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大東京繁昌記|早稲田神楽坂09|牛込見附

文学と神楽坂

牛込見附

牛込見附

私達は両側の夜店など見ながら、ぶら/\と坂の下まで下りて行った。そして外濠の電車線路を越えて見附の橋の所まで行った。丁度今省線電車線路増設停車場の位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中でごった返していて、足元も危うい位の混乱を呈している。工事完成後はどんな風に面目を改められるか知らないが、この牛込見附から見た周囲の風景は、現在残っている幾つかの見附の中で最もすぐれたものだと私は常に思っている。夜四辺に灯がついてからの感じはことによく、夏の夜の納涼に出る者も多いが、昼の景色も悪くはない、上には柳の並木、下には桜の並木、そして濠の上にはボートが点々と浮んでいる。濠に架かった橋が、上と下との二重になっているのも、ちょっと変った景色で、以前にはよくあすこの水門の所を写生している画学生の姿を見かけたものだった。

外濠の電車線路 外濠線の都電線路のこと。都電3系統の路線で、第3系統は飯田橋から皇居の外濠に沿い、赤坂見附に行き、溜池、虎ノ門から飯倉、札の辻、品川に至る路線です。
見附の橋 見附の牛込橋は千代田区富士見二丁目から神楽坂に通ずる早稲田通りに架かっていました。寛永13年(1636)阿波徳島藩主蜂須(はちす)()忠英(ただてる)が建造。当時千代田区側は番町方、新宿区側は牛込方と呼ばれ、旗本屋敷が並び、その間は深い谷だったのを、水を引いて堀としたものです。
省線電車 1920年から1949年の間、現在の「JR線」に相当する鉄道。明治41(1908)年から鉄道院「院電」、大正9(1920)年から鉄道省「省電」、昭和24(1949)年から日本国有鉄道「国電」、昭和62(1987)年から東日本旅客鉄道「JR」と変遷。
線路増設 昭和3(1928)年11月15日、関東大震災復興で貨客分離を目的として、新宿-飯田町間で複々線化工事を完成しました。
停車場の位置変更 停車場はJR駅のことで、ここでは飯田橋駅ではなく、牛込駅のこと。牛込駅は牛込橋(現飯田橋駅西口に接する跨線橋)よりは四ツ谷寄りの位置です。出入口は2か所。ひとつは外堀通りに面した神楽坂下交差点のたもと。現在でも、牛込濠を埋め立てて作った連絡通路の遺構が残っています。下に詳しく書いています。もうひとつは濠の反対側、旧飯田橋郵便局の向かいで、改札口の位置を左右から挟むようにして、石積みの構造物が残っています。昭和3(1928)年11月15日、関東大震災復興で複々線化工事が新宿-飯田町間で完成。これで駅間が近い牛込駅と飯田町駅を統合し、飯田橋駅が開業しました。この3駅についての関係はここで
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。以上は牛込見附ではまったくいいのですが、しかし、別の文脈では、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。詳しくは牛込見附跡を。
大正11年。東京市牛込区二重 大正11年の『東京市牛込区』の地図では牛込橋が2つにわかれています。また下の新宿歴史博物館の「神楽坂通りの図 古老の記憶による震災前の形」でも2つに分かれています。牛込橋の上の1つは千代田区に、下の1つは牛込駅につながっています。2つの牛込橋2

 いまでもこの連絡通路はあります。赤い色で描いた場所です。カナルカフェ写真ではこうなっています。先には行けません。。
カナルカフェ2
下は明治後期の小林清親氏の「牛込見附」です。きちんと牛込橋が2つ書かれています。

牛込見附の清朝

牛込見附

この下の橋は昭和42年になっても残っていました。飯田橋の遠景

だがあすこの桜は震災後すっかり駄目になってしまった。橋を渡った停車場寄りの処のほんの二、三株が花をつけるのみで、他はどうしたわけか立枯れになってしまった。一頃は見附の桜といって、花時になると電車通りの所から停車場までの間が花のトンネルになり、停車場沿いの土手にも、ずっと新見附のあたりまで爛漫らんまんと咲きつらなり、お濠の水の上に紛々ふんぷんたる花ふゞきを散らしなどして、ちょっとした花見も出来そうな所だったのに、惜しいことだと思う。

停車場 「停車場」はJR駅について話す場合。これは牛込駅に相当します。ちなみに市電(都電)は「停留所」でした。
新見附 明治中頃、行き来の便宜のため、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて新しく橋を作りました。この橋を新見附橋といいます。また外濠は二つになり、牛込駅(飯田橋駅)寄りは牛込濠、市ヶ谷寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。
爛漫 花が咲き乱れているさま
紛々 入り乱れてまとまりのないさま
花ふぶき はなふぶき。花びらがまるで雪がふぶくように舞い散るさま

貸ボートが浮ぶようになったのは、ごく近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てゝ市の公園にするとかいううわさも幾度か聞いたが、そのまゝお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。誰の計画か知らないがいろ/\の意味でいゝ思い付きだといわねばならぬ。今では牛込名物の一つとなった観があり、この頃は天気さえよければいつも押すな/\の盛況で、私も時々気まぐれに子供を連れて漕遊を試みることがあるが、罪がなくて甚だ面白く愉快である。主に小中学の生徒で占めているが、大人の群も相当に多く、若い夫婦の一家族が、水のまに/\舟を流しながら、パラソルの蔭に子供を遊ばせている団欒だんらん振りを見ることも屡々しばしばである。女学生の群も中々多く、時には芸者や雛妓おしゃくや又はカッフエの女給らしい艶めいた若い女性達が、真面目な顔付でオールを動かしていたりして、色彩をはなやかならしめている。聞くと女子の体育奨励のためとあって、特に女子のみの乗艇には料金を半額に優待しているのだそうだが、体育奨励もさることながら、むしろおとりにしているのでないかと笑ったことがあった。

貸ボート この東京水上倶楽部の創業は大正7年(1918年)です。東京で最初に出来たボート場でした。
水上公園 水のほとりや水辺にある公園
漕遊 遊びで漕ぐ
まにまに 随に。他人の意志や事態の成り行きにまかせて行動するさま
団欒振り 「振り」は物事の状態、ようす、ありかた。語調を強めるとき「っぷり」の形になる場合も。「枝―」「仕事―」「話し―」「男っぷり」「飲みっぷり」
雛妓 半人前の芸者、見習のこと。(はん)(ぎょく)()(しゃく)などとも呼びます。

これは麹町区内に属するが、見附上の土手が、新見附に至るまでずっと公園として開放されるそうで、すでにその工事に取掛かり今月中には出来上るとの話である。それが実現された暁にはあのあたり一帯に水上陸上相まって、他と趣を異にした特殊の景情を現出すべく、公園や遊歩場というものを持たないわれ/\牛込区民や、麹町区一部の人々の好個の慰楽所となるであろう。そしてそれが又わが神楽坂の繁栄を一段と増すであろうことは疑いなきところである。今まであの土手が市民の遊歩場として開放されなかったということは実際不思議というべく、かつて五、六の人々と共に夜の散歩の途次あすこに登り、規則違反のかどを以て刑事巡査に引き立てられ九段の警察へ引張られて屈辱きわまる取調べを受けた馬鹿々々しいにがい経験を持っている私は、一日も早くあすこから『この土手に登るべからず』という時代遅れの制札が取除かれ、自由に愉快に逍遙しょうよう漫歩まんぽを楽しみ得るの日の来らんことを鶴首かくしゅしている次第である。

麹町区 こうじまちく。神田区と一緒になって千代田区
慰楽所 いらくしょ。慰みと楽しみ。「レクリエーション」のこと
あすこ あの土手。見附上の土手から新見附の土手に至るまでの土手です。
逍遙漫歩 逍遙しょうようとは気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩。漫歩まんぽとは、あてもなくぶらぶら歩き回ること。そぞろあるき
鶴首 今か今かと待つこと。首が伸びるほど待ち焦がれること

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

泉鏡花|南榎町

文学と神楽坂

 泉鏡花(みなみ)(えのき)(ちょう)に住んでいたことがあります。寺木定芳氏が書いた『人・泉鏡花』(昭和18年、再販は日本図書センター、1983年)では

大塚から牛込の南榎町に居を移したのは、たしか明治三十四年頃だったと思ふ。今は家が建てこんで到底其の面影もないが、その家は町の名の如き大榎が立ちこめて、是が東京市内の牛込區かと疑はれる程、樹木鬱蒼、野草蓬々、荒れに荒れた、猶暗い、古寺の荒庭のやうな土地に圍まれたすさみきつた淋しい二階家で、上下三間か四間の小い古びた家だつた。六疊の二階が先生の書斎で、下の六疊が令弟斜汀君の居間になつてゐた。
 来客があまり多くて仕事の出來ない時なぞは、よく紅葉山人が、此の二階に來て仕事をしてゐた。又時に同門の面々や師匠も交つて、句會なぞを催した事も多く、壁に紅葉、鏡花、風葉春葉なぞの寄せ書きの樂書きなども殘つてゐた。此のおどろおどろした境地で、かの神韻渺茫たる『高野聖』や『袖屏風』『註文帳』などが物されたのだつた。同時に妖艶読む目もあやな『湯島詣』なども此時代の作物だつた。

