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目白三平のあけくれ|中村武志

文学と神楽坂

 昭和32年(1957年)、中村武志氏が書いた「目白三平のあけくれ」です。昭和のゼロ年代から10年代にかけて神楽坂にどんな店舗があったのか、それを昭和30年代と比較しています。知らない店舗も多く出てきています。

     バナナの叩き売り

 神楽坂を登って行くと、左側の「田金」果実店のあたりに、「樽平」という飲屋があった。今では、新宿の「二幸」裏の横町や銀座の全線座の裏路地に支店を出しているが、当時は神楽坂だけであった。
 女気が全然なくて、ボーイさんがお銚子やお通しを運んで来た。酒もよく吟味してあって、お銚子一本十五銭であった。この実質的なのが一般に受けたのだろう。「樽平」は神楽坂で成功して、新宿へ支店を出したのだが、今では本家の神楽坂が駄目になって、新宿の方が繁昌しているわけだ。
 この「田金」果実店の並びに、「志満金」という蒲焼屋があるが、そのあたりに、当時は「ギンセン」という喫茶店があった。「ギンセン」では、二十五銭のカレーライスと、三十銭のハヤシライスを食べさせてくれた。味が非常によかったから、金のある時は、ここへいつも来たものだ。
 その頃、法政大学の食堂のカレーライスは、たしか十五銭だったと思う。安いことは安かったが、その代り、義理にもうまいとは云えなかった。
 せんだって、二十何年振りに、新装なった法政大学の建物を見せて貰った。五五年館の地下の立派な大食堂では、カレーライスが四十五円で、ハヤシライスが六十円だということであった。一度暇を見て、このカレーライスを賞味しようと思っている。
 右側の小間物店「さわ屋」は、昔から変りがないが、横町の丁度「さわ屋」の真裏に、「東京亭」という小さなカフェーがあって、友だちのH君が、そこの女給のいくよさんに可愛がられたようであった。いくよ姉さんは、間もなくパトロンを見つけて、横町の奥で「いくよ」という小料理屋を開いた。今はもう小料理屋の「いくよ」は影も形もなく、ましていくよ姉さんの消息なぞ知る由もない。
 また左側に移るのだが、山本薬局のあたりに、果実店の「田原屋」があった。喫茶部も経営していて、落ちついた感じのいい店であった。現在は、ずっと先の、毘沙門天善国寺の近くに、同名の小さな果実店があるが、これは弟さんが主人だということだ。
 坂を登り切った右側に「藤屋」という花屋がある。昔はこの店の前あたりで、毎晩のようにバナナの叩き売りをやっていた。戸板の上に、バナナを沢山並べて、大きな房には、はじめ七、八十銭の値段をつけ、買手がないと見ると、竹の棒で戸板を叩きながら、十銭刻みに値段を下げて行く。安いなと思うところで、お客が買ったと声をかけるのだ。
 安いバナナを買う時もあったが、慌てて声をかけたために、十銭くらい高く買わされたこともあった。とにかく、夜の神楽坂名物として、バナナの叩き売りは無くてはならないものであった。
 このバナナの叩き売りをやっていた人が、「藤屋」の前の、「ジョウトウ屋」という果実店の主人だそうだが、あの頃の毎晩の努力が実を結んだわけで、大変おめでたいことだと思っている。

 昭和ゼロ年代の地図はひとつだけで、それは新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏が「神楽坂と縁日市。神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」で描いた昭和5年頃の地図なのです。右側の地図では、この図から神楽坂下から上にかけて志満金などを中心に左側の商店だけを抜き出したものです。図の右側は昭和5年頃の商店、左側は平成8年12月の商店です。樽平、志満金、田金果実店はここに出てきます。
田金 果実店。右の図では左側の真ん中に。下の写真では青色の店舗。田金果実店はおそらく戦後に出てきた店舗で、2008年まではありましたが、2010年には終了しています。
樽平 山形の蔵元樽平酒造の直営店。昭和3年に神楽坂で開業。すぐに銀座に移転。新宿、銀座、上野、五反田にも出店。現在、神田だけですが、直営店があります。下の図では赤で囲んだ店。白木正光氏が編集した「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和8年)には「左側にある瀟洒な構えの小店ですが、ここにはこうした類の酒店が尠いせいか、上戸党には大層な評判です。」と書いてあります。
二幸 1926年、「二幸食品店」が創業。現在は新宿アルタ。
全線座 映画館の1つ。1930年から早稲田全線座、銀座全線座、渋谷全線座等を運営。1938年(昭和13年)、京橋区銀座8丁目に洋館古城風の建物の「銀座全線座」を開業。
志満金 現在もある鰻屋。詳しくは志満金で。下の写真では黄色の店。

志満金前(昭和20年代後半)『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)

ギンセン 正しくは「銀扇堂」。菓子喫茶店。白木正光氏が編集した「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和8年)には「坂の中腹左側。ベーカリー式の菓子、喫茶、カツレツ御飯(25銭)等婦人連にも好かれ(そう)な店です」。また、安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では「銀扇堂 坂の中腹左側。ベーカリー式な家で、比較的落付いた店です。喫茶の外にランチも出来コーヒーとケーキは此の店自慢のものです。場所柄粋な婦人連がよく出入りし、学生間にも却々好評です。高級の喫茶として、レコードにゆっくり落付ます。此所の洋菓子はなかなかうまい」。なお、「却々」は「なかなか」と読みます。
法政大学五五年館 千代田区富士見にある法政大学市ケ谷キャンパスの1つ。五五年館は赤丸。
さわ屋 以前はかんざし、櫛、かもじなどを扱う小間物店。現在は資生堂の一店舗として化粧品を販売。詳しくはさわやで。
東京亭 神楽坂仲通りにあった店舗。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では「白木屋横町 小食傷新道の観があって、おでん小皿盛りの「花の家」 カフェー「東京亭」 野球おでんを看板の「グランド」 縄のれん式の小料理「江戸源」 牛鳥鍋類の「笑鬼」等が軒をつらねています」と書いてあります。
いくよ 神楽坂仲通りにあった店舗。これ以上は不明。
山本薬局 神楽坂三丁目にありました。右の昭和27年の「火災保険特殊地図」では右端に近く、赤い店舗です。
田原屋 戦後、神楽坂中腹にあった果実店の田原屋はなくなりました。恐らくこの図で青の店舗です。
藤屋 本多横丁の右角にあった店舗で、右図では左端の赤い店舗でした。以前は豊島理髪店で、昭和27年には「藤屋」に変わり、昭和35年ごろには、中華料理の「五十番」。平成28年(2016年)、五十番も本多横丁の右角から左角に移って、ここは新たに「北のプレミアムフード館 キタプレ」に。
ジョウトウ屋 正しくは「ジョウトーヤ」です。図ではピンクの店舗。
 
 

