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神楽坂の今昔3|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。氏は小説家と随筆家で、1926(大正15)年、日本国有鉄道(国鉄)本社に入社し、1932(昭和7)年には、法政大学高等師範部を卒業しています。

 ◆ 面白い口上とサクラ
 現在は五の日だけ、それも毘沙門さんの前に出るだけだが、当時は、天気さえよければ、神楽坂両側全部に夜店がならんだ。
 まず思い出すのは、バナナのたたき売りだ。
 戸板の上に、バナナの房を並べ、竹の棒で板をたたきながら、「さあ、どうだ、一円五十銭」と値をつけて、だんだん安くしていく。取りかこんだお客に、「お前たちの目は節穴か、それとも余程の貧乏人だな」などと毒舌をはきながら、巧みに売りつける。こちらも、そんな手にはのらない。大きな房が五十銭、中くらいが三十銭まで下がるのを待つ。そのカケヒキが楽しかった。一篭十二貫入りが十篭も売れたものだ。
 万年筆売りの口上は、いつでも倒産の整理品か、火事の焼け残り品にきまっていた。店が倒産して、給料代わりにもらった品だから、二束三文で売るのだという。また万年筆にわざわざ泥をつけて、いかにも火事場から持ってきたように見せかけ、泣きを入れてお客の同情をそそった。
 毎晩同じセリフで商売になったのだから、悠長な時代でもあったし、同時にその品物が、それほどのゴマカシものではなかったわけだ。
 サクラ専門の男がいて、「おー、これは安い。三本もらおう」といって買って行くが、一時間もすると、再びやってきて、今度は五本も買う。
 彼は、万年筆屋専属でなく、カミソリ屋にも頼まれていて、「おや、これはドイツのゾリンゲンじゃないか。日本製と同じ値段だな」などといって買うのであった。
 ガマの油売りもいた。暗記術というのもあった。その他屋台では、すし、おでん、串カツ、それから熊公焼きというアンコ巻きもよく売れていた。カルメ焼き電気アメ、七色とうがらし、小間物、台所用品、ボタン、衣料、下駄などの日常必需品、植木、花、金魚、花火なんでもあった。

口上 口頭で事柄を伝達すること。俳優が観客に対して、舞台から述べる挨拶。
ゴマカシもの いんちきな品。にせもの
サクラ 露店商などの仲間で、客のふりをし、品物を褒めたり買ったりして客に買い気を起こさせる者。
ゾリンゲン Solingen. ドイツ西部、ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。刃物工業で有名
ガマの油売り 筑波山のガマガエルから油をとり、傷を治す軟膏を売る人
あんこ巻き 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子。
カルメ焼き 砂糖を煮つめて泡立たせ、軽石状に固まらせた菓子。語源はポルトガル語のcaramelo(砂糖菓子)から。
電気アメ 綿菓子のこと。

 ◆ 文士と芸者とたちんぼ
 大正から昭和へかけて、牛込界隈には多くの文士が住んでいた。また関東大震災で焼け残った情緒のある街神楽坂へ、遠くからやってくる文士もあった。それらの人たちが、うまいフランス料理を食べさせる田原屋へみんな集まったのであった。夏目漱石吉井勇菊池寛佐藤春夫永井荷風サトウハチロー今東光今日出海、その他、芸能人の顔も見られた。
 このうちの幾人かは、自分のウイスキー(ジョニ赤)を預けておき、料理を取って、それを飲むという習慣だったそうだ。いま流行しているキーボックス・システムのはしりといっていい。
 文士の皆さんも、田原屋だけでなく、神楽坂三丁目裏の待合でお遊びになったと思うが、当時は芸者が千五百人もいた。だから、夕方になると左褄(ひだりづま)をとった座敷着の芸者が、神楽坂を上ったり下ったりする姿が見られた。
 現在は、わずかに二百人である。しかも、ホステスともOLとも区別がつかぬ服装で、アパート住まいの芸者が出勤して来るのだから、風情も何もないのである。
 神楽坂下には、たちんぼと呼ばれる職業の人が二、三人いた。四十過ぎの男ばかりで、地下足袋股引(ももひき)しるしばんてんという服装だった。
 八百屋、果物屋その他の商売の人たちが、神田市場、あるいはほかの問屋から品物を仕入れ、大八車を引いて坂下まで帰ってくる。一人ではとても坂はあがれない。そこで、たちんぼに坂の頂上まで押してもらうのであった。
 いくばくかの押し賃をもらうと、彼らは再び坂下に戻って、次の車を待つのであった。この商売は、神楽坂だけのものだったにちがいない。

