、麗子は、もうぢつとして待つわけには行かなかつた。彼女は、また橋を渡つて、以前の公衆電話をかけて見る気になつた。牛込の四八〇五番は、すぐ出た。
「もし、もし、あの磯村さんは、いらつしやいませんでせうか。」
「磯村さんは、先刻さつきお出かけになりましたよ。」
「まあ! 何時間位、前でせうか。」
「さうですね。もう、一時間前ですよ。」
 麗子は、何だか打ち倒されたやうな気がした。茲へ来てくれないで、阿処へ行つたのだらう。麗子は、駅の入口まで引き返して来ると、改めて入口の上の白壁に、黒字で書いてある飯田橋駅と云ふ字を見直した。決して、自分は云ひ間違ひをしてゐない、それに磯村さんは、どこへ行かれたのだらう。あの方も、結局遊戯的な紙上恋愛で、いざそれが実際問題になると、かうも薄情に自分から逃げて行かれるのだらうか。麗子の感情は、水をかけられたやうになつてしまつた。彼女の美しい眼は血走り、色は青ざめ、飯田橋の橋の欄干に身をよせたまゝ、そこに取りつけられた塑像のやうに立つてゐた。
 重くるしい鉛のやうな時間は、それでもハツキリと経つて、一時問、一時間二十分、一時間三十分、いくら待つても、磯村の姿は見えなかつた。
二停留場 省線電車では隣の駅で、路面電車では「逢坂下」と「新見附」の次の駅でした。
泥濘 でいねい。泥が深いこと。土がぬかるんでいること。
きしる 軋る。堅い物が強くすれ合って音を立てる。きしむ。
重くるしい 重苦しい。おもくるしい。押さえつけられるようで、息苦しい。気分が晴れ晴れしない。
欄干 らんかん。てすり。人が落ちるのを防ぎ装飾とするもの

 待てども来らず

 磯村は、麗子の電話をきくと、先づ驚駭きょうがいした。しかし、麗子がそれほど思ひ切つた態度に出てくれたと思ふと、急に自分も勇気が湧いて来た。(麗子さんが、そんな大決心をしてくれる以上、俺もどんなことでもやるぞ)彼はさう、心に誓ふと電話室を飛び出して、自分の部屋へ帰つた。そして、袴をはいて帽子を被ると、寄宿舎の門を出て、砂土原町を牛込のお濠端へと馳け下つた。
 彼は、牛込見附の橋を渡つて、飯田橋駅の前へ出た。お濠端を通つてゐるとき、麗子の姿が、駅の入口の中央の鏡を入れた壁の前辺りに見えないかと注意したが見えなかつた。牛込見附の土橋の上を登り切つて、駅の前に立つたが、麗子の姿は見えなかつた。磯村は、省線に乗つたことは、一二度しかなく、この頃省線の駅が改築され、飯田橋駅は、牛込見附と飯田橋との両方に入口があることを知らなかつた。まして、麗子が牛込見附ではない、飯田橋の方の入口に自分を待つて居ようとは夢にも思ひ及ばなかつた。
(あ、麗子さんは、その辺りで何か買物でもしてゐるんたな)
 さう思つて、麗子がひょつくり現はれるのを待つてゐた。
驚駭 恐れ驚くこと。
寄宿舎 この寄宿舎は「門を出て、砂土原町の坂」を下るとお濠に出る場所だといいます。これは埼玉学生誘掖ゆうえき会でしょう。これは1902(明治35)年、渋沢栄一氏らが発起人になって創立。埼玉県出身の学生を支援し、砂土原町3丁目21の寄宿舎の運営と奨学金の貸与を行いました。誘掖は「導いて助けること」。しかし、寄宿舎は減少する入寮者と老朽化で2001年3月末をもって取り壊し、跡地はマンションに。
碑文 埼玉学生誘掖会

埼玉学生誘掖会

明治35年3月15日埼玉県の朝野の有志(渋沢栄一(青淵爺)、本多静六、諸井恒平氏等が中心となって)が埼玉学生誘掖会(明治44年財団法人の認可)を創設 都内で修学する学生のために明治37年寄宿舎を建設し昭和12年には鉄筋2階建てに改築し平成13まで存続した その後跡地は売却され財団法人埼玉学生誘掖会の奨学金事業の基金となる

砂土原町 市谷砂土原町一丁目から市谷砂土原町三丁目。本多佐渡守正信の別邸があって「佐渡原」と呼び、富裕層が多く住み、高級住宅街です。
 おそらく逢坂でしょう。
土橋 つちはし。どばし。木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋
両方に入口 昭和3年11月15日、牛込見附と飯田橋との両方に入口がある飯田橋駅が開業。同時に牛込駅は廃止。

横寺町(写真)尾崎紅葉旧居跡? ID 13518~19 昭和30年代

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13518~19は昭和30年代頃、尾崎紅葉旧居きゅうきょ跡に撮ったものです。氏は、明治24(1891)年3月から死亡する(明治36年10月30日)まで、12年半、横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13518 尾崎紅葉旧居跡

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13519 尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代頃

 東京市及接続郡部地籍台帳(明治45年)によれば、横寺町47番地は鳥井家がすべて所有し、280坪(約900平方メートル強)ありました。地籍地図(大正元年)を見ても、46番地と48番地の間の路地の奥一体が47番地です。つまり、この路地の両側全体が横寺町47番地になります。撮影当時、鳥井家は路地の左側だけになっていたようです。

東京市及接続郡部地籍地図。東京市区調査会。大正元年。国立国会図書館デジタル

東京市及接続郡部地籍台帳(明治45年)横寺町47

 写真で見る限り、私道に出る門はありませんでした。私道は中央だけが簡易に舗装されているようですが、荒れていて排水の側溝もありません。正面の2階屋は「松坂鉄工所・安西」でしょうか。

住宅地図。昭和35年。写真は細い私道を北側から撮影。

 下図は昭和29年と現在の同じ場所です。これも左側が47番地です。この2枚と最初の2枚は全く同じ場所だったというと、嘘でしょと言われそうです。

野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年)。第二次世界大戦後、この地域はすべて灰燼と化しました。

現在

 しかし、嘘だという理由があります。別の言い方では、この写真ID 13518~19には疑問があります。地元の人は「一番、不思議なのはID 13519の左に一列にブロック塀があり、47番地の鳥井宅に出口がないことです。現代まである路地中央の敷石や、敷地内の老樹がID 13519では見えないことも説明を思いつきません。撮影場所の記録ミスを疑った方がいいのかも知れません」
 また「松坂鉄工所・安西」の場所にも後者2枚は家はなさそうです。写真ID 13518~19は隣の番地を間違えて撮ったものでしょうか?

牛込北町(写真)昭和51年 ID 11452~11454

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11452~11454は昭和51年(1976年)8月、大久保通りを西からバスで牛込北町交差点にくる直前に撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11452 牛込北町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11453 牛込北町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11454 牛込北町交差点

 牛込北町交差点が見え、左右の道路は牛込中央通りで、前後は大久保通り、交差点の左は箪笥たんす町、右手前は細工町、右後ろは北町です。箪笥町は武具をつかさどる箪笥奉行に由来します。細工町は御細工同心に由来し、江戸城内の建物や道具を制作、修理します。北町は北かち町から来た名前で、御徒組屋敷は将軍外出の際、徒歩で先駆を務め沿道警備などに当たりました。
 左の電柱はコンクリート製で背は高く、柱上変圧器が付いています。右には電柱はなさそうです。丸っぽい街路灯は道の両側にあります。

牛込北町(昭和51年)
  1. セブンイレブン。コンビニエンス。
  2. 天麩羅
    —–牛込中央通り
  3. 大型貨物自動車等通行止め(大型貨物自動車等通行止め)
  4. カネボウ化粧品。北町薬局
  1. ◯ 歯科上矢
    —–牛込中央通り
  2. 金ちゃん洋品店
  3. (共同石油)
  4. Bのマーク(文英堂)

住宅地図。昭和53年。

矢来町(写真)牛込中央通り ID 8311 昭和45年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8311は、旺文社から北に進んだ牛込中央通りの写真を撮ったものです。撮影は「昭和44年頃か」としていますが、ID 107-112を考えると、「昭和45年3月」が正しいと思います。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8311 牛込中央通り 旺文社前

 ここは矢来町で、道路は舗装し、左から歩道、縁石、コンクリート、車道があり、縁石は一定間隔で黃色になり、「駐車禁止」です。左の電柱はコンクリート製で背は高く、柱上変圧器や蛍光灯の街灯が付いていますが、右の電柱は背は低く木製です。

矢来町(昭和44年)
  1. 8-20 (駐車禁止)(区間内)
  2. (電柱広告)大日本(印刷)
  3. 長い万年塀(日本興業銀行矢来寮)
  1. 瓦屋根の2階屋 軒高にホーロー看板らしき門票「矢来町◯」
  2. 天ぷらそば 更科 「生そば」の暖簾(新店には見えないが地図上では昭和45年頃から表記)
  3. (電柱広告)旺文社
  4. 東京朝日新聞牛込北町専売所
  5. 荒木表具店。表具師◯◯◯◯◯ TEL ◯◯◯◯◯◯
  6. 数軒
  7. 消火栓
  8. 三菱のマーク(三菱石油ガソリンスタンドは地図上に見当たらず。燃料店か)
  9. 旺文社事業部

昭和40年には「更科そば」がないが、45年から登場する。

現在の矢来町

夜の神楽坂

文学と神楽坂


 佐々木指月しげつ氏が書いた「亜米利加夜話」(日本評論社、大正10年)です。氏は臨済宗の僧で、禅に傾倒し、明治39年、禅伝道のため13名と一緒にカリフォルニア州に渡米。しかし布教は失敗し、彼はシアトルで日本の出版社のため様々な記事や随筆を書き始めました。大正9年で一時帰国し、この文章もこの時期です。昭和3年に再度渡米し、今度は成功し、ニューヨークで米国仏教協会を立ち上げました。太平洋戦争のときに、日章旗への発砲を拒否して逮捕、高血圧と脳卒中で苦しみ、しかし嘆願運動で収容所から昭和18年、解放し、昭和20年、死亡。生年は明治15年3月10日、没年は昭和20年5月17日。享年は63歳。

