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善国寺(写真)昭和44年 ID 8271-ID 8272

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8271とID 8272を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8272 善国寺

 地元の方から解説を送ってくれました。

 街ゆく人はコートを羽織っているので、季節は冬でしょう。
 3-4階と思われる高い位置から境内全体を撮影しています。門前の店は2階建てばかりだったので、どこから撮影したのか分かりません。同時代のID 101を見ると可能性があるのは尾澤薬局の屋根の上でしょうか。
 境内は多目的に利用されています。
 入口は3カ所。本堂(毘沙門堂)に続く正門(A)、その西側の庫裏くりに続く門(B)、毘沙門横丁から入る脇門(C)です。本堂と庫裏は渡り廊下で結んでいます。
 境内は未舗装ですが、主要施設の間には敷石があります。西門の階段など、場所によってはかなり傷んでいます。毘沙門横丁の敷石は、おそらく左(1)が浄行菩薩、右(2)は建屋がある出世稲荷でしょう。
 正門前の左側に台のようなもの(3)が置いてあります。献灯のローソク台ような感じです。その後ろの石囲いは壊れていて、ナナメの棒のようものも見えます。「1960年代の東京」(毎日新聞社)の1965年の写真では石囲いは正常なので、何かあったのかも知れません。
 正門内の左(4)と本道の左手前(4)は建物の基礎の跡のようになっていて、大きな石も見えます。戦前にあった大道芸や見世物小屋などの常設店の跡かも知れません。語らい広場(牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第3号、平成7年、下を参照)には、戦後も境内にダガシヤなどの店があったことが書かれています。
 この写真の空地はイベントやお祭りの御神酒所などに使われたようです。よく考えると神輿の御神酒所を日蓮宗のお寺の境内に置くのはおかしいと思いますが、そんなことは誰も気にしていません。今も4丁目の御神酒所は毘沙門様の中です。地方の名産品セールや6月4日の歯科医師会の無料検診会のようなイベント、選挙の演説会などにも使われています。
 2カ所、旗の掲揚塔(5)が立っています。寺の行事や街のイベントなどでのぼり旗を掲げていたのでしょう。また西の門脇には「易占えきせん/毘沙門天/易断所/藤墳蕙秀」(6)の看板があります。
 境内のかなりの部分は区の児童遊園として貸し出されていて、石造りの滑り台(7)、日よけ(夏場によしずをしく)を備えた砂場(8)、藤棚(9)、ベンチや水飲み場(10)、右下のブランコ(11)が確認できます。
 ID 8245に見うる鈴蘭灯はじめ、雑多な屋外照明(六角形で囲ったもの)(12)が見えます。参拝者用や児童遊園用など、目的に応じてバラバラに整備したのでしょう。
 毘沙門堂は1971年(昭和46年)に建て替えられました。この写真は建て替え直前の様子を残す目的だったかも知れません。児童遊園は小さくなって今もあり、藤棚も形を変えて本堂の手前に残っています。

庫裏 くり。住職やその家族の住む場所

 語らい広場(牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第3号、平成7年)では、写真よりも、つまり昭和44年よりも、少し昔に起こったのでしょう。

おびしゃ様のこと
 毘沙門様で、一番始めに思い出すのは、はずかしながら御門を入って左右にあった「ダガシヤ」さん。両方ともおばあさんが一人でお店番。焼麩に黒砂糖がついたのが大好物でした。
 塀のところには「新粉ざいく」の小父さん。彩りも美しい犬や鳥、人物では桃太郎、金太郎などが、魔法のように小父さんの指先から生まれてきます。
 それから御門の脇のお稲荷さんにちょっと手を合わせ、次は浄行善薩様のおつむを頭がよくなるようにタワシでゴシゴシ。虎さんの足をちょんちょん。一番最後にごめんなさい、御本尊様に「頭がよくなりますように」と無理なお願い。
 節分のときは、子守さんと一緒にミカンを拾いに参りました。渡り廊下のところでお顔見知りの小父さんたちが、いつもと違ってちょっと気取った紋付袴姿で(父もその中に)、豆とミカンを投げるのです。それを家へ持って帰り、ミカンを火鉢で焼いていただきます。風邪をひかないオマジナイでした。
 そう、おびしゃ様は神楽坂の子供のディズニーランドだったのです。
 母が子供の頃は、右の御門を入って右手に「万長」さんの箱車が幾つか並ぺて置いてあったそうです。その中で母はおままごとをしていて扉を閉められ「ごめんなさい!」と泣き叫んだとか。私か幼い頃もまだ箱車があったような気がします。 
 これも母の話ですが、裏手には墓所があり夏の夜はお化けごっこをしたとか。また明治か大正の始め頃には、境内に見世物小屋が出ていたとのことでした。
新宿区新小川町ますだふみこ


