タグ別アーカイブ: チャモレー

岩戸英和クラブ|岩戸町

文学と神楽坂

『英国人宣教師 ライオネル・チャモレー師の日記①(1888年ー1900年)』(日本聖公会文書保管委員会編集。聖公会出版。2015年)のなかに<解説>があり、岩戸英和倶楽部のことが書かれています。

 チャモレー師は英語教育の持つ宣教上の意義を高く評価していた。大切なのは、そこに生じる人間関係であり、それが人々をキリスト教に導くことになると信じていた。だから、師は、学校以上に濃厚な人間関係を期待できる私塾を開設したのである。
 その私塾が岩戸英和倶楽部である。場所は東京市牛込区岩戸町25番地。早稲田通と大久保通の交差点に近い所である。チャモレー師は、明治28年6月、後輩宣教師のメドレーと共に、私費で、ここに「岩戸英和クラブ」を開いたのである。
 ただし、建物は民家であって、塾としては適当ではなかったのかもしれない。入塾者は多くなかった。出席者が10人もあれば、チャモレー師は素直に喜んだ。
 教科書としては「ザ・リトル・デューク」などを読んだ。しかし、彼が意図したように、この塾生たちの中からどのくらいの数のクリスチャンが出たのか、また、望ましい人間関係が生まれたのかは、あまり明らかではない。しかし、期待したほどの教育効果が上がらなかったことは確からしい。
 明治30年5月、ちょっとした住居がらみのトラブルをきっかけに、チャモレー師は、岩戸クラブを閉め、ここを自分の住居に改造し、以後最終的に日本を離れる日まで、ここに住み続けた。

名取多嘉雄

岩戸町25番地。岩戸英和クラブがここにあったチャモレー師 英語ではLionel Berners Cholmondeley
岩戸町25番地 早稲田通り(神楽坂通り、北中央から東中央に流れる)と大久保通り(東北角から南西角に流れる)の交差点(神楽坂上)に近い場所でした。右図では赤い枠で囲まれた場所。
ザ・リトル・デューク The Little Duke。作者はCharlotte M. Yonge。8歳でノルマンディー公になった無怖公(Richard the Fearless、943-996)の感動的なお話。
日本を離れる日 1922年(大正11年)、師は英国に戻りました。
 

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平田禿木|神楽坂

文学と神楽坂

 平田禿木(とくぼく)氏の『禿木随筆』(改造社、1939)です。氏は英文学者兼随筆家で、東京高等師範学校を卒業、30歳で英国オックスフォード大学に留学し、帰ってから、女子学習院、第三高等学校の教授を歴任、のちに翻訳に専心しました。この随筆を書いた年は昭和九年、61歳でした。

 神樂坂

 見附から見ると神樂坂は可成り急である。あの坂を見るたびに、自分はいつも羅馬の街を憶ふ。羅馬にはあゝした坂がとても多いのである、そして、登りつめたとこに、きまつてオベリスクの塔と噴水がある。自分が羅馬に遊んだのは桐の花散る初夏の候であつたが、その見物にあゝした坂を幾つも登つていくのに實に骨の折れたことを憶ひ出す。羅馬七丘の上に立つといふが、東京も髙臺が多いので、山の手となると坂道が多いのである。
 友達が矢來の交番近くにゐたので、自分はよく以前の神樂坂を知つてゐる。神樂坂は震災後ずつと繁華になつたらしい。菓子屋に壽徳庵船橋屋の名が見えるが、これ等は何れも河向ふ江東の老鋪で、あの折一時此處へ移つて来て、そのまゝ根城を据ゑたものであらうか。兩側に大抵の店が揃つてゐて、何でも手近で間に合ふやうである。自分は往日(むかし)日本橋東仲通り邊へ、東京の住居をおいたらうと思つたことがあるが、今ではあの邊はとてもごたごたしてゐ、それに、震災後の復興で、自分などにはまるで西も東も分らぬやうになつてゐる。矢來までの途中は相當賑やかであるが、ちよつと横町へ入ると、神樂坂は可成り靜かであるらしい。山の手のその靜かさと下町の調法さを兼ねてゐるとこは、廣い東京にも珍しいと思ふ。あすこの何處ぞの小さな煙草屋の店でも買つて、二階で物を書いたり、假名がきの書道の指南でもしたらと、今も時々思ふことがある。
 菓子屋には和洋のそれを賣る紅谷がある。あの窓に見る瀟洒なや趣向を凝らしたは、遺ひ物としても手軽で格好である。自分には何より嬉しい海産物の店も一二軒あるらしく、魚屋の店にも、季節には北陸の蟹が堆く積まれてゐる。客があつて、ちよつとお壽司を取つても、土地柄だけによい物をすゝめられると、 遞信省時代に中町に住んでゐた五島駿吉君の話であつたが、神樂坂は實に調法な處である。