ジョニ赤 スコッチウイスキーの銘柄ジョニー・ウォーカー・レッドラベルの日本での愛称
キーボックス・システム 現在はボトルキープと呼びます。酒場でウイスキーなどの酒を瓶で買って残った分を店で保管するシステム。
左褄を取る 芸者が左手で着物の褄を取って歩くところから、芸者になる。芸者勤めをする。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
ホステス hostess。バーやナイトクラブなどで、接客する女性。
OL 和製英語 office lady の略。女性の会社員、事務員。
たちんぼ 道端、特に坂の下などに立って待ち、通る荷車の後押しをして駄賃をもらう者。
地下足袋 じかに地面を歩く足袋。「地下」は当て字
股引 ズボン状の下半身に着用する下ばき。江戸末期から、半纏はんてん、腹掛けとともに職人の常用着。
しるしばんてん 印半纏。襟や背などに、家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から、職人などが着用した。
神楽坂だけのもの 昭和初期まで東京中で見られ、神楽坂だけではないようです。

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林原耕三|神楽坂今昔

文学と神楽坂

林原耕三 林原(はやしばら)耕三(こうぞう)氏は自称最後の漱石門下生で、生年は1887年12月6日。没年は1975年4月23日。英文学者で俳人。1918年、東京帝国大学英文科卒。在学中から夏目漱石に師事し、芥川龍之介氏たちを漱石に紹介し、その後、法政大学、明治大学、専修大学、東京理科大学の教授になりました。
 なかでも東京理科大学の教授歴が長く、その結果、非常に神楽坂のことについては詳しいはずです。しかし、昭和48年(85歳)に書いた『神楽坂今昔』では、ここかしこに、かなり記録の嘘や抜け落ちが出てきているようです。これは終わりに近い部分です。正しい点もたくさんあるのですが、うっかり抜けた内容がやっぱり出てきます。

 同じ側の矢来町には森田のおたまさんが住んでおり、彼女が三田へ移った跡は素木しづ子君が住んでゐたから、私には随分思ひ出が豊富である。森田草平氏の家も少し先の反対側の路地の奥にあって、思ひ出は一層深まる。最初の夫人お稲さん藤間勘衛門の高弟で、家中(かちゆう)踊舞台があり、そのお弟子が沢山あった。おたまさんもその一人だが、東大国文科に在学中のロシア人エリセイフ君も熱心で、筋がよかったやうだ。その頃、踊りに来たのではないが、少女時代の水谷八重子の「やっちゃん」がよく遊びに来た。それから文学の方で「まあちゃん」(本名豊田正子――今、ゲラに臨んで思ひ出した)といふ少女のお弟子が出入して、その処女作「綴方教室」といふ本が好評嘖々で、未来を大に嘱望されたが、不幸な結婚をして、その後筆を絶って、慧星の如く消えてしまった。
 私は、森田さんが忙しいので、頼まれておしづさんと長男の亮一君に英語を教へた。後におしづさんの自宅へ通はされた。そして、言はれるまゝに、洗濯物を持って行って、(おしづさんは隻脚なので)洗ふのはお毋アさん、縫ふのはおしづさんがしてくれた。森田家では文士の誰彼とも顔を合せ、後年深く交はった佐藤春夫君と相知ったのもこの家であった。森田さんが岩波版第一回漱石全集の校正主任の頃もあの家だから、勢ひ、その方の用件でも屢々訪問した。(略)
 私が大正十四年に都落ちして、昭和五年に東京へ舞ひ戻る五年間以外は生活の舞台はこゝにあったやうなものである。
踊舞台。おどりぶたい。踊りをする舞台
嘖々。さくさく。人々が口々に言いはやすさま。例は「好評嘖々」「評判嘖々たりし当代の佳人」など
森田。これは森田草平氏のほう
亮一。森田草平氏の長男
隻脚。せっきゃく。片足がなくなること。結核のためでした
三田 矢来町から三田にいった時間はわかりませんでした。森田たま氏の年譜はすかすかで、特に20代前半になるとまったくわかりません。森田たま氏も素木氏も矢来町から南榎町にいったことはわかっています。本当は南榎町ではないのでしょうか。たぶんこれも抜け落ちた内容でした。
路地の奥 『漱石全集』と『神楽坂界隈の変遷』によれば、森田草平氏は明治43年12月から大正9年1月にかけて牛込区矢来町62番地に住んでいました。下図では赤い場所です。
お稲さん 草平の妻。踊りの師匠としての名前は藤間勘次(女性です)。ただし草平とっては最初の夫人ではありません。まず抜け落ちた内容です。
藤間勘衛門 正しくは藤間勘右衛門(ふじま かんえもん)。生年は天保11.2.12。没年は1925(大正14年)1.23。藤間流勘右衛門の家元。