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柴田宵曲|漱石覚え書

文学と神楽坂

 柴田宵曲(しょうきょく)は、大正-昭和時代の俳人で、昭和10年、俳誌「こだま」を主宰し、また俳句に関する随筆や考証物をまとめています。著作に「古句を観る」など。これは随筆をまとめた『漱石覚え書』のうち「神楽坂」の全てです。

 「『漱石覚え書』は、古書通信誌の昭和二十四年十月号から三十七年十二月号にかけて、『藻塩草』の題名のもとに書かれた随筆のうちから、抽出したものであったことは、その『はしがき』にも明らかにせられるごとくである。」と書かれています。したがって「神楽坂」は第二次世界大戦後で、間もない時期に書かれたものでしょう。

     神楽坂

 震災を免れたため、下町か復興するまでの間、特に繁華を示した神楽坂も、今度の戦火で全く亡びてしまった。両側の店の明るい灯影の中に夜店が立って、幅の狭い道をぞろぞろと人の往来するあの町も、何時になったら旧に復するか、今になって考えるといろいろ連想に上ることが多い。
 横寺町の先生と云われた紅葉の家は、神楽坂を上って肴町電車通を突切ってから、左へ曲ったあたりに在ったらしい。あの辺で育った友人などは、子供の時分に太弓場で弓を引く紅葉を見かけたことがあるそうである。紅葉中心の世界が神楽坂に及ぶのは当然であろう。
紅白毒饅頭」に出て来る縁日の描写は、毘沙門の縁日の夜に出かけて行って、ノートに書止めた材料を使ったのだという。御供についた泉鏡花が玄関番になって間も無い頃で、紅葉もまだ二十五歳の若い盛であった。
 鏡花の書いたものに神楽坂が現れるのは珍しくない。彼が半生を回顧すれば、はじめて文学の上に立脚地を与えられた横寺町時代の事が、何よりもなつかしく浮んで来る筈だからである。「春著」という随筆には、紅葉を中心とした当時の世界――未だ志を得ざる門下の士の生活が浮彫のように描かれている。その中に一人混っていた後藤宙外、この人の「明治文壇回顧録」の中にも神楽坂附近の消息に触れたものが屡々ある。
 漱石の小説は「三四郎」を最後として本郷から離れた観がある。これは早稲田南町に移った結果であるが、彼としては自分の生れた町の近くに帰ったわけであった。「それから」の中で深夜神楽坂にさしかゝって強い地震を感ずる一条は、彼自身の経験であることが日記によって証せられる。
 主人公の書生が「今夜は寅毘沙ですぜ」という寅毘沙なるものは紅葉が「紅白毒饅頭」に用いた毘沙門の縁日なので、常でも人通りの多い神楽坂が、この夜は一層のを呈するのである。
「早稲田派の忘年会や神楽坂」という子規の句は明治三十一年の作である。抱月宙外筑水梁川等が「早稲田文学」に筆陣を張った頃であろう。「藁店や寄席の帰りの冬の月 五城」という句の藁店は昔の寄席で、そのあとが後に牛込演芸館になった。この演芸館の事は「それから」の書生も口にしているが、今日ではちょっと説明のしようが無い。文学に現れたところによって、過去の歴史を辿る外はあるまいと思う。

横寺町。右図を。
肴町。現在は神楽坂5丁目です。
電車通。現在は大久保通り。
紅白毒饅頭。神道大成教に属する蓮門(れんもん)教は、コレラや伝染病が毎年のように流行するなか、驚異的に発展し、明治23年、信徒数は公称90万人。翌年尾崎紅葉の『読売新聞』「紅白毒饅頭」などの批判を受け、大成教は光津の資格を剥奪し活動を制限した。30年以降、教団は分裂し消滅。
屡々。しばしば。同じ事が何度も重なって行われる様子。たびたび。
早稲田南町。下図を。漱石山房記念館は現在建築中。
賑。しん。にぎわう。
五城。作は数藤五城氏でしょう。
牛込演芸館。寄席や舞台が中心でした。また私立東京俳優学校もここで開校しています。この場所は牛込館になりました。

 

明治文壇回顧録

 後藤宙外氏が描く『明治文壇回顧録』は、昭和11年に岡倉書房から出版されたもので、尾崎紅葉氏や島村抱月氏の回想は特に生彩が高いといわれています。氏が初めて紅葉氏と会った場所は横寺町で、ここにその一端を載せます。

 明治三十年五月頃、「作家苦心談」の筆記のために、牛込横寺町の尾崎紅葉氏を訪うて、初めて面晤することを得たのである。私は明治二十年頃からの氏の作は大抵讀んで居り、才人であり、好男子であることも聞いて居りましたが、親しく其の人に接して話を聞いたのは、この時が初めてであつた。かねて想像したよりは、強健さうな體格で、身の長も尋常の人よりは高い方であり、態度も何となく男らしく、所謂キビ/\したサツパリとした男ぶりに見えた。文人によくある色の生ツちろい、 弱々とした優男ではなかつた。眼のぱツちりした明るい顔で、活氣にみちて居られた。これは後に門下の某君から聞いたことだが、徴兵檢査の際には砲兵科の甲種合格であつたと云ふことだ。これを以て青年時代の同氏の體格と健康との程度が察しられる。
強い地震  夏目漱石作の「それから」「八の一」で強い地震が出てきます。

 神楽坂かぐらざかへかゝると、ひつそりとしたみちが左右の二階家にかいやはさまれて、細長ほそながまへふさいでゐた。中途迄のぼつてたら、それが急に鳴りした。代助はかぜむねに当る事と思つて、立ちまつてくらのきを見上げながら、屋根からそらをぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲はれた。と障子と硝子がらすおとが、見る/\はげしくなつて、あゝ地震だと気がいた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでゐた。其時代助は左右の二階さかうづむべく、双方から倒れてる様に感じた。すると、突然右側みぎかはくゞをがらりとけて、小供をいた一人ひとりの男が、地震だ/\、大きな地震だと云つてて来た。代助は其男の声を聞いて漸く安心した。
 うちいたら、婆さんも門野かどのも大いに地震の噂をした。けれども、代助は、二人ふたりとも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置しやうかと思案して見た。然し分別をらす迄には至らなかつた。ちゝあにの近来の多忙は何事だらうと推して見た。結婚は愚図々々にして置かうと了簡をめた。さうしてねむりに入つた。
寅毘沙、この演芸館  「それから」の「八の六」に寅毘沙や演芸館が出てきます。

代助は書斎に閉じ籠こもって一日考えに沈んでいた。晩食の時、門野が、
「先生今日は一日御勉強ですな。どうです、些ちと御散歩になりませんか。今夜は寅毘沙(とらびしゃ)ですぜ演芸館支那人(ちゃん)の留学生が芝居を()ってます。どんな事を演る積りですか、行って御覧なすったらどうです。支那人てえ奴は、臆面(おくめん)がないから、何でも()る気だから呑気(のんき)なものだ。……」と一人で喋舌(しゃべ)った。
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東京大空襲と神楽坂1

