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『燈火頰杖』加賀町の家|浅見淵

文学と神楽坂

 浅見ふかし随筆集『燈火頰杖』から「加賀町の家」です。浅見淵氏は作家論、作品論、私小説風の作品などを執筆し、評論では「昭和文壇側面史」「昭和の作家たち」、小説では「目醒時計」「手風琴」などを発表しています。
 ここでは昭和39年3月、柳田国男の家について書いています。

 柳田国男氏の年譜を見ると、明治二十四年(一九〇一年)、数え年二十七歳の時、柳田家の養子になっておられるから、それから、昭和二年(一九二七年)、五十三歳の時、当時の砧村(現在の世田谷区成城町)に移居されるまで、足かけ二十七年の長きに亘って、牛込区(現在の新宿区)市ヶ谷加賀町二丁目に住んでおられた訳だ。

砧村 きぬたむら。東京都世田谷区の西部で、狛江市に近い場所
市ヶ谷加賀町二丁目 下図を。

 柳田さんの養父司法官あがりで、柳田さんは前年東京帝大を卒業して農商務省官吏となってから柳田家に入っていられるが、柳田家は当時すでにその加賀町二丁目附近の地所持ちであり家作持ちだったので、そこに邸宅を構えていたからだ。
 ところで、ぽくは偶々この柳田邸の隣りの、しかも柳田家の家作に住んでいたことがあるのだ。明治四十四年から四十五年(七月に大正と改元)に掛けての小学生時代である。当時、ぼくの父は或る水力電気会社の技師をしていて、日光の近くの今市の奥にダムづくりに行っていたが、その留守宅を東京に置いていた。はじめはいま法政大学の敷地になっている当時の麹町区富士見町に住んでいたのだが、急に柳田家の借家へ引越すことになったのだ。
 ぼくの母の妹に当る叔母が、その頃、柳田さんの播州の郷里の村の村長の長男である工学士と結婚したので、その方面から話が出て、柳田家の借家のほうが富士見町の借家より広かったので、引越して行ったようである。
 柳田家の在った通りは、当時の府立四中の黒板塀が長くつづいたはずれの閑静な屋敷町であった。やはり黒塗りの太い四角の門柱が立っていて、これも黒塗りの大きな頑丈な開閉扉が附いていたが、日中はそれが大きく開かれていた。また門柱の脇には耳門くぐりもあった。そして、右の門柱には柳田国男と書いただけの標札が出ていた。門を入ったところはちょっとした植込みがあって、直ぐ玄関の式台になっていた。
 ぼくの家はこの柳田邸と植木垣つづきになっていて、植木垣の裾には竜の髯が植え込まれており、秋になると青玉のような実が一杯になった。式台、内玄関などもあり、なんだか御家人でも住んでいたような家だった。柳田邸と反対側の家との境は竹藪になっていた。七室ばかりあり、南に日当りのよい長い縁側があって、広い庭に臨んでいた。庭には一本大きなの樹が植わっていて、冬など座敷の障子に影を映していたが、他は全部であった。柳田邸の庭とは二重に編まれた竹垣で隔てられていたが、柳田邸の庭もほとんどが楓のように見受けられた。楓の新緑の美しさといったものを、子供ごころに初めて知った。

養父 直平。大審院判事。
司法官 司法権を行使する公務員。普通は裁判官。
農商務省 農林・商工業の行政を司る中央官庁。明治14年、設立。大正14年、農林省と商工省に分離。
家作 かさく。人に貸して収入を得る家。貸し家。
偶々 たまたま。時おり。時たま。たまに。
柳田邸の隣りの、しかも柳田家の家作 上の柳田邸の図で、おそらく右下側の家でしょう”。

今市 今市いまいちで、現在は日光市の一部
法政大学の敷地 図で法政大学があったところ

麹町区富士見町 図では黄色で囲んだ範囲。
播州 ばんしゅう。播磨はりま国の別名。現在は兵庫県西南部にあたる。
柳田家の在った通り 新たに「銀杏坂通り」と命名しました。
府立四中 現在の牛込第三中学校(上図)。
耳門 じもん。耳の穴の口。くぐり戸。「くぐり戸」とはくぐってはいる戸や門。
式台 しきだい。玄関の上がり口にある一段低くなった板敷きの部分。客を送り迎えする所。
竜の髯 リュウノヒゲ。キジカクシ科ジャノヒゲ属の常緑多年草。よく植え込みに使う

