尾崎紅葉」カテゴリーアーカイブ

尾崎紅葉旧居跡(360°パノラマカメラ)

 平成28年、新しく説明文が変わりました。これは新しいものです。なお「十千萬堂」は、この説明文では「とちまどう」となっていますが、やはり「とちまんどう」でしょう。ここだけは「とちまんどう」としています。

文化財愛護シンボルマーク

新宿区指定史跡
 ざき こう よう きゅう きょ あと
所 在 地 新宿区横寺町47番地
指定年月日 昭和60年3月1日


 この地は、小説家の尾崎紅葉(1867~1903)が、明治24年(1891)から明治36年(1903)10月30日に亡くなるまで12年間暮らし、代表作「金色こんじきしゃ」など多くの作品を執筆した場所である。
 紅葉は、本名を徳太郎といい、江戸の芝中門前町(現在の港区浜松町)に生まれた。東京府第二中学や三田英学校で学び、明治16年(1883)大学予備門に入学、同18年にはやまみょうらと硯友社けんゆうしゃを結成、回覧雑誌『らくぶん』を発行した。同21年には帝国大学法科大学(現在の東京大学)政治科に入学、翌年には文科大学国文科に移るが同23年に退学した。在学中から読売新聞社に入社し、「きゃまくら」「三人妻」などを連載して人気作家となり、やがて明治めいじ文壇ぶんだん重鎮じゅうちんとして幸田こうだ露伴ろはんとともに紅露こうろ時代じだいを築いた。
 紅葉は鳥居家の母屋を借りて居住したが、自らの号でもある「まんどう」と称した。二階の八畳と六畳を書斎と応接間にし、一階にはいずみきょうら弟子が起居したこともあった。当時の家屋は戦災により焼失したが、鳥居家には今も紅葉がふすまの下張りにした俳句の遺筆が保存されている。
 平成28年3月25日

新宿区教育委員会

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑥

文学と神楽坂

   紅葉十千万堂跡

 飯塚酒店藝術倶楽部の思い出を右にしてそのまま南へまっすぐに横寺町を歩くと、左に箪笥町への道がわかれ、その先は都電通りに出る。その道の右側に大信寺という罹災した古寺があり、その寺の裹が丁度ちょうど尾崎紅葉終焉の家となった十千万堂の跡である。十千万堂というのは紅葉の俳号で、戦災焼失後は紅葉の家主だった鳥居氏の住宅が建てられた。その表入口は横寺町の通りにあって、最近新らしく造られた鉄製の透し門の中に、新宿区で今年の三月に新らしく建て直したばかりの「尾崎紅葉旧居跡」と書いた、史跡でなく旧跡の木札標識がある。そこへ入った奥の左側の、鳥居と表札のある家の屋敷内が、ほぼ十千万堂の跡に当る。
紅葉が祖父の荒木氏と共に横寺町四十七番地にそれぞれ隣りあわせて一軒ずつの貸家を借りて住みついたのは、明冶二十四年二月頃である。
明冶二十二年の新著百種第一冊『二人比丘尼色懺悔』が作家としての出世作となった紅葉ではあったがすでにその頃は硯友社を率いる新進作家と云ってよかった。樺島喜久を妻に迎えたのは明治二十四年三月、横寺町に移って間もなくの二十五歳のときである。(中略)

都電通り 大久保通りです。
大信寺 新宿区横寺町にある浄土宗寺院です。図では赤い矢印。詳しくはここに

終焉の家 図では「尾崎紅葉旧居跡」です。
今年 昭和44年です
木札標識 現在は「新宿区指定史跡」になりました。詳しくはここで
新著百種 1889年に吉岡書籍店で刊行しました。
二人比丘尼色懺悔 ににんびくにいろざんげ。尾崎紅葉氏の出世作。ある草庵に出逢った2人の尼が過去の懺悔として語る悲しい話。

紅葉の葬儀②|江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏は小説家で、硯友社同人、のちには大衆小説を書いています。1869年9月17日(明治2年8月12日)に生まれ、昭和2年に書いた『自己中心明治文壇史』は貴重な文壇資料になりました。これは尾崎紅葉氏の葬儀の情況です。

坪内先生の卒倒(明治三十六年の冬の下)
 紅葉の死に就て各新聞は競つて記事を精密にした。その葬儀の模様も委細に報導されたので、茲には主として、自己中心で記載するが、贈花其他は可成り長くつゞいた。棺惻に門生逹が左右に別れて從つたが、其中に異彩を放つたのは、瀬沼夏葉女史で、この人はニコライ神學校の教師瀬沼某の夫人で、露國文學に通じ、その飜譯を故人に示しなどしてゐた。
 硯友社員は棺後に直ぐつゞいた。會葬者は一人も殘らず徒歩で青山の齋場まで附随した。高田先生なども無論であつた。
 思案が行列整理の任に當つて「皆二列に並んで下さい。」と無遠慮に觸れて廻つたが、皆その通りにして呉れた。自分は柳浪と並んで行つた。
 川上音二郎藤澤淺二郎二人が、横寺町の某寺門前で、シルクハツトフロツクコートで默送してゐた。行列が神樂坂を降り、堀端を進行中に、陸軍將校が騎馬で通行し掛つて、馬の暴れを鎭め切れず、一寸行列を亂した事があつた。
森鷗外丶丶丶丶騎馬で丶丶丶紅葉の丶丶丶行列を丶丶丶攪亂丶丶さした丶丶丶。」と某新聞に記載したのは、全くの無根で、前記の軍人を鷗外に嵌めて了つたのだ。

ニコライ神学校 千代田区神田駿河台の正教会の大聖堂。正式には東京復活大聖堂。ロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライ(Nicholas)に由来。
瀬沼某 瀬沼恪三郎かくさぶろうのこと。明治23年、ロシアに留学。キエフ神学大にまなぶ。帰国後、正教神学校教授、校長をつとめる。
二人 「金色夜叉」を演じた役者たちです。
嵌める はめる。ぴったり合うように物を入れる。物の外側にリング状や袋状の物をかぶせる。

 青山齋場は立錐の地も無いまでに會葬者が詰めてゐた。
 硯友社の追悼文は、眉山が書いて、思案が讀んだが、途中から鳴咽して丶丶丶丶丶丶丶丶切々丶丶聽くに丶丶丶忍びず丶丶丶會葬者も丶丶丶丶亦多く丶丶丶涕泣した丶丶丶丶
 突然會葬者中に卒倒者を生じた丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶それは坪内逍遙先生であつた○○○○○○○○○○○○○。それを最初に氣着いて抱き留めたのは、伊臣眞であつた。早速場外へお逹れして、岡野榮の家で靜養されたが、一時は皆吃驚した。(腦貧血を起されたのであつた。)
 次ぎに角田竹冷宗匠が、秋聲會を代表して追悼文を讀んだ。之も亦泣きながらであつた。
 門弟を代表しては鏡花が讀んだ。
 自分は長年、多くの葬儀に列したけれども、紅葉の時の如く會葬者の殆ど全部が、徒歩で以て長途を行き、二列の順をくづさなかつた樣なのは、他に見なかつた。又齋場に於ける緊張味は、殆ど類を見ないのであつた。わざと成らぬ丶丶丶丶丶丶劇的光景丶丶丶丶に富んだ丶丶丶丶のは丶丶故人の丶丶丶徳望の丶丶丶現はれ丶丶丶と見て丶丶丶好からう丶丶丶丶である丶丶丶

青山斎場 現在は青山葬儀所。場所は港区南青山2-33-20。明治34年に民間の斎場として開設。大正14年に旧東京市に寄付。なお、尾崎紅葉の墓は青山霊園で1種ロ10号14側にあります。
秋声会 しゅうせいかい。俳句結社。1895年(明治28)10月、角田竹冷ちくれい、尾崎紅葉、戸川残花、大野洒竹しゃちくらが、日本派以外の新派俳人を広く糾合して創立。その趣旨は、新古調和、折衷主義で、革新的意気に欠け、作句面では遊俳とも称される趣味的傾向が強かった。
宗匠 そうしょう。文芸・技芸などの道に熟達し、人に教える立場にある人。特に和歌・連歌・俳諧・茶道・花道などの師匠。
長途 ちょうと。長いみちのり。遠い旅路。
わざとならず ことさらでない。さりげない。自然な。

