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「ゴンドラの唄」と芸術座|神楽坂

文学と神楽坂

「ゴンドラの(うた)」は、1915年(大正4年)芸術座第5回帝劇公演に発表した流行(はやり)(うた)です。吉井勇作詞。中山晋平作曲。ロシアの文豪ツルゲーネフの小説を劇にした『その前夜』の劇中歌です。大正4年に35回も松井須磨子が歌いました。

『万朝報』ではこの劇は「ひどく緊張した場面は少いが、併し全体を通じて、甘い柔かな恋の歌を聞いてゐるやうな、美しい夢を見てゐるやうな心持の好い感じはした」と書きます。

『ゴンドラの唄』の楽譜は翌16年(大正5年)セノオ音楽出版社から出ました。表紙は竹久夢二氏です。ゴンドラの唄。セノオ新小唄。大正5年(1916)

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(あか)(くちびる)()せぬ()に、
(あつ)血液(ちしほ)()えぬ()に、
明日(あす)月日(つきひ)のないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)、
いざ()()りて()(ふね)に、
いざ()ゆる()(きみ)()に、
ここには(たれ)れも()ぬものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(なみ)にたゞよひ(なみ)()に、
(きみ)柔手(やはて)()(かた)に、
ここには人目(ひとめ)ないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)黒髪(くろかみ)(いろ)()せぬ()に、
(こころ)のほのほ()えぬ()に、
今日(けふ)はふたゝび()ぬものを。

 1952年、黒澤明監督の映画『生きる』で、主人公役の志村喬がブランコをこいでこの『ゴンドラの唄』を歌う場所があります。実はこれが有名なのはこのシーンのせいなのです。
 実際にはシナリオの最後で主人公が歌う歌は決まっていませんでした。脚本家の橋本忍氏の言ではこうなります。なお小國氏も脚本家です。これは橋本忍氏の『複眼の映像』(文藝春秋社、2006年)に書かれていました。

私と黒澤さんは、警官の台詞からカットバックで、夜の小公園に繋ぎ、ブランコに揺れながら歌う、渡辺勘治を書いていた。
    命短し、恋せよ乙女……
 だが私は、黒澤さんの1人言に似た呟きを、そのまま書いたのだから後の歌詞は全く見当もつかない。
「橋本よ、この歌の続きはなんだっけな?」
「知りませんよ、そんな。僕の生まれる前のラブソングでしよう」
 黒澤さんは英語の本を読んでいる小國さんに訊いた。
「小國よ。命短し、恋せよ乙女の後はなんだったっけ?」
「ええっと、なんだっけな、ええっと……ええっと、出そうで出ないよ」
 私は直ぐに帳場に電話をし、この旅館の女中さんで一番年とった人に来てほしい、一番年とっている人だと念を押した。
 暫くすると「御免ください」と声をかけ襖が開き、女中さんが1人入ってきた。小柄で年配の人だがそれほど老けた感じではない。
「私が一番年上ですけど、どんなご用件でごさいましょうか?」
 私は短兵急に訊いた。
「あんた、命短しって唄、知ってる?」
「あ、ゴンドラの唄ですね」
「ゴンドラってのか? その唄の文句だけど。あんた、覚えている」
「さぁ、どうでしょう。一番だけなら歌ってみれば……
「じゃ、ちょっと歌ってよ」
 女中さんは座敷の入口の畳に正座した。握り固めた拳を膝へ置き、少し息を整える。黒澤さんと小國さんが体を乗り出した。私も固唾を飲んで息をつめる。女中さんに低く控え目に歌い出した。声が細く透き通り、何かしみじみとした情感だった。
   命短し、恋せよ乙女
   赤い唇 あせぬまに
   熱き血潮の 冷えぬまに
   明日の月日は ないものを……
 その日は仕事を三時に打ち切り、早じまいにした。

 この作曲家の中山晋平氏は映画館で『生きる』を見ましたが、翌日、腹痛で倒れ、1952年12月30日、65歳、熱海国立病院で死亡しています。死因は膵臓炎でした。
 さて「命短し、恋せよ乙女」というフレーズは以来あらゆるところにでてきます。相沢直樹氏は『甦る「ゴンドラの唄」』の本で、こんな場面を挙げています。