文学と神楽坂

 東京大空襲での神楽坂の被害は桃色の範囲で起こり、逆に白色には大きな被害はありませんでした。これは日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)です。神楽坂は焼け野原になり、焼けていない建物は三菱銀行と津久戸小学校だけでした。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

 さらに「新宿区地図集」(新宿区教育委員会、昭和54年)と「語りつぐ平和への願い-新宿区平和都市宣言5周年記念誌」(新宿区、平成4年)で、黄色や桃色は被害はあり、白色はなかった場所です。

新宿区地図集新宿区平和都市宣言5周年記念誌
「新宿区地図集」(左図)と「語りつぐ平和への願い-新宿区平和都市宣言5周年記念誌」(右図)

早乙女勝元『東京空襲写真集-アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録;決定版』東京大空襲・戦災資料センター。勉誠出版。2015年

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第7号の「街の宝もの」で高橋春人氏は、

戦災の神楽坂を見る『戦災の神楽坂を見る』(作品①)という絵は、昭和二十年八月二十八日、終戦直後に復員してきたときに描いたもの。坂上右側の三角形の壁は、いまも坂の途中にある木村屋パン屋の跡で、左側の四角い建物は三菱銀行。右側の方にある黒い木は、本多横丁の裏手にあった大銀杏いちょうで、これはその後生き返ったとか。
『燃える牛込台地』(作品②)。これは昭和二十年の三月十日の空襲のとき、外濠の土手から向うが燃えるのを描いたものです。この夜、東京は大空襲を受けて、まず下町のほとんどがやられた。この付近も、靖国神社方面から富士見町、お濠を越えて市ヶ谷田町…という経路で被爆していったんです。私はそのとき富士見町にいて、最初は状況判断ができず、後で考えれば焼夷弾の落とされた弾帯の道筋にそって逃げていたんです。女房と一緒で、やっと靖国神社の裏手を通って新見附方面の土手公園に出てきたら、向いの牛込台地が燃えていてね。あのあたりの屋敷町には立木が多くて、火の手が梢から梢と、走るように燃え移っていくんです。
 明け方、戻ってみると、家は燃え落ちていて、自分の部屋にぎっしり積んであった本や資料がそのままの形でまだ炭火のように真っ赤に燃えていた。その後、警察病院の方まで歩いてきたら、顔が焼けただれた高射砲隊の兵隊たち(後楽園球場に陣地があった)が、トラックで病院に運びこまれてきて。大通りには消防車が焼けてころがっていて………。神楽坂の大通りには、有名な料亭の金蒔絵の食器などが山積みにされ「お好きな品をさしあげます」という立て札が立っていたけれど、持っていく人は誰もいなかった。私はその三日後に、吉祥寺の成蹊大学にあった陸軍第一航空軍司令部に応召、そこで終戦になって帰ってきたわけです。

 水野正雄氏は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「神楽坂を語る」で

 (復員のため)二十二年四月に名古屋に上陸しました。上陸したら東京の空爆した場所の地図等が出ていて、神楽坂は全滅でした。名古屋から東海道線の夜行に乗って、当時六円のおにぎりを買いました。もらったお金は三百円。そのうち百五十円を名古屋出るときにもらいました。飯田橋の改札で復員切符を見せて渡そうと思ったら、鉄道員が「お家ありますか?」と聞くので、「多分ありません」と答えると、切符を持って行けばどこまでも行けるからと切符を返してくれました。六年経って帰ってきたが、もう何もない。毘沙門の隣の三菱銀行が半分傾いてあるだけで、他は何もありませんでした。この付近の人たちは道の両側に各自の防空壕を掘って暮らしていました。小さい防空壕がいっぱいあったんです。それから津久戸小学校が少し残っていました。あと建物は三菱銀行と津久戸小学校だけ残っていました。助六のおやじさんから閧いて後からわかったことだけど、外堀飯川堀の方が半分埋まっていて、そこに材木屋だとか神楽坂警察署を建てました。屋根だけが出ているような状態で神楽坂警察署ができていました。神楽坂警察は屋根が低くて、麹町方面から来た火事を逃れて助かっていました。戦後の商業地には闇屋が出てきていたが、警察が健在なので、みんな捕まっちゃって神楽坂の発展がかえって遅くなってしまったそうです。

 戦災は神楽坂警察署にはなかったようです。神楽河岸は残り、最初の図でも戦災はなかったようです。

 神楽坂出身の竹田真砂子氏は「綱子の夏」(小説新潮、1998年7月号、日本文藝家協会「現代の小説1998」徳間書店、1998)で

 一ヶ月後、ともかくも様子を見て来ると、秀樹を母親に頂け、リュックサックに、とうもろこしとトマトとひまわりの種をつめて、綱子は上京した。
 満員の汽車を乗り継ぎ、以前なら四時間たらずのところを、六時間かけて到着すると、神楽坂は一面、焼野原になっていた。
 坂の両側に軒を連ねていた商店も、瀟洒(しょうしゃ)(たたずま)いを見せていた料亭の、洗い出しの板塀もない。横丁も小路も瓦礫(がれき)に埋もれて方角さえ分らず、自分の家がどの辺に建っていたのか、見当もつかなかった。
 わずかに、焼け焦げたコンクリートの肌を哂して形を(とど)めている小学校と銀行の位置を確かめて、この辺と思う所に行ってみる。と、思いがけないことに、その一画には焼け木杭(ぼっくい)が何本か打ちこんであり、あり合わせの板きれに書き記した『一新松所有地』の札が立っていた。綱子は、ぼんやりと、その木札を眺め、重 いリュックサックを背負ったまま、しばらくそこに佇んでいた。
「あれぇ、お綱姐さんじゃありませんか」
 突然、後から声をかけられた。綱子が振向くと、顔見知りの男が立っていた。
「やだ、鶴さんじゃないの。まあ、あなた、生きててくれたのね」
 声が、どんどん元気になった。
 鶴さんは、花柳界の事務局である見番(けんばん)で働いていた男衆(おとこし)だった。女房子は疎開させたが、自分は見番の管理室に寝泊りしていて空襲にあい、九死に一生を得たのだという。
「よくぞご無事で」
 涙ぐむ綱子に、改めて鶴さんは頭をさげ、
「姐さんもご無事でなによりでした」
 大粒の涙をこぼした。

洗い出し アライダシ。板の表面をこすり、洗って木目(もくめ)を浮き出させたもの。
男衆 おとこしゅう。おとこしゅ。おとこし。男の人たち。男の奉公人。

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東京大空襲と神楽坂2

文学と神楽坂

 日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)では、白色は戦災をそれほど受けなかった場所です。矢来町の主に南部、横寺町の西部、中町・南町・若宮町の一部、細工町・北山伏町・南山伏町・二十騎町などでは戦災が少ない地域があります。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示。日本地図株式会社。昭和21年刊の複製。1985年