尾崎紅葉の臨終③江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏が『自己中心明治文壇史』で書いた尾崎紅葉氏の臨終の様子です。

   紅葉逝く(明治三十六年の冬の上)

 悲しみの極みの日は遂に来た。十月三十日の朝、紅葉危篤の至急電報が來た。急いで自分は陣屋横町の家を出た。
 其頃自動車があれば問題ではないのだが、品川から牛込までは、綱曳の人力車としても相當に時間を要するのだ。
 取りあへず品川驛へ駈付けると、其折、山の手線の汽車が入つたので、急いでそれに飛乘り、新宿で又乘替へて、牛込驛で下車したが、此時品川から偶然同行したのは、紅葉夫人菊子の從妹の良人、岸といふドクトルであつた。
 硯友社員及び門下生は勿論、角田竹冷長田秋濤齊藤松洲、その他が前後して駈付けて來た。
 紅葉の病床は二階の八疊? 我々は階下の一室に詰切つてゐた。看護には菊子夫人を初め親族方が附切りの他に、看護婦二人ゐた。(この内の丶丶丶丶一人が丶丶丶後に丶丶柳川丶丶春葉丶丶夫人丶丶
 それから○○○○神樂坂○○○藝妓で○○○相模屋○○○○養女○○である○○○小ゑん○○○といふのも○○○○○枕頭を○○○離れ○○なか○○。(この小ゑんといふのは、明治二十七年の三月三十一日に初めて紅葉と逢つた。それは紅葉が思案風谷及び自分との四人連れで、例の吉熊で小集した時なので。その後一二度社中と共に矢張吉熊へ呼び、四月二十一日には紅葉思案風谷及び自分との四人逹で、相模屋の經營してゐる喜美川といふ待合に遊んだのが深くなる始まりであつた。それからズツト永く續いてゐるのであつた。この小ゑんが紅葉死後、東洋通の某代議士の貞淑なる夫人と成つた。その代議士も先年物故した。)
 午後に丶丶丶成つて丶丶丶(何時であつたか記憶を缺ぐ)もう丶丶到底丶丶駄目丶丶だから丶丶丶靜かに丶丶丶暇乞丶丶したら丶丶丶好からう丶丶丶丶といふので丶丶丶丶丶、親族側が先きで有つたらう。それから友人逹が、二階の六疊? の方に入つて待合せ、そこから二人宛組んで、次の間の八疊? の方に行き、生前の△△△告別△△をした△△△。(門生一同を集めて――七たび丶丶丶人間に丶丶丶生れて丶丶丶文章丶丶報國丶丶遺言丶丶した丶丶時に丶丶――ドレ△△を見ても△△△△マヅイ△△△面だなァ△△△△――と死の丶丶前の丶丶諧謔丶丶發した丶丶丶といふ丶丶丶のは丶丶前後丶丶の筈丶丶。)
 自分の前には、秋濤と他に一名で、あのノンキ屋の秋濤が涙滂沱で出て來たのが、今も歴々と限前に浮んで来る。それとスレ違ひに自分は柳浪と共に病室に入った。
 紅葉は丶丶丶未だ丶丶意識は丶丶丶明瞭で丶丶丶二人の丶丶丶顏を丶丶見て丶丶
遠方を◎◎◎ワザ◎◎/\◎◎……』と云つて丶丶丶その儘丶丶丶眼を丶丶閉ぢた丶丶丶
 自分は△△△胸が△△一杯で△△△低頭△△した△△ゞけで△△△一言も△△△發し△△得な△△かつ△△。柳浪も同樣であつた。それで其儘退いて他と入替つた。
 遠方をワザ/\とは、明かに自分に向つてゞ。それは其時代としては、品川は東京外で、旅へでも出るツモリで、呑氣に遊ぶ程なのだが。それは丶丶丶紅葉が丶丶丶自分に丶丶丶發し丶丶最後の丶丶丶別れの丶丶丶としては丶丶丶丶何んだか丶丶丶丶餘所行丶丶丶挨拶丶丶の様で丶丶丶自分丶丶としては丶丶丶丶悲し丶丶かつ丶丶
 自分は神戸以來、紅葉の感情を害してゐたに相違無かつた。皆それは自分の不德の致す處なので、それには辯解の辭が無いのである。
 小波が獨逸滞在中、紅葉が三十五年五月六日夜一時に書いた手紙の中に(『紅葉より小波へ』参照)

(前略)眉山には今だに一會も致さず稀有なるはあの男に御座侯如何致し候つもりにやあれほどの友にてありながら無下にあさましき人に有之侯
水蔭も日増に遠々しく相成はや半年近くも面會不致(下略)

 斯ういふ有樣で、紅葉晩年の親友は大分變つてゐた。(眉山のは、自分のと違つて、明かに理由があつた。それは小波洋行の時、送別會に顏を出さなかったのを紅葉が怒ったので、眉山もツヒ其爲に來難く成つてゐたのであつた。臨終には無論駈付けて來たので、紅葉は丶丶丶我儘丶丶氣儘丶丶丶に就て丶丶丶最後の丶丶丶忠告を丶丶丶試みた丶丶丶此時は丶丶丶眉山も丶丶丶泣い丶丶服膺した丶丶丶丶。)
 夜十一時、遂に昏睡に入つた。親族、友人、門生等の多数に取卷かれて、安らかに永き眠りに就いた。自分は丶丶丶此時丶丶釈尊丶丶涅槃丶丶の有樣丶丶丶連想せず丶丶丶丶には丶丶ゐられ丶丶丶なか丶丶

陣屋横町 旧東海道品川宿の1横町。京浜急行新馬場駅の近くで、『東京逍遙』では、ここ。


綱曳の人力車 人力車などで、急を要するとき、かじ棒に綱をつけてもう一人が先引きすること。図を参照。
紅葉の病床 これを参考に。
小えん 神楽坂の芸者で愛人。芸妓置屋相模屋の村上ヨネの養女でした。
喜美川 明治37年の「新撰東京名所図会」では喜美川の所在はわかりませんでした。神楽阪(現在の神楽坂一~三丁目)、上宮比町(現、神楽坂四丁目)、肴町(現、神楽坂五丁目)、通寺町(現、神楽坂六丁目)にはありませんでした。なくなったか、それ以外にあったかでしょう。
暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
告別 別れを告げること。いとまごい。
文章 文を連ねて、まとまった思想や感情を表現したもの。威儀・容儀・文辞などとして、内にある徳の外面に現れたもの。
報国 国恩にむくいるために働くこと。国に尽くすこと。
諧謔 おどけておかしみのある言葉。気のきいた冗談。ユーモア。
滂沱 ぼうだ。雨が激しく降る様子。涙がとめどなく流れる様子。
歴々 はっきりと。ありありと見える。
余所行き よそゆき。よそへ行くこと。外出すること。改まった態度や言葉づかい。
服膺 ふくよう。心にとどめて忘れないこと。
釈尊 しゃくそん。釈迦の尊称。
涅槃 ねはん。煩悩を消して、悟りの境地にはいること。釈迦の死亡。

尾崎紅葉の臨終④伊藤整

文学と神楽坂

 伊藤整氏の『日本文壇史』第7巻(講談社、初版は1964年)では尾崎紅葉氏の臨終を詳しく書いています。

 硯友社の社員は当初は4人でした。明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校、現・東京大学教養学部)の学生、尾崎紅葉山田美妙石橋思案と高等商業学校(現・一橋大学)の丸岡九華の4人が創立したのです。同年5月、機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を発行。以降、同人に巌谷小波(いわやさざなみ)広津柳浪川上眉山らが参加、また紅葉門下の泉鏡花小栗風葉柳川春葉徳田秋声等が加わっています。『我楽多文庫』には小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸(どどいつ)などさまざまな作品を載せ、その結果、明治20~30年代の文壇の中心勢力になりました。

