夏目漱石の年譜|漱石公園の道草庵

文学と神楽坂

 夏目漱石の年譜は、漱石公園道草庵にあるパネルに上手に描いています。

 出生は慶応3年(1867)。明治23年(1890)、帝国大学文科大学に入学。明治33年(1900)9月、英国留学。明治36年(1903)、帰国。明治38年(1906)『吾輩は猫である』を発表。没年は大正5年(1916)です。
夏目漱石の生涯

慶応3年(1867)2月9日(新暦)夏目直克・千枝の五男として、江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町一番地)で誕生。金之助と命名される。生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるがすぐに連れ戻される。
慶応4年(1868)内藤新宿の名主・塩原昌之助の養子になる。
明治2年(1869)養父母とともに浅草三間町に転居。
明治3年(1870)疱瘡にかかり、溥く痘痕がのこる。
明治4年(1871)養父母とともに内藤新宿に戻り、休業中の妓楼「伊豆橋」に留守番代わりに住む。
明治6年(1873)3月 浅草諏訪町に転居。
明治7年(1874)浅草寿町の戸田学校下等小学第八級に入学。
明治9年(1876)4月 養父母の離婚により塩原姓のまま養母とともに夏目家に戻る。5月 市谷学校下等小学第三級(その後、区立愛日小学校に統合)に転校か。
明治11年(1878)4月 神田猿楽町の錦華学校小学尋常科第二級後期に転校し、卒業。
明治12年(1879)3月 東京府第一中学(一ッ橋中学、現在の日比谷高校)に入学。
明治14年(1881)1月 母・千枝死去。東京府第一中学を中退し、漢文を学ぶため二松学舎に転校。
明治17年(1884)小石川の新福寺(現在の文京区竹早)に下宿。9月 大学予備門予科(後の第一高等中学校)に入学。同級に中村是公・芳賀矢一ら。
明治21年(1888)1月 夏目家に復籍。7月 第一高等中学校本科英文学科に進学。
明治22年(1889)1月 正岡子規と親交を深める。子規の『七艸集』を漢文で批評し、その際はじめて「漱石」と署名する。9月 紀行文集『木屑録』を書く。
明治23年(1890)9月 帝国大学文科大学(現在の東京大学)英文学科に入学。
明治25年(1892)4月 徴兵の関係で分家し北海道に転籍する。5月 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。子規と関西を旅行した後、単身岡山を訪ね、再び松山で子規に会う。この時、高浜虚子・河東碧梧桐と知り合う。
明治26年(1893)帝国大学大学院に進学。束京高等師範学校英語嘱託となる(月給37円50銭)。
明治27年(1894)12月 大学院時代からの友人菅虎雄の紹介で、鎌倉円覚寺の帰源院に参禅する。
明治28年(1895)愛媛県尋常中学校の英語科嘱託教員として赴任(月給80円)、教え子の松根東洋城は後に漱石門下、真鍋嘉一郎は主治医となる。子規が帰郷し、漱石の下宿に住む(愚陀仏庵)。12月 貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合いし婚約。
明治29年(1896)4月 熊本の第五高等学校講師として赴任(月給100円)、教え子の寺田寅彦は後に漱石門下。6月 鏡子と結婚。7月 教授に就任する。
明治30年(1897)6月 父・直克死去。
明治31年(1898)7月 熊本市内坪井七八番地に転居する(現在、内坪井旧居として公開されている)。
明治32年(1899)5月 長女筆子誕生。
明治33年(1900)6月 文部省から英語研究のため2年間の英国留学を命じられ、9月横浜から出航(学費年1800円。留守手当年300円)。
明治34年(1901)1月 次女恒子誕生。英文学概論を書く(後の『文学論』)。
明治35年(1902)強度の神経衰弱にかかる。9月 正岡子規没(享年36)。12月 帰国の途につく。
明治36年(1903)1月 帰国。3月 本郷区千駄木五七番地に転居。4月 東京帝国大学英文科講師(年俸800円)、第一高等学校英語講師(年俸700円)となる。11月 三女栄子誕生。この年、神経衰弱が悪化する、
明治37年(1904)9月 明治大学講師を兼任。12月 高浜虚子主宰の「山会」で自作の「猫伝」を朗読。この頃、野村伝四が門下となる。橋口五葉との交流が始まる。
明治38年(1905)1月『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に、「倫敦塔」を『帝国文学』、「カーライル博物館」を『学鐙』に発表。12月 四女愛子誕生。この頃、森田草平・鈴木三重吉・小宮豊隆・野上豊一郎・中勘助らが門下に加わる。
明治39年(1906)4月『坊つちゃん』を『ホトトギス』に発表。9月『草枕』を『新小説』に、10月『二百十日』を『中央公論』に発表。面会日を木曜日の午後三時以降と定める(木曜会)。12月 本郷区西片町十-ろ-七号に転居。
明治40年(1907)1月『野分』を『ホトトギス』に発表。3月 東京帝国大学と第一高等学校の職を辞し、朝日新聞社に入社(月給200円)長男純一誕生。『虞美人草』を連載、9月牛込区早稲田南町七番地に転居(漱石山房、現在の区立漱石公園)。11月 謡を習い始める。この頃、安部能成・林原(岡田)耕三が門下に加わる。この頃より胃病に苦しむ。
明治41年(1908)『坑夫』『夢十夜』『三四郎』『文鳥』を連載。12月 次男伸六誕生。
明治42年(1909)『永日小品』『それから』を連載。9~10月 中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この頃、阿部次郎が門下に加わる。
明治43年(1910)3月 五女雛子誕生。『門』を連載。6月 胃潰瘍のため長与胃腸病院に入院。8月 転地療養のため修善寺温泉の菊屋旅館に滞在。24日大量吐血し、一時危篤状態におちいる。10月 帰京し長与胃腸病院に再入院。『思ひ出す事など』を連載。
明治44年(1911)2月 文学博士号を辞退。8月 関西講演旅行中に胃演瘍が再発し大阪で入院。11月 雛子急死。この頃、内田百閒・津田青楓が門下に加わる。
明治45年・大正元年(1912)1~4月『彼岸過迄』を連載。12月『行人』を連載(中断を経て大正2年11月完結)。
大正2年(1913)強度の神経衰弱となる。胃潰瘍のため療養する。この頃、赤木桁平・岩波茂雄・和辻哲郎が門下に加わる。
大正3年(1914)4~8月『こゝろ』を連載。胃潰瘍のため療養する。
大正4年(1915)1~2月『硝子戸の中』を連載。3月 京都に旅行中、胃潰瘍を再発。6~9月『道草』を連載。この頃、江口渙・芥川龍之介・菊池寛・久米正雄・咆岡譲が門下に加わる。
大正5年(1916)5月『明暗』を連載(未完)。11月 胃潰瘍が悪化。12月9日 死去(享年49歳)、新海竹太郎によりデスマスクがとられ、鏡子の申し出により東京帝国大学で医学解剖が行われる。12日 葬儀、法名は文献院古道漱石灰士。28日 雑司ヶ谷墓地に埋葬される。