 子供と二人で、夜の神楽坂の露店をひやかす。
 私たち二人の足どりは、前の方ヘーと足、横の方へ二た足三足と云つたやうなありさまで、袖から袖へとよぎり、袂から袂へとぐぐりぬける。
 夏の夜の神楽坂は、一概に云へば、白地の浴衣のぞめきあるく町とも云へる。
 へこ帯を、猫じゃらしに結んだ男たちの、お尻をかすめて、ゴム輪の人力車が、くたくたと、とほつてゆく。
 自動車が、時たま、ブツ、ブウツと、忘れたやうな音をたてながら、それ、昔のあの下にゐろ下にゐろを、また大正の世にもち出して、土下座の露店の町人に、軽油の白い侮辱をあたへてゆく。
よぎる 避ける。よける。
ぞめく 浮かれさわぐ。遊郭や夜店などをひやかしながら歩く。ひやかし客。
へこ帯 帯の一種。胴を二回りし、後ろで両輪奈わなに結んで締める。輪奈とはひもなどを輪状にしたもの。
猫じゃらし 男帯の結び方。結んだ帯の両端を長さを違えて下げたもの。帯の掛けと垂れの長さを不均等に結び垂らしたもの。揺れて猫をじゃらすように見えるところからいう。

猫じゃらし 男帯の結び方

下にゐろ下にゐろ 「下によ」で、江戸時代、大名行列の先払い(前方の通行人を追い払う人)が、庶民に土下座をするように促した掛け声。「下に下に」
 けむり。煙。物が焼ける時に出る気体
侮辱 相手を軽んじ、はずかしめる。見下して、名誉などを傷つける。

 なかを見ると、洋服の紳士が肘枕で、ごろりと寝てゐる。
 自動車が通るごとに、神楽坂は大変だ。立ちのぼるカンテラの上に、団扇かざした人波が、盆をどりのやうになだれかかると、そこで買つてたナヂモヴアの写真カアドの上へ、どろだらけな下駄のあとがつく。
 ごそごそと小砂利を踏んであるく多勢の下駄のおとは、小声で話す日本語の調子に似てゐる。そちらでも、こちらでも、下駄同志が木製の長方形の低音を交へてゐる。
 藳店亭は、西洋のお寺のやうな家と変つて、その隣りのしるこやは、また、いやに江戸風にまき水などをして、さうでなくともぬかるみで、靴がよごれてかなはないのに、どこからか雨だれのやうな、ピヤノのおとがしてくる。
カンテラ Kandelaar(オランダ語)。手提げ用の石油ランプ。
 すす。物が燃える際に、煙とともに出る黒い炭素の微粒子。
ナヂモヴア アラ・ナジモヴァ(Alla Nazimova)サイレント期最大の女優。ロシア出身。1906年、ブロードウェイに出演し、そ1916年、映画デビュー。生年は1879年6月3日、没年は1945年7月13日。享年は66歳。
藳店亭 わらだなてい。藳店は別名地蔵坂で、神楽坂5丁目もある坂。そこにあった料理屋なのでしょう。しかし、当時の店舗がわかる地図はありません。

 さうかと思うと、その辺のくらがりから、そばやの出前小僧が、出前を左りにさしあげて不思議な自転車の曲のりをやりながら出てくる。
 活動の看板を見るために、横町へ曲つてゐた私たち二人は、また通りへとやつて来た。
 毘沙門さまは、ほこりまみれになつて、老ぼけて塀のなかで寝てゐる。
 坂のおり口に、昔ならば西洋小間物屋、今では、洋品店と銘うつた見世があつて、飾窓のなかになにか飾つてある。
 パナマのハツトに、ピンクのポジヤマが見えた。一つは炎天に紳士がかぷるもの、一つは紅闇で淑女が着る寝巻だ。
 昼と夜、男性と女性との象徴を、窓ヘー緒に飾つたところは、流石に日本の洋品店だけあつて、頗る詩的だと思つた。
活動 活動写真。映画の旧称。昭和6年、活動写真を行う映画館は藳店にあった牛込館でした(アイランズ「東京の戦前昔恋しい散歩地図」(草思社、2004)。
ポジャマ pajamas。パジャマ

 白い絹のユニオンの女の肌着もぶらさがつてゐた。さうして空からは、十五夜ぢかくの月がさしてゐた。どこからか下水の饐ゑた臭ひもしてきた。
 まるぽちやの極彩色の女が、何がうれしいか知らないが、にこにこ顔で、人の肩をよけながら、よれるやうに、くづれるやうに、ちぎれるやうに歩いてくる。
 女の裾は花文字のエル字形に前へつき出してゐる。衿は花文字のテイ字形に後ヘつき出してゐる。ビイ字形の髷をあたまへのせて、但し帯はインテロゲイシヨンポイントであるらしい。
 私の子供もそれに目をつけてゐたが、パパア、あれは芸者だよと、教へてくれた。
千九百二十年八月

ユニオン アメリカのユニオンメイド。アメリカの労働組合である「ユニオン」の組合員が作った製品。品質保証の意味があった。
饐ゑた すえた。飲食物が腐って酸っぱくなる。
interrogation point ?。クエスチョンマーク(question mark)とも。

横寺町(写真)ID 8278-8281 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8278-8280では、昭和44年(1969年)横寺町の駐車場の写真を撮ったものです。道路は舗装し、左右に側溝があります、
 北側(左)は矢来町で、やや低い電柱は木製です。南側(右)は横寺町で、高い電柱はコンクリート製で、柱上変圧器や蛍光灯の街灯もついています。

[A]

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8278 横寺町

横寺町(昭和44年)
  1. 電柱広告「旺文社」
  1. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。牛込清掃事務所か?
  2. 看板「児童遊園地あり 注意徐行 牛込警察庁」。電柱広告「 加藤質店」「神楽坂眼科」
  3. あさひ児童公園
  4. 東洋綿花牛込寮。
  5. 電柱広告「大佐和

現在の駐車場

[B]

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8279 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8280 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8281 矢来町 新潮社

  1. 電柱広告「横寺町二十六 電(2XX)二八五八 / 加藤質店 / ここは横寺町53」
  2. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。
  3. 旺文社
  1. 木製の電柱。現在は右側の電柱はなくなった。
  2. 三叉路のうち右に行くものは見えない
  3. 遠くに突き出し看板「パーマ ミハル美容室」スタンド広告「パーマ MIHARU 美容室」

現在の三叉路

住宅地図。1970年

横寺町(写真)ID 8277 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8277では、昭和44年(1969年)朝日坂にさしかかるあたりから、坂下に向けて、横寺町の写真1枚を撮りました。道路は舗装し、左右に側溝があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8277 横寺町 1944年頃か。

 左右に電柱があります。左側の奥の木製電柱は、道路中央に寄っているように見えます。ID 461でも同じです。側溝もねじれたようになっていて、ここから先の道路が狭くなっていることが分かります。この部分の道路は現在でも、やや狭くなったままです。
 写真左の眼科の脇の路地に4文字の標柱のようなものが建っています。「芸術座跡」だといいのですが、恐らくは行き止まりを示す「進入禁止」等でしょう。

横寺町(昭和44年)
  1. 神楽坂眼科 診察時間/午前9時~午後 時/午後3時~午後6時/(コ)ンタクトレンズ出来ます/(神)楽坂眼科
  2. 標柱?
  3. 白い塀の家
  4. ソテツの木(内野医院)
  5. 消火栓。広告福屋不動産」
  6. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」。塩
  7. (駐車禁止)
  1. 自転車
  2. 電柱広告「ヤナギサワ ここは横寺町 36」。柳沢理髪は見えないが、神楽坂眼科の隣にある。
  3. 看板「飯塚工務所」

現在の神楽坂眼科

住宅地図。1970年

横寺町(写真)ID 455-463, 8314-15 昭和45年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 455-463とID 8314-15では、昭和45年(1970年)に牛込中央通りから神楽坂通りに抜ける裏通りを5カ所から撮影したものです。解像度に違いがありますが、道端の駐車車両などが同じなので、同じ撮影でしょう。
 途中までは北側(左側)が矢来町、それ以外は横寺町です。道沿いには浅田宗伯邸跡(現・あさひ児童遊園)、尾崎紅葉邸跡芸術倶楽部跡朝日坂などがあります。道路は舗装されていて、左右に側溝があります。

[A] 赤尾好夫氏の邸宅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 455 裏通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 456 裏通り 横寺町と矢来町

 左側は矢来町で、右側は横寺町です。
 道路左には木製の低い電柱、右側にはコンクリートの高い電柱があります。これは朝日坂の下になるまで変わりません。現在は片側のコンクリート電柱だけなので、この昭和45の写真は過渡期だったかもしれません。
 街灯は長い蛍光灯で右側の電柱に付いています。また、柱上変圧器もあります。

横寺町(昭和45年)
  1. パーマ MIHARA 美容室。テント「ミハル」。50年強たっても現在も営業中
  1. 電柱看板「龍門◯ 照心会 書道 教室 この先 ここ(は)横寺町」
  2. 屋敷門(棟門)とシャッター。赤尾好夫氏邸。旺文社の元社長で、テレビ朝日の初代社長。
  3. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。
  4. 看板「児童遊園地あり 注意徐行 牛込警察庁」。電柱看板「 加藤質店」「神楽坂眼科」
  5. あさひ児童公園
  6. 東洋綿花牛込寮。
  7. 電柱看板「大佐和

現在の裏通り

住宅地図。1970年

[B] あさひ児童公園

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 457 裏通り、あさひ児童公園前

 左側は矢来町で、右側は横寺町です。

  1. 普通の家々
  1. あさひ児童公園
  2. 電柱看板は「創業㐂永五年 お茶とのり 老舗 大佐和 神楽坂 ここは横寺町51」

現在の裏通り、あさひ児童公園前

現在の裏通り、あさひ児童公園前

[C] 三孝酒店

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 458 横寺町46、三孝商店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8314 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 459 横寺町46、三孝商店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 460 横寺町46、三孝商店前

