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漱石と市谷の小学校

文学と神楽坂

 夏目漱石が通った市谷の小学校はどこにあったのでしょうか。

 北野豊氏の『漱石と歩く東京』(雪嶺文学会、2011年)では…

 1876年、養父母の離婚が成立し、養母とともに実家へ引き取られた漱石は5月から市ヶ谷小学校へ通うようになった。当時は市谷柳町交差点を少し南へ行った、市谷柳町16番地にあった。家から1km余の距離である。
 現在の市ヶ谷小学校(新宿区市谷山伏町)とは別系統で、愛日小学校(新宿区北町)の前身になる。愛日小学校は1880年、吉井小学校(1870年創立。市谷加賀町16番地)と漱石の通った市ヶ谷小学校(1874年創立)が合併し、現在地につくられたものである。 1878年4月、市ヶ谷小学校を卒業した漱石は、錦華学校小学尋常科に入学した。

「漱石は5月から市ヶ谷小学校へ通うようになった」と書いてありますが、実は「市ヶ谷学校」が正しく、「小」は不要です。では、もう1つ。「市ヶ谷学校」の場所は、本当に市谷柳町16番地なのか、それとも柳町69番地か、山伏町2番地なのか、どうなのか、という問題です。ここで柳町69番地と山伏町2番地は、荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂』(集英社、1984年)にでています(下線は私がつけたもの)。

 明治九年(1876)10歳
★5月30日(火)(不確かな推定)、戸田学校下等小学校第四級を修了したかもしれぬ。
★6月頃(推定)、市谷学(牛込区市が谷山伏町2番地、現・新宿区市が谷山伏町)の下等小学第三級に転校したかも知れぬ。同窓に、島崎友輔(柳塢りゆうお)・桑原喜・山口弘一・篠本二郎・中川某(不詳)らいて親しく交わる。

脚注
◇第一大学区東京府管内第三中学区第四番小学市が谷学校。明治6年設立。生徒数男児82人、女児38人。旧民家を校舎にしたもので、程度は戸田学校より低かった。明治九、十年頃までに、牛込区柳町69番地(当時、69番扱所)に移る。金之助が通ったのはここかもしれぬ。明治13年公立小学(第二番)吉井学校と合併し、「愛日小学校」となる。現在の新宿区立愛日小学校(新宿区北町26番地)である。
◇「喜いちゃん」と呼ばれる友人から、蜀山人の自筆と称する『南畝なんぼ莠言ゆうげん』を買わされたことがある。翌日取りもどしに来たので、本は返したが、代金は受取らない。

 はじめに「柳町69番地」はまず違います。当時の地図を見ても、柳町には48番地が最大でした。柳町69番地はありえません、では「山伏町2番地」はどうでしょうか。

 唐澤るり子氏の「モノが語る明治教育維新 第27回-双六から見えてくる東京小学校事情 (5)」(三省堂、2018年8月)では「明治7年に開校した『市ヶ谷学校』は、明治8年に生徒増加のため市谷柳町(現・新宿区市谷柳町)の民家を買収し移転しました」と書いてあります。

市ヶ谷学校

市ヶ谷学校。東京小学校教授雙録。新宿区教育委員会『新宿区教育百年史資料編』(1979年)の口絵から。

 新宿区愛日小学校の歴史では「明治7年3月23日、第一大学区に第四番公立小学 市ヶ谷学校が開校される(市谷柳町16)」と書き、また、新宿区の『新宿区史 資料編』(新宿区、1998年)でも下図となり、同様です。

公立小学校沿革一覧

公立小学校沿革一覧。一部を改編

 どうも市谷柳町16が正しいようです。でも、わからない場合も残っている。その場合、聞いてみます。唐澤るり子氏にこの質問をお送りしました。以下はその回答です。

 市ヶ谷学校に関してですが、私の調べによれば明治7年3月に市ヶ谷山伏町に開校、明治8年4月1日に生徒増加のために市谷柳町16番地の民家を買収、移転したとなります。
 漱石が戸田学校から市ヶ谷学校下等小学第3級に転校したのは、明治9年5月から10月の間ですから、「6月頃(推定)、市が谷学校(牛込区市が谷山伏町2番地)」とありますが、この時期には移転しており、山伏町とは考えられないと思います。
 三省堂のブログは出典を明記しておりませんが、開校に関しては『小学校の歴史Ⅲ』(倉沢剛著)、移転に関しては『新宿区教育百年史』を参考にしております。

 なるほど。市谷柳町16番地の民家を買収し、漱石も柳町16番地の小学校に通っていたんですね。

柳町16

柳町16。東京実測図。明治28年。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

羽衣館の優勝旗|都筑道夫

文学と神楽坂

 都筑道夫氏は早川書房が発行する「エラリイ・クイーンズ・ミス テリ・マガジン」の編集長を勤めた後、昭和34年、作家生活に入りました、本格推理、ハードボイルド、ショート-ショートと活躍。平成13年(2001年)に「推理作家の出来るまで」で日本推理作家協会賞賞。

 この『推理作家の出来るまで』は『ミステリマガジン』に連載したものですが、ここではフリースタイル刊(上巻、2000年)から取っています。新宿区山吹町の羽衣館という映画館の思い出を描いたものです。