 たとえば色川武大氏の「生家へ」(講談社文芸文庫)で書くところの自宅は矢来町80番(下図で赤い四角)で、戦災はほとんどありませんでした。矢来町80番は矢来町の南東側です。戦争があってもこの周辺は焼けませんでした。「生家へ」を読むと……。

矢来町の地図。色川武大

左側は昭和15年、右側は現代


 生家の門のあたりが急に騒がしくなったと思ったら、年増の女に引率された七八人の娘たちがぞろぞろ入ってきて玄関の格子戸の前に溜まった。そうして植込みにはさまれたそこの細い石畳の上で、それぞれ、舞うような形を示した。囃子が四方からきこえだした。(中略)
 私は、この昼日中の物々しい闖入者たちを、なんとなく気圧された表情で眺めていた。
 女が、ひょいと、生家の奥の方をのぞきこむような姿勢になった。
「お焼けになりませんでしたのね」
「――え?」
「戦争で」
「あ――」と私は頷いた。「残ったンです。おかげで。でも古い家だからもうゆがんでますよ。いっそあのとき焼けてしまった方がよかったかもしれない」
「いいえごぶじでよござんした。それに、お元気そうで」
「元気どころか――」
 私は自分を見返る形になって苦笑したが、女は私に戻した視線を動かさなかった。
「本当に、立派におなりになって」
「からかっちゃいけません。ただ、やっと生きてるだけです」
「お二方ともまだご健在なんでしょ。親御さまたちは」
「ええ」
「どなたもごぶじで、お幸せね。なにもかもごぶじで」

 矢来町から東南東に行ったところにある若宮町でも数軒の家は焼け残りました。 最高裁判所長官の公邸もそのひとつです。若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)では

地図は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根は中根駒十郎の邸宅。

赤い部分は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎氏と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根はかつての中根駒十郎宅。馬場は現在、最高裁判所長官の公邸。大橋は現在マンションに。


若宮町さまざま
 戦争が終わったとき(昭和20年8月15日)、若宮町で残ったのは、中根さん、大橋さん、馬場さんのお家ぐらいだった。私が現在住んでいるところは、昭和25年に友人から譲り受けた土地で、東側の中村吉右衛門宅(現、若宮町ローヤルコーポ)も、その向かいの川合玉堂宅(現、若宮ハウス)も焼け、西側の中根駒十郎さんのお家で火が止まった、奇跡的に焼けなかった家に今でも住んでおられるのは中根駒十郎さん御一家だけ。馬場さんのお家は、財産税で物納されて最高裁判所長官の公邸となり、大橋さんのお家は、一時、大橋図書館となったが現在は日興証券の研修所に建て替えられている。
                        若宮会前会長 細川八郎

現在はマンションが一杯の地域ですが、以前は巨大な邸宅がいくつも並んでいました。

譲り受けた土地 図で細川と書いてある場所。
中村吉右衛門 なかむらきちえもん。初代の歌舞伎俳優。明治30年、市村座で中村吉右衛門(1886年~1954年)を名乗り、九代目市川団十郎の芸風を継承。昭和22年芸術院会員、昭和26年に文化勲章を受賞。生年は1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。享年は68歳。現在は若宮町ローヤルコーポ。
 じょう。歌舞伎俳優などの芸名に付けて、敬意を表します。
川合玉堂 かわいぎょくどう。本名芳三郎。日本画家。温雅な自然を描き、横山大観・竹内栖鳳と共に日本画壇の三巨匠。1940年文化勲章。生年は明治6年11月24日。没年は昭和32年6月30日。享年は83才。
中根駒十郎 なかねこまじゅうろう。新潮社の編集者、専務取締役。明治31年義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(のちの新潮社)に入り、以後佐藤の片腕に。昭和22年支配人を退き顧問。生年は明治15(1882)年11月13日。没年は昭和39(1964)年7月18日。享年は82歳。
馬場 富山県の北前船廻船問屋として富を築いた馬場家が1928年(昭和3年)に牛込邸を建築。現・最高裁判所長官公邸。馬場邸
大橋図書館 大橋佐平氏は大手出版社「博文館」を創立。博文館15周年記念として明治35年東京市麹町区の財団法人が大橋図書館を創った。昭和25年から昭和28年までは若宮町で開館。
建て替え マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に変わりました。

若宮町のマンション

マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」

織田一磨|武蔵野の記録

文学と神楽坂

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録:自然科学と芸術』(洸林堂書房、1944年)です。氏は版画家で、版画「神楽阪」(1917)でも有名です。ちなみにこの版画は「東京風景」20枚のなかの一枚です。

       一四 牛込神樂坂の夜景
 山の手の下町と呼ばれる牛込神樂坂は、成程牛込、小石川、麹町邊の山の手中に在って、獨り神樂坂のみはさながら下町のやうな情趣を湛えて、俗惡な山の手式田舍趣味に一味の下町的色彩を輝かせてゐる。殊に夜更の神樂坂は、最もこの特色の明瞭に見受けられる時である。季節からいへば、春から夏が面白く、冬もまた特色がある。時間は十一時以後、一般の商店が大戸を下ろした頃、四邊に散亂した五色の光線の絶えた時分が、下町情調の現れる時で、これを見逃しては都會生活は價値を失ふ。
 繁華の地は、深更に及ぶに連れて、宵の趣きは一變して自然と深更特殊の情景を備へてくる。この特色こそ都會生活の興味であつて、地方特有のカラーを示す時である。それが東京ならば未だ一部に殘された江戸生活の流露する時であり、大阪ならば浪花の趣味、京都ならば昔ながらの東山を背景として、都大路の有樣が繪のやうに浮び出す時であると思ふ。屋臺店のすし屋、燒鳥、おでん煮込、天ぷら、支那そば、牛飯等が主なもので、江戸の下町風をした遊人逹や勞働者、お店者湯歸りに、自由に娯樂的に飲食の慾望を充たす平易通俗な時間である。こゝに地方特有の最も通らしい食物と、平民の極めて自由な風俗とが展開される。國芳東都名所新吉原の錦繪に觀るやうな、傳坊肌の若者は大正の御世とは思はれない位の奮態で現はれ、電燈影暗き街を彷徨する。
織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

下町情調 下町情調。慶應義塾大学経済学部研究プロジェクト論文で経済学部3年の矢野沙耶香氏の「下町風景に関する人類学的考察。現代東京における下町の意義」によれば、正の下町イメージは近所づきあいがあり、江戸っ子の人情があり、活気があり、温かく、人がやさしく、楽しそうで、がやがやしていて、店は個人が行い、誰でも受け入れてくれ、家の鍵は開いているなど。負のイメージとしては汚く古く、地震に弱く、下品で、中小企業ばかりで、倒産や不景気があり、学校が狭く、治安が悪く、浮浪者が多いなど。中立イメージでは路地があり、ごちゃごちゃしていて、代表的には浅草や、もんじゃ焼きなどだといいます。下町情調とは下町から感ずる情緒で、主に正のイメージです。