内玄関 家人など内輪の人が日常出入りする玄関。
御家人 ごけにん。江戸時代、将軍直属の家臣団を旗本と御家人に区別した。御家人は一万石以下の家臣。
 かしわ。ブナ目ブナ科の落葉中高木。
 かえで。ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属(Acer)の落葉高木。

 柳田さんは年譜を見ると、その頃、農商務省の役人と宮内省書記官を兼ねていられたようである。この宮内省書記官という関係からだったろうか、よく西洋人が柳田邸を訪問していたのを記憶している。というのは、楓の庭を逍遙しているその談笑の声が屢々聞こえて来たからである。西洋人の女の賑やかな笑い声もし、それに混って、柳田さんらしい流暢な英会話も洩れて来たからだ。
 しかしながら、へいぜいは柳田邸はいつも森閑としていた。物音は全くしなかった。ぼくはこの家で腸チフスに罹り三月ばかり病臥した。そのせいで、ぼくの家では柳田さんの家の電話をしょっちゅう借りていたようだったが、一度だって厭な顔を家の人は見せなかったと、ずっと後になって、母が感心して述懐していたことがある。また、柳田家の女中がよく電話を取次いでくれたが、この女中が躾けが行届いていで、じつに物静かな女中だった。
 加賀町のこの柳田邸へは、田山花袋国木田独歩をはじめ、そもそも竜土会は最初この家で始まっており、当時の新しい文学者たちがかず多く訪問しているばかりでなく、柳田さんの前期から中期にかけての劃期的な民俗学の研究は、ほとんどがこの家で成し遂げられている。その意味において、歴史的な家である。だが、今にして考えてみると、ずいぶん不便なところだったと思う。ぼくの家が住んでいた時分には、飯田橋から新宿に通じている今の都電が通じておらず、電車に乗ろうと思えば、秀英舎(現在の日本印刷)の前を通って左内坂を降り、市ケ谷見附まで出なけれぱならなかった。また、界隈の盛り場だった神楽坂へ行くにも、歩かねばならなかった。
 その代り、静かなことも静かだった。隔世の感がある。物音といえば、納豆売りの声か豆腐屋のチリンチリン、季節によって、竿竹売りや金魚売りの触れ声が聞こえてくるばかりだった。そのほかには、夕方になると、遙か市ケ谷見附のほうの士官学校から、号令の掛け声練習と、物哀しい喇叭の音が聞こえてくるだけである。従って、この屋敷町には店屋が少なく、洗濯屋が一軒と、洋食屋が一軒あるきりだった。病気になると、この洋食屋からオムレツと肉汁を取って貰うのが楽しみになっていた。
 いっぽう、至るところに大きな樹が陰森と茂っていて、夏になると蝉やトンボが多かった。ぼくの家の庭でも、蝉が抜け変るのを屢々瞥見した。柳田邸でも同様であったろう。ところが、戦後、といっても数年前だが、偶々加賀町へ足を踏みいれて吃驚してしまった。五十年前の閑静な屋敷町は、すっかりゴミゴミした印刷関係の会社町になりさがってしまっていたのである。昔の面影など、もうどこにも残っていなかった。どっしり落着いていた柳田邸も影も形もなくなって、その跡は或る女子短大の洋風の寮に変り果てていた。しかも、車の往来がはげしく、うっかり佇んでさえもおられなくなっていた。
(「定本柳田国男集月報」昭和三十九年三月)

宮内省 1885年、皇室関係の事務を取扱う機構。1947年,新憲法発布とともに宮内府、49年に宮内庁と改称。
逍遙 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。散歩。
屡々 しばしば。同じ事が何度も重なって行われるさま。たびたび。
森閑 しんかん。深閑。物音が聞こえずひっそりとしている様子
竜土会 明治後期の文学者の集まり。1900年代初頭、東京牛込加賀町の柳田国男邸に田山花袋、国木田独歩らが寄って文学談を交わしたのが始まり。柳田国男氏の年譜では1905年7月から、麻布竜土町のフランス料理店竜土軒が月例会場となったという。近松秋江氏によれば「自然主義は龍土軒の灰皿から生まれた」という。
都電 チンチン電車です。都営地下鉄は押上と人形町間の1路線しかなく、営団地下鉄はまだ全くありません。定期的なバスもなく、「都電」(つまり、チンチン電車)だけがありました。系統13の都電は「山伏町」や「牛込柳町」と「新宿駅」を結んでいました。