 神楽坂通りまでの中間地点の三叉路で、ここから両側とも横寺町です。三孝商店は住宅地図では「三孝酒店」。現在は自動販売機だけが営業しています。
 右側の「キムラヤのパン」は、住宅地図とやや位置が違うようですが「野田パン店」でしょう。この店も現在はありません。なお、ID 8314はID 458と比べて画角がやや広く、解像度も高くなっています。

  1. 三孝商店
    壁面看板「王酒 千福 三孝商店」「神體 三孝商店」「発売元 黄桜酒清酒造株式会社 黄桜 三孝商店」「代表清酒 山邑酒造株式会社蔵 櫻正宗 三孝商店」「白鷹 ハクタカ 三孝商店」「宮酒造〇 日本盛」
    店名「ビール 合資会社 三孝商店 リボンジュース」テント「サントリー」店先「サントリー」「あさひ本◯」「Cola」トイレットペーパーの山、「ニッカ」
  2. 倉庫につき駐車禁止
  3. 東京消防庁 消火栓 東京知事。消火栓広告「電気工事設計施工 上原電気設計事務所」
  4. (駐車禁止)
  1. 電柱看板「加藤質店  ここは横寺町46 」「ゴミ提出出の注意 一 ゴミは……」
  2. GINZA 木(トレードマーク) キムラヤのパン
  3. 電柱看板「内科・外科 皮膚科 泌尿器科 内野医院」「神楽坂 皮膚科」
  4. 突き出し看板「畳」(内山タタミ店)

現在の三孝商店跡

[D] 内野医院

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 461 裏通り、飯塚酒店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8315 横寺町

  ID 8315はID 461と比べて画角がやや広く、解像度も高くなっています。

  1. (内野医院)
  2. 東京消防庁 FIRE HYDRANT 消火栓 火事と救急車は 119。消火栓看板「神楽坂福屋店裏 毘沙門天〇 福屋不動産 フクヤ」
  3. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚 酒店」「塩」
  4. (駐車禁止)
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ
  1. 看板「ポンプ 衛生 水道 東京都〇水道工業所 東京都〇水道工業所〇〇・飯塚工業所」
  2. 電柱看板「 買入 丸越」「 右門の和菓子」
  3. 「(龍)門禅(寺)」
  4. 電柱看板「土地家屋 野口商会」「歯科 川畑」
  5. チェッカーボードに似た「歯(科 川)畑」

現在の内野医院

[E] スーパーアライ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 462 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 463 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 464 横寺町入口附近

 この場所は他の4箇所と逆で、朝日坂の下から上へ矢来町の方を向いて撮影しています。ID 463は撮影時期を「昭和45年3月」としています。立木の葉は枯れ落ち、右手前の八百屋にはミカンやイチゴが売られています。
 現在、八百屋は正蔵院の敷地になり、スーパーアライはマンションと「ろばたや次朗」に変わました。他の店も住宅になったり別の店になっています。

  1. 花輪(フラワー 一紀)開店祝い?
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る」。街灯(蛍光灯)
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  6. チェッカーボード様の「(川)畑」
  1. 盆栽。リンゴ、香川みかん(八百政)
  2. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「宗顕流 古流 いけ花」「坂」
  3. 高知ピーマン、静岡みかん、キャベツ(八百政)
  4. 「Super ARAI」
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ 」
  6. 「(寺島巧芸)社」(看板・標識製作の会社)
  7. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  8. 内野医院
  9. (消火栓)

現在のスーパーアライ

飯田橋ラムラの「せせらぎ」

文学と神楽坂

地元の方からです

 叙情的なフォークソング『神田川』(昭和48年リリース)が流行していた頃、流域の住人のひとりとして、よくも悪臭漂うドブ川をこんな歌詞に仕立てたものだと作詞家の創造力に感心しました。
 子供時代、神田川の橋にさしかかると手前で深呼吸をひとつして、息を止めて渡ったものです。飯田橋から上流の隆慶橋や石切橋、下流の小石川橋や俎橋(日本橋川)など、どこも悪臭は同じでした。水面が近い橋ほど臭く、橋が高い位置にあって頭上を高速道路が覆わない牛込橋や新見附橋は、むしろ臭くない橋であったと思います。ドブ川に対する地域住民の最大の関心は、大雨で神田川が増水してあふれてしまうことでした。
 要するに、当時の都市河川は「迷惑で、消し去りたい存在」でした。再開発計画で飯田濠の埋め立てが始まった時にも注目されず、一部地権者の反対で再開発が長期に停滞したことで逆に変な関心を集めたように思います。

飯田濠遠景(1977 気まぐれ本格派 9話)この状態で数年間放置された

 再開発に反対した大郷材木店は、かなり前から津久戸町の移転予定地(後の「材木横丁」)を確保していたそうです。その点でも、よく分からない反対運動でした。

ラムラ 基礎工事風景と鉄骨組み立て風景

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)29頁 ラムラ 基礎工事風景と鉄骨組み立て風景

 

「自然景観を守れ」という反対派の声に押される形で、東京都は1984年(昭和59年)に完成した再開発ビルの前に「せせらぎ」を設けてラムラの目玉にしました。飯田濠の暗渠の上に清流を模した浅い流れを再現したものです。牛込橋側の小さな滝から水道水を流し、飯田橋側で排水する仕組みでした。小さな中の島や、外堀通りの歩道から流れに下りられる階段も設けました。

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年) 「地区の概況」1頁

ラムラの「せせらぎ」。Google

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)38頁。現在「滝」は流れていません。

 しかし、この「せせらぎ」に実際に水が流れていたのは、わずかな期間(最初の数年間?)だったように思います。それまでの飯田濠はゴミを運ぶ「はしけ」のたまり場で、川に親しむような場所が求められていたわけではありませんでした。また人工の「せせらぎ」は水道水を多量に使うため、ラムラの店舗や周辺住人の理解を得にくかったようにも思います。
 現在では、せせらぎは石貼の川底がずっと見えている状態です。中の島や歩道につながる階段は今もあります。しかし成長した街路樹の中に埋もれてしまっているように見えます。
 神田川の水質はその後、劇的に改善しました。下水処理場の能力が上がり、きれいな「高度処理水」を多量に川に流すことで淀みをなくしたためと言われます。悪臭も感じられなくなり、実際に神田川に下りられる「親水テラス」が別の場所に作られました。
 飯田濠の再開発反対運動が、都市河川浄化のきっかけになったようには思えません。しかしラムラのせせらぎのコンセプトは、親水テラスの先駆的なものであったとは言えそうです。

横寺町|アルバム 東京文學散歩

文学と神楽坂

野田宇太郎 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)の「横寺町」です。氏は昭和時代の詩人で文芸評論家。第一早稲田高等学院英文科中退。詩作を開始。新聞記者を経て、昭和15年、小山書店に入社。第一書房に続き、河出書房では「文芸」の編集に。昭和26年、日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載し、ベストセラーに。

 今から二十年にも近い昔のことであるが、九州から文学を志して上京したほんの青年になつたばかりの私は牛込の横寺町に下宿暮しをしてゐたことがあつた。その頃の横寺町は賑やかな神楽坂から肴町通寺町にそのまま続いて、まだ賑ひの絶えないやうな一筋の町であつた。
 その頃の記憶として今もありありと眼に浮ぶのは先づ町の途中の官許にごりの大看板もなつかしい縄暖簾飯塚酒場である。と云つても私は全くの下戸で、少しでも酒を飲むとすぐに心悸が乱れるやつかいな病気があつて定連と云ふわけではなかつたが、一杯十銭? の安酒と五銭の湯豆腐か何かにあこがれてそこに通ふ友人に誘はれては恐る恐る中にはいつたものである。冬でも浴衣の極貧書生や絵描きの玉子と云つた哀しい連中も、そこでは王者のやうな怪気焔をあげ、どぶろくの臭ひや煮物の湯気の立ちこめる酒場の中は妙に私の感傷をそそつたのである。今にして思ふと、あの酒のみの和製ベルレエヌのやうな熱血薄倖の詩人児玉花外翁などもその中の王者然と鎮座してゐたのであらう。
 その隣りの奥まつた所に、幽霊アパートの異名をもつた小林と云ふ、名ばかりの見るからに不潔で今にも毀れさうに軒を傾けたかなり大きなアパートがあつたが、或日それがかつての島村抱月松井須磨子芸術惧楽部のなれのはてで、ここで抱月が大正七年十一月に急性肺炎で死に二ヶ月日の命日に須磨子が抱月の後を追つて自殺した因縁深い家だと知り、一二度そこをのぞきに行つたりした。極貧画家がそこにゐて須磨子の幽霊を天井か何処かに落書さしてゐると云ふことだつた。
肴町 現在の神楽坂5丁目
通寺町 現在の神楽坂6丁目
官許 政府から民間の団体や個人に与える許可
にごり 白く濁っている酒。どぶろくと同じことが多い。「官許にごり」を看板にして稼ぎまくったどぶろく酒場が多いという。
縄暖簾 なわのれん。多くの縄を結びたらしてつくったのれん。店先にのれんがかかっているから、居酒屋、めしなど
定連 興行場、酒場などでいつも来るなじみの客。常客。
玉子 修業中の人
ベルレエヌ ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)。1844〜96。フランス象徴主義の代表的詩人。天才少年詩人ランボーを熱愛し、2人でイギリス・ベルギーを放浪するが口論となり発砲し、外傷を負わせる。酒・女が好きで、堕落放浪の日々を送ったが、すぐれた叙情詩を残した。

(2)現在の飯塚酒店前付近

(2)は昭和28年頃、朝日坂の途中から神楽坂通りの方を見下ろしたもの。坂は舗装されていません。見えている店先の看板は「マルキン」の上にで、これは「マルキン醤油」。さらに塩、酒焼酎、飯塚本店で、2棟とも同じ酒店と思われます。その先の角の「野口商会」の看板は、道を入った奥の不動産の会社(最下図)。

