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小学唱歌発祥の地

文学と神楽坂

 国友温太氏が書いた『新宿回り舞台』(1977年)の中に、田村虎蔵氏について簡単にまとめた文章があります。
 この『新宿回り舞台』は、新宿区の職員報に、昭和46年6月号から毎号読切りで連載した新宿区の歴史を記録したものです。52年3月号で70話となり、そこで一冊にまとめています。

田村虎蔵

田村虎蔵

    小学唱歌発祥の地(46年11月)
 田村虎蔵、という人をあなたはご存知だろうか。しかし、“ムカシームカシーウラシマハー、タースケタカーメニーツーレラレテー“という歌は覚えておいでのはずだ。
 田村氏は亡くなるまでのおよそ40年間、新宿区に居住した小学唱歌の作曲家である。
 明治の頃、文部省編さんの教科書で子どもたちは「気はれて風新柳の髪を梳り、氷消えては浪舊苔の髭を洗ふとかや」といった時代離れしたものを歌っていた。さらに日露戦争による軍歌の流行で乱暴な歌い方がはやった。
 こうした歌の改革をと、氏は「モシモシカメヨ」の納所辨次郎、「夏は来ぬ」の小山作之助らの作曲家と、美しい声、美しい歌を主唱した言文一致体唱歌の創始者である。
 鳥取県出身。同地の師範学校を卒業後上野の音楽学校に学び、明治38年東京高師(現教育大)の助教授となり、翌39年から筑土八幡町31番地に住む。

唱歌 歌をうたうこと。その歌曲・歌詞。小学校で歌を教える授業の教科目名。
田村虎蔵 たむらとらぞう。作曲家、音楽教育家。1895年(明治28年)東京音楽学校を卒業。東京高等師範学校で教鞭。言文一致唱歌を提唱。『花咲爺』『金太郎』『一寸法師』『浦島太郎』を作曲。生年は明治6年5月24日、没年は昭和18年11月7日。享年は満71歳。
気はれて… 平安前期の漢詩人、みやこの良香よしかが羅城門を通った時「気霽れては風、新柳の髪を梳る」(天気がおだやかに晴れて、風は萌え出た柳の枝を、髪をくしけずるようだ)と漢詩を詠むと、「氷消えては波、旧苔の鬚を洗ふ」(池の氷が消えて、波は古びた苔を、髭を洗うように打ち寄せる)と楼上から詩の続きを詠む声がした。(『十訓抄』より)
時代離れしたものを歌っていた 本当にこの詩を使っていたのかは不明
納所辨次郎 納所弁次郎。のうしょ べんじろう。作曲家。音楽教育家。生年は慶応元年9月24日(1865年11月12日)。没年は昭和11年(1936年)5月11日。享年は満71歳。
小山作之助 こやま さくのすけ。教育者・作曲家。生年は文久3年12月11日(1864年1月19日)。没年は昭和2年(1927年)6月27日)。享年は満63歳。
言文一致体唱歌 言文一致唱歌。日常に用いられる話し言葉の口語体を用いて歌うこと。20世紀に入り、言文一致唱歌を作成する運動が、田村虎蔵、納所弁次郎、石原和三郎らによってすすめられた。
師範学校 小学校,国民学校の教員を養成した旧制の学校。
音楽学校 東京音楽学校。1887年、下谷区につくった唯一の官立の音楽専門学校。
筑土八幡町31番地 場所はここ。

筑土八幡町31番地

牛込区全図。昭和5年。筑土八幡町31番地


 当時緑濃い、近くの筑土八幡神社の高台を愛し、境内を散歩しながら曲想を練ったという。
 「金太郎」「浦島太郎」を始め、指に足りない、の「一寸法師」、大きな袋を肩にかけ、の「大黒様」、裏の畑でポチがなく、の「花咲爺」等、今でも愛唱される数多くの名曲がここで誕生したのである。
 氏は作曲活動と共に教育音楽界の指導にも尽力した大御所で、教え子は数千人にのぼるという。昭和18年11月7日、71歳でこの世を去った。昭和40年12月、教え子たちにより、ゆかりの筑土八幡神社の一隅に顕彰碑が建てられ、碑面には“まさかりかついできんたろう”と歌詞と楽譜が刻まれている。
 ところで、あまりにも著名な曲とは対照的に田村氏の名があまり知られないのは、小学唱歌作曲家の宿命なのであろうか。

顕彰碑 功績を記した碑。紀功碑。
まさかり… 金太郎の譜1部分

金太郎

金太郎

行元寺の仇討ち

文学と神楽坂

 鈴木貞夫氏は「行天寺の仇討とその周辺」(歴史研究。平成9年9月)で、行天寺の仇討について詳しく論評しています。

   行天寺の仇討とその周辺

         鈴木貞夫

 天明三年(1783)十月八日午前十時頃、牛込神楽坂上の行元寺境内で敵討があり、冨吉は父の仇甚内を討ち取って本懐を遂げた。
 この事件について、『視聴草』は「牛込復讐」として、行元寺門前の町役人たちが奉行所に報告した文章を記載している。……

行元寺 ぎょうがんじ。神楽坂5丁目にあった寺。明治40年、品川区西五反田に移転。神楽坂アインスタワーの場所にあった。
本懐 ほんかい。もとから抱いている願い。本来の希望。本意。本望。
視聴草 みききぐさ。江戸後期の幕臣、宮崎成身が文政13年(1830)頃から30年以上にわたって、手もとにある資料や記録から作成した雑録。

         牛込行元寺内門前
          月行事 権九郎申口
一 今昼四時分.私店前にて年来二十七八歳罷り成り候百姓体の者、年来五十歳計りに相見え候体の男を親の敵と申し打懸り、脇差にて首を切り落し候に付き、右切り候者は留置き、名・住所相尋ね候へば、松平内匠知行下総国相馬郡早尾村百姓甚内と申す者の由申し聞き候に付き、五人組名主一同御訴え申し上げ候へば御検使下し置かれ候、御役知れず

松平内匠知行所      
下総国相馬郡早尾村   
百姓平蔵兄にて
当時小普請組門名孫市郎家来
戸ヶ崎熊太郎召使    
初太郎事
[現代語訳]今日、午前10時ごろ、私の店の前で、おおむね27,8歳になる百姓と思える者が、約50歳ぐらいの者に対して、親の敵だといってから、攻めかかり、脇差で首を切り落しました。この者を留置して、氏名、住所を尋ねましたところ、松平内匠が領知する地域で、下総国の相馬郡早尾村の百姓である甚内だと言いました。五人組名主は一同訴え、調べをしないと、わからないと考えます。

