文学と神楽坂
地元の方が毘沙門さまについてのあれこれです。
毘沙門天は神楽坂の象徴的存在で、こちらのブログでも詳しく述べられています。それらに語られていないことを、落ち穂拾いのように綴ってみます。
【1】児童遊園 戦前の毘沙門さまの敷地内には、いろいろな出店があったそうです。戦後、そのスペースは区の児童遊園になりました。
写真集「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」の「早稲田通り。善国寺(毘沙門天)。神楽坂5丁目(1965年4月)」や 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」05-02-32-1毘沙門天遠景 1968-07-13に、当時の様子が写っています。撮影日に3年の違いがありますが、その間にブロック塀が出来たようです。
門脇にある小高い四角いものは石造の滑り台で、近所の子どもが「お山の大将」を競いました。余った敷地をこういう形で区に貸すと、寺は固定資産税の減免や補助を受けられ、区は子どもの遊び場や避難場所を確保できるという政策なのだそうです。同様の児童遊園は近隣だけでも筑土八幡の階段脇(歴史博物館ID:7451)や若宮八幡の境内など多くの例があり、現在の毘沙門さまにも一部が残っています。 |
早稲田通り。善国寺(毘沙門天)。神楽坂5丁目(1965年4月)

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)
毘沙門天遠景 1968-07-13
筑土八幡の階段脇(歴史博物館 ID:7451) 昭和41年12月15日。学校帰りに筑土八幡神社で遊ぶ子ども達

歴史博物館 7451 筑土八幡境内の遊び場開設
若宮八幡の境内 以前の若宮八幡神社。ブランコがわかります

若宮八幡神社。雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」
【2】石囲いの寄進者 神社の玉垣にあたる毘沙門さまの石囲い。多くの場合、地元に奉加帳を回し、寄進者の名を石柱に1本ずつ掘ります。角の太い柱は時の顔役が名を残すのです。 1960年代の写真の石囲いは戦前の焼け残りです。その後、毘沙門堂を建て直した1971年(昭和46年)に一新しました。政財界の黒幕と呼ばれた児玉誉士夫氏がひとりで寄進したそうなので、石柱に他の名前がありません。後にこの石囲いを少し削り、地元の寄付で現在の赤い山門を建てました。 |
石囲い 石で作った塀
奉加帳 ほうがちょう。神仏に奉加する金品の目録や寄進者の氏名などを記した帳簿。寄進帳とも。
児玉誉士夫 昭和時代の右翼運動家。外務省や参謀本部の嘱託として中国で活動。16年、海軍航空本部の依頼で「児玉機関」を上海につくり物資調達に。20年、A級戦犯。釈放後、政財界の黒幕となり、51年ロッキード事件では脱税容疑で起訴。病気で判決は無期延期。公訴は棄却。生年は明治44年2月18日。没年は昭和59年1月17日で、死亡は72歳。
赤い山門を建てました 平成6年です。渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、2007)では「平成6年(1994)開創400年を迎えた毘沙門天は、本堂と唐破風造りの山門の建立を無事すませ、開創400年記念事業『落慶式』が、10月14日しめやかに執りおこなわれた。街の明るいイメージに合わせて、山門、本堂ともに、伝統色である朱色にしている」
蓮秀寺 新宿区市谷薬王寺町にある日蓮宗の蓮秀寺。山号は久栄山。

https://rubese.net/gurucomi001/?id=1930008
確認を取っていません いいえ。確認はあるようです。昭和26年建立の毘沙門堂は実際に今も蓮秀寺に移築され、祭っています。
昭和26年建立の毘沙門堂がなつかしい
昭和26年から45年頃まで神楽坂通りに建っていた毘沙門堂は、実は今もその姿のまま拝観することができる。市谷薬王寺にある同じ宗派の蓮秀寺に移築されているからだ。戦後間もなく建てられた毘沙門堂は、当時の姿のまま時間が止まったように建っている。嶋田住職は、いまでも同じ宗派のお寺なので訪れることがあり、その度になつかしいと語る。
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