(3)芸術倶楽部の跡

(3)は「芸術倶楽部館|神楽坂」と最下図を参照。

 又、横寺町には何よりも尾崎紅葉が永年住みついて明治三十六年十月三十日に死ぬまでゐたと云ふ家も下宿の近くにあると聞いてゐたが、そこには遂にゆく機会もなく私は横寺町から飯田町へと下宿を移らねばならなかつた。
 戦後になつて私が横寺町に行つたのは先づ四十七番地の紅葉の所謂「十千とちまん」跡を調べることからであつたが、すつかり酷く戦火の犠牲となつた横寺町に、なつかしい想ひ出を豊かに抱いてゐた私にとつて全く悪夢のやうな場所であつた。やうやく紅葉に家を貸してゐたと云ふ家主の小さな家を見つけ出したが、そこが十千万堂の跡でもあつた。鏡花秋声風葉春葉などの紅葉門下の四天王と謳はれた作家たちの勉学のあとなど偲ぶよすがとてなく、ただ私の自由な幻想だけが、荒れはてた焼土の上をかけめぐつた。そして芸術倶楽部の跡に立つと、再び私は呆然とたたずむより外はなかつた。ただ赤く焼けた瓦礫だけがその場所と覚しい所に散乱して、僅かに昔の敷地の周囲をおぱろげにみせてゐるだけであつた。「カチューシヤの唄」の哀調が故もなく私の心の奥からシャボン玉のやうに浮びあがつて、ぽつんと消えた。
 飯塚酒場は然し何処かに昔の形をとどめて、ただわびしげなバラック風の洒店として昔の場所に建つてゐた。もう私の夢は現実の陽照りにからからに乾いて、何もそこに思ひ描くことさへ出来なかつた。
飯田町 旧東京府麹町区飯田町。九段や飯田橋など。
十千万堂 「十千万堂」は尾崎紅葉の雅号、また東京府牛込横寺町(新宿区横寺町)の紅葉の住居
カチューシヤの唄 トルストイの小説『復活』主人公の女性の名前。芸術座の第3回目の公演である『復活』の劇中歌。主演女優の松井須磨子が歌唱し、作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。「カチューシャかわいや わかれのつらさ」で始まる。


(1)十千万堂(尾崎紅葉)邸跡、前方樹木の茂る向うは箪笥町。その崖下に紅葉の文学塾があった

(1)は、昭和28年頃で、十千万堂は戦災で焼失し、その後に木造平屋が立ち始めています。下の図は最近の同じ場所。十千万堂跡は庭木が茂っていて、中が見えません。

 それても私は必要があつて其後幾度も横寺町を訪れた。その町の名の出所と思はれる寺院もすべて焼けはてて、古い墓石だけが通りからあらはに見えたが、私の下宿の場所はつひに思ひ出せなかつた。さうした焼土の中にも次々に新しい家が建ちはじめ、十千万堂あとは地元の新宿区の史跡となつて片づけられ、芸術倶楽部の跡には、新しい住宅がどしどし出来てしまつた。然し飯塚はにごりの官許がとれないとかで、さみしげに酒店を開いてゐるばかりであつた。
 そこから歩いても大して遠くない牛込弁天町多聞院にある須磨子の墓へも、横寺町に行つたついでに私は詣でた。さみしい焼け寺の墓地のさみしい墓だつた。その前の抱月須磨子の慰霊のための芸術比翼塚も、何だかわびしいばかりで、そぞろに恋の哀れが感じられた。
多聞院 真言宗豊山派に属する照臨山吉祥寺多聞院。
比翼塚 ひよくづか。愛し合って死んだ男女、心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚。
そぞろに これといった理由・目的はないが。わけもなく。なんとなく。

(4)松井須磨子の墓(多聞院)(5)多聞院内の芸術比翼塚

1960年 住宅地図

悪臭漂う飯田濠を再開発(昭和45-56年)

文学と神楽坂

 昭和45年、朝日新聞に飯田堀は臭いし汚い、との記事が出ました。

 ゆううつな季節
 お堀はゴミ捨て場 

 中央線飯田橋駅。近くの住民は憂うつな思いで夏を迎えようとしている。ホームのすぐ前に広がる通称「飯田堀」の臭気のためだ。この堀は神田川水系の1つで江戸川橋からお茶の水方面に流れる神田川の遊水池的な役割を持っている。しかし流れがごくゆるやかで水も少なく実情はゴミ捨場兼汚水だめと化している。
 住民は口々に憤まんをぶつける。「東京の真中の駅が、いまや一番汚ない駅になっているんです」「飯田橋を渡ってごらんなさい。妊婦なら絶対に吐きますよ」「ナマの汚物が流れ込み、たまっているんですよ」「住民もよくがまんしたけれど、役所もよく放っておいたもんだ」。駅でも弱っている。窓をあけたら食事ものどを通らない。
 堀は公有水面だから国のものだが、管理は都の責任である。とうとう地元、牛込地区連合町会(升本喜兵衛会長)が一万三千人の署名を集めて浄化清掃を都知事などに訴えることになった。新小川町青年部も決議した。「今や世界の東京として誇りを持ち近代化された東京都は誠に結構なことである」という皮肉たっぷりな書出しで始っている。
朝日新聞。昭和45年5月26日

 そこで飯田濠を再開発する計画が出てきます。渡辺功一氏の神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)では…

昭和45年(1970)6月に、あらためて都議会へ(飯田濠再開発への)請願が出された。このころの飯田濠は、汚水がたれ流されてドブ川と化し、汚濁と悪臭の発生源となっていた。

 平松南氏の「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」では……

 神楽河岸はかつてそこに飯田濠があり、JR飯田橋駅のホームに立つと西側の目の前に大きく広がっていた。ちょうどいまのJR市ヶ谷駅ホームやお茶の水のような景観だった。
 ただ濠の水は汚れに汚れていて臭いもあった。

 さて渡辺功一氏の同書によれば…

 飯田濠再開発計画の実態は、千代田区飯田橋、新宿区揚場町、神楽河岸にまたがる飯田橋地区市街地再開発である。都市計画決定は昭和47年7月。計画区域は、飯田濠を埋め立て約千平方㍍を含む2万3千平方メートル。都が地上20階の事務棟と16階の住居棟の高層ツインビルを建設するほか、緑地帯や道路を造成するというものである。

 昭和48年3月31日 飯田濠の埋め立て工事を完了し、さて、再開発を始めましたが、あらゆることがうまくいきません。最初に昭和53年6月、鯉の大量死がありました。

 17日朝、都が再開発事業を進めている国電飯田橋駅わきの飯田濠(ぼり)から神田川にかけて、約1万匹のコイが浮き上がる騒ぎがあったが、付近の住民で作っている「飯田濠を考える会」の千代田区側のメンバーは「これは行政による人災。逃げ遅れたコイに気の毒」と怒っている。一方、新宿区側のある商店主は「コイはこの日照りで酸欠死したのであって、工事とは関係ない」と語るなど、住民たちはコイの大量死にも複雑な反応を示していた。(中略)
 都公害局では、水質検査などを行って原因を調べているが、毒物などは検出されず、飯田濠に入り込んだコイが、潮が引いた際に濠の水位が下がって取り残されて、酸欠状態に陥ったものとみている。
読売新聞 昭和53年6月18日朝刊

東京都建設局再開発部「飯田橋夢あたらし」平成8年。

 大郷材木店は神楽河岸再開発による立ち退きを拒否し、それに対して都が強制代執行するという話まで出ました。

 予定地内の材木店の強い反対で工事が大幅に遅れているが、都は27日までに、この材木店に対し、都市再開発法に基づく異例の強制代執行を発動する方針を固めた。
読売新聞 昭和56年5月28日朝刊

強制代執行 強制執行しっこうとは公法や私法上の義務を国家権力によって強制的に実現する行為。代執行とは、行政庁が義務者に代わってその行為をし、あるいは第三者に行わせ、そのため要した費用を義務者から徴収する行為。

地権者の一人が反対  飯田濠再開発 大喜びの「守る会」
 都の高層ビル建設計画に反対して、「埋め立てられたお濠(ほり)を復元して」と訴えている「飯田濠を守る会」に強力が援軍が現れた。新宿区神楽河岸、材木業大郷実さん(45)で、都の再開発事業にかかる民間地権者3人のうち1人。この大郷さんが事業反対の立場を最終的に表明したからだ。(中略)
(大郷さんの)自宅の裏庭からは、すぐに埋め立てられた飯田濠。わずかに水路が残っているが、そこには都心ではめずらしいわき水があり、水鳥が飛んでくる。「再開発が進められて高層ビルが減っては、こうした光景も……」。守る会の「お濠復活。公園建設」の主張にもつながっていく。守る会側では、大郷さんの姿勢に「百万の援軍だ」と大喜びである。
朝日新聞 昭和53年10月25日朝刊

 しかし、10年に及ぶ抗争はあっという間に終わっていきます。渡辺功一氏の同書では……

 昭和56年(1981)10月20日に、東京都は立ち退きを拒否している新宿区神楽河岸の大郷義道、実親子に対して、10月29日から11月10日にかけて強制代執行をおこなうとの代執行命令書を郵送した。彼らは、話し合いを何十回と重ねてきたか、進展は見られない。これ以上工事を運らせれば事業費がかさみ、公共の福祉に反し、請負業者との契約解除に追い込まれる、と説明する。
 これを受けて大郷側は27日午後、この代執行命令書処分の収り消しと執行停止をもとめる訴訟を東京地裁民事三部に起こした。提訴に対し、泉裁判長は同日午後四時すぎ、大郷実と都側の井手建設局再開発部長ら双方の当事者を同地裁に呼んで事情聴収をおこなった。
 この結果、午後5時すぎ「再開発事業にともなうこのような強制代執行は前例がない」などの判断から、双方の話し合いをもとめ職権によって和解を勧告した。

