大東京繁昌記|早稲田神楽坂07|通寺町の発展

文学と神楽坂

 1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に乗った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』の一部、「通寺町の発展」です。

通寺町の発展

通寺町の発展

 普通神楽坂といえば、この肴町の角から牛込見附に至る坂下までの間をさすのであるが、今ではそれを神楽坂本通りとでもいうことにして、通寺町の全部をもずっと一帯にその区域に加えねばならなくなった。その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通りで、低い長家建の家の(ひさし)が両側から相接するように突き出ていて、雨の日など傘をさして二人並んで歩くにも困難な程だったのを、私は今でも徴かに記憶している。今活動写真館になっている文明館が同じ名前の勧工場だったが、何でもその辺から火事が起ってあの辺一帯が焼け、それから今のように町並がひろげられたのであった。

肴町 現在の神楽坂五丁目です。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といい、この名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。ここでは市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所を示すと考えます。
通寺町 現在の神楽坂六丁目です。
勧工場 現在「スーパーよしや」が建っています。

 その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青の色ガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑抑私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかゝるかと内心非常にびくくしながら箸を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭出してお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

安田銀行聖天様いろは 下図の「火災保険特殊地図」(昭和12年)を見てみましょう。最初に、上下の大きな道路は神楽坂通り、下の水平の道路は大久保通り、2つの道路が交わる交差点は神楽坂上交差点です。
「安田銀行」は左にあります。その右には「聖天様」、つまり安養寺があり、そして昔の「いろは」(牛肉料理店)、当時の清進寮があります。
神楽坂上2
現在の写真では「安田銀行」は「セイジョー」に、安養寺は同じく安養寺で、「いろは」はなくなって駐車場になりました。
神楽坂上1現在

 それから少し行ったところの寄席の牛込亭は、近頃殆ど足を運んだことがないが、一時はよく行ったものだった。つい七、八年か十年位前までは、牛込で寄席といえばそこが一等ということになっていた。落語でも何でも一流所がかゝっていつも廊下へ溢み出すほどに繁盛し、活動などの盛にならない前は牛込に住む人達の唯一の慰楽場という観があった。私が小さん円右の落語を初めて聞いたのもそこであった。綾之助小土佐などの義太夫加賀太夫紫朝新内にはじめて聞きほれたのも、矢張りその牛込亭だったと思う。ところがどういうわけでか、数年前から最早そういう一流所の落語や色物がかゝらなくなって、八幡劇だの安来節だのいうようなものばかりかゝるようになった。それも一つの特色として結構なことであるし、それはそれとして又その向々の人によって、定めて大入繁昌をしていることゝ思うが、私としては往時をしのぶにつけて何となくさびしい思いをせざるを得ないのである。場所もよし、あの三尺か四尺に足らない細い路地を入って行くところなど、如何にも古風な寄席らしい感じがしたし、小さんや円右などの単独かんぱんの行燈が、屋根高く掲げられているのもよく人目を引いて、私達の寄席熱をそゝったものだった。今もその外観は以前と少しも変らないが、附近の繁華に引換え、思いなしかあまり眼に立だなくなった。今では神楽坂演芸場の方が唯一の落語の定席となったらしい。

牛込亭 先の地図では「寄席」と書いていました。現在の地図は上のように、牛込亭は消え、ど真ん中を新しい道路が通りました。なお、この道路の名前は特に付いていません
小さん 1895年3月、3代目襲名。1928年(昭和3年)4月、引退。
円右 1882年に圓右、1883年真打昇進。1924年10月、2代目圓朝に。一般的に「初代圓右」として認識。
綾之助 女性。本名は石山薗。母から義太夫の芸を仕込まれ、1885年頃、浅草の寄席で男装し丁髷姿で出演。竹本綾瀬太夫に入門し竹本綾之助を名乗る。1886年頃に両国の寄席で真打昇進。端麗な容姿と美声で学生等に人気を呼び、写真(プロマイド)が大いに売れたといいます。
小土佐 女性。竹本(たけもと)小土佐(ことさ)。女義太夫の太夫。明治の娘義太夫全盛期から昭和末まで芸歴は長大。
義太夫 義太夫節、略して義太夫は江戸時代前期から始まる浄瑠璃の一種。国の重要無形文化財。
加賀太夫 男性。富士(ふじ)(まつ)加賀(かが)太夫(たゆう)は、新内節の太夫の名跡。7代目は美声の持ち主で俗に「七代目節」と言われる。明治末から大正時代の名人。現在に通じる新内の基礎はこの人物がいたため。
紫朝 富士松ふじまつ紫朝しちょう。男性。明治大正の浄瑠璃太夫。
新内 新内(しんない)(ぶし)は、鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けたといいます。
色物 寄席において落語と講談以外の芸。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。
八幡劇 大衆演劇の劇団でしょうか。よくわかりません。
安来節 やすぎぶし。島根県安来地方の民謡。

 そんな懐旧談をしていたら限りがないが、兎に角寺町の通りの最近の発展は非常なものである。元々地勢上そういう運命にあり、矢来方面早稲田方面から神楽坂へ出る幹線道路として年々繁華を増しつゝあったわけであるが、震災以後殊に目立ってよくなった。あの大震災の直後は、さらでだに山の手第一の盛り場として知られた神楽坂が安全に残ったので、あらゆる方面の人が殺到的に押し寄せて来て、商業的にも享楽的にも、神楽坂はさながら東京の一大中心地となったかの如き観があった。そして夜も昼も、坂下からずっとこの寺町の通り全体に大道露店が一ぱいになったものだったが、それから以後次第にそれなりに、私のいわゆる神楽坂プロパーと等しなみの殷賑を見るに至り、なお次第に矢来方面に向って急激な発展をなしつゝある有様である。

兎に角 他の事柄は別問題として。何はともあれ。いずれにしても。ともかく。
さらでだに 然らでだに。そうでなくてさえ。ただでさえ。
殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください