青葡萄⑤|尾崎紅葉

文学と神楽坂

西木(にしき)(おれ)葡萄酒(ぶだうしゆ)()つて()た。わざ/\()つて()たのだから、()まなくちや()かんよ。」
(あと)では()記臆(きおく)せぬが、「(おれ)深切(しんせつ)()になるから。」と()つたやうに(おぼ)える。(おも)へば、(まこと)因無(よしな)ことを()つた。(かれ)(ため)にと(おも)ひに(おも)つた葡萄酒(ぶだうしゆ)も、(これ)では(かれ)()つて(まさ)しく感情上(かんじやうじやう)大毒薬(だいどくやく)であつた。自分(じぶん)(あさ)ましくも我囗(わがくち)から(おん)()つたのである。
然無(さな)きだに(かれ)我家(わがいへ)厄介(やくかい)になる(うへ)に、()(やまひ)()て、迷惑(めいわく)をば()けるのを、無上(むじやう)気毒(きのどく)(おも)つてか、四五日前(にちまへ)から、()ろ/\と人々(ひと/”\)(すゝ)めたのに、()ほど不快(わるい)ことは()いと言張(いひは)つて、(やまひ)()してゐたのである。人目(ひとめ)(しの)むでは玄関(げんくわん)()してゐたのを、(いつも)午睡(ひるね)とばかり(おも)つてゐたが、其実(そのじつ)太義(たいぎ)であつたのであらう。けれども(やまひ)気色(けしき)(あら)はれなかつた。今日(けふ)午後(ひるすぎ)ばかりは、(つひ)()へかねて此間(このま)(たふ)れたのであるが、(かれ)(こゝろ)(うち)では、(これ)非常(ひじやう)気毒(きのどく)(おも)つてゐるのである。それさへあるに、自分(じぶん)一瓶(いちびん)葡萄酒(ぶだうしゆ)(おん)()つて、(われ)我口(わがくち)から深切(しんせつ)(てら)つた
自分(じぶん)平生(へいぜい)門生(もんせい)(むか)つては、(いさゝか)仮借(かしやく)()く、(その)()ふことは(きは)めて無愛相(ぶあいさう)で、(みづか)()ることは(もつと)高飛車(たかびしや)である。弟子(でし)()(おな)じものを、(げん)()ぐる(をし)ふるの(みち)でない、それは自分(じぶん)心得(こゝろえ)てゐる。心得(こゝろえ)てゐながら(かう)()るには(わけ)()くては(かな)はぬ。(わけ)()る、(おほ)いに()るのである。
     (四)
(およ)天下(てんか)小癪(こじやく)(さは)るものは、近来(ちかごろ)後進(かうしん)とか(とな)へる修行中(しゆぎやうちう)小説家(せうせつか)である。渠等(かれら)(れい)心得(こゝろえ)ぬことは、山猿(やまざる)よりも(はなはだ)しい。一面識(いちめんしき)()いのに卒然(ぬう)()(つう)て、懐中(ふところ)から(なに)()いたものを()して、御覧(ごらん)(ねが)ひたい、と()つて其日(そのひ)(かへ)る。(あと)から(ぢき)手紙(てがみ)寄来(よこ)して、(はや)添削(てんさく)(ねが)ひたい、添削(てんさく)出来(でき)たら、何処(どこ)へでも御世話(おせわ)(ねが)ひたい! (おどろ)かざるを()ぬ、(あき)れざるを()ぬ。
(また)一面識(いちめんしき)()いに、原稿(げんかう)(じやう)()へて、「方今(はうこん)文壇(ぶんだん)其人(そのひと)(おほ)しと(いへど)も、不肖(ふせう)(あふ)ぎて()(たの)べきもの、先生(せんせい)()いて、其誰(それたれ)()らむ。」と(まづ)(うれ)しがらせて、これほどに(おも)ふものを、添削(てんさく)して(くだ)すつたとて、万更(まんざら)(ばち)(あた)りますまい、と()つたやうな口説(くどき)()いた(すゑ)が、可成(なるべ)(はや)()()れて返送(へんさう)(ねが)ふとしてある。それで(なか)二銭(にせん)郵便切手(いうびんきつて)一枚(いちまい)()れてない。いやもう、(じつ)大詩人(だいしじん)ほど(すご)いものはない。
此等(これら)」は()()い。二度(にど)でも三度(さんど)でも斧正(ふせい)(かたじけ)なうして、(どう)(かう)世間(せけん)紹介(せうかい)までしてもらつて、覚束無(おぼつかな)独歩(ひとりあるき)出来(でき)るやうになると、さあその()無沙汰(ぶさた)! 近火(きんくわ)があらうが、それから十日(とをか)()たうが(かほ)()すでもない。(きびし)いのは、年始状(ねんしじやう)をさへ寄来(よこ)さぬのがある。(かれ)(みづから)()(ごと)詩人(しじん)であるなら、一時(ひとしきり)一日(いちにち)三度(さんど)(くゞ)つた十千万堂(とちまんだう)格子(かうし)此雨(このあめ)には如何(いか)()つらむ此月(このつき)には(かど)梅香(うめがか)如何(いか)(にほ)はむぐらゐは、(おもひ)(うか)べさうなものであるに。
(しか)(これ)()()い。現在(げんざい)立派(りつぱ)門下生(もんかせい)(しよう)して、草稿(さうかう)(もつ)()れば、(いか)御世話(おせわ)にもなつてゐながら、(かげ)(まは)ると、先生(せんせい)同輩(どうはい)(あつか)つて、其名(そのな)呼捨(よびすて)にしたり、「あれ」がなどヽ()代名詞(だいめいし)(もち)ゐたりして、其人物(そのじんぶつ)(へん)し、其文章(そのぶんしやう)(のゝし)るのがある。
これは自分(じぶん)(もん)往来(わうらい)する後進(かうしん)()のみではない、何方(いづかた)(さう)のやうである。(かんが)へて()れば、後進(かうしん)野面(のづら)で、薄情(はくじやう)で、不埒(ふらち)(かぎ)つたのでもなくて、(つま)(ところ)先生(せんせい)(とく)(うす)いからかも()れぬ。