牛込揚場町|東京名所図会

 牛込揚場町では「新撰東京名所図会」第41編(東陽堂、1904年)でこう書いていました。

    ●牛込揚場町
     ◎位 置
牛込揚場町は。東の方神樂河岸に面し。西方は津久戸前町に接し。南は神樂町一二丁目にし。北は下宮比町に鄰せり。地號は一番地より二十番地に至る
     ◎町名の起原幷に沿革
牛込揚場町は。神田川の船寄にして。此河岸より運送し來れる貨物を陸揚するを以て此名あり。明治以前は其の町域僅かに東面の一帶なりしが。明治の初年平岩小之助其の他諸士の邸地を併合して。之を擴張せり。
     ◎景 況
此地の東は河岸通りなれば。茗荷屋、丸屋などいへる船宿あり。一番地には。油問屋の小野田。三番地には東京火災保險株式會社の支店。四番地には酒問屋の升本喜兵衛。九番地には石鹸製造業の安永鐵造。二十番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を擬したるものにて。稻荷社なども見ゆ。
大正元年の揚場町。地図資料編纂会『地籍台帳・地籍地図。東京第6巻』東京市区調査会大正元年刊の複製

大正元年の揚場町。地図資料編纂会『地籍台帳・地籍地図。東京第6巻』東京市区調査会大正元年刊の複製。柏書房。1989年。

    ●牛込揚場町
     ◎位 置
 牛込揚場町の東は神楽河岸に面し、西は津久戸前町に接し、南は神楽町1~2丁目の区画で、北は下宮比町に隣り合う。地番は一番地から20番地まで。
     ◎町名の起原と沿革
 牛込揚場町は、神田川の船を寄せる場所であり、この河岸まで運送されて来た貨物を陸揚する。この町名もこれにちなんでいる。明治以前、この町はわずかに東の一帯だったが、明治の初年に、平岩小之助や他の諸士の邸地を併合して、これを拡張させた。
     ◎景 況
 この地の東は河岸通りなので、茗荷屋や丸屋などいう船宿がある。一番地には油問屋の小野田、三番地には東京火災保険株式会社の支店、四番地には酒問屋の升本喜兵衛、九番地には石けん製造業の安永鉄造、20番地には高陽館という旅人宿がある。このうち、升本家は最も盛大で、その本宅も同町にあり、庭園なども意匠をこらしたものだ。稲荷神社も見える。
揚場町。江戸時代。安政3年

江戸時代の揚場町。安政3年。「江戸・明治・現代重ね地図」から。2007年。

 かい。空間を分けた区切り。物事のさかい目。範囲を区切った特定の場所。
地号 地番。土地の区画に付けた番号
 りん。隣の異体字。となり。となりあう。
幷に ならびに。並に。并に。前の事柄と後の事柄とが並列の関係にあることを示す。また。および。
船寄 ふなよせ。船を寄せること。その場所
平岩小之助 新宿区地域文化部文化国際課「新宿文化絵図」(2007年)の「江戸・明治・現代重ね地図」の江戸地図(安政3年、1856年)では、揚場町13に平岩七之助が出てきます。これでしょうか。
景況 けいきょう。経済上の景気の状態。
船宿 江戸時代~明治初期、港町におかれた入港船舶の乗組員のための宿屋。
而して しこうして。そうして。
意匠 美術・工芸・工業製品などで、その形・色・模様・配置などについて加える装飾上の工夫。趣向。デザイン。
稻荷社 稲荷神社。稲荷神を祀る神社。ここでは最上の大正元年の地図で、揚場町12-2にあった神社でしょうか。

牛込揚場|錦絵

文学と神楽坂

『江戸土産』は19世紀半ばに歌川広重が描いているものです。

 最初は中央区立図書館の錦絵です。

 中央区立図書館で絵の基本情報は以下の通り。

タイトル 江戸土産  -牛込揚場-上
製作者 初代広重〔画〕
著者 安藤 広重(1代目)/アンドウ,ヒロシゲ
大きさ 24×34cm
一般件名 (場所)牛込揚場町/ウシゴメアゲバチョウ  (場所)現・新宿区揚場町/シンジュククアゲバチョウ  (場所)神田川/カンダガワ  (建物)船河原橋/フナガワラバシ  (交通)舟  (その他)柳
注記 カラー
資料形態 錦絵
言語 日本語
マーク言語 jpn(日本語)
書誌番号 001989672

 次は国立国会図書館の「絵本江戸土産 第八編」(コマ番号21/30)です。

絵本江戸土産第8編

絵本江戸土産第8編。国会図書館。

 書誌情報は次の通り。

タイトル 絵本江戸土産 10編
著者 松亭金水 解説
一立斎広重
広重二世 画
著者標目 松亭, 金水, 1795-1862
歌川, 広重 1世, 1797-1858
歌川, 広重 2世, 1826-1869
出版者 菊屋三郎[ほか]

 くずし字見ながら歴史散歩によると、下の『絵本江戸土産』は、1850(嘉永3)年から1867(慶応3)年にかけて出版され、初編から七編までをおそらく初代歌川広重が、八編から十編までをおそらく二代広重(歌川重宣)が手がけている絵本だそうです。「牛込揚場」は第八編の17です。

 最後に説明文の翻刻と口語訳です。もちろん、くずし字見ながら歴史散歩に頼っています。

牛込御門外北のかた、船河原ふねかわら橋より、南のかた町武ちょうぶ第宅ていたくのきを並べ、東南のかたハ御堀にて材木ざいもくおよび米噌べいそハさらなり。酒醤油しょうゆ始め諸色しょしきのしてここにつどへり。船おかをなせり。故に揚場あげば名はおひけらし。これより四谷赤坂あかさかへんまで運送うんそうす。よってこの所の繁華はんか山ノ手第一だいいちとせり
牛込御門の外であって、北は船河原橋に接し、南方は町人や武士の邸宅が軒を並べ、東南は御堀である。材木や米の味噌は言うまでもなく、酒や醤油を始めあらゆる物を載せてここに集まり、沢山の船が入航してくる。だから揚場という名前もここから来ている。揚場から四谷や赤坂まで運送する。この場所の豪華さは山の手の第一だ。

