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東京の路地を歩く|笹口幸男①1990年

文学と神楽坂

笹口幸男 笹口幸男氏は単行本『東京の路地を歩く』で「花街の粋をたたえる格調高い路地 神楽坂・四谷荒木町」(1990年、冬青社)を書いています。
 笹口幸男氏は、1940年生まれ。中央大学法学部政治学科を卒業し、ジャパンタイムズやTBSブリタニカ社、扶桑社の編集長などを経て、この当時は『International Financing Review』の東京編集部に勤務していました。

 神楽坂。好きな名前である。
 JR総武線の飯田橋駅から北へ行った高台の区域が神楽坂で、法政大学寄りの出口を出て、右手を望むと、かなり急な上り勾配の、街路樹と街路灯の続く町並みが目に入ってくる。冬の陽の落ちる直前の、景観は詩情すら感じさせてくれる。
 ここ三年ほど、職場が神楽坂に近くにあったせいで、昼飯などときたま食べに出かけて行くことも多かったが、私と神楽坂の最初の結びつきは、一軒の酒場から始まった。飯田橋駅から、神楽坂を上りつめたところの路地を右に入ったところにある。十五年ほど前になるかもしれない。同じ職場の先輩に仕事帰りに連れてこられたのが最初である。『ニューヨークータイムズ』で、東京の由緒ある居酒屋の一軒として紹介されたこともある。
 この酒房の名は〈伊勢藤〉。神楽坂のシンボルともいうべき毘沙門天の真ん前、お茶屋の脇を入った右手の奥まった角にひっそりとしてある。石畳を踏みしめてゆっくり歩いていくと、暗い闇の中にぼんやりと提灯の灯が見えてくる。「ああ、神楽坂へ来たんだ」という気分になる。表通りから一歩この路地に入ると、空気が一変する。そっと木戸を開けて中へ入ると、薄暗い土間になっていて、正面、カギの手のカウンターの向こうに主人が膝を折って正座している。酒の燗をつけてくれる。まるで酒場全体が、時代劇の旅籠屋のなかをのぞくような雰囲気に満ちていて、とても九十年の現代とは思えない。
 忘れることかできないのは、この反時代的な舞台装置だけでなく、主人の頑固一徹さである。昔ふうの酒飲みのスタンスを一歩たりとも崩さない。だから、この店では、ビールはもちろんのこと、焼酎もウイスキーも置いてない。それも白鷹いっぽんやり。自分の酒の好みを共有できる人のみに来てもらえばよい、ということをはっきり主張している。
 さらにこの店では、飲んで大声を上げたり、酔って他人に迷惑の及ぶ行為は厳しく禁止されている。かつて先輩や同僚を案内して立ち寄ることもたびたびあったが(最近はとんとご無沙汰している)、声が大きすぎるといって叱られたことも一再ならずあった。したがって気にくわないと思ったこともある。ちょっと良くなったが、かくのごとく私にとって〈伊勢藤〉は、神楽坂へのイントロであり、なつかしい。そして〈伊勢藤〉といえば、忘れられないのが、その石畳の路地であった。ここへ来るたびに、この路地の先はどうなっているのだろうか、というのがいつも抱く疑問だった。ある時この一帯の路地を歩く機会が訪れた。たっぷりと時間をかけ歩いてみた。この〈伊勢藤〉の前の路地は、すぐ左に曲がり、そして曲ったと思う間もなく、すぐ二又に分かれる。その右手に折れると、下りの石段になり、あたりの風情といったら、とても東京の一角などには感じられない。まるで京都の産寧坂あたりに迷い込んだかのような錯覚にとらわれる。割烹〈吉本〉と黒塀の旅館〈和可奈〉が両脇に並び、ムードをいっそう高めてくれる。〈和可奈〉の屋根の上を三毛猫かゆっくりと歩いている図もよくこの景観に似合う。
 一方、二又で分かれたもう一本の路地は、これほど魅惑的でないにせよ、長く、何回も曲がりくねりながら続いている点に、別種の趣きをおぼえる。先の路地か花街的な粋をたたえているとすれば、こちらの路地には、狭いアパートでの生活を強いられながらも、毎日に潤いを忘れない庶民の美意識があちこちに見られる。それは、二階のアパートの窓いっぱいを植木鉢で飾った家や、玄関脇をやはり植木鉢でかためた家などからうかがえる。
 そして両方の路地に共通にみられるのが、みかげ石の石畳であり、石段という小道具の存在である。石段の上と下で、どれだけ風景か変化するかは、体験してみればわかると思う。視点の移動による景観の変化は楽しいが、それが人間社会の意識にかかわると、見上げる・見下ろすといった心理的な位相にまで影響がありそうだ。さらにこの路地空間には、あとで見る神楽坂の別のエリアにもいえることだが、旅館や料亭のたたずまいがかもしだす古き良き時代の雰囲気が、現代という乾いた舞台で、いっそう情緒の光彩を放っているともいえる。