神楽坂3丁目(写真)三つ叉通り 昭和44年 ID 101

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 101は、昭和44年(1969年)、カメラを神楽坂3丁目に置き、神楽坂上の交差点方向を撮ったものです。写真の右側は4丁目、奥の方は5丁目になります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、「神楽坂通り」と花の木をモチーフにした造花があります。消火栓標識と消火栓広告がありますが、広告は空欄のようです。電柱の上には柱上変圧器があり、電柱看板も見えます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 101 三丁目

 すぐに左に回る路地は「三つ叉通り」という名前が付いています。牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第13号の「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では…… なお、井上元氏はインタラクション社長、林功幸氏は「巴有吾有」オーナーでした。

 するとさっきの検番通りに出る。
井上 そこは、道が三つに分かれているので『三つ叉通り』と名付けた。安易だったか。

 地元の方に意見を聞きました。

 撮影時期としてはID 64の神楽坂下(昭和45年3月)や、ID 7430の神楽坂上(昭和45年11月)と近いのですが、違いがいくつかあります。
 第一に、歩道です。このID 101は正方形の石を敷き詰めたもので、昭和40年代の神楽坂の「坂のある街」(昭和41年)と同じです。昭和45年はアスファルト舗装に変わっています。
 第二に、「神楽坂通り/美観街」という大きな標識ポールが、この写真で確認できないことです。「美観街」の標識は昭和42年の写真(田口氏 05-14-37-1 a b c)にはなく、昭和45年はあります。歩道の舗装と同時工事だったかも知れません。
 もう1点、この写真ではほとんど見えませんが、三菱銀行は建て替え前の旧店舗だったはずです。昭和45年には5丁目の仮店舗で営業していました。
 以下に、田口氏05-02-32-2などの他の写真で分かることも含めて解説します。

    1. 見切れているのは大佐和商店(現・楽山)。3階建てでした。看板は「○○○○銘茶研究会○○」と読めます。大佐和が4丁目に移転してきたのは昭和43年でした。
    2. 電柱広告「川島歯科」 ※袋町
    3. 「(福屋不)動産部/(毘沙門)せんべい福屋本店」
    4. 立看板「こどもの飛び出し多し」
    5. 尾沢薬局/富士フィルム」 ※DPE店を兼業していました。
    6. 日本勧業(信用組合) ※勧信の車庫
    7. かやの木 玩具店
    8. 電柱広告「中河電気」 ※5丁目
    9. 消火栓広告 空欄
    10. 電柱広告「 大久保
    11. (遠くに)協和銀行  ※6丁目
    12. 電柱広告「小野眼科」 ※新小川町
    13. サントリーバー さむらい ※洋品サムライ堂が2階で並営していました。
    14. 看板「(三菱銀)行」
    15. KEYS MADE。(合鍵作成)  ※宮坂金物店

70年。住宅地図。

本多横丁(写真)昭和7年 ID 96

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 96は、本多横丁の入り口を撮ったものです。資料は「若宮八幡祭礼神輿、本田横町角」で備考は「1932年」、つまり昭和7年の貴重な写真です。「角」は近くに四つ角や三つ角があるという意味です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 96 若宮八幡祭礼神輿、本田横町角