桐の花

見附 現在「神楽坂下」という交差点は昔は「牛込見附」と呼びました。
羅馬 イタリアの首都、ローマです。
オベリスクの塔 古代エジプトの太陽の神を象徴する石柱。その形をした記念碑。
桐の花 4~5月で紫色の花をつけます。
ローマの七丘(しちきゅう) ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置し、ローマの基礎をつくった七つの丘。
河向う 川向こう。隅田川の東側。
根城 活動の根拠とする土地・建物
調法 ちょうほう。重宝。便利で役に立つこと。
假名がき 仮名で書くこと。一般には平仮名で書くこと。
 かご。竹で編んだかご。
 かたみ。竹製の目の細かい(かご)
遺い物 ゆいもつ。いぶつ。過去の文化を示す物品。今に残る昔のもの。
格好 ちょうどよい。適当。
五島駿吉 生年は明治15年(1881年)。郵便局長。鉱物学者。

 田原屋は銀座、日本橋邊の一流の店にも劣らぬ、優れた果物を賣る家らしく、そこの二階での洋食はあの邉の呼び物と聞いてゐるが、まだ試みたことはない。以前矢來の友達を訪ねると、いつもきまつて坂の途中を左へ入つた明進軒といふ家へ案内してくれた。雅樂寮伊太利人か、商大の佛蘭西人の肝煎りで店を出したとかで、そこの佛蘭西風の料理は下町でも味へないものであつた。近くにゐた英吉利の貴族名門出のチヤモレエ師なども、始絡パトロナイヅしてゐた。日本間の別室があつて、坐つてゆつくり食事の出來るのも嬉しく、そこには、これも來つけの人達と見えて、尾崎氏や齊藤松洲晝伯の色紙、短冊が懸つてゐた。
 この頃舊幕の旗本水野十郎左衛門邸跡三樂莊といふ料亭ができて、泉石の美を誇るその庭を見せるといふことで、暮近くなつたら一夕友達と年忘れでもしてみたい、それには何んとか、一應その樣子を探つて見ておかうと思つて、見附内の某大學へ客分として手傳ひに一 週二三囘出向いてゐるその歸るさ、或る日の午後、今講じて來たエリザ朝の花形サア・フィリップ・シドネーステラの歌の定本や、トッテル氏雑纂などの入つた重い包みを下げ、新聞の廣告で教はつた通り、牛込館の横を入つて行くと、待合や小料理屋がずらりと軒を並べてゐ、今日(けふ)何かの寄り合ひでもあるものか、見番の前には、近くの女將や主人、女中達が盛装して立ち列んでゐる。突き當つて訊いて見ると、坂を上つて右へ行き、それからまた後へ戻るのだといふ。その通り進んで行くと、住宅地のやうなとこへ出て仕舞つた。何だか狐につままれたやうな氣がしてゐるとこへ、小春日和に外套を着てゐたので、汗ばんでさへも來るのである。三樂莊といふのに日本料理、支那料理とのみあるのは、他の一つ場所柄だけに化生の者でも出て來るといふ謎か、水野邸とあるからには、幡隨院もどきに湯殿でやられでもしては堪らぬと、えつちらをつちらと、もと來た途を戻つて、表通りへ出て仕舞つた。

雅楽寮 ががくりょう。うたつかさ。律令制で宮廷音楽をつかさどった役所。明治維新後、宮内省式部職楽部(がくぶ))に改組し、1908年(明治41年)、現在の宮内庁に引継した。
肝煎り  きもいり。肝入り。双方の間を取りもって心を砕き世話を焼くこと。
伊太利、佛蘭西、英吉利 それぞれイタリア、フランス、イギリスのこと。
チヤモレエ 英国人宣教師ライオネル・チャモレー師(Lionel Berners Cholmondeley)。岩戸町25番地に住んでいました(右図)。
パトロナイヅ パトロナイズ。patronize。ひいきにする。後援する。
来つける きなれる。来慣れる。ふだんよく来て慣れている。通い慣れる。
尾崎 尾崎紅葉氏のこと。
斎藤松洲 さいとうしょうしゅう。日本画家。明治3年(1870)大阪生。鈴木松年の門に学び、特に俳画に長ずる。昭和9年(1934)存、歿年不詳。
三楽荘 場所はわかりません。次の段落では「三樂莊は横寺町にあるらしい」と書いてありますが、新宿区横寺町交友会の今昔史編集委員会『よこてらまち』(2000年)によれば、昭和10年頃の地図ではもう三楽荘はなくなっています。
泉石 せんせき。泉水と庭石。庭園。
帰るさ かえるさ。「さ」は接尾語。帰る時。帰る途中。かえさ。
サア・フィリップ・シドネー サー・フィリップ・シドニー(Sir Philip Sidney)。16世紀のエリザベス朝の英国の詩人、廷臣、軍人。
ステラの歌 原題『Astrophel and Stella』。英語で書かれた有名なソネット連作の最初のもの。
トッテル氏雑纂 リチャード・トッテル。Richard Tottel。当時のエリザベス朝詩のアンソロジー「歌とソネット」(1557)を編集、「トッテル詞華集」として知られるようになった。「雑纂(ざっさん)」とは雑多な記録や文章を集めることや、編集した書物。
見番 三業組合の事務所。三業組合とは料亭・待合茶屋・芸者屋の3業種をまとめていいました。しかし、この当時、見番は芸者新路にできていました。牛込館は藁店にできていて、この2つの場所は違います。
他の一つ 日本料理、支那料理に、他の料理があって、つまり、3つの料理があって初めて三楽という名前になる方が普通ではないでしょうか。
小春日和 晩秋から初冬にかけての暖かな日和。小春とは、旧暦十月の異称。
場所柄 藁店(わらだな)では化け地蔵が出たという言い伝えがありました。
化生の者 化けること。化け物。妖怪。