月行事 月々交替で組合などの事務を取る役
申口 もうしぐち。言い分。申し立て。幕府の訴訟制度で、当人が幼少や女子などの場合に当人に代わって問答した者。
昼四 ひるよつ。今の午前10時か午後10時ころ。よつどき。
年来 としごろ。ねんらい。見た目や声の調子などから大体の年齢。
打懸 うちかかる。武器などで相手に攻めかかる。攻撃する。
留置 りゅうち。家へ帰さないでとめておくこと。
内匠 たくみ。宮廷の工匠。
知行 幕府や藩が家臣に俸禄として土地を支給したこと。土地の支配権を与えること。
下総国相馬郡 しもうさのくにそうまこおり。明治11年の相馬郡は茨城県北相馬郡利根町、守谷市、我孫子市、取手市・常総市・龍ケ崎市・つくばみらい市・千葉県柏市の一部。図でA7。
早尾村 茨城県八千代町結城郡。
下総国
五人組 江戸時代に近隣の5家が1組に編成された連帯責任の組織。
検使 江戸時代、殺傷・変死の現場に出向いて調べること。また、その役人。
御役 おやく。役目の丁寧語。義務としてやむをえずやる仕事。役として果たさねばならないつとめ。
知れず わからない。勤めは終わったのか、わからない。
小普請 こぶしん。江戸時代、禄高三千石未満の旗本・御家人のうち、非役の者の称。

 以下は冨吉の言い分です。

冨吉申口(中略)

四五日以前所用これ有り、牛込赤城辺へ罷り越し候節、甚内をふと見掛け候処、私幼年の時分見候儘聢と見極め候内見失い候に付き.いづれこの辺に罷り有るべく存じ奉り、今昼四時分、当町内罷り越し候処、甚内を見掛け侯に付き、元同村甚内にてはこれ無きやと相尋ね候へば、その方は何者の由申すに付き、庄蔵伜冨吉の旨申し聞け、甚内御当地の居所相尋ね候上御願い申し上ぐべきと存じ、甚内へ相尋ね侯へども一向聞き申さず、帯び候刀を抜き候て威し、逃げ去り申すべき見請け侯に付き、取逃がし候てはまたぞろ尋ね当たり候も計り難く、止むことをえず私も帯び仕り候脇差を抜き、親の敵覚えこれ有るべき旨申し、甚内と打合い、右刀を打落とし候へば、甚内内門前の方へ逃げ入り候に付き、引き続き追かけ候処、脇差を抜き候に付き、手首へ打掛け恢へば脇差を捨て、うつぶしに相成り候に付き、首打落とし、私懐中より親の戒名取出し、右へ手向け候節、町役人ども立合い相尋ね侯間、右始末申し聞け候儀に御座候、親庄蔵口論の節は内済に及び候儀故、いずれへも御訴え申し上げず候、私敵打御願い申し上げ候上にて打留め中すべき処、その儀これ無く、右申し上げ候通り甚内居所相糾し候上御願い申し上ぐべく存じ奉り候処、差掛かり止むことをえず、右体に及び候段、甚だ恐れ入り存じ奉り候、何分御慈悲願い上げ奉り候、右体達し候上は何様御咎を蒙り奉り候とも後悔は仕らず候

[意訳]四、五日前に、所用があって、牛込赤城周辺に行きましたが、思いがけずに甚内を見かけました。私は幼年の時に甚内を見ただけで、もっとはっきりと見極めようとしましたが、見失いました。どうせあの辺りにでてくると思っていましたが、今日の午前10時ごろになって、甚内はこの町内に顔を出し、見かけたので「昔、同じ村に住んでいた甚内ではないのか」と尋ね、「その方は誰だ」といわれ、「庄蔵の倅の冨吉だ。よく聞け。おまえの居所はどこか」と、甚内に尋ねましたが、一向に聞く耳を持たず、かわりに帯刀を抜き、おどして、逃げる体勢になったので、ここで逃がしてはまた同じだと思い、やむなく私も脇差を抜き「親の敵だ、覚えていろ」といい、甚内と打合い、甚内の刀を打ち落とし、内門の前の方へ逃げていきました。追いかけ、脇差を抜き、手首をたたくと、甚内は脇差を捨て、うつぶせになったので、首を取り、ふところから親の戒名を取り出し、甚内のほうに向けました。町役人も立ち会って聞いていましたが、このいきさつを言いきかせました。親の庄蔵は口論の時に内々で事をすませ、訴状もなく、私の敵は殺すべきだといいましたが、これ以上のことは何もなかったのです。甚内の居所をただしてほしいといっていました。この件があり、やむをえず、殺した次第です。はなはだ恐れ入りますが、なにぶんともお慈悲をお願いたく、どんな処罰でも受ける覚悟ですが、後悔はありません。

罷る まかる。「行く」の謙譲語。
聢と しかと。確と。しっかりと。確かであるさま。
 縦書きの文章でそれより前の部分。それより前に記してある事柄。
これ無きや これしかないのでは。
申し聞かせる もうしきかせる。よくわかるように教えさとす。説教するす。話して聞かせる。
帯びる 身に着ける。腰に下げたり巻いたりする。
威す おどす。脅す。嚇す。相手を恐れさせる。脅迫する。おどかす。
 てい。体。態。外から見た物事のありさま。ようす。
見請ける みうける。見受ける。見かける。目にとまる。見てとる。見て判断する。
 ぎ。道理。条理。
脇差 わきざし。近世、町民などが道中のときに護身用に腰に差した刀。武士の大刀と小刀の中間の長さ。道中差し。
 人名や人代名詞などに付いて「に関しては」の意味を表す。
打掛ける うちかける。相手に向けて銃砲などを発射する。
うつぶし 「うつぶせ」に同じ。顔を下向きにして横たわること。
懐中 かいちゅう。ふところやポケットの中。そこに入れること。
戒名 仏式で、死者に僧侶がつける名前。
始末 いきさつ。顛末てんまつ
内済 ないさい。表沙汰にしないで内々で事をすませること。
打留む うちとどむ。戦って殺す。しとめる。
糾す ただす。物事の理非を明らかにする。罪過の有無を追及する。
差掛かる さしかける。他のものを覆うように差し出す。
達す たっする。ある場所に行き至る。到達する。物事を成しとげる。達成する。
何様  なにさま。だれかわからないが、偉い人。高貴な人。
御咎 おとがめ。江戸幕府の刑罰体系上、手鎖、叱などの身分の動かない軽微な犯罪に対する刑。


毘沙門天(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 毘沙門天を360°全天球カメラで撮りました。時間は2019年4~6月まで。

 全体をみたもの。


筑土八幡神社|由緒①

文学と神楽坂

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある、今や小さい小さい神社です。

 しかし、「田村虎蔵先生顕彰碑」を始め、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があり、文化財となると巨大な空間です。

 まず筑土八幡神社の由緒について。天保年間に斎藤月岑氏が7巻20冊で刊行した「江戸名所図会」では

築土八幡宮 津久土明神の宮居に竝ぶ地主の神にして、別當は天台宗松霊山無量寺と号す。祭神応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、以上三座なり。相傳ふ、嵯峨天皇の御宇、この地に一人の老翁住めり。常に八幡宮を尊信す。或時、當社の御神、この翁が夢中に託して、永くこの地に跡を垂れ給はんとなり、老翁奇異の思ひをなす、その翌日一松樹の上に、瑞雲ずいうん靉靆あいたいして、旌旗はたの如くなるを見る。(松霊山の号こゝにおこると云ふ。)時に一羽の白鳩來つて、同じ樹間このまにやどる。郷人さとびと翁が霊夢を聞きて、直ちにこの樹下きのもと瑞籬みずがきめぐららして、八幡宮とあがむ、遙の後慈覺大師東國遊化ゆうげの頃、傳教大師彫造し給ふ所の阿彌陀如来を本地佛とし、小祠を經始けいしす、其後文明年間、江戸の城主上杉朝興ともおき、社壇を修飾し、此地の産土神とすといふ。(或ふみにいふ、當社の地は往古管領上杉時氏の壘[トリデ]の跡にして、時氏の弓箭ゆみやを以て八幡宮に勸請なし奉ると云々)

御宇 ぎょう。帝王が天下を治めている期間。御代
瑞雲 ずいうん。めでたいことの起こるきざしとして現れる雲。祥雲
靉靆 あいたい。雲のたなびくさま。雲の厚いさま。
旌旗 せいき。はた。のぼり。軍旗
瑞籬 ずいり。神社などの玉垣。みずがき。

[現代語訳]津久戸明神と並ぶ土地の神で、別当は天台宗松霊山無量寺という。祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱。伝承によると、嵯峨天皇の時代、この地に一人の老人がいた。常に八幡宮を信仰していたが、ある時、当社の神が老人の夢に現れ、永くこの地に自らの跡を残すように告げた。翌日、松の木の上に瑞雲がたなびき旗のように見えた。松霊山の山号は、これに由来する。この時 一羽の白鳩が飛んで来て松の枝にとまった。里人たちは老人の夢の話を聞き、松の木の下に玉垣をめぐらして八幡宮として祀った。その後、慈覚大師が東国遊歴の頃、伝教大師が彫った阿弥陀如来を本地仏として祠が建てられ、さらに文明年間(一四六九~八七)江戸城主上杉朝興が社殿を整え、この地の鎮守とした。一説に、この場所は昔、関東管領上杉時氏の城館があり、時氏の弓矢を八幡宮に奉納したという。(多くは新宿区歴史博物館『江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり』平成12年から)

「江戸名所図会」の上図では、筑土八幡は右、築土神社は左の神社です。現在は右側の筑土八幡しか残っていません。左側の築土神社は千代田区九段に移動し、かわって小玉製作所やカトリックの修道院などがやって来ました。

筑土八幡(右)と筑土神社(左)

筑土八幡(右)と筑土神社(左)。東京市編纂「東京案内」(裳華房、明治40年、1907年)

筑土八幡と筑土神社(現在).

筑土八幡とカトリックの修道院(現在).

「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

 筑土八幡神社は筑土八幡町七番地卽ち筑土山に鎮座す。表門は石柱にて銅製の注連をかけ。石磴中段に石の鳥居あり。筑土八幡神社と題する銅額を掲ぐ。享保十一年丙午建る所にして。從四位下行豊前守丹治眞人黑田直邦と銘せり。山上に株の松あり。千年松といふ株の遺蘖なりとて。ここにも注連を張りぬ。社殿は土蔵造りにて。格天井。拝殿には大なる弓とうつぼとを掛け右の方に獅子頭を安じ。筑土八幡神社の扁額を打たり。殿前の石獅には文化七庚午年八月吉日。石燈篭には寛政十二庚申八月十五日とあり。左には梅右には櫻を植へぬ。
[現代語訳]筑土八幡神社は筑土八幡町七番地、つま周辺の高台を「筑土山」といったが、ここに鎮座している。表門は石柱で銅製のしめなわをかけ、石段の中段には石の鳥居がある。筑土八幡神社という銅額を掲げている。銘は、享保十一年、従四位下行豊前守の丹治眞人黒田直邦。山上に株の松があり、千年松という株がでている。ここにもしめなわを張っている。社殿は土蔵造りで、天井は格天井、拝殿には大なる弓と矢を掛け、右の方に獅子頭をおいた。筑土八幡神社の横長の額がある。殿前の石獅には1810年8月吉日、石燈篭には1800年8月15日と書いてある。左には梅、右には桜を植えた。
山本松谷画「明治東京名所図会」(講談社、1989)

山本松谷画「明治東京名所図会」(講談社、1989)

石磴 せきとう。石段。石の多い坂道。
中段 今も下から48段目
享保十一年 1726年
黒田直邦 上野沼田藩主。寛文6年(1666年)生れ。享保8年(1723年)奏者番。同20年(1735年)3月歿。享年は70歳
遺蘖 蘖は切り株や木の根元から出る若芽。余蘖。
格天井 太い木を井桁いげた状に組み、上に板を張った天井
 えびら。矢を入れて右腰につける武具。うつぼ(靫・空穂・靭)は矢を携帯する筒状の容器。
扁額 門戸や室内に掲げる横に長い額
文化七庚午年 1810年
寛政十二庚申 1800年

 境内には由来も書いてあります。

      筑土八幡神社由来
 昔、嵯峨さが天皇の御代(今から約千二百年前)に武蔵国豊嶋こおり牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁かいた。ある時、翁の夢の中に神霊しんれいが現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそはへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人さとびとに語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連しめなわをゆいまわして、その松をまつった。
 その後、伝教でんぎょう大師だいしがこの地を訪れた畤、この由を聞いて、神像を彫刻してほこらに祀った。その時に筑紫つくしの宇佐の宮土をもとめていしずえとしたので、筑土つくど八幡はちまん神社と名づけた。
 さらにその後、文明年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土うぶすな神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
 現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和二十年の戦災て焼失した社殿も、昭和三十八年氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。
 御祭神
   応神天皇
   神功皇后
   仲哀天皇
 大祭
   九月十五日

宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめのみこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治四十 年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年に再建したものである。