出口 飯田橋駅は先後の二方面で外にでられます。市ヶ谷方面と水道橋方面なのですが、法政大学寄りは市ヶ谷方面です。
法政大学

法政大学のキャンパス


町並み 実際に右を振り向くと神楽坂通りが非常によく見えてきます。 神楽坂通りの遠景
職場 はっきりしたことはわかりませんが、扶桑社やフジテレビの関係から、職場は新宿区河田町などに近い所ではなかったのではと思います。
伊勢藤 「伊勢籐 大好きな人もいるけど」を参考にしてください。しかし、伊勢藤か伊勢籐か。これについては藤のほうが正しいようです。
お茶屋  お茶屋は京都などで花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のこと。実際にそんな店は神楽坂にはありません。うどんすきの「鳥茶屋」と間違えているのでしょう。
この路地  この路地は賞を取ったことで「まちなみ景観賞の路地」((けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』)、または千鳥足で歩きたいことで「酔石横丁」(牛込倶楽部平成10年夏号『ここは牛込、神楽坂』で提案した地名)と呼ばれています。細かくはここで1990年の兵庫横丁(説明あり)
産寧坂 さんねいざか。京都市にある坂。三年坂(さんねんざか)とも。 東山の観光地として有名で、音羽山清水寺の参道である清水坂から北へ石段で降りる坂道です。
吉本 正しくは割烹「幸本」(ゆきもと)。たぶん「よしもと」だと間違えたもの。1990年でも「幸本」と読みました。
和可奈 「わかな」と読みます。細かくはここで
路地 この路地は「クランク坂」といった人もいます。『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では

坂崎 非常に入り組んだ地形でね。階段があったり、坂があったりして。
井上 ふつうの人はまず入ってこない。
  カギ形に入り組んでいるから『クランク坂』。交差してないから卍坂とはいえないし。
坂崎 いいネーミングだなぁ。


石畳 石畳石畳の狭義の定義では、ピンコロ石畳を使った(うろこ)張り(扇の文様)舗装のこと。

東京の路地を歩く|笹口幸男②

文学と神楽坂

 神楽坂生まれの作家の野口冨士男は、「私のなかの東京」で、いとおしむようにこう書いている。

毘沙門前の毘沙門せんべいと右角の囲碁神楽坂倶楽部とのあいたにある横丁の正面にはもと大門という風呂屋があったが、読者には本多横丁や大久保通りや軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯を逍遥してみることをぜひすすめたい。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