牛込、小石川、麹町。代表的な山の手をあげると、麹町、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、本郷、小石川など。旧3区は山の手の代表的な地域を示しているのでしょう。

夜更。よふけ。深夜。

大戸。おおど。おおと。家の表口にある大きな戸。

散乱。さんらん。あたり一面にちらばること。散り乱れること。

五色。5種の色。特に、青・黄・赤・白・黒。多種多様。いろいろ。

俤。おもかげ。面影。記憶によって心に思い浮かべる顔や姿。あるものを思い起こさせる顔つき・ようす。実際には存在しないのに見えるように思えるもの。まぼろし。幻影

流露。気持ちなどの内面が外にあらわれ出ること。

浪花。大阪市の古名。上町台地北部一帯の地域。

東山。ひがしやま。京都市の東を限る丘陵性の山地。

都大路。みやこおおじ。京都の大きな道を都大路といいます。堀川通り・御池通り・五条通りが3大大通り。

屋台。やたい。屋形のついた移動できる台。

牛飯。ぎゅうめし。牛丼。牛肉をネギなどと煮て、汁とともにどんぶり飯にかけたもの。

遊人。ゆうじん。一定の職業をもたず遊び暮らしている人。道楽者。

お店者。おたなもの。商家の奉公人。

湯歸り。風呂からの帰り。

東都名所。国芳は1831年頃から『東都名所』など風景画を手がけるようになり、1833年『東海道五十三次』で風景画家として声価を高めました。

傳坊肌。でんぽうはだ。伝法肌。威勢のよいのを好む気性。勇み肌。

舊態。きゅうたい。旧態。昔からの状態やありさま。

電燈。でんとう。電灯。電気エネルギーによって光を出す灯火。電気。

 卑賤な女逹も、白粉の香りを夜風に漾はせて、暗い露路の奥深く消え去る。斯かる有樣は如何なる地方と雖も白晝には決して見受られない深夜獨自の風俗であらう。我が神樂坂の深更も、その例にもれない。毘沙門の前には何臺かの屋臺飲食店がずらりと並ぶ。都ずし、燒鳥、天ぷら屋の店には、五六人の遊野郎の背中が見える。お神樂藝者の眞白な顏は、暗い街にも青白く浮ぶ。毘沙門の社殿は廢堂のやうに淋しい。何個かの軒燈小林清親の版畫か小倉柳村の版畫のやうに、明治初年の感じを強めてゐる。天ぷらの香りと、燒鳥の店に群集する野犬のむれとは、どうしても小倉柳村得意の畫趣である。夜景の版畫家として人は廣重を擧げるが、彼の夜景は晝間の景を暗くしただけのもので夜間特有の描寫にかけては、清親、柳村に及ぶ者は國芳一人あるのみだ。
 牛込區では、早稻田とか矢來とかいふ町も、夜は繁華だが、どうも洗練されてゐないので、俗趣味で困る。田舍くさいのと粹なところか無いので物足りない。この他にも穴八幡赤城神社築土八幡等の神社もあるが、祭禮の時より他にはあんまり人も集まらない。牛込らしい特色といふものはみられない。強ひて擧げれば關口の大瀧だが、小石川と牛込の境界にあるので、どちらのものか判然としない。江戸川の雪景や石切橋の柳なんぞも、寫生には絶好なところだが、名所といふほどのものでは無い。

卑賤。ひせん。地位・身分が低い。人としての品位が低い。

都ずし。江戸前鮨(寿司)は握り寿司を中心にした江戸郷土料理。古くは「江戸ずし」「東京ずし」とも。新鮮な魚介類を材料とした寿司職人が作る寿司。

遊野郎。ゆうやろう。酒色におぼれて、身持ちの悪い男。放蕩者。道楽者

お神樂藝者。おかぐらげいしゃ。牛込神楽坂に住む芸妓。

廃堂。廃墟と化した神仏を祭る建物。

軒燈。けんとう。家の軒先につけるあかり

画趣。がしゅ。絵の題材になるようなよい風景

早稲田。矢来。地図を参照。

俗趣味。低俗な趣味。俗っぽいようす

穴八幡、赤城神社、築土八幡。地図を参照。

穴八幡、赤城神社、築土八幡

江戸川。神田川中流の呼称。文京区水道・関口の江戸川橋の辺り

石切橋。神田川に架かる橋の1つ。周辺に石工職人が多数住んだことによる名前。

砂土原町|入江相政

文学と神楽坂

%e5%85%a5%e6%b1%9f%e7%9b%b8%e6%94%bf 入江(いりえ)相政(すけまさ)氏は東大卒で、官僚、歌人、随筆家。学習院大教授をへて、昭和9年宮内省侍従になり、侍従長を長く務めました。生年は明治38年6月29日。没年は昭和60年9月29日。80歳で死亡しました。

 入江相政氏の「余丁町停留所」(人文書院、1977年)では

 昭和八年に、同じ牛込の、砂土原町に新居を構えた。「新居を構える」などと言えばいかにも自力で一軒建てたようにも聞えるけれど、土地は家内の母にめぐまれ、家は私の父が建ててくれた。地面は三百三十坪、建て坪は六十何坪、まさに贅沢過ぎるものだった。父は言った、「これは、お前の分には過ぎたもの。お前はこれを競争相手と思い、この家と自分とをくらべて、この家にはずかしくないような人になれ」と。これは大変なことになったと思った。
 長女ができてから、ここに移り、ここに移ってすぐ長男が生まれた。二人の子供が小学生になるころ、つまり昭和十何年という時、つくづく思ったのは、道路は舗装され、暖房は発達、車はふえて、東京はますます自然を遠ざける。だからなんとか工夫を重ねて、自然をここに招き寄せる。また一方では、自然の中にはいっていかなければならない、と。
 庭が広かったから、そこに花の咲く木を植えた。「先ず咲く」がその語源というマンサク、卵の薄焼きを細く切ったような黄色い花に、近づく春を楽しもう。サンシュユはどこに植えるか。ハクモクレンは中国からの伝来、あの花の下には、樹下美人のような女でも、立たせなくては。
砂土(さど)(はら) おそらく砂土原町2丁目でしょう。あと一歩で浄瑠璃坂を登りおえる場所にあり、現在はマンションがいっぱいになりました。砂土原町の説明は『新修 新宿区町名誌』(新宿歴史博物館、平成22年)によると「江戸時代は武家地であった。市谷田町三丁目から船河原町続きの裏通りとその周辺の武家屋敷一帯を俗に砂土原と呼んでいた。本多佐渡守正信の別邸があったためで、佐渡原、佐渡殿原とも呼ばれていた(町方書上)。また、この本多邸跡の土を取って外堀端を埋め立てて市谷田町を造成したので、土(砂土)取場とも呼んだ。佐渡と砂土は同音であるため、砂土原と書いた」