電車 これもチンチン電車を指しています
秀英舎 明治9年(1876年)9月、今日の大日本印刷の前身、秀英舎を設立。世界でも1位の印刷会社。
左内坂 さないざか。JR市ヶ谷駅の市谷見附交差点の北から北西に入り、防衛庁の裏側を市谷加賀町方向に向かう坂。
市ケ谷見附 これもチンチン電車の停留場です。
竿竹 竿にして使う竹。たけざお。洗濯した衣服を乾す目的で使う。
士官学佼 現在は防衛省
喇叭 ラッパ。特に無弁のナチュラルトランペットのこと
陰森 樹木が茂り日をさえぎって暗い。うすぐらく、静かでさびしい様子。
瞥見 ちらっと見ること。短い時間でざっと見ること。
或る女子短大 大妻女子大学加賀寮です。
佇む たたずむ。彳む。しばらくの間ある場所に立ったまま動かないでいる。

河童考|柳田国男

文学と神楽坂


 ケシ坊主の話からカッパ(河童)の話に移ることにしよう。話が面倒になるが、じつはこの間漫畫家の淸水崑君に會つたとき「淸水片、君は惡いことをしてゐるね。白い女河童なんか描いて、河童をたうとうエロチックなものにしてしまつて……。河童には性別はないはずだよ」といふと「いや議論をするとなか/\長くなりますから……」と逃げ口上で話を避けてしまつた。
 河童といふ言葉は川童かはらんべでもと/\川の子供といふことなのだから、男女があつてはをかしいのではないかと思ふ。しかし九州などには河童が婿入りをしたなどといふ話もあるが、大體において性的な問題はないやうに思ふ。
 私の河童研究は非常に古く、明治四十一年九州へ行つたころから。二、三年位が絶頂であつた。今でも崑君なんかが利用してゐる「水虎考略」これは必ずしも珍らしい本ではないが、「河童は支那にいはゆる水虎なり」といふ説からこの本が出来、寫本も出てゐる。その中に大變値打があると思ふ話も四つか五つある。麹町の外堀で見つけたのはこんなのだとか、どこそこのはかうだとかみんな達つた河童が描いてある。幕末のごく末に朝川善庵といふ學者があつて、この人の本から引用してゐるのもある。頭がお河童で、背中に甲羅のある、まるで龜の子のやうなものから、褌をしめて素裸になつてつつ立つてゐるものなど、五つくらゐあつたと思ふ。
 後に内閣文庫を探してゐたら、同じ水虎考略といひながら四册本になつたのが見つかつた。一册はもとのそれを入れ、あとの三册は九州の書生さんが、興に乗じて方々からの話を集めたもので、書翰體になつてゐた。多くは九州の話だつたが、それは面白い本であつた。九州のは群をなしてゐて、一匹で獨立してゐるのはない。極端な場合には馬の足型だけの水溜りがあれば千匹もゐるなどといふことまでいふ。とにかく狹い所に群をなしてゐるものらしい。東北もしくは關東地方もさうだがこちらは一つ一つ獨立してゐて大變違つてゐた。河童はこんなに種類は違ひながら名前にはどこでも全部童兒、ワラベといふ言葉がついてゐるのである。
 私の郷里の方ではらうとよぶが、この區域は存外廣くない。大阪あたりでも通用しないことはないが、例の東海道膝栗毛の道中記が出たころから河大郎といふ名稱に差障りが出来たらしい。大阪に河内屋太郎兵衛といふ豪奢な者が出て、通稱河太郎といってゐたので、それに氣兼ねをしたため、「がたらう」といひにくゝなつたものであらう。京都あたりでは何といつてゐたか、やはり「がたらう」といつてゐたのではないかと思ふ。

