文豪の素顔|森鴎外(9)

文学と神楽坂

 もうひとつかきそえておきたいのは例のパンの会のことである。パン
の会は僕らの青春の旗みたいなものである。野田宇太郎君の好著「パン
の会」の記述は、まことにきれいごとでけつかうだが、やはりあらゆる
芸術運動がさうであつたやうに内部的には感情の疎隔や嫉妬反ぜいがあ
つた。木下杢太郎君や石井柏亭君のやうなユニークな存在がなかつたら
あんなけんらんとした足跡を大正芸術史に残したかどうか疑がはしい。
 今思ひ出してもパンの会の帰りが凄まじかつた。みんな泥酔して深夜
の街頭を放浪して歩く。女郎屋へでもいかなけりや興奮の捨て場所がな
い。吉井勇君はその晩洲崎の遊廓へいきたがつて、味噌ッかすのぼくに
金を出せとおどかす。たつた十三銭しか残つてゐなかつたので正直にそ
つくり出すと吉井君は忽ち例の無頼漢と化していきなりぼくの手をひつ
ぱたいた。
 僕もさうさう卑屈になつてはゐられないのでやにはに彼を路上へ突き
倒して下駄でぶンなぐつた。杢太郎君がとんできてひき分けてくれる。
 いつの間にか別れ別れになつて、僕は北原白秋君と二人ッきりになつ
てしまつた。白秋は腰がぬけちまつてやたらところぶ。ころびながら
「空に真紅な雲の色」を胴間声で歌つては、おい幹彦ッ、おれを家まで
おぶつて帰れッといばりくさる。僕は唯々だくだく路傍にあつた荷車へ
彼をのせて懸命に引つぱつていつた。白秋家は神楽坂下なのでいくら若
い臂力でもそこまで曳いていけるものぢやない。途中でほッたらかして
遁げようとすると白秋はおいおい泣きだして、幹彦お前はいい奴だ、お
れを捨てるなとかじりついてきて生温い舌でぺロペロなめる。
パンの会 パン(Pan)はギリシャ神話の半獣神。明治末期の耽美派の青年芸術家グループの懇談会。反自然主義を掲げました。山本鼎・石井柏亭ら美術雑誌「方寸」の洋画家と木下杢太郎・北原白秋ら雑誌「スバル」の詩人が交流をはかりました。
野田宇太郎 野田宇太郎詩人・評論家。生年は1909年(明治42年)10月28日。没年は1984年(昭和59年)7月20日。第一詩集『北の部屋』を刊行後、上京して終戦前後期の文芸誌『新風土』『新文化』『文芸』の編集者として活躍。「文学散歩」シリーズで近代文学研究の新分野を開きました。
反ぜい はんぜい。反噬。動物が恩を忘れて、飼い主にかみつくこと。転じて、恩ある人に背きはむかうこと。恩をあだで返すこと
石井柏亭 いしい はくてい。版画家、洋画家、美術評論家。生年は1882年(明治15年)3月28日。没年は1958年(昭和33年)12月29日
けんらん 絢爛。華やかで美しい。詩歌や文章の表現が、豊富な語彙や凝った言い回しなどで美的に飾られていて、華麗な印象を与える様子。
洲崎 すさき。東京都江東区東陽一丁目の旧町名
味噌ッかす みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
空に真紅…

白秋の「邪宗門」のなかにある詩です。玻璃は「はり」と読み、ガラスのことで、ガラス製の器に酒を注いだ事を意味します。またこの詩はパンの会の会歌にもなっています。

 「空に真赤な」

(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
玻璃(はり)真赤(まつか)(さけ)(いろ)。
なんでこの()(かな)しかろ。
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。