神楽坂警察署|神楽坂

 昭和5年の『牛込区史』(東京市牛込区役所。復刻版は臨川書店『東京都旧区史叢刊』昭和60年)によれば、明治初年、警察署の前身である大区役所とそつとんしょを設置。明治5年、大区役所を大区警視出張所に、明治7年、羅卒屯所を巡査屯所に改称。牛込区の役所は箪笥町南蔵院に設置。

 明治8年、牛込区の警察署を警視第3分庁第4署として神楽坂一丁目八番地に設置。南蔵院にあった役所は廃止。

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。(新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」1970年)

 渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)では、明治8年に神楽河岸に警察署が創設されたとなっていますが、これはおそらく間違いです。明治8年頃、神楽河岸は一部を除いてまだただの川岸で、大きな建物はありませんでした。

 明治14年、警視庁を再設置、牛込区では神楽町警察署と原町警察署を設置。3月、1署に改編し、牛込警察署と改名。明治26年、ここで初めて神楽河岸に移転します。

神楽坂警察署

神楽河岸にあった神楽坂警察署(昭和5年「牛込区史」。東京都旧区史叢刊。臨川書店。昭和60年復刻版)

牛込警察署

古い民間住宅を壊して、牛込警察署が建つ。

 明治40年、牛込署早稲田分署が発足、明治43年、早稲田警察署に昇格。大正6年、牛込神楽坂警察署と牛込早稲田警察署に改名(『牛込区史』昭和5年)。

 昭和35年(1960年)、この2署は合併し、牛込警察署に改称、南山伏町1番15号に新築移転。

神楽河岸の旧警察署
 神楽河岸の旧警察署について、昭和37年の住宅地図ではまだ神楽坂警察署があるようになっていますが、昭和38年になると、神楽河岸は警視庁第2機動捜査隊や神楽坂下巡査派出所などが建った土地になります。

 昭和47年、東京都は飯田橋駅西側の都市計画を決定(東京都建設局「飯田橋夢あたらし」平成8年)。昭和53年、この計画に反対する「守る会」が種々の審査を請求し、昭和56年11月、裁判所は和解勧告。同月、都と住民の覚え書きは完結。神楽河岸にあった機動隊や派出所は完全になくなり、昭和59年、飯田橋駅西側の飯田橋セントラルプラザや総合ショッピングセンター・ラムラが完成しました。

最悪の寿産院事件
 おそらく神楽坂警察署があるときに起きた最悪事件は、昭和23年1月の寿ことぶき産院事件でしょう。えい児約100人が殺害されたものです。

 1944年4月から1948年1月15日まで、牛込柳町の寿産院は、里子としてあずかった乳幼児200人以上のうち、85-169名(103人が有力)を凍死、餓死、窒息死させた事件です(ウィキペディア)。親から1人つき4~5000円の養育費、東京都からは補助金と配給品を受けとり、配給品は闇市に横流して、100万円以上を稼いでいました。

寿産院

寿産院は牛込柳町で、当時は23番地、現在は27番地。以来、空き地に。Googleから。

 1948年(昭和23年)1月12日夜、巡回中の警官2人が新宿区弁天町でみかん箱を運ぶ葬儀屋に事情聴取を行い、驚いたことに、このみかん箱に嬰児死体4体が入っていました。

 1月15日、新宿区柳町で「寿産院」を経営する主犯の産婆(現在は助産師)石川ミユキ(当時51歳)と夫の猛(当時55歳)を殺人容疑で逮捕。1952年(昭和27年)、東京高等裁判所は妻に懲役4年、夫には懲役2年の判決を下しました。

神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考3|揚場町

文学と神楽坂

 磯部鎮雄氏が描いた『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』のうち「揚場町」について書いています。実は揚場町の歴史は華美であり、江戸時代は、昭和時代の濁水ではなく、本当に綺麗な水が流れ、荷揚げの人足で混雑したようです。

揚場町

揚場町(Google)

揚場町(あげばちょう) 牛込御門下まで船入にしてここを荷揚場にしたことは、今でもある通り、ここに市ヶ谷方面の濠から落下する水の堰が設けてあって、どうしても船はここまでしか入れないからである(元牛込警察署の裏)。であるからここを揚場といい、市ヶ谷尾州邸(その他旗本や町方の物資もあったが)の荷揚場とした。揚場町の名の起りとするところである。
 “備考”にも、町方起立相分らず、昔から武州豊島郡野方領牛込村の内にして武家屋敷や町方発達し、神田川の川尻にて山の手の諸色運送の揚場となり、したがって揚場町の名が生じた、といっている。そこで荷物揚場の軽子が町の中央を貫く坂は神楽坂ほど急坂でないので、主にここを利用したので軽子坂の名が付けられた。(軽子とは篭に物を入れたり、馬を駆って荷物を運搬する者をいう)
 坂は登りおよそ半丁程で幅は3間ばかり、抜け切ると津久戸前へ出る。当時の物揚場は二ヶ所に分れていて、河岸の南の方は間口9間5尺奥行12間、北の方は間口17間奥行12間あった。普段は荷物揚場として用いられたが、将軍家御用のため神田川筋の鴨猟や江戸川鯉の猟(ここは御留川で、船河原橋より上は庶人の猟は禁鯉といって禁止されていた)のため御鳥見や狩猟の役人が出張する日は前々より役人から命ぜられて、荷物を物揚場に積荷しておく事は許されず、すべて取払いを命ぜられた。物資揚場許可は享保17年からであるが、文政7年頃から冥加金(税金)を上納すれば自由に使用することが出来るようになった。この他、尾州侯専用の物揚場があり、大きさは間口30間巾9間5尺で尾州侯の市ヶ谷藩邸で使用する物資がここより揚った。
 坂の入口には田町より流れて来る大下水があり、その巾一間。軽子坂登り口に長さ9尺、幅1丈1尺3寸という石橋が架っていた。この下水は船河原橋際の江戸川へ落ちていた。坂は揚場町の町内持である。
飯田壕全景 明治になってからこの川岸は俗に揚場河岸と唱えられていた。だが明治末年にはこの揚場河岸をも含めて神楽河岸となっている。古くは市兵衛河岸とか市兵衛雁木(雁木は河岸より差出した船付けの板木)といい、昔此所に岩瀬市兵衛のやしき在りしに囚る、と東京名所図会に出ているがこれは誤りであろう。市兵衛河岸はもっと神田川を下って、船河原橋際より小石川橋にかけていったものである。「明治六年 東京地名字引」(江戸町づくし)にも小石川御門外と記されてある。