ケシ坊主 子供の頭髪で、頭頂だけ毛を残し、まわりを全部そったもの。ある伝承では、河童の頭部がこの髪形だいう。おかっぱ頭。
清水崑 漫画家。岡本一平に師事し、挿絵画家として認知、「週刊朝日」に連載された「かっぱ天国」が人気を得る。生年は大正元年9月22日、没年は昭和49年3月27日。享年は満61歳。
川童 「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合し、「かわわっぱ」。それが変化したもの。
水虎考略 すいここうりゃく。水虎とは河童のことで、江戸時代の文政3年(1820)の河童研究書。
朝川善庵 江戸時代後期の儒者。江戸で私塾を営む。文化12年清の船が下田に漂着したとき筆談した。詩文集「楽我室遺稿」など。生年は天明元年4月18日、没年は嘉永2年2月7日。享年は満69歳。
水虎 水虎とは河童のこと
突っ立つ まっすぐに立つ。
内閣文庫 明治17年、太政官に創設された官庁図書館
河太郎 かわたろう。河童のこと。
東海道膝栗毛 正しくは「東海道中膝栗毛」。十返舎一九の滑稽本。1802~14年刊。弥次郎兵衛と喜多八が失敗を繰り返しながら東海道・京都・大坂を旅する。
河内屋太郎兵衛 江戸時代中期の浪華の豪商。
豪奢 非常にぜいたくで、はでなこと

自然主義小説のころ|柳田国男

文学と神楽坂

 日本民俗学の創始者だった柳田国男ですが、10代のころは、新進気鋭の短歌の歌人でした。明治25(1892)年、数えで18歳、やはり短歌の田山花袋(数えで22歳)が初めて柳田氏に会いにきています。二人は親友になりました。それから時は流れ、20代後半から30代には、柳田氏の邸宅での土曜会がでてきました。やがて、この会は自然主義の文士が集まる竜土会になっていきます。これは柳田国男が自叙伝『故郷七十年』で描いた、その当時の会の様子です。

 自然主義という言葉を言い出したのは、田山であったろう。しかも英語のナチュラリズムという言葉をそのまま直訳したのだが、はじめは深い意味はなかったと思う。田山は何か私らの分らない哲学的なことを言い出したりしたが、それはもう後になってからの話であった。それよりはもっと平たく言えば、やはり通例人の日常生活の中にもまだ文学の材料として採るべきものがあるということを認めて、それを扱ってみようとしたといえると思う。
 別に私が田山に話したような奇抜なものだけを書かなければならないわけはない。たとえば二葉亭の「浮雲」や坪内さんの「書生気質」だって、別に変ったところもないだけに、かえって広い意味の自然主義の発端といえないこともなかろう。田山は私の犯罪調査の話ばかりでなく、私が旅行から帰って来ると、何か珍しい話はないかといって聞くことが多かった。私が客観的に見て話してやったのを彼が書いたものの中には、特赦の話以外にも多少注目に値するものもあった。不思議なことには、文学者というものは、われわれの話すことを大変珍しがるものである。想像もできないとかいって感心する。いわゆる「事実は小説よりも奇なり」というわけだろう。それにこちらもいくらか彼等にかぶれて、西洋の写実派の小説などを読んでいるために、そんな例までくらべて話してやるものだから、一時は大変なものであった。そしてとうとう、あすこへ行きさえすればたねがあるというようなことになった。
 小栗風葉など一番熱心に参加した。家があまり困らないものだから不勉強で、代作などを盛んにさせた元祖であった。真山(まやま)青果(せいか)などは初めのうち、ずっと風葉の名前で書いて生活をしていた。青果の方では自分の名で出せるようになるまでは、練習のつもりで代筆をしていたわけであろう。ともかく風葉などは、私のところへ来れば新しい話があるという気で、私に対していたのである。

