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青春物語|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

 明治44年、谷崎潤一郎氏は『中央公論』の編集者である滝田樗陰氏に連れられて、新年会に行き、初めて泉鏡花徳田秋声に会ったことを書いています。

 谷崎氏は24歳、滝田氏は28歳、泉氏は37歳、徳田氏は39歳、内田魯庵氏は43歳でした。

此の、私が新進作家として今が賣り出しの最中と云ふ得意の絶頂にある時、明治四十四年の正月に、紅葉館で新年宴會があつたのは、たしか讀賣新聞社の主催だつたかと思ふ。招待を受けたのは、都下の美術家、評論家、小説家等で、大家と新進とを概ね網羅し、非常に廣い範圍に亙つてゐた。「新思潮」からは、私一人であつたか、外にも誰か行つたか、記憶がない。私は瀧田樗陰君が誘ひに來てくれる約束だつたので、氏の來訪を待つて、一緒に出掛けた。その頃のことだから勿論自動車などへは乘らない。神保町から電車で芝の山内へ行つたのだが、瀧田君は吊り革にぶら下りながら、私の姿を見上げ見下ろして、「谷崎さん、今日はあなた、すっかり見違へましたね」と云ふのであつた。それと云ふのが、私は紋附きの羽織がなかつたものだから、その晩の衣裳として偕樂園から頗る上等の羽織袴縞御召二枚(かざ)等一切を借用してゐた。ぜんたい私は、第一囘の「パンの會」の頃までは髮の毛をぼう/\と生やして、さながら山賊の如き物凄い形相をして、「君の顏はアウグスト・ストリンドベルグに似てゐるね」などゝ云はれていゝ氣になってゐたものなんだが、さてそんな衣裳を借りてみると、その薄汚いパルチザン式の容貌ではどうにも映りが惡いものだから、當日の朝床屋へ行って良く伸びた髮を適當に刈つて貫ひ、下町の若旦那と云った風に綺麗に分けて、それから借り着を一着に及び、二重廻しに山高帽と云ふ.まるで今までとは打って變ったいでたちをしてゐた。

縞御召

紅葉館 東京の芝区芝公園20号地にあった会員制の高級料亭。空襲で消滅し、跡地には東京タワーが建っている。
新思潮 文芸雑誌。明治40年、小山内薫が海外の新思潮紹介を目的に創刊。東大文科の同人雑誌。第二次で谷崎潤一郎、第四次で芥川竜之介が出た。
芝の山内 芝公園増上寺の山内。山内さんないとは神社・寺院の敷地内部。
偕楽園 明治10年代から日本橋区にあった中華料理店。関東大震災から伝通院前に移動。谷崎氏と園の長男は同級生で親友。
頗る すこぶる。非常に。たいそう。
縞御召 しまおめし。御召は紬や絣などと同じく織の着物。最高級なシルクの着物。縞御召は、様々な縞模様を織り出した御召のこと。
二枚襲ね 二枚重ね。和服の盛装。長着ながぎ2枚を重ねて着ること。
アウグスト・ストリンドベルグ アウグスト・ストリンドベリ。スウェーデンの劇作家、小説家。『真夏の夢』など。
パルチザン 外国軍や国内の反革命軍に対して自発的に武器をとって戦う、正規軍に入っていない遊撃兵のこと。
二重廻し 二重回し。男性用の和装防寒コート。
打って変わる 前の状態と全く変わる。がらりと変わる。

私は八方から盃を貰ひ、いろいろの人から讃辭や激勵の言葉を浴びせられ、次第に有頂天になつて、瀧田君を促しつゝ徳田秋聲氏の前へ挨拶に行つた。と、秋謦氏は、其處へ蹣跚(まんさん)と通りかゝつた痩せぎすの和服の醉客を呼び止めて、「君、泉君、いゝ人を紹介してやらう――これが谷崎君だと」と云はれると、我が泉氏ははつ(、、)と云つてピタリと臀餅(しりもち)()くやうにすわつた。私は、自分の書くものを泉氏が讀んでゐて下さるかどうかと云ふことが始終氣になつてゐたゞけに、此の秋聲氏の親切は身に沁みて有難かつた。秋聲氏はその上に言葉を添へて、「ねえ、泉君、君は谷崎君が好きだろ?」と云はれる。私は紅葉門下の二巨星の間に挟まつて、眞に光榮身に餘る氣がした。殊に秋聲氏の態度には、後進を勞はる老藝術家の温情がにじみ出てゐるやうに覺えた。けれども残念なことには、泉氏はもうたわい、、、がなくなつてゐて、「あゝ谷崎君、―――」と云つたきり、醉眼朦朧たる瞳をちよつと私の方へ向けながら、受け取つた名刺を紙人れへ収めようとされた途端に、すう、、つとうしろへつてしまはれた。「泉は醉ふと此の調子で、何も分らなくなつちまふんでね」と、秋聲氏は氣の毒さうに執り成された。私は此の二人の大作家に會つた勢ひで、叉瀧田君を促して、今度は内田魯庵翁に盃を貰ひに行つた。翁は恐らく富夜の參會者中、文壇方面に於ける第一の名大家、横綱格の大先葷だつたであらう。