羽衣館の優勝旗

 江戸川橋の交叉点から、矢来へのぼるだらだら坂の八合目あたりに、玉沢という運動具店が、昭和五十年の現在もある。私の子どものころには、居まわりにビルディングがなかったから、四階建だか、五階建だかのこの玉沢運動具店は、ひときわ目立ったものだった。
 その玉沢のすじむかいに、ピンク映画をやっている小屋が、いまでもあるはずだけれど、たしか牛込文化とかいったその映画館は、敗戦後まもなく、松竹系封切館として出来たもので、私たちは羽衣館の復活とうけとっていた。昭和20年5月25日の空襲で焼けるまで、そのあたりに羽衣館という、わりあい有名な松竹系の封切映画館があったのである。
 わりあい有名な、といういいかたをしたのは、映画興行界では知られた小屋だったらしい、ということで、この羽衣館のもぎりの横あたりには、いつも数本の旗が飾ってあった。昭和十年代にかかるころ、松竹では市内の直営館に、一種の売りあげ競争をさせていたらしく、たぶん月間の入場者数で判定したのだろう。一位になった小屋には、旗を贈って表彰したという。そのいわば優勝旗が、羽衣館には何本も飾ってあって、それほど入りのよかった小屋なのだ。
 小学生になるかならないかのころに聞いた話だから、むろん正確とはいえない。東京市内で一位ではなく、市内をいくっかのブロックにおけたなかでの、一位だったのかも知れないが、とにかく有名な映画館だと聞かされていた。この羽衣館が、私の記憶のなかでは、作品とそれを見た小屋とが、はっきり結びついている最初の映画館なのである。
 前に書いたように、片岡千恵蔵の「刺青奇偶」と「気まぐれ冠者」は、早稲田の富士館神楽坂日活と、どちらの小屋で見たのか、判然としない。昭和9年3月封切の「丹下左膳剣戟篇」、伊藤大輔大河内伝次郎のコンビによるトーキー二本目の左膳は、鼓の与吉を山本礼三郎がやっていたことと、左膳が馬で日光街道を走っていくラストシーンを、はっきりおぼえていて、これは神楽坂日活で見たような気が、かすかにするのだけれど、確信は持てないでいる。
 そこへいくと、松竹映画のほうは、近所に羽衣館しかなかったから、はっきりしているわけだ。ここで見た松竹映画の記憶は、私が数え年七つだった昭和十年から始っていて、小学校へあがる一年前だから、かなり鮮明になってきている。高田浩吉がはじめて主題歌をうたった「大江戸出世小唄」、小笠原章二郎の落語シリーズの「らくだの馬」、衣笠貞之助の「雪之丞変化」三部作。やはり時代物のほうを記憶していて、併映の現代物はおぼえていない。キネマ旬報の「日本映画作品大鑑」で、題名と出演俳優を見ても、なにひとつ思い出せないものがある。

八合目 地理院地図電子国土webを使い、1合目を江戸川橋交差点(標高5.6m)、10合目は神楽坂通りの赤城神社に行く場所(標高24.9m)と考えると、玉沢運動具の標高は6.6m。2合目にも足りない場所です。10合目を牛込天神町交差点の入口(標高13m)としても、やはり2合目以下。合目の数はいい加減でもいいのですが、それでもおかしい。
運動具店 下の地図を参照。

昭和40年の山吹町交差点

昭和40年の山吹町交差点。右の赤色は牛込文化劇場、左の赤色は玉沢運動具

居回り 自分がいる所の周囲。辺り。近辺
すじむかい 筋向。少し隔たった斜め向こう。
ピンク映画 きわどい性描写を売り物にする成人向き中編劇映画。
牛込文化 上の地図を参照。
松竹系 松竹株式会社が製作か配給した映画を上映する映画館。
封切館 新作映画を初めて上映する映画館。
羽衣館 牛込区山吹町293にあった映画館
もぎり 「もぎる」とは「ちぎって取る」こと。名詞化して、劇場・映画館などの入口で、入場券の半片をもぎり取ること。
入り いり。収入。あがり。みいり
片岡千恵蔵 映画俳優。歌舞伎から映画に転じ、時代劇を中心に長く第一線のスターとして活躍。生年1903年。没年1983年
富士館 日活系の映画館。「戸塚町誌」(昭和6年、戸塚町誌刊行会、非売品)によれば市電(現、都電)早稲田終点にあったといいます。
神楽坂日活 現在のスーパー「よしや」の場所にあった神楽坂6丁目の映画館。
伊藤大輔  映画監督。愛媛県生まれ。戦前戦後を通じての時代劇の巨匠。
大河内伝次郎 映画俳優。新国劇の俳優から1926年日活に入社。時代劇スターとして活躍。生年1898年。没年1962年、
山本礼三郎 映画俳優。マキノプロを経て、昭和5年日活に入社。侍ニッポン、人生劇場、酔いどれ天使に出演。生年1902年。没年1964年。
高田浩吉 昭和10年主演の「大江戸出世小唄」で主題歌をうたい歌う映画スターに。戦後「伝七捕物帖」シリーズで人気復活。生年1911年。没年1998年。
小笠原章二郎 俳優。映画監督。喜劇的時代劇が得意。生年1902年。没年1974年。
衣笠貞之助  映画監督。「雪之丞変化」「地獄門」など時代劇を中心に戦後まで活躍。生年1896年。没年1982年。
併映 主な作品と併せて映画を上映すること
キネマ旬報 キネマ旬報社が発行する映画雑誌。1919年7月創刊。毎月5日・20日刊行。