タグ別アーカイブ: 佐藤義亮

新潮社

文学と神楽坂

佐藤義亮氏

 佐藤義亮氏は1896年に新声社を創立、しかし失敗。そこで1904年、矢来町71で文芸中心の出版社である新潮社を創立。雑誌は『新潮』。この時、編集長は中村武羅夫氏でした。自然主義文学運動と結んで多くの文学作品や雑誌を出版し、文壇での地位を確立します。

 今では新宿区矢来町に広大な不動産があります。

 佐藤義亮氏の『出版おもいで話』から。

 退社後しばらく姿を見せなった正岡芸陽氏が、ひょっくりやって来て、「あなたも近ごろ経済上お困りのようですが、新声社を手離す気持はありませんか」というのである。私は驚いた。これは、私を簡単に都合よく転身させるために、神業としてこの人が出て来たのではないか――とさえ思ったのである。
 話はその場ですんだ。
 誰一人相談もせず、譲渡の条件も一切先方まかせ。ただ「結構です、結構です」と、猫の子一匹の受けわたしよりも手軽に終った。
 明治二十九年以来の、私の新声社は、こうして幕が閉ざされたのである。(中略)
 いよいよ雑誌を出すことに決めた。
 が、金が一文もない。質草も大抵尽きてしまった。実際当惑したが、思いついたのは、その時の借家は、飯田町赤十字の下のかなり大きな庭のある家で、敷金が二百五十円入れてある。敷金の少ない家ヘ引越して、敷金の差を利用するということだった。牛込区新小川町一丁目のすこぶる家賃のやすい家に大急ぎで越したのはそのためであって、敷金の差約百五十円――、これが私の更生の仕事の全資金だった。
 新潮社かくして明治三十七年(1904)五月十日、『新潮』第一号は、発行所を新潮社と名づけて世に出たのである。真先きに喜びの言葉を寄せられたのは、中村吉蔵氏だった。

正岡芸陽 まさおかげいよう。明治時代の評論家。『嗚呼売淫国』『人道之戦士 田中正造』『裸体の日本』などを刊行。明治36年「新声」主筆。人道主義の立場から社会批判を行った。生年は明治14年9月5日。没年は大正9年3月24日。享年は満40歳
中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早稲田大学教授。米国やドイツ等を外遊。近代劇の影響を受けて帰国。芸術座に参加。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満64歳。