大榎 おおえのき。ニレ科エノキ属の落葉高木
鬱蒼 うっそう。樹木が茂ってあたりが薄暗いさま。
蓬々 ほうほう。草木の葉などが勢いよく茂っているさま。
 昼の旧字体。
鬱蒼 うっそう。樹木が茂ってあたりが薄暗いさま。
神韻 しんいん。芸術作品などの人間の作ったものとは思われないようなすぐれた趣。
渺茫 びょうぼう。遠くはるかな。広く果てしないさま
高野聖 こうやひじり。泉鏡花の短編小説。泉鏡花の代表的作品の一つで幻想小説の名作。当時28歳の鏡花の小説家としての地歩を築いた出世作。高野山の旅僧が旅の途中に道連れとなった若者に、自分がかつて体験した不思議な怪奇譚を聞かせる物語。蛇と山蛭の山路を切り抜け、妖艶な美女の住む孤家にたどり着いた僧侶の体験した非現実的な幽玄世界が、豊かな語彙と鏡花独特の文体で綴られていました。
袖屏風 そでびょうぶ。泉鏡花の短編小説。占い師と観世物と娘の物語。
註文帳 泉鏡花の短編小説。無理心中を果たせず一人死んだ遊女の怨霊が、研ぎたての剃刀にとりついて起こる雪の夜の惨劇。
妖艶 あでやかで美しい。人を惑わすようなあやしい美しさ。
あや 物の表面に表れたいろいろの形・色合い、模様。言葉や文章の飾った言い回し。表面上は分かりにくい入り組んだ仕組み。
湯島詣 泉鏡花の小説。芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中するというお話。

泉鏡花。南榎町。

泉鏡花。南榎町。2014年7月

新宿区文化登録史跡も出ています。

文化財愛護シンボルマーク 新宿区登録史跡 (いずみ)鏡花(きょうか)(きゅう)(きょ)(あと)
   所在地 新宿区南榎町二十二番地
   登録年月日 平成七年二月三日

 このあたりは、明治から昭和初期にかけて、日本文学に大きな業績を残した小説家泉鏡花が、明治三十二年(一八九九)から四年間住んでいたところである。
 鏡花は本名を鏡太郎といい、明治六年(一八七三)石川県金沢市に生れた。十六歳の頃より尾崎紅葉に傾倒し、翌年小説家を志し上京、紅葉宅(旧居跡は新宿区指定史跡・横寺町四十七)で玄関番をするなどして師事した。
 この地では、代表作『湯島詣』『高野聖』などが発表された。鏡花はこのあと明治三十六年(一九〇三)に神楽坂に転居するが、『湯島詣』はのちに夫人となった神楽坂の芸妓によって知った花街を題材としており、新宿とゆかりの深い作品である。
       平成七年三月

東京都新宿区教育委員会

文学と神楽坂

西條八十|払方町18

文学と神楽坂

西条八十氏 西條八十氏は、早稲田大学仏文学科教授を務め、詩人、作詞家で、さらに「唄を忘れた金絲雀かなりやは」で始まる「かなりや」など有名な童謡や流行歌を沢山つくっています。生年月日は明治25年(1892年)1月15日、没年月日は昭和45年(1970年)8月12日、享年は78歳でした。

 では、どこに住んでいたのでしょう。勿論いろいろな場所に住んでいましたが、では牛込区(新宿区の一部)のどこに住んでいたのでしょう。西條八束著の『父・西條八十の横顔』では

父は一八九二(明治二十五)年、東京牛込拂方(はらいかた)町に生まれた。私の祖父重兵衛は初めこの質屋の番頭を務めていたが、西條家の嫡男丑乃助が急死したため、その花嫁となるはずだった私の祖母と結婚して、家を継ぐこととなった。

 西條八十著の「青春の日記」を全集に掲載する際、娘の西條(ふたば)()の「解説」がついてきました。それを読むと、もう少し細かく判ってきます。

父の生家は市ヶ谷と飯田橋の中ほどの濠端から北町へ抜ける、ちょうど3角に逸れる辺りにあった。現電話局の向い側からかなり奥に広がった大きな構えのようであった。

 うーん、かえって判りにくいか。新宿区の『区内に在住した文学者たち』を読むと、牛込払方町18 で生まれたと書いてあります。なるほど。

 下の番号がそれです。明治28年(左図)には、まだ下から上にあがる道(青の道路)はできていません。青に塗った上下をつなぐ坂道は明治42年にできました。昭和15年(右図)になると、道はきちんとできています。ほかに郵便局も出現しています。

牛込中央通り

牛込中央通り商店会「お散歩MAP」平成20年

明治15-28年  ここで西條八十氏は明治44年(1911年)8月まで、つまり19歳まで、この同じ払方町で成長します。

 さらに、新婚の時、妻と一緒に初めて住んだ場所もここで、大正5年(1916年)6月から12月まで、住んでいました。

 ところが、牛込中央通り商店会が作った「西条八十家跡」(左図)は全く違っています。西條八十家跡は、左の図では下ではなく、左にあります

 これは納戸(なんど)町の日々を描いているのでしょう。ここと大きく離れてはいない場所で(それでも、やはり間違えた場所で)昭和19年1月から20年4月まで住んでいたようです。西条八十著の『疎開日記』では

そのあいだ、早稲田大学へは毎週2日間、フランス詩の講義にわりあい忠実に出かけた。娘たちが北京へ赴任したあとの牛込納戸町の家を仮寓に使っていたのだが、狭いながら日あたりのいい家で、そこへ行くと下館よりずっと暖かいので、落ち着いてつい長逗留してしまうのだった。(この家は昭和二十年四月十三日夜の空襲できれいに焼けてしまった。)(中略)
 牛込の仮寓には、よくバリ以来の友「ラ・ミューズ・フランセーズ」の詩人ヌエル・ヌエト氏が訪ねてきた。(ねずみ)(ざか)という細い暗い坂をのぽると、わたしの生まれた払方町へ出た。その想い山の町を深夜二人で肩を並べながら、氏の住む富士見町まで送って行ったものであった。(その後ヌエト氏の家はわたしの家よりもさきに焼けてしまった。)

 また、先の西條嫩子氏の「解説」によれば

戦前、私が三井と結婚した新居は父の払方町の家から、現大日本印刷の方へ降る鼠坂という細い坂道の途中にあった。昔祖父の石鹸の乾し場であったと云う。かつては八十の伯父久七も住んでいた由であって、真向いに樹木の多い小高い家があり、「あそこが初恋の人、塩谷えんちゃんの庭だった」と父がなつかしそうに語っていた事がある。鼠坂から登りつめた所に戦前、払方町郵便局があった。郵便局の事務の娘さんが「この白壁の家は西條八十さんのお父さんのお蔵だったそうですよ」と私との関連を知ってか知らずか呟いていたことがある。

西条八十・昭和16 昭和16年の地図で見ると、右の赤の四角は払方町での生家です。その直下に黒で郵便局も書いています。

 紫色は納戸町の全域です。納戸町のすべてはこの中に入っていなくてはいけません。牛込中央通り商店会の編者も確かに納戸町の場所は描いています。

 鼠坂は赤色で描きました。新宿区ではここだけが鼠坂なのです。

 家は「細い坂道の途中にあった」と書いています。「途中」の場所を薄い水色で描いてみました。ここいらが、おそらく仮寓の場所です。

 最後に最新の正しい「牛込中央通り」を描いてみました。新・牛込中央通り

文学と神楽坂

小笠原島夜話①|北原白秋

文学と神楽坂

       一

(しま)自然(しぜん)(くわん)乃至(ないし)はその住民(ぢゆうみん)状態(じやうたい)()いて、(なに)(はな)せとお(つしや)るのですか。それなら差当(さしあた)()笠原(がさわら)(じま)のお(はなし)でもさしていただきませうか。
()いて極楽(ごくらく)()地獄(ぢごく)』と(まを)しますが、(けつ)してああいふ(はな)(じま)などに内地(ないち)(ひと)が、(なが)()めるものではありません。
 ()笠原(がさわら)(じま)(もと)随分(ずゐぶん)極楽島(ごくらくじま)だつたと、()(のこ)りの黒人(くろんぼ)(ぢい)などが、ある(ばん)(ばん)溜息(ためいき)()いて(わたし)(はな)して()れましたが、それは(あるひ)はさうだつたかも()れません。その(ころ)あの(しま)()もまた(わらべ)のやうな(うま)れた(まゝ)(しま)で、そこには(あか)(がけ)(りよく)(しよう)(しよく)岩壁(がんぺき)や、(たか)椰子(やし)や、林投樹(しんとうじゆ)や、モモタマ()(やぶ)などが、()(とほ)つた瑠璃(るり)(いろ)(そら)海水(かいすゐ)とに、強烈(きやうれつ)()熱帯(ねつたい)色彩(しきさい)耀(かゞ)やかしてゐる(ほか)には、あの、図抜(づぬ)けて阿呆(あはう)らしい信天翁(あはうどり)や、四()婉転(ゑんてん)として(うぐひす)瑠璃鳥(るりてう)()()れてゐるばかりで、毒虫(どくちう)一つゐず、太陽(たいやう)(おほ)きく耀(かゞ)やかしく、(つき)(おほ)きく(ほが)らかであり、(ほし)(おほ)きく光芒(くわうぼう)()いて、(ひる)()もただ燦爛(さんらん)とした自然(しぜん)(さう)()(つゞ)けてゐたのでした。