 道路は何もなく、歩道と車道もわかりません。
 さて、以降は上半分の解説ですが、地元の方の考えを100%いれています。神輿は神楽坂通りを走っています。

 1はナナメ渦巻きの床屋のマーク(サインポール)で、理容所を示します。2の看板は右横書きで「理島豊」と読めます。豊島理髪店は「大東京繁昌記|早稲田神楽坂01」に出てきます。3もサインポールと同じデザインで、おそらく豊島理髪店の突き出し看板でしょう。
 4はお祭りの御神酒所と思われます。輿こしは神様が氏子の地域を回う乗り物で、神輿が地域で休憩する場所を神酒みきしょと言います。よしずのようなもので囲われていて、しめ飾りや提灯らしきものも見えます。
 この場所は神楽坂(戦前は神楽町)3丁目で、若宮八幡の氏子地域です。本多横丁を挟んで、この写真の奥側の4丁目(戦前は上宮比町)は筑土八幡の氏子になります。ふたつの神社は現在、1週間程度の間をおいて秋祭りをします。戦前も同じように日を違えていたでしょう。

本多横丁 戦前

 5は神楽坂通りの街灯です。神楽坂通り 街灯の研究(戦前編)に出てくる【K】【L】と同じものの下側だけ写っているようです。まだ歩道が十分に整備されておらず、街灯は店の近くに立っていました。神輿の金鵄が柱を隠しているようです。
 6も街灯ですが、5の街灯とは形状も、また街灯の向き違います。これは本多横丁の入り口の両側の街灯だからでしょう。特筆すべきは、この戦前の街灯の形状が、終戦から間もないすずらん通り=本多横丁の写真の街灯と酷似していることです。鋳物製と思われるので、焼け残って再利用されたかも知れません。
 7は「天〇 㐂作」と読めます。牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第5号の「戦前の本多横丁」によれば「天ぷら・喜作」という高級店があったそうです。その案内広告ではないでしょうか。また、この広告が貼ってある板壁の家は神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期に写っている竹川靴店と思われます。
 8は仮名の「し」に見えますが、神輿の屋根の角にある巴字型の飾りと思います。
 9は「本〇所」のように読めます。「本多横丁」や「神楽坂」と面白いけれど、さすがに違うようです。
 最後に、地元の方に提供して頂いた写真を添えておきます。5~6歳と思われる子供が「上宮比」のお祭りのはっぴを着て、頭には「神」の手ぬぐいをはちまきにしています。撮影は昭和8-9年ごろということで、ID 96とほぼ同時期です。

上宮比はっぴ

上村一夫が「寺内」から描いたもの|古賀八千香

上村一夫氏

文学と神楽坂

 平成13年(2001年)『ここは牛込、神楽坂』第18号に「上村一夫が『寺内』から描いたもの」という小文があります。
 古賀八千香氏がこの文をまとめましたが、彼女は雑誌に関わっているらしいこと以外は不明です。まあ、ここは上村氏が問題なので……。しかし、古賀氏も本当にうまい。