揚場町 新宿区北東部の町。北は下宮比町に、東は外濠(現在は神楽河岸)に、南は神楽坂1丁目と二丁目に、西は津久戸前町(現在は津久戸町)に接する。

明治20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

明治20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

荷揚場 にあげば。船から積荷を陸に揚げる場所。陸揚げ場。

神楽土手と市兵衛土手

高道昌志「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」日本建築学会計画系論文集。2015年。

尾州 尾州は尾張国の別名。
 五爵(公侯伯子男)で第二位の爵位。世襲制。
備考 御府内備考(ごふないびこう)のこと。江戸幕府が編集した江戸の地誌で、文政12年(1829年)に成稿。ところが、これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。御府内備考は現存。
町方起立相分らず 町の由来は全くわからない。
神田川の川尻 御府内備考によれば「神田川附ニ而山之手諸色運送」。川附とは「川の流れに沿った。その土地。川ぞい。」つまり「神田川に沿い、かつ、山の手で種々の品物を運送する」。川尻は「川下、下流」あるいは川口と同じと考えて「川が海や湖に注ぐ所。河口」。「神田川の川尻」ではちょっと難しいけれど「以前の江戸川の川尻」なら正しい。
諸色 いろいろな品物
中央 本当は町の南端です。
軽子 魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。
軽子坂 軽子坂の標柱は「この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた」
半丁 半丁は約60m。
3間 約5.45m。
津久戸前 明治時代は津久戸前町、現在は津久戸町です。
物揚場 ものあげば。船荷を陸にあげるところ。表に出ている「惣物」は盆・暮れに主人が奉公人に与える衣類などで、お仕着せ。ここでは町方揚場と同じ。

神楽河岸の利用方法

神楽河岸の利用方法。高道昌志「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」日本建築学会計画系論文集。2015年。

明治18-20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

明治18-20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

間口9間5尺奥行12間 17.6m × 21.8m
間口17間奥行12間 31m × 21.8m
御留川 おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。昔は文京区後楽2丁目と新宿区下宮比町をつなぐ橋(上図を参照)
禁鯉 きんり。鯉の料理は不可
御鳥見 おとりみ。江戸幕府の職名。鷹場の維持・管理を担当した。
享保17年 1732年
文政7年 1824年
冥加金 みょうがきん。江戸時代の雑税。商工業者などが営業免許や利権を得た代償として、利益の一部を幕府や領主に納めた。のちに、一定の率で課されることが多くなった。
尾州 尾張藩の別名。
間口30間巾9間5尺 54.5m × 17.6m
田町 市谷田町のこと。
大下水 町方や武家屋敷から小下水を集めてから、堀や川の落口にいたるまでの水路。
長さ9尺、幅1丈1尺3寸 長さ2.7m、幅3.4m
江戸川 現在の神田川
町内持 おそらく「軽子坂に不測の事態があれば復旧するが、その支払いは揚場町が行う」ではないでしょうか。
揚場河岸 江戸時代、河岸地は牛込揚場町に伴う河岸だけであり、揚場河岸と呼ばれたといいます。
明治末年 別の「神楽河岸」の説明では、磯部鎮雄氏は「明治の終りか大正の始めまで神楽河岸の地名はなかった。揚場河岸の続きとしていたらしい」と説明します。
神楽河岸 近世になって、揚場河岸を含めた一帯の地域を神楽河岸と総称し、さらに、昭和63年、住居表示でも実施した。
雁木 道から川原などにおりるための、棒などを埋めて作った階段。船着き場の階段。桟橋さんばしの階段。
市兵衛河岸 現在、市兵衛河岸について、船着場の位置はここです。また、市兵衛土手とは船河原橋を越えてから水道橋に達するまでの土手でした。

市兵衛河岸船着場

市兵衛河岸船着場(http://www.zeal.ne.jp/file/file_pia/pia_suidoubashi.pdf)

明治六年 東京地名字引 国会図書館で、駅逓寮が書いた「地名字引 東京之部」(御書物所、明治6年)の41頁で、市兵衛河岸の「町名、別名、区別、総名、近傍、新名、旧名、区分」は、「市兵衛いちべえ河岸かし、ー、ー、小石川、小石川御門外、小石川町、ー、第4大区1小区」となっています。

牛込御門の建築以前

文学と神楽坂

『東京名所図会』「牛込区之部」(東陽堂、第41編、1904)の「牛込御門建築以前の景況」を読むと、神楽坂一丁目は実は空き地だったとわかります。さらに江戸初期の地図を見てみると、神楽坂一丁目そのものがなく、代わりに紅葉川、実は大下水が流れていました。

正保年中江戸絵図

正保年中江戸絵図。正保元年(1644)頃

牛込御門建築以前の景況
武江圖説に云。牛込に御堀なき頃、四番町に長阪血槍、須田九左衛門屋敷並び、番町方と云。叉小西半左衛門、間宮七郎兵衛、都築叉右衛門並び、牛込方と云。其間の道幅百間餘ありて、草茂し。夜中は辻切等あり。故に日暮より往來なし。其後丸茂五郎兵衛、中根九郎兵衛屋敷を、小栗と間宮の前にて拝領。鈴木治右衛門、松平所左衛門、小林吉太夫抔一ト通りに、市谷田町迄績きし故に、七十四間の道幅に成りたりとぞ。夫より牛込市谷御門建たり。」以て當時の景況を知るべし。右の文中に辻切等ありと見ゆ。當時は戰國の餘習未だ去らず。人々武勇に誇りし時代なれぱ、かゝる乱暴のこともありしなり。されば寛永十年辻々番所を設けて、之を監制するに至れり。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間は1673~81年。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間は1673~81年。

[現代語訳]
○牛込御門が建築する前の様子
『武江図説』は次のように述べる。「牛込にお堀がなかった時代、四番町では長阪血槍、須田九左衛門などの屋敷をさして番町方と呼び、さらに、小西半左衛門、間宮七郎兵衛、都築叉右衛門(青色)などは牛込方といっていた。その時の道幅はおよそ180メートルぐらい。草はぼうぼうだし、夜中には辻斬も出てきた。したがって日暮になると家の外にはでないのが普通だった。その後、丸茂五郎兵衛や中根九郎兵衛の屋敷(水色)を小栗と間宮の前に拝領した。鈴木治右衛門、松平所左衛門、小林吉太夫(緑色)などの屋敷も加わって、道路は市谷田町まで続き、道幅は130メートルになった。その後、牛込市谷御門を建築した」と。当時の様子がわかるだろう。文中では、辻斬などもあったという。当時、戦国の習慣はまだあり、人々は武勇を誇った時代なので、こういう乱暴さがあったのだ。それで1633年には辻ごとに番所を設けて、監制すると決めたという。