林投樹 アダン(阿檀、Pandanus odoratissimus)は、タコノキ科タコノキ属の常緑小高木。小笠原なのでアダンではなく、タコノキなのでしょう。ただし、戦後大量に固有種の「タコノキ」が都道の周りに植えましたがすべて純正品かは判りません。
モモタマ モモタマのジュズサンゴではなく、モモタマナ(桃玉菜。Terminalia catappa Linn、別名:コバテイシ、シクンシ科 )のことでしょう。巨大な葉が有名です。
瑠璃 やや紫みを帯びた鮮やかな青。16進表記で #2A5CAA
 
信天翁 アホウドリ(信天翁、阿房鳥、阿呆鳥)はミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属です。
婉転 美しくまわり動いていること。
瑠璃鳥 オオルリ(大瑠璃、学名Cyanoptila cyanomelana)はヒタキ科オオルリ属です。青い小鳥です。
光芒 細長く伸びる一筋の光。尾を引くように見える光のすじ。
燦爛 光り輝いてあでやかなさま、まばゆくきらびやかなさま
たまたま、天明(てんめい)(ねん)土州(としう)船頭(せんどう)(にん)(おな)じく八(ねん)肥前(ひぜん)(ぶね)の十一(にん)寛政(くわんせい)元年(ぐわんねん)日向(ひゆうが)志布志(しぶし)(うら)船頭(せんどう)(えい)右衛()(もん)とその船子(かこ)の四(にん)都合(つがふ)十七(にん)(おな)じ一つの無人島(むじんたう)漂流(へうりう)して、(なが)いのは十二(ねん)(みじ)かくて七八(ねん)(つぶ)さに漂人(へうじん)としての辛苦(しんく)艱難(かんなん)(とも)にする(うち)に、その(なか)幾人(いくにん)かは病死(びやうし)し、やつと(のこ)りの人数(にんず)だけで、覚束(おぼつか)ない小舟(こぶね)(つく)つて、やつとの(こと)でハ丈島(ぢやうしま)まで()ぎついたといふ(こと)もありました。その(しま)(いま)でいふ鳥島(とりじま)かと(おも)はれますが、ああいふ(かぎ)りの()麗光(れいくわう)(なか)()つても、人間(にんげん)(けつ)して人間(にんげん)社会(しやくわい)(はな)れて()きてゆけないと()大事(だいじ)痛切(つうせつ)(かん)じられたに(ちが)ひありません。
天明 天明五年は1785年。 杉田 玄白、伊能 忠敬、大田 南畝などがいた時代です。
土州 土佐(とさ)国の異称
肥州 現在の佐賀県と長崎県(ただし壱岐(いき)対馬(つしま)を除く)。
寛政 寛政元年は1789年。寛政の改革は1787(天明7)年から1793(寛政5)年にかけて松平(まつだいら)定信(さだのぶ)が老中になり、大規模な幕政改革を行いました。
日向志布志浦 日向(ひゅうが)国の志布志(しぶし)湾。現在は湾、以前は浦。違いは湾は単に地形。浦は「湾」のうち「磯」や「断崖」ではなく、浅瀬の砂浜のこと。
船子 水夫。船子(フナコ)船長(ふなおさ)の指揮下にある。
辛苦艱難 かんなんしんくのほうが普通。人生でぶつかる困難や苦労
鳥島 伊豆諸島の無人島。特別天然記念物アホウドリの生息地としても有名。
麗光 美しい光
母島(はゝじま)伝説(でんせつ)()りますと、(かつ)てその(しま)漂流(へうりう)した内地(ないち)(じん)(うち)で、()(のこ)つたはただ船頭(せんどう)とその(つま)と、(わか)船子(かこ)との三(にん)でした。無人島(むじんたう)(をとこ)二人(ふたり)(をんな)一人(ひとり)です。1人(ひとり)(をんな)自然(しぜん)二人(ふたり)(つま)になつて(しま)ひました。其処(そこ)無人島(むじんたう)です。人間(にんげん)社会(しやくわい)(ほか)です。(かんが)へて(くだ)さい。その三(にん)にはその(とき)、ただ(ひと)つの共同(きようどう)()(まも)(こと)(なに)より神聖(しんせい)な、また痛切(つうせつ)緊要事(きんえうじ)でした。船頭(せんどう)とその(つま)とが洞窟(どうくつ)(よる)(ねむ)(とき)(わか)船子(かこ)は、一(ばん)(ぢう)その(そと)()つて、その()(まも)らなければなりませんでした。そしてまた、(わか)船子(かこ)自分(じぶん)(つま)とが(よる)(ねむ)(とき)船頭(せんどう)は、しよぼしよぼと()をしぱだたきながら、また一(ばん)(ぢう)洞窟(どうくつ)(そと)(かゞ)んで()(まも)らなければなりませんでした。船頭(せんどう)()いてゐる。船子(かこ)(わか)い。人間(にんげん)(つひ)人間(にんげん)です。船頭(せんどう)はある深夜(しんや)突然(とつぜん)激怒(げきど)嫉妬(しつと)()られて(おも)はず、自分(じぶん)(まも)つてゐた薪火(たきび)岩壁(がんぺき)にたたきつけて(しま)ひました。()()えて了ひました。その三(にん)生死(せいし)()が。
(うずくま)る。(つくば)う。かがむ。しゃがむ。
所謂(いはゆる)黒船(くろふね)提督(ていとく)ペルリ浦賀(うらが)()て、太平(たいへい)(たう)帝国(ていこく)(おびや)かして、一(たん)本国(ほんごく)(かへ)ると(しよう)して(みなみ)()つた(のち)再交渉(さいかうせふ)()北上(ほくじやう)したその(あひだ)は、(かれ)(かれ)艦隊(かんたい)()笠原(がさわら)(じま)父島(ちゝじま)(とゞ)めてゐたのだと()ひます。本国(ほんごく)へなぞは(かへ)つてゐなかつたらしいのです。(かれ)はその(しま)開墾(かいこん)し、石炭(せきたん)貯蔵庫(ちよざうこ)()て、部落(ぶらく)(つく)り、(のち)には整然(せいぜん)たる(とう)政治(せいぢ)()いたと申伝(まをしつた)へます。さういふ(ふう)にささやかでも人間(にんげん)同志(どうし)社会(しやくわい)組織(そしき)成立(せいりつ)すると、ただ絶海(ぜつかい)無人島(むじんたう)として、(ひと)をして(おそ)れしめ(すさ)まじがらせたその島々(しま〲)にも(はじ)めて(あたゝ)かな人間(にんげん)愛情(あいじやう)心音(しんおん)とが()()つて()ました。人間(にんげん)もまた、その燦爛(さんらん)とした自然(しぜん)麗光(れいくわう)(はじ)めて、安心(あんしん)して()にし(みゝ)にし、()れ、()ぎ、(した)しみ()した(こと)も、非常(ひじやう)(かんが)ふべき(こと)だらうと(おも*)ひます。無論(むろん)人間(にんげん)はゐなかつた(とき)も、一人(ひとり)二人(ふたり)漂流(へいりう)した()(とき)も、部落(ぶらく)ができ一(せう)社会(しやくわい)(かたちづく)つた(のち)も、その自然(じぜん)本体(ほんたい)には(すこ)しの異動(いどう)があつた(はず)はありません。そこへゆくと(さび)しいのは人間(にんげん)です。大勢(おほぜい)(あつ)まつて、(あい)道義(だうぎ)礼節(れいせつ)相互(さうご)扶助(ふじよ)とで()()はねば()きてゆけないのです。(なに)ものの麗光(れいくわう)感知(かんち)する(だけ)余裕(よゆう)()ちあはせないのです。
ペルリ マシュー・ペリー。ペルリ提督。米国の海軍軍人。1794~1858。東インド艦隊司令長官として、嘉永6年(1853)軍艦4隻を率いて浦賀に来航。日本に開国をせまり、翌年再び来航、日米和親条約を締結
石炭貯蔵庫 大正時代に大村にペリーの残した貯炭所があったといわれる。青野正男氏の『小笠原物語』によると、大正時代オガサワラビロウの古い屋根の下に炭が山積みになっていたという。昭和初期には屋根はなく石炭はただ野積みになっていた。
三頭政治 3人の実力者による政治体制
燦爛 華やかで美しいこと
ペルリの艦隊(かんたい)()つた(のち)も、(のこ)るものは(のこ)つたし、それに(ふね)から()(あが)つた黒人(こくじん)奴隷(どれい)密猟(みつれふ)船員(せんゐん)家族(かぞく)などが相変(あひかは)らず共同的(きようどうてき)安楽(あんらく)生活(せいくわつ)(つゞ)けてゐました。大統領(だいとうりやう)もゐました。無論(むろん)共和(きようわ)政治(せいぢ)です。(しか)しただ部落(ぶらく)(ちひ)さな(ひと)つの部落(ぶらく)()ぎませんでした、それだけ山野(さんや)食物(しよくもつ)豊富(ほうふ)なり、(して)して開墾(かいこん)せずともバナナもあれば椰子(やし)()もあり、自然(しぜん)恩恵(おんけい)少数(せうすう)(ひと)()にとつては()()るほど充実(じうじつ)してゐました。それに外界(ぐわいかい)との小面倒(こめんだう)交渉(かうせふ)()し、不純(ふじゆん)権勢(けんせい)からも圧迫(あつぱく)されず、ただ自然(しぜん)(とゝの)つて()秩序(ちつじよ)無文律(むぶんりつ)道義的(だうきせき)制裁(せいさい)とが、その社会(しやくわい)をおのづからな(うつく)しいものに(そだ)ててゆきました。それで(ひと)()もしぜんと珍草(ちんさう)奇木(ぶらく)愛翫(あいぐわん)したり、(はたけ)(つく)つたり、(たがひ)遊楽(いうらく)したり、自由(じいう)恋慕(れんぼ)()つたりしたらしいのでした。空腹(ひも)じくなる(ころ)には、工合(ぐあひ)よくまたぺルリの(はな)して()いたのちに、しぜんと繁殖(はんしよく)した(ぶた)群集(ぐんしふ)(やま)()りては部落(ぶらく)檳榔(びんらう)(ぶき)小屋(こや)(ちか)くに()いて()たさうです。それを甘蔗(いも)焼酎(せうちう)()()(なが)ら、厨房(コツクば)から鉄砲(てつぱう)()つたものだと()ひます。正覚坊(しやうがくばう)にしてからが、その(ころ)随分(ずゐぶん)湾内(わんない)游泳(いうえい)してゐたものださうで、二時間(じかん)丸木舟(まるきぶね)()(まは)れば、三(とう)や四(とう)無雑作(むざふさ)手捕(てど)りにする(こと)ができたし、(まつた)くその(ころ)小笠原(をがさはら)(じま)は一(しゆ)極楽(ごくらく)(たう)だつたに(ちが)ひありません。
大統領 共和国の元首
共和政治 特定の個人ではなく、全構成員の利益のための政治体制
檳榔 ビンロウ。学名はAreca catechu。ヤシ科の植物、太平洋、アジア、東アフリカの一部に。
正覚坊 しょうがくぼう。アオウミガメのこと