蹣跚 まんさん。よろよろと歩く
身に余る 処遇が自分の身分や業績を超えてよすぎる。過分である。身に過ぎる。
たわい 正体なく酒に酔うこと。酩酊
酔眼朦朧 酒に酔って、目先がぼんやりしている様子
 

文壇昔ばなし④|谷崎潤一郎

文学と神楽坂


             ○
肌合ひの相違と云ふものは仕方のないもので、東京生れの作家の中には島崎藤村毛嫌ひする人が少くなかつたやうに思ふ。私の知つてゐるのでは、荷風芥川辰野隆氏など皆さうである。漱石も露骨な書き方はしてゐないが、相當に藤村を嫌つてゐたらしいことは「」の批評をした言葉のはし/\に窺ふことが出来る。最もアケスケに藤村を罵つたのは芥川で、めつたにあゝ云ふ惡口を書かない男が書いたのだから、餘程嫌ひだつたに違ひない。書いたのは一度だけであるが、口では始終藤村をやツつけてゐて、私など何度聞かされたか知れない。さう云ふ私も、芥川のやうに正面切つては書かなかつたが、遠廻しにチクリチクリ書いた覺えは数回ある。作家同士と云ふものは妙に嗅覺が働くもので、藤村も私が嫌つてゐることを嗅ぎつけてをり、多少氣にしてゐたやうに思ふ。そして藤村が氣にしてゐるらしいことも、私の方にちやんと分つてゐた。しかし藤村には又熱狂的なフアンがあつて、私の舊友の中でも大貫晶川などは藤村を見ること神の如くであつた。彼は私と同じく東京一中の出身であるが、生れは多摩川の向う川岸の溝ノ口あたりであるから、東京人とは云へないのである。正宗白鳥氏は私の藤村嫌ひのことを多分知つてゐて、故意に私に聞かせたのではないかと思ふが、数年前熱海の翠光園で相會した時、今讀み返してみると藤村の作品に一番打たれると云つてをられた。

藤村を嫌っていた、「春」の批評 結論を先にいうと、漱石氏による『春』の批評はなさそうです。おそらく、うちうちでの反発はあっても、公になった『春』の悪口はありません。
 まず「漱石全集」(岩波書店、1995年)第16巻「評論など」を調べてみました。しかし、第16巻には何も書いていません。大体、漱石は自然主義の全体についていいたいことがあっても、いえない、いわない。なにせ、自分がやっていた朝日新聞に『春』が出たわけで、あまり批評は書きたくないのです。
 そこで第28巻「総索引」で調査しました。島崎藤村氏全体を調べると、第20巻(日記)416頁(「藤村の食後…を買う」)、第22巻(書簡)[人索](書簡883、書簡1064、書簡1099、書簡1136)、第23巻(書簡)注解(532頁)(「壁」について)と[人索](書簡882、書簡1064、書簡1099、書簡1136)、第25巻(別冊)254頁(「…島崎君の[『春』]が出るまで…私が書かなきやならん」)と519頁(「破戒」とは島崎藤村の小説)に書かれていました。[人索]は「人名に関する注および索引」のことです。
 また「総索引」で『春』(島崎藤村)を調べてみると、書いているのは第23巻(書簡)だけで、内訳は83頁、198頁、206頁、208頁、212頁、 528頁でした。528頁は[人索]で、書簡882、1064、1099、1136の4通がありました。書簡882は『春』を朝日新聞の小説にしたいということが書かれており、書簡1064は、大塚楠緒子宛の書簡で、
 藤村氏のかき方は丸で文字を苦にせぬ様な行き方に候あれも面白く候。何となく小説家じみて居らぬ所妙に候然しある人は其代り藤村じみて居ると申候。あれも長きもの故万事は完結後ならでは兎角申しかね候