上村一夫が「寺内」から描いたもの
 上村一夫の作品は『同棲時代』くらいしか知らない人も、彼の描く女の顔は、すぐ見分けられるはずである。あの特徴的な眼。それが好きかどうかは別として、魅力的であることは否定できない。彼は1986年に45歳で亡くなっているが、最近再び人気が高まっているという。
 その上村一夫が、まだ劇画家としてスタートしたばかりの頃、神楽坂の「寺内」に仕事場を持っていた。1970年頃のことである。ほどなく人気作家となり、手ぜまになったのか、駒場のマンションに移ってしまったため、期間は短い。しかし、神楽坂は彼にとって印象深く、相性の良いまちだったようである。83年発表の『帯の男』というシリーズでは、舞台を神楽坂にもってきて、まちの情景を存分に描き出しており、作品的にも成功している。この『帯の男』を参照しながら、上村一夫にとっての神楽坂、というものを考えてみたいと思う。
同棲時代 双葉社『漫画アクション』の漫画。1972年から1973年まで80回連載。
特徴的な眼 魅惑の眼差しはたとえば代官山蔦屋書店で上村一夫の生誕80周年を記念する作品展(2020/7/24-8/9)があります。83年 昭和58年
 上村一夫が神楽坂で仕事をしたのは、1968年から1971年頃である。はじめのごく短い期間は、毘沙門様近くの置屋の二階を借りていた。そこから移った本格的な事務所が「寺内」にあったのである。当時の関係者の30年前の記憶から、およその場所はすぐにわかったのだが、何しろあの辺りは特に変化の激しいところだ。事務所のあった建物も、とうになくなっでいるらしく、ここだ、という決め手がなかなか見つからなかった。古くて暗い感じの建物で、やはり二階を借りていたということしかわからない。
 そこで、上村一夫がしょっちゅう出前を取っていた店、という線から探ってみることにした。すぐ近くにあった店で、確か名前は「ひろし」。この店も今はない。が、近くで聞き込みをしたら、読売新聞販売所の方がよくご存知だった。しかもその店の元店長が、今は津久戸町のスナック「佳根子」のマスターをなさっていることまで教えてくださったのである。
 さっそく1970年の航空地図を持ってお訪ねしてみた。上村一夫が生きていたら、あまり年が違わない感じの、ダンディーな方である。事務所のことハッキリ憶えておられ、地図を見るなり「料理・白菊」という建物を指さされた。「これこれ、この白菊が旅館をやめてアパートにして、二階を上村さんに貸してたんだよ」
「白菊」は、まさにあのマンション建設予定地にあったのだった。隣が今井クリーニング店である(今井クリーニング店の方に、あとで白菊のことをたずねてみたが、上村一夫のことはご存知なかった)。今井クリーニング店の隣の隣が「ひろし」、正しくは「」だ。今、山崎パン店になっているところである。上村一夫は、とにかく「寛」のハヤシライスが好きで、出前はもちろん、ひとりでふらりと店に来ては、いつもハヤシライスを食べたという。
置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
読売新聞販売所 当時は青色の家。2020年には、焼き鳥屋「酉刻」に変わっていました。
航空地図 航空地図とは空中写真を元にした地図でしょうか。航空地図の定義はかなり調査してもなさそうです。ちなみに空中写真とは飛行機に搭載した航空カメラを使って撮影された写真。住宅地図は建物の形状や居住者名等が記された大縮尺の地図。現在は、住宅地図を使っているようです。
料理・白菊、今井クリーニング店、寛 1967年の住宅地図では、赤が白菊、橙色は今井クリーニング店とひろしです。

1967年 住宅地図

『帯の男』の源次郎も、酒を愛する男だ。初老の源次郎はアパートに独り暮らしで、しばしば酒の店「いせや」に現れる。「いせや」は明らかに「伊勢藤」がモデルで、店のつくりや雰囲気がそっくりだ。ただ、店の人物は創作で、「いせや」の女主人、お涼さんは源次郎の心の女性でもある。第二話では二人の過去が明かされるが、「いせや」の場面は、六話全部において重要な役割を果たす。(中略)『帯の男』で描かれるのは、路地のピンコロ石や、料亭の黒塀毘沙門様といった、いわばガイドブック的な神楽坂だけではない。待合だった「松の家」の外観が、置屋「松乃家」として出てきたり、岩戸町繁栄稲荷神社が、なぜか好んで描かれたりする。神楽坂通りにいたっては、看板や電信柱まで、ていねいに描きこまれており、妙にリアルで面白い。
伊勢藤 いせとう。神楽坂4-2にある日本酒居酒屋。まるで昭和の風情がある飲み屋。下図での上は兵庫横丁、下は飲み屋の伊勢藤の内部。
 なお、伊勢藤、毘沙門、松の家(現在はTrunk house)、繁栄稲荷神社の地図を出しておきます。拡大できます。ピンコロ石 こぶし大の立方体に整形された石材のこと。鱗張り舗装とは基本的にピンコロを鱗のように並べたもの。
黒塀 柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀。防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出した。
毘沙門 日蓮宗鎮護山善国寺です。