  • 売れっ子アナウンサーだった逸見政孝氏は自分でこの唄を歌ったと娘の逸見愛氏が『ゴンドラの詩』で書き、
  • 『はだしのゲン』で作者の中沢啓治氏の母はこの唄を愛唱し、
  • 森繁久彌氏は紅白歌合戦でこの唄を歌い、
  • 『美少女戦士セーラームーンR』では「花のいのちは短いけれど いのち短し恋せよ乙女」と書き、
  • NHKは2002年に『恋セヨ乙女』という連続ドラマを作り、
  • コーラス、独唱、合唱でも出ました。

 まだまだたくさんありますが、ここいらは『甦る「ゴンドラの唄」』を読んでください。この本、1曲の唄がどうやって芝居、演劇、音楽、さらに社会全体を変えるのかを教えてくれます。ただし高くて3,360円もしますが。『甦る「ゴンドラの唄」』は図書館で借りることもできます。

芸術倶楽部と小林アパート|神楽坂

この芸術倶楽部の主が死亡すると、新たに「高等下宿」として生まれ変わります。つまりアパートです。『まちの手帖』第6巻で大月敏雄氏が「牛込芸術倶楽部と同潤会江戸川アパート」のなかでこう書いています。

高等下宿に関する唯一と言っていいくらいの文献が、住宅改良会発行の月刊誌『住宅』の大正八年十月号「共同住宅特集号」である。この特集号の中で関口秀行という人が書いた「東京の共同住宅」という記事が、当時の高等下宿の有様を丁寧に伝えてくれる。

さらに、その「東京の共同住宅」の記事を引用して

大久保新宿線の肴町の停留所から約二町で横寺町になる。通りの右側に少し引つ込んだ三階建ての洋館が芸術倶楽部である。この倶楽部の名を知らない人は少ないであろう。新劇界に大革命を起こしたかの芸術座の事務所であり研究所であったのである。同座開放後、松井須磨子の実兄小林放蔵氏が引き受けて、内部を改造して現今の如き共同小住宅としたのである。此処が共同小住宅として提供されたのは大正八年三月で、まだ日が浅い。併しながら改造中から申し込みが多く、工事修了と同時に満員の有様であった。今も続々と申込者が引きも切らぬ有様であるが、空室がないという始末。

なんとこの小林アパート、申し込みは多く、空室もなかったようです。

しかし、昭和に入ると、変わります。昭和26(1951)年6月、日本読書新聞社から野田宇太郎著『新東京文学散歩』として刊行されたものでは

その飯塚酒場の左の露路を入った正面に、この附近で誰知らぬものもない、大きな軒の傾いた、中を覗くと如何にも無気味にほの暗くて荒れすさんだ小林アパートというのがあった。この小林アパートには如何に貧書生の私も一寸住む気持にはならなかったが、極端に貧乏な若い画家たちがそこの住人で、その連中は隣の飯塚で安いにごりをひっかけ、秋の日でも尚一枚の湯上りだけしか持たず、竹皮の草履をはき、ぶらぶらと神楽坂を散歩する人種あった。そういう、本当に無一物の、ただ未来に大芸術家の夢ばかりを描いて生きている青年たちが住むにもって来いの家らしかった。
「松井須磨子の幽霊がいますよ」
と誰かが私に教えてくれた。松井須磨子といえば、少年の頃からカチューシャの唄以来その名はよく知っていた。尚よく聞いてみると、その家が芸術座の本拠、芸術倶楽部のあとで、主宰者の島村抱月をしたって自殺した須磨子を幽霊にして、例の貧乏画家たちが、天井に悪戯をしたのであった。