景況 時間の経過とともに次第に変わってゆく、ある場所、世の中などのありさま。様子。
武江図説 江戸図説や江戸往古図説とも。江戸時代の地誌。大橋方長著。寛政12年(1800)。
 など。ある事物を特に取りあげて例示する。「杯」ではなく「抔」です。
 およそ。正確ではないがそれに近いところ。おおまかなところ。
百間 1間が1.81mで、百間は181mです。
辻切 辻斬。つじぎり。武士などが街中などで通行人を刀で斬りつける事。
一ト通り 「一ト」は「ひと」と読みます。「一ト通り」は「ひととおり」。だいたい。ふつう程度に、ずーっと。
七十四間 134mです。神楽坂下から飯田橋駅近くにある麹町警察署飯田橋前交番までは約130mです。
余習 よしゅう。残っている昔の習慣
寛永十年 1633年
辻々 「辻」は十字路。「辻辻」では「辻ごとに」の意味
番所 江戸時代、幕府や諸藩が交通の要所などに設置した監視所。

大下水|市谷~牛込

文学と神楽坂

 江戸時代、市ヶ谷から飯田橋にかけて「大下水」がありました。
 この時、下水には3種類があったのです。自宅の前にある小下水、小下水を集める横切下水、横切下水を集めて最終的に落口から川にもっていく大下水です(新宿区教育委員会『紅葉堀遺跡』平成2年)。大下水は石垣で構築され、その普請修復は公的資金で行いました。
 この大下水は、昭和初期にあんきょ、つまり、地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路になっていました(本田創編著「東京『暗渠』散歩」洋泉社、平成24年)。それ以前にはかいきょ、つまり、ふたはない水路になっていました。

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4。神楽坂界隈の変遷』(1970年)から

 まぁ、昔の下水のほんどは、雨水でした。下水には屎尿はなく、米のとぎ汁は拭き掃除に使い、最後は植木にまくわけです(ミツカン。水の文化。排水の歴史)。
 では、牛込の大下水について、『御府内備考』はどう見えていたのでしょう? この『御府内備考』は江戸幕府が編集した江戸の資料集です。これを編纂した『御府内風土記』は、1872年(明治5年)、皇居火災で焼失しましたが、『備考』は残っています。なお、≪≫は割注で、本来は一行の中に二段構えで表示する補注です。

大下水

大下水と外濠。正保年中江戸絵図から。正保元年(1644)頃。垂直に川が2本流れるように見えるが、左側は大下水の水、右側が外濠の水で、どちらも本当の川ではない。

大下水は市ヶ谷田町より牛込揚場町を歴て船河原橋脇にて江戸川に合す。此下水の成し年代等詳ならざれと寛永十八年堀千之助御手傅にて石垣を築きしよし傅ふれば古き下水なら事なし。此下水の上流尾州表門より外を柳川と唱へそれより上を拾川と唱ふるよし。よりて下流まてを通して紅葉川など書しものあり。その実は無名の大下水なり。改撰江戸志云紅葉堀の名は市谷左内坂の名主草名の名主といふ》家に蔵するふるき帳にも見へしといふ。坂光淳の説に四谷御門をそのかみ紅葉御門といひにといふによれはそれらの名よりおこりしや。此御門にはその比よき紅葉のありしかはかくいひしにやと

[現代語訳]大下水は市ヶ谷田町から牛込揚場町を経て、船河原橋脇にて神田川に合流する。この下水が成立した年代などはわからないが、寛永十八年、堀千之助は土木工事を行い、石垣を築いたという。古い下水なので議論しても仕方がない。この下水の上流は尾張国上屋敷の表門からの外に流した部分を柳川といい、それより上を拾川という。下流までを通して紅葉川など書いたものもあるが、その実は、無名の大下水である。改撰江戸志によれば、紅葉堀の名は市谷左内坂の名主(草体の署名が有名な名主)の家にあった古い帳簿でも見える。坂光淳の説によれば、四谷御門をその昔、紅葉御門といったので、その名から名前がついたという。その時分、この御門には美しい紅葉があったので、そう名前がついたのではないか。

 正保年中江戸絵図(上図、1644年頃)には、大下水を越えて市谷と牛込を渡る橋は市谷御門だけです。牛込御門から神楽坂までは大下水のため直接渡れませんでした。

正保年間の大下水。拾川、柳川、紅葉川なども大下水と同じ意味で、図では外濠の上に大下水がありました。

正保年間の大下水。拾川、柳川、紅葉川は大下水と同じ意味。

 一方、明暦江戸大絵図(下図、1658年頃)では、市谷御門と牛込御門2つになっています。また、大下水の幅は、正保年中江戸絵図で神楽坂1丁目と同じぐらいと考えると約30m、一方、明暦江戸大絵図では一部に家などができているのか、幅は少なくなっていますが、それでも一間、つまり、約1.8mもあったと、『御府内備考』「揚場町」は述べています。

明暦江戸大絵図。http://collegio.jp/?page_id=154 (明暦は1655~8年)。大下水と外濠の距離が遠くなり、あいだには家もありそうだ。

明暦江戸大絵図(明暦3~4年頃、1657~8年)。大下水と外濠の距離が遠くなり、あいだには家もありそうだ。

『新修新宿区町名誌』から

『新修新宿区町名誌』から

市ヶ谷田町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば、「豊島郡市谷領布田ふた新田と称す場所に、元和六年(1620)頃から百姓町屋を立てていた。同九年、外堀造成の御用地として召し上げられたため、左内坂下に小屋場を設けて仮住まいをしていた。外堀完成後、旧址が堀になってしまったため、旧地近くの堀端に町屋取立てを願い出たが、既に武家屋敷となったために願いは却下され、替地として佐渡殿原(現市谷砂土原町周辺)、赤坂御門前の二か所を提案された。しかし両所ともに馴れ住んだ場所から離れた所だったので佐渡殿原の土を引きならして武家地に仕立てることを願い出、また堀端通りの田地にこの佐渡殿原や浄瑠璃坂下、逢坂辺りの土を落として埋立てた。寛永三年(1626)にこの埋立地を町割りし、南から順に市谷田町一丁目、上二丁目、下二丁目、三丁目とし、四丁目のみ市谷御門の南西側、現在の外堀通りと靖国通りとの分岐点にあたる場所に作られた。この地を開発した草創名主は島田左内である」。また、『新修新宿区町名誌』の絵(右図)では、南端は左内坂だと描いています。
牛込揚場町 新宿区北東部の町名。北は下宮比町に、東は神楽河岸に、南は神楽坂二丁目に、西は津久戸町にそれぞれ接する。江戸時代では神楽河岸の一部を含む。
船河原橋 旧江戸川(現神田川の上流)の橋。現在は、さらに外濠のお堀、さらに神田川も結ぶ橋(ここに最近の図)。
江戸川 現在は神田川。昔は堀と合流する上流を江戸川と呼びました。
寛永十八年 1641年
堀千之助 越後村上藩の堀干介直定。寛永15年(1638)、父直次が25歳で死亡し、寛永18年(1641)、幕府の命令で、6歳で御手伝普請を行い、家臣に市谷水道石垣の普請浚工したため賜物を与えた。翌年、死亡し、そのため後継者はなく、断家した。
御手伝 御手伝普請。おてつだいぶしん。豊臣政権や江戸幕府が大名を動員して行った土木工事。
 ゆ。さとす。相手の不明点や疑問点をといて教える。
尾州 びしゅう。尾張おわり国の異称。
柳川 「暗渠さんぽ」では、尾張国上屋敷(現、防衛省)から下流部分を指すという。名前は川沿いに柳が植えられていたため。
拾川 同じく「暗渠さんぽ」では、尾張国上屋敷(現、防衛省)から上流部分を指す。
紅葉川 「暗渠さんぽ」では、『全体をさす名称として、「紅葉川」「楓川」「長延寺川」「外濠川」などがみられます』
紅葉堀 「暗渠さんぽ」では、大下水のこと。
左内坂の名主 名主は島田左内です。
草名 そうみょう。そうな。草体の署名。特に、二字を合わせて一字のように書いたもの。その傾向が進むと、字を変形あるいは合体させて特殊な形をつくる花押かおうとなる。
坂光淳 18世紀の歌人。自書は『用心私記』
四谷御門 四谷見附門。千代田区麹町6丁目。現在のJR四ッ谷駅麹町口付近。初代長州藩主の毛利秀就が普請した