昭和56年頃の毘沙門天。(加藤八重子著『神楽坂と大〆と私』詩学社、昭和56年)

「織田一磨 東京・大阪今昔物語」版画芸術。阿部出版。1993年(平成5年)

現在の毘沙門天

松の家 新宿歴史博物館の「新宿区の民俗⑸牛込地区篇」(平成13年)の29頁では待合「松ノ家」は戦前までは神楽坂3丁目にあったと書いてあります。戦後はなくなります。都市製図社『火災保険特殊地図』(昭和12年)では本多横丁から一歩入った、現在はかくれんぼ横丁(360°カメラ)の家でした。2019年、Trunk house(一軒家のホテル)に代わり、2021年3月では、1泊632,500円(プライベートバトラー、プライベートシェフ、朝食付き。税込。4名まで宿泊可)。宴会は3時間で15万円。
繁栄稲荷神社 新宿区岩戸町7にある神社。

神楽坂通り 下図を見てください。赤い円の縁石はごく普通で、高くなっています。一方、青円の縁石は低く、なだらかになっています。どうしてこういう形になっているのでしょう。もちろん、車が乗り越えるためで、車道の反対側、歩道の奥、住宅街のほうには、多分、車がはいれる駐車場や袋小路があるのです。
 下図も同じですが、50年ほど昔なので、どこを絵にしたのかは、わかりません。少し上に登った場所でしょうか。
 さらに下図。「つもりらしいけど」の台詞があり、その下を見てください。やはり同じような袋小路にあると思います。
 またこの漫画の絵には「坂」と思える看板も見え、全体に奥の方が高くなっています。これは神楽坂2丁目にある袋小路を描いた絵でしょう。
 実際はこの三点は特定できると地元の方。
 なお、電柱広告の「(質)大久保」商店は、神楽坂仲通りの右側にあり、芸者新路を越えてすぐの位置にありました。

1980年、住宅地図。


 また、「大島歯科」は神楽坂2丁目の袋小路からほぼ反対側にありました。

1980年、住宅地図。





本多横丁|近江屋ビル~宮崎ビル

文学と神楽坂

 本多横丁の近江屋ビルから宮崎ビルまでを眺めてみます。

(左)Google地図(右)商店街マップ

(左)Google地図(右)商店街マップ



 最初は新宿区教育委員会から『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(新宿区教育委員会、昭和45年)➊です。

➊古老の記憶による関東大震災前の形
本多横丁

 ここでは神楽坂通りから本多横丁に入って、左側(北側)の店舗をみていきます。「竹川靴」から「豆フ・米沢」までの8店舗あります。

 次は戦前の形➋です。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「戦前の本多横丁」(平成7年)では神楽坂通りから紅小路までの店舗は4店舗(竹川靴店、山本コーヒー、中村屋、そば・海老屋)でした。ここで➊で「朋月堂」は紅小路の下に、➋で「せんべい明月堂」は紅小路の上になっています。また「豆フ・米沢」と「豆腐屋」も同じです。

➋戦前の本多横丁

 ❸も戦前で、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)です。紅小路を見てみると、その直下に「ソバヤ」があります。この上➋でも同様で、「そば・海老屋」があります。「ソバヤ」から3店舗離れて「床ヤ」がありますが、❶では「大内トコヤ」は紅小路のすぐ上にあります。どうも、この❶の「紅小路」は真の「紅小路」(赤)ではなく、「紅小路裏」(橙)ではないか、と考えています。

➌戦前

 次は戦後で、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和27年)➍です。「海老屋そば」は同じですが、その上は「松月堂菓子」となり、➋の「明月堂」や➊の「朋月堂」とも違っています。どれが正しいのでしょうか。「ここは牛込、神楽坂」第5号のインタービューで女将は「明月堂」だと答えましたので、正しくは「明月堂」でしょう。
「たつみや」は戦後に出てきたものです。さらに、紅小路はこの時期、通れないようになっています。

