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「ほてや」と「ほていや」

文学と神楽坂

「ほてや」について、地元の人の意見です。

 本多横丁(神楽坂通り~芸者新路)を興味深く拝読しました。
 ただ最後に出てくる「ここは牛込、神楽坂」第5号「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」の「ほてや」広田静江さん83歳の話は、釈然としません。
 広田さんは「戦前は毘沙門天の隣の「春月」というおそば屋さんがあったところ…今の三菱銀行の隣に店がありました」と話しています。その「春月」は、こちらのブログで何度も登場します。

 たとえば…
 ◎神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形
 ◎待合「誰が袖」では「遊び場だった『寺内』」の明治40年前後の地図が書かれています。
 ◎春月[昔]は、明治25年生まれの子母沢寛氏が「書生の頃から久しく通った」と回顧します。
 ◎大正6年の神楽坂地図(龍公亭物語り)
 ◎神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期
 いずれも同じ場所にあります。「春月」は一貫して人気店で、廃業したのは戦後のことでした。

 じゃあ、ほてやさんはどこに店があったのでしょう。ウェブサイトで自社を「大正初期の創業」としています。「毘沙門横丁」の奥、春月の裏あたりなら可能性があります。


 もう少し、ほてやさんについて考えてみます。店舗は「大正初期」に創業したといいます。大正の地図は1つしかなく、「古老の記憶による関東大震災前の形」です。しかし、ここには「ほてや」はありません。
 戦前の昭和の地図は「昭和12年 火災保険特殊地図」だけです。これにも「ほてや」はありません。店舗としてはまだまだ若いと考えたのでしょうか。

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年

 なお、戦後も春月が同じ場所で出てきます。したがって、「ほてや」は春月と同じ場所にはありえませんが、戦前には、その下のXに、あるいは春月の一部分を借りてもよさそうです。

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和27年

小林徳十郎「牛込区名鑑」大正15年。自治めざまし新報社

 ちなみに同じ呉服屋で似た名前の「ほていや」という店がありました。この「ほていや」についても説明します。「ほていや」は明治時代にもう出店して、住所は肴町(現在の5丁目11番地)。「ほてや」とは違うものだとわかります。「ほていや」は伊勢丹に合併されて消えました。
 ◎古老の記憶による震災前の形
 ◎東京名所図会(東陽堂、第41編、明治37年、14頁)には「呉服店には布袋屋(11番地)
 ◎明治35年、西村酔夢氏の「夜の神楽坂」では「これは土地の石川屋や、ほていやなどで拵らえる」
 ◎大正13年、泉鏡花作の「春着」では「神樂坂には、他に布袋屋と言ふ――今もあらう――呉服屋があつた」
 戦後はブティックタカミが建っていましたが、大久保通りの拡幅のため取り壊されて、現在は一部がセブンイレブンに変わりました。


 結局「ほてや」は一帯どこにあったのでしょう。「大正初期の創業」だけではわかりません。春月は戦後も生き残っています。現在のところ、「春月」ではなくその裏手にあった(Xの場所)か、あるいは春月の一部分を借りて、三菱銀行の隣に「ほてや」があったと考えます。
 なお、ほていは一般的には「布袋」と書いて、10~11世紀の仏僧で、大きな袋をせおい、体型は肥満体でした。

2度目の緊急事態宣言と神楽坂

文学と神楽坂

 地元の人からの情報提供です。

東京都などに、新型コロナウイルス感染症に対する2度目の緊急事態宣言が発令されました。

昨年(2020年)は神楽坂の表通りだけでも、炉端の炉(3丁目)、鳥茶屋(4丁目)、鮒忠(5丁目)などが閉店しました。地元商店会によれば、退会した店は約20店舗だったということです。

飲み屋の多い裏通りは、さらに大きな打撃を受けています。神楽小路を歩くと閉店の張り紙をいくつも見ます。世話役が店を閉めたため「神楽小路親交会」は解散したそうです。

昨年の緊急事態をなんとか乗り切った店が、2度目の打撃に耐えられるかどうか分かりません。ワクチン接種が始まり、なんとかコロナが収束してくれることを祈念しています。

一方で、この事態にしたたかに立ち向かっている店があることも事実です。昨年の春まで神楽坂の貸し店舗には空きがなく、新規に店を開けない状態でした。コロナで空いた後、直ちに出店したのが「すしざんまい」(3丁目)です。チャンスだと考えたのでしょう。またコロナ以前に建設が始まっていた大久保通り角のビル(5丁目)にも、コンビニの出店が決まったそうです。