神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考2

文学と神楽坂

 この「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」は江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。
 また、磯部鎮雄氏が「御府内備考」から直接取った引用は1字下げインデントで表しています。同じく引用で、濁音、句読点や()の補修なども氏が直接書いた部分です。

白い矢印が昔の外濠

白い矢印が当時の神楽坂から牛込御門までの間隔。外濠と大下水があり、人間は住めなかった。

 牛込御門が出来たのは寛永13年(1636年)である。これは番町と牛込台が陸続きであるから城の擁護のために今の外濠を開削したのであって、その広さは土手際から田町の往還までで相当広かった。明治になって中央線の鉄道を引くために、堤の裾を崩して濠を埋め、線路敷にした。だから今の外濠の幅は大分縮められていることになる。
 御府内備考によれば「正保絵図に牛込御門は牛込口と記す。又寛永十三年蜂須賀阿波守忠英、命を受けて牛込御門石垣升形を作るとあり。この時始めて建てられしならん」とある。今でもその石垣の一部は残っているが、明治30年牛込停車場が出来てもまだ升形は残っていた。

 されば牛込への船入などいへるものもなかりしに、万治の頃、松平陸奥守綱宗、仰せをうけて浅草川より柳原を経て御茶の水通り吉祥寺の脇へ(吉祥寺は駒込に移転する。今も駒込にあり。この頃は水道橋の辺りにあった)かけてほりぬき、水戸家の前(今の後楽園のある所)を過ぎ、牛込御門の際まで掘しかば,はじめて牛込へ船入もいできし。この掘り上たる土を以て小日向築地小川町の築地(この辺往時は湿地帯なりしという)なり、武士の居やしきもたてり。この築地ならざる前は、赤城の明神より目白の不動まで家居一軒もあらで,畑ばかりなりしが、是より武士の屋敷商人の家居も出来たり。この比(ころ)の堀普請は三年を歴たり,その間昼夜を分たずその功をなせしと云。水道橋のくづれ橋、その時の木戸門ありし所也。改撰江戸志に云、に御討入(家康入国をいう)の前牛込のさまをおもふに牛込宮内少輔勝行が館(やかた)あり、又恒岡弾正忠の所領もありしかば、ここに家居ありしにや。(此の説には疑問あり,恒岡は稲毛高田村か)

 とにかく、牛込は番町の一部にも喰い込んでいて、お濠が出来る以前の牛込の地域はとこからとこまでであったということは定め卸い。牛込はいわゆる惣名であって、神楽坂を中心として惣名で区切ると、市ヶ谷、落合、番町、小日向、早稲田に挾まれた地域が牛込であるといえよう。
升形

升形。二つの城門と城壁とでつくった四角い空き地

開削 開鑿とも。山野を切りひらいて道や運河を作ること。
往還 おうかん。道を行き来すること。往復。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌で、文政12年(1829年)に成稿。ところが、これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失している。
正保絵図 国立公文書館デジタルアーカイブによれば「正保年中江戸絵図」でしょうか。
蜂須賀阿波守忠英 はちすか あわのくにの ただてる。阿波徳島藩(現、徳島県)の第2代藩主。
升形 ますがた。枡形。斗形。城の一の門と二の門との間にある四角い空き地。侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
万治 1658年から1661年まで。万治3年(1660年)、幕府は江戸城小石川堀(神田川濠)の工事をするように命じ、船の通行を企図した。
松平陸奥守綱宗 伊達綱宗。仙台藩第3代藩主。
浅草川 隅田川の別称。
柳原 足立区南部の千住地域東部の地名。
御茶ノ水 文京区湯島から千代田区神田に至る、神田駿河台を中心とした一帯の地名。

正保年中江戸絵図

吉祥寺が見える(正保年中江戸絵図から)

吉祥寺 長禄2年(1458年)、太田道灌が和田倉門に創建。徳川家康の入府に伴い天正19年(1591年)、水道橋(現在の都立工芸高校、文京区本郷1-3−9あたり)に移動。明暦3年(1657年)明暦の大火で焼失し、文京区本駒込に移転。
水戸家 水戸徳川家の江戸上屋敷。現在は小石川後楽園。場所は文京区後楽一丁目。
小日向 文京区の町名で、小日向一丁目から小日向四丁目まで。
築地 海や沼などを埋めてつくった陸地。埋め立て地。
小川町 おそらく新宿区新小川町でしょう。新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では「明暦四年(1658)3月、安藤対馬守が奉行となり、筑土八幡町の御殿山を崩して(新小川町を)埋め立てた。また、万治年中(1658ー61)には仙台藩伊達家が御茶ノ水堀を掘って神田川の水を隅田川に通す工事をした際、その堀土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋立地を俗に新小川町と呼んだ」
赤城の明神 現在、赤城明神は赤城神社に。
目白の不動 文京区関口二丁目にあった新長谷寺のこと。1945年(昭和20年)、廃寺に。
堀普請 土地を掘って水を通した堀について建築や修理などの土木工事。
功を成す こうをなす。人が成果をだすこと
くづれ橋 崩落・崩壊・落橋事故の橋。神田のくづれ橋は箱崎橋のこと。水道橋のくづれ橋はわかりませんでした。
木戸門 きどもん。2本の柱を冠木かぶきでつなぎ、屋根をのせた、木戸の門。
改撰江戸志 改正新編江戸志でしょうか。東武懐山子編著。天保3年(1832)
 物事を押さえて調べる。よく考える。
牛込宮内少輔勝行 牛込勝行は戦国時代の武将。牛込城は天文年間(1532-55年)に勝行が築城した城。
恒岡弾正忠 天正十八年、江戸城が落城するまでは新宿区内は北条氏の支配下で、戸塚は恒岡弾正忠の知行地だった。
牛込は番町の一部にも喰い込んでいて おそらく違います。神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考1を読んでください。
惣名 そうみょう。ひとかたまりのものを一つに総括していう名称。総称。