 そういう意味では、神楽坂はたしかに江戸情緒のあふれた街であり、東京の歴史がパックされた街である。大正十三年ころから昭和初年ころにかけては、三越松屋などの百貨店も出店を出し、繁華を極めた。銀座に劣らぬ賑わいを見せ、「牛込銀座」の異名もとった(現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』)。作家・泉鏡花夫人は神楽坂の芸者で、鏡花二十六歳、桃太郎十七歳の二人は一目見るなり、激しい恋におちいった。また、ここは、若き日の漱石の遊び場でもあった。文豪・夏目漱石は幼少の時代、毘沙門天前の婦人より乳をもらって育ったという。歴史の街であることは、街が教えてくれる。現在も芸妓組合もあり、夕暮時にもなると、路地裏の料亭から三味線の音か聞こえてくる粋な街であることはまちがいない。
 それを裏づけるかのように、その名もずばり「芸者新路」という名の路地もある。芸者でいえば、気風のいい美人といったらいいだろうか。一本真っすぐに延びた路地は石畳がきれいだ。その両脇には、割烹の看板が軒を連ね、格子の門構えの家が続く。たしか、この路地には以前、細面の美人のママが経営する洒落た飲み屋があった。大学時代の友人に連れられて、二、三度行ったが、店の中は薄暗く、静かで、ちょっと妖しいムードがただよっていた。そして、その不思議な空気に誘われて、次に訪ねたときにはもうその店は姿を消していた。
 夜になると、さんざめきがおおうこのあたりも、朝にはまたすっかり違った表情を見せる。まだ、街が眠りからさめやらぬころ、おそらく、茨城や干葉から野菜寵を背負った農家のおばさんが路地の料亭へやってくる。路地を歩いていて何度かそんな場面を目にした。この路地は、さきほどの路地のような石段による、高台と低地をつなぐ高低差のある変化を楽しむことはできないが、南側から北側にかけてわずかになだらかな上り傾斜になっている。それもまた悪くない。長い路地なので、ゆっくり行ったり来たりして、そのムードを味うことができる。


私のなかの東京 『私のなかの東京』は1978年に67歳になったときに書いた本です。初めは文藝春秋から出版しました。
毘沙門せんべい 「毘沙門せんべい 福屋」は昭和23年創業。「勘三郎せんべい」は歌舞伎の名優、17代目中村勘三郎丈が好んだもの。ほかに「山椒せんべい」や「げんこつ」など。せんべい福屋
囲碁 1980年の「日本住宅地図出版」では「山本囲碁」と書いています。現在は「鳥茶屋」の一部です。80年囲碁
大門 正しくは「第2大門湯」です。現在は理科大の森戸記念館の一部になりました。なお地図は都市製図社製の『火災保険特殊地図』( 昭和12年)です。大門湯
白山 白山(はくさん)は東京都文京区の町名。現行行政地名は白山一丁目から白山五丁目まで。白山
毘沙門横丁 「毘沙門横丁」は5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱東京UFJ銀行の間にある小さな路地をいっています。「毘沙門横丁」、別名「おびしゃ様の横丁」はついこの間まで呼んでいた名前です。これ以上簡単なものはありません。毘沙門横丁10
道玄坂 渋谷駅ハチ公口前から目黒方面へ向かう上り坂の名称。青い線で書いています。道玄坂
三越 三越の牛込マーケットは大正12年から14年まで神楽坂の筑土八幡町で開店していました。三越牛込マーケット
松屋 銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではありません。株式会社松屋総務部広報課に聞いたところでは、はっきりと本店、支店ともに出していないと答えてくれました。日本橋にも松屋という呉服店があったようですが、「日本橋の松屋が、関東大震災の直後に神楽坂に臨時売場をだしたかどうかは弊社ではわかりかねます」とのことでした。
牛込銀座 別名は「山の手銀座」。今和次郎編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)で「この言葉も今は新宿にお株を奪はれたが発祥の地はここである。神楽坂は昼よりも夜の盛り場だ」と書いてあります。
「東京物語」辞典 1987年、平凡社が現代言語セミナー編で発行し、この辞典によれば「神楽坂のイメージは江戸情趣にあふれた街であるが、大正十三年頃から昭和十年頃にかけては、レストランやカフェー、三越や松屋などの百貨店も出来、繁華を極めた。夜の殷賑ぶりは銀座に勝るとも劣らず『牛込銀座』の異称で呼ばれもした」
 しかし、昭和十年頃までで「繁華を極めた」と書くのは難しいのではないでしょうか。たとえば、昭和3年に、大宅壮一「神楽坂通り」によれば、「神楽坂は全く震災で生き残った老人のような感じである。銀座のジャッズ的近代性もなけれぱ新宿の粗野な新興性もない。空気がすっかり淀んでいて、右にも左にも動きがとれないようである。」といわれてしまいます。
乳を 夏目鏡子述、松岡譲筆録の『漱石の思い出』の七「養子に行った話」(文春文庫)によれば
 ところが生まれはしたものの父の五十四歳かの時の年寄り子で、はたへ対してもみっともよくない上に、第一お乳がない。そこで家へ女中に来ていたものの姉が、四谷で古道具屋をやっている。そこへ乳があるというので里子にやることになりました。ところがその古道具屋というのが、べつにれっき(、、、)とした店をもってるほどのものではなく、毎夜お天気がいいと四谷の大通りへ夜店を張る大道商人だったのです。
 ある晩高田の姉さんが四谷の通りを歩いていますと、大道の古道具店のそばに、おはちいれ(、、、、、)に入れられた赤ん坊が、暗いランプに顔を照らしだされて、かわいらしく眠っております。近よってみると(まご)う方なくそれが先ごろ里子にやった弟の『金ちゃん』なのです。何がなんでもおはちいれ(、、、、、)に入れられて大道の野天の下に寝せられているのはひどい。姉さんはむしょうにかわいそうになって、いきなり抱きかかえて家へかえって参りました。が一時の気の毒さで連れ帰って来てはみたものの、もともと家には乳がありません。そこでお乳欲しさに一晩じゅう泣きどおしに泣き明かす始末に、連れて来た姉さんは父からさんざん叱られて、しかたなしにまたその古道具屋へかえしてしまいました。こうして乳離れのするまで古道具屋に預けておかれました。