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手帳|同時代の作家たち

文学と神楽坂

広津和郎氏が書いた『同時代の作家たち』(岩波書店)の「手帳」(昭和25年)です。

が小説を書いて文壇に出るようになったのは大正六年であるが、たしかその翌年の初夏の頃であったと思うが、或日新潮社をたずねると、当時の同社社長の佐藤義亮(ぎりょう)氏との間に近松秋江の話が出、氏の口から秋江の逸話を幾つか聞かされた。秋江はなかなかあれで自分の肉体美が自慢で、丁度神楽坂毘沙門前の本多横丁の角に、後にヤマモトという珈琲を飲ませる店になったが、昔そこに汁粉屋があり、その汁粉屋のおかみさんがちょっとイキな女だったので秋江はそれに興味を持ち、自分の肉体美をそのおかみさんに見せたくなり、その家の裏側に風呂屋があったので、秋江は赤城神社の境内の下宿屋からわざわざそこまで風呂に入りに行き、しかも風呂に入る前にその汁粉屋に寄って、そこでおかみさんの前で浴衣に著更(きが)えて自分の肉体美をおかみさんに見せようとしたというのである。
広津和郎広津和郎。ひろつ かずお。生まれは1891年(明治24年)12月5日。没年は1968年(昭和43年)9月21日。文芸評論家、小説家、翻訳家です。
新潮社 新潮社文芸書を初めとした大手出版社。1896年に新聲社として創立
本多横丁 「神楽坂最大の横丁」で、飲食店をなど50軒以上の店舗があります。この名前は、江戸中期から明治の初期まで、この通りの東側全域が本多家の屋敷であり、 「本多修理屋敷脇横町通り」と呼ばれていたことに由来します。
ヤマモト 本多横丁戦前『ここは牛込、神楽坂』第5号の「戦前の本多横丁」にでていた松永もうこ氏の絵です。サトウハチローとドーナツについてはここに
風呂屋 この近くの風呂屋は「第2大門湯」だけです。青で書いてあります。下の山本コーヒーの想像図は赤で書いています。現在の大門湯は理科大の森戸記念館の一部になりました。なお地図は都市製図社製の『火災保険特殊地図』( 昭和12年)です。大門湯
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。
下宿屋 清風亭1この矢印は昔の「清風亭」の場所で、赤丸で囲んだ清風亭とは違っています。近松秋江は赤い矢印のここに住んでいました。
それから秋江はまた非常に著物(きもの)が好きで、季節季節には新しく著物を作るが、貧乏なので直ぐそれを質屋に持って行ってしまう。それで次にその季節が来たらその著物を出して著れば好いのに、そうはしないでまた新たに著物を作る、しかし直ぐまたそれも質屋にはこんでしまう、そんな風にして質屋に預けた著物がいっぱい溜ってしまったが、虫干頃になると秋江は質屋の番頭がどんな虫干の仕方をするかとそれが信用が出来ずに、自分で質屋に出かけて行き、自分で質屋の蔵の中に細引を引きまわして自分の質物を懸けつらね、その下にそれも彼が入質した蒲団を敷いてその上に横たわり、自分の著物を頭上に眺めながら悠々と昼寝をして来るというのである。……そんな話を義亮氏の口から聞きながら、私は通寺町の路地の洋食屋で、秋江が芸妓に電話をかけて、「この間は散財した、あれだけあれば米琉が出来るんだのに」といっていた例の電話を思い出した。あの時にはあれがやりきれなく厭味に感じられたが、しかしこんな話を聞きながら今になって思い出すと、いかにも秋江の秋江らしさとして頬笑まれて来るのである。そしてその時佐藤義亮氏から聞いた話を、「これは面白い。これは小説になる。しかし自分に向く材料ではない。多分これは宇野浩二なら書けるだろう」と考えたものであった。
 宇野はその時はまだ文壇に出ていなかったが、私は彼にその話をして、「君なら書けるだろう」というと、「うん、僕なら書ける」と彼は答えた。それから一、二ヶ月後に宇野は実際にそれを小説に書いた。それが宇野の文壇的処女作となった「蔵の中」であるが、その事については私は以前「蔵の中物語」という文章に詳しく書いた事がある。
著物 着物のこと。この時代には「著物」と書いたんですね。
質屋 品物を担保(質草)として預かり、代わって品物の価値にみあう金銭を融資する商売
虫干 日光に当て,風を通して湿りけやかび,虫の害を防ぐこと。日本で6~7月のつゆ明けの天気のよい日に行います。
番頭 商店などの使用人の長。主人に代わり店の一切のことを取りしきる者
細引 ほそびき。麻などをより合わせてつくった細目の縄。
通寺町 現在は神楽坂6丁目のこと
洋食屋 上から下に神楽坂を下って左側にある洋食屋はわかりません。
米琉 よねりゅう。米琉(つむぎ)、正確には米沢(よねざわ)琉球(りゅうきゅう)(がすり)(つむぎ)。山形県米沢地方で生産される紬織物。米沢紬の中で、琉球絣に似た柄のもの
蔵の中物語 これは同じ本『同時代の作家たち』で「『蔵の中』物語――宇野浩二の処女作」という1章になって出ています。

文学と神楽坂

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広津和郎の生家

文学と神楽坂

広津和郎広津(ひろつ)和郎(かずお)氏は大正・昭和の作家、文芸評論家、翻訳家です。代表作は『神経病時代』『昭和初年のインテリ作家』『松川裁判』『年月のあしおと』など。広津氏は生まれた時期から少年期にいたるまで矢来町で過ごしました。でも、この矢来町は巨大な町なのです。いったいどこで過ごしたのでしょうか。

