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神楽坂通り(2丁目北西部)

文学と神楽坂

 神楽坂通りの2丁目北西部です。まず場所を確認します。


 神楽坂通りを、路地角に建つ「俺流塩ラーメン神楽坂店」(関東大震災前は「かもじ屋」)から、神楽坂仲通りの「さわやビル」(以前は「佐和屋」)まで行きましょう。1927年➊「古老の記憶による関東大震災前の形」(神楽坂界隈の変遷。昭和45年新宿区教育委員会)では、店舗は計11軒ありました。

1927年 ➊ 古老の記憶による関東大震災前の形。神楽坂クラブは明治44年2月、大逆事件の合同茶話会を行った場所。

 一方、➋2017年にはここには6軒しかありません。この11軒のうち1927年と同じ軒は1軒のみで、神楽坂仲通りに接する佐和屋(さわやビル)でした。

2017年➋ 住宅地図

 では、2017年から時計を逆に回し、33年前、つまり➌1984年ではどうでしょうか。

1984年➌ 住宅地図

 上図を見る限り、➋とはほとんど変わりません。変わった点では➌の「さわや」から➋の「さわやビル」に変化しました。1990年に「さわやビル」ができています。あと➌の「ニューイトウ靴店」から➋「食道楽」と「第83東京ビル」に変わっています。

 では、➍1970年(2017年から43年前)はどうでしょうか。さすがに変化が出ます。

1970年➍ 住宅地図。

  1番目は「さわや化粧品」のお隣に「亀井寿司」があったこと。2番目は「ヴェラハイツ神楽坂」はまだなく、かわって1970年には「喫茶クラウン」と奥の「旅館 かやの木」があった点です。
 また「コーヒー坂」と「イトウ靴店」➍から「ニューイトウ靴店」➌になり、それから「食道楽」と「第83東京ビル」➋になりました。しかし、地元の人によれば、おそらく「コーヒー坂」と「イトウ靴店」は2つのままだったといいます。つまり、1984年➌の「ニューイトウ靴店」が間違いで、正しくは「ニューイトウ靴店」と何か他の店舗があったというのです。なお「第83東京ビル」は1990年にできています。

 さらに昔に行くと、➎1963年では…

1963年➎ 住宅地図。

「神楽坂ビル」が「ポーラ化粧品」と「ルナ美容室」の2つに別れています。また「旅館 かやの木」は「旅館 かぐら苑」になっています。

 では、戦後すぐの地図はどうでしょうか。➏1952年です。

1952年➏ 昭和27年、火災保険特殊地図

「ポーラ化粧品」と「ルナ美容室」が「(料)かほる」になっています。

 つまり、第2次世界大戦後の6軒などは、あまり大きな変化はしていません。名前とその建物は色々変わりますが、所有した土地になるとおそらく変化していません。

 戦前の地図はあまり多くはありません。まず➐1937年の火災保険特殊地図です。

1937年➐ 火災保険特殊地図

 1937年➐の「スシヤ」と1970年➍や1963年➎の「亀井寿司」は同じでしょう。1937年➐に戦後➎を重ねてみると…(赤字は戦後)

 次は➑1930年です。うち下が昭和5年頃です。ちなみに上は平成8年です。

1930年❽新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)

 昭和5年の地図を1937年の地図に加えて、下図になります(赤字は戦前)。なお、大内理髪店は上図❽と同じで、幅は大きくしてあります。また「神楽坂クラブ」は正式には奥まった場所なので、ここではそこに行く道を2本の線で表しています。なお、この路地は戦前と戦後で、路地の場所が違います。そもそもこの路地が続く建物は、➐は都館、➎はかぐら苑で、その建物の大きさも違っています。土地の所有が変わっている可能性もあると地元の方。

 これを1927年➊の「古老の記憶による関東大震災前の形」と比べてみます(下図)。いろいろな点で同じです。

➊1927年

 左から見ていくと、「佐和屋」は「さわや」に漢字からひらがなに変換し、「靴屋」は「川口下駄」と「堀田洋服店」になり(靴屋=川口下駄)、「ハンコ屋 西山」は「愛両堂印店」(ともにハンコ屋)、「幸煎餅店」は「神楽せんべい」(2店ともせんべい)、「大内理髪店」は同じで、「はき物 脇坂」は「瀧上靴店」「近江屋下駄」になり、「小林金物店」と「金物・小林」はまず同じで、「遠藤書店」は「文泉堂書店」になり、「かもじ屋」(女性が日本髪を結うとき頭髪に補い添えるための髪)から「えり庄」(衣服のえりの店舗)になりました。