小笠原島夜話②|北原白秋

文学と神楽坂

       二

 それが明治(めいぢ)になつて日本(にほん)版図(はんと)になると、すつかり根柢(こんてい)から破壊(はくわい)されて(しま)ひました。警察権(けいさつけん)行政権(ぎやうせいけん)とを一(しよ)()ねた王様(わうさま)のやうな島司(たうじ)()(もの)()る。サアベルがガチヤガチヤ()る、小面(こづら)(にく)驕慢(けうまん)小役人(こやくにん)がのさばる。こすつからい()いつめ(もの)小商人(こしやうにん)()()む、繁雑(はんざつ)文明(ぶんめい)余弊(よへい)と、官僚的(くわんれうてき)階級(かいきふ)思想(しさう)瀰漫(びまん)する、(しま)民主的(みんしゆてき)極楽境(ごくらくきやう)は一(ぱう)から()へぱ(ほとん)滅茶(めちや)々々()になって(しま)ひました。それで(いま)まで自由(じいう)開墾(かいこん)()土地(とち)制限(せいげん)され、あまつさへ花畑(はなばたけ)野菜(やさい)(ばたけ)()()げられ、()(ちゞ)められて、以前(いぜん)島民(たうみん)(つひ)には(しま)の一(ぱう)()ひつめられて、(から)うじて生命(せいめい)をつなぐ(だけ)生活(せいくわつ)しかできなくなつて(しま)ひました。以前(いぜん)はただ物々(ぶつ/″\)交換(かうくわん)だつたのが、一にも二にも(かね)()くてはならなくなる。遠海(ゑんかい)漁猟(ぎよれふ)厳禁(げんきん)される。さうなると、優越(いうゑつ)人種(じんしゆ)としての彼等(かれら)倨傲(きよがう)(しん)満足(まんぞく)さすべき、(なん)らの生活(せいくわつ)をも保持(ほぢ)する(だけ)自由(じいう)さが全然(ぜんぜん)(うしな)はれて(しま)つたのです。彼等(かれら)帰化(きくわ)せねばならなくなりましたが、彼等(かれら)帰化人(きくわじん)(ぐらゐ)みぢめなものはありますまい。

版図 はんと。一国の領域、領土
島司 とうし。明治以降の地方行政官。勅令で指定された島地を知事の指揮監督を受けて管轄した。大正15年(1926)廃止
驕慢 きょうまん。おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること
余弊 よへい。何かに伴って生じる弊害
瀰漫 びまん。広がること。はびこること。蔓延(まんえん)すること
開墾 かいこん。山野を切り開いて農耕できる田畑にすること
倨傲 きょごう。 おごり高ぶること
帰化人 きかじん。海外から渡来して日本に住みついた人々

内地人(ないちじん)()()み、人口(じんこう)()えるとまた(しま)全般(ぜんぱん)(わた)つてもいよいよ繁雑(ややこ)しくなりました。遊女屋(いうぢよや)出来(でき)るし、警察(けいさつ)出来(でき)るし、裁判所(さいばんしよ)()てば監獄(かんごく)()つ、(したが)つて罪人(ざいにん)(しやう)ずる。
それでもまだ(はじ)めの(ころ)呑気(のんき)(ばん)なものだつたさうでした。たとへば、骨牌(かるた)など()いて監獄(かんごく)にぶち()まれた(もの)(ども)が、()になると()()して、(はま)()(たまご)()みに(あが)つた正覚坊(しやうがくばう)()つとらへ、それを()()ばして、その(かね)遊女(いうぢよ)(かひ)をして、夜明(よあけ)には()まして獄窓(ごくそう)(なか)(かへ)つてゐる。まるでお(はなし)のやうですが実際(じつさい)だつたさうです。流石(さすが)太平洋(たいえいやう)真中(まんなか)だからそこは内地(ないち)(ちが)ひます。
 (わたし)がその(しま)(わた)つたのは、それから四十(ねん)(のち)(こと)です。その(しま)(あが)ると、(わたし)(だい)一に()熱帯(ねつたい)強烈(きやうれつ)(ひかり)(ねつ)と、熾烈(しれつ)色彩(しきさい)と、(かつ)()(こと)()南洋(なんやう)植物(しよくぶつ)怪異(くわいい)形態(けいたい)とその豊満(ほうまん)薫香(くんかう)とで()卒倒(そつたう)しさうになりました。()いでは、南洋(なんやう)(しき)丸木(まるき)(ぶね)(おどろ)き、砂浜(すなはま)髪毛(かみのけ)(しらみ)をむしりつぶしてゐる肥満(ひまん)した黒人(こくじん)(ばゞ)(おどろ)き、(あか)豆畑(まめばた)(おほ)きな眼鏡(めがね)をかけ灰色(はひいろ)のジヤケツに(あか)いスカートを穿()いた白皙はくせき(じん)金髪(きんぱつ)(おどろ)き、以前(いぜん)(ひと)()つたといふ(ろう)黒奴(こくど)神妙(しんめう)奉仕(ほうし)してゐる魔法(まはふ)使(づか)ひのやうな西班牙(すぺいん)貴族(きぞく)癩病(らいびやう)(ばゞ)(おどろ)き、丸太(まるき)(ぶね)(おほ)きなお(しり)(ふた)つに()つたといふ山羊(やぎ)(かひ)黒坊(くろんばう)(むすめ)(おどろ)き、ヂョーヂ、ワシントンと()久留米(くるめ)(がすり)単衣(ひとへ)()(くろ)(ばう)青年(せいねん)(おどろ)きました。()いでは、また陽物(やうぶつ)(かたち)した白檀(びやくだん)()(かぶ)ばかり(ひろ)(あつ)めたり、珊瑚(さんご)信天翁(あはうどり)羽根(はね)と一(しよ)に、北斎(ほくさい)広重(ひろしげ)版画(はんぐわ)(なか)雑魚寝(ざこね)したりしてゐる伝説中(でんせつちう)太平(たいへい)(らう)逸民(いつみん)()(おどろ)き、(つい)ではまた(すた)()てた監獄(かんごく)(には)()(さか)つてゐるビーデビーデの(はな)(あか)(いかり)(ぐさ)仏草花(ぶつさうくわ)絵模様(ゑもやう)(おどろ)き、二三(ずん)(ほこり)がたまつて子供(こども)たちの芝居(しばゐ)舞台(ぶたい)になつてゐる裁判所(さいばんしよ)法廷(はふてい)()ては(おどろ)き、それからすばらしく瀟酒(せうしや)白尖塔(はくせんたふ)教会(けうくわい)()(おどろ)き、それからまた完美(くわんび)した植物園(しよくぶつゑん)と、(だう)()とした大理石(だいりせき)島司(たうじ)頌徳(しようとく)()(おどろ)き、役所(やくしよ)(うぐひす)()(あは)せをやつたり、午後(ごご)からは(はま)()(ぼら)ばかり()つてゐる呑気(のんき)至極(しごく)役人(やくにん)(たち)(おどろ)き、煙草(たばこ)だけは現金(げんきん)(ねが)ひます、()現金(げんきん)でお()(くだ)さる(かた)には二割引(わりびき)(いた)しますと()いた商家(しやうか)張札(はりふだ)(おどろ)き、質屋(しちや)乞食(こじき)見当(みあた)らず、(わか)(をんな)()つぱらひの()えぬのに(おどろ)き、(しま)全体(ぜんたい)共産(きようさん)(でき)なのにも(おどろ)きました。
 それにまた、(まむし)その()害虫(がいちう)もゐず、(かへる)もゐなければ蛞蝓(なめくぢ)もゐず、ただ油虫(あぶらむし)(あり)猛勢(まうせい)なのには(おどろ)きましたが、(すずめ)(からす)もゐず、(うぐひす)ばかりが内地(ないぢ)(すずめ)ほどに()(きそ)つてゐる麗明(れいめい)さにも(おどろ)きました。それに(けだもの)としては山奥(やまおく)にペルリの(はな)した鹿(しか)子孫(しそん)とかが二(ひき)ゐるばかり、あとは(うし)山羊(やぎ)(ねこ)(ねずみ)(せう)()だと()ふのにも(おどろ)きました。

