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袖摺坂|散歩しよう(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

袖摺坂(そですりざか)に行くのは?

 袖摺坂は新宿区横寺町と箪笥町の間にあります。地下鉄大江戸線「牛込神楽坂駅」東出口近くです。

 図で「A」なので、地下鉄の「牛込神楽坂駅」からは一番近いのですが、ほかはかなり離れています。「牛込神楽坂駅」からはA2の出口を使います。なお、袖摺坂は乞食坂ともいいます。

袖摺坂の地図

 これから袖摺坂に行くには大久保通りの反対側にでます。

袖摺坂の地下鉄
袖摺坂と牛込神楽坂駅

 では到着です。

袖摺坂の標柱

 標柱の説明文は

袖摺坂(そですりざか)
俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺り合わしたという(『御府内備考』)。

袖摺坂と入り口

 右側は黒塀になっています。これは12年、地元のNPO法人「粋なまちづくり倶楽部くらぶ」が、袖摺坂に黒塀を設置したためです。

『拝啓、父上様』では第7話に出てきます。

  歩く2人。
  路地へと曲る。
 り「俺の気持ちは浮き浮き弾んでおり。
  特にナオミさんのその家の方角が、今度俺の住む横寺町のアパートと同じ方角だと判明した時、俺は殆ど叫びそうになった」
  音楽――消えてゆく。

袖摺坂と「拝啓、父上様」

 昔の袖摺坂が出ていますね。上に行くと

袖摺坂の上

 上でも同じ文言が書いてあります。

袖摺坂の上2

 これから右に曲がっていくと「五味坂」です。

 最後に「弁天坂」は平成22年の新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』によれば、「南蔵院前脇から町内入り口への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)」と書かれています。

袖摺坂と坂

 なお、地下鉄大江戸線「牛込神楽坂駅」から南側のS状の坂を上に上っていくと(反対側ですね)そこにも「そですり坂パーク」がでてきます。理由は? 袖摺坂 北向き、南向き?で答えがわかります。つまり、S状の坂を「そですり坂」と呼んだ時代もあるのです。

2013/6/2→2019/5/17

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袖摺坂、弁天坂、五味坂、蛇段々

文学と神楽坂

 横関英一氏の『続江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和50年)では袖摺坂は大久保通りから南東へ上る坂、つまり改修した蛇段々だと考えています。

 江戸時代には、袖摺(そですり)坂、袖振坂、袖引坂という坂があったが、これらは、むしろ江戸に少なく、地方に多い坂の名であった。
 袖摺坂というのは、いずれも狭い坂のことで、人と人とが行き交う場合に、狭いので袖をすり合わせるようにしないと、お互いに行き過ぎることができない、というような狭い坂のことをいったのである。鐙摺(あぶすり)坂というのもあるが、これは坂が狭いので騎馬のままでは、行き交う場合、お互いに(あぶみ)をすり合わせるようにしないと通ることができないような狭い坂みちの形容である。現在東京には次の二個所だけに袖摺坂が残っている。両方とも昔は狭い坂であったのだが、今日ではいずれも広い坂みちになっているので、袖摺坂という感じではない。東京の坂である以上、やむをえないことである。
 新宿区岩戸町から、北町と袋町との境を、南へ上る坂が袖摺坂である。しかし、戦後はこの坂道もすっかり改修されて、大きな道幅の広い坂になってしまった。
 この坂について、『御府内備考』は、次のように記している。「坂、登凡十間程、右町内(御箪笥町)東之方肴町境に有之、里俗袖摺坂又は乞食坂共唱中候、袖摺坂は片側高台、片側垣根二而、両脇共至而(イタツテ)、せまく往来人通違之節、袖摺合候……」

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)でも同じです。

 袖摺坂(そですりざか) 岩戸町の旧都電通りから、北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路で、坂上に南部氏の邸宅があることから最近の住民は南部坂とよんでいる。

 つまり、「北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路」を「袖摺坂」と呼んでいました。しかし、江戸時代も明治初期も、この「北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路」はなかったのです。1袖摺坂と年代

 明治20年の地図が正しく、袖摺坂(乞食坂)は北に登る坂。五味坂は西に下がる坂。弁天坂は西に上がる大久保通りの坂でした。南東に上がる坂はありませんでした。明治20年の地図

 蛇段々ができる明治29年に、ようやく南東に上がる坂ができています。現在のS状のカーブをえがいて南東に上る坂は「新蛇段々」と名付けたいと思っていますが、でもだめだろうな。

袖摺坂(上空)

袖摺坂|北向き、南向き?