なんとこの小林アパート、まるでお化けアパートに変わったようです。しかし、第2次大戦ではここも焼け野原になります。なにも残っていません。『新東京文学散歩』では

「そう云えば、何処も焼けてしまったけれど、昔の芸術倶楽部の、小林アパート、あれはどの辺でしたかな」
「芸術倶楽部の跡はそこです」
と青年の指さし教える所は、私の想定通りこの飯塚酒場の横の、焼けあとのかなりな広場の奥の部分であった。(中略)
 私は荒涼とした芸術倶楽部あとに転がる昔の建物の台石と思われる石の上に立ったり、ぐるぐると瓦礫の散乱する敷地の跡をわけもなく巡ったりした。在りし日の抱月と、名花須磨子の幻を私は追っているのかも知れなかった。
  カチューシャ可愛や別れのつらさ
  せめて淡雪とけぬまに
  神に誓いをララかけましょか
 そんな歌が、私の母の口から漏れ、いつのまにか、私の口に移っていた、あのなつかしい少年時代のことを私は思い出していた。

戦後すぐには、この小林アパートはなくなり、瓦礫だけになっています。さらに時間が経ち、野口冨士男氏の「私のなかの東京」(初出は昭和53年、1978年)では

最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や神社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やもなく飯塚酒店に入って30代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらびっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。

芸術倶楽部|神楽坂

文学と神楽坂

 芸術倶楽部の建物は大正4年(1915年)8月に完成し、大正7年まで、横寺町9番地で開いていました。佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』では

『復活』の地方巡業によって資金の調達が可能になり、芸術倶楽部の建設を抱月は具体化し始めた。もっともこの計画は前年の大正三年三月二十二日、抱月、中村吉蔵、相馬御風、原田某、尾後家省一、石橋湛山らが夜十一時迄相談し具体案を立てたものである。(石橋湛山の日記に拠る。)これは『復活』公演前のことであり、抱月は政界、財界に強く働きかけていたのであろう。それから一年後、芸術倶楽部の建設が実行に移されることになった。場所は牛込横寺町九番地に決り、二階建の白い洋館。一階には間口七間に奥行四間の舞台を設け、一階と二階の観客席の総数は三〇〇。総工費七千円。建築費の大口寄附者(五百円)に田川大吉郎、足立欽一、田中問四郎左衛門の名があり、残りは巡業からの収入を充てる。抱月はこの芸術倶楽部で俳優の再教育(養成主任は田中介二)を行い、将来、俳優学校を、さらに演劇大学のようなものに発展させたいという遠大な夢を抱いていた。そのために抱月は演劇研究に尽力し、若き俳優を外国に留学させて演技力を身につけさせる必要があると思い、さしずめ、須磨子をヨーロッパに留学させることを抱月は秘かにかつ、真剣に考えていたのである。
 巡業中に着工した芸術倶楽部は大正四年八月に完成した。この倶楽部の二階の奥の間には抱月と須磨子が移り住み、芸術座の運命を共にすることになった。

 芸術倶楽部の見取り図は、左は籠谷典子氏の『東京10000歩ウォーキング』の図です。右は抱月須磨子の2人がなくなり、大正8年(1919年)に改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図です。

芸術倶楽部の2プラン

また松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(1966年)では牛込芸術倶楽部

 次は新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』にある図です。

芸術倶楽部の場所

 また新宿区横寺町校友会の今昔史編集委員会の『よこてらまち』に書いてある図ではこうなっています。

芸術倶楽部2

 昭和12年の「火災保険特殊地図」では

横寺町上

 最初の芸術倶楽部の見取り図と最後の小林アパートでは相当違っています。やはり2階から3階に建て替えると中身の変更も相当あったのではないでしょうか。現存する芸術倶楽部の入口とも相当違っているようです。現在ではこの図がいいのではないでしょうか?

 野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、1954年)では「芸術倶楽部の跡」の写真が載っています。

芸術倶楽部の跡


芸術倶楽部

魚浅 一水寮 矢来町 朝日坂の名前 朝日坂 Caffè Triestino 新内横丁

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神楽坂|サークルK 昔は牛込會館

文学と神楽坂

サークルK

1階は「サークルK」、2階は「ロイヤルホスト」、それ以上はマンションです。

この範囲は江戸時代では土塁で囲まれた本多屋敷がありました。その後「温泉山」という銭湯になり、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の少し前には貸し座敷「牛込會館」に変わります。

同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。

その後、牛込会館は白木屋デパートが営業しましたがほとんど客が入らず廃業になりました。

最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館

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