川柳江戸名所図会⑥|至文堂

文学と神楽坂

 神楽坂にあった万昌院に忠臣蔵の敵役、吉良上野介の墓がありました。大正10年、この万昌院も、墓も、その他をひっくるめて中野区に移転しました。
 そのほかの問題も出てきます。「申」はどう読むのでしょうか。

万 昌 院

筑土八幡の裏に当る所にあった寺で、町名は筑土八幡町であった。久宝山万昌院という。この寺は曹洞宗であって、吉良家の菩提寺で、上野介の墓もこの寺にある。
 しかし上野介への反感から、一般からは寺もいっしよに敬遠された。
   人ごゝろ万昌院へ行人なし        (天五高2)
   万昌院へ参るのは茶人也         (五〇・33)
   吉良の寺あれかと指をさした      (五〇・31)
 元禄十五年十二月十五日早暁、首級義士泉岳寺へ持ち去られたあと、吉良家からは、万昌院へ亡骸が送られた。
   首の無とむら万昌院          (筥四・29)
   万昌院引導に首がなし         (藐・7)
   牛込とへわかれる首と胴         (五〇・36)
   万松と万昌へ行首と胴           (九五・8)
 泉岳寺は万松山という。もう一つ泉岳寺との句、
   牛込と牛町寺は敵味方           (九五・23)
 そこで吉良家の頼みにより、寺から時の寺社奉行へ願い出たので、ようやく首は吉良家へ戻り、改めて万昌院へ届けられ、十九日に至ってようやく埋葬することができたという。

万昌院

万昌院、久宝山万昌院 ばんしょういん。くほうざんばんしょういん。天正2年(1574年)に創建。大正10年、中野区に移転。右図は明治20年の地図。
吉良上野介 吉良上野介。きらこうずけのすけ。旧暦元禄14年3月14日、1701年4月21日、浅野あさの内匠たくみのかみが、江戸城松之大廊下で、吉良上野介に斬りかかった。徳川綱吉は激怒し、浅野内匠頭は即日切腹。元禄15年12月14日、1703年1月30日、浅野家筆頭家老の大石おおいしくら蔵助のすけ以下47人が吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった。のちに赤穂義士47人の忠臣蔵になった。
菩提寺 ボダイジ。先祖代々の墓や位牌をおき、葬式や法事を行う寺。檀那だんなでら
曹洞宗 そうとうしゅう。鎌倉仏教の1つ。黙照禅で坐禅に徹する。
人ごころ 人間らしいやさしい心。愛情や誠意のある心。正気。人間としての正常な意識。
茶人 ちゃじん。茶の湯を好む人。茶道に通じた人。茶道の宗匠。普通の人と違った好みのある人。物好き。
 きり。かぎり。だけ。しか。だけしか。
首級 しゅきゅう。討ちとった敵の首。しるし。
義士 ぎし。「赤穂あこう義士」の略。人間としての正しい道を堅く守り行う男子。義人。
泉岳寺 せんがくじ。港区高輪にある曹洞宗の寺。開基は徳川家康。赤穂あこう義士の墓がある。
吊う とむらう。弔う。人の死を悲しみいたむ。弔問する。死者のために葬儀・供養・法要を営む。
引導 人々を導いて仏の道に入れること。正しい道に導くこと。葬儀の時、僧が死者に解脱の境に入るように法語を与えること。
 東京都港区の地名、旧区名。増上寺や東京タワーがある。
万松 泉岳寺の山号は万松ばんしようざん
牛町 うしまち。港区高輪の都営泉岳寺駅の周辺です。
時の その時の。
寺社奉行 江戸幕府の職名。寺社およびその領地の人々などを管理し、その訴訟を受理・裁決した。

その時の吉良家から万昌院への送り状があって、寺の宝物の由である、その文言は、

         覚
 一 紙包 二つ
  右の通り阿部飛弾守様被仰渡候由にて、泉岳寺より使僧を以て、遣無相違諸取申候御願故と忝無く奉存候弥々上野介死体の儀御所置可被下候為其如斯御座候、以上
     午十二月十六日
            吉良左兵衛内
              左右田孫兵衛
              斎藤  宮内
      万昌院御役僧中

というのであるが、私は原文を見ていないから、誤なきを保し難い。紙包二つというのは、一つは首級、一つは上野介の守袋であるという。

被仰渡候 おおせわたされそうろう。命じられる。
使僧 しそう。使者として遣わす僧。
無相違 そういなく
申候 まをしさふらふ。もうしそうろう。
御願 ごがん。貴人の祈願・立願を敬意をこめていう語。御祈願
忝無く かたじけなく。もったいない。恐れ多い。
奉存候 ぞんじそうろう
弥々 いよいよ。その時期がついにやって来たさま。とうとう。その時期が迫っているさま。
可被下候 くださるべくそうろう。くださるようお願いします。
為其 そのため
如斯 かくのごとく
保し ほし。「保する」は「たもつ。守る。保証する」
守袋 まもりぶくろ。守り札を入れて身につけておく袋。おまもり。

 こういう珍妙な事件を、川柳子が見逃そうはずはなく、いろいろにうたわれている。
   その首を寺から貰ふごうさらし      (五〇・41)
   ぼだひ所へからだと首が二度に来ル    (天二松2二77)
   首と胴万昌院へ二度に来る        (五〇・35)
   その首の請取状がたからもの       (明二桜2)
   首壱請取申什物            (傍五・18)
 ところがこの万昌院という寺は、大正十年に、当時芝三田功運町にあった同じく曹洞宗の功運寺と合併し、中野区上高田4-14-1へ移転した。昭和通りを西へ、環状六号線を横切り、右側、正見寺と派出所との間を右へ坂を下り、やや上りになった辺り、右側落合火葬場の裏手に当り、この辺りは寺が多い。
 本堂裏の墓地に、吉良家の一画があり、同じような形をした石塔が四基あり、その右端が上野介のであって、碑面には四行に
  元禄十五年十二月十五日
  霊性寺殿実山相公大居士
  従四位上左近衛少将吉良
  前上野介源義央朝臣
と刻まれている。
 なお50篇に忠臣蔵関係の句が多いのは、「角力十結満会忠臣蔵一式題 文日堂評」というのがあり、240句ばかり拾録されているからである。また95篇に多いのも「天川屋儀平追善の会 仮名手本忠臣蔵一題 附・弐度目の清書追会」として、500句ばかりが載せられているためである。