ナチュラリズム naturalism。自然主義。文学では客観描写を本領とする写実主義。哲学では自然を重視し、すべての現象を科学的法則で説明する。自然論。神学で、宗教的真理は自然の研究で得られるとする。
奇抜なもの 柳田国男が法制局で出会った特赦の例。子供や愛人が死亡し、自分だけが生きる悲惨な実例。
浮雲 小説。未完。明治20~89年発表。知識青年内海文三を通して明治の文明・風潮を批判し、自我の目覚めと苦悩とを写実的に描く、言文一致体の近代写実小説。
書生気質 当世書生気質。とうせいしょせいかたぎ。小町田こまちだ粲爾さんじという書生と芸妓との恋愛を中心に、当時の書生風俗の諸相を写実的に描き、「小説神髄」の理論の実践化を図ったもの
あすこ 牛込加賀町の柳田国男の邸宅。1901(明治34)年から1927(昭和2)年までこの加賀町に住んでいました。
 それからもう一人は、硯友社の川上眉山(びざん)であった。眉山は家庭が複雑で、気になることが多いためか、酒でまぎらすことが多かった。それに文筆で生活をする必要があって、骨が折れたらしい。しかも硯友社同人の立場にいながら、新興文学の端緒にも触れようという気持が強くて、森鴎外さんのものを片っ端から読んでいた。それに続いては国木田のものなどをよく読んでいた。死ぬ一年か一年半くらい前は、よく私のところに来た。
 それで十人ばかりの仲間が私の家に集まった。土曜日に催したから土曜会ということにしたが、毎週ではなく、たしか月二回ぐらいやっていたと思う。国木田がもちろん陰の黒幕で、島崎君もときどきは加わった。皆が集まった動機といえば、田山ばかりがたねをもらいに行って、うまいことをしているからということであった。明治三十七、八年のころだと思う。欧州でも二十世紀の初めで、英国の文学の一つの変り目にあたり、大陸の文学を盛んに英訳をしだした、ちょうどその時期に当っていた。フランスのドーデのものの英訳などが出始めたので、私が田山にすすめたことを憶えている。船に乗る人が盛んに買ったジャックの船上本などという英訳本が、日本にも来たものである。私は丸善に連絡をとっておいて、手元に届くたびに土曜会の連中に紹介した。この土曜会が後に快楽亭の会になり、三転して竜土(りゅうど)(かい)となったのである。

土曜会 明治後期の文学者の集まり。1900年代初頭、東京牛込加賀町の柳田国男邸に田山花袋、国木田独歩、小栗風葉、柳川春葉、生田葵山、蒲原有明などが集まって文学談を交わした。次第に参加人数が増え、1902年1月、麴町の西洋料理店快楽亭の会合からは会場を外に設けた。牛込赤城神社下の清風亭、雑司ヶ谷鬼子母神の焼鳥屋などに移り、柳田国男氏の年譜では1905年7月、麻布竜土町のフランス料理店竜土軒が月例会場となった。近松秋江氏によれば「自然主義は龍土軒の灰皿から生まれた」という。

ドーデ フランスの小説家・劇作家。Alphonse Daudet。1840年~1897年。故郷プロバンス地方の風物を温かな人間味と詩的情緒豊かな作風で描いた。短編集「風車小屋便り」「月曜物語」、小説「プチ・ショーズ」、戯曲「アルルの女」など
ジャックの船上本 不明です。
快楽亭 麹町英国公使館裏通りの洋食店
竜土会 麻布竜土町のフランス料理店竜土軒から

柳田国男|加賀町2丁目 16 番地

文学と神楽坂

 柳田国男邸は東京市牛込区加賀町2丁目 16 番地に住んでいました。現在もここは巨大な場所ですが、昔はもっと広がっていて、巨大な、巨大な場所でした。

大妻女子大学加賀寮とプレート(当時の邸宅と柳田国男旧居跡)

 江戸時代には武家屋敷でしたが、明治初期にはここは桑畑になり、夜になると人はまずいないようになります。

明治18~20年の市谷加賀町。以下の地図は全て新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(昭和57年)から