 玄関の三畳に集っていた七人の弟子たちへも遺言するというので、皆は二階の八畳の病室へ入った。紅葉は目を閉していた。弟子たちが、
「先生、先生」と口々に呼んだ。
 紅葉は目を見開いた。そして言った。
「まづい面を持つて来て、見せろ。」
 一人一人名前を言え、と言われて、一同は次々と「小栗です」、「です」、「徳田です」、「柳川です」と言った。
 それに一つ一つうなずいてから、紅葉は言った。
「お前たち、相互に助け合って、おれの門下の名を辱しめないやうにしろよ。夜中は忙がしい所を毎夜かはるがはる夜伽(よとぎ)に来て呉れて満足した。どうか病気に勝って今一度生き返り、世話をしてやらうと思つてゐたこともあるが、もういかん。これから力を合せて勉強し、まづいものを食っても長命して、ただの一冊一篇でも良いものを書け……おれも七度生れ変つて文章のために尽す積りだから……」
 すすり泣く声か弟子たちの間に起った。

玄関の三畳 後藤宙外氏の『明治文壇回顧録』によれば

半坪程の土間につづく取次の間は、確か二畳であつたと思ふ

 と書き、一方、鳥居信重氏が『よこてらまち』(新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会)で描く尾崎邸の玄関は

畳二枚に板敷1畳分の玄関

と書いてあります。野口冨士男氏の『私のなかの東京』では

面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである

と書いています。図はここにあります。
七人の弟子たち 七人の名前のうち泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声以外はわかりません。
夜伽 病人の看護、主君の警備などのために夜通し寝ずにそばに付き添うこと。

「直さん、直さん」と妻喜久子の弟の医師樺島直次郎を呼び、モルヒネを多量に注射して死なしてくれ、と言った。樺島直次郎が、あまり興奮するといけない、と言うと、紅葉は憤然として、
「そんなに女々しくちや仕方がない。どうせ命かない者か悶え苦しんで二時間や三時間生きながらへて何になるものか」と言った。
 皆が困り切っていると、彼は言葉をついで、
「理窟の分らぬ奴ぢやないか。この苦しみをして生きてゐたつて、何の役に立つものか。お前等がそんなことを言ふのは。死んだことがないからだ。嘘だと思ふなら死んでみろ」と言った。
 あまり興奮させては、と皆が次の間に下り、樺島直次郎はカンフルにモルヒネを少し入れて注射した。そのあと紅葉は気分が落ちついた。そして何か甘い(あん)のようなものを食べたいと言うので、金鍔(きんつば)を一口食べさせた。
 そのうちに、また小栗、泉と呼ぶので二人が行くと、
「今夜は酒はどうした?」と、いつもの夜伽のことを訊いた。鏡花は、今夜も酒を持って来ました、徳田は、肴として鳥と松茸の煮たのを持って来ました、と言った。
「三十日近くに、えらいな。酒をここへ持って来て飲んだらよからう」と紅葉が言った。
 酒はもう下で皆で飲んでしまった後だったので、改めてそこへ酒を持って来させ、鏡花と風葉の間に置き、紅葉には管で少し口に入れてやり、あとを皆が一口ずつ飲んだ。別れの盃であった。

カンフル 樟脳。しょうのう。医薬名。中枢神経興奮薬で、心運動亢進や血圧上昇をきたす。興奮剤としてカンフル注射液を用いていたが、作用が不確実なため、使用は現在なくなった。
金鍔 小麦粉の薄い皮で餡を包み、刀の鍔に似せて平たくし、鉄板の上で軽く焼いた和菓子

金鍔

金鍔

 そのあとで紅葉が、思案に、
「石橋、是非解剖してくれ」と言った。
 思案が当惑して口ごもると、
「何だ生返事なんかしやがつて。おれを解剖すると新聞屋なんざあ種がふえて喜ぶだらう」と言って微笑した。そのあとで紅葉は、葬式に寝棺を使うと皆より高い位置になって悪いから、駕籠(かご)にしてくれと言い、また遺品の分配のことも言った。朝方の四時半には遺言もお別れも済んだ。
 その頃、突然、すさまじい音を立てて大雨が降りはじめ、雨の中に夜が明けた。
 紅葉が言った。
「石橋、曇天(クラウデイ・ウエザー)だな、なに、(レーン)が降つてる? どうも天気の悪いのが一番いやだ。」
 そして彼は顔をしかめた。
 それから彼は牛乳を少し飲んだ。五六人ががりで寝巻や蒲団をすっかり新しく取り替えたあと、紅葉はよく眠った。
 この十月三十日の朝早く打った電報で、 硯友社員の江見(えみ)水蔭(すいいん)川上(かわかみ)眉山(びざん)広津(ひろつ)柳浪(りゅうろう)丸岡(まるおか)九華(きゅうか)たちがまた駆けつけた。外に長田(おさだ)秋濤(しゅうとう)斉藤(さいとう)松洲(しょうしゅう)角田(つのだ)竹冷(ちくれい)などの友人も来た。午後になって、もう駄目だから暇乞いしようと言って、親戚から順に二人ずつ八畳の病室に入った。長田秋濤は涙を滂沱(ぼうだ)と流していた。柳浪と水蔭が一緒に入ると、紅葉は、目を開いて二人を見、
「遠方をわざわざ、……」と言って、すぐまた目を閉じた。柳浪も水蔭も胸が一杯になり、一語も発することかできなかった。眉山が入って行くと、紅葉は、眉山の我がままについて最後に忠告をした。眉山は泣き出した。
 その夜の十一時十五分、潮の引きぎわに、紅葉は昏睡したまま息を引きとった。

暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
滂沱 雨の降りしきるさま。涙がとめどもなく流れ出る様子

尾崎紅葉の臨終②徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏の『黴』三十七章(1911年)では、この「先生」の臨終の様子をあっさりと書いています。もちろん「先生」は尾崎紅葉氏です。(青空文庫から)

三十七
 一時劇しい興奮の状態にあった頭が、少しずつしずまって来ると、先生は時々近親の人たちとことばを交しなどした。その調子は常時いつもと大した変りはなかった。
 興奮――むしろ激昂げっこうした時の先生の頭脳あたまはいたましいほど調子が混乱していた。死の切迫して来た肉体の苦痛に堪えかねたのか、それとも脱れることの出来ぬ冷たい運命の手を駄々ッ子のように憤ったのか、すすりあげるような声でいろいろのことが叫び出された。
 苦痛が薄らいで来ると、先生の様子は平調にかえった。時々うとうとと昏睡状態に陥ちることすらあった。長いあいだの看護に疲れた夫人を湯治につれて行ってやってくれとか、死骸しがいを医学界のために解剖に附してくれとかいうようなことが、ぽつぽつ言い出された。
「死んでしまえば痛くもなかろう。」先生はこうも言って、淋しく微笑ほほえんだ。
「みんなまずい顔を持って来い。」と叫んだ先生は、寄って行った連中の顔を、うるんだ目にじろりと見廻した。
「……まずい物を食って、なるたけ長生きをしなくちゃいけない。」先生は言い聞かした。
 腰にまつわりついている婦人連の歔欷すすりなきが、しめやかに聞えていた。二階一杯にふさがった人々は息もつかずに、静まり返っていた。後の方には立っている人も多かった。
 先生の息を引き取ったのは、その日の午後遅くであった。