 したがって、「夏目漱石は幼少の時代、四谷の古道具屋より乳をもらって育った」が正しいのでしょう。
芸者新路 明治時代にできた路地で、仲通り本多横丁をつなぐ小道です。

芸者新道

「古老の記憶による関東大震災前の形」『神楽坂界隈の変遷』昭和45年新宿区教育委員会より

 昔は「芸者屋新道」「芸者屋横丁」と書いていました。現在は「芸者新路」「芸者新道」と2つの表記が混在しています。
さんざめき 大ぜいでにぎやかに騒ぐこと
路地 芸者新路のこと。

東京の路地を歩く|笹口幸男③

文学と神楽坂


 さらにこの路地の東側に、枝路地を二本もつ、より変化に富んだ迷路的な路地が走っている。お座敷てんぷら〈天孝〉をはじめ、〈高藤〉〈金升〉〈さがみ〉〈なが峰〉〈和光〉などの料亭や旅館、酒房などが占拠する、いかにも「花街」らしい一画だ。さっき、京都の町並みのようであると言ったが、ここもまさに伝統に富む京都に一脈通ずる品のよい都市空間を保っている。よそで見たならば、なんの変哲のない、犬を連れた老人の散歩ですら、ここでは絵になる、といったあんばいである。

路地 現在、かくれんぼ横丁と呼んでいます。

神楽坂の地図

神楽坂の地図

天孝 天孝、高藤、金升、さがみ、なが峰、和光のうち天孝だけが同じ店として生き延びています。他は全て閉店しました。右は1985年の「神楽坂まっぷ」で、この頃は全部が開店しています。また2007年には「わかまつ」で出火し、右隣りの「志のだ」に延焼しました。
かくれんぼ横丁
高藤金升さがみなが峰和光 全て閉店

 町並みのよさに加えて、私にとっての神楽坂のもう一つの魅力といえば、食の名店が多いことである。JR飯田橋駅に近いほうから思いつくままに挙げれば、甘味どころの〈紀の善〉。戦前は寿司屋だったこの店、あんもミツもともに自家製という。その横丁を入った左側には、手打ち蕎麦の〈志な乃〉がある。昼飯どきには、店の外まで人があふれている。量の多い太打ちの田舎そばは、ややヘビーに感じる向きもあるようだ。坂の右手途中には、ジャンボ肉まんで有名な中華料理の〈五十番〉、毘沙門天の先にある洋食の〈田原屋〉、牛肉ステーキが自慢の酒場〈河庄〉などなど、店に事欠かない。