獄窓 ごくそう。牢獄の窓。転じて、牢獄の中。獄中
熾烈 しれつ。勢いが盛んで激しいこと
薫香 よいかおり。芳香
丸木舟 1本の木の幹をくりぬいて造った舟
白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
久留米絣 くるめがすり。筑後国(福岡県)久留米で作った。綿糸を絣染めにした特色のある織物
単衣 たんい。ひとえの着物。ひとえもの。 1枚の着物
白檀 びゃくだん。甘い芳香が特徴。香木として利用。小笠原諸島では固有種のムニンビャクダン( S. boninense)がある
太平 たいへい。世の中が平和に治まり穏やかなこと
逸民 いつみん。隠者。野に隠棲する人
ビーデビーデの花 ムニンデイゴ。語源はハワイ語。沖縄の「デイゴ」と同じ種類。
碇草 イカリソウ。花は赤紫色。春に咲く。4枚の花弁が距を突出し錨のような特異な形をしている
仏草花 ブッソウゲ。正しくは仏桑華。ハイビスカス
瀟酒 すっきりとあか抜けしている
頌徳碑 しょうとくひ。偉い人をほめたたえる碑
啼き競う メジロは良い声で鳴き、江戸時代からメジロを鳴き合わせる(競争)道楽の対象だった。まるで同じことがウグイスで起きたようだ

かう()へばまるで極楽(ごくらく)世界(せかい)のやうですが()()れて()ると、流石(さすが)(しま)(しま)でした。せせこましい(せう)地獄(ぢごく)
 (だい)一にみじめなのは帰化(きくわ)(じん)部落(ぶらく)で、(なに)もかもが幻滅(げんめつ)悲哀(ひあい)(そこ)()ちこんで、生気(せいき)()ければ(かね)()く、()うや()はずで南洋(なんやう)のグワム(たう)あたりに移住(いぢゆう)するのが相次(あひつ)有様(ありさま)でした。(のこ)つたものは(ほとん)日本(にほん)(くわ)して(しま)つて、日本(にほん)(じん)(むすめ)結婚(けつこん)する(こと)(なに)よりの光栄(くわうえい)として、その鼻息(びそく)ばかりを(うかゞ)つてゐました。監獄(かんごく)裁判所(さいばんじよ)とが荒廃(くわいはい)したのは東京(とうきやう)のそれらと合併(がつぺい)したので、罪人(ざいにん)一人(ひとり)()れば巡査(じゆんさ)遥々(はる〲)一人(ひとり)()いて上京(じやうきやう)するので、(たか)煙草(たばこ)()(まい)発見(はつけん)されても東京(とうきやう)地方(ちほう)裁判所(さいばんしよ)(まは)される。つまりは莫大(ばくだい)巡査(じゆんさ)旅費(りよひ)だけが()えて()るといふややこしい(こと)になって(しま)つてゐたのでした。それに島司(たうじ)頌徳碑(しようとくひ)島司(たうじ)自身(じしん)島民(たうみん)()ひて自身(じしん)(まつ)らせたので、いつぞやは巡検(じゆんけん)侍従(じじゆう)(まへ)赤恥(あかはぢ)()いたといふ(はなし)もあります。
 (しま)(わか)(むすめ)がゐないのは、たゞ一()虚栄(きよえい)(はし)つて都会(とくわい)(そら)(あこが)れて奉公(ほうこう)出払(ではら)つて(しま)つたので、()つぱらひがゐないのは(かね)()いので(さけ)()まれず、たまたま夫婦(ふうふ)喧嘩(けんくわ)でもした()役人(やくにん)が、その(ばん)すぐと(いう)(ぢよ)()()びこめば、とくの(むかし)にその喧嘩(けんくわ)次第(しだい)相手(あひて)(をんな)()れて()り、質屋(しちや)()いのは(しち)()れれば、たちまち(しま)(ぢう)()れわたる。乞食(こじき)になりかけると、直様(すぐさま)内地(ないち)()(ぱら)はれる。共産(きようさん)(てき)面白(おもしろ)いと(おも)へば、すべての利潤(りじゆん)(おほ)生産業(せいさんげふ)(ほとん)島庁(たうちう)事業(じげふ)で、うまい(しる)島司(たうじ)()つて、あとはたゞ(つら)奉公(ほうこう)といふだけだし、(なに)さま島中(たうちう)総現金(そうげんきん)が二千(ゑん)といふ(あは)れさで、そのせち(から)さは想像(さうざう)にもつかないだらうと(おも)ひます。

鼻息びそく(うかが)う  相手の意向・機嫌を気にしてさぐる。はないきをうかがう。

商店(しやうてん)現金(げんきん)割引(わりびき)もつまりは現金(げんきん)()いからです、(ほとん)どが(ぶつ)()交換(かうくわん)習慣(しふくわん)(のこ)つてゐるので、(なに)もかもカケで、現金(げんきん)(ふね)()(とき)(ばら)ひ。だから買人(かひて)()つてにも品物(しなもの)()つても、商人(しやうにん)はただ()りませんの一(てん)(ばり)、これでは繁昌(はんじやう)する目当(めあて)はありません。ですから(しよ)商売(しやうばい)(すべ)痺靡(ひび)して(ふる)ひつこは()いのです。
 漁師(れうし)にしても、どうせ人口(じんこう)には(かぎ)りがあるので、沢山(たくさん)()れば()(やす)くなる、それで(あは)てて(すくな)()つてすぐ()(かへ)す、(はや)いが()ちですから、漁業(ぎよげふ)(さか)んになるわけもありません。
(しやう)()悧巧(りかう)()るさとも頂上(ちやうじやう)です。(ふゆ)最中(さいちう)茄子(なす)南瓜(かぼちや)()つても、わざと(ちい)さいのを東京(とうきやう)高価(かうか)(おく)つて(しま)ふ。だから(しま)()はうと(おも)へば(すべ)東京(とうきやう)相場(さうば)で、()()()るほど(かた)いので、自分(じぶん)(はたけ)でも()たない(かぎ)りは、バナナーつでも容易(ようい)には(くち)(はひ)りません。
 正覚坊(しやうがくばう)にしてからがすぐに(ころ)して缶詰(くわんづめ)にして(おく)()す。(しま)(もの)漁師(れうし)()(かぎ)りお(すそ)わけはしてもらへません。(うし)を一ケ(げつ)に一(ぴき)(ころ)しても(ころ)した()()()つて(しま)ふので、(おそ)市場(いちば)()つたものは()(そこな)ふ。一ケ(げつ)に一()牛肉(ぎうにく)がこれだから、市場(いちば)はまるで餓鬼(がき)(だう)(さわ)ぎです。
 鶏卵(けいらん)()べようと(おも)へば(とり)からして東京(とうきやう)から()()せねばならず、豆腐(とうふ)()べようと(おも)へば、一週間(しうかん)(ぜん)約束(やくそく)して()く。ランプのホヤ(こは)れれば、(べつ)のランプを()はねば、()()(くら)でゐなくてはなりません。
 商人(しやうにん)狡猾(かうかつ)奸譎(かんきつ)とは、(ほとん)日本中(にほんぢう)(さが)しても、あれほどのところはありますまい。物価(ぶつか)東京(とうきやう)の三(だい)以上(いじやう)だし物資(ぶつし)欠乏(けつぼふ)してゐる。たまに予定(よてい)に三()(おく)れて内地(ないち)からの(ふね)()れば、その以前(いぜん)()や、(しま)には(こめ)()けれぱ味噌(みそ)醤油(しやうゆ)()く、菓子(くわし)()ければ(さけ)()い。島民(たうみん)半死(はんし)半生(はんしやう)です。

痺靡 しびれて衰える。萎靡(いび)
餓鬼道 がきどう。天、人、修羅(しゆら)畜生(ちくしよう)、餓鬼、地獄を六道と言い、行いの善悪によって六道の中で生死を繰り返すのが輪廻(りんね)。この人生で食物の欲望の強い人、むさぼりの心のつよい人は死後、餓鬼道に落ちる。生きながら餓鬼道に落ちると言い、子どもは普通食欲が旺盛で子どもを餓鬼と呼んだりする
ホヤ 火屋。火舎。ランプやガス灯などの火をおおうガラス製の筒
奸譎 かんけつ。かんきつ。姦譎。よこしまで、心にいつわりが多いこと