 朝日新聞(S56/10/30)も読売新聞(S56/5/29)も決着まで詳しく書いています。

せせらぎ12㍍幅に
大郷さん「問題提起果たした」

 都市における「水辺の景観」をめぐって熱い論争の続いていた江戸城の外堀、飯田堀を埋め立てる再開発事業問題が29日、一応の決着をみた。これまでかたくなに都市計画決定は変えられないといい続けてきた都が、わずか8分の1とはいえ堀を残すことに同意。ただ一軒、立ち退きを拒否していた材木商、大郷義道・実さん親子も内容が不満だとして「和解拒否」の形はとりながらも、自主的に立ち退くことを決めた。都の強制代執行の期日が迫る中、最も心配されていた力と力の衝突は完全に回避された。(後略)
朝日新聞 昭和56年5月30日朝刊
 全国初の強制代執行が直前で回避された飯田橋地区市街地再開発事業について、都は28日、代執行の対象だった大郷材木店(大郷義道社長)の支援グループ、飯田濠(ぼり)再開発対策会(川端淳郎代表)と話し合いを行い、飯田濠の一部を開きょとして残す案を提示した。(中略)
 開きょ案は(中略)飯田濠を約50㍍、そのまま残し、一部残っている玉石護岸も生かそうというもの。さらに、この開きょ部分からは、同ビルの前庭地区の下を暗きょで通すが、暗きょの真上に人工せせらぎを作る二重河川方法にする案を示した。大郷さん側が和解の条件とした「堀の水辺の景観を残す」意向を受けたもので、同会議と大郷さん側も、ほぼ同案を受け入れる見通しだ。
読売新聞 昭和56年5月29日朝刊

開きょ 開渠。上部をあけはなしたままで、おおいのない水路。
玉石 たまいし。川や海に産する丸い石。
護岸 ごがん。 海岸、河岸かし、堤防の水流に沿った所を保護して洪水や高潮などの水害を防ぐこと。そのための施設。
暗きょ 暗渠。地下に埋設し、地表にあってもふたをした導水路。

 昭和59年2月、事前の「大規模小売店法(第3条)に基づく事前商業活動調整協議会(商調協)」は結審し、4月、住宅と事務所に入居、9月、セントラルプラザ「ラムラ」は開店。昭和61年3月、事業はすべて完了しました。
 しかし、これだけで終わったわけではありませんでした。平松南氏の同書では……

 そんな日々の中、その中核の拠点である大郷材木店が、強制代執行をさけて市谷に移転を決めてしまった。支援の人たちには寝耳に水の出来事だった。
 いま大郷さんは、神楽坂近くの大久保通りに木材店をもち、市谷駅前には大郷ビルという駅前ビルをたてているが、この移転交渉のいきさつは伝わっていない。
 ただ大郷さんを支援してきた市民運動のグループや労組の外人部隊のひとたちにとっては、自分たちの拳のやり場が消失してしまったわけである。
 藤原さん(当時の東京都環境保全局員)にきくと「地元より外人部隊が多かったから、大郷さんも仕方なかったのかもしれないなあ」と、20年たったいまは淡々とかたった。

 しかし、全くわからなかったという人もいます。坂本二朗氏(「神楽坂まちづくりの会」会長)の「まちづくり うたかたの、語り部」は…

 たった四人の反対の声は、運動と呼べるほどのものではなかったが、濠の場所に土地を持つ地権者が反対側に加わったことで、反対運動は俄然現実味を帯びてきた。近隣住民や労組、学生などさまざまな外部団体が反対派に加わってきて、反対派の勢力は大きな力を得ていた。やがて運動は激しさを増し、強制代執行による機動隊との衝突も想定される事態となっていた。加藤登紀子さんや美濃部亮吉さんも応援に駆けつけていた。代執行の前夜、飯田濠の現場は、ドラム缶に火がたかれ、仮設舞台も用意され、ものものしい雰囲気に包まれていた。たった四人ではじめた小さな反対の声は、大きな時代の渦に呑み込まれつつあった。
 ところがまずいことに、私はこの事態になじめなくなり、さらに具合の悪いことに、当日昼間に自分の結婚式を控えていた。(中略)
 そして一週間の北海道旅行(=新婚旅行)から帰ってきたら、反対運動はすべて終わっていた。もちろん、機動隊との衝突は回避された。私はいまだにその後に何が起こったのか知らない。仲間にも聞きそびれてしまった。

芸術倶楽部跡(写真)1980年頃 ID 208

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 208は昭和55年(1980年)頃、芸術倶楽部跡を中心に撮ったカラー写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 208 芸術倶楽部跡 1980年頃

 この写真は下図のように撮ったものでしょう。

住宅地図。1980年

 また田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の05-05-34-2 「芸術倶楽部跡近景 1975-08-28」は「酒屋の後ろ側から撮影したもの」で、ID 208とよく似ています。

05-05-34-2 芸術倶楽部跡近景 1975-08-28

 では芸術倶楽部はどこにあったのでしょうか。ところが➀ 住所、➁ 方角についてまちまちです。
 住所は
▼「横寺町9番地」と書くもの
  ❍佐渡谷重信氏『抱月島村滝太郎論』明治書院 昭和55年
  ❍新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年
  ❍新宿区横寺町校友会今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』平成12年)
▼「横寺町8・9・10番地」と書くもの
  ❍高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』
▼「横寺町9・10番地」と書くもの
  ❍昭和53年、新宿区文化財
▼「横寺町9・10・11番地」と書くもの
  ❍平成3年、新宿区指定史跡
  ❍籠谷典子『東京10000歩ウォーキング』真珠書院、平成18年
などがあがります。最古の「火災保険特殊地図」(都市製図社、昭和12年)では大正8年(1919年)に芸術倶楽部は改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図で、この図も「小林 9」、つまり小林アパートで9番地だと書いています。
 高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』は「芸術倶楽部の建坪は二階建て百八十余坪ある」と当時の「演劇画報」から引用しています。
 8、9、10、11番地の広さは198、199、178、180坪です。また東京区分職業土地便覧. 牛込区之部(大正4年)では、8番地の所有者は飯塚八重氏、9、10番地は株式会社東銀行、11番地は安田銀行でした。これから住所は横寺町9番地1筆か、あるいは9、10番地を合わせて2筆なのでしょう。「一般論では、199坪の土地に180坪を建てるのは困難で 、9、10番地にまたがっていた」と地元の人。そうなんでしょうね。芸術倶楽部や、そこに住んだ島村抱月・松井須磨子は当時の資料で「横寺町9」と書かれていますが、土地をまたいだ建物は一方の番地で呼ぶのが普通なので、その点では納得できます(下図)。
 ただし、新宿区のように、途中から11番地が加わり(昭和53年から平成3年)、公式文書になってしまうのは、あーあ……と思っています。
 つまり、芸術倶楽部は9、10番地の2筆を株式会社東銀行から買って、土地登録は(9、10番地を合わせて)9番地という1筆だけで、8番地と11番地は無関係だったと思います。
 次は芸術倶楽部の方角、つまり向きです。芸術倶楽部の向きは朝日坂の向きと平行(A)か直角(B)です。松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)200頁では長手方向が朝日坂に並行(A)としています。他はすべて長手方向は朝日坂から奥に向かって(B)伸びています。入り口は(B)の黒い四角以外はないでしょう。同様に『日本新劇史』以外の資料はかすべて、朝日坂から一歩奥に入ったところに建物があると記述しています。さらに高橋春人氏は当時の「演劇画報」に「将来、建物前の空地に増築、そこでバーを開く予定」と書いてあります。

芸術倶楽部の方角。新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)

 昭和12年の地図の番地は、大正元年に比べて入り組んでいます。これは10番地(かその一部)がまず9番地(芸術倶楽部)になり(上図)、さらに分かれたり、一緒になったりした結果が下図になりました。橙色は芸術倶楽部の想像図(約180坪)。


横寺町58番地(写真)昭和45年 ID 451-454, 8308-10, 8319

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 451~454、ID 8308-10, ID 8319は昭和45年(1970年)3月、牛込中央通りに南からやってきて牛込北町交差点を通り越した場所(横寺町 58、旺文社前)を撮ったものです。またID 8308はID 452と、ID 8309はID 453と、ID 8310はID 454と、画角がやや広いのを除くとほぼ同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 451 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8319 牛込中央通り 旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 452 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8308 牛込中央通り 旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 453 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8309 牛込中央通り 旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 454 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8310 牛込中央通り 旺文社前

 旺文社本社が右にあります。ID 452で道が曲がった左奥に長い万年塀が見えます。これは日本興業銀行(現みずほ銀行)の矢来寮です。それ以前は酒井子爵の邸でした。ID 453ではバスが走っていますが、これは西武バスと都営バスが手を結んだバス路線です。大泉学園駅前から出発し、練馬駅通り、目白駅前、護国寺前、江戸川橋、矢来町、牛込北町、納戸町、市ヶ谷見附、赤坂見附、溜池、虎ノ門、最後は新橋駅前です。昭和45年10月、この路線は廃止しました。

横寺町。住宅地図。1970年

 ではこの地域になにかニュースになることがあったのでしょうか? 明治時代には訳者としても有名な上田敏氏が横寺町58番地に住んでいました。しかし、昭和時代になるとウィキペディアによれば横寺町でも牛込北町でも特にニュースでなりそうではありません。
 昭和45年には何かがあるのでしょうか? 新宿区の「新宿区史 区成立50周年記念」では「昭和45(1970)年5月に表面化した牛込柳町交差点付近における自動車排気ガスによる鉛公害問題は、地域住民に不安と衝撃を与えるものであった」と書いてあります。3月には「データベース 写真で見る新宿」は「牛込柳町の交通渋滞」が取り上げられます。これでしょうね。牛込北町交差点は、牛込柳町ほどではないにしても両側から坂が落ち込んだ地形です。この3月以降、横寺町や矢来町でも「交通公害」が問題になっていきます。

飯田橋駅東口(写真)令和元年 ID 13319

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13319は令和元年(2019年)飯田橋歩道橋の下から飯田橋交差点を中心に撮ったカラー写真です。ここは飯田橋駅東口に近く、昭和58年8月5日に区境変更していますが、この写真を撮った場所はおそらく新宿区でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13319 飯田橋交差点令和

 この飯田橋交差点は五叉路ですが、道路は奥に行く大久保通りと左右の外堀通りしか見えず、前後をつなぐ目黒通りは見えません。歩道橋には「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。空に雲はなく、無電柱化の成功のため電柱もありません。左側の中央分離帯にあるのはブリンカーライト(障害物表示灯)です。

