伝統の店々|昭和30年 (1/4)

文学と神楽坂

 中小企業情報に書かれていた『商店街めぐり-神楽坂』(編集部、1955年、昭和30年)を読んでみます。

伝統の店々

以上は、戦後における神楽坂の現況を示したものであるが、この街は既述したとおり、明治、大正の時代より極めて古き歴史をもった街だけに、また伝統ある古いのれんをもつ店々もまことに多く、これらの店々がこの街に多くの人々を呼び入れる一つの魅力ともなっている。

 この神楽坂の坂をのぼりつつ昔からの老舗をたずねてみると、まず坂の入口にある山田紙店は、明治二十二年創業でいま二代目、江戸時代は木版師ついで絵草紙屋であった。

山田紙店 創業はいつでしょうか。まずこの『商店街めぐり-神楽坂』(1955年)では明治22年。新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)でも「右角から二三軒行ったところに今でもある山田紙店(1丁目12番地)が明治22年頃からの創業であった。主人は関西の人とかいう事である」。渡辺功一氏が書いた『神楽坂がまるごとわかる本』では「明治二十三年『山田紙店』創業。初代山田栄吉。江戸時代は木版師、絵草紙屋。文具は物理学校(東京理科大)の学生御用達、作家の原稿用紙でも有名」と書いています。より古くが正しいとすると明治二十二年創業でしょう。他の点についてはここで

昭和27年の『火災保険特殊地図』(都市製図社)。七福はまだ建っていないので想像図。赤線は本文で出てくる店舗です。

紀の善は戦後汁粉屋になっているが、もとは、すしやで著名な店であった。幕末頃の創業で大名邸へ出入りしていたすし屋で、初代紀国屋善兵衛といわれている。すし屋は、しのだすし亀井すしの支店が次にならんでいる。メトロ映画劇場は二十七年一月元日を期して開場。次に山本薬局は文化五年創業以来この坂の中腹で連綿のれんを掲げている老舗で、今六代目、また向側のコーヒーの七福は元割烹の末吉、明治中頃の創業で今三代目、糸の菱屋は昔通りの貫録を示して繁昌している、明治三年創業。
紀の善

 新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)では

その一軒おいた隣に紀の善 ここも今は甘い物やになっているが,明治の30年代は料亭であった。幕末頃はすしやであったという(当時から1丁目12番地)

渡辺功一氏が書いた『神楽坂がまるごとわかる本』(2007年)では

文久・慶応年間(一八六一~六八)『紀ノ善』創業。口入業、紀州出身の初代紀ノ国屋善兵衛、維新後には、『紀の善 花蝶寿司』、戦後は汁粉屋、いまの甘味処『紀の善』

西村和夫氏の『雑学 神楽坂』(角川学芸出版、平成22年)では

天皇機関説の美濃部達吉は寿司屋紀の善を愛して度々来店した。達吉には四六時中警察の尾行がついて、店を出るとすぐあとに警官が来て『誰と会っていた』『何を話していた』など根掘り葉掘り聞いて帰った

牛込倶楽部が発行する『ここは牛込、神楽坂』平成11年第16号の富田冨江氏の『私が生まれ育ったまち』では

 うちがお汁粉やるようになった、戦後の話ですけどね。

 そう、戦前うちはお寿司屋だったの。それも宮内省の御用で、立ち食い寿司でなくて御用御膳寿司といっていた。

 そもそもうちの祖先は、紀国屋善兵衛といって、紀州の吉宗が江戸に出てくるとき一緒についてきたんです。いまの職安みたいな仕事で、若い男の人を六十人くらい連れて。だから「紀の善」なんですけど

ほかにここで

しのだすし  昭和27年の『火災保険特殊地図』(都市製図社)では「メトロ映画劇場」の西側に「しのだすし」と出ています。

 また、山本祥三氏の『東京風物画集』(雪華社、昭和38年、下図)で「志乃寿司」も同じものでしょう。地図を見ると、「しのだすし」は1970年にはありますが、73年にはなくなっています。場所はここで。

東京風物画集(雪華社、昭和38年)東京風物画集

亀井すし  昭和27年の『火災保険特殊地図』の左側に「(料)かほる」と「小間物 さ和屋」で挟まれて「亀すし」があります。ここでしょうか。時代が少し代わって、最下の地図(1960年、昭和30年、一番下の地図)を見ると「寿司亀井」と書いてあります。

 現在は「亀すし」は神楽ビルの「たんす屋」に変わりました。
山本薬局

 昭和27年の『火災保険特殊地図』では「しのだすし」の左側の「山本」がありますが、これは新宿区郷土研究会が書いた『神楽坂界隈』(平成9年)の「神楽坂と縁日市」では「山本油店」のようです。したがって違います。また上の1962年の写真で「山一薬品」も違います。

 直上の写真ではわかりませんが、昭和27年の『火災保険特殊地図』(一番上の絵)では、ちょうど「美容院マーサ-」の対面に「山本薬品」がでています。

 久保たかし氏が書いた『坂・神楽坂』(平成2年)では

山本薬局、もとは漬物やさんで、文化5年の創業というから相当なもの。ここには女の子が二人居た。中学の頃には女学校の上級生で、二人並んで、きれいなおべべを着て、しゃなりしゃなり歩いていた。はでであったので良く人眼をひいた。私も、又歩いてやがると思いながらも眼はその姿を追っていた。きれいで華やかだとデモであっても見ていて楽しい。

現在は神楽坂山本ビルで、神楽坂会計やデンタルクリニック神楽坂などが店舗をだしています。

七福 七福2七福 雑誌『かぐらむら』の「記憶の中の神楽坂」の「神楽坂1丁目~二丁目辺り」で「七福」は仲通りのなかにでています。しかし文章はありません。また、「七福ビル」というビルの名前は現在の地図(右の図)でも出ています。一応、昭和27年の『火災保険特殊地図』(最上の絵)に現在の「七福ビル」の位置を書いておきました。

七福1 しかし、「向側のコーヒーの七福」とは合いません。国会図書館の新宿区の地図1960年によればかなり位置が違い、写真では神楽坂通りに近い場所、美容室マーサの隣りにあったようです。しかし、「向側のコーヒーの七福」にはまだ不十分です。かつて昭和5年、1階の牛込会館と地下の「カフェーグランド」に分かれたように、本当は「七福コーヒー」は美容室マーサの地下だったのではないのでしょうか。
菱屋 菱屋も歴史があります。創業はこの本の『商店街めぐり』によれば明治3年(1870年)。新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)によれば明治四年、創業者は天利吉夫氏。「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。『新宿区の民俗(5)』で「店がよく栄えたのは大正・昭和初年頃で、二代目の庄次郎氏のころだった。関東大震災のときは米の買い出しに行き、近所に分けたこともあったという。震災後は神楽坂が最もにぎやかな時代で、道を横切れないほどの人出があった」

 菱屋1右図も同じで、右側に大きく菱屋が取り上げられています。

 「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが何かを狙って並んでいます。本当に利益が出るのだろうか? 「菱屋糸屋」は現在不動産の賃貸業です。

文学と神楽坂

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