書き方は小説家らしくはないけれども、完結がでるまで何も言わないよと、まあ普通の文言です。書簡1099は高浜虚子宛の書簡で
「春」今日結了 最後の五六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心致候。([ついで])を以て大兄へ御通知に及び候。あの五六行が百三十五回にひろがつたら大したものなるべくと藤村先生の為めに惜しみ候。

逆に考えると、あの五六行だけが良く、残りは最悪となりますが、そこは漱石、感心した文章を読んだと肯定的に書いてあります。書簡1136の小宮豊隆宛の書簡では
今の自然派とは自然の二字に意味なき団体なり。花袋、藤村、白鳥の作を難有がる団体を云ふに外ならず。而して皆恐露病に罹る連中に外ならず。人品を云へば大抵君より下等なり、理窟を云へば君よりも分らずや多し。生活を云へぼ君よりも甚しく困難なり。さるが故に君の敢て為し能はざる所云ひ能はざる所を為す。君是等の諸公を相手にして戦ふの勇気ありや。君を此渦中に引き入るるに忍び ざるが故に此言あり。

と、一般論で自然主義に対する反論がでてきます。しかし、書いてあった島村藤村氏に対する明確な反論はありません。逆に『破戒』では絶賛しかでてきません。(明治39年4月3日の森田草平宛の書籍)
一度だけ 芥川龍之介氏は「島崎藤村」や「藤村」という名前を『芥川龍之介全集』(岩波書店、1996年)の中で使ったことはありません。「島崎藤村」と関係がありそうな文章は、『或る阿呆の一生』(昭和2年)で出てきます。
四十六 譃
 彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の将来は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかつてゐた。)不相変いろいろの本を読みつづけた。しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な(うそ)に充ち満ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪らうくわいな偽善者に出会つたことはなかつた。が、フランソア・ヴイヨンだけは彼の心にしみとほつた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」を発見した。
 絞罪を待つてゐるヴイヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴイヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉体的エネルギイはかう云ふことを許すわけはなかつた。彼はだんだん衰へて行つた。丁度昔スウイフトの見た、木末こずゑから枯れて来る立ち木のやうに。……

 ここで出てきた「新生」は、谷崎潤一郎氏や当時の見解によれば、島村藤村氏が書いた小説「新生」だというのです。しかし、島村氏の意見だという芥川氏の文章はどこにもありません。私も単純にルソーの『新生の書』を書いたものではと思っています。ただし、当時の文壇の考えは藤村氏に対する批評だと考えているようです。なお、フランソワ・ヴィヨンは15世紀フランスの詩人で、中世最大の詩人、または最初の近代詩人といわれています。

遠廻しに… これを探すのには非常に難しいと思います。少なくてもはっきり書いた藤村氏に対する批判はなさそうです。
毛嫌い これという理由もなく感情的に嫌う。わけもなく嫌う。鳥獣は相手の毛並みで好き嫌いをするところから。
 島崎藤村の「若菜集」発表前夜の物語で、浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちがモデル。主人公の岸本捨吉には島崎藤村、青木駿一は北村透谷、市川仙太は平田禿木、菅時三郎は戸川秋骨など。
東京一中 府立第一中学校。現在の都立日比谷高等学校。
溝ノ口 神奈川県川崎市高津区溝口(図)の地域で、JR東日本の武蔵溝ノ口駅があります。多摩川の対側に世田谷区二子玉川が広がっています。

翠光園 以前の熱海翠光園(すいこうえん)ホテルでしょう。場所は熱海市咲見町4番21号で、熱海駅と来宮駅の中間で高台にありました。現在はアデニウム熱海翠光園というマンションに変わっています。図の左下の赤い矢印です。