大詩人 野山嘉正氏の「近代小説の成立」(岩波書店、1997年)では「“大詩人”はもちろん軽侮の裏返し、ただし、ここには詩人ということばそのものへの何がしかの抵抗が含意されている。詩人ということばが漢詩人を指すばかりでなく、文明開化以後の新体詩人をも範囲に入れており、とりわけ大詩人よ出でよ、というかけ声が当代の批評家が共通して持ち合せていたものだったから、むしろ文学者気どりという意味合いにとる方がよい。」と書いています。

因無い。よしない。由無い。そうするいわれがない。理由がない。
恩を売る。相手からの感謝や見返りなどを期待して恩を施す。
然無きだに。さなきだに。それでなくてさえ。
恁く。そんな。
無上に。この上もなく。最もすぐれている。
気の毒。きのどく。相手の苦痛や困難なさまに同情して心を痛める。相手に迷惑をかけてすまなく思う。心を痛める。迷惑する。恥ずかしい。きまりの悪いこと。ここでは「相手に迷惑をかけてすまなく思うこと」でしょう。
推す。判断する。推し量る。
太義。おそらく「大儀」。疲れて気が進まないこと。
気色。顔などに現れた、心の内面の様子。快、不快の気持ち
衒う。てらう。ことさらに才能や知識をひけらかす。
仮借。かしゃく。許す。見逃す。
高飛車。たかびしゃ。相手に対して高圧的な態度をとること。
過ぐる。「過ぐる」は通り過ぎる。「選る」は、すぐれたものを選び出す。
後進。学問・技芸などで先人のたどった道をあとから進む人。後輩
卒然。そつぜん。だしぬけに。にわかに。突然。
剌を通じる。名刺を出して取次ぎを頼む。
方今。ほうこん。まさに今。ただ今。このごろ。現今。
不肖。自分をへりくだっていう語。
恃む。あてにする。
斧正。ふせい。他人の書いたものに遠慮なく筆を加えて正すこと。
辱める。はずかしめる。恥ずかしい思いをさせる。恥をかかせる。
覚束無い。おぼつかない。心もとない。頼りない。
無沙汰。ぶさた。久しくたよりや訪問をしないこと。しかるべき挨拶あいさつのないこと。ことわりなしに物事を行うこと。
格子。細長い部材を碁盤目に組み合わせたもの。戸・窓等に使用する。
朽ちる。腐ってぼろぼろになる。 名声などがうしなわれる。
つらむ。…てしまっているだろう。
巨い。いかい。意味は「大きな」。しかし「いかい」はどう書くのでしょうか。
野面。のづら。恥を知らない、あつかましい顔。鉄面皮。
不埒。ふらち。道理にはずれていて、けしからぬこと。ふとどき。

スポンサーリンク

コメントを残す