➍戦後

 次は「住宅地図」の昭和35年➎です。「たつみや」と「竜見」は同じ店舗を指しているのでしょう。海老そば、明月堂パンも出てきます。

➎1960年

 では、1990年➏に飛びます。近江屋だけは近くの一軒を飲み込み、大きくなりましたが、その他は何も変化しません。宮崎氏の宮崎ビルは「明月堂」と同様に、氏が創設し、今でもオーナーとして子孫が働いています。1世紀以上に渡ってこの地域では同じオーナーたちが同じ場所を占めているのです。(まあ、普通)。ただし、テナントの多くは新しいものになっていますが。

➏1990年

 まとめ。「古老の記憶による関東大震災前の形」に大きく違いはなかった。しかし2つだけは間違いで、1つ目は「紅小路」は真の「紅小路」(赤)ではなく、「紅小路裏」(橙)でした。2つ目。松月堂菓子や朋月堂ではなく、明月堂でした。

住所3-23-23-53-63-7 3-8
建物近江ビルたつみや神楽坂Tkビル海老屋ビル紅小路宮崎ビル
大震災前竹川靴貴金属岡本山本コーヒー洋服屋/洗い貼り唐物朋月堂
戦前竹川靴店染物・中村屋そば・海老屋せんべい明月堂
1952近江屋ハキモノ3蒲焼・たつみ家京染 そば・海老屋松月堂・菓子
1960酒やかた明月堂パン
1963
1990近江屋ハキモノ栗原宮崎ビル

 なお、コロナウイルスのために飲食店に路上利用を緩和するという動きが始まっています。これって、神楽坂ではできるのでしょうか。

 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」では

●竹内小学校は結構な学校でした。
おせんべの「明月堂」宮崎なおさん96歳
  私はここで生まれたんです。明月堂つていうおせんべ屋の一人娘で。学校は竹内小学校というところに通ってました。うなぎの志満金さんの横を入りまして、ちょっと行きますと結構な校舎がございましてね。幼稚園もありました。運動会や遠足も盛んで、鎌倉に行ったのを覚えています。でも、そのうちさびれてしまって、津久戸小学校と一緒になりました。
 若い頃はあらゆるお稽古をしたものです。お友達もたくさんいて、神楽坂に何か食ぺに行ったり。とくに本多横丁の「若松」はこじんまりしたいいお店で、お友達と「若松」行こう、行こうって。
 昔は、いまの「ほてや」さんとこが検番で、それは賑やかでした。夕方になると検番は忙しくなって。芸者衆はみんな縁起をかついでお水を汲んだりしてお座敷を待つんです。待合や料亭さんは、なめつけたようにきれいに掃除して。このへんは芸者屋さんや料亭さんも多くてそれはたいへんなものでした。
 もっといろいろ覚えているといいんですけど、もう96ですからね。みんな忘れてしまって、お返ししちゃったことが多いんですよ。
●ジョン・レノンがオノ・ヨーコさんと。
うなぎ「たつみや」高橋たまさん75歳
 ここは戦前、山本コーヒー店がドーナツをつくっていたところなんです。私は戦前、新見附にいて、娘の頃は毎日神楽坂に遊びにきていました。それで、戦後店を持つとき、ぜひ大好きな神楽坂でと、ここへ来たんです。
 お店は23年の丑の日に始めました。そのときは向かい側で、料亭への出前が中心でした。お父さんは料亭さんの旦那にかわいがっていただきましてね。戦後の神楽坂も芸者さんが多くて、新内流しなども来て、よかったですよ。
 ジョン・レノン? ええ、オノ・ヨーコさんと見えました。週刊誌にうちのことが出たので、それを見て来てくれたようで。亡くなったのはあれからじきでしたね。
 週刊誌に書いてくださったのは作家の森敦さんで、以前は近くの印刷会社で経理をなさっていました。お父さんを聶厦にしてくださって、芥川賞をとられた後もよく来てくださいました。
 それから常盤新平さんが直木賞をとられたときは、うちで報せを待ってたんですよ。大勢の方とご一緒に。
 写真家の荒木(経惟)さん、山田洋二さん、久米宏さんなどもご聶厦にしてくださって。松平健さんが見えたときはサインをいただきました。お父さんも私も「暴れん坊将軍」のファンなものですから。お父さんは軽い脳卒中をやりましたが、ええ、もういいんですよ。

 かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」神楽坂1丁目~2丁目辺りで

海老屋(そば屋)
 お店の前の自転車がすごかった。年季の入ったボディは鈍い光を放ち、フレームにぶら下がったぼろぼろの看板には海老屋の文字がかすかに見える。革のサドルはひびわれておじいちゃんの手みたいになっていた。この自転車がお店の味だった。


ごくぼその路地(360°パノラマVRカメラ)

「鮨・酒・肴 杉玉すぎだま」(以前は「あわや」)と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。神楽坂では最も狭い路地で、しかし、先の狭い路面には居酒屋も数軒あります。

 正式にはこの路地の名前は付いていません。たとえば中村友香氏、梅崎修氏の「景観としての路地維持の可能性」(地域イノベーション第3号、法政大学地域研究センター、2010年)では「毘沙門向かいの細い路地」と書いてあります。

 もちろん、何かあった方がいいと考える人もいて、たとえば、平松南氏の『神楽坂おとなの散歩マップ』(けやき舎、2007年)では

ごくぼその路地…神楽坂4丁目
神楽坂ではもっとも狭い路地。表通りから身を隠すのに便利。狭い路に面して居酒屋もあり、路地の多彩さを感じさせる。

 牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年(1998年)夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」でした。

井上 で、この最後の難所で、しのび坂(註:現在は「兵庫横丁」が普通)と交わる伊勢藤の近くの、「みさか」のところを抜けて帰りたいが。あの、ほんの狭い小道を。
  デブは通れないから『デブ止め小路』にとか(笑い)。逆に『細身小路』とか。
井上 「みさか」のママは秋田美人だが、細身とはいえないなあ。名もなきままの小路を一つぐらい残しておくのも愛敬あいきょう

 西側の店舗4軒がここ「ごくぼその路地」で開店し、2019年はさけことぶき、ちょいしてっぺい、バー ソルト、シゲ テイです。一方、東側の店舗はどれも裏側でして、たとえば「ル・ブルターニュ」。これは東は酔石横丁に接して堂々と開き、一方、西は「ごくぼその路地」で、勝手口だけです。

 しかし、戦後のしばらくの昭和27年、「ごくぼその路地」は酔石横丁よりも大きい時代がありました。(☞一番狭く細い路地

 この路地の神楽坂通りに出る南端はわずか91cm、四つ角にぶつかる北端は122cmでした。

ごくぼそ10

ごくぼそ10

ごくぼその路地。2013年

ごくぼその路地。2013年

神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 明治時代、東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

神樂坂町二丁目 享保中、士地官収くわんしうして、よけとなし、延享えんきやう二年放生寺ほうしやうじ借地しやくちとし、文政五年田町四丁目代地だいちとなる。明治二年神樂坂のとりて牛込神樂かぐらちやう改稱し、明治四年六月附近ふきん士地しち開墾地かいこんちを合し、南隣に一丁目をつるを以て其の二丁目となす。坂に神樂かぐらざかあるを以て里俗此邊このへんすべて神樂坂と稱す。
享保 1716~36年
士地 武士の土地ではないでしょうか?
官収 官庁がとりあげること。没収。
火除地 江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。
延享 1744~48年
放生寺 東京都新宿区西早稲田にある高田八幡宮の別当寺。別当寺とは江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺
文政 1818~31年
田町四丁目 現在の新宿区市谷本村町1丁目。
代地 江戸幕府が江戸市中において強制的に収用した土地の代替地として市中に与えた土地のこと。
改稱 名称や称号を改めること。改名。
里俗 りぞく。地方の風俗。土地のならわし