湯治 とうじ。温泉に入って病気などを治療すること。

尾崎紅葉の臨終①泉鏡花

文学と神楽坂

 尾崎紅葉氏は明治36年(1903年)10月30日に満35歳で死亡しました。

 まず泉鏡花氏が書いた紅葉の臨終際の文章です(鏡花全集28巻)。感極まっているのです。

   紅葉先生逝去前十五分間      明治38年7月
 明治三十六年十月三十日十一時、……形勢不穩なり。予は二階に行きて、(つゝし)みて鄰室(りんしつ)(かしこ)まれり。此處(こゝ)には、石橋丸岡久我の三氏あり。
 人々は耳より耳に、耳より耳に、(にぶ)き、弱き、稻妻の如き(さゝやき)(つた)()れり。
 病室は(たゞ)(しん)として()のもの音もなし。
 時々時計の(きし)(こゑ)とともに、すゝり(なき)(なき)ゆるあるのみ。
 室と室とを隔てたる四枚の襖、其の一端、北の方のみ細目(ほそめ)に開けたる間より、五分()き、三分措きに、白衣、(いろ)(あたら)しき(せう)看護婦、悄然(せうぜん)として()でて、(しづか)に、しかれども、ふら/\と、水の如き(ともしび)の中を()ぎりては、廊下に(たゝず)める醫師と相見(あひみ)私語(しご)す。
 雨(しきり)なり。
 (まさ)に十分、醫師は()()りて、(まゆ)憂苦(いうく)(たゝ)へつゝ、もはや、カンフルの注射無用(むよう)なる(よし)を説き聞かせり。
 風又た一層を(くは)ふ。
 雨はたゞ波の(たゞよ)ふが如き氣勢(けはひ)して降りしきる。
 これよりさき、病室に(かすか)なるしはぶきの聲あるだに、其の都度、皆慄然(りつぜん)として(たましひ)を消したるが、今や、(ひとへ)に吐息といへども聞えずなりぬ。
 時に看護婦は襖より半身を(あらは)して、ソト醫師に目くばせ()り、同時に相携(あひたづさ)へて病室に入りて見えずなれり。
 石橋氏は椅子に()りて、()()(さゝ)ふること(あた)はざるものの如く、()(あふ)ぎ、且つ()し、左を見、右を見て、心地(こゝち)()なんとするものの如くなりき。
 (角田氏入る。)
 人々の(さゝや)きは(やうや)(しげ)(こまや)かに()(きた)れり、月の(いり)引汐(ひきしほ)、といふ(こゑ)(ひらめ)(きこ)えり。
 十一時十五分、予は病室の事を語る能はず。
[現代文]明治36年10月30日午後11時……形勢は不穩である。私は二階に行き、隣の部屋に謹んで正座していた。ここには、石橋思案氏、丸岡九華氏、久我亀石氏の三氏もいた。
 鈍くて弱い、稲妻のような囁きだげが、耳から耳に、耳から耳にと伝わってくる。病室はただシンになり、ほかの音はない。
 時々時計のきしむ音とともに、すすり泣きだけが聞こえてくる。
 部屋と部屋を隔てたのは四枚の襖。その一端の北の方、細く開けたあいだから、色は新しい白衣の看護婦は、五分おき、三分おきに、元気はなく出てきて、静かに、でも、ふらふらと、水と似ている灯火のそばを過ぎていく。廊下に佇む医師と向かい合い、私語をしている。
 雨はしきりに降ってくる。
 それからちょうど十分後になった。医師は、眉に憂苦をただえ、もはやカンフルの注射は無用だと説き聞かせている。
 さらに一層、風は強くなる。
 雨はただ波が漂うような気配で、降りしきる。
 以前は、病室にささやかな尾崎先生の咳嗽があった。その都度、みんな身震いするように気力は消えていた。しかし、現在は、この吐息も聞こえないようになった。
 この時、看護婦は襖より半身を現し、そっと医師に目くばせし、一緒に病室に入って見えなくなった。
 石橋氏は椅子によりそって、身を耐え支えるのはできないように、上を見たり、下を見たり、左や右を見たりで、気持は死のうしているようだ。
 (角田竹冷氏が部屋に入った。)
 人々のささやき声もようやく出てきて、こまやかになり、月の入りや引汐という声も一瞬聞こえてくる。
 尾崎紅葉が死亡した午後11時15分、私にはこの病室のことを話す能力はない。

畏まる かしこまる。相手の威厳などを恐れて、つつしんだ態度をとる。正座する。
久我 久我龜石。硯友社の会員。詳細は不明。
悄然 元気がなく、うちしおれている様子。しょんぼり。
衝と つと。ある動作をすばやく、または、いきなりするさま。さっと。急に。不意に。
カンフル 樟脳。しょうのう。医薬名。中枢神経興奮薬で、心運動亢進や血圧上昇をきたす。興奮剤としてカンフル注射液を用いていたが、作用が不確実なため、使用は現在まずない。
しはぶき せき。咳嗽
慄然 恐ろしくて身震いする様子。
そと 音を立てないように。静かに。人に知られないように。ひそかに。そっと。
心地 ここち。物や事に接した時の心の状態。気分。気持ち。

平田禿木|神楽坂

文学と神楽坂

 平田禿木(とくぼく)氏の『禿木随筆』(改造社、1939)です。氏は英文学者兼随筆家で、東京高等師範学校を卒業、30歳で英国オックスフォード大学に留学し、帰ってから、女子学習院、第三高等学校の教授を歴任、のちに翻訳に専心しました。

 この随筆を書いた年は昭和9年、61歳でした。

 神樂坂

 見附から見ると神樂坂は可成り急である。あの坂を見るたびに、自分はいつも羅馬の街を憶ふ。羅馬にはあゝした坂がとても多いのである、そして、登りつめたとこに、きまつてオベリスクの塔と噴水がある。自分が羅馬に遊んだのは桐の花散る初夏の候であつたが、その見物にあゝした坂を幾つも登つていくのに實に骨の折れたことを憶ひ出す。羅馬七丘の上に立つといふが、東京も髙臺が多いので、山の手となると坂道が多いのである。
 友達が矢來の交番近くにゐたので、自分はよく以前の神樂坂を知つてゐる。神樂坂は震災後ずつと繁華になつたらしい。菓子屋に壽徳庵船橋屋の名が見えるが、これ等は何れも河向ふ江東の老鋪で、あの折一時此處へ移つて来て、そのまゝ根城を据ゑたものであらうか。兩側に大抵の店が揃つてゐて、何でも手近で間に合ふやうである。自分は往日(むかし)日本橋東仲通り邊へ、東京の住居をおいたらうと思つたことがあるが、今ではあの邊はとてもごたごたしてゐ、それに、震災後の復興で、自分などにはまるで西も東も分らぬやうになつてゐる。矢來までの途中は相當賑やかであるが、ちよつと横町へ入ると、神樂坂は可成り靜かであるらしい。山の手のその靜かさと下町の調法さを兼ねてゐるとこは、廣い東京にも珍しいと思ふ。あすこの何處ぞの小さな煙草屋の店でも買つて、二階で物を書いたり、假名がきの書道の指南でもしたらと、今も時々思ふことがある。
 菓子屋には和洋のそれを賣る紅谷がある。あの窓に見る瀟洒なや趣向を凝らしたは、遺ひ物としても手軽で格好である。自分には何より嬉しい海産物の店も一二軒あるらしく、魚屋の店にも、季節には北陸の蟹が堆く積まれてゐる。客があつて、ちよつとお壽司を取つても、土地柄だけによい物をすゝめられると、 遞信省時代に中町に住んでゐた五島駿吉君の話であつたが、神樂坂は實に調法な處である。

オベリスクの塔

見附 現在「神楽坂下」という交差点は昔は「牛込見附」と呼びました。
羅馬 イタリアの首都、ローマです。
オベリスクの塔 古代エジプトの太陽の神を象徴する石柱。その形をした記念碑。欧米の主要都市の中央広場などにも建設、その地域を象徴する記念碑になっている。
桐の花 4~5月で紫色の花をつけます。右図。
ローマの七丘(しちきゅう) ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置し、ローマの基礎をつくった七つの丘。
河向う 川向こう。隅田川の東側。
根城 活動の根拠とする土地・建物
調法 ちょうほう。重宝。便利で役に立つこと。
假名がき 仮名で書くこと。一般には平仮名で書くこと。
 かご。竹で編んだかご。
 かたみ。竹製の目の細かい(かご)
遺い物 ゆいもつ。いぶつ。過去の文化を示す物品。今に残る昔のもの。
格好 ちょうどよい。適当。
五島駿吉 生年は明治15年(1881年)。郵便局長。鉱物学者。