小笠原島夜話③|北原白秋

文学と神楽坂

       三

 だから(つき)に一()内地(ないち)からの定期(ていき)(せん)(はひ)つて()()(さわ)ぎと()つたらありません。その(ふね)新聞(しんぶん)雑誌(ざつし)書簡(しよかん)小荷物(こにもつ)流行唄(りうかうた)、あらゆる文明(ぶんめい)(しん)消息(せうそく)をもたらして、この無聊(ぶれう)倦怠(けんたい)しきつた(しま)をまるで戦場(せんぢやう)のやうに緊張(きんちやう)させ、亢奮(かうふん)させて(しま)ひます。島民(たうみん)物質的(ぶつしつてき)にも精神的(せいしんてき)にも()()つてゐるのです。(ふね)がいよいよ()くといふ()(あさ)などは海抜(かいばつ)一千(じやく)船見山(ふねみやま)絶巓(ぜつてん)(のぼ)つて、水天(すゐてん)のかなたに一(まつ)(けむり)(のぼ)つてから(ほとん)ど四五時間(じかん)といふのは(すわ)つたきりで凝視(ぎようし)してゐます。(ちか)づいた(ふね)がその(みさき)の一(かく)(まが)つて、いよいよその湾口(わんこう)(はひ)りかけて、ぽうと汽笛(きてき)()らす(とき)深厳(しんげん)さもありません。それをきくと、島中(たうちう)がまた、たゞ()()(こゑ)をあげる。

消息 しょうそく。その時々のありさま。動静。状況。事情
無聊 ぶりょう。退屈なこと
絶巓 ぜってん。山の絶頂。いただき
水天 すいてん。1.水と天。水と空。2 水に映る天
深厳 重々しく、威厳がある

島中(たうちう)(もの)が、白皙(はくせき)(じん)黒奴(くろんぼ)(かほ)黄色(きいろ)日本人(にほんじん)(すべ)てが波止場(はとば)(むらが)つて、巨大(きよだい)万年青(おもと)竜舌蘭(りうぜつらん)(かげ)から()しあひへしあひ、新来(しんらい)(きやく)覗見(のぞきみ)したり、批評(ひひやう)()つたりしてゐます。たゞ(わけ)もない憧憬(しようけい)好奇(かうき)(こゝろ)()つて、その(とき)はまるで島中(しまぢう)小娘(こむすめ)のやうにワクワクしてゐます。
 (ふね)()()つて(しま)ふと、(しま)はまたぐつたりと(つか)れて、()()えたやうです。さうして(せま)(はな)(じま)天地(てんち)が、それからはまた一(そう)(せま)(ちひ)さく(ちゞ)こまつて(しま)ひます。

白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
黒奴 こくど。黒人の奴隷。黒色人種を卑しめていう語
万年青 おもと。関東、沖縄、中国の暖地にはえるユリ科の常緑多年草。
竜舌蘭 りゅうぜつらん。リュウゼツラン科の常緑多年草。メキシコの原産。メキシコではテキーラを作る。

新来(しんらい)内地(ないち)(じん)(むか)つては、その(はじ)好奇(かうき)憧憬(しようけい)とを()せてゐた(こゝろ)が、()()理由(りいう)のない敵意(てきい)となり反感(はんかん)となり嫉妬(しつと)となり憎悪(ぞうを)となり迫害的(はくがいてき)推移(すゐい)して()るのも、一(しゆ)島人(たうじん)根性(こんじやう)です。(こと)(しま)官権(くわんけん)は、それらの(ひと)()(むか)つて、全然(ぜんぜん)(しま)平和(へいわ)(がい)する擾乱(ぜうらん)(しや)とし、侵入者(しんにふしや)とし、罪人視(ざいにんし)し、極端(きよくたん)(これ)拒避(きよひ)しようとかかる傾向(けいかう)があります。
 (わたし)(つれ)女性(ぢよせい)一人(ひとり)紫色(むらさきいろ)羽織(はおり)()てゐるといふので、(しま)(わか)(もの)性慾(せいよく)刺戟(しげき)する()しからぬとその(すぢ)(うつた)()(もの)もありました。

擾乱 じょうらん。入り乱れて騒ぐこと。秩序をかき乱すこと。騒乱
拒避 拒否と同じ

(こと)島民(たうみん)の『肺病(はいびやう)』を(おそ)るゝ(こと)極端(きよくたん)です。(さう)してその(おそ)るべき病毒(びやうどく)伝播(でんぱん)(しや)(すべ)てが内地(ないち)からのそれら旅人(りよじん)にあるとさへ(おも)()めてゐます。(もつと)肺病(はいびやう)患者(くわんじや)極楽島(ごくらくたう)とし、理想郷(りさうきやう)として、充分(じうぶん)保養(ほやう)目的(もくてき)に、その()小学(せうがく)教員(けうゐん)郵便(いうびん)局員(きよくゐん)などに転任(てんにん)させて(もら)つて()るのも(おほ)いのです。(しか)駄目(だめ)です。その肺病(はいびやう)患者(くわんじや)が八丈島(ぢやうしま)あたりに寄港(きかう)する(ころ)は、もう電報(でんぱう)小笠原(をがさはら)(じま)まで()んでゐます。
  ハイビヤウナンニンユクチウイセヨ

極楽島 安楽で何の心配もない島。天国
ハイビヤウナンニンユクチウイセヨ 肺病何人ゆく 注意せよ

だから(たま)りません。その(ひと)(しま)へ上る頃にはもう島中(しまぢう)()(わた)つてゐて、宿屋(やどや)でも(ことわ)れば飲食(いんしよく)(てん)でも(ことわ)る、理髪(りはつ)(てん)()つても『肺病(はいびやう)(ことわ)り』と()いてある。仕方(しかた)なく()きの(なみだ)磯浜(いそはま)や、洞穴(どうけつ)(なか)にバナナの()でも()いて()(あか)し、()()をあさり、(つひ)には三()とゐたたまれずに(かへ)りの(ふね)()(ぱら)はれて(しま)ふ。さういふ(とき)島中(しまぢう)()です。中には宿屋(やどや)から(ことわ)られ、(こま)つて、土地(とち)()(いへ)()つて、いざその(いへ)這入(はひ)らうとすると、周囲(しうゐ)から立退(たちのき)請求(せいきう)です。自分(じぶん)(うち)自分(じぶん)()さへ()くに()かれず、(くさ)()し、荒磯(あらいそ)()ね、やつと(つぎ)便船(びんせん)(かへ)るには(かへ)れたが、その途中(とちう)()()いて()んで()(ひと)もありました。さうなると島民(たうみん)惨酷(ざんこく)(せい)頂上(ちやうじやう)です。

惨酷 ざんこく。残酷(惨酷、残刻)はまともに見ていられないようなひどいやり方

(わたし)肺病(はいびやう)だった(わたし)(まへ)(つま)と、その友人(いうじん)(おな)じく肺病(はいびやう)だった女性(ぢよせい)と、その(いもうと)とを()れて、(ほとん)命懸(いのちが)けに()()()して、保養(ほやう)()(もと)めに()きました。ところがさういふ(ふう)です。(わたし)たちは(こゝろ)(そこ)から(ふる)(あが)つてただ(かほ)(かほ)とを見合(みあは)せました。秘密(ひみつ)! 秘密(ひみつ)! どうにでも極秘(ごくひ)にしなければ四(にん)とも()(じに)惨虐(ざんぎやく)()にあはねば()みません。その(あひだ)(わたし)心労(しんらう)といふものは()かつたのです。(わたし)(つま)ももう一人(ひとり)のも幾度(いくたび)()()きました。そのうちに健康(けんかう)だつたもう一人(ひとり)のも肋膜炎(ろくまくえん)になつて(しま)ひました。丈夫(ぢやうぶ)なのはたった(わたし)一人(ひとり)です。医者(いしや)にも()せられません。()(もら)つたら、すぐに(はい)患者(くわんじや)だと()(こと)島中(しまぢう)()れて(しま)ふのです。空気(くうき)乾燥(かんさう)する、島中(しまぢう)白眼(はくがん)(もつ)意地(いぢ)わるく追求(つゐきう)する。病人(びやうにん)はわるくなる、それを極秘(ごくひ)にしなければ(いのち)にかかはる。――この(あひだ)(わたし)たちはまた一(もん)なしになって(しま)ひました。(わたし)小笠原(をがさはら)渡海(とかい)をただ詩人(しじん)好奇的(かうきてき)遊楽(いうらく)(おも)つて、(いろ)()(わら)つてゐた(ひと)()内地(ないち)にはありましたが、(いま)だからすつかりお(はなし)します。そんな呑気(のんき)(こと)では()かつたのです。