飯田橋交差点(令和元年)
  1. 名代 富士そば 24
  2. TULLY’S COFFEE 
  3. 格安販売 チケット モモ 新幹線自販機 黄色のバックカラーに「魚」か?
  4. (駐車禁止)
  5. (店舗 TULLY’S COFFEE)
  6. 「ふくの鳴」「ラーメン」
  7. 鳥よし
  8. 遠くに熊谷組ビル
  1. THE SUIT COMPANY ECC外語学院 英・中・韓・仏 伊・西・独 3F Leave a Nest 4, 5F 鳥どり B1F
  2. 魚盛  うおもり  みずほビジネスパートナー MIZUHO みずほ銀行
  3. 大野屋
  4. サンワード貿易 飯田橋内科歯科クリニック  JJS 〒
  5. 東京新宿メディカルセンター別館(東京厚生年金病院別館を平成9年に改築、平成26年に改称)

住宅地図 令和2年

筑土八幡神社|境内 ⑤

文学と神楽坂

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある神社ですが、「宮比神社」「田村虎蔵先生顕彰碑」、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」などがあります。これ以外にもいくつかの施設・建物があります。これらをまとめたのもです。

手水 神社・仏閣で、参詣者が手や顔を洗い口をすすぐ風習があり、この習慣や水のことを手水(ちょうず、てみず)と呼びます。語源では「てみづ→てうづ→ちょうず」と変化したものですが、「てみず」と読む神社もあります。
手水舎 ちょうずや。手水舎は、手や顔を洗い口をすすぐ建物のこと、
手水鉢 手や口を洗いきよめる水が入った鉢のこと。
御供 ごくう。神仏に供える物。
御供水 ごくうすい。神仏に供える水。ほかに御供ごくうりょうとは御供とする物や金銭。御供ごくうしょとは供物を調える所。御供でんとは御供料を収穫する田地。

手水舎と御供水

手前は手水と手水鉢、奥は御供水

百度石 ひゃくどいし。百度参詣して、心願が成就するよう願ったもの。百度詣では寺社の入口から本堂までの間を往復するか、百度石があればそこから本堂までを往復する。
御神木(銀杏) 神社の境内や神域にあって、神聖視される樹木。一般的には松,杉,ヒノキなど常緑樹が多いが、神社によって特定の神木がある。

御神木と百度石と庚申塔

神輿 みこし。しんよ。神霊の乗り物として担ぐもの。御輿。
神輿庫 しんよこ。神輿を格納する場所。
積み樽「白鷹」 祝いのしるしとして酒樽を積み上げて飾ること。また、その酒樽。

神輿庫と積み樽

積み樽「白鷹」

神楽のさくら この桜は「しだれ桜」です。「神楽のさくら」という熟語はなく、「神楽」と「さくら」のひとつひとつの語しかありません。「神楽」には原則的に「神をまつる舞楽」で、「神楽の桜」とは「神の舞楽が流れる時の桜」です。
 明治時代に社殿の右に桜があったと書かれています。今もあるソメイヨシノの古木と思われます。これとは別に平成22年にしだれ桜を植えました。当初は玉垣の内側で、現在は手水舎の右に移されています。

   日時:平成22年4月1日(木)  17:00~20:00
   場所:筑土八幡神社
   神楽の花(さくら)の植樹と石碑の除幕式をおこないました。ちょうど満開の宣言の日に申りました。行事のあとにさくらを前に花見例会と洒落込みました。

 境内一帯はかつて「筑土城」だったという伝承があります。しかし城の遺構らしきものはありません。

神楽のさくら

神楽のさくら

飯田橋交差点(写真)昭和54年 ID 673, 12110, 12109

文学と神楽坂

新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の写真ID 673と12110は、昭和54年3月に飯田橋交差点の新宿区側を撮影した写真です。またID 12109はこの交差点周辺の災害時の一時集合場所(公園)、広域避難場所を図示した案内板です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 673 飯田橋交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12110 飯田橋駅前 大久保通り

 左右は外堀通りで、コンクリート製の中央分離帯に立っているのはブリンカーライト(分岐点用点滅灯。中央分離帯や合流地点等に設置し、24時間点滅し、中央分離帯への衝突などの事故を防ぐ)でしょう。横断歩道から左奥へ通じるのは大久保通りです。この他に目白通りも交差していますが写っていません。
 道路はすべて都道で、ナトリウム灯と思われる街路灯が高い位置にあります。この時代の大久保通りの左右は下宮比町でした。後に町域が変更され、写真左側は揚場町に変わりました。また図の左上にある電柱に長四角のものは自動式開閉器でした。
 東京厚生年金病院の別館は下宮比町に、本館は津久戸町にありました。

673 飯田橋交差点

飯田橋交差点(昭和54年)
  1. 剣菱 天麩羅みやこ
  2. 清酒大関 ニューア(サク)サ
    (ここから揚場町)(ア)サクサ
  3. 消火栓
  4. 朝日生命 鳥よし(飯塚ビル)
  1. 東海銀行(飯田橋東海ビル 1965年竣工)
  2. 日本写真学園/(カ)ワセコンピューターサプライ株式会社/三恵株式会社/銀座コージーコーナー/日本写真学園→
  3. 第一勧業銀行(第一勧銀稲垣ビル 1974年竣工)
  4. (駐車場)
  5. 大野屋(武道具店)
  6. 津多屋
  7. 読めない看板(日本精鉱株式会社)
  8. 東京厚生年金病院 別館
    (ここから津久戸町)
  9. 東京厚生年金病院 本館

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12109 飯田橋駅前表示

下宮比町付近 1980年

紀の善の閉店(令和4年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 すでに他の記事にもあるように、神楽坂下の紀の善が閉店しました。顧客にも商店会にも予告しない突然の発表でした。
 コロナ禍でも売店の行列が途切れたことはなく、店もずっと繁盛していたように見受けられます。シャッターを下ろした時は「設備改修で10月末まで休業」と貼り紙してありました。普通の改修で1カ月も休むことはないので不思議に思われていました。
 貼り紙が「閉店」に切り替わったのは10月17日頃です。公式ウェブサイトの発表の方が少し早かったようです。もし予告していたら閉店間際に押しかけた客で混乱が起きていたでしょうから、賢明だったとも言えます。

紀の善閉店告知-

 閉店の理由は当事者しか知りません。ただ地元では2つのことが言われています。

1)高齢の店主に後継者がいなかったこと。

2)紀の善の土地が借地であったこと。東京では借地契約の更新時に「更新料」を求められます。紀の善が旧店舗をビルに立て替えたのは30年ほど前です。推測にすぎませんが、最近の土地価格高騰で更新料が予想を上回った恐れがあります。土地を持たない老舗は、どうしても世の中の変化に弱いのです。

 紀の善の脇の路地である神楽小路には再開発の動きがあります。2020年に解散した「神楽小路親交会」は理由のひとつに「私たちの地域における地上げの影響」をあげていました。これも何か関係しているかも知れません。
 多くの人に長く愛された紀の善は、まぎれもなく神楽坂の顔でした。

TV「気まぐれ本格派」(1977)第4話 建て替え前の紀の善店内

建て替え後の紀の善店内 1階

ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場

文学と神楽坂

黒川鍾信

 2003年3月、黒川鍾信あつのぶ氏が書いた「ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場」(pdf)です。副題は「神楽坂ホン書き旅館『和可菜』の50年」。2002年、NHK出版で上梓した「神楽坂ホン書き旅館」の評判がよく、そこで明治大学はこの講演会を依頼しました。著者は明治学院大学大学院を卒業し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に留学。明治大学情報コミュニケーション学部教授。2009年定年退職。ちなみに『神楽坂ホン書き旅館』は第51回日本エッセイスト・クラブ賞をとっています。生年は昭和13年9月2日。

神楽坂の、今回モデルになった「和可菜」のすぐそばに「川田」という旅館があった。年配の方は知っていると思いますが、かつて川田晴久という歌手・俳優がいました。若い人のために説明しますと、美空ひばりを一流の歌手にした人です。その親戚がやっていた「川田」です。そういう旅館があって、ほとんどが昭和20年代に開業しました。
 先ほど言いました私の叔母が、あるとき神楽坂に旅館の売り物があるから買わないかと誘われました。女優をやっていますからお金はたっぷりある。じゃ、買っておこうと、買いにいったら、売り主が自分と同じ名字の、(芸名は木暮実千代、本名は和田つま)和田なんですね。これだったら登記も簡単だ、というような軽い乗りで買ったわけです。それが現在の、たった5部屋きりない旅館だったわけです。
 神楽坂というのは色町なんです。「色町」という言葉は今はなくなっていますけれども三業地です。いわゆる料亭の多いところだった。「料亭」という言葉は、これは戦後、料亭という言葉になったんですけど、昔は「待合茶屋」と言いました。戦後条例が変わりまして、料理屋と茶屋が合併して料亭になったのです。料理を出して、なおかつ宴会をさせて、昔は茶屋ですから泊めたんですけど、今は一切泊めてはいけない。要するに、お座敷遊びの場所を貸し、料理を出すところになったわけです。これがいわゆる三業地です。これが昔の色町との違いです。(中略)
 叔母が旅館を買っだのが昭和28年です。買って、ほっておいたら近所から文句がきた。色町の真ん中に1軒だけ電気も点けない家があるのは困る、何とかしてくれと。それで叔母の一番下の妹に、「あなた、あそこへ行って女将やりなさいよ」と言って開業したのが昭和29年です。
川田晴久 かわだはるひさ。俳優。コメディアン。昭和8年。吉本興業に入社。12年坊屋三郎らと「あきれた・ぼういず」を結成し、ギターを片手に歌謡漫談。14年ミルク・ブラザーズを結成、テーマソング「地球の上に朝が来る…」で再び人気を得る。17年脊髄カリエスを発病。10数年の闘病生活。戦後は美空ひばり映画にしばしば出演した。生年は明治40年3月15日、没年は昭和32年6月21日。享年は50歳。
美空ひばり 歌手。1949年8月映画『踊る竜宮城』に出演し,その主題歌『河童ブギウギ』でレコード・デビュー。日本コロムビア・レコードと専属契約。「歌謡界の女王」として作品は1000曲以上。生年は昭和12年5月29日、没年は平成元年6月24日。享年は52歳。
色町 遊郭、芸者屋、待合などのある町。花柳街
三業地 芸妓げいぎ屋、待合まちあい、料理店からなる三業組合(同業組合の一種)が組織されている区域
待合茶屋 一般に待合と略称。明治以降は芸者との遊興を目的とするところと変質して発展。