 田原屋は銀座、日本橋邊の一流の店にも劣らぬ、優れた果物を賣る家らしく、そこの二階での洋食はあの邉の呼び物と聞いてゐるが、まだ試みたことはない。以前矢來の友達を訪ねると、いつもきまつて坂の途中を左へ入つた明進軒といふ家へ案内してくれた。雅樂寮伊太利人か、商大の佛蘭西人の肝煎りで店を出したとかで、そこの佛蘭西風の料理は下町でも味へないものであつた。近くにゐた英吉利の貴族名門出のチヤモレエ師なども、始絡パトロナイヅしてゐた。日本間の別室があつて、坐つてゆつくり食事の出來るのも嬉しく、そこには、これも來つけの人達と見えて、尾崎氏や齊藤松洲晝伯の色紙、短冊が懸つてゐた。
 この頃舊幕の旗本水野十郎左衛門邸跡三樂莊といふ料亭ができて、泉石の美を誇るその庭を見せるといふことで、暮近くなつたら一夕友達と年忘れでもしてみたい、それには何んとか、一應その樣子を探つて見ておかうと思つて、見附内の某大學へ客分として手傳ひに一 週二三囘出向いてゐるその歸るさ、或る日の午後、今講じて來たエリザ朝の花形サア・フィリップ・シドネーステラの歌の定本や、トッテル氏雑纂などの入つた重い包みを下げ、新聞の廣告で教はつた通り、牛込館の横を入つて行くと、待合や小料理屋がずらりと軒を並べてゐ、今日(けふ)何かの寄り合ひでもあるものか、見番の前には、近くの女將や主人、女中達が盛装して立ち列んでゐる。突き當つて訊いて見ると、坂を上つて右へ行き、それからまた後へ戻るのだといふ。その通り進んで行くと、住宅地のやうなとこへ出て仕舞つた。何だか狐につままれたやうな氣がしてゐるとこへ、小春日和に外套を着てゐたので、汗ばんでさへも來るのである。三樂莊といふのに日本料理、支那料理とのみあるのは、他の一つ場所柄だけに化生の者でも出て來るといふ謎か、水野邸とあるからには、幡隨院もどきに湯殿でやられでもしては堪らぬと、えつちらをつちらと、もと來た途を戻つて、表通りへ出て仕舞つた。

雅楽寮 ががくりょう。うたつかさ。律令制で宮廷音楽をつかさどった役所。明治維新後、宮内省式部職楽部(がくぶ))に改組し、1908年(明治41年)、現在の宮内庁に引継した。
肝煎り  きもいり。肝入り。双方の間を取りもって心を砕き世話を焼くこと。
伊太利、佛蘭西、英吉利 それぞれイタリア、フランス、イギリスのこと。
チヤモレエ 英国人宣教師ライオネル・チャモレー師(Lionel Berners Cholmondeley)。岩戸町25番地に住んでいました(右図)。
パトロナイヅ パトロナイズ。patronize。ひいきにする。後援する。
来つける きなれる。来慣れる。ふだんよく来て慣れている。通い慣れる。
尾崎 尾崎紅葉氏のこと。
斎藤松洲 さいとうしょうしゅう。日本画家。明治3年(1870)大阪生。鈴木松年の門に学び、特に俳画に長ずる。昭和9年(1934)存、歿年不詳。
三楽荘 場所はわかりません。次の段落では「三樂莊は横寺町にあるらしい」と書いてありますが、新宿区横寺町交友会の今昔史編集委員会『よこてらまち』(2000年)によれば、昭和10年頃の地図ではもう三楽荘はなくなっています。
泉石 せんせき。泉水と庭石。庭園。
帰るさ かえるさ。「さ」は接尾語。帰る時。帰る途中。かえさ。
サア・フィリップ・シドネー サー・フィリップ・シドニー(Sir Philip Sidney)。16世紀のエリザベス朝の英国の詩人、廷臣、軍人。
ステラの歌 原題『Astrophel and Stella』。英語で書かれた有名なソネット連作の最初のもの。
トッテル氏雑纂 リチャード・トッテル。Richard Tottel。当時のエリザベス朝詩のアンソロジー「歌とソネット」(1557)を編集、「トッテル詞華集」として知られるようになった。「雑纂(ざっさん)」とは雑多な記録や文章を集めることや、編集した書物。
見番 三業組合の事務所。三業組合とは料亭・待合茶屋・芸者屋の3業種をまとめていいました。しかし、この当時、見番は芸者新路にできていました。牛込館は藁店にできていて、この2つの場所は違います。
他の一つ 日本料理、支那料理に、他の料理があって、つまり、3つの料理があって初めて三楽という名前になる方が普通ではないでしょうか。
小春日和 晩秋から初冬にかけての暖かな日和。小春とは、旧暦十月の異称。
場所柄 藁店(わらだな)では化け地蔵が出たという言い伝えがありました。
化生の者 化けること。化け物。妖怪。

 三樂莊は横寺町にあるらしい。横寺町といふと、今からはもう何十年か前の夏、大野洒竹と一緒に同じ町のその居に尾崎紅葉氏を訪ねたことを憶ひ出す。洒竹のゐた谷中から二人乘の人力車(くるま)で神樂坂下まで來、それからぼつぼつ歩き出したが、盛夏のことでとても暑く、道を訊いてから、とある井戸端で水を汲んで汗を拭き、それから漸く探ね當てゝ案内を請ふた。早速二階の書齋へ通されて尾崎氏も直ぐ出て來たが、薄茶色の縮みの浴衣にメリンス兵古帶といふ服装(なり)で、いかにもさつぱりとしてゐたのは意外だつた。部屋も硯友社の他の人達のそれのやうに、箪笥に長火鉢をおいて、人形を飾つてゐるやうなことはなく、茶道具だけは紫檀の棚に載つてゐて、たぎらした湯を階下(した)から取り寄せ、主人自ら茶をいれるのであつた。
 その時、拭巾を取つて、額へ八の字を寄せながら、ぐいぐいと盆を拭くその姿が、今もありありと目に殘つてゐる。話はそれからそれと大分にはづんだが、小説のことになると、もう閉口だと、顏を曇らしてうつ向きになつたことを今に覺えてゐる。歸り際に、夫人もちよつと姿を見せられたが、いかにも靜かな、貞淑の方のやうに見受けられた。玄關には、「青葡萄」が讀賣へ出てから程經つてのことだから、秋聲氏や鏡花氏でなく、次の代の方々がゐたのだと思ふ。尾崎氏の訃は外遊中オックスフオードでこれを聞き、洒竹氏には歸つてから一度、築地本願寺で一葉さんの法事の折に逢つたぎりで、氏も早く他界して仕舞つた。
 肴町電車道を横切つて矢來近くへ來ると、右側に洋風の骨董を賣る小さな店や、萬年青や蘭、新春(はる)には梅の小型の盆栽を窓へ飾つてゐる家があり、交番近くへ來ると、左側に水盤や煎茶風の竹の花生けを賣つてゐる古い店があり、それ等を眺めながら、御苦勞にも自分は矢來下の停留場まで來て、そこから電車へ乘つて歸つて來る。その電車がいつも空いてゐて感じが好く、車掌までがのんびりして、親切だからである。(昭和九年十一月)

横寺町 新宿区の北東部に位置し、神楽坂に接する町。
谷中 東京都台東区の地名。下谷地域の北西に位置し、文京区(千駄木・根津)や荒川区(西日暮里・東日暮里)との区境にあたる。
案内 ここでは「人の来訪や用向きを伝える」こと。取り次ぎ。
縮み ちぢみ。縮織り。ちぢみおり。()りの強い横糸を用い、織り上げ、温湯でもんでちぢませ、布面全体にしぼを表した織物。