紀の善 「ぜん」は文久・慶応年間(1861-1868年)に口入れ屋、つまり職業周旋業者として創業しました。建物は第二次世界大戦で焼失し、甘味処「紀の善」に変わりました。最後の名前の変更は戦後の昭和23年(1948)のこと。
紀の善
志な乃 現在も同じ場所の神楽小路で営業中。
志な乃
五十番 創業は昭和32年(1957年)。肉まんや中華料理が有名です。肉まんはほかのと比べて生地が厚くて、肉はちょっと少ない。2016年3月には本多横丁に向かって右側だったのが、左側になりました。
五十番

田原屋 19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。2002年2月に閉店。
田原屋
河庄 場所は不明です。と書きましたが、下の通信欄によれば、本多横丁にありました。

住宅地図。1984年

住宅地図。1984年

さらにこの路地の東側に、枝路地を二本もつ、より変化に富んだ迷路的な路地が走っている。お座敷てんぷら〈天孝〉をはじめなかでも〈田原屋〉は歴史を秘めた洋食屋である。一階が果物店で、レストランは二階。明治の中期、神楽坂のなかほどに牛鍋屋として創業されたこの店が、現在地に移ったのは大正三年だという。客のなかには、夏目漱石菊池寛佐藤春夫サトウハチローがいたようだ。さらに島村抱月松井須磨子も来たようだし、永井荷風の『断腸亭日乗』のなかにも、たびたび田原屋へ出かけたという記述が見られる。昼飯どきでも、この店には静かな落ち着きかあり、ゆったりと食事を楽しむ年配の客を多く見かける。

路地
明治の中期 19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。2002年2月に閉店。
断腸亭日乗 だんちょうていにちじょう。永井荷風の日記で、1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで、激動期の世相と批判をつづったもの。

文学と神楽坂

東京の路地を歩く|笹口幸男④

文学と神楽坂

毘沙門天と三菱銀行の間にあるのが毘沙門横丁で、そこを入った裏手に一本ちょっとした路地が残っている。飲み屋、料亭、会員制スナックなどがある行き止りの路地だが、ちょうど歩いたときが晴天で、太陽が家の植木鉢や緑にさんさんと降り注ぎ、いかにものどかな午後を演出していた。永井荷風の『夏姿』という小説に「神楽坂の大通りを挟んで其の左右に幾筋となく入乱れている横丁といふ横丁、路地といふ路地」という文章があるが、そのわずかばかりの名残りといえよう。野口冨士男によれば、『夏姿』の主人公慶三が下谷お化横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、この横丁にまちがいないと言っている。(『私のなかの東京』)
毘沙門天 大きな毘沙門天はここです。毘沙門本尊1
毘沙門横丁 毘沙門横丁は神楽坂通りから垂直にでています。明治地図
行き止りの路地 毘沙門横丁4「行き止まりの路地」は考えられる路地の一つです。上図の「行き止まりの路地」を「ひぐらし小路」と名付けた人もありました(『ここは牛込、神楽坂』第13号。「神楽坂を歩く。路地・横丁に愛称をつけてしまった」)。小さいながら石畳です。毘沙門横丁とひぐらし小路に顔を出す高村ビルに懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」があります。
夏姿 『夏すがた』は大正3年(1914年)、35歳に書いた永井荷風氏の小説です。次のように始まります