 戦前の「貸席 神楽坂クラブ」は「ハンコ屋 西山」の左側の路地、あるいは「靴屋」の右側の路地に入っていきました。戦後はこの「ハンコ屋 西山」は「喫茶 クラウン」に、「靴屋」は「神楽坂ビル」と名前が変わります。その中にあった「旅館 かぐら苑」は「ハンコ屋 西山」の右側にでてきます。つまり、戦前は「神楽坂ビル」と「ヴェラハイツ神楽坂」の間に路地があり、戦後は「ヴェラハイツ神楽坂」と「陶柿園」の間にあったのです。

神楽坂下の夜景(写真)

文学と神楽坂

 私の写真のうち4枚は50~60年代の神楽坂の夜景です。新宿区新宿歴史博物館にいけば、おそらくさらに沢山の写真があるのでしょう。

 最初は昭和34年、神楽坂の中腹部です。

『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)(昭和34年)

➀ 「パチンコマリー」。現在はカグラヒルズ。
➁ 「洋食と喫茶 京屋」。一軒ほど右奥にはいった場所にあります。他の”広告のぼり”の「セカイチ」、看板の「ヤマ」と「ヤ」か「せ」。「セカイチ」は「セカイチョー(世界長)ゴム株式会社」で、運動靴の会社。現在は世界長ユニオン株式会社。
➂ 「靴 ニューイトウ」
➃ 「コーヒー坂」(焼肉屋「坂」から現在の「食道楽」に)と「陶柿園」。この2軒は見えません。
➄ 「旅館 かぐら苑」。右奥にはいった場所にあります。以前は神楽坂倶楽部、現在は他のビルと合わさってラインビルド神楽坂になりました、
➅ 「珈琲 クラウン」
➆ 「ルナ美」容室。
➇ 「ポーラ化粧品」
➈ 「亀井鮨」
➉ 「石川歯科」。石川歯科は小栗横丁に建っています。
⑪ 「夏目写真館」
⑫ 「⛨く」すり。神楽坂薬局です。
⑬ 「☎でんわ」でしょう。
⑭  わかりません。最後は「國」でしょうか。
⑮ 「エス」ヤ洋品
⑯ 「めがめ」と、ひとつ奥には「ト」ケイでしょう。大川時計のことなのでしょう。
⑰ 「美容室」ですが、〇〇美容室は不明ですが、「ヒデ美容室」でしょう。


 下図は小さな文字で描かれていますが、大きくすると、店舗の名前もわかります。

神楽坂1~2丁目。1963年の住宅地図。

 2番目は神楽坂下から見た写真です。時代は同じく昭和34年。

新宿の1世紀アーカイブス-写真で甦る新宿100年の軌跡

➀ 「赤井商店」。戦前は足袋店。戦後は紳士用品や高級シャツの仕立てで「赤井シャツ店」に。1996年、転業し、10年間喫茶店。
➁ 印章・ゴム印で「津田印店」
➂ 「パチンコ」。おそらく「パチンコマリー」
➃ 「清水衣裳店」。結婚式、成人式、卒業式等の貸衣装店。現在は千代田区飯田橋3-2-12に。
➄ 「田原屋」。坂上の田原屋の兄弟店。フルーツパーラー。
➅ 「パチンコ」

 ほかに一方通行の標識があります。この時期、道路は坂を上る方向だけでした。

 3番目は2番目とよく似た写真なので、このままにします。「神楽坂まちの手帖」第12号の「昭和30年代とその周辺 僕らの育った神楽坂」から

神楽坂まちの手帖。第12号「昭和30年代とその周辺 僕らの育った神楽坂」から

 加藤嶺夫著「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)。時代は昭和42年。着物を着る芸者はもうなくなっています。

 かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」では

赤井足袋店(神楽坂入口付近/明治40年代/『新修 新宿区区史』〈都立中央図書館蔵〉)
神楽坂下の角、現在では不動産屋になっている場所(神楽坂1-12)にあったのが「赤井足袋店」である。足袋の形の大看板に江戸の名残が感じられる。神楽坂の入口の良い目印であった事だろう。戦前は足袋店だったが、戦後は足袋と共に紳士用品や高級シャツの仕立てを行い「赤井シャツ店」となる。1996年に転業して10年間喫茶店を開いていた。2006年から不動産屋となっている

田原や(フルーツパーラー)
氷メニューが豊富でした。美味しかったですよ。ソフトクリームが美味しくて、それを使ったパフェも絶品!甘いものが苦手な人には小ぶりの丸パン3つに違った具をはさんだバンズセットというのが人気でした。当時の私は、お昼のお弁当を食べて、夕方それを食べて、家でまた夕食を食べるという食い気ばかりの高校生でした。(そうそう、そこの氷が独特で、名前も変わっていて、スノーハワイアンっていったかな?)