青葡萄④|尾崎紅葉

一散(いつさん)寺町通(てらまちどほり)()て、馴染(なじみ)西洋食料店(せいやうしよくれうてん)()つた。
店口(みせぐち)突立(つゝた)つて、
葡萄酒(ぶだうしゆ)()るか。」  と(きは)めて大束(おほたば) に、(きは)めて慳貧(けんどん)に、(われ)ながら山の手のお客(、、、、、、)であつた。愛嬌者(あいけうもの)亭主(ぢき)(わらひ)(ふく)むで、
今日(けふ)葡萄酒(ぶだうしゆ)? お(めづら)しいぢやございませんか。」
毎々(まい/\)這麼(こんな)(こと)()られて(たま)るものかと(おも)つた。
「まだお(やす)いのもございますが、旦那(だんな)召上(めしあが)りますのなら。」
(みづか)精撰(せいせん)(しよう)する一瓶(いちびん)差出(さしだ)して、
旦那(だんな)多度(たんと)召上(めしあが)らないから(こま)ります。奥様(おくさま)御一所(ごいつしよ)召上(めしあが)つて、一週間(しうかん)に一(ぼん)ぐらゐは御空(おあ)(くだ)さいまし。」
(かれ)抵掌(ししやう)して(わら)つた。
自分(じぶん)(こゝ)()ては()仇口(あだくち)()く、(かれ)調子(てうし)(あは)せて、(しば/\)這麼(こんな)(こと)()ふ。それを(けつ)して無礼(ぶれい)とは(おも)はぬのであるが、今夜(こんや)ばかりは(ちと)ばかり愚弄(ぐろう)されたと(おも)つた。
洒落(しやれ)()ふのも、()はれるのも、自分(じぶん)(だい)所好(すき)である。けれども(いま)(その)余裕(よゆう)()かつたから、脇も附けず(、、、、、)にその(びん)引摑(ひつつか)むで、
「ぢや(これ)()つて()く。」
     (三)
これから(かへ)途上(みち/\)(かんが)へたのである。(かれ)のは虎列拉(コレラ)などゝ可忌(いまは)しい()()(もの)ではない、類似(るゐじ)でも、疑似(ぎじ)でもない。畢竟(つまり)腸胃(ちやうゐ)加答児(カタル)(やゝ)(はげし)いのである。一命(いちめい)(かゝ)るやうなことは万々(ばん/”\)()い、(しか)し、あのまゝ飲食(いんしよく)()えて、明日(あした)にもなり、時候(じこう)でも(わる)かつたらば、(あるひ)変症(へんしやう)せぬとも(かぎ)らぬ。(よし)変症(へんしやう)せぬまでも、衰弱(すゐじやく)()てゝ………(あゝ)それも(はか)れぬ。一髪(いつぱつ)()今夜(こんや)(うち)! (この)葡萄酒(ぶだうしゆ)如何(どう)(をさ)めて、(すこ)しでも持直(もちなほ)させたい。(この)葡萄酒(ぶだうしゆ)で、と(びん)取直(とりなほ)して両手(りやうて)()つと、(あらた)(ささ)へた手頭(てさき)(かん)じた硝子(がらす)(つめ)たさ! それが(ほとん)秋葉(しうえふ)(みやく)()(とき)のやうに(おぼ)えた。何故(なにゆゑ)とも()らず、自分(じぶん)慌忙(あわたゞ)しく(びん)()(ところ)()れて()た。(みやく)()くて、いとゞ(つめた)かつた!! それに(おどろ)いて駈出(かけだ)した。

一散。いっさん。逸散。わき目もふらず一生懸命に走ること。
寺町通。横寺町と通町町の両方。
店口。みせぐち。店の間口(まぐち)
大束。おおたば。細かいことにこだわらないさま。おおまか。おおざっぱ。
慳貧。物欲が深くて、物惜しみをする。
愛嬌者。あいきょうもの。滑稽さ・かわいらしさがあって、皆に好かれている人や動物。
精撰。特によいものだけをえらび出すこと。えりぬき。よりぬき。
抵掌。手をたたく。
仇口。あだぐち。あだくち。徒口。むだばなし。余計な言葉。
愚弄。ぐろう。人をばかにしてからかう。
脇も附けず。脇付(わきづけ)は「手紙で、あて名の左下に書き添え、敬意を表す語」。「(敬語などは)なにもなく」でしょうか。
コレラ。コレラ菌の経口感染による急性消化器感染症。日本には文政五年(1822年)初めて侵入。死亡率が高いためコロリともいった。
カタル。ドイツ語はKatarrh。英語はCatarrh。粘膜細胞に炎症が起きて、多量の粘液を分泌する状態。
万々。ばんばん。どうしても。まんいち。けっして。万に一つも。
変症。へんしょう。病気の状態が変わること。
よしや。縦や。たとえ。かりに。
計る。時間や程度を調べる。心の中で推定する。
一髪。ごくわずかのすき間。
いとど。いよいよ。一層。ますます。 ただでさえ~なのにさらに。そうでなくてさえ。

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