顫える ふるえる。恐れや興奮から発作的に震える
白眼 冷たい目つき

そのうちに(おな)じく肺患(はいくわん)秘密(ひみつ)にしてゐた小学(せうがく)教員(けうゐん)が、その(やまひ)(おも)くなると一(しよ)露見(ろけん)して、()(ぱら)はれる。(おな)じやうな郵便(いうびん)局員(きよくゐん)()にかゝる。それを内地(ないち)から看護(かんご)(はる)()()母親(はゝおや)()ぬ。――()()てられぬ悲劇(ひげき)()()ぎに私達(わたしたち)周囲(しうゐ)には(おこ)ります。今日(けふ)(ひと)()明日(あす)自分(じぶん)()(うへ)といふ、その(おそ)ろしい絶望(ぜつぼう)(こく)()私達(わたしたち)(あを)くして()る。たまらなくなつて、やつと(かね)工面(くめん)をして二人(ふたり)だけは内地(ないち)(かへ)し、一(たん)(つま)居残(ゐのこ)りましたが、その(つま)をもまたニケ(げつ)(すゑ)(かへ)し、いよいよ最後(さいご)一人(ひとり)となつて()(とゞ)まつた(とき)(わたし)はそれこそ一(もん)なし。(ところ)絶海(ぜつかい)(はな)(じま)です。人情(にんじやう)冷酷(れいこく)(かね)()し、これからの(くる)しさは(まつた)くお(はなし)はできませぬ。そののち一と(つき)()つて(わたし)はまたやつとの(こと)帰航(きかう)(ふね)()(あが)りました。さうして(かへ)つて()ると、(つま)はもう貧乏(びんばふ)がいやになつたから(わか)れたいと()ひます。(なん)()めに(わたし)はその二三(ねん)(いのち)()()して(くる)しんだか。――その()(わたし)(まつた)く、一()(ぜん)世界(せかい)女性(ぢよせい)(のろ)つて(しま)ひました。
 この(こと)()つて、(わたし)()きます。

露見 秘密や悪事など隠していたことが表にでて、ばれること。

(わたし)(しま)()(ころ)に、その粟粒(あはつぶ)ほどの小天地(せうてんち)にも、(おそ)ろしい一騒動(さうどう)(おこ)りました。島司(たうじ)排斥(はいせき)爆発(ばくはつ)です。それが()めに(わたし)までがその渦中(くわちう)()きこまれて、(ほとん)どその煽動(せんどう)(しや)がの(ごと)島司(たうじ)()から(にく)まれました。暴虐(ばうぎやく)圧政(あつせい)自派(じは)擁護(ようご)と、それらを、(つゞみ)()らして駁撃(ばくげき)する所謂(いはゆる)正義派(せいぎは)なるものも、()()(はな)小島(こじま)正義派(せいぎは)です。佐倉(さくら)宗吾(そうご)気取(きど)りの(ぼう)()(ごと)きも結局(けつきよく)(あは)れな(せう)名誉(めいよ)(しん)傀儡(くわいらい)です。と(おも)ふと()(どく)でもあり、をかしくもあり、迷惑(めいわく)でもありました。
 (おそ)ろしい(こと)には、反対派(はんたいは)一人(ひとり)二人(ふたり)がたゞ何気(なにげ)なく山路(やまぢ)()()はして一言(ひとこと)二言(ふたこと)(なに)かささやいた、それさへ、その()には役所(やくしよ)へも島中(しまぢう)にも()(わた)つてゆく(こと)です。

駁撃 ばくげき。他人の言論・所説を非難・攻撃すること
佐倉宗吾 下総国(千葉県)印旛郡の名主・佐倉宗吾が佐倉藩の重税に苦しむ農民を代表して将軍に直訴、租税は軽減したが、宗吾夫妻は磔になった。この話が正しいのかは不明。講釈師は講談「佐倉義民伝」を使って百姓一揆のさかんな土地で佐倉宗吾の伝記を語った。
傀儡 他者の手先となって思いのままに利用されている人物や組織の比喩

そればかりでなく、その(あさ)電報(でんぱう)為替(がはせ)何円(なんゑん)(たれ)それに(おく)つて()たと()(こと)もその(ひる)には(しま)商家(しやうか)にはチヤーンと()(わた)つてゐます。(わたし)もやつと(かね)(おく)つて(もら)つて一息(ひといき)つけるともう、(かた)(ぱし)からせびり()られて(しま)ひました。そしてまた(もと)の一(もん)なしで煙草(たばこ)(ひと)()へなくなりました。  (しま)浮世(うきよ)(はな)れてゐるやうで、(かへつ)て、浮世(うきよ)それ自身(じしん)を、縮図(しゆくづ)してゐます。
 (しま)自然(しぜん)麗色(れいしよく)など(いう)()鑑賞(くわんしやう)してゐられるものですか。かうなると自然(しぜん)人間(にんげん)から(おも)ふさま()みにじられて(しま)つて()ます。
 文明(ぶんめい)()ふのも中途(ちうと)半端(はんぱ)ではよしあしです。

麗色 れいしょく。美しくのどか

島司排斥

 小笠原の清瀬公園には古い石碑が建っています。この碑はほとんど文字が擦り切れて読めなくなっていますが、「小笠原島島司阿利君紀功碑」です。小笠原の島司だった阿利孝太郎を讃えています。在任期間は明治29年10月から大正5年4月までの20年6か月。この碑は、自分が在任中の明治39年6月に自分で建立したものです。この碑文を長谷川馨氏が翻訳しています。

 阿利君は、人柄明るく太っ腹でしかも切れ味鋭く、島や島民の利害損失についてはかなり敏感である。この島の行政を推進していくについては非常に勤勉意欲的で、徹夜をしても少しも疲れたふうがない。
 今、阿利君治頭十年の業績を上げてみるならば、教育機関を整備して島民の能力開発に努力したこと、小笠原航路について船舶の向上便数の増加等充実を図り、また島内の道路河川等の整備を行って産業振興の条件整備を行ったこと、民有地を整理して土地台帳を整備したこと、山方石之助に委託して『小笠原島志』を発刊し小笠原の発見から今日までを確り記録したこと、日露戦役を記念して荒蕪に帰していた島の各地に植林したこと、などなど枚挙にいとまない。
 考えてみるに阿利君の島司在任十年、その間彼は島民の幸福ということを第一に心掛け、そしてその考えは周到にして綿密であった。目前の効果に目を奪われず、島にとっての真の利益、長期的な利益について肺肝を摧いた。
 島の人々はその人徳に感服し、かつその功績に感謝して、碑を建てて阿利君の業績を後世に伝えようと相談ができあがり、代表者がきて私にその碑文を書くように依頼された。そこでこの文章を認め且つ阿利君を称える詩を作って言おう。
   公平無私の潔さ 古武士の如き阿利島司
   一所懸命その努力 この島のためひとのため
   島びとこぞって慕い寄る 君のお蔭の大いさよ
   嗚呼この詩よ栄えあれ 世の牧民の鑑なれ

 この文章の通りなら高潔無私の大島司です。そうでなくても、自分を褒めちぎる巨大な碑を、池の中の築地に二見港を睥睨するかの如く建てたというのも相当な人物です。当然、大正時代になると、マスコミに追求され、刑事事件の告発もあって、ついに辞職しました。
 以前はこの碑は東京電力家族寮の敷地にありましたが、移転してこの場所に移ってきます。