ごうさらし 業晒し、業曝し。前世の悪業の報いによって受けた恥を世間にさらすこと。
ぼだい所 菩提所。煩悩ぼんのうを断ち切って悟りの境地に達する所。死後の冥福めいふく
請取状 うけとりじょう。中世以降、ものの受領の証拠として差し出す文書。
 不明ですが、多分「そうろう」でしょう。岡田甫校正の「俳風柳多留」(三省堂、昭和51年)では「連語体ではないが、の文字は残した」と書いてあります。「連語」とは「二つ以上の単語が連結して、一つの単語と似たような働きをもつもの」だそうです。まずhttp://mojizo.nabunken.go.jp/で「くずし字」を調べてみました。作、河、酒、駿、比、斗、北などがでてきます。どうも違うようです。そこでを使った状況を調べ直しました。
べくのさみせんを見せで彈  (二三・40)
○今心も乱れ須田の土手     (四三・15)
○居能嶋がらと馬にでる      (四三・30)
○居ちとはたらく目が廻り    (四四・31)
○入聟ほどあつかわれ      (四七・30)
また「三七・19」には「居一題」として45句が載っています。たとえば
○居花より團子うちながめ      -秀
○居寢所で杖を尋ねてる       琴我
○口がるで尻のおもたひ居      志丸

これから「居」は5文字で、おそらく「いそうろう」「居候」でしょう。「居候」とは「縁者でも雇用人でもなく、他人の家で生活する同居人。雑用をしながら食事と勉学をする食客」です。また「」は「そうろう」か「コウ」であり、「申」は「申候」で、「まをしさふらふ」「もうしそうろう」「もうしそろ」になります。くずし字でも右図のようにありました
什物 じゅうもつ。日常使用する道具類。什器。寺院の所有する種々の器財。資財。
拾録 しゅうろく。集めて記録する。
追善 ついぜん。死者の苦を除き冥福を祈るため、法会などの善事を行うこと。

川柳江戸名所図会④|至文堂

文学と神楽坂

 善国寺の川柳についてです。

鎮護山善国寺

さてまたもとへ戻って、濠端から神楽坂を上り切った辺り、左側、古くは肴町、今は神楽坂五丁目という所にがある。
 そもそもは馬喰町にあり、寛文十年、麹町六丁目横町、御厩谷という所へ移った。そこでその谷を善国寺谷というように成る。
     谷の名に寺名末世置みやげ      (六六・36
いうような句のできるわけは、さらに「武江年表」寛政五年の項に「麹町善国寺去年火除のため地を召上げられ、神楽坂に代地を給はりけるが、今年二月普請成就して、二十七日毘沙門天遷座あり」と記されているようにまた移転したのである。
     あら高くなる谷から坂の上      (六六・31)
     三度目面白い地へ御鎮座       (六六・30)
     所かへてんてこまふかぐら坂     (八一・3)
 本尊毘沙門天は加藤清正守護仏であったとも伝え、尊仰篤く、芝金杉の正伝寺品川の連長寺と共に知られた。
     むりな願ひも金杉と神楽坂       (六六・29)

 日蓮宗鎮護山善国寺です。
馬喰町 東京都中央区日本橋馬喰町です。
御厩谷 おんまやだに。御厩谷坂とは千代田区三番町の大妻通りを北から南に下がる坂。
善国寺谷 現在は千代田区下二番町の間より善国寺谷に下る坂。坂上に善国寺があり、新宿通りから北へ向って左側にありました。坂下のあたりを善国寺谷といい、御厩谷とは無関係。
末世  仏教で、末法の世。仏法の衰えた世。のちの世。後世。道義のすたれた世の中。
置き土産 前任者が残した贈り物、業績、負債。
六六・36 この「川柳江戸名所図会」にはどこにも書いてありませんが、江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この本も「誹風柳多留」の句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇をまとめました。これは66篇の句集36です。ちなみにこの作者は「百河」です。
武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永1)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18)から1848年(嘉永1)まで、続編はその翌年から1873年(明治6)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
普請 家を建築したり修理したりすること。多数の僧に呼びかけて堂塔建造などの労役に従事してもらうこと。
遷座 せんざ。神仏や天皇の座を他の場所に移すこと。
あら 驚いたり、意外に思ったり、感動した時などに発する語。
てんてこ 「てんてこ」とは里神楽などの太鼓の音で、その音に合わせた舞
まふ 舞う。音楽などに合わせて手足を動かし、ゆっくり回ったり、かろやかに移動したりする。
加藤清正 かとうきよまさ。安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。
守護仏 守護本尊。守り仏。一生を守り続けている仏。生年の十二支を求め、8体の仏から決定する。
芝金杉の正伝寺 港区芝の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天がある。
品川の連長寺 正しくは蓮長寺。品川区南品川の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天像を祀る。

 縁日の日である。
     ゑん日が千里もひゞく神楽坂      (一五〇・10)
虎は千里行って千里かへる」ということわざをふまえている。
     寅の日におばゞへこ/\善国寺     (六六・30)
「おばゞへこ/\」というのは、当時の流行語であったらしい。ここでは老婆が腰をへなへなと動かす形容である。
 他に句もある。
     おばゞへこ/\の気あるやかましい  (天二満2)
     おばゞへこ/\の気あるでむつかしい  (二〇・26 末四・18)
     おばゞへこ/\がおすきで困り    (一〇三・4)
 これらの句は姑婆がまだ色気があって、聟を困らせるというようなことであろう。
     きざな事おばゞへこ/\罷出る     (傍三・41)
 これは吉原遣り手か。
     寅詣牛へひかれし善国寺        (六六・35)

縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すると御利益があるという。
 十二支の第3番目。寅の日には婚礼などを避けたが、「虎は千里を行って千里を帰る」といい、出戻ることを避けるためだった。時刻では、午前4時の前後2時間を「寅の刻」「寅の時」という。方角は東北東。
ひびく 音が遠くまで達する。ある場所で大きな音や声が発せられて、大きく聞こえる。
虎は千里行って千里かへる 虎が、一日のうちに千里もの距離を行き、さらに戻って来ることができる。活力に満ちた、行動力のあるなどを表す言い回し。
おばば 御祖母。祖母や老年の女性を親しんでいう語
へこへこ 張りがなく、へこんだり、ゆがんだりしやすいさま。頭をしきりに下げるさま。また、へつらうさま。ぺこぺこ。
気ある  興味や関心がある。特に、恋い慕う気持ちがある。
やかましい 音や声が大きすぎて、不快に感じられる。さわがしい。
 もこ。むこ。結婚して妻の家系に入った男性。
姑婆 「こば」? 祖父の姉妹。父方の叔母。
きざな 服装・態度やものの言い方などが気取っていて、いやみだ。
罷出る まかりでる。人前に出る。出てくる。
吉原 江戸幕府が公認した遊廓。浅草寺裏の日本堤で、現在は千束4丁目付近。
遣り手 遊郭で客と遊女との取り持ちや、遊女の監督をする年配の女。
寅詣 とらまいり。寅の日に毘沙門天に参詣すること。

