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神楽河岸埋立の写真

文学と神楽坂

 神楽河岸の写真を見てみたいと思っていました。でも、神楽坂の写真すら見ることはかなり困難で、坂といっても普通は神楽坂一丁目から上がる坂しか出てこないし、昔のスズラン通りの写真もない。まあ、これと比べると、神楽河岸はかなりラッキーで、昭和51年8月26日に新宿歴史博物館が撮った写真数枚があります。
 昭和51年はどんな時代なのでしょうか。東京都建設局がつくった「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)を読むと、昭和45年に都議会が「飯田壕の埋め立て請願」を採決し、昭和46年、飯田濠の埋立を申請し、昭和47年10月、埋立に着手し、約5,308㎡を埋め立て、昭和48年3月末に完了しました。つまり、昭和51年には埋め立てはおおむね終わっているのです。
 昭和51年には地元の「飯田橋地区市街地再開発連絡協議会」ができています。また昭和52年には「飯田壕を守る会」が発足し(渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」けやき舎、2007年)、同年6月には都議会へ再開発の中止を請願しました。つまり、神楽河岸はなくなる可能性の計画があり、埋め立てが終了したために、新宿歴史博物館もあわてて写真を撮ったのでしょう。

 写真は赤色の地点にカメラを置き、青色の神田川(つまり、飯田壕)を中心に撮ったものでしょう。地図は昭和53年の住宅地図です。また①②➂はカメラの角度です。

 ➀の焦点は飯田橋駅と東京燃料林産などにあてています。新宿歴史博物館は「河岸の雰囲気が残る神楽河岸地区。飯田橋駅の東口(目白通り)・西口(早稲田通り)と外堀通りに挟まれた飯田濠の再開発は、昭和61年(1986)に完了。飯田橋セントラルプラザ・ラムラに生まれ変わっている」と、解説しています。

➀神楽河岸。©新宿歴史博物館。昭和51年8月26日

②の焦点は牛込橋と埋立地などです。

➁神楽河岸。©新宿歴史博物館。昭和51年8月26日

 なお、東京燃料林産の寮はどうも社宅だったようです。kさんの下の発言をどうぞ。

 いまではなくなった情報誌『かぐらむら』の「記憶の中の神楽坂」では「とんかつ森川」について(ただし名前は間違えています)

おかむらもりかわ(トンカツ)
神楽河岸の今は「なか卯」辺りにあった。ここのトンカツは天下一品だったんだよね。復活してほしいなぁ。

 目立つ建物は東京理科大学だけを除いて全てなくなりました。移転したり、あるいはオーナーは残っても建物は別の業態に変えたりしています。奥山酒造からはマクドナルドハンバーガー、さらにカナルカフェに代わっています。

 この埋立地は「鋼矢板を打ち込んで水面を区切り、土砂などを投入し」たものだと地元の方。埋立地は巨大で、ゴミもありません。汚臭もなさそうです。この埋立地の上にフタをかぶせ、循環式「せせらぎ」と緑地をつくり、さらに左奥にはラムラが建ちました。

 昭和46年の写真(下図)と比べてください。この写真にはゴミも、古材も、廃物もありそうです。でも昭和51年には何もなく、古材も悪臭もなさそう。「昭和46年の写真の廃材を、埋立地に埋めて処理したのかも」と地元の方。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 ➂の焦点は➁よりも近い場所です。

➂神楽河岸。©新宿歴史博物館。昭和51年8月26日

 銀鈴会館の屋上には巨大なPR用の看板がでています。ある時点でこれは大きな「東京ワンタン本舗」の看板でした。現在はこの看板の前に大きなビルが建ち、看板は全く見えません。

 またカラー写真も新宿歴史博物館から借用しています。

➃神楽河岸。©新宿歴史博物館。昭和51年8月26日

神楽坂下から揚場町まで

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、1962年、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)