砂土原・昭和12年と現在

マンサク。マンサク科マンサク属の落葉小高木。マンサクの語源は明らかでないが、早春に咲くことから「まず咲く」「まんずさく」が東北地方で訛ったものとも。

サンシュユ。山茱萸。ミズキ目ミズキ科の落葉小高木。

ハクモクレン。白木蓮。モクレン目モクレン科モクレン属の落葉低木。白色の花をつける。

3種の植物

同じく「陛下側近として五十年」(講談社、1986年)では

 わが家はもと牛込砂土原町にあったが、親類中で一番あとまで焼けのこるだろうなどといわれていたのだが、二十年三月九日、十日、あの下町の大空襲の晩に、まっ先かけて焼けてしまった。妻や子は、それから疎開して東京を離れ、私は家が無いから、ほとんどつとめ先にとまりつづけていた。
 しばらく経って行ってみたら、わか焼けあとに、半地下式の壕舎(ごうしゃ)が建てられている。市ケ谷の陸軍省、参謀本部が近かったので、軍は地主には無断で、焼跡の方々にこれを建て、万一、陸軍省などが爆撃された場合には、この壕舎に分散して軍務を()り、戦争を遂行しようとしたのである。
 それが、そこまで行かないうちに、八月に戦いはおわった。秋には妻も二人の子供も、疎開先からかえってくることになった。家を建てようにも建てられないので、五,六坪のその壕舎に、いくらか床の板を張ったりして住むことにした。
 壕舎というのは、つまり屋根がペシャンコにつぶれたような格好をしている。だから()ていて上を見ると、天井が無いから、目の上はいきなり屋根裏ということになる。屋根には防水の紙を張り、その紙を釘で打ちつけた。その釘の先がたくさん突き出ている。ふだんは目立たないのだが、気温が零度以下に下ると、白いものかポッポッとちりばめられる。室内に臥ているわれわれ親子のぬくもりが、霜となって釘の先にくっつくわけである。

   屋根裏を 貫き出でし 錆釘に
   あかとき白く 霜降れる見ゆ

 は、その時に()んだものである。
 楽しみながら自然たまった書斎の本のすべてを失い、父からも譲られ、また自分でも集めた書画の類も、ほとんど烏有(うゆう)に帰した。万策尽きたはずではあったが、もう一遍日本を建て直し、ふたたび繁栄させなくてはという、天皇陛下の御意気ごみにつづいて、われわれも、案外、昂然たる風だった。

壕舎。ごうしゃ。敵の襲撃に備えて地中につくった部屋。防空壕

あかとき。「明時=あかとき」は「あかつき」の古形。夜半から明け方までの時刻。

烏有。全くないこと。何も存在しないこと

昂然。こうぜん。自信に満ちて、意気盛んなさま

新版私説東京繁昌記|小林信彦

文学と神楽坂

 平成4年(1992年)、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出ています。いろいろな場所を紹介して、神楽坂の初めは

 山の手の街で、心を惹かれるとまではいわぬものの、気になる通りがあるとしたら、神楽坂である。それに、横寺町には荒木氏のオフィスがある。

以下、永井荷風「夏すがた」からの引用、加能作次郎「大東京繁昌記」山手篇の〈早稲田神楽坂〉からの引用、サトウ・ハチロー「僕の東京地図」からの引用、野ロ冨士男氏「私のなかの東京」からの引用があり、続いて

 神楽坂について古い書物をめくっていると、しばしば、〈神楽坂気分〉という表現を眼にする。いわゆる、とか、ご存じの、という感じで使われており、私にはほぼわかる

「山の手銀座」はよく聞きますが、「神楽坂気分」という言葉は加能作次郎氏が作った文章を別として、初めて聞いた言葉です。少なくとも神楽坂気分という表現はなく、国立図書館にもありません。しかし、新聞、雑誌などでよく耳に聞いた言葉なのかもしてません。さて、後半です。

 荒木氏のオフイスは新潮社の左側の横町を入った所にあり、いわば早稲田寄りになるので、いったん、飯田橋駅に近い濠端に出てしまうことに決めた。
 そして、神楽坂通りより一つ東側の道、軽子坂を上ることにした。神楽坂のメイン•ストリートは、 いまや、あまりにも、きんきらきん(、、、、、、)であり、良くない、と判定したためである。
 軽子坂は、ポルノ映画館などがあるものの、私の考えるある種の空気(、、、、、、)が残っている部分で、本多横町 (毘沙門さまの斜め向いを右に入る道の俗称)を覗いてから、あちこちの路地に足を踏み入れる。同じ山の手の花街である四谷荒木町の裏通りに似たところがあるが、こちらのほうが、オリンピック以前の東京が息づいている。黒塀が多いのも、花街の名残りらしく、しかも、いずれは殺風景な建物に変るのが眼に見えている。
 大久保通りを横切って、白銀(しろがね)公園まえを抜け、白銀坂にかかる。神楽坂歩きをとっくに逸脱してい るのだが、荒木氏も私も、〈原東京〉の匂いのする方向に暴走する癖があるから仕方がない。路地、日蔭、妖しい看板、時代錯誤な人々、うねるような狭い道、谷間のある方へ身体が動いてしまうのである。
「女の子の顔がきれいだ」
 と、荒木氏が断言した。
白銀坂 おかしいかもしれませんが、白銀坂っていったいどこなの? 瓢箪坂や相生坂なら知っています。白銀坂なんて、聞いたことはないのでした。と書いた後で明治20年の地図にありました。へー、こんなところを白銀坂っていうんだ。知りませんでした。ただし、この白銀坂は行きたい場所から垂直にずれています。
きれい 白銀公園を越えてそこで女の子がきれいだというのもちょっとおかしい。神楽坂5丁目ならわかるのですが。
 言うまでもないことだが、花街の近くの幼女は奇妙におとなびた顔をしている。吉原の近くで生れた荒木氏と柳橋の近くで生れた私は、どうしてそうなるのかを、幼時体験として知っているのだ。
 赤城神社のある赤城元町、赤城下町と、道は行きどまるかに見えて、どこまでも続く。昭和三十年代ではないかと錯覚させる玩具と駄菓子と雑貨の店(ピンクレディ(、、、、、、)の写真が売られているのが凄い)があり、物を買いに入ってゆく女の子がいる。〈陽の当る表通り〉と隔絶した人間の営みがこの谷間にあり、 荒木氏も私も、こちらが本当の東京の姿だと心の中で眩きながら、言葉にすることができない。
 なぜなら、言葉にしたとたんに、それは白々しくなり、しかも、ブーメランのように私たちを襲うのが確実だからだ。私たちは——いや、少くとも、私は、そうした生活から遁走しおおせたかに見える贋の山の手人種であり、〈陽の当る表通り〉を離れることができぬ日常を送っている。そうしたうさん臭い人間は、早々に、谷間を立ち去らなければならない。
 若い女を男が追いかけてゆき、争っている。「つきまとわないでください」と、セーターにスラックス姿の女が叫ぶ。ちかごろ、めったに見かけぬ光景である。
 男はしつこくつきまとい、女が逃げる。一本道だから、私たちを追い抜いて走るしかない。
 やがて、諦めたのか、男は昂奮した様子で戻ってきた。
 少し歩くと、女が公衆電話をかけているのが見えた。
 私たちは、やがて、悪趣味なビルが見える表通りに出た。
どこまでも続く う~ん、かなり先に歩いてきたのではないでしょうか。神楽坂ではないと断言できないのですが。そうか、最近の言葉でいうと、裏神楽坂なんだ。
表通り おそらく牛込天神町のど真ん中から西の早稲田通りに出たのでしょう