 不思議なことに、あそこの旅館で書いたものはヒットするという噂が広まる。それから、昭和40年代になるとあそこで書いた小説が当たったとか、賞をとったとか、次々と出てくるわけです。それで別名「出世旅館」という噂が業界に流れるわけです。
 事実、その頃、これから伸びようとする人たちが大勢来ていたので、これは当然なことなのです。例えばOLをやめて初めての作品『BU・SU』という作品を書いた内館牧子さん。今やあそこまで立派になったけど、初めてあそこへ来たとき、これは記録に残るからまずいんですけど、履いてきた靴も本当にボロで、質素な格好して、それで一生懸命書いて偉くなっていったのです。
出世旅館 ある旅館に泊まり、作品を世に出して、非常に成功する。そんな旅館のこと。

 いい映画というのは脚本を書くとき、2人か3人で共同執筆しているケースが多いです。例えば、山田洋次さんは朝間義隆さんと必ず共同執筆なのです。ほとんど2人で書いているわけです。先週封切りされた『たそがれ清兵衛』も2人で書きました。
 渥美清さんが亡くなったとき、松竹が危機だと言われたことがあります。というのは、「寅さん」の興行収入で松竹社員の給料がほとんど支払われていたからです。収入の40%以上は「寅さん」が稼いでいたわけですから、作る方はいかに大変だったか。年2作ですよ。同じパターンじゃなければいけない。だって観ている人は、寅さんがマドンナと結婚しちゃったら、みんなブーイングです。最後はふられてまた旅へ出て行く。あのパターンの中で、なおかつ人の心にシーンとくるものを作らなければいけないわけですから、大変な作業だったわけです。
 最近書いてる「釣りバカ日誌」は、ワーワーワーワーやりながら若手が書いています。けれども、やはり最後は山田洋次さんと朝間さんが入って、締めるところを締めないと…。これは裏話ですが、西田敏行さんや三國連太郎さんなど錚々そうそうたる俳優をつかえる監督がいなくなっているんです。「これは山田さんの脚本だ」ということで納得させ、そのとおりにさせないと。三國連太郎さんは、自分でも映画を撮った人ですから、「こんなのはだめだ、ここは書き替えろ」と、すぐ現場で始まっちゃうのです。「いや、これは山田さんの脚本ですから」ということで、いつも巨匠が入るわけです。
山田洋次 映画監督。1950年、東京大学法学部卒業。松竹大船撮影所に入社。1968年、フジテレビの連続ドラマ『男はつらいよ』の原案・脚本を担当。1969年、映画化され、大ヒット、以来年1~2本のペースで1996年に48作品をつくって、日本の代表的監督となる。生年は昭和6年9月13日。
朝間義隆 脚本家。1965年、上智大学文学部英文学科卒業。松竹大船撮影所に入社。山田監督作品の脚本を共同で手がける。生年は昭和15年6月29日
たそがれ清兵衛 1985年刊行した藤沢周平氏の時代小説短編集。これを原作とする2002年公開の日本映画。
渥美清 俳優。旧制巣鴨中学卒業。1953年、浅草のフランス座に入る。1968年フジテレビの連続ドラマ『男はつらいよ』(山田洋次脚本)に主演、翌1969年に映画化され国民的人気俳優となった。生年は昭和3年3月10日、没年は平成8年8月4日。享年は68歳。
釣りバカ日誌 北見けんいち作画、やまさき十三原作による漫画。これを原作とした映画。サラリーマンのハマちゃん(西田敏行)と社長のスーさん(三國連太郎)が起こす騒動を描いたコメディー。脚本は山田洋次。
西田敏行 俳優。「釣りバカ日誌」シリーズのハマちゃんが当たり役となった。他に「北の家族」「西遊記」など。生年は昭和22年11月4日。
三國連太郎 俳優。映画界を牽引した個性派俳優。『ビルマの竪琴』、『飢餓海峡』、『はだしのゲン』など。生年は大正12年1月20日。没年は平成25年4月14日。享年は90歳
錚々たる 多くのもののなかで、特に優れている人々の集団。傑出した

 「寅さん」では、もう逆さにしても血も出ないというくらい脚本が難航することがあります。
 一番大変だったのは、幻の49作のときでした。もうロケ地も決まっていたわけです。高知県でやる。それから西田敏行さんをつかうために彼のスケジュールも押さえてあって、さあいよいよ脚本を書こうという8月に渥美清さんが亡くなっちゃったわけです。ところが何も撮らないと、松竹はその年のボーナスが払えない。それで押さえてある西田敏行さんを主演にして、ロケ地も、高知じゃなくて愛媛県にしたと思うんですけど、映画館の館主の話タイトル忘れましたけど、観ていて気の毒なぐらいお粗末な映画でした。お粗末なんて言ってば失礼ですけど、本当に苦しんで食事も喉を通らないような思いで作りあげているわけです。
 そういうふうに監督やホン書きが追い詰められたときの作品というのは、いいものもあるかもしれないけれども、ゆとりがなくて、結局、評判が良くないようです。
寅さん 正しくは映画「男はつらいよ」の主人公のくるま寅次郎とらじろうから採用した。
愛媛県 舞台は徳島県でした
映画館の館主の話 公開は1996年12月。渥美清の急逝に伴いシリーズ終了となった「男はつらいよ」に代わって松竹の正月番組をつとめた入情喜劇。監督は「学校II」の山田洋次。
タイトル 「虹をつかむ男」

 マーガレット・プライスさんという、夏目漱石のお孫さんと結婚したオーストラリアの新聞記者だった人が、この旅館を外国で宣伝したために、今は外国のお客さんでにぎわっています。外国のお客さんは、ここはこういう旅館だというのをちゃんと知っていて、物見遊山じゃなくて、日本の作家たちが泊まる旅館だというので、ちゃんと協力して朝もゆっくり起きてくれる。「日本の宿50選」の最初のページに大きく出たものですから、最近は外人が多いそうです。
夏目漱石のお孫さんと結婚した 本当かどうか、わかりませんでした。
外国で宣伝した Margaret Price著「Classic Japanese Inns and Country Getaways(日本の宿)」(講談社、1999年)。全て英語で書いてあります。
日本の宿50選 国立国会図書館、新宿区立図書館、アマゾンで「日本の宿50選」は見つかりませんでした。

神楽坂下の五叉路案[明治の市区改正](明治22年ごろ)

文学と神楽坂

地元の方からです

 市区改正で作られた飯田橋の五叉路は今も健在です。計画図を見ると、現在の神楽坂下交差点も五叉路にする予定でした。

 図の赤い実線は、市区改正設計で最も幅の狭い第五等道路を示します。これについて市区改正委員会では以下の議論がありました。

明治21年(1888年)10月15日開催
委員長  まず大体を決し、支線は実施に臨み斟酌するの精神をもって、四等(以上)の主なる路線のみを議定せり。(条例に)五等道路をいちいち掲ぐるとせば、その調査容易なるまじ。
6番委員 焼失(火事)を待って改正なすとしてはいかが。
19番委員 堅牢の家屋を建設すれば改正の期なきに至らん。ことごとく決定し置くことにしたし。
15番委員 (専門の)委員を設け調査するとしては。
17番委員 五等道路ごときは市民の意見にまかすとして可ならん。
4番委員 委員の手数は省きうるも、東京府庁は道路に着手するを得ざるべし。
13番委員 路線を定めずしたらば、庶民は家屋建築、地所売買に苦しむなるべし。
(新字・新かなで適宜省略)

 火事を待って道路計画を決めるというのは、大火の多かった江戸の町の歴史を思わせる意見です。採決によって専門委員を設ける案を採用し、神楽坂通りの迂回を提案した1番委員、新見附部分の新道を提案した19番委員らが選ばれました。

 さて神楽坂下に戻って、明治22年、市区改正で以下の道が指定されました。

第五等道路
第八十一 牛込神楽坂下より若宮町・南町を経て、納戸町に至るの路線。

 具体的には神楽坂下から小栗横丁-若宮町の新坂-南町の通りを結び、幅6間(10.8m)に広げるものです。

 やや強引に見えます。何より小栗横丁と新坂の間には高いガケがあり、地図の等高線が狭くなっています。ここに道を通すのは大規模な工事になるでしょう。第五等道路の指定にあたり、十分な調査がされなかったことを思わせます。
 明治36年、市区改正が大幅に縮小された新計画で第八十一は脱落し、神楽坂下は五叉路になりませんでした。小栗横丁と新坂の間は現在、若宮神社側を迂回して上る道になっています。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。ただし、第五等道路の個別の議論は残っていないようです。

甲武鉄道の複線化(明治28年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 甲武鉄道(現・JR中央線)は明治26年(1893年)、新宿から都心に向けた「市街線」=新線の建設に乗り出しました。「甲武鉄道市街線紀要」(明29.10)によれば、建設は以下のように進みました

年表
明治26年3月新線敷設の本免状
7月着工
明治27年9月青山軍用停車(現・国立競技場付近)完成、
日清戦争の部隊が出征
10月新宿-牛込間を開業
本社・技術部を飯田町に移転
明治28年4月牛込-飯田町間を開業
5月複線敷設を願出
7月上記の許可、着工
12月複線開業

 つまり牛込駅開業から1年ちょっとで複線化します。あらかじめ計画しておいたから可能なスピードでした。

……新線開通の結果は、素望むなしからず(計画倒れではない)と言えども、単線のみなるを以て乗客の便利を満たすあたわざる(満たせない)を認め、当初の計画に基づき複線敷設の願書を提出し……(新字・新かなで適宜修正)

 なぜ最初から複線にしなかったのかは分かりません。東京市区改正委員会が外濠の土手の木を切らないよう注文をつけたことや、地元に一部反対運動があったことも関係しているかも知れません。複線化着工の直前に社債を発行しているので、資金面の問題だったとも考えられます。
 市街線は途中に4箇所のトンネルと多数の橋がありました。牛込橋は土堤の一部を切り崩して鉄橋をかけ、線路を下に通しました。新見附は土堤部分にトンネルを作りました。これらは当初から複線を想定していました。