文壇昔ばなし②|谷崎潤一郎

文学と神楽坂


             ○
紅葉の死んだ明治卅六年には、春に五代目菊五郎が死に、秋に九代目團十郎が死んでゐる。文壇で「紅露」が併稱された如く、梨園では「團菊」と云はれてゐたが.この方は舞臺の人であるから、幸ひにして私はこの二巨人の顏や聲音(こわね)を覺えてゐる。が、文壇の方では、僅かな年代の相違のために、會ひ損つてゐる人が随分多い。硯友社花やかなりし頃の作家では、巖谷小波山人にたつた一囘、大正時代に有樂座自由劇場の第何囘目かの試演の時に、小山内薰に紹介してもらつて、廊下で立ち話をしたことがあつた。山人は初對面の挨拶の後で、「君はもつと背の高い人かと思つた」と云つたが、並んでみると私よりは山人の方がずつと高かつた。「少年世界」の愛讀者であつた私は、小波山人と共に江見水蔭が好きであつたが、この人には遂に會ふ機會を逸した。小波山人が死ぬ時、「江見、己は先に行くよ」と云つたと云ふ話を聞いてゐるから、當時水蔭はまだ生きてゐた筈なので、會つて置けばよかつたと未だにさう思ふ。小栗風葉にもたつた一遍、中央公論社がまだ本郷西片町麻田氏のの二階にあつた時分、瀧田樗陰(ちよいん)に引き合はされてほんの二三十分談話を交した。露伴藤村鏡花秋聲等、昭和時代まで生存してゐた諸作家は別として、僅かに一二囘の面識があつた人々は、この外に鷗外魯庵天外泡鳴靑果武郎くらゐなものである。漱石一高の英語を敎へてゐた時分、英法科に籍を置いてゐた私は廊下や校庭で行き逢ふたびにお時儀をした覺えがあるが、漱石は私の級を受け持つてくれなかつたので、残念ながら聲咳に接する折がなかつた。私が帝大生であつた時分、電車は本鄕三丁目の角、「かねやす」の所までしか行かなかつたので、漱石はあすこからいつも人力車に乗つてゐたが、リュウとした(つゐ)大嶋の和服で、靑木堂の前で俥を止めて葉巻などを買つてゐた姿が、今も私の眼底にある。まだ漱石が朝日新聞に入社する前のことで、大學の先生にしては贅澤なものだと、よくさう思ひ/\した。

菊五郎 尾上(おのえ)菊五郎。明治時代の歌舞伎役者。市村座の座元。生年は1844年7月18日(天保15年6月4日)。没年は1903年(明治36年)2月18日。享年は満58歳。
團十郎 市川団十郞(だんじゅうろう)。明治時代の歌舞伎役者。屋号は成田屋。生年は1838年11月29日(天保9年10月13日)。没年は1903年(明治36年)9月13日。享年は満64歳。
紅露 コウロ。紅露時代。明治20年代の近代文学史上の一時期で、尾崎紅葉と幸田露伴が主導的立場にあった。
梨園 俳優、特に、歌舞伎役者の世界。唐の玄宗皇帝が梨の木のある庭園で、みずから音楽・舞踊を教えたという「唐書」礼楽志の故事から。
團菊 普通は三人で、団菊左。だんぎくさ。明治を代表する歌舞伎俳優、九世市川団十郎・五世尾上菊五郎・初世市川左団次のこと
声音 声の調子。こわいろ。
有楽座 日本最初の全席椅子席の西洋式劇場。現在は有楽町のイトシアプラザ(ITOCiA)が建つ。1908年(明治41年)12月1日に開場。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼亡。
自由劇場 小山内薫と市川左團次(2代目)が明治時代に起こした新劇運動。「無形劇場」で劇場や専属の俳優を持たない。
試演 試験的に上演や演奏すること。
少年世界 少年読者を対象とした雑誌。博文館発行。1895年1月創刊、1933年10月終刊。
中央公論社 雑誌『中央公論』を中心とする総合出版社。1886年に創立された西本願寺の修養団体「反省会」がその前身。1912年西本願寺から離れ、14年中央公論社と改称。坪内逍遙訳「新修シェークスピヤ全集」 (1933) 、谷崎潤一郎訳『源氏物語』 (39~41) などを出版。
西片(にしかた) 東京都文京区の町名。右上図は現在の西片町。このほぼ90%が昔の駒込西片町。これに駒込東片町・田町・丸山福山町・森川町・柳町の1部が合併し、成立したもの。
 旧麻田駒之助邸は残っています。図を。
一高  昭和10(1935)年までは本郷向ヶ岡弥生町(現・東京大学農学部敷地)にありました。
聲咳に接する 正しいのは謦咳(けいがい)。尊敬する人に直接話を聞く。お目にかかる。
かねやす 東京都文京区本郷三丁目にある雑貨店。「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳で有名。
 つい。素材や模様・形などを同じに作って、そろえること。
大島 大島紬。おおしまつむぎ。鹿児島県奄美大島特産の伝統工芸品、紬織物の一種。高級着物地。
青木堂 文京区本郷5丁目24にありました。1階が小売店で洋酒、煙草、食料品を販売、2階は喫茶店。青木堂はここが本店。なお、牛込区通寺町(現、神楽坂六丁目)の青木堂とは関係はないといいます。