 明治中期で、ようやく邸宅がでてきます。明治34年には、柳田国男が大審院判事の柳田直平の養嗣子になります。

市谷加賀町(明治40年)の柳田国男邸

市谷加賀町(大正12年)の柳田国男邸

現在の柳田国男旧居跡と大妻女子大学加賀寮。薄赤色は市谷加賀町2丁目

遠野物語 百周年
遠野とおの物語ものがたり』誕生の場所
 やなぎ 田 國くに 男 旧 居 跡
 日本民俗学の父・柳田國男(1875~1962)は、現在、大妻女子大学加賀寮となっているこの地にあった旧柳田宅で、小説家・水野葉舟ようしゅうの紹介により岩手県遠野市出身の佐々木喜善きぜん(1886~1933)と出会い、佐々木が語った遠野に伝わる不思議な話を百十九話にまとめ、明治四十三年(1910)に『遠野物語』として発表しました。
 柳田は、明治八年(1875)兵庫県神崎郡福崎町に松岡家の六男として生まれ、十五歳で上京。青年期から文学に親しみ、田山たやま花袋かたい、島崎藤村とうそん國木田くにきだ独歩どっぽらと交流がありました。東京帝国大学卒業後は農商務省に入り、翌年の明治三十四年(1901)に大審院判事であった柳田直平なおへい養嗣子ようししとして入籍し、昭和二年(1927)に世田谷区成城に移るまでの二十七年間をこの地で生活しました。
『遠野物語』の話者となった佐々木は、当時早稲田大学在学中で、この旧柳田宅から徒歩で一時間弱の所(現在,凸版印刷株式会社トッパン小石川ビルがある文京区水道一丁目)に下宿しており、毎月のように、柳田の求めに応じ旧柳田宅を訪れ遠野の話をしました。
『遠野物語』は、日本民俗学黎明の書として、また、日本近代文学の名著として、今なお多くの人に読み継がれています。
    平成二十二年十一月    岩手県遠野市

この解説板は、大妻女子大学のご協力により設置しています。

故郷七十年|柳田国男

文学と神楽坂

 柳田国男氏に「故郷七十年」(神戸新聞、1958年)という本があります。民俗学が絡んだ自叙伝の本ですが、森鴎外尾崎紅葉などは普通に書き、しかし、泉鏡花については、かなり大胆な書き方をしています。以下は『定本柳田國男集 別巻3』に出ていた「泉鏡花」です。ちなみに柳田国男の生年は明治8年、泉鏡花は明治6年です。

「故郷七十年」の1は、泉鏡花、2は自然主義小説について、3は30歳代に住んでいた加賀町、4は河童について、5は浅見淵氏が書く加賀町の家です。

 柳田国男は民俗学者で、市谷加賀町柳田家(よう)嗣子(しし)(民法旧規定で、家督相続人となる養子)として入籍し、結婚しています。

   泉鏡花

 星野家の天知夕影の兩君と、妹のおゆうさんとの住居は日本橋にあつた。中庭のある變つた家で、すぐそばに平田禿木も住んでいた。おゆうさんはどちらかというと、兄の友人などからちやほやされることに、意識的な誇りを覺えるというやうな型の婦人だったやうに思う。後に吉田賢竜君の所へ嫁いだ。
 吉田君は泉鏡花と同じ金澤の出身だつたので、二人はずゐぶんと懇意にしてゐた。よくねれた溫厚な人物で、鏡花の小説の中に頻々と現はれてくる人である。私が泉君と知り合ひになるきつかけは、この吉田君の大学寄宿舎の部屋での出來事からであつた。
 大學の一番運動場に近い、日當りのいゝ小さな四人室で、いつの年でも卒業に近い上級生が入ることになつてゐた部屋があつた。空地に近く、外からでも部屋に誰がゐるかがよく判るやうな部屋である。その時分私は白い縞の袴をはいてゐたが、これは當時の學生の伊達であつた。ある日こんな恰好で、この部屋の外を通りながら聲をかけると、多分畔柳芥舟君だつたと思ふが、「おい上らないか」と呼んだので、 窻に手をかけ一気に飛び越えて部屋に入つた。偶然その時泉君が室内に居合せて、私の器械體操が下手だといふことを知らないで、飛び込んでゆく姿をみて、非常に爽快に感じたらしい。そしていかにも器械體操の名人ででもあるかのやうに思い込んでしまつた。泉君の「湯島詣」という小説のはじめの方に、身輕さうに窓からとび上る學生のことが書いてあるが、あれは私のことである。泉君がそれからこの方、「あんないゝ氣持になった時はなかつたね」などといってくれたので、こちらもつい嬉しくなつて、暇さえあれば小石川の家に訪ねて行つたりした。それ以来、學校を出てから後も、ずつと交際して来たのである。
 鏡花は小石川に住む以前、牛込横寺町尾崎紅葉の玄關番をしばらくしてゐた。しかし誰でも本を出すやうになると、お弟子でも師匠から獨立するのが一般のしきたりになっていたやうだ。ことに泉君は何となく他の諸君に対する競争心があって、人からあまりよく思われないやうな所があつた。
 酒を飮むにしてもまるで古風な飮み方をするし、あとの連中はまあ無茶な遊び方が多かった。そのいちばんの巨魁小栗風葉で、この連中は「あゝ、僞善者奴が」と泉の惡口をいうものだから、しまいには仲間割れがしてしまつた。
 同じ金澤出身の徳田秋聲君などともあまりよくなく、徳田君の方で無理してつき合っているような様子がうかがえた。徳田君は外國語の知識も若干あつたが、泉君の方は、それは昔風で、たゞ頭がいゝから、他人が譯した外國のものなども、こつそり讀んでいたやうである。いろ/\なことがあつたが、私にとっては生涯懇意にした友人の一人であつた。