これで終わりです。なお、写真は1枚を出すと神楽坂の写真

これは神楽坂通りそのものの写真です。場所は神楽坂3丁目で、この万平ビルは現在、クレール神楽坂になりました。

1990年の神楽坂

1990年の神楽坂

文学と神楽坂

神楽坂|東京繁昌記

文学と神楽坂

木村荘八氏が書いた『東京繁昌記』という本があり、私は区の図書館で借りて読みました。A4判で、厚さは2.5cm。重さは1.6kgもあります。おっきい。全体で246頁なので、1頁1頁が相当に重たい。区の本は昭和33年に発行した演劇出版社の複製で、昭和62年に国書刊行会が再発行しています。

氏は洋画家であり、生家は牛鍋屋いろは。岸田劉生氏とフューザン会・草土社を結成。小説の挿絵で有名で、『東京繁昌記』の画文は芸術院恩賜賞を受けました。生年は明治26年8月21日。没年は昭和33年11月18日。享年は満65歳でした。

で、これほどの重い本だと「神楽坂」の文章も多いのではと思いましたが、文字は1頁以下でした。昭和30年、読売新聞の「師走風景帖」の文章で神楽坂を描いています。

東京繁昌記 尾崎紅葉の句に「寒参り闇にちんちん千鳥かな」。その白装束の寒参りを点景として神楽坂を描いた絵を見たことがあるが、九段坂には車のあと押しの「立ちんぼ」を配するなど、明治の人の風景描写は叙情細やかだった。上五を忘れたけれども「――つらりと酔ふて花の春」これも紅葉の句で、その注解に、一夜明けると、紅葉は門下生に羽織と着ものの「おしきせ」を出し、それを着つれた連中がほろ酔いで肩をそろえ、目白押しに神楽坂に行くところ、とあった。
 明治の神楽坂は硯友社の勢力範囲だった。今の神楽坂は早稲田と法政のなわ張りだろう――山の手の地形はここ(牛込)も麻布と同じく、到底後からの人工では出来ない(あが)り・(さが)りに豊富で、坂の名は、昔市ヶ谷八幡の祭礼にこの坂の近くで神楽を奏したからこの名があるといわれ、あるいは若宮八幡の神楽がこの坂まで聞えたからともいわれる。

 十二月九日

目白押し。めじろおし。メジロが樹上に押し合うように並んでとまるところから。多人数が込み合って並ぶこと。

寒参り闇にちんちん千鳥かな 岩波書店の『紅葉全集』第九巻を調べましたが、「寒詣翔るちん/\千鳥哉」だけが全集にはありました。
――つらりと酔ふて花の春 『紅葉全集』第九巻にはなさそうです。

反対側の頁にはA4判全てを使って白黒の絵を描いています。パチンコマリーは現在のゲームセンター「セガ神楽坂」(場所はここ)に当たります

木村荘八氏の「神楽坂」

木村荘八氏の「神楽坂」

最新東京繁昌記|伊藤銀月

文学と神楽坂

 伊藤銀月氏が書いた「最新東京繁昌記」(内外出版協会、明治36年、1903年)の牛込区です。
 氏は評論家・小説家で、生年は明治4年10月21日。秋田中学中退。「よろず(ちょう)(ほう)」の記者でした。没年は昭和19年1月4日、73歳でした。この文章は32歳に書いています。ほかの区には悪口いっぱいで、牛込区はまだいいほうです。
 

まず、現代文に直してみます。

その7。夏のような風

 四谷は麴町と親しく、小石川は本鄕といい関係があるが、牛込区だけは他の区と親しくしていない。神楽坂は牛込区の目になっている。目がキラキラしていないと東京っ子の目ではない。神楽坂は肥えていて、お尻も大きな女性が、帯が解けてもわからず、街にいるようなものだ。神楽坂をぞろぞろ登ってくるのは、髪を西洋風に組み、帽子をもってくる西洋風の人が多い。
 牛込区の気風。
 神楽坂は牛込衆が展覧場にいるようなもので、牛込衆は自分を陳列しようとしてここに集合してくる。なお、牛込ッ子という言葉はどうもおかしい。牛込人や牛込者というも何か臭くて、面白くはない。牛込衆というのは穏便で、これが一番よかろう。
 旦那、続いて細君、それから子供、最後に下女がゾロリゾロリと牛込風に歩くと、ゆっくり歩くので、下駄の摩耗も一種違う。この区の人間ほど悠々と暮らし、生活も困っていないと見えるが、しかし、必ずしも暇は多くはなく、生活も困っている場合もある。そう見えないのは牛込風の気風だ。
 牛込区には、いつでも夏の初めに似たなまぬるい柔かい風が吹いてくる。この風に吹かれて麦の穗を出すように、髯が生えそうな先生がいる。つきたての餅に目鼻を書いたように、手でなでると消えような笑顏の令嬢もいる。
 神楽坂の芸妓が鳴らす三味線の音は、雨が降ってくるようだ。牛込には神楽坂の芸妓がいて、麹町には富士見の芸妓がいる。富士見の芸妓は蒔いた種に肥やしをふりかけ、芽になったものだが、神楽坂の芸妓はどぶばたにこぼれた種が自然にふやけて、芽になったものだ。つまり、同じように土臭いが、神楽坂の芸妓は、より自然で、より詩趣がある。
 士官学校や監獄署もある市ケ谷は、牛込の布地に一層粗い模樣を染め出したものだ。牛込では座布団を出るが、市ケ谷は敷布団に出す以外に方法はない。
 根岸は下谷の別の区域で、根津は本郷の別の区域であり、早稲田は牛込の別の区域に似ている。しかし実際には極めて異なり、別の区域ではなく「新牛込」である。神楽坂の繁華は早稲田の趣味に伴くように、早稲田の将来には神楽坂の趣味の繁華があるようだ。
 WindowやMacでは下の黄色の文字の上で1~2秒ポインターを動かさない場合に吹き出しが出てきます。残念ながらiPodでは出てきませんので、最後に同じ文章を書いておきました。
 