   明治四一年五月作
胴間声 どうまごえ。調子はずれの太く濁った下品な声。
唯々だくだく 唯唯諾諾。いいだくだく。 何事にもはいはいと従うさま。他人の言いなりになるさま
神楽坂下 神楽坂1丁目の全てと2丁目の部分。白秋はここに
臂力 ひりょく。うでの力
 僕も胸がいつぱいになつてやつと人力車を一台さがしてそれへ乗せて
帰してやつた。街燈の光で彼の財布をしらべてみると、なんと彼は三円
なにがしか隠しもつていやがるのである。車代を先払ひしてあとは僕が
ねこババきめてやつた。
 僕だつて行きどころがないのだ。そこへあひにく阪本紅蓮洞が幽霊の
やうに横町から現はれてきた。酔ひがさめてみると吉原の女郎屋の二階
で寝てゐた。夜が明けてゐる。その時分吉井君たちと女郎屋へ泊ると紅
蓮洞と版画家の伊上凡骨がいつも勘定の代りに居残りをさせられる。そ
の朝はあの老残の紅蓮洞が可哀想になつて僕自身が始末屋へさがつた。
始末屋といふのは札つきのコロンボがやつてゐる車宿のことである。勘
定不足の客には入墨をしたあんちやんがダニのやうにくッついてくる。
 僕は本郷の質屋へいつて身ぐるみぬいで八円こしらへた。学生のくせ
に親父の洋服屋をだまかしてこしらへさせた自慢の背広を店先でぬいで、
前に入れてあつた袷に着かへ革のバンドをしめてやつと家へ帰つた。 
 その晩雷門前のヨカ楼で飲んでゐると高村光太郎君と市川猿之助君に
逢つた。べろんべろんに酔つてまた吉原である。金が足りないのでワリ
床といふやつである。びとつの部屋を古屏風で仕切つて寝るのである。
夜が明けるまでカンカンガクガクの芸術論をたたかはしてゐるので、女
郎たちが怒つて、女同士で寝てしまつた。やはり今のやうにさかんにパ
リを謳歌する時代だつたが、象徴派や後期印象派の論議ばかりでキンゼ
イ報告のやうなえげつない話はしなかつた、みづみづしかつたわけであ
る。高村君はパリにゐた間この黄色い皮膚と高い頬骨が恥かしくて町が
歩けなかつたなぞといつて、エクゾティシズ厶をかきたてた。
阪本紅蓮洞 Sakamoto_Gurendoさかもと ぐれんどう。慶応出。明治・大正期の文芸評論家、放浪生活者。生年は1866年(慶応2年)9月。没年は1925年(大正14年)12月16日。のらりくらりと放浪生活に身をやつし、酒に酔っては毒舌を弄し、窮乏のうちに死亡しました。明治36年(1903年)に与謝野鉄幹が主催する新詩社に入り、鉄幹より「紅蓮洞」の名をもらいました。歌人の吉井勇を誘い出して飲み歩くようになり、数々の奇行が始まり、文壇の名物男として知れ渡るように。吉井 勇より20歳年上。
伊上凡骨 神田の木版師。中沢、三宅氏等の水彩画を版画にし、ぼかしに長じていました。
始末屋 遊里で遊興費の不足した客を引き受け勘定を取り立てる商売
ゴロンボ ごろつき、ならずもの
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。
ヨカ楼

高村光太郎氏が書いた「ヒウザン会とパンの会」によれば”

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、(よろい)(ばし)(わき)の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである

また、野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」で「よか楼」は

雷門前竝本通りにあつた三階建の塔のやうなレストラン

でした。細かくは東京紅團の「パンの会 -2-」で。http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm

高村光太郎 高村光太郎たかむらこうたろう。詩人・彫刻家。1883年(明治16年)3月13日 – 1956年(昭和31年)4月2日。欧米に留学。ロダンに傾倒。帰国後、「パンの会」に加わり、「スバル」に詩を発表。岸田劉生らとフュウザン会を結成。詩集「道程」「智恵子抄」「典型」、翻訳「ロダンの言葉」、彫刻に「手」など
市川猿之助 いちかわえんのすけ。2世の歌舞伎役者。1888年(明治21年)5月10日 – 1963年(昭和38年)6月12日)。劇団春秋座を結成。多くの新舞踊・新歌舞伎を上演
ワリ床 割床。ワリドコ。何人もの人が屏風などで一室を仕切って寝ること。女郎屋で廻し部屋もふさがつている時、一つの部屋を屏風で仕切つて客を入れること
エクゾティシズ厶 exoticism。現在は「エキゾチシズム」のほうがよさそうです。異国趣味、異国情緒。異国の文物に憧れを抱く心境
 僕は背広をなくしたので早稲田大学の制服をきてゐた。あの変テコな
角帽が制定されたころで、あれを文学科で真先にかぷりだしたのは猿之
助君と長谷川時雨の弟の虎太郎君と僕と三人であつた。

 酒と女では実に難行苦行したものである、谷崎潤一郎君が文化勲章を
もらひ、吉井君が芸術院会員、高村君は高名な彫刻家、みんなずゐぷん
年季を入れて古さびてしまつたもんである。
 今では名前も顔も忘れ果てたあの時分の一夜泊りの安女郎たちがもし
生きてゐたらキラ星のごときお歴々の壮観にさぞかしおッ魂消ることで
あらう。
 それにしてもあの清純そのものであつた杢太郎君の姿が最前列にみえ
ないのは何んとしてもさびしい。生きてゐたら第二の鷗外としてもては
やされたであらうのに。









長谷川時雨 長谷川時雨はせがわしぐれ。劇作家・小説家。1879年(明治12年)10月1日 – 1941年(昭和16年)8月22日。雑誌や新聞を発行して、女性の地位向上の運動を開きました。

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

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