 日頃(ひごろ)懇意(こんい)仲買(なかがひ)にすゝめられて()はゞ義理(ぎり)づくで半口(はんくち)()つた地所(ぢしよ)賣買(ばいばい)意外(いぐわい)大當(おほあた)り、慶三(けいざう)はその(もうけ)半分(はんぶん)手堅(てがた)會社(くわいしや)株券(かぶけん)()ひ、(のこ)半分(はんぶん)馴染(なじみ)藝者(げいしや)()かした。
慶三(けいざう)(ふる)くから小川町(をがわまち)(へん)()()られた唐物屋(たうぶつや)の二代目(だいめ)主人(しゆじん)(とし)はもう四十に(ちか)い。商業(しやうげふ)學校(がくかう)出身(しゆつしん)(ちゝ)()きてゐた時分(じぶん)には(うち)にばかり()るよりも(すこ)しは世間(せけん)()るが肝腎(かんじん)と一()横濱(よこはま)外國(ぐわいこく)商館(しやうくわん)月給(げつきふ)多寡(たくわ)()はず實地(じつち)見習(みならひ)にと使(つか)はれてゐた(こと)もある。そのせいか(いま)だに處嫌(ところきら)はず西洋料理(せいようれうり)(つう)振廻(ふりまわ)し、二言目(ことめ)には英語(えいご)會話(くわいわ)(はな)にかけるハイカラであるが、(さけ)もさしては()まず、(あそ)びも(おほ)()景氣(けいき)よく(さわ)ぐよりは、こつそり一人(ひとり)不見點(みずてん)()ひでもする(ほう)結句(けつく)物費(ものい)りが(すくな)世間(せけん)體裁(ていさい)もよいと()流義(りうぎ)萬事(ばんじ)(はなは)抜目(ぬけめ)のない當世風(たうせいふう)(をとこ)であつた。

不見転(みずてん)とは、金次第でどんな相手とも肉体関係を結ぶ芸者のこと。

神楽坂… 『夏すがた』には次のような文章が残っています。

 神樂坂(かぐらざか)大通(おほどほり)(はさ)んで()左右(さいう)幾筋(いくすぢ)となく入亂(いりみだ)れてゐる横町(よこちやう)といふ横町(よこちやう)路地(ろぢ)といふ路地(ろぢ)をば大方(おほから)(ある)(まは)つてしまつたので、二人(ふたり)(あし)(うら)(いた)くなるほどくたぶれた。(しか)しそのかひあつて、毘沙門樣(びしやもんさま)裏門前(うらもんまへ)から奧深(おくふか)(まが)つて()横町(よこちやう)()ある片側(かたかは)(あた)つて、()入口(いりぐち)左右(さいう)から建込(たてこ)待合(まちあひ)竹垣(たけがき)にかくされた()(しづか)人目(ひとめ)にかゝらぬ路地(ろぢ)突當(つきあた)りに、(あつらへ)(むき)の二階家(かいや)をさがし()てた。
下谷 この場合は下谷区と考えた方がいいのでしょう。下谷区は浅草区と一緒になって台東区になりました。
お化横丁 お化横丁は下谷区のなかではおそらくありません。あるのは本郷区湯島の「お化け横丁」です。春日通りの1本南側のとても細い道をこう呼びました。図では「お化け横丁」を青い線で描いてあります。 おばけ横丁 池之端寄りにあるのが下谷区の「下谷花柳界」、湯島寄りには本郷区の「天神下花柳界」があり、実際は2つは同じ花街として成長してきました。たぶん永井荷風氏もほかの人と同じように名前を間違えたのでしょう。なお、「お化け横丁」とは芸者衆も昼間はスッピンで、でも夕方になると化粧をして顔が変わることから。
落籍 らくせき。抱え主への前借金などを払り、芸者の稼業から身をひかせること。身請け。
この横丁に 下に引用していますが、野口冨士男氏は「毘沙門横丁」と「この横丁」は同じだと言っているようです。一方、笹口幸男氏は「この横丁」は行き止りの路地なので、「ひぐらし小路」と同じものと考えているようです。
私のなかの東京 『私のなかの東京』には次のような文章があります。

 三菱銀行と善国寺のあいだにあるのが毘沙門横丁で、永井荷風の『夏姿』の主人公慶二が下谷のお化横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、恐らくこの横丁にまちかいないが、ここから裏つづきで前述の神楽坂演芸場のあったあたりにかけては現在でも料亭が軒をつらねている。

裏つづきで神楽坂演芸場があった場所にもちろんいけます(2つ前の図を参照)が、「料亭が軒をつらねている」よりは現在は「料亭も2、3軒ある」と書いた方がよさそうです。
これから千代香との関係はどう変わっていくのか、慶三はどうして「充分に安心し且つ充分に期待して」千代香と関係していくのか、自然主義では絶対にこうはいかないと思いました。

 

文学と神楽坂

東京の路地を歩く|笹口幸男⑤

文学と神楽坂

最後に、“こぶりながら”見落とせないピカッと光る路地を紹介しておきたい。飯田橋駅のほうから、坂を上りきる手前の左手〈青柳寿司〉の脇に入ると、すぐ右手にお稲荷さんと、その隣りに神楽坂芸妓組合がある。その斜め前の喫茶店〈シャトレーヌ〉の横が路地になっているが、まず地元の人でなければ気づかないであろう。でも土地の人はよく利用している。ひっそりとした、狭い路地で、右にカギの手に曲がると、すぐ石段になり、それを下ると真正面に〈斉藤医院〉がある。そこを右に折れて道なりに行くと、すぐ通りに出る。通りからすぐ反対側の民家の間がまた上り坂になった路地となる。上りつめてから振り返って見ると、高台にへばりついている神楽坂の家並みを望むことができる。初めに書いたような、高低差のある地形的な利点をもつ神楽坂は、きわめて優雅な街の景観をあちらこちらに残している。

この取材のためにも何回か歩いたが、またそれとは別にウォーキング・シューズをひっかけて、気ままに足の向くにまかせて歩いてもみた。渋谷も原宿も西麻布もけっこうだが、たまには発想を転換して、神楽坂散歩を試みられることをぜひおすすめしたい。

もう一度だけ、私の好きな『私のなかの東京』から、引用させていただく。

関東大震災後のきわめて短い数年間を頂点に、繁華街としての神楽坂という大輪の花はあえなくしおれたか、いまも山ノ手の花の一つであることには変りがない。そのへんが毘沙門さまをもつ神楽坂に対して金比羅さまをもつ虎ノ門あたりとの相違で、小なりといえども花は花といったところが、現在の神楽坂だといえるのではないだろうか。
開けっぴろげな原宿の若々しい明るさに対して、どこか古風なうるおいとかすかな陰影とをただよわせている神楽坂は、ほぼ対極的な存在といってまちかいないとおもうが、将来はいざ知らず、現状に関するかぎり、その両極のゆえに私の好きな街の双璧といってよい。

そして私は、ほんとうに久しぶりにあの酒場の暖簾をくぐった。店のたたずまいは昔と少しも変わらない。ただ、路地の入り囗の右手が立派なビルの料亭に変わっていた。その日は多少早めに行ったので、おやじさんと言葉をかわす余裕があった。同僚と二人でごく自然に杯をかわすこともできるようになっていた。つくずく時の経過というものを感じた。自分からもいつのまにか若さのとげとげしさといったものが、消えているように思えた。酒量が確実に落ちたのに対して、良い悪いは別として、酒を楽しむ境地になっていた。

こぶり 同類の他のものに比べると少し小形なこと
青柳寿司 寿司はなくなりましたが、「青柳LKビル」が残っています。1階は「沖縄麺屋 おいしいさあ」です

おいしいさあと稲荷稲荷 正式には伏見ふしみ火防ひぶせ稲荷いなり神社
神楽坂芸妓組合 正式には「東京神楽坂組合」
シャトレーヌ 現在は「恵さき」
芸者組合と恵さき石段 この階段や路地は「熱海湯階段」(まちづくりの会『神楽坂楽楽散歩』、『東京人』123号)、「熱海坂」か「カラン坂」(牛込倶楽部平成10年夏号『ここは牛込、神楽坂』)、「芸者小路」(階段下の音声ガイド)、「フランスの坂」、「一番湯の路地」、などと呼んでいます。

芸者小路

芸者小路

斉藤医院 現在は「別亭鳥茶屋」
通り 小栗横丁のこと
路地 堀見坂と『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」と書いてありました。
金比羅 港区虎ノ門一丁目にある神社、敷地内には、金刀比羅宮との複合施設として虎ノ門琴平タワーがあります。場所はここです。金比羅
酒場 「伊勢藤」でしょう
ビル 山本ビルに変わりました。一階は鳥茶屋本店