新風土記”を要略すると、
 牛込村は古へ広き地界篭めたり、今の府内なる牛込の町々、及び早稲田、中里、戸塚辺、総て当村の地域なりしが、御打入の後、年を追ひて武家及び寺社の拝領地、又町屋となりし故、耕種の田甚だ少し、当村は往古曠野の地にして、駒込、馬込など云ふ者と同じく、皆ありし処と見ゆ、は和字にて多く集る意なり、も牛の多く居りし処と見ゆ。北條役帳に「江戸牛込、六十四貫四百三十文」大胡が知行なる由記せり。
 牛込家譜に、上野国大胡住人、彦太郎重治、当国牛込に移り、北条氏康に属し、重治の孫宮内少輔勝行が時、天文二十四年(1555年)氏を牛込と改め、当村及び今井(赤坂)桜田、其余若干の所領ありけりと。
 又天正十八年の制札に武蔵国荏原郡江戸の内、牛込七村とあり、荏原郡と記せしは早卒の間、たまたま誤り記せしなるべし。
 牛込台というは、此地西南は高地にして今御徒町(北町、中町、南町)、納戸町、山伏町、二十騎町、甲良町、箪笥町、岩戸町辺り。東は低地長延寺谷より市谷田町、水道町、新小川町辺なり。高低一ならず、谷地、懸崖あり。津久土、赤城は台地、北の方江戸川沿いは低地なり。中央、早稲田、弁天町、榎町、柳町、薬王寺辺亦低地に属す。この区は川らしき川なく、懸崖、傾斜地、いたる処に幅湊するゆえ、坂亦多くあり。今日地形大いに改修せられ、急坂少くなりしも、未だ坂多し。

新風土記 おそらく『御府内風土記』でしょう。1872年(明治5年)の皇居火災で焼失しました。しかし、ここで要略した「新風土記」は、どこから引用したのか、わかりません。
地界 土地の境界。土地。
篭める ひとまとめにする。一括する。
府内 御府内。江戸時代、江戸の市域とされた地域。
御打入 天正18(1590)年、徳川家康は江戸城に入り、根拠地としたが、これを「江戸御打入り」と呼ぶ。
耕種 こうしゅ。土地をたがやして、種や苗を植えること。
曠野 広野。こうや。ひろびろとした野原。ひろの
 ぼく。牛や馬などを放し飼いにする場所。まき。まきば。牧場。
 国字。中に入る。中で詰まる
 ここに。先行の事柄の当然の結果として、後行の事柄が起こる。それで。そこで。それゆえ。
知行
早卒 そうそつ。急なこと。突然なこと
懸崖 けんがい。きりたったがけ。がけ。断崖。絶壁。
幅湊 ふくそう。輻湊。輻輳。四方から寄り集まること。物事がひとところに集中すること。

袖摺坂、弁天坂、五味坂、蛇段々

文学と神楽坂

 横関英一氏の『続江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和50年)では袖摺坂は大久保通りから南東へ上る坂、つまり改修した蛇段々だと考えています。

 江戸時代には、袖摺(そですり)坂、袖振坂、袖引坂という坂があったが、これらは、むしろ江戸に少なく、地方に多い坂の名であった。
 袖摺坂というのは、いずれも狭い坂のことで、人と人とが行き交う場合に、狭いので袖をすり合わせるようにしないと、お互いに行き過ぎることができない、というような狭い坂のことをいったのである。鐙摺(あぶすり)坂というのもあるが、これは坂が狭いので騎馬のままでは、行き交う場合、お互いに(あぶみ)をすり合わせるようにしないと通ることができないような狭い坂みちの形容である。現在東京には次の二個所だけに袖摺坂が残っている。両方とも昔は狭い坂であったのだが、今日ではいずれも広い坂みちになっているので、袖摺坂という感じではない。東京の坂である以上、やむをえないことである。
 新宿区岩戸町から、北町と袋町との境を、南へ上る坂が袖摺坂である。しかし、戦後はこの坂道もすっかり改修されて、大きな道幅の広い坂になってしまった。
 この坂について、『御府内備考』は、次のように記している。「坂、登凡十間程、右町内(御箪笥町)東之方肴町境に有之、里俗袖摺坂又は乞食坂共唱中候、袖摺坂は片側高台、片側垣根二而、両脇共至而(イタツテ)、せまく往来人通違之節、袖摺合候……」

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)でも同じです。

 袖摺坂(そですりざか) 岩戸町の旧都電通りから、北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路で、坂上に南部氏の邸宅があることから最近の住民は南部坂とよんでいる。

 つまり、「北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路」を「袖摺坂」と呼んでいました。しかし、江戸時代も明治初期も、この「北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路」はなかったのです。1袖摺坂と年代

 明治20年の地図が正しく、袖摺坂(乞食坂)は北に登る坂。五味坂は西に下がる坂。弁天坂は西に上がる大久保通りの坂でした。南東に上がる坂はありませんでした。明治20年の地図

 蛇段々ができる明治29年に、ようやく南東に上がる坂ができています。現在のS状のカーブをえがいて南東に上る坂は「新蛇段々」と名付けたいと思っていますが、でもだめだろうな。

袖摺坂(上空)

神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考1

文学と神楽坂

「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」は江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。
 はい、間違いがあるのです。最初は極めて正しいのですが……

 神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考
 往古の牛込の地域とは、どこからどこまでであったという事は定め難い。
 武蔵の国の、その中の一地域が牛込村で、強いていえば小石川と四谷の間の高陵、もっと縮めていえば江戸川流域に沿った小日向と市ヶ谷台との間の地域が、つまり牛込氏(大胡氏)が砦らしき館を築いた光照寺あるいは行願寺の辺り、つまり牛込御門内外(まだ江戸城の外濠は開さくされない時分から)と神楽坂を中心として早稲田、戸塚辺までが牛込であるといえる。
 小田原北条氏麾下に、大胡氏が牛込氏となって牛込城を築いた神楽坂上が、牛込氏の本拠であった事は確かなる事実といえる。この事は前掲牛込城址の項にと述しておいたので、ここでは重記することになるのであえて記述しない。この牛込について“御府内備考”の総説を摘記しておくと、