 袖摺坂(そですりざか)です。新宿区の『地図で見る新宿区の移り変わり–牛込編』から取った地図です。新板江戸外絵図(寛文12年、1672年)では神楽坂の袖摺坂はここを示します。現在の袖摺坂と同じですね。

1672年の袖摺坂

 以下は年代と地図です。右図は簡単な段差があると示します。 段差がある地図

 延報7年(1679年)から明治12年(1879年)までは地図ではなく、簡単な絵です。現在の大久保通りから北に上る坂があり、ここは袖摺坂だというがよくわかります。

延報7年(1679年)から明治12年(1879年)までの袖摺坂

 明治20年から28年も袖摺坂を示しますが、袖摺坂のほかに左に新たに道ができたのがわかります。この新しく作った坂は五味坂、ゴミ坂と呼んでいるようです。

明治20年と28年までの袖摺坂

 さらに下の図は明治20年の絵です。袖摺坂は乞食坂ともいっているんですね。また大久保通りの一部の弁天坂もあります。

明治20年の袖摺坂

 明治29年はさらに袖摺坂の右下に新しい坂ができます。かなり急な坂だと思います。この坂は「蛇段々」と言われました。蛇段々が実は袖摺坂だという意見もあります。例えば鳥居秀敏さんの『袖摺坂って本当はどの坂?』(「まちの思い出をたどって」第2集)です。しかし蛇段々は明治20年以前にはなかったので、これは難しいと思っています。

明治29年と40年の袖摺坂

 昭和5年はかわりませんが、昭和16年、さらにもう1つ坂がでます。名前はありません。昭和22年、終戦でもあまり変化がありません。
昭和5年から22年までの袖摺坂
 さらに進めていき…昭和56年の袖摺坂 昭和56年は、まず、昔の急な坂「蛇段々」がなくなり、新しい坂だけが残ります。それから、あれれ、こまった、あれれ、こまった。袖摺坂の位置が違う。新しい坂が袖摺坂になっている。弁天坂も違う。
 うーん。うーん、そこで、困った時は新宿歴史博物館。そこで聞きました。答えは

新宿区が袖摺坂としている根拠について
『御府内備考』御箪笥町の書き上げに
「坂、上り凡そ十間程、右町内(御箪笥町)東の方肴町境にこれ有り。里族袖摺坂または乞食坂とも唱え申し候。袖摺坂は片側高台片側垣根にして、両脇とも至ってせまく、往来人、通り違いの父子、袖摺合わせ候。」とあります。
 江戸時代、肴町は、当時武家地を間に挟んで5か所に散在する町屋でしたが、明治5年に北部を残して、その大部分は武家地とともに岩戸町に編入され、一部は横寺町に編入されました。
『御府内備考』の示す肴町は、横寺町に編入され「横寺町65番地」となったところです。
 袖摺坂の位置については、『御府内備考』の内容の解釈違いによるものと思われます。
 以上が、新宿区が袖摺坂を特定している根拠です。
 なお、坂の位置は新宿区教育委員会発行の『地図で見る新宿区の移り変わり』牛込編 で確認できます。

新宿歴史博物館 佐藤

 なるほど。これでまったくいいようです。新宿歴史博物館の佐藤氏に感謝します。でも、そうじゃないとおかしいよなあ。昔の絵図には現在の地図と全く違わない坂があるからなあ。以上、現在のほうが正しく、昭和56年の地図は間違いでした。
 また『地図で見る新宿区の移り変わり 牛込編』の矢代氏が書いた「土地に刻まれた歴史」で「袖摺坂」は「蛇段々」とそれを新しくした坂の間違いだと思います。

土地に刻まれた歴史   矢代和也

 袋町の高台から現在の大久保通りに向って、急峻な段坂が屈折しながら下っていた。石段や敷石の部分を除くと、雨の時には足を滑らせそうな細々とした坂道で、両側には階段状に小さな家々が建っていた。「袖摺坂」である。(違います。じつは蛇段々の坂です。)この坂道は「安政絵図」にも、それ以後の絵図・地図にも表記されていず、一八九六(明治二九)年の「東京市牛込区全図」、「帝都復興東京市全図」(『新宿区地図集』)に道路拡張の予定地としてはじめて記されている。しかし、この程度の道幅の段坂でも、たとえば、柳町の通りの寿司屋の角から甲良町の方へぬける名もない段坂が、すでに「安政絵図」に表記されているので、きわめて不思議な坂道に思われる。 私の小学校の上級のころ、「袖摺坂」の道路拡張の工事がはじまった。家屡が立退かされ、赤土の高い崖が露出した。悪童たちの絶好の遊び場が一つ増えることとなった。学校の禁を犯して、急崖をすべり下り、また上る、泥のぶつけ合い。中腹に糾めに生えた木にのぼって、ユサユサとゆすって、下級生に悲鳴をあげさせたり、親の洗濯の苦労も知らずに、頭の天頂まで、泥まみれになって遊んだものである。 やがて、太平洋戦争もはじまろうというころ、砂利敷ではあるが、現況のような道路が姿をあらわし、一九四一(昭和一六)年の『牛込区詳細図』に、拡張道路として表記されることになった。(こちらはS状の名前はない坂か、新蛇段々の坂です)

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