籠谷(かごたに)典子氏の『東京10000歩ウォーキング No 13. 新宿区 神楽坂・弁天町コース』では、

和郎の生家が現在の矢来町90番地辺にあったことがわかる。和郎は頻繁に訪れた泉鏡花に抱っこされたこと、尾崎紅葉の堂々たる風格についても述べている。

と出てきます。そうなのでしょうか。

『年月のあしおと』では次の文章が出てきます。(下線は当方で書いたもの。以下同じ)

私の生れたのは牛込矢来町で、丁度今の新潮社(その頃は無論新潮社はなかった)の東側の裏通の、新潮社とウラハラになったあたりであるが、私はこの文章を書くのに、何かの緒を引き出すよすがともなればと思って、昨夜その附近を歩いて見た。
 神楽坂の方から行って、矢来通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。子供時分の記憶ではそれは「横町」ではなく、ちゃんとした「道」であったが、矢来通や、新潮社前の通が拡げられた今日では、昔のままのそこは「道」という感じではなく、「横町」という感じになってしまった。私はその幅を足ではかって見たが、並の歩幅で五歩余しかなかった。して見ると二間幅もないわけである。子供の時分には普通の往来のつもりでいたが、二間幅もなかったのかと今更のようにその狭さに驚かされた。
 その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、無論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあったと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく囲繞されている。

では確かめてみましょう。「新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れる」は①です。「少しだらだらとした登り」は確かにだらだら坂を上って②。150メートルはほぼ+の場所です。
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新潮社の初代社長、佐藤義亮氏の『出版おもいで話』(昭和11年)では

大正二年(1913)七月に、はじめて現在の牛込区矢来町に家屋を買い求めて移った。(中略)
 牛込矢来の現在の地に移ったのである。現在の地といっても大通りでなく、細い路地をはいったところで、前の空地ヘ事務所を建てた。木造ペンキ塗りの小さなもので、二階は編集と応接の二間、下は営業部一間だけのものだった。それでも若い中村加藤氏などは「こんな立派なところで仕事をするのかな」と、ひどく喜ばれた。

これは上図に書きました。新潮社はまだ表通りには出てきません。なお、新潮社の左には漱石邸、右には広津邸がありました。これは次の文章(同じく佐藤義亮氏の『出版おもいで話』)によっています。

新潮社新社屋

新潮社新社屋

社業次第に進展して、従来の家ではどうにも始末がつかぬようになり、いよいよ社屋新築ということに決した。
 まず近隣の地所を買うための交渉をはじめた。通りに面している家(今の新潮社の玄関のある辺り)はかつて漱石氏の岳父中根貴族院書記官長の住まいだったもので、漱石氏もしばらくいたことがある。横は広津柳浪氏が住み、中村吉蔵氏が玄関にいたという、これまた文学的由緒ある家だ。それらの五、六軒を買い受け、相当地所が広くなったので、四階の鉄筋コンクリートを建てることとなり、東洋コンクリート株式会社が工事に着手したのは大正十一年(1922)の八月。翌年の八月になって全く竣工した。

つまり、漱石邸や広津邸などを一緒くたになって買い上げたのです。全部が矢来町71番地か73番地でした。新潮社や新潮社とウラハラになったあたりです。下図は昭和12年の「火災保険特殊地図」で、赤い範囲は新潮社とその社長、佐藤義亮氏がまとめて買った場所です。新潮社と佐藤義亮氏がまとめて買った土地

昭和5年、牛込区全図

昭和5年、牛込区全図

籠谷かごたに典子氏は矢来町90番地だと書いていますが、これよりもさらに南方にあります。90番地ではないでしょう。また広津和郎氏が書いた『鶴巻町』では「新潮社の裏側の細い通に行き、新潮社の囲いの中を指さして、「それはその囲いの中だ」と説明するより仕方がない。」となっています。

以上、広津和郎の生家は、新潮社とウラハラになった東側の裏通で、曲がり角を数十メートルほど行った右側で、 新潮社の社長はこの五、六軒を一緒に買い受けた場所でした。曲がり角から150メートルほど行った場所ではないですが、他は現在の番地によくあっています。新番地になった場合、おそらく矢来町73番地でした。90番地は間違いです。

文学と神楽坂

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