文壇昔ばなし①|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

 谷崎潤一郎氏は耽美(たんび)派の作家として出発し、のちに「春琴抄」などの古典的な日本美に傾倒しました。「文壇昔ばなし」は昭和34年、73歳で発表し、『谷崎潤一郎全集』(中央公論社、昭和58年)第21巻に出ています。この最初の段落では徳田秋声氏、尾崎紅葉氏、泉鏡花氏、幸田露伴氏、山本実彦氏といった名前が出てきます。
             ○
昔、徳田秋聲老人が私に云つたことがあつた、「紅葉山人が生きてゐたら、君はさぞ紅葉さんに可愛がられたことだらうな」と。紅葉山人の亡くなつたのは明治卅六年で、私の數へ年十八歳の時であるが、私が物を書き始めたのはそれから約七年後、明治四十三年であるから、山人があんなに早死にをしなかつたら、恐らく私は山人の門を叩き、一度は弟子入りをしてゐたゞらうと思ふ。しかし私は、果して秋聲老人の云ふやうに山人に可愛がられたかどうかは疑問である。山人も私も東京の下町ツ兒であるから、話のウマは合ふであらうが、又お互に江戸人に共通な弱點や短所を持つてゐるので、随分容赦なく腹の底を見透かされて辛辣な痛罵などを浴びせられたに違ひあるまい。それに私は山人のやうに()一本な江戸ツ兒を以て終始する人間ではない。江戸ツ兒でありながら、多分に反江戸的なところもあるから、しまひには山人の御機嫌を損じて破門されるか、自分の方から追ん出て行くかしたゞらうと思ふ。秋聲老人は、「僕は實は紅葉よりも露伴を尊敬してゐたのだが、露伴が恐ろしかつたので紅葉の門に這入つたのだ」と云つてゐたが、同じ紅葉門下でも、その點鏡花は秋聲と全く違ふ。この人は心の底から紅葉を祟拜してゐた。紅葉の死後も每朝顏を洗つて飯を食ふ前に、必ず舊師の冩眞の前に跪いて禮拜することを怠らなかつた。つまり「(をんな)系圖(けいづ)」の中に出て來る眞砂町の先生、あのモデルが紅葉山人なのである。或る時秋聲老人が「紅葉なんてそんなに偉い作家ではない」と云ふと、座にあつた鏡花が憤然として秋聲を擲りつけたと云ふ話を、その場に居合はせた元の改造社山本實彦から聞いたことがあるが、なるほど鏡花ならそのくらゐなことはしかねない。私なんかももし紅葉の門下だったら、必ず鏡花から一本食はされてゐたであらう。鏡花と私では年齢の差異もあるけれども、あゝ云ふ氣質(かたぎ)の作家はもう二度と出て來ることはあるまい。明治時代には「紅露」と云はれて、紅葉と露伴とが二大作家として拮抗してゐたが、師匠思ひの鏡花は、そんな關係から露伴には妙な敵意を感じてゐたらしい。いつぞや私が露伴の話を持ち出すと、「あの豪傑ぶつた男」とか何とか、言葉は忘れたがそんな意味の語を洩らしてゐたので、鏡花の師匠びいきもこゝに至つてゐたのか、と思つたことがあつた。

山人 文士・書家などが号の下に添える語。
痛罵 つうば。激しくののしる。きびしく非難する。
生一本 きいっぽん。純粋でまじりけのないこと。純真で、ひたむきに一つの事に打ち込んでいくこと。
旧師 以前に教えを受けた先生。
跪く ひざまずく。地面に膝をついてかしこまる。
婦系図 おんなけいず。泉鏡花作の小説。1907年(明治40年)「やまと新聞」連載。権力主義への反抗を織りまぜて描いた風俗小説。新派名狂言の一つ。スリだった早瀬主税(ちから)はドイツ語学者酒井俊蔵(しゅんぞう)に拾われて書生となり、更生する。柳橋の芸者お(つた)とひそかに夫婦になるが、酒井は許さず、2人は別離を命じられる。「湯島の境内」の場は原作にはなかったが、のちに自ら書き下ろした。
眞砂町 本郷区真砂町です。現在は文京区本郷4丁目とほぼ同じ。
改造社 1919年(大正8年)、山本実彦氏は改造社を創立し、総合雑誌『改造』を創刊。1944年(昭和19年)、軍部の圧力で解散。
昔気質 古くから伝わるものを頑固に守り通そうとする気風。
紅露 コウロ。紅露時代。明治20年代の近代文学史上の一時期で、尾崎紅葉と幸田露伴が主導的立場にあった。