コロナを機にビルの建て直しを始めたところも、いくつかあります。ビル完成時にはコロナが収まっているだろうとソロバンを弾いたのでしょう。なるほど、しばらくは商売にならないから、逆に休業・転業してビルを建て直すにはいい時期といえます。ビンチをチャンスに変える戦術かもしれません。

地元商店会によれば、新たに入会する店も10店ほどあるのだそうです。神楽坂は、まだまだ強いなと思います。


2度目の緊急事態宣言 2021年1月7日です。
炉端の炉 鳥茶屋 鮒忠 図を参照
世話役 ラーメン屋「黒兵衛」店主です。黒兵衛も閉店しました。
解散した 神楽小路(360°VRカメラ)の360°カメラの5枚目か6枚目にあります。

すしざんまい 炉端の炉と同じ場所です。

大久保通り角のビル 10階建てのビルです。名前は「神楽坂5丁目ビル」でした。現在は「セブンイレブン 神楽坂5丁目店」です。

 また「ここは牛込、神楽坂」第4号で「泉鏡花の神楽坂時代」で竹田真砂子氏が書いている……

 「婦系図」には、めの惣という魚屋が登場します。原作ではあまり目立ちませんが、劇化によってお蔦主税の悲恋がクローズアップされるに伴い、欠かせない人物になりました。めの惣のモデルが、現在、当主五代目をかぞえる料理屋、うを徳の創始者であることは、すでにご案内のとおりです。このうを徳が、魚屋から料理屋になるとき鏡花は、開店御披露報條を記して祝いました。
報條 報条。ほうじょう。引札ひきふだ。ちらし。

 この「うを徳」も2022年に閉店しました。

牛込・神楽坂 酒問屋 升本総本店の別館「涵清閣」 主人が語る https://blog.goo.ne.jp/sake-masumoto/e/bb8eddb82b096a97453cbabb5cd4cc31

終の棲家の神楽坂|冨士眞奈美

文学と神楽坂

関係はないけれど、昔の冨士眞奈美氏

 冨士眞奈美氏は女優、俳人、随筆家。1956年、『この瞳』で主役デビュー。1957年、NHKの専属第一号になり、1970年、日本テレビ系列の『細うで繁盛記』の憎まれ役は大ヒット。生年は昭和13年(1938年)1月15日。
 本稿は『てのひらに落花らっか』(本阿弥書店、平成20年)の「終の棲家の神楽坂」から。実はこれより前の2005年秋、「神楽坂まちの手帖」第9号に書かれたものでした。「神楽坂俳句散布」という連載が始まった初回に出ています。この随筆は、牛込中央通りの風景を加えて、なぜ俳句に惹かれたのかを、書いています。