 新見附の「四番町トンネル」の図面や事故時の写真を見ると複線とは思いにくいようです。なお四番町トンネルの建設は、新見附橋そのものを民間資金で建設していたのと同時期です。民間の代表者と甲武鉄道の間に、なんらかの連絡があったのでしょう。

 しかし当時の短い車両には十分でした(左下、甲武鉄道四谷トンネル)。今も現役のトンネルは単線に変更して使われています(右下)。

 甲武鉄道が国有化された中央線は、昭和4年ごろに複々線に転換する大工事をします。この時にトンネルや橋は大きく姿を変えます。それまでは小さな汽車や電車が外堀を行き来していました。

市ヶ谷見附付近の桜(花の東京 絵葉書)


小川一真出版部「東京風景」(明治44年)四谷見附より市ヶ谷方面を望む

飯田橋の五叉路[明治の市区改正](明治40年ごろ)

文学と神楽坂

地元の方からです

 五叉路の交差点は十字路に比べて交通信号が変則です。神楽坂周辺には五叉路が連続している区間があります。このふたつは明治の市区改正で作られた大久保通りが関係しています。
 西側にある筑土八幡町交差点については、筑土八幡神社前(写真)の記事で記述しています。

東京市区改正全図(明治23年)五叉路 赤の実線や破線が市区改正の道路計画

 ここでは東側の飯田橋交差点の成り立ちを見ます。
 明治22年、市区改正委員会は現在の大久保通りを第四等道路に指定します。神楽坂通りを通すと急坂になるので、北側にバイパスとして設ける計画でした。

第四等道路
 第三十五、牛込揚場町第二等線より津久戸前町に至り、左折して肴町・山伏町通り、原町等を経て、戸山学校に至るの路線。

 この市区改正設計は「道路事業がほとんど進まず、最低限の項目を選んで拾い上げた新設計案が作成されました」(東京の都市づくりのあゆみ 1章06 032頁左下、2019)

大久保通り 飯田橋付近 比較図 東亰市牛込區全圖 明治29年8月調査明治40年1月調査


 明治36年に改められた新設計でも、大久保通りは「第十四」と番号が変わり、同じ内容で残りました。
 注目すべきは起点が「揚場町」であることです。同時期に第四等道路に指定された現在の目白通りは

第四等道路
 第五、飯田橋外より江戸川に沿い、江戸川橋際に至るの路線。

と「飯田橋外」と書いてあります。確かに道路計画図では、大久保通りは飯田橋交差点と少しずれて描かれています。
 しかし実際の大久保通りは揚場町より北側、下宮比町が起点となりました。新しい道は明治40年までに開通し、この工事に伴うと見られる移転などが相次いでいます。

出来事
明治36年市区改正新設計決まる
二条基弘公爵邸(津久戸前町16)(→牛込若松町に転居)
明治37年二条邸跡に津久戸小学校開校
明治40年宮比神社が筑土八幡宮境内に遷座
行元寺が西五反田に移転
明治43年牛込区議会、飯田橋-新宿車庫間の路面電車の促成の意見書
大正元年飯田橋-牛込柳町方面の市電開業

 なぜ起点を下宮比町に変更したのか。ネット公開している市区改正委員会の議事録の範囲では理由は分かりません。おそらく急速に市民権を得ていた市電の敷設が関係していたのでしょう。

携帯番地入東京區分地圖(明治42.11)21コマ 飯田橋付近 破線は市電の計画線。大久保通りは不正確

東京五案 内(大正3)13コマ 飯田橋付近 市電は延伸途中。中央線飯田町駅との乗り換え拠点に

 飯田橋は5方面から市電が集まる結節点となり、複雑に軌道が敷かれていました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録のうち明治33年までを国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

神楽河岸の踏切計画[明治の市区改正](明治25年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 甲武鉄道(現在のJR中央線)は明治22年(1889年)に内藤新宿駅と立川駅との間で開業。次いで都心に延伸する「市街線」を計画します。紆余曲折の末に路線案を図面にし、内務大臣から市区改正委員会に意見を求めたのは明治25年でした。
 委員会はこれに4つの条件をつけて同意します。甲武鉄道側の記録をもとに列挙すると次のようなものです。

1)市区改正道路に支障あるものは(改修の)費用の会社負担を確約する。
2)牛込見附付近の線路を市と協議して変更する。
3)四谷-市ヶ谷間(のカーブ部分)をトンネルに変更する。
4)樹木はなるべく伐採しない。
甲武鉄道市街線紀要(明治29年10月)を意訳

 市街線は、外濠の土塁を削って線路を敷設します。委員会では

明治25年(1888年)10月19日開催 第85号会議
19番委員 四谷-牛込間の眺望、実に無類の風致を有し、全市の美観を添えるものなれば、工事においても十分な注意を。
(新字・新かなで適宜省略)

などの議論が盛り上がりました。具体的には3)のカーブ部分は直線より土手を大きく削ってしまうので、トンネルにしろと注文をつけたわけです。このトンネルは現在はありません。

 もう1点の2)は、現在の神楽河岸に踏切を計画していたことを問題視しました。

19番委員 五等道路を斜めに踏切り不都合。後来、大なる差しつかえを生ずべし。
11番委員 道路を少し濠の方へ寄せ、軌道を土手の方へ寄せなば衝突を免れん。
19番委員 桝形へ(線路を)寄せなば石垣の地盤に変動を生ずる恐れあり。このへんは協議を要す。
(新字・新かなで適宜省略)

議事録掲載の図面を加工

 さらに道路を変更する費用負担や、どの程度の樹木を守るかについても議論が紛糾し、委員会が4条件をまとめたのは次の第86号会議でした。甲武鉄道側は条件をすべて受け入れ、翌明治26年3月にようやく鉄道延伸の免許を取得します。牛込駅まで開業したのは明治27年10月でした。

 甲武鉄道は開業を記念し「線路に数百株の桜樹を植え付け」て、風致に配慮します。これが外濠の土手の名物になりました。
 神楽河岸の踏切はどうなったのでしょう。協議の結果は議事録に見えませんが、明治28年7月調査の地図によれば、線路と道路は交わっていないようです。

 もっとも、この道路は行き止まりなので、ほとんど利用されなかったと思われます。昭和になって飯田濠が再開発されるまでは、燃料会社の寮や倉庫などの目立たない建物ばかりでした。(ID 493

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

神楽坂通りの迂回[明治の市区改正](明治21年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 早稲田通りは、千代田区九段北の田安門交差点から神楽坂や高田馬場を通り、杉並区上井草までの道路の通称です。神楽坂上交差点を境に東側(都心側)は千代田区と新宿区の区道、西が都道になっています。この原点となったと思われる決定が、明治政府の市区改正委員会の議事録にあります。
 市区改正は東京市内の道路を区間ごとに第一等~第五等と指定し、道幅を広げる計画でした。現在の内堀通りや中央通りは第一等、外濠通りは場所によって第一等または第二等です。明治21年10月、原案は次のようになっていました。

・第二等道路(幅12間=21.6m)
・第三等道路(幅10間=18m)

東京市区改正全図。明治23年3月

 神楽坂通りは第三等道路に指定され、拡幅される予定でした。この原案に異議がありました。

明治21年(1888年)10月12日開催
1番委員 この路線は飯田橋より少しく西により筑土通りの道をとる方が平坦にして実施上も便宜ならん。
24番委員 説のごとく成すときは迂回するならん。(遠回りではないか)
1番委員 いや、かえって迂回を避けうべし。
25番委員 説は至極と考える。もし路線を変更するも8間道(14.4m)にて十分。
1番、2番委員 賛成す。
(新字・新かなで適宜省略)

 賛成多数で、神楽坂通りは第四等道路に格下げになりました。しかし、次の会議でさらに修正されたのです。

明治21年(1888年)10月15日開催
1番委員 実況を調べし。神楽坂通りを肴町まで取り広げるは、はなはだしき坂路のみならず、牛込の繁盛を幾分か傷つくるきらいなしとせぬ。これを少しく北に移し、飯田橋の外の下宮比町と揚場町との間を過ぎ、筑土前町および肴町を貫き、岩戸町の四等線(第四等道路)に接続せば、急坂を避け、(道路の)改良の効果を奏すべし。路線を修正されたし。
(新字・新かなで適宜省略)

 神楽坂は急なので工事が大変だし、商店を立ち退かせるのは損だ。坂を迂回し、北側に新しい道を作ればいい-という意見です。委員会は全会一致で原案の変更を決定し、神楽坂通りは第四等道路からも外れました。
 迂回を提案した1番委員は桜井勉といい、内務省地理局長でした。全国に気象観測網を整備したことから「日本の天気予報の創始者」ともされています。

 神楽坂の迂回路となったのが、現在の飯田橋-筑八幡町-神楽坂上を結ぶ大久保通りです。地図を見ると、この区間は家を立ち退かせて道を作ったようです。

 牛込区史(昭和5年)によれば、神楽坂通りは

・第五等道路(幅6間=10.8m)
第八十二 牛込門外より神楽坂通り矢来町・弁天町を経て馬場下町に至るの道路

に指定されました。ところが、この計画は明治36年の市区改正の修正で

・第五等道路
第六 牛込肴町より矢来町・弁天町を経て馬場下町に至るの道路

へと短縮され、通りの神楽坂1-5丁目は東京市の管理を外れます。

神楽坂上~坂下路幅
明治21年10月(原案)市区改正・第三等道路18m
10月12日市区改正・第四等道路に格下げ14.4m
10月15日市区改正・第四等道路から格下げ
明治22年5月市区改正・五等道路10.8m
明治36年3月市区改正の対象外

 その頃には神楽坂の商店街を拡幅するのは難しくなっていいたのでしょう。神楽坂1-5丁目が都道になっていないのは、この時の決定の影響と考えられます。
 また現在の道幅は約12mですが、これは明治期から変わっていないと言われます。神楽坂が急坂だったために都市計画から外れ、古い風情が残ったというのは、とても興味深いことです。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。