 神楽坂のさらに上、通寺町の右側に多くの寺があり、その一つに龍峯山保善寺というのがあった。ここは山門に「獅子窟」というがかけられていて、世俗獅子寺〉といった。この寺は今は中野区昭和通りに面した所に移っている。
 またその先隣に蒼龍山松源寺という寺があった。俗に〈猿寺〉という。この寺では猿を飼っていた。ある時、住持が江戸川の渡船に乗ろうとした時、猿に引留められて乗船を思い止まり、そのため沈没溺死を免れたという話が伝えられている。この寺も獅子寺と同様中野区昭和通りに移転しており、門前に猿の像を載せた「さる寺」という柱を立てている。
     牛込で獅々猿よりもはやる寅      (六六・35)
 この句はこれらの寺々と善国寺とを獣で比べたのである。
 さて神楽坂や善国寺関係の句が多く六六篇にあるのは、同篇に「牛込神楽坂毘沙門天奉納額面会」が催された時の句、一四八句が載っているからであって、ここにあげた外にも、いろいろあるが省略する。しかし他の篇にはあまりこの寺の句は見当らない。

明治20年「東京実測図」(新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」から)

龍峯山保善寺 盛高山保善寺(赤)。現在は中野区上高田1-31-2に移動。
獅子窟 ししくつ。「窟」はあな、ほらあなの意味。
 書画を枠に入れて室内の壁などに掛けた文句や絵画。その枠。
世俗 せぞく。俗世間。俗世間の人。世の中の風俗・習慣。世のならわし。
獅子寺 三代将軍徳川家光が牛込の酒井家邸を訪問した折り保善寺に立寄り、獅子に似た犬を拝領した。これから「獅子寺」という
蒼龍山松源寺 蒼龍山松源寺(青)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。
猿を飼っていた 佐藤隆三氏や芳賀善次朗氏の「猿寺」を参照。
江戸川 これは利根川の支流です。千葉県北西端の野田市関宿せきやどで分流し、東京湾に注ぐ。
はやる ある一時期に多くの人々に愛好する。流行する。 客。



猿寺|佐藤隆三と芳賀善次朗

文学と神楽坂

 猿寺について佐藤隆三氏と芳賀善次朗氏を取り上げます。最初は佐藤隆三氏で、氏は昭和6年には東京市主事であり、『江戸の口碑と伝説』(郷土研究社、昭和6年)という本を書いています。ちなみに口碑こうひとは、古くからの言い伝えや伝説のことです。
 元禄の頃、住職の徳山和尚が渡船に乗ろうとすると猿が現れ、自分の裾を取り、また他の主人との話もあり、乗船できませんでした。しかし、目の前で、この渡船は沈没してしまいます。猿のおかげで難を免れたという話です。

     猿寺
 東中野桐ヶ谷の大通りに、猿寺といふがある。本名は松源寺であるが、山門の前に「さる寺」と刻付け猿の附いた大きな石標が建てゝある。この寺はもと牛込通寺町にあつたが、明治三十九年に此處に移轉したものだ。
 元祿の頃、この寺に徳山と云ふ有德の和尚が居つた。時々境内に猿がやつて來て惡戯をするので、和尚も困つてゐたが、別に人畜に害を加ふる譯でもないからその儘にして置いた。或日和尚の留守の時に、小僧と仲間ちうげんが面白半分に、猿を本堂に追ひ込んで生捕りにし、繩で縛つて置いた。そこへ淺草橋場の檀家の者がお詣りに來て、何程かの鳥目を小僧と仲間に與へて、猿を貰つて行つた。和尚はその後境内に猿の出なくなつたことを氣にも留めなかつた。
 翌年の春、花の咲く頃、和尚は向島の檀家に招かれ、小僧を連れて、竹屋渡場迄やつて行くと、花見の連中がワイ/\騒ぎながら渡舟を待ってゐる。和尚も舟に乗らうと岸に立つてゐると後より法衣の裾を引張るものがある。振り向いて見ると一匹の猿であつた。變な猿だと思つてゐる所へ、猿に逃げられたと云って駈けつけて來たのが、橋場の檀家武藏屋の主人であつた。この猿は松源寺の境内にゐた猿だと聞いて、懐かしげに思ひ、武藏屋の主人と話をしてゐるうちに、舟は多くの人を乘せて出て終つた。仕方なしにモー一舟待つてゐると、その舟は餘り多くの人が乘つたものだから、川の中程で引繰り返り、泣くやら叫ぶやら大騒ぎとなつた。無論助け舟も出たことであるが、溺死する者も尠くはなかつた。和尚と小僧は猿のお蔭で、命拾ひをしたことを喜んだ。歸りがけに武藏屋に立寄って譯を話して、その猿を貰ひ受け、寺で大事に飼ふことにした。
 五代將軍綱吉公、鷹狩の歸途この寺に立寄られた時、猿にお目がとり、和尚よりこの話を聞いていたく感心せられ、その後綱吉公より雲慶の作と稱する、猿を彫刻した扁額を賜はつたので早速その額を本堂にかゝげた。それ以来猿寺と人が呼ぶ様になつたと云ふ。

 蒼龍山松源寺(左側の青い多角形)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。
刻付け きざみつけ。材料や表面を刻む、切る、刻み込む
山門 寺院の門。寺院。寺院は元来、山中に建てられたため
石標 ある事を記念し、後世に伝えるために記しておく石。石碑。目印の石。道標に立てた石。
牛込通寺町 現在は神楽坂六丁目21番地。
元禄 1688年~1704年。江戸幕府将軍は5代目の徳川綱吉つなよし
有德 うとく。ゆうとく。徳行のすぐれていること。
仲間 ちゅうげん。中間。武家の奉公人で、城門の警固や行列の供回りなどに使った。
檀家 だんか。だんけ。寺院に属し布施する家か信者
浅草橋 東京都台東区浅草橋。秋葉原の東に位置する。
鳥目 ちょうもく。銭や金銭の異称。江戸時代の銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたから。
境内 神社・寺院の敷地内
向島 むかいしま。東京都墨田区の隅田川東岸の旧区名。中小工場・住宅・商店が密集し、墨堤の桜や百花園の月見で有名だった。
竹屋の渡し 現在の言問橋のやや上流の山谷堀から、向島三囲みめぐり神社(墨田区向島二丁目)を結んでいた。
橋場 現在の白鬚橋付近。隅田川の渡しとしては最も古い。白鬚橋が完成し、渡しは廃止された。
尠く 「少なく」と同じ
雲慶 平安時代末期から鎌倉時代初期に活動した仏師。
稱する 称する。となえる。呼ぶ。
扁額 へんがく。門戸や室内などに掲げる横に長い額。横額