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では

神楽坂2丁目
 神楽坂一丁目の西側、神楽坂の両側に広がる地域で、江戸時代には旗本や御家人の屋敷が多くを占め、町地は市谷いちがや田町たまち四丁目代地があった。
市谷田町四丁目代地 もともと市谷田町四丁目内にあったが、文政5年(1822)2月8日に町内から出火した火災で焼失した場所が尾張徳川家の火除地となったため、同年6月9日、神楽坂南側にある穴八幡放生寺拝借地旅所跡を下され、そのときからこの町名となった(町方書上)。里俗は神楽坂。
 明治2年(1869)5月に牛込神楽町(町名唱替帳・明治2年町鑑)、同4年6月周辺の土地を合併して神楽町二丁目と改称(市史稿市街篇53)。昭和26年5月1日から現在の神楽坂二丁目となる(東京都告示第347号)
 ここで神楽坂通りを横切る右側と左側がそれぞれ別の横町につながっています。
 まず明治20年の地図2丁目。この地図では鏡花仮宅と出ていますが、現在はなくなり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の標柱が立っています。
 右側は「神楽小路(こうじ)」、昔は「紀ノ善横丁」といいました。場所はここ
 神楽小路 左側は「鏡花横丁」です。場所はここ。鏡花横丁は牛込倶楽部の平成10年夏号『ここは牛込、神楽坂』で提案した地名です。小栗横丁

 このあたりは泉鏡花の旧家があったということで『鏡花通り』とつけるといいんじゃないかと言ったことがあるんですよ。でも、文献では「小栗横丁」になっているらしい。


 志満金と田口屋生花店に挟まれた横丁を鏡花横丁と呼んでいるようです。鏡花横丁はまっすく曲がらずにいって理科大に行く。曲がってからの道は小栗横丁といいます。なお、小栗横丁は以前、小栗利右衛門屋敷があったためとされています(町方書上)。詳しくは小栗横町で。二丁目のアグネスホテルはここから行くこともできます。
ここは牛込、神楽坂』「語らい広場」で、ある読者は「大通りを入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地」だといっていました。路地の幅は3尺(90cm)。神楽坂ではおおむね正しいのでしょうか。
 左側には「志満金しまきん」と「オザキヤ靴店」が見えます。 さらに行くと「ポルタ神楽坂」にやってきます。 Portaはラテン語で城門のこと。2011年にできた新しい9階の建物です。東京理科大学の新施設ですが、1、2階にはたくさんレストランが入っています。たとえば二丁目食堂トレド千年こうじや梅花亭です。あっという間もなく消えていった店も沢山あります。また、昔ここにカフェーユレカ(あるいはユリカ)があり、詩人がやってきたりしました。ポルタ神楽坂

Porta神楽坂(写真)ポルタ

赤はポルタ神楽坂に

 ではまた神楽坂通りを上に向いて歩いてみましょう。陶柿園神楽坂写真館さわや肉のますだや太陽堂などがでてきます。
 ここで神楽坂について、『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイ・赤井義松はこう書いています。

よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。
 さらに上に行くと、神楽坂の2丁目と3丁目の境にやってきます。3丁目の右側には1階はサークルK、2階はロイヤルホストが見えます。昔は牛込會館でした。
 その下には牛込神楽坂の図もあります。
2丁目と3丁目
 このあたりが一番急な坂になり、最大勾配は12%、角度は4.5度です。(『ここは牛込、神楽坂』14号42頁)

 ここから上を向いて行くと神楽坂3丁目に、右側は神楽坂仲通りになり、左側は下向きの神楽坂仲坂から小栗横丁に入ります。

昭和5年頃平成8年令和2年
はりまや喫茶夏目写真館ポルタ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽屋煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールチャイハネ インド服
樽平食堂ラーメン花の華天下一品 中華そば
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴
三好屋食品志満金 鰻
增屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服
田日屋生花店