 三樂莊は横寺町にあるらしい。横寺町といふと、今からはもう何十年か前の夏、大野洒竹と一緒に同じ町のその居に尾崎紅葉氏を訪ねたことを憶ひ出す。洒竹のゐた谷中から二人乘の人力車(くるま)で神樂坂下まで來、それからぼつぼつ歩き出したが、盛夏のことでとても暑く、道を訊いてから、とある井戸端で水を汲んで汗を拭き、それから漸く探ね當てゝ案内を請ふた。早速二階の書齋へ通されて尾崎氏も直ぐ出て來たが、薄茶色の縮みの浴衣にメリンス兵古帶といふ服装(なり)で、いかにもさつぱりとしてゐたのは意外だつた。部屋も硯友社の他の人達のそれのやうに、箪笥に長火鉢をおいて、人形を飾つてゐるやうなことはなく、茶道具だけは紫檀の棚に載つてゐて、たぎらした湯を階下(した)から取り寄せ、主人自ら茶をいれるのであつた。
 その時、拭巾を取つて、額へ八の字を寄せながら、ぐいぐいと盆を拭くその姿が、今もありありと目に殘つてゐる。話はそれからそれと大分にはづんだが、小説のことになると、もう閉口だと、顏を曇らしてうつ向きになつたことを今に覺えてゐる。歸り際に、夫人もちよつと姿を見せられたが、いかにも靜かな、貞淑の方のやうに見受けられた。玄關には、「青葡萄」が讀賣へ出てから程經つてのことだから、秋聲氏や鏡花氏でなく、次の代の方々がゐたのだと思ふ。尾崎氏の訃は外遊中オックスフオードでこれを聞き、洒竹氏には歸つてから一度、築地本願寺で一葉さんの法事の折に逢つたぎりで、氏も早く他界して仕舞つた。
 肴町電車道を横切つて矢來近くへ來ると、右側に洋風の骨董を賣る小さな店や、萬年青や蘭、新春(はる)には梅の小型の盆栽を窓へ飾つてゐる家があり、交番近くへ來ると、左側に水盤や煎茶風の竹の花生けを賣つてゐる古い店があり、それ等を眺めながら、御苦勞にも自分は矢來下の停留場まで來て、そこから電車へ乘つて歸つて來る。その電車がいつも空いてゐて感じが好く、車掌までがのんびりして、親切だからである。(昭和九年十一月)

横寺町 新宿区の北東部に位置し、神楽坂に接する町。
谷中 東京都台東区の地名。下谷地域の北西に位置し、文京区(千駄木・根津)や荒川区(西日暮里・東日暮里)との区境にあたる。
案内 ここでは「人の来訪や用向きを伝える」こと。取り次ぎ。
縮み ちぢみ。縮織り。ちぢみおり。()りの強い横糸を用い、織り上げ、温湯でもんでちぢませ、布面全体にしぼを表した織物。

メリンス メリノ種の羊毛で織って、薄く柔らかい毛織物。
兵古帯 兵児帯。へこおび。和服用帯の一種。並幅または広幅の布で胴を二回りし、後ろで結んで締める簡単な帯。
硯友社 けんゆうしゃ。文学結社。 明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校)の学生尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、高等商業学校の丸岡九華の4人で創立。同年5月機関誌『我楽多文庫』を発行し、たちまち明治文壇の一大結社に。
たぎらす 滾らす。沸騰させる。煮え立たせる。たぎらかす。
貞淑 ていしゅく。女性の操がかたく、しとやかなこと。
築地本願寺 東京築地にある浄土真宗本願寺派の別院の通称。
電車道 以前は大久保通りに都電が走っていました。
万年青 おもと。常緑の多年生草本。学名はRohdea japonica Roth。
矢来下の停留場 市電(都電)の 停留場は江戸川橋通りにありました。

昭和5年.矢来下の停留場

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