文学と神楽坂
五叉路の交差点は十字路に比べて交通信号が変則です。神楽坂周辺には五叉路が連続している区間があります。このふたつは明治の市区改正で作られた大久保通りが関係しています。
西側にある筑土八幡町交差点については、筑土八幡神社前(写真)の記事で記述しています。
ここでは東側の飯田橋交差点の成り立ちを見ます。
明治22年、市区改正委員会は現在の大久保通りを第四等道路に指定します。神楽坂通りを通すと急坂になるので、北側にバイパスとして設ける計画でした。
第四等道路 第三十五、牛込揚場町第二等線より津久戸前町に至り、左折して肴町・山伏町通り、原町等を経て、戸山学校に至るの路線。
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この市区改正設計は「道路事業がほとんど進まず、最低限の項目を選んで拾い上げた新設計案が作成されました」(東京の都市づくりのあゆみ 1章06 032頁左下、2019)
明治36年に改められた新設計でも、大久保通りは「第十四」と番号が変わり、同じ内容で残りました。
注目すべきは起点が「揚場町」であることです。同時期に第四等道路に指定された現在の目白通りは
第四等道路 第五、飯田橋外より江戸川に沿い、江戸川橋際に至るの路線。
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と「飯田橋外」と書いてあります。確かに道路計画図では、大久保通りは飯田橋交差点と少しずれて描かれています。
しかし実際の大久保通りは揚場町より北側、下宮比町が起点となりました。新しい道は明治40年までに開通し、この工事に伴うと見られる移転などが相次いでいます。
なぜ起点を下宮比町に変更したのか。ネット公開している市区改正委員会の議事録の範囲では理由は分かりません。おそらく急速に市民権を得ていた市電の敷設が関係していたのでしょう。
飯田橋は5方面から市電が集まる結節点となり、複雑に軌道が敷かれていました。
東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録のうち明治33年までを国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。