ついの棲家の神楽坂
 神楽坂近くの街に棲んですでに十七年になる。十八歳で静岡の伊豆半島を後にし上京してから、数えれば十回目の引越しで、どうやら終の棲家となりそうである。
 それまでは、新宿区信濃町に十六年棲み、なんだか同じ所に長い間いるなあ、と思い始めた頃、マンションの大家さんが土地を売ることになって立ち退かざるを得ず、大至急探してバタバタやって来たのが現在の住居だったのである。ちょうどバブルの頃で、マンションも高く売れたが、引越しのため建てた家もびっくりするほど高かった。
 信濃町の部屋は、いながらにして神宮外苑の対巨人戦の歓声などが風に乗って流れてきて、野球好きの私としてはけっこう気に入っていた。権田原を通り、東宮御所沿いに散歩する日常はなかなか優雅で、小さな子供の手を引いていつまでもどこまでも歩いていきたい気分であった。近所付き合いもない静かな環境で、来客の多い暮らしだった。
 現在は全く趣きが違った生活である。
 近くにスーパーコンビニェンス・ストアがあり、和洋中華、レストランや食べ物屋さんもたくさん並んでいる。十分も歩けば、神楽坂の賑やかな通りを散策したり、気ままな買い物を楽しんだりもできる。
 五月になり六月になり、夏も盛りの頃になると、外濠通りから入った神楽坂の通りの街路樹が、どんどん色を増し枝を伸ばして空を覆うように緑を繁茂させている風景が好きだ。
 神楽坂が、坂の街だということを樹々が美しく特徴づけてくれる。夜の街灯が点った様子も好きである。そこに人々の暮らしがしっかり根付き、江戸の昔から誇り高く街の格調を守ってきた、という印象を持つ。
 越してきたばかりの頃、街の人々は新参者の私を用心深く眺めているような感じを持った。長い生活になるのだから、早く馴染まなければと、少しばかり焦った。買い物は一切、近くの店で、と決め、お金の出し入れも歩いて数分ほどの金融機関を利用することにした。一週間に三、四回は近所で外食をし、帰りに飲み屋さんでイッパイ、という日々を送った。おかげで昼日中、通りを歩いていても顔が合えば笑顔を見せてくれるようになり、声をかけてくれるようにもなった。
 馴染めばあったかい人情の町だと思った。こんなことは東京に来て初めてのことである。近所付き合いが楽しくなるなどとは、思いもしなかった暮らしの中に入っていったのだ。
 お隣さんは、窓越しにおかずをお裾わけしてくれるし、家を留守にするときなど頼めば夜中に見回ってくれたりもする。ネズミやゴキブリが突如発生して恐怖に駆られた時も、電話一本で午前二時頃ホウキ片手に駆けつけてくれた。本当に有難い。表通りの花屋の奥さんは、上手に漬かったから食べてみて、と胡瓜のぬか漬をわけてくれたし、和菓子屋さんの御夫婦もオカラや切干し大根の煮物を届けてくれたりする。私も到来物の筍や干魚などを配り歩くことがあり、そんなときの気分は何だか嬉しくてとても高揚している。プロ野球談義をする仲間(おやじさん)もいるし、通りを歩けば、人生寂しいことなんかちっともないぞ、という気分になれる。
 友達の吉行和子に「私の辞書にはね、孤独という字はないの」と或る時言ってしまった。本当にそう思うのである。和子嬢は呆れたような不思議な顔をして「へえ⁉」といったきりであった。
 以前、立壁正子さんという女性と知り合い「ここは牛込、神楽坂」というタウン誌の「俳句横丁」という欄を任せてもらったことがある。投句数も多く、そうか神楽坂には俳人もたくさんいるのだ、ととても嬉しかった。残念なことに立壁さんが亡くなりそのタウン誌も廃刊になった。
 このたび「私は神楽坂の、ペコちゃんの不二家の主人です」と早々に正体を明かされた平松さんから、主宰する雑誌に俳句棚を設けたいのですが、と相談があった。あ、この街にどんどん馴染んでる、と私は嬉しく「もちろん仲間に入れてください」と返事をした。この街にいれば、一人遊びも出来るし、集まって座を持つことも出来るのだと思った。それこそ、俳句の本質なのである。

終の棲家 ついのすみか。これから死を迎えるまで生活する住まい
現在の住居 新宿区納戸町で、中町と同じ通りにあります。
近くに おそらく牛込中央通りです。

牛込中央通り商店会「お散歩MAP」平成20年から。ダブルクリックで拡大。

スーパー 細工町15にスーパーの村田ストアがありました。これはスーパーの「神楽坂KIMURAYA北町店」に変わり、さらに2019年4月、スーパーの「SANTOKU牛込神楽坂店」にかわりました。
コンビニェンス・ストア 牛込北町交差点の近く、箪笥町28にセブンイレブンがあり、これは現在も同じ店舗です。
金融機関 細工町18に帝都信用金庫がありました。現在は薬屋「クリエイトエス・ディー新宿牛込北町店」に。上の「牛込中央通り商店会」の地図ではとりあえず「西川ビル」などと同じ場所です。
表通りの花屋 納戸町12に「フローリスト番場」がありました。閉店し、現在は「コインランドリー/ピエロ納戸町店」。
和菓子屋 納戸町15の船橋屋か、納戸町4の岡埜栄泉でしょう。
到来物 とうらいもの。よそからのもらい物。いただき物
吉行和子 女優。兄は吉行淳之介。劇団民芸。昭和32年「アンネの日記」で主演。昭和44年、唐十郎「少女仮面」出演でフリーに。生年は昭和10年8月9日。
主宰する雑誌 2003年4月から2007年12月まで出版された『神楽坂まちの手帖』です。