メリンス メリノ種の羊毛で織って、薄く柔らかい毛織物。
兵古帯 兵児帯。へこおび。和服用帯の一種。並幅または広幅の布で胴を二回りし、後ろで結んで締める簡単な帯。
硯友社 けんゆうしゃ。文学結社。 明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校)の学生尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、高等商業学校の丸岡九華の4人で創立。同年5月機関誌『我楽多文庫』を発行し、たちまち明治文壇の一大結社に。
たぎらす 滾らす。沸騰させる。煮え立たせる。たぎらかす。
貞淑 ていしゅく。女性の操がかたく、しとやかなこと。
築地本願寺 東京築地にある浄土真宗本願寺派の別院の通称。
電車道 以前は大久保通りに都電が走っていました。
万年青 おもと。常緑の多年生草本。学名はRohdea japonica Roth。
矢来下の停留場 市電(都電)の 停留場は江戸川橋通りにありました。

昭和5年.矢来下の停留場

紫|尾崎紅葉

文学と神楽坂

 明治27年1月、26歳の尾崎紅葉氏は「読売新聞」で医師国家試験を取り上げます。今も昔も国試は大変。なお、「(むらさき)」は国立国会図書館デジタルコレクションから取ったものではなく、1994年、岩波書店の「紅葉全集」から取りました。(つまり漢字は新字体です)

1888年(明治21年)、卒業すれば無試験で医師になれる医学校は、官立医学校9校のみ(東京、千葉、仙台、岡山、金沢、長崎、京都、大阪、愛知)で、それ以外の私立医科大学や独学、漢方医の学生などは、卒業後に「医術開業試験」を受験し、合格して初めて医師免許を取得できました。1916年(大正5年)、この開業試験は廃止し、全員が医科大学に通った学生になります。

医術開業試験は年2回、全国9か所で行い、物理学、化学、解剖学、生理学の前期と、内科学、外科学、薬物学、眼科学、産科学、臨床実験の後期の試験が必要でした。

しかし『金色夜叉』だけしか知らなかった私にとって、笑いもユーモアも十分とれる紅葉氏は真に驚きでした。

      (一) 夜半よはくさめ

「おや、まあ気味きみわるいねえ、なんだかひとうなこゑがするよ。おとなりだ、おとなり烟草たばこさん二階にかいだ。」
つぶやきながら、疑懼こは/”\くびもたげて寐床ねどこから聴耳きゝみゝてる六十ばかりの老婦ばあさんしなびた横顔よこがほを、おなやうせいすゝ行燈あんどんひかりが、なるほどくらいよりはあかるく、枕頭まくらもと朦朧もうろうてらしてゐる。
此間このまは八でふ唯一ひとまぎり二階にかいで、西にしひがしまどがある。西にし欞子れんじ格子がうし明窓あかりまどで、鴨居かもゐぱいつてあるたなうへには、吸物膳すひものぜん人前にんまへ藍染あゐぞめつきなますざら蒔絵まきゑ重箱ぢうばこなどゝ書附かきつけのあるはこいつつと、菓子くわし古折ふるをり鶏卵たまご空箱あきばこ鉄葉ぶりきくわん銘酒めいしゆびん共外そのほかべてわざはひ三年さんねんてば、とふやうなもの抛上はふりあげてある。

[現代語訳]     (一) 夜半のくしゃみ
「おや、まあ気味が悪いねえ、何だか人間のうなる声がするよ。お隣りだ。お隣りのたばこ屋さんの二階だ。」
とつぶやきながら、こわごわ首をもたげて、寝床から聞き耳をたてた60歳位の婆さんがいた。しなびた横顔を、同じように威勢のない煤行燈の光が、暗いよりは明るく、枕頭にぼやっと照している。
この部屋は八畳ひと間の二階で、西と東に窓がある。西が連子格子の明窓で、鴨居一杯にある棚の上には、吸物膳が十人前、藍染めがついたなます皿、蒔絵の重箱などがある箱が五つ、六つと、菓子の古折、鶏卵の空箱、ブリキの缶、銘酒のびん、そのほか不用なものはどこにもないといって放りあげている。

 くさめ。くしゃみ。
疑懼 ぎく。うたがって不安に思うこと。
擡げる もたげる。もちあげる。おこす。増す。
 せい。いきおい。力。
煤行燈 魚油などを使うとすすがでる照明具。
朦朧 もうろう。ぼんやりとかすんで、はっきり見えない様子。
 部屋の数を数えるのに用いる。例えば、「六畳と四畳半の二間(ふたま)」など。
欞子 れんじ。連子。櫺子。窓や戸に木や竹の桟を縦か横に細い間隔ではめこんだ格子。
鴨居 引き戸や引き違い障子などの建具を開閉するため開口部の上方に取り付ける、溝の入った横木。
藍染 藍からとった青の色素で染め染めたもの。
 なます。膾。魚・貝や野菜などを刻んで生のまま調味酢であえた料理。
鱠皿 なますなどを盛る器からこの名前がついた。
蒔絵 漆で文様を描き、金、銀、スズなどの粉末を固着させ磨いたもの。
禍も三年経てば 禍も三年置けば用に立つ。わざわいも時がたてば、幸いの糸口になることがある。禍も3年。不用なものはないというたとえ。

(それ)が、あなた、可笑(をかし)いことがあるのでございますよ。昨夜(ゆふべ)ふつと()()ましますとね、唸声(うなりごゑ)(きこ)えるぢやありませんか。(それ)がね、あなた、此方様(こちらさま)のお二階(にかい)なんですよ。」(以下、本文は長くなり、ここでは中略)
(うな)つてをりましたか。」
矢庭(やには)打込(うちこ)(たゞ)()で、姨様(をばさん)長話(ながばなし)胴切(どうぎり)になる。これで拍子(へうし)(ぬけ)がして、後段(あと)はぐつと簡畧(てみじか)に、
(わたくし)(みゝ)(なん)でございますけれども、どうも(うな)つてゐらつしやるとしか(きこ)えないのでございますよ。」
(うな)(はず)はございませんがねえ。」
女房(にようばう)少時(しばらく)(かんが)へて、
(うな)つたのぢやございません。」
(おも)はず頓狂(とんきやう)(おほ)きな(こゑ)をして、
(ほん)()でゐたのです。」
「あの(うな)つてゐらしつたのが。」
(うな)つてたのぢやございません、(くち)(うち)(ほん)()むでたのですよ。
「まあ余何(どう)せう? (わたくし)はまた大病人(たいびやうにん)のお客様(きやくさま)でもあつて、お二階(にかい)()てゐらつしやるのかとばかり(おも)ひましたよ。御勉強(ごべんきやう)御病人(ごびやうにん)とは、大抵(たいてい)相違(ちがひ)ぢやございませんね。」
(はて)大笑(おふわらひ)になる。
(じつ)昨日(きのふ)から二階(にかい)(まゐ)つてをるので、拙夫(やど)親類筋(しんるゐすぢ)のものでございますの。もう(ひさ)しく日本橋(にほんばし)山路(やまぢ)といふお医者様(いしやさま)弟子(でし)になつてをるのでございますが、この四月(しぐわつ)には医者(いしや)試験(しけん)があるものですから、それでまあ勉強(べんきやう)しに当分(たうぶん)(ひま)をもらひましてね。当節(たうせつ )ぢや往時(むかし)(ちが)つて、(なに)になるのも大抵(たいてい)ぢやございませんよ。」
(いま)まで()(おも)さうに()えた内君(おかみさん)も、段々(だん/\)口軽(くちがる)になつて()る。「へえゝ。」  と姨様(をばさん)感心(かんしん)した(やう)なものゝ、その試験(しけん)といふ(こと)(ねつ)から(わか)らぬので、早速(さつそく)(れい)責道具(せめだうぐ)一種(ひとつ)の「(どう)いふ(わけ)で」を担出(かつぎだ)す。
[現代語訳]「それが、あなた、おかしいことがあるのでございますよ。昨夜ふっと眼を覚ましますとね、うなり声が聞こえるじゃありませんか。それがね、あなた、こちらさまのお二階なんですよ。」(以下、本文は長くなり、ここでは中略)
「うなっておりましたか。」
とだしぬけに打ち込んだただ一句で、おばさんの長話は中途半端に終わる。これで拍子抜けがして、あとはぐっと手短かに、
「私も耳がなんでございますけれども、どうもうなっているとしか聞こえないのでございますよ。」
「うなるはずはございませんがねえ。」
と女房はしばらく考えて
「うなったのじゃございません。」
と思わず頓狂に大きな声をだして、
「本を読んでいたのです。」
「あのうなっていらしゃたのが。」
「うなってたのじゃございません、囗の内で本を読んでたのですよ。」
「まあどうしょう? 私はまた大病人のお客様でもあって、お二階に寝ていらしやるのかとばかり思いましたよ。御勉強と御病人とは、ふつうの違いではございませんね。」
と果てはお笑いになる。
「実は昨日から二階に留まっています。宿の親類筋のものでございますの。もう長く日本橋の山路というお医者様の弟子でございますが、この四月には医者の試験があるものですから、それでまあ勉強には当分の間お暇をもらいましてね。当節じゃ昔と違ちがつて、なにになるのも大抵じゃございませんよ。」
今まで気の重そうなとみえた内君も、段々と口は軽たっている。「へえ…」
とおばさんは感心した様なものだが、その試験ということが根っからわからぬので、さっそく例の責道具の一種の「どういうわけで」をかつぎだす。