天知 星野天知。ほしのてんち。評論家。小説家。帝大農科大学卒。1887年平田禿木らと日本橋教会で受洗。明治女学校で教鞭を取り、1890年『女学生』を創刊、主筆に。26年、北村透谷らと「文学界」を創刊。のち書道研究に没頭。生年は文久2年1月10日、没年は昭和25年9月17日。享年は満88歳。
夕影 ほしのせきえい。建築家。帝大建築科卒。「文学界」同人となって雑誌経営の実務を担当。大卒後は内務省技師。日光東照宮の修復などに携わった。生年は明治2年11月8日、没年は大正13年3月19日。享年は満54歳。
頻々 ひんぴん。同じような事が次から次へと起こること。
伊達 人目にふれるような派手な行動をする。派手なふるまいなどで外見を飾る。
畔柳芥舟 くろやなぎかいしゅう。英語・英文学者。評論家。明治31年、一高教授。のち「大英和辞典」(冨山房)の編纂に専念。生年は明治4年5月17日。没年は大正12年2月20日。享年は満50歳。
湯島詣 芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中する話。
とび上る学生 泉鏡花作の『湯島詣』から取った、部屋の外から中に一気に飛び込む場所です。

(にぎや)かだね、柳澤(やなぎさは)、」と(まど)(した)園生(そのふ)から(こゑ)()けたものがある。
        二
 一番(いちばん)(まど)(ちか)柳澤(やなぎさは)は、亂暴(らんばう)(むね)(そら)して振向(ふりむ)いたが、硝子(がらす)(ごし)(した)(のぞ)いて()て、
龍田(たつた)か。」
(たれ)()()るかい。」
根岸(ねぎし)新華族(しんくわぞく)だ、(はひ)れ。」と()つて()(なほ)る。
 同時(どうじ)に、ひよいと(まど)(ふち)()(かゝ)つた、飛附(とびつ)いて、(その)以前(いぜん)器械(きかい)體操(たいさう)()らしたか、()(かる)さ、(かた)()()げて(しつ)(なか)に、()()瀟洒(せうしや)なる(かほ)()したのは、龍田(たつた)()若吉(わかきち)といふのである。
 (あづさ)()(ゑみ)(ふく)み、
堪忍(かんにん)してやれ、神月(かうづき)はもう子爵(ししやく)ぢやあない。」といひながら腕組(うでぐみ)をして外壁(そとかべ)附着(くツつ)いたまゝで()る。柳澤(やなぎさは)椅子(いす)をずらして、
「まあ(はひ)れ、丁度(ちやうど)()い。(いま)其事(そのこと)()いて、神月(かうづき)問題(もんだい)といふのをはじめた(ところ)だ。一寸(ちよつと)(その)休憩時間(きうけいじかん)よ。神月(かうづき)(ひど)辯論(べんろん)(きう)して、き(さま)()るのを()つて()たんだぜ、龍田(たつた)()たらばツて()ういつてな。」

小石川の家 鏡花が住んでいた場所でしょう。小石川区大塚町57番地です。
巨魁 盗賊などの悪い仲間の首領。