 次は芳賀善次朗氏の『新宿と伝説』(東京都新宿区教育委員会、昭和44年)の「恩返しをしたサル」です。氏については新宿区戸塚第一小学校の校長であり、新宿区の伝説や伝承をまとめています。

九 恩返しをしたサル
  場 所 神楽坂六丁目21番地
  時 代 江戸時代 元禄(1688―1703)のころ
 ここに松源寺という寺があり、徳山という高僧がいた。時々境内にサルがやってきていたずらをするので、和尚は困っていたが、別に人畜に危害を加えるわけではないので、そのままにしておいた。
 ある目、和尚の留守の時に、小僧と仲間がおもしろ半分にサルを本堂に追い込んで、生けどりにし、なわでしばった。和尚はかわいそうだから放してやれといっているところへ、浅草橋場のだん家の者がお参りにきた。その人はいくらかの金を小僧と仲間に与え、その猿をもらい受けていった。
 翌年の春の花時、和尚は向島のだん家に招かれ、小僧をつれて竹屋の渡し場までやってくると、花見の連中が大勢ワイワイ騒ぎながら渡し舟を待っていた。
 和尚も舟に乗ろうと岸に立っていると、後から衣のすそを引っ張るものがいた。振り向いて見ると、一匹のサルであった。変なサルだと思っていると、そこヘサルに逃げられたといって駆けてくる人がいた。みれば橋場のだん家武蔵屋の主人であった。
 武蔵屋の主人が、「このサルは松源寺からもらってきたものだ」と話しているうちに、舟は出てしまった。和尚はしかたなしに、つぎの舟を待っていた。ところが舟はあまり多くの人を乗せたため、川の中ほどでひっくり返り大騒ぎとなった。すぐさま助け舟は出たもののでき死者まで出る始末であった。
 サルのおかけで、結局和尚と小僧は命拾いをしたのである。帰りがけに和尚は喜んで、武蔵屋に立ちより、そのサルをもらい受け、大事に飼うことになった。
 五代将軍綱吉公は、鷹狩りの帰りに、この寺に立ち寄られ、和尚から恩返しをしたサルの話を聞いて、いたく感心されたということである。その後、綱吉公から雲慶の作と称するサルを彫刻したへん額を賜った。それ以来、この寺を土地の人々がサル寺と呼ぶようになった。
  出 典 ○江戸の口碑と伝説 佐藤隆三著 昭和6年10月 郷土研究社発行
  解 説 松源寺は、明治末年、道路拡張のため、中野区上高田一丁目に移転した。

川柳江戸名所図会①|至文堂

文学と神楽坂

 実は川柳を調べる場合、どうやって調べればいいのか、わかりませんでした。例えば新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(平成9年、1997年)に、みずのまさを氏が書いた「切絵図と川柳から見た江戸時代の神楽坂とその周辺」があります。たくさんの川柳が出ていますが、いったいどこで調べたのでしょう。
 ようやくわかりました。まず「切絵図と川柳…」の出典は「川柳江戸名所図会」(至文堂、昭和47年、新宿区は比企蟬人氏がまとめ)でした。また川柳の原典は当然ながら江戸時代の「誹風はいふうやなぎ多留だる」167篇11万句です。では、最初に「川柳江戸名所図会」から「神楽坂」を取り上げます。
 しかし、みずのまさを氏の「切絵図と川柳…」について、この文献は「川柳江戸名所図会」を使ったものだとはっきりと書いてはいません。まったく。

神 楽 坂

牛込御門から濠を渡り、真直ぐに上りになる坂である。神楽坂という名については、いろいろと説があるようであるが、ここでは省略する。坂の上に岩戸町という名の町がある。
   神楽坂上に岩戸面白し         (四六・12
   神楽坂あるで近所に岩戸丁        (三四・28)
   おもしろし岩戸神楽にとんど橋      (六六・36)
   御百度で岩戸もねれる神楽坂       (六六・31)
 善国寺のお百度、岩戸は女陰をさす。
   岩戸町せなァ戸隠様だんべへ       (六六・31)
 信州から来た下男。
   諸国迄音にきこへた神楽坂        (六六・32)
   御やしろのあたりにかなう神楽坂     (安七智2)
   神楽坂ひどくころんで        (一四七・8)
 お神楽の面にたとえる。
   あふげ神垣近き神楽坂         (六六・34)

岩戸町 神楽坂上から西南にある町(右図)。あまの岩戸いわととは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟で、太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの伝説の舞台である。
四六・12 これは46篇12丁の意味です。江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この「川柳江戸名所図会」も「誹風柳多留」から取った句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇11万句をまとめました。
とんど橋 船河原橋のこと。江戸川落とし口にかかる橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。
御百度 願い事がかなうように社寺に100回お参りをする。お百度を上げる。
ねれる 寝ることができる。
だんべへ 「だろう」の意の近世東国語。だんべい。だんべえ。
やしろ  社。神をまつってある建物。神社。屋代やしろ。神が来臨する仮設の小屋や祭壇など
かなう 願望が実現する。叶う。適う。敵う
替り面 かわりめん。顔つきが以前と変わること
あふげ 「あふぐ」で、仰ぎ見る。尊敬する。
神垣 かみがき。神域を他と区別するための垣。神社の周囲の垣。玉垣たまがき瑞垣みずがき斎垣いがき

「切絵図と川柳から見た江戸時代の神楽坂とその周辺」では神楽坂という由来についていろいろ書き、それから川柳になります。「川柳江戸名所図会」で出た川柳がすべて出てきます。

 ○あふげ此神垣近き神楽坂
 ○御やしろのあたりにかなふ神楽坂
 この2句は前記の御やしろに囲まれた神楽坂をうたったものです。
 ○神楽坂ひどくころんで替わり面
 転ぶほど急坂であったこと、お神楽のヒョットコ面が想像されます。
 ○諸国迄音にきこへた神楽坂
 無論、音は神楽にかけたのでしょうが、それにしても、音から神楽坂は有名だったのですねえ!

