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日本歓楽郷案内(1/5)

文学と神楽坂

 酒井潔氏の『日本歓楽郷案内』(昭和6年、竹酔書房)の一部です。氏は大正末期から昭和初期にかけてのエログロナンセンス文化の火付け役でした。

寂びれ行く神樂坂
 神樂坂と云へば、新宿が今日の地位を得るまではダンゼン山之手第一の繁華な街であつた。あの急な坂道を挟んで、新舊とりどりの老舗がいかにも和洋折衷といふ感を抱かしめる。夜になると自動車の通行も止められ、老人も子供も安心して散策する。
 坂を上り切ると毘沙門天があり、その後ろ側には神樂坂の落ち着いた花街(いろまち)の灯が流れてゐる。
 この土地は昔から多くの文士と因緣淺からぬものあつて、尾崎紅葉以來、實にいろんな作家が艶聞を流したので有名である。
 それに、晝でも夜でも艷つぽい藝妓の姿が眼にとまり、壽司屋へ入つてゐる藝妓、シューマイを買つて歸る半玉半衿の柄を品定めしてゐる年増――さう云つた工合に、喰ひしんぼうと、出歩きしたがる藝妓の多いことだけは一見してその内幕が見透かされる。
 だから藝妓と稱するものゝうちにも、ずゐぶんいかがはしいのがあつて
「なにかお前の得意なものを一つやれよ。」と云へば
妾し何も出來ないわよ!色氣だけの御目見得よ!」
などと酒々として澄してゐる。
 それかあらぬか、晝間湯歸りの妓など、顏色は何となく蒼味を帶びて、芳ばしからぬ病狀持と見なされる向の多いのも情けない。

新旧とりどり 新しいものと古いものがひとつひとつ違っていること。まちまち
和洋折衷 日本風と西洋風の様式を、程よく取り混ぜること。
毘沙門天 善国ぜんこくは新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の()沙門(しゃもん)(てん)は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。毘沙門天
花街 いろまち。かがい。はなまち。遊女屋や芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。
因縁浅からぬ 普通ではない深い間柄のこと
艶聞 異性と関係があるといううわさ
艷っぽい つやっぽい。色気がある。なまめかしい
芸妓 げいぎ。舞踊や音曲、鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性。右の写真は昭和30年ごろの神楽坂です。普通の女性と芸妓の女性が混ざっています。芸妓
半玉 はんぎょく。玉代(ぎょくだい)が芸者の半額の、まだ一人前でない芸者。
半衿 はんえり。装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢(じゅばん)などの(えり)の上に縫いつけた替え襟。
半襟
喰ひしんぼうと、出歩きしたがる藝妓 本来ならば芸妓は客をもてなす女性です。しかし神楽坂の芸妓は食事と外出のほうが重要だと書かれてしまいました。
内幕 外からは見えない内輪の事情。内情。内実。
いかがわしい 物事の内容、人の正体などが、あやしげで信用できない。下品でよくない。風紀上よくない
妾し わたし。あたし。昭和初期に女性では「私」ではなく「妾」の字が使われていました。
御目見得 おめみえ。御目見、御目見得。新たに人の前に姿を現すこと。つまり「色気だけが売り物」
酒々 しゃあしゃあ。厚かましくて、恥を恥とも思わないで平気でいる様子
それかあらぬか はたしてそうか、それともそうでないのか。本当はわからないけれど。
芳ばしからぬ いい話ではない。当時一番問題なのは結核でした。

結構、昔(昭和6年)の神楽坂は叩かれています。

神楽坂|五十鈴

文学と神楽坂

 五十鈴(いすず)。和菓子。昭和21年(1946年)から。場所はここです。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第4号で金田理恵氏の「おいしいもの大好きおばさんの神楽坂ガイド」では

ちょっと塩気の効いた『五十鈴』の豆大福もいいし…(いけない、糖尿のこと忘れてた)

 また、岸朝子氏は「神楽坂饅頭」を「東京五つ星の手みやげ」として絶賛し

現在の主人は「自分の感性で新しい菓子をつくりたい…」と、伝統の小豆餡を西洋菓子のパイ生地で包んだ「神楽坂饅頭」を生み出した。餡に使う小豆は、皮が柔らかく調理が難しい北海道十勝産の「雅」を使用。丁寧に煮上げた小豆餡を独学で習得したパイ生地で包みオーブンで焼く。しっとりと香ばしい和と洋の美味しい二重奏。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

五十鈴

馬場さん 「五十鈴」のところへいった太田の半襟屋さん。この半襟屋さんですか、いつだったか長岡の桂木館へ町会で行きましたよね。
相川さん それは塩物屋の松葉屋さん。長岡のね。そこで番頭さんやっていたってね。
馬場さん 大田の半襟屋さんのあとに。
相川さん 「安田貯蓄」っていうのが来た。若松町の警察の並び、安田貯蓄っていうのがあった。
馬場さん それで戦災?
相川さん 戦災のときは、何屋になっていたかな?それがいまの第一勧信(注)のところへ借りて越したんですよ。勧信の前に。あの入口のところで小使いさんがシヤッター開けながら焼け死んじやった。ほら、昔のだから手で巻いていたでしょ。注:第一勧業信用組合の略称で、現在の時間貸し駐車場(現在は焼肉丑家とパンのPaul店舗)にあった
馬場さん 戦災の前が何屋と何屋があったかということがあるんだね。
相川さん 何があったんだろうな? その安田貯蓄の仕事も私がやったんだけど。
馬場さん これは調べればまた出てくるでしょう、そのへんは。
山下さん だったら五十鈴さんは?
相川さん あれは西沢さんから受けたのよ。
山下さん でしょう。だからニ十ニ、二十三年ごろじゃないの? 五十鈴さんが出てきたのは。
馬場さん あそこで最初は氷屋をやっていた。氷のいちごが二円五十銭。私、いまだに覚えている(笑)。
相川さん 私が木更津から通ってくると、五十鈴さんの後ろへ道具をおいて、シャベルだつるはしだなんてのを預けて、私は体だけで帰ってきて。通勤していた。若いからできたんですよね。

 以前はここは太田屋という半衿店さんでした。半衿とは襦袢じゅばんなどのえりの上に縫いつけた替え襟です。

 鏑木(かぶらき)清方氏が書いた『続こしかたの記』の「夜蕾(やらい)亭雑記(1)」では

前記田原屋に並んで太田屋といふ半襟店があつた。銀座には襟善、ゑり圓の專門店もあるが、この土地には太田屋が繁昌して、山川はそこの主人と心安く、圖案の相談にも乘つてゐたやうである。半襟に數奇を凝こらしたのは明治、大正を盛りとしてその後、だんだん影を消した。

 河合慶子氏は『ここ牛込、神楽坂』第3号の『懐かしの神楽坂』で「肴町界隈のこと」を書き、

ワラ店の角の「太田半衿店」。箱にきれいに並んだ半衿の、赤・黄・緑と色とりどりの鮮やかさ。


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