野田宇太郎|文学散歩
 牛込界隈②鏡花新婚の地

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)②は、泉鏡花の話です。

   鏡花新婚の地

 牛込横寺町の恩師尾崎紅葉の門を出た鏡花は、博文館大橋乙羽の家や、小石川大塚町、牛込南榎町などを転々としたあと、明治36年(1903)3月にはかねて相愛の伊藤すずと結婚して神楽坂町一丁目の裏通りにひそかな新居を持ち、まもなくその年十月には紅葉を喪ったが、明治39年2月に健康を(そこな)って逗子に転地するまで、そこに住んでいた。
 神楽坂は表通りから一歩横丁に入ると、今でも料亭や待合などが多い。昔から山の手の花柳街としで知られていた。鏡花夫人のすずはもと神楽坂で藝名を桃太郎という、まだあまり世馴れせぬ藝者であった。明治32年1月のこと、そこのとある料亭で紅葉を盟主とする硯友社の新年会が催されたとき、紅葉に従って席に連なった鏡花は藝名桃太郎のすずと親しむようになった。それには鏡花の亡母の名もまたすずで、その偶然が二人を強く結ぶ原因だったと、いかにも鏡花らしい説も伝えられている。だがまだ若く文学者としての前途も険しい鏡花が、神楽坂の藝者を身受けしてまで結婚することに反対した紅葉は、二人の仲を認めようとしなかった。恩師の眼をおそながらも、鏡花とすずの逢う瀬はひそかにつづけられ、ようやくすずが前借などを返して苦界から足を洗うことになったとき、二人はついに同棲した。それが神楽坂裏通りの家である。

博文館 1887年、大橋佐平が東京本郷で創業した出版社。高山樗牛を主幹とする「太陽」、巌谷小波編集の「少年世界」、硯友社と結んだ「文芸倶楽部」、田山花袋編集の「文章世界」などの雑誌を刊行。「帝国百科全書」全200巻(1898‐1909)は10年の歳月をかけている。大正から昭和初頭にかけて、新たな出版社も台頭し、出版王国もしだいに退潮していった。
大塚町 小石川区大塚町57番地で、右図です。寺木定芳氏の『人・泉鏡花』(昭和18年、武蔵書房)では「小石川大塚町に居を卜されたのは明治廿九年の五月だつた。有名な火藥庫のすぐ側で、未だ血氣盛んだつたのと、懷工合で致方なかつた爲なので、其の後の先生なら火藥庫ときいたゞけで、おぞ毛をふるつて逃げだしたらうが、其の時は平氣だつた」と書いてあります。

人文社「戦前昭和東京散歩」(2004年)から。大塚町57番地は赤丸。

人文社「戦前昭和東京散歩」(2004年)から。大塚町57番地は赤丸。

伊藤すず 明治32年1月、硯友社の新年宴会で、泉鏡花(満25歳)は神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤すず、生年は明治14年9月24日。この年齢は17歳)を初めて知ります。
神楽坂町一丁目 新居は一丁目ではなく、二丁目でした。ここです。
喪う うしなう。大切な人に死なれる。
害う そこなう。がいす。成長をとめる。傷つける。
とある料亭 神楽坂の常盤という料亭です。
惧れ うまくいかないのではないかと,あやぶむこと。もとは「懼れ」の俗字。
逢う瀬 おうせ。会う時。特に、愛し合う男女がひそかに会う機会。
苦界 苦しみの多い世界。人間界。遊女のつらい境遇。公界

 その頃から鏡花に近づいて文学上の門人でもあったという寺木定芳が昭和15年に書いた思い出によると、その家は「坂下の紀の膳寿司の前横町を上から右へ折れて五六間、更に左へたら/\と二三間登って掘井戸のある前で、是は新築の清楚とした明るい二階家だつた」という。それは記憶だけに文字通りに受取るわけにはいかないが、妻を得、恩師紅葉を失い、鏡花の生涯の転機となったその家の、唯一の貴重な記録には違いない。
 わたくしがその文章を頼りに鏡花住居跡をたずね、戦後はじめて神楽坂裏小路を歩いたのは昭和26年である。その頃の12丁目附近はほとんど戦災後の仮普請で、神楽坂では老舗だという紀の膳寿司の跡にはやはり同じ屋号の小さい喫茶店が仮普請で出来ていた。寺木の文章に従ってその前の横丁に入ると、「左へたら/\と二三間登って」と書かれている左側はむしろ低くなっていて、どうやらそれは右の間違いらしかった。しかし、登り口の跡らしいところはあってもその辺りに掘井戸らしいものはもうみとめることが出来なかった。
 それからまた18年後の今日、改めて同じ小路に入ってみると、狭いがまっすぐに走る小路の奥正面には、相変らず昔の物理学校、現在の東京理科大学の校舎の一部が見える。18年前はまだ急場の仮普請がごみごみと立てこんでいたところに、右側には蒲焼が専門らしい小ざっぱりとした和風の料理店が出来ていて、その角から右へ曲る坂道も、狭いながら舗装されている。だが、その附近の人々が鏡花との因縁に関心を抱いているというわけでもない。わたくしは鏡花のためにこの小路を訪れるのも今日が最後かも知れぬと思いながら、まもなく神楽坂下の表通りに戻って行った。
寺木定芳 歯科医。鏡花の門人。鏡花の親睦会九九九会の幹事。生年は明治16年2月16日。没年は昭和47年11月3日。享年は満89歳。
思い出 昭和15年の思い出はわかりませんでした。昭和18年、寺木定芳氏の『人・泉鏡花』では「此の家は、新宅といふにふさはしい、ほんとの新築の二階家だつた。牛込見附から神樂坂へだら/\と五、六間登ると、すぐ左手に細い横町かある。其處を左へ折れて又五六間、表通の坂と平行に右手へ曲つて少し登ると、すぐ左手にあつた、小さいが、誠に瀟洒とした一構で、横手に堀井戸があつて其處からすぐ、臺所や勝手口になつてゐる」と書いてあります。右図は籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング 文学と歴史を巡る。No. 13 新宿区 神楽坂・弁天町コース」(明治書院、2006年)の図ですが、現在はこの建物もなくなり、すべてが東京理科大学に変わりました。

仮普請 かりぶしん。一時しのぎの簡単な建築。
掘井戸 地面を掘って作った井戸
物理学校 東京物理学校。1881年に東京府に設立。私立の物理学校(旧制専門学校)。略称は「物理学校」。現在の東京理科大学の前身。
料理店 志満金です。
因縁 前々からの関係。縁。 由来。来歴。いわれ。

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