 また岩戸町については、項を改め、

 善国寺も岩戸町内にあり、現神楽坂通りの眞中に岩戸町1丁目があります。現岩戸町(大久保通り東側)は明和4年(1767)から火除明地になって雑司ヶ谷の百姓の菜園拝借地となっています。(切絵図(3)参照)
○神楽坂上に岩戸は面白し
○神楽坂あるで近所に岩戸丁
○御百度で岩戸もねれる神楽坂
最後の句は善国寺のお百度詣り、岩戸は女陰をさします。

地上の楽園|杉本苑子

文学と神楽坂

 杉本その氏は東京市牛込区(現東京都新宿区)若松町に生まれた小説家です。吉川英治に師事し、歴史小説を発表。1963年、「孤愁の岸」で直木賞を受賞。現在まで大量の歴史小説は書いているのですが、それ以外の随筆やインタービューは極めて稀か、書いても全集等には載りません。生年は1925年6月26日、没年は2017年5月31日。享年は満91歳。これは神楽坂に関するインタービューです。


地上の楽園    杉本苑子 作家
 ハイカラに神楽坂でココア

  お年玉のギザ(50銭硬貨)を握りしめ、岩波文庫を読んだ。文学という病に取りつかれるまでの幸せな日々は、両親と歩いた神楽坂の縁日や新宿の雑踏の淡い記憶に彩られている。

 ――全集が刊行中ですね。
 二十二巻あっても、入るのは書いたものの半分ですね。習作時代からだと五十年。木の机なんか体の形にすり減ってるの。
二十代の初めに小脱を書こうと志し、まっすぐにきてしまった。物語に打たれ、触発され、ものを考え出すようになってからは、どこへ行っても、何をしていても、深刻な無念や憎悪、外的・内的な怒り、屈託というものがいつも一緒だった。
 ――早熟な子だった。
 英語が敵性語とされ、短歌が必修科目になったときの女学校時代に「思うこと無げに遊べる童らよ我にもありきかかる遠き日」という歌を作った。十四、五歳の小娘が「かかる遠き日」なんていうのは生意気だけど、ちょっとおませな子どもだったら、子どもなりのもの思いが生じてくる。そういう悩みがまつたくなかったころだけが、楽園だという思いは今も同じ。
 ――楽園の風景は?
 あなたがたは戦前世代というと、もんぺで雑炊、空襲と条件反射みたいに想像するけど、大正末年生まれの子ども時代は、クリスマスだってお正月だって今と同じですよ。東京の小さな薬屋の娘だったわたしでも、よそいきは真っ赤なビロードの生地にウサギの毛のついたオーバー。赤い靴に子ども用の帽子、ハンドバッグはブロンドのフランス人形で、背中にファスナーがついていて、ハンカチとかキャンデーが入れられるの。
 ――ハイカラですね。
 神楽坂のビシャモン縁日に、両親に連れられてよく出かけたものです。お参りの人と夜店とで明るい活気があった。とくに紅家という子どもの目にもモダンな喫茶店があって、そこでケーキを食べてココアを飲むのがとっても楽しみだった。大きならせん階段があるの。その木の手すりに乗っかってツーッて滑り降りたわ。
両親も若かったし時代にも関東大震災からの復興の雰囲気があった。あのころのビシャモンの縁日のにぎわいを思い出すと、いい雰囲気の幼児期だったなあって思いますよ。
 ――そんな子がなぜ文学へ。
 どうしてでしょうねえ。やみくもに小説が好きだった。お年玉をもらっても、岩波文庫を買って読みふけっていた。『幸福な王子』『青い鳥』だとか、子ども心にどれだけ打たれたか。小説の持つ力を、もしわたしのものにできたらと思ったのかもしれません。
 子どもの時から、長生きはしないだろうなあと予感して、自分の限られた時間は自分ひとりのためだけに使おうと決めた。夫とか子どもなど執着の対象を持つと、どうしたって時間がとられるでしよ。そういうのはいやだったの。エゴイストよね。
 ――死後は家も何もかも、熱海市に託すとか。
 ええ、本当にさっぱりした。物欲も生への執着もあまりない。もともと生存本能が淡いのかも。来世とか前世は信じてないけど、無だった状況から間違って生まれてきたような気がしてしようがない。わたしの作品にも、そんな虚無感がずっと通っている気がします。
(朝日新聞。1998.1.8.)

ビロード パイル織物の一種。綿・絹・毛などで織り、細かい毛をたて、なめらかでつやのある織り方。ポルトガル語のveludo、スペイン語のvelludoから来たもので、ベルベットvelvetと同義語。
ビシャモン 日蓮宗鎮護山善国寺毘沙門天。東京の縁日発祥の地です。
縁日 特定の神仏に縁のある日。有縁うえんの日。その日に参詣すると、特別な功徳があるという。
紅家 正しくは紅谷
『幸福な王子』 英国作家O・ワイルドの童話。1888年刊。黄金の王子像がツバメを通して黄金や宝石を貧しい人たちに配る。像は火に溶かされるが、美しい心臓だけは残ったという。
『青い鳥』 メーテルリンクの戯曲。六幕。1908年初演。チルチルとミチルの兄妹は、夢の中で幸福の使いである青い鳥を求める。翌朝目覚めて、鳥籠に青い鳥をみつけ、幸福は身近にあることを知る。


湯島の境内①|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花氏の『婦系図』「湯島の境内」からです。「湯島の境内」は小説「婦系図」(1907年)では入っておらず、戯曲「婦系図」(1914年)で新しく加わりました。戯曲の山場のひとつです。この原本は岩波書店「鏡花全集 第26」(第一版は昭和17年)から。なお、早瀬主税ちからは書生で、主人公。お蔦は内縁の妻です。

早瀬 おれこれきりわかれるんだ。
お蔦 えゝ。
早瀬 思切おもひきつてわかれてくれ。
お蔦 早瀬はやせさん。
早瀬 …………
お蔦 串戯じょうだんぢや、――貴方あなたささうねえ。
早瀬 洒落しゃれ串戯じょうだんで、こ、こんなことが。おれゆめれとおもつてる。
 〽あとには二人ふたりさしあひも、なみだぬぐうて三千歳みちとせが、うらめしさうにかほて、
お蔦 真個ほんたうなのねえ。
早瀬 おれがあやまる、あたまげるよ。
お蔦 れるのわかれるのッて、そんなことは、芸者げいしやときふものよ。……わたしにやねとつてください。つたにはれろ、とおつしやいましな。
  ツンとしてそがひる。
早瀬 おつた、おつたおれけつして薄情はくじやうぢやない。
お蔦 えゝ、薄情はくじやうとはおもひません。
早瀬 ちかつておまへきはしない。
お蔦 えゝ、かれてたまるもんですか。

三千歳 みちとせ。歌舞伎舞踊で、片岡直次郎と遊女三千歳の雪夜の忍び逢いをうたう。
そがい 背向。後。後ろの方角。後方。