『素木しづ作品集』によると……

「大正四、五の読売の『よみうり抄』と時事の『文芸消息』の記事から清貢・しづ関係の項を列挙する。(略)
<上野山清貢氏 牛込矢来町一番地二二号へ転居せり。>(『読売新聞』大正5・5・5)
<素木しづ子 上野山清貢氏と共に牛込区南榎町一五に転居した。>(『読売新聞』大正5・6・10)

これから素木しづは矢来町1番地22号にいたとわかりました。しかし、1番地は巨大で、その22号はどこなのか、現在探すものはなく、全くわかりません。できれば緑の場所ならいいのですが、残念ながら、不明です。なお、赤い場所は森田草平氏が住んでいた場所です。大正11年矢来町

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田原屋[昔]|神楽坂5丁目

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19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。場所はここです。2002年2月に閉店。

昔の田原屋、田原屋跡田原屋ロゴ

 夏目漱石菊池寛佐藤春夫永井荷風らが通いました。メニューにはなんとも懐かしい「田原屋」のレタリング。

 田原屋は最初はおいしかったと思います。しかし後半はこのメニューのように、新しいものも新鮮なものもなく、あるのは旧弊だけとなり、うーん、どうもなあ、でした。

 新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)の注として

毘沙門の隣の静岡という魚やが、土地付で家を売りたいというので4000円で30坪、家付で買って、これで今の田原屋のめばえとなったのです。開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には、 観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門、六代目、先々代歌右ヱ門、松永和風、水谷八重子サトー・ハチロー、加藤ムラオ、永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生は京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅田清吉氏の“手紙”から)

 加藤ムラオという名前はないので、野口冨士男氏は註として「加藤武雄と中村武羅夫?」と書いています(『私のなかの東京』 文藝春秋)。2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。

夏目純一氏は『父の横顔』でこう書いています。父は夏目漱石です。

やはり、小学一、二年の頃だったと思う。父は私達をつれてよく散歩に行った。当時新宿はまだ今のように発展してはいなかったが、神楽坂はとてもにぎやかで、夏の夜なぞ、夕方から団扇(うちわ)をもった浴衣がけの人達が、夜店をひやかしたり、往来の金魚屋をのぞいたりして仲々風情があったものだ。そんな通りをぶらつきながら、毘沙門さまのあたりまで来ると田原屋という料理屋があった。表は果実屋だが中に入ると洋食を食べられるようになっていて、それが仲々美昧かった。父は私達をよく、この田原屋へつれて行ってくれたのだが、前にすわっていて、いちいち、がちゃがちゃ音を立ててはいかん、他所(よそ)見をしないで前を向いて食べろとか、口にほうばってべちゃべちゃ喋るなと、そのやかましい事といったら、何々するな、何しちゃいかんの連続で、せっかくの御馳走もさっぱり食べたような気がしなかった。後で考えるといちいちもっともな事ばかりなのだが、その時はおいしい物もいいが、こういちいち何か言われたんでは、田原屋も願いさげにしたいなと思った。父は父で、せっかく連れて行ってやった小供達が自分の顔色を見たり、何か自分を敬遠したりする私達を感じて、淋しい気がした時もあったろうと思う。

現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」です。ふぐ

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