武蔵国 むさしのくに。東京都、埼玉県、神奈川県の一部
牛込氏 淵名兼行の孫・重俊が上野国赤城山南面の勢多郡大胡に城を築き、大胡氏と称した。戦国時代、重俊から十代の孫・大胡重行の子勝行にいたって、小田原北条氏三代の氏康に招かれ、江戸牛込に移り住み、以後牛込氏と称した。
開さく おそらく「開鑿」でしょう。土地を切り開いて道路や運河などを通すこと。
麾下 きか。将軍じきじきの家来。旗本。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌で、文政12年(1829年)に成稿。ところが、これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。

 これからは国立国会図書館デジタルコレクションの御府内備考を直接使います。ただし、「が」や「ど」などの濁音や、「、」「。」などの句読点は補っています。また≪≫は割注で、本来は一行の中に二段構えで表示する補注です。
 まず牛込の「込」は、「牧」の和字で、牛が「多く集まる」という意味。次は16世紀で、大胡氏を牛込氏に変更したことが書かれています。これも全く正しいのですが……

御府内備考

御府内備考

御府内備考巻ノ五十三
  総説
此所は往古武蔵野の有し所にて牛多くおりしかはかくとなへり。駒込村≪初に出≫馬込村≪荏原郡に馬込村あり≫等の名もしかなりと≪南向茶話≫。さもありしならん。江戸古圖にも牛込村みへたり。中古上野國大胡の住人大胡彦太郎重治といひし人當國にうつり≪年時を詳にせず≫此豊島郡牛込村にすみ小田原の北條に属せり。その子宮内少輔亜行天文十二癸卯年の秋七十八歳にして卒す。その子宮内少輔勝行が時に至り天文廿四乙卯年≪弘治元年なり≫五月六日、北條氏康に告て大胡を改めて牛込氏となれり。此時氏康より判物を賜ひ江戸の内牛込村今井村≪今赤坂にあり≫櫻田村日尾村≪今の日比谷なり≫を領せり≪他国の領地は略せり≫勝行天正十五丁亥年七月廿五日卒すとし八十五歳≪牛込系図≫叉北條分限帳を見るに江戸牛込六十四貫四百三十文の地を大胡某領せしよし載す。
125,000デジタル標高地形図

125,000デジタル標高地形図 http://www.gsi.go.jp/kanto/kanto41001.html

往古 おうこ。おうご。過ぎ去った昔。いにしえ。
武蔵野 武蔵野台地。荒川と多摩川に挟まれた関東平野南西部の洪積台地の通称。
 まき。馬や牛を放し飼うために区画された地域。
南向茶話 国立国会図書館デジタルコレクション「戯作六家撰」を引くと、 岩本佐七「燕石十種」(国書刊行会、明治40年、国立国会図書館オンライン)が出てきます。この354コマのうち254コマに「南向茶話」がでていて、「牛込之名目は風土記に相見え不申候へども舊き名と被存候凡て當国は往古嚝野の地なれば駒込馬込(目黒邊)何れも牧の名にて込は和字にて多く集る意なり」と書いてあります。
上野国 現在の群馬県。
大胡彦太郎重治 新宿区赤城元町にある赤城神社については、鎌倉時代の上野国(群馬県)赤城山麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治は、正安2年(1300年)、牛込早稲田田島村に赤城神社の分霊を祀ったといいます。
宮内少輔 くないしょうゆう。従五位下の官位。宮内長官は1人、宮内大輔は1人、宮内少輔は1人で、宮廷の修繕、食事、掃除、医療など庶務を務めた。
天文十二癸卯年 1543年
卒す しゅっす。死ぬ。特に皇親や四位・五位の人の死で。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代相模国の戦国大名。1515~71年。
北条分限帳 相模の戦国大名北条氏康が作らせた、一族・家臣の役高を記した分限帳。

「牛込方」の一部は麹町にはいっているのではと、磯部鎮雄氏は指摘します。しかし、そうではなく、単に神楽坂一丁目と二丁目の発展を描いているだけです。個人の名前が出ていますが、全員、神楽坂の南に出ている名前です。

正保年中江戸絵図

正保年中江戸絵図。正保元年(1644)頃の図

新見隨筆に云、昔は牛込の御堀もあらで、四番町にて長坂血槍、須田久左衛門なとの並びの屋敷をさして番町方といひ、牛込かたは小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門などのならびを牛込といへり[1]。その間の道幅百間に餘りし故。牛込かたと四番町の間、ことの外廣く草茂りて夜ことに辻切など云ことあり[2]、その後丸毛五郎兵衛、中根九郎兵衛などいへる小十人をつとめし人、小栗、間宮を屋鋪の前の方に居宅を給ひ、鈴木次右衛門、松平所左衛門、小林吉左衛門などおしならびて市が谷の田町へつゞきし故、道幅もおのづとせばまり七十四間といふになれり。そのころ牛込の御門もいできしなり。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間は1673~81年。

小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門 名は違いますが、姓は同じものが、右図で青色で描いた居宅にあります。
[1] 磯部鎮雄氏の註は「今千代田区富士見町1丁目、日本歯科大あたりか? この辺も牛込のうちに入るらしい」と書いていますが、残念ながら、入ることはありません。延宝年間の地図で、神楽坂より南の方を見ればよかったのにと考えてしまいます。
百間 1間が1.81mで、百間は181mです。
辻切 ➀ みちり。村の入り口で行われる民俗習慣のひとつ。注連縄しめなわを張ったり、大草鞋わらじを掛けたりして、悪霊や悪疫の侵入を防ぐ。➁ 辻斬。つじぎり。武士などが街中などで通行人を刀で斬りつける事。この場合は➁でしょう。
[2] 同じく磯部鎮雄氏の註は「このあたり切図の番町図をみると御用地で広く、里俗蛙ヶ原(かわずがはら)という所で,左手に牛込御門がある。この御門内も牛込の内であったのであろう」。[1]と同じで、残念ながら違います。
丸毛五郎兵衛、中根九郎兵衛 右図で水色で描いた居宅でしょう。
小十人 こじゅうにん。江戸幕府の職名で、将軍出行の際に先駆として供奉した足軽の組。
鈴木次右衛門、松平所左衛門、小林吉左衛門 右図で緑色で描いた居宅
七十四間 135.42mです。どこからどこまで測ったのか不明ですが、神楽坂下のスターバックスから麹町警察署飯田橋前交番までの距離でも正しいと思います。下図を参照。
牛込御門 寛永16年(1639年)に建築しました。

外堀通り

外堀通り(グランマップ Mapnet Corp. 2001で作成)