矢庭に やにわに。その場ですぐ。たちどころに。いきなり。突然。だしぬけに。
胴切 どうぎり。胴の部分で横に切ること。輪切り。転じて「中途半端に終わること」
拍子抜け ひょうしぬけ。張り合いがなくなること。
頓狂 とんきょう。だしぬけに、その場にそぐわない調子はずれの言動をすること。
読む 当時の「読むで」は現在の「読んで」になります。
責道具 せめどうぐ。責め具。責具。拷問に用いる道具。

「その試験(しけん)といふことでございますか。(それ)貴方(あなた)かうでございますよ。(なに)商売(しやうばい)(はじ)めるからつて、(ねが)ふのでございませう。ですから、お医者(いしや)(さま)(はじま)るのでも、矢張(やつぱり)政府(おかみ)から御免(ごめん)にならなければ()けないので、それには試験(しけん)といつて、医者(いしや)()るだけの(うで)(ある)(ない)か、その(かゝり)役人(やくにん)力量(りきりやう)(ため)して()(うへ)で、これなら(いゝ)といふことになつて、そこでまあ天下(てんか)()れて一人前(いちにんまへ)のお医者(いしや)(さま)になれやうといふのですから、二階(にかい)(ひと)(いま)その試験(しけん)下稽古(したげいこ)精々(せつせ)としてゐるのでございますよ。」
「そりやまあお大抵(たいてん)ぢやございませんねえ。それぢや(その)試験(しけん)とかいふことは、(さだ)めし(むづか)しいのでございませうねえ。」
姨様(をばさん)はぐつと(ひと)(くび)(ひね)つて、ふうと(はな)(なか)(ふし)()けて(うな)る。(これ)所謂(いはゆる)聞上手(きゝじやうず)といふので、かう()(ひと)れられると、(はな)(はう)でも(おのづ)張合(はりあひ)()()る。
「それは(むづか)しいの(なん)のといつて、お(はなし)ぢやないさうですよ。その試験(しけん)(また)()では()まないので、(ぜん)……(ぜん)(なん)とかに、(こう)(なん)とかと、都合(つがふ)()あつて、(そう)して(はじめ)試験(しけん)には三(ゑん)(あと)試験(しけん)には五(ゑん)(をさ)めるので、それが貴方(あなた)首尾(しゆび)よく(まゐ)ればねえ、試験(しけん)も二()で、お金子(かね)も八(ゑん)()みますけれど、(うん)(わる)かつたり、勉強(べんきやう)()りなかつたりして御覧(ごらん)なさい、試験(しけん)(うま)(まゐ)りますまい。」
「ふう、ふう、」  と姨様(をばさん)(ます/\)(はな)()らして乗出(のりだ)す。
(さう)すれば()再試(やりなほ)さなければなりませんわね。」
「こりやあ成程(なるほど)(さう)でございませうね。」
再試(やりなほ)()には、また勉強(べんきやう)為直(しなほ)した(うへ)に、またお金子(かね)()られるのですから、(つら)いぢやありませんか。」
「なぜ(また)其度(そのたんび)にお金子(かね)(とつ)たものでせう。政府(おかみ)でもねえ貴方(あなた)、そんなに()りたがらなくつても(いゝ)ぢやございませんか。(なに)かと()ふと税々(ぜい/\)ツて、徳川様(とくがはさま)時分(じぶん)にはとんと()かつたことで、これだけでも真個(ほんに)()(わる)くなつたのが(わか)りますよ。」
昏濁(しよぼ/\)した()にも(おのづ)から憂憤(いうふん)(いろ)(あら)はれる。
[現代語訳]「その試験ということでございますか。それはあなた、こうでございますよ。商売を始めるからといって、願うのでございましょう。ですから、お医者様を始まるのでも、やつぱり御上から御免にならなければいけないので、それには試験といって、医者をするだけの腕があるかないか、その係の役人が力量を試してみた上で、これならいいということになって、そこでまあ天下晴れて一人前のお医者様になれるというのですから、二階の人も今その試験の下稽古をせっせとしているのでございますよ。」
「そりやまあ、大抵じゃございませんねえ。それじゃその試験とかいうことは、さだめし難かしいのでございませうねえ。」
とおばさんはぐっと首をひねって、ふうと鼻の中で節をつけて、うなる。これが所謂聞上手というので、こうやると、話す方でも自ずと張合が出て来る。
「それは難しいのなんのといって、お話じゃないそうですよ。その試験がまた一度ではすまないので、前……前なんとかに、後何なんとかと、都合二度あって、そうして前の試験には三円、後の試験には五円収めるので、それがあなた首尾よく参ればねえ、試験も二度で、お金も八円ですみますけれど、運が悪かったり、勉強が足なかったりして御覧なさい、試験がうまくいきません。」
「ふう、ふう、」
とおばさんはますます鼻を鳴らしてのりだす。
「そうすればまたやり直されなければなりませね。」
「こりやぁなるほどそうでございましょうね。」
「再試の日には、また勉強をした上に、またお金を取られるのですから、つらいじゃありませんか。」
「なぜまたそのたびにお金を取ったものでしょう。おかみでもねえ、あなた、そんなに取りたがらなくってもいいじゃございませんか。なにかというと税々って、徳川様時分にはとんとなかったことで、これだけでもほんに世が悪くなったのがわかりますよ。」
と、じょぼじょぼした眼にも自ずと憂憤の色が見える。

御免 免許・許可の尊敬語
下稽古 本番の前に、あらかじめ練習をしておくこと。
定めし 確信をもって推測する気持ちを表す。さぞ。おそらく。
真個 しんこ。本当に。真に。
憂憤 うれい、憤ること。

裸美人|尾崎紅葉

文学と神楽坂

 明治22年、満22歳で、尾崎紅葉氏は「裸美人」を、読売新聞に2回連載しました。雅俗折衷体で書かれており、文語体の地の文はきらびやかで、一方、口語体の会話は完全に現代人の言葉になっています。この点で、この文章は古文とは全く違っています。

 これは完全なユーモア小説です。尾崎紅葉氏にはこんな小説もあったのです。知りませんでした。

        ()美人(びじん)

