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鰻坂 合羽坂|河童出たとて鰻坂

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「坂のある風景」の「鰻坂 合羽坂」を見ていきます。しかし、俳優の芦田伸介氏の家がどこにあるのか、これだけではわかりません。

鰻坂

鰻坂と合羽坂

「ね、右へ登る細い坂があったでしょう。」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じゃないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裏には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」

「夜のタクシー」海老沢泰久

矢来町のほうへ 矢来町は牛込中央通りを北に動くと出てきます。鰻坂は市谷砂土原町と払方町を分ける坂です。「右へ登る細い坂を行くと矢来町になる」と考えると嘘になります。

矢来町と鰻坂

矢来町と鰻坂

いまの坂 牛込中央通りを南から来る場合、うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂(下図)です。逆に北から来る場合、右に曲がるのは遙か南の小路です。したがって、払方町の坂のほうが正しいのでしょう。しかし、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。

鰻坂とその上の坂。1990年

鰻坂とその上の坂。1990年

芦田伸介 あしだしんすけ。本名は蘆田義道。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年(1999年)1月9日。享年は満81歳。
河童のお化けが出た 実際は違うようです。『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では

右は當町近邊東の方二蓮池と唱候大池有之右池中獺雨天等の節は夜分坂近邊え出候處河童出候と其頃專ら風聞仕候二付自ら河童坂と唱候處後世合羽坂と書誤候由申傅候
この町の近辺で東方に蓮池という大きな池がありました。夜分になると特に雨天の節などにはかわうそが坂の近辺に出てきます。そこで、風評通りに、これを河童坂と呼んできました。その後、誰かが合羽坂と書き間違えたのです。

カッパ坂 西北に上がる坂です。江戸時代(『御府内場末往還其外沿革図書』嘉永5年、1852年)は現在の合羽坂とほぼ同じです。しかし、ほかの坂を合羽坂とよんた時代もありました。

本村町と合羽坂

本村町、仲之町と合羽坂

 三島由紀夫が割腹を遂げた陸上自衛隊市ケ谷駐屯地がある市谷本村町と西隣りの市谷仲之町との間を北上する坂合羽坂という。
 江戸時代、尾張藩の合羽干し場だったのでこの名がついたとするがあるが、『夜のタクシー』の運転手のいうように、河童説も有力である。
 というのも坂の下には古い大きな沼があり、河童が出たという伝説が生まれても不思議はないからである。
 永井荷風が『日和下駄』の中で本村町の坂の上から見る市ケ谷~小石川の景色が、東京中で最も美しいと述べているが、この坂の上とは、おそらく合羽坂のことであろう。
 鰻坂は、市谷砂土原町払方町の間を曲折している坂道。
 さらに砂土原町の一丁目と二丁目の境を市谷田町から払方町の方へのぼる長い坂が浄瑠璃坂。この浄瑠璃坂と合羽坂を「山の手だけど江戸らしい」と鏡花がほめている。
 また市谷左内町市谷加賀町の間の坂道を中根坂といい、外堀通り市ケ谷見附付近から市谷左内町へとのぼる坂を佐内坂という。
 このように市ヶ谷近辺は起伏に富んでいる。そして町名変更の波に洗われながらも旧称が残っており、同じ新宿区内でも整理され、旧町名が姿を消した新宿駅を中心とする地域とは全く異なった様相を呈している。

市谷本村町市谷仲之町 図を参照
北上する坂 現在の「北上する坂」は合羽坂ではなく、「外苑東通り」です。
 岡崎清記氏の「今昔 東京の坂」(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では「この坂名は、尾張藩の者たちの合羽干場になっていたためともいう。」と書いてありました。
古い大きな沼 『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では「東方にはす池という大きな池」があり、また「今昔 東京の坂」では「河童坂の名の由来となった蓮池は、町内の東方、尾張屋敷の御長屋下にあった用水溜で、蓮が生えていたが、のち埋め立てられて御先手組屋敷となった」といっています。下の図で赤い丸でしょうか。

絵図・市谷御屋敷

新宿歴史博物館「尾張家への誘い」新宿区生涯学習財団。2006年10月。95頁

日和下駄 ひよりげた。歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。永井荷風の「日和下駄」(1915年)では裏町と横道を歩き、東京中を散策する随筆集。
日和下駄
東京中で最も美しいと述べている  永井荷風が書いた『日和下駄』「第四 地図」の一文です。

 私は四谷見附よつやみつけを出てから迂曲うきょくした外濠のつつみの、丁度その曲角まがりかどになっている本村町ほんむらちょうの坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込うしごめを経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷八幡はちまんの桜早くも散って、ちゃ稲荷いなりの茶の木の生垣いけがき伸び茂る頃、濠端ほりばたづたいの道すがら、行手ゆくてに望む牛込小石川の高台かけて、みどりしたたる新樹のこずえに、ゆらゆらと初夏しょかの雲凉しに動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこのあたりを中心にして江戸の狂歌が勃興した天明てんめい時代の風流を思起おもいおこすのである。

おそらく合羽坂のこと 現在の命名では「外苑東通り」になります。
小石川 文京区の一部。1947年、小石川区と本郷区の2区を合併して文京区になりました。

旧区

アイランズ「東京の戦前 昔恋しい散歩地図」草思社、2004年

山の手だけど江戸らしい すみません。出典は不明です。

新潮社があることで知られる矢来町は、旧酒井邸の外垣に、矢来が組んであったことに由来するという。

②昭和四十五年十一月、作家の三島由紀夫が楯の会のメンバーと共に市ヶ谷駐屯地にたてこもり、自衛隊員に決起をうながしたが、応じないのを知ると、割腹自殺をした。

③市谷砂土原町には児童書の偕成社さ・え・ら書房、詩集の出版で知られる思潮社をはじめ、小規模の出版社が多数ある。

市谷加賀町の半分近くを大日本印刷(株)が占めている。

⑤この外堀通りを境にして、新宿区と千代田区に分かれている。
 四ツ谷から市ヶ谷を通って飯田橋まで、外堀堤は桜と松の並木がつづく美しい散歩道である。桜吹雪の舞い散る中を散策するのは本当に素敵だ。

偕成社さ・え・ら書房思潮社 下図を参照。
偕成社、さ・え・ら書房、思潮社
大日本印刷(株) 1876年、秀英舎が創業。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。大日本印刷は市谷加賀町一丁目の全てを占め、ほかに市谷加賀町二丁目、市谷左内町、市谷鷹匠町の一部を持つ。
外堀通り 環状2号線・外堀通りです。