 其七 夏の初の如き風(牛込區)
  四谷は麴町と親しく、小石川は本鄕と交り好し。獨り牛込は誰とも親しからず。
神樂坂は牛込の眼也、眸に張りの無きは東京ッ兒の眼にあらず。
神樂坂は、肥つて御尻の()()つた女が、帶の解けたを知らずに往來を引きずつて居る形也、ソロ/\と登るものは、束髪帽子の蟻。
牛込ッ子にあ
らず牛込衆

牛込的氣風

神樂坂は牛込衆の展覧場也、牛込衆は己れ自身を陳列すべく此處に集合する也。牛込ッ兒と云ふは無論當らず、牛込人或は牛込者と云ふも何か臭ひがありさうに聞こえて面白からず、牛込衆と云ふの穩なるに如かず。
旦那とさうして細君、さうして子供、さうして下女、ゾロリ/\と牛込的に歩く也、牛込的下駄の()りやうは一種別也。此區の人間程悠々緩々、(ひま)(おほ)生活(くらし)困らなさゝうに見ゆるは無し。必ずしも暇多きにあらず、必ずしも生活(くらし)に困らざるにあらず、()か見ゆるは牛込的氣風也。
牛込には、何時(いつ)も夏の初めの如き生温(なまぬる)く柔かき風吹けり。此風に吹かれて麥の穗を出すが如く、髯の芽生(めば)()でゝ()はれさうな先生あり。()きたての餅に目鼻を惡戯(いたづら)()きしたるが如く、手で撫でれば消えさうな笑顏(えかほ)令嬢あり。
()神樂(かぐら)藝妓(げいしや)の三味線の音、雨を喚びさう也。
牛込に御神樂藝妓あるは、麹町に富士見藝妓あると異なれり。富士見藝妓は蒔いた種に(こや)しを施して芽を吹かせしものなれども、御神樂藝妓は溷端(どぶばた)にこぼれた種の自然にフヤケて芽を吹きしもの也。同じく土臭しと雖も、御神樂藝妓は、より自然的にして、より詩趣を帶べり
士官學校及び監獄署を圍める市ケ谷は、牛込の布地(きれぢ)に一層(あら)き模樣を染め出したるもの也。牛込は座蒲團に供すべきも、市ケ谷は(しき)蒲團(ぶとん)に用ふるの外無し。
根岸が下谷の別區域なる如く、根津が本鄕の別區域なる如く、早稲田は牛込の別區域なるに似たり。而も其實は大にそれらと異なり、別區域にあらずして新牛込也。神樂坂の繁華が早稲田趣味を帶ばしめらるゝが如く、早稲田の將來に神樂坂趣味の繁華を開かんとす。

眸に張り ひとみ。開いた眼。 「張り」はひきしまって弾力がある。
肥つて御尻の出ッ張つた女 肥えていて、お尻も大きな女性が、だらしなく、街にいるという意味。 これでどうして神楽坂になるのでしょう。悪口でしょうね。しかし、ほかの区も相当ひどいと思います。
束髪 西洋婦人の髪形を真似して、 明治時代に上流階級の女性で登場した髷の一群。br />  多くの人
帽子 明治27~8年ごろ、帽子も流行しました。 西洋風にかぶれた人が多かったのでしょう
牛込衆 牛込ッ子、牛込人、牛込者はどれもだめ。牛込衆がいいのかなあ……と考慮中。『「牛込ッ子にあらず牛込衆也」と牛込の住人の気質を表現するなど、当時の様子には心惹かれるものがある』と『立壁正子の仕事』(「立壁正子の仕事」をつくる会、平成14年)では説明します。実際はどの区も皮肉いっぱいです。
下駄 ゆっくり歩くので、下駄の摩耗も著しい。
困らなさゝうに見ゆるは無し 悠々と暮らしもよさそうな人が 神楽坂で多そうだといっています。
先生 髯が生えそうな先生。 悪口にも聞こえる用語です
令嬢 「餅に目鼻を悪戯書きする」のは悪口で、 「笑顔の令嬢」は賛辞です。
土臭し これは皮肉
御神樂藝妓は、より自然的にして、より詩趣を帶べり これは賛辞
牛込は座蒲團に 牛込が高級の座布団、市ケ谷は三級の敷き布団 ……どうしてこう区別するのか不明ですが 市ケ谷よりも牛込がいいと思っているのはわかります。
新牛込 早稲田は新牛込といったほうがいい。 この時代、早稲田の住宅が急速に増えていました。

神楽坂と江戸川|生田春月

文学と神楽坂

生田春月 生田(いくた)春月(しゅんげつ)氏の「神楽坂と江戸川」です。生田氏は詩人、小説家で、生年は明治25(1892)年3月12日。没年は昭和5(1930)年5月19日です。したがって、31歳の時に書いた随筆です。関東大震災の年に書いていますが、大震災は9月、この随筆は6月なので、事後ではなく事前に書いています。

 いかにもいい感じなのですが、9月になると銀座、浅草や上野は震災で潰れます。が、神楽坂は全く以前と同じく生活が続きます。しかし、それから二、三年後、銀座や新宿は以前にも増して新興、復興してくるのですが、神楽坂はまったく動きがありません。その結果、「活気がない」「黴臭い」「非近代的」などと言われてしまいます。

 私は牛込に住んでもうかれこれ十年以上になる。二三度引越しはしたが、それもやはりこの界限で、いつも神樂坂と江戸川と、兩方に同じ距離を保つた地點にゐるものだから、時々讀書や執筆に疲れて、氣がくさくさして來ると、そのどちらかへ散歩をする。(中略)
 だが、牛込も神樂坂の方に出ると、早稲田方面の新開地氣分は頓になくなつて、おちつきのある大きい店が綺麗に並んで活動寫眞とか、バアとか、レストオランとかが、夏の夜などは粧ひをこらして、いかにもすつきりとした明るい都會情調をただよはせてゐる。銀座などのやうに、あまり高踏的でもなく、浅草や上野のやうに俗つぽくもない。賑かで、しかもしつとりしてゐる。學生が多く、令嬢が多く、若い文士などが、夜更けに高聲で話しながら歩いてゐる。ふと氣がむいて、コオヒイなどのみに出かけると、そこらあたりでいい機嫌になつた小説家が、帽子をあみだにかぶり、ふらふらと歸つて來るのに出逢ふ時は、おのづからほほゑまれる。曾て小川未明氏が、牛込からはなれるのを惜まれたのは、この神樂坂の情調をあのやうに好んで、日々幾度も散歩されたからであらう。私もいつかは郊外に引越して、日當りのいい家に住みたいと思ふのだが、この神樂坂のそばから、いよいよ離れてしまふとなれば、私も多分また、どんなにこの町に別れがたたく思ふ亊であらう。

〔大正十二年六月〕
新開地 新しく開けた市街地
粧ひ よそおい。外観・設備や身なりなどを美しく飾りととのえること。
高踏的 こうとうてき。世俗を離れて気高く身を保っているさま
あみだ 帽子などを前を上げて後ろを下に、斜めに傾けてかぶること

文学と神楽坂