曲線美(きよくせんび)! 曲線美(きよくせんび)! 曲線(きよくせん)好配合(かうはいがふ)から成立所(なりたちことろ)の、女人(によにん)裸體(らたい)は「()」の神髄(しんずゐ)である! あい、あい、左様(さやう)でござい。(われ)美術家(びじゆつか)(なにがし)とて、(つと)に「(しう)」に()するものなり。あはれ、(この)宗旨(しうし)難有(ありがた)(ところ)を、(ひろ)めてくればやと(おも)ふに、()には(つくり)聖人(せいじん)(おほ)く、裸美(らび)実相(じつさう)()もせで、世教(せけう)風俗(ふうぞく)紊乱(びんらん)すと、一(ごん)いひ()(こと)こそ心得(こゝろえ)。いでや(ふる)つて、俗眼(ぞくがん)凡慮(ぼんりよ)迷霧(めいむ)(はら)はむ!
《こらよ、こらよ》
《はい、お()びなさいましたか》と(あら)はれたる美形(びけい)は、此間(このあひだ)もらうた花嫁子(はなよめご)なり。
《あい、(はな)しておいた(とほ)り、明日(あす)新婚(しんこん)びろめをするのだが、(それ)(つい)ては(すこ)しお(まへ)量見(りやうけん)()きたいて》
《はい》
(なに)なりと(わたし)のいふ(こと)(そむ)きはしまいね》
《はい》
《それならば(はな)すが、明日(あす)朝野(てうや)名士(めいし)数十名(すうじふめい)(あつま)るので、また新婚弘(しんこんびろ)めといふのだから一生(いつしやう)一度(いちど)(はれ)宴会(えんくわい)だ》
《はい随分(ずゐぶん)麁想(そさう)のないやうに(いた)します》
(たの)みますよ》
《はい、それで、あの、明日(あした)はどういふ衣装(なり)をいたしましたら(よろ)しうございましやうか、母様(おつかさま)(うかゞ)つて(まゐ)れとおつしやいました》
《なるほど淇処(そこ)だて。(それ)には(おほ)いに註文(ちゆうもん)があるのだが、其前(そのまへ)になほ()きたい(こと)がある。うウと……お(まへ)(わたし)一体(いつたい)どういふ人物(じんぶつ)(おも)つてるね》
美形(びけい)(をつと)(かほ)不思儀(ふしぎ)さうに()て、もぢ/\返詞(へんじ)なければ、
政治家(せいぢか)か、文学家(ぶんがくか)か、または……》
美術家(びじゆつか)!》
(その)一言(いつごん)! 美術家(びじゆつか)美術家(びじゆつか)ならば(その)目的(もくてき)とする(ところ)は「()」の一字(いちじ)研究(けんきう)である、といふ(こと)承知(しようち)だらう》
《はい》
《それなら、美術(びじゆつ)研究上(けんきうじやう)(わたし)参考(さんかう)とも、利益(りえき)ともなる(こと)を、お(まへ)(わたし)()()るならば、一身(いつしん)犠牲(ぎせい)にして、(わさし)研究(けんきう)(たす)けておくれだらうね》
御用(ごよう)(たち)ます(こと)なら……》
《あゝ、()()きものは女房(にようばう)! (かな)らず其言葉(そのことば)嘘言(うそ)はあるまいね》
《はい》
丸裸(まるはだか)になつてくれ》
《えゝ!》
衣物(きもの)()てはならん、丸裸(まるはだか)臨席(りんせき)してくれ》
《えゝ!》
《さゝ、其驚愕(そのおどろき)道理(もつとも)だ、道理(もつとも)だけれど、まゝ、落附(おちつ)いて子細(しさい)(きい)てくれ》
此時(このとき)隣家(となり)にて、合方(あひかた)きつぱりとはゆかねど、ぴあのゝ()がするに、先生(せんせい)此処(こゝ)ぞと(かたち)(たゞ)し、
()(あらた)めて()くまでもない、女人(によにん)裸體(らたい)は、()神髄(しんずゐ)である、(これ)はお(まへ)美術家(びじゆつか)(つま)たる以上(いじやう)は、承知(しようち)であらう。(かな)しい(かな)我国民(わがこくみん)未開(みかい)である、美術(びじゆつ)思想(しさう)(とぼ)しい(こと)といふたら、輿論(よろん)(わが)裸美宗(らびしう)」に抗抵(かうてい)するのを()ても()れる。あつぱれ一匹(いつぴき)美術家(びじゆつか)でござると、法隆寺(はふりうじ)和尚(をしやう)従弟(いとこ)()つたやうな(かほ)をして()奴等(やつら)までが俗人(ぞくじん)雷同(らいどう)して……どうも(なさけ)ない、(この)宗旨(しうし)信仰(しんかう)するものは、(じつ)(わたし)一人(ひとり)くらゐのものだ。

当時は、テレビも、ラジオも、インターネットもまだなく、新聞だけが、微笑を伝えてくれるのです。

神髄 物事の最もかんじんな点。その道の奥義。
 つと。昔から。早い時期から。
帰依 神仏や高僧などのすぐれた者を信じて、すがること
世教 せいきょう。世に行われている教え。
紊乱 びんらん。乱れること。乱すこと。
言い消す いいけす。他人の言葉を否定する。
心得る こころえる。ある物事について、こうであると理解する。わかる。
俗眼 ぞくがん。世間の普通の人の見方。俗人の見方。
凡慮 ぼんりょ。凡人の考え。平凡な考え。
迷霧 方角のわからないほどの深い霧。迷いの境地を霧にたとえた語。
量見 りょうけん。料簡。了見。了簡。考え選ぶこと。思慮、考え、分別。
朝野 ちょうや。政府と民間。官民。
 こう。広々として何もない。
麁想 そそう。粗相。麁相。不注意から起こす失敗。軽率なあやまち。
臨席 りんせき。その席に臨むこと。会合や式に出ること。出席。
合方 あいかた。邦楽で、唄や踊りを伴わず、主に三味線だけを聞かせる部分。能で、謡のリズム型に伴奏を合わせる合わせ方。
輿論 よろん。世論。世間一般の人の考え。
雷同 らいどう。自分自身の考えがなく、すぐに他人の説に同調すること。

夢中(むちう)になつて()(さと)せば、花嫁(はなよめ)はめそ/\()くばかり、一向(いつかう)不承知(ふしようち)のやうすなれば、先生(せんせい)(くわつ)(いか)り、
《お(まへ)はさつき(なん)()つた。美術(びじゆつ)研究上(けんきうじやう)(わたし)参考(さんかう)になり、利益(りえき)になる(こと)なら、一身(いつしん)犠牲(ぎせい)にしても(くる)しくないと、いつたではないか。(をつと)言葉(ことば)(もち)ゐんやうなものは、女房(にようばう)でない! 離縁(りえん)する!》
()……御免(ごめん)……(あそ)ばしまして……》
()らん》
《ど……どうぞ、お(はな)し……》
《あぶ……な……(はな)さぬか……非常(ひじやう)腕力(わんりよく)だ……あいた、た、つねるナ。》
覚悟(かくご)をきめました》
《きめるナ、そんな(こと)をきめるな。もしお(つか)さァん》
(わたくし)(しに)ます………(しに)ます》
(しん)ではいけん、お(つか)さァん》

一向 すべて。全部。

 最後は深夜に花嫁、姑、下女は花嫁の家に行ってしまいます。最初は姑、次は下女です。

《すこし子細(しさい)があつて(よめ)(さと)まで()くのだけれど……》
(その)子細(しさい)(ぞん)じて()ります。どうぞ(わたくし)もお()(あそ)ばしまして……》
(その)子細(しさい)(しつ)てるとか》(中略)
(ねが)ひたき(ほど)のお(いへ)昨日(きのふ)且那様(だんなさま)のお言葉(ことば)にて、()けかねし不審(ふしん)がすつぱり()けました。百円(ひやくゑん)(いたゞ)いても、こればかりは出来(でき)ませぬ。(をんな)心掛(こゝろが)けはさもあるべきことなり。(なに)はともあれ、かれめ目覚(めざ)ましなば面倒(めんだう)仕度(したく)はよきか、
《そんなら母様(はゝさま)
《お二方様(ふたかたさま)》 ち、ち、ちんと三時(さんじ)()

()美人(びじん) (をはり)

かれめ 「彼め」?「彼目」?「枯れめ」? 不明です。
三時 午前3時です。