油虫|小笠原小品|北原白秋

油虫
 ()(がさ)(はら)父島(ちゝじま)大村(おほむら)、牧師ヂョセ・ゴンザレスの旧宅(きうたく)、今は、内地から移住してゐる若い詩人Kが仮寓(かぐう)、その(コツク)()挿 話(ヱピソード)
         *
 (うら)らかな麗らかな何ともかとも云へぬ瑠璃(るり)(いろ)黄昏(たそがれ)である。
 (コツク)()のありとあらゆる静物(せいぶつ)は、今日はことに日が()れても安らかであつた。而して、ただ在りの(まゝ)に、暮れてゆくばかしである。
 (うす)(あかり)は流しの上の欄間(らんま)と、向つて食堂への通路(つうろ)と、同じく開けつ(ぱな)しになった庭の方の出口(でぐち)と、この三方から、何時(いつ)までも何時までも夢のやうに忍び込んで来た。
 殊に欄間(らんま)隙間(すきま)から青い縞目(しまめ)になって這入ってくる光のうつくしさ、俎板(まないた)の上の大きな()ぎたての甘藍(キヤベツ)や皿や肉刺(フオク)などはまるで生物(いきもの)のやうに青い縞をつけられて、今にも(をど)り出しさうに見えた。
 その上に幽霊の手首(てくび)のやうにいくつも(ゆは)へて吊るされてゐたのはまだ青い小さなバナナの房であつた。
 黒く焦げついたフライ鍋や、(ざる)や、()つ切り庖丁やがその隅つこにあつた。
 また向つて食堂(しよくだう)()りの隅の方にも棚がある、その棚に焜炉(こんろ)と、焜炉には華奢(きやしや)(ぎん)いろの湯沸(ゆわかし)が載つてゐた。その背後(うしろ)薬味(やくみ)や、酢、醤油の玻璃(がらす)(びん)はもうよほど暗くなつて薄い光の放射(ほうしや)だけしか認められない。
 出口の外は真白(まつしろ)い砂地である。井戸の白い流しも向うに見える。砂の白い反射(てりかへし)が、今出口を通して土間(どま)にどかりと(ほう)り出された大きな野菜巃を劃然(くつきり)と浮び上らせ、()ぢぎるゝばかり積め込まれた赤いトマトの山をまだ(あか)るく染め出してゐる。
 その土間には色々のものが散らばつてゐるやうだが、さだかでない。ただ云つて置きたいのは奥の(くら)いところに土竈(へつつい)があつて、それに不釣合(ふつりあひ)に大きな鉄鍋(てつなべ)がかゝり、鎬の中には驚くほど仰山に瀬戸物の食器や(さじ)やコップがごつたかへしてゐる事である。これは肺結核の黴菌を殺す為に、食前に必ず一度はくらくらと煮沸(しやふつ)さる可きものとしてある。
 それにまだひとつ(めう)なものがある。それは足の長い()(がさ)(はら)(たこ)(でつ)かいのがぬるりと一本その上の(はり)からぷら下つてゐる事である。死物(しにもの)ではあるしことに()熱帯(ねつたい)の暑い空気の中で、風も吹かねば、そよとも動くことではない。何の事はない、()げ損つた(よい)()盗賊(どろぼう)片足(かたあし)屋根(やね)から踏み破つて、その儘日が暮れたといふかたちである。
 何れも(せい)あるものではない。(たゞ)し、凡てが恍惚(うつとり)と暮れてゆく。ただ()りの儘に今しも(かす)かに暮れてゆきつゝある。
         *
 此家(こゝ)の家族は若い主人と内地(ないち)から一緒に来た若い三人の女性と、島で雇った女中が一人、都合(つがふ)五人である。
 こゝに(ちう)をして置く可き事は連の三人の女性は皆病人で、二人は肺結核の初期、一人は肋膜炎の徴候がある事である。女中は若いけれども白痴(はくち)である。真に健康なのは主人一人であるが、之が極めて快活で一番無邪気である。
 病気に対する予防は充分にしてゐる。真実で健康な主人は大丈夫伝染(うつ)りはしないと平気でゐるけれど、女達(をんなたち)がさうはさせない。先づ食前食後には必ず石炭酸で手を消毒する事、食前には(また)(かなら)ず一切の食器を一時間大鍋に入れて煮沸する事に(さだ)められてある。女中(ぢよちう)は白痴だし、ハイカラのお(ぢやう)さん(たち)脾弱(ひよわ)我儘(わがまゝ)だし、それに煩瑣(はんさ)なかういふ余計の仕事(しごと)があるので、三度の食事は中々に時間通りにゆかない、時には一()(ぐらゐ)は抜かす事がある、それは病人には何でもない事であるけれども、主人のやうに強壮な胃袋を持った青年には(なに)より(みぢ)めな事である。白痴(はくち)の女中もよく食ふ。或は主人以上に食慾は貪婪(どんらん)であるかも知れない。それで二人はいつも腹を()かしてゐる。
 主人は非常にトマトが好きだ。小笠原(をがさはら)のトマトは殊に新鮮でまるで鶏肉(かしは)のやうな味がする、主人はトマトに正覚坊(しやうがくばう)の肉さへあれば御飯(ごはん)なぞはどうでもいいと云ふ(くらゐ)である。だからトマトばかり買ひ込んで居る。八百屋もトマトばかり持つて来る。
         *
 今日も八百屋がトマトの極上(ごくじやう)といふところを沢山(どつさり)かつぎこんだ。八丈女の狡猾(わるごす)いあの手んぼうの内儀(をかみさん)まで、磨古木(すりこぎ)(やう)になった片方(かたつぽう)の肘でこりこり籠の黒い茄子やトマトを掻き廻はしては、無理強(むりし)ひにいくつもいくつも畳の上に(ころ)がして行つた。
 それで晩餐(ばんさん)存外(ぞんぐわい)簡単に済むだ。昼餐が(おそ)かつたので、女達は麺麭(パン)とパウリスタアの珈琲、主人は腸詰(ちやうづめ)にトマト、それ位にして、それから(めづ)らしく四人でうち連れて外出した。そのあとは森閑(しんかん)たるものである。留守(るす)(ばん)の女中までが()()けずに出て行つたまままだ帰つて見えない。(コツク)()の戸も(なに)()けっぱなしである、而して主人から早速貯蔵(しまつ)て置くやうにとあれほど命令(いひつ)かつた大切(たいせつ)のトマトも矢張(やは)り籠のまゝで土間に放り出された儘になってゐる。
 而して日が暮れた。
         *
 時は聖晩餐(せいばんさん)の夜である。
 日曜学校の若い先生アレキサンダア・ゼセ・アカマン・ツウクラブ君は軽い背広に夏帽子で(コツク)()の前の垣根の外を通つてゆく。而してお(となり)真白(まつしろ)な教会堂に赤や黄の(かざり)硝子(がらす)を透かしてパツと()(とも)るとバナナ畑を近景(きんけい)にした教会堂の(うす)(あかり)益々(ます〱)瀟洒(せうしや)な光景になる。先程まで裏の赤い畑に(くわ)()つてゐた牧師のヂョセ・ゴンザレスも今は黒い僧服に身を改めて、しづしづと椰子(やし)檳榔(びんらう)の葉ずれを(あふ)ぎながらその石段をのぼつてゆくのである。
 暫時(しばらく)あつて、お祈禱(いのり)の言葉がきこえ、静かに静かに讃美歌の合唱がはじまる。例のキンキン声を頭の尖端(てんぺん)から出してゐるのは帰化人上部(ウエブ)辺理(ヘンリ)の娘のモデの妹のセデのそのまた妹の悪戯(いたづら)(むすめ)のリデヤらしい。此家の三人の(をんな)たちの声もするやうである。
 ハレルヤ……ハレルヤ……
 その時、(コツク)()の屋根の暗い檳榔(びんらう)の葉裏に何かしら()いて出るやうな(かす)かな(かす)かな響がした。それが次第(しだい)次第()濃密(こまやか)になって蕭々と秋雨(あきさめ)のふるけはひとなり、響は響に重なり、密集してまた更に四方の羽目(はめ)にふり灑いでくる……と、(はり)にぶら下った大蛸の吸盤(きふばん)のひとつが薄暗(うすくら)い空の中でピカリと光つた。かと思ふとつるつるつると見る間にその光が()びてくる。(あと)から(あと)からと光りながら絶間(たへま)もなく光つてゆく……蛸が(かす)かに生きかへつて()()した。と又、俎板(まないた)の上の甘藍も庖丁も肉刺(フオク)も筒の中の赤いトマトもフライ鍋も何かしら色が(かは)つて来た、雨の音がそこにもここにもし出した。はては(いよ〱)驟雨(しうう)のやうな響となつて、異様な動物性の臭気(しうき)がそこら一面に満ちわたつた。
 何か異変(いへん)が起りさうである。
 隣ではヂョセさんの覚束(おぼつか)ない日本語のお説教が始まった。
         *
 一(たん)、暗く落ちついた瑠璃(るり)いろの空の光は暫らく()つと(ほん)のりとまた(あか)るくなってゆく様である。見る()に明るくなつてゆく。それは檳榔(びんらう)の葉ずれや鳳梨(ハイナツプル)の匂のする、砂糖焼酎や、乾草(ほしぐさ)や、腐れたバナナのにほひのする(つき)の出しほの(うす)あかりである。(には)のタマナの葉がてらてらと光り、白い砂地の明りが更に白く潤味(うるみ)を帯びて、風がさらさらとわたると、豆畑や赤い斜面の玉蜀黍(たうもろこし)の中で鶯がまたささ鳴きをはじめる。
 ――ヨウ――、月夜闇夜(つきよやみよ)と、ナ、云はずにおぢやれ、いいつもバナナのかあげはやあみい……。
 シヨメ、シヨメといふ八丈節(はつじやうぶし)の流しがきこえる、浜はいま太平洋の横雲が霽れて、大方(おおかた)昨夜(ゆふべ)のやうな麗らかな()(まる)い大きな大きな月が瑠璃(るり)や緑の浜桐や護謨(ごむ)の葉越しにゆらゆらとせり(あが)つてきたのであらう。リデヤの父親(ちゝおや)辺理(ヘンリー)が大きな独木舟(カヌー)の櫂をかついで今また垣根の外を通る、
 ――Good night
 ――今晩は。

 (コツク)()欄間(らんま)(そと)が水をうつたやうに静かになつた。これから昼のやうに明るくなるのである。
 ふと、カサカサといふ音がした。甘藍が動いたやうである。月光の下、(かさ)み合つた(あを)球菜(たまば)の間から褐色の大きな(ひか)るものが(すべ)り出した。その物は爽かな野菜の香気を(しみ)()嗅ぎ惚れてでもゐるやうに暫時(しばらく)、その水のやうな燐光(りんくわう)の中にぢつとしてゐたが、またするすると(くら)い影を曳いて辷り落ちた。油虫(あぶらむし)である。と見ると、見る間に、その油虫が一つまた一つ、二匹、三匹、四匹、五匹、はては(かず)(かぎ)りもなく、葉と葉の(あひだ)から(すべ)り出した。まるで()きた甘藍(キヤベツ)の心の心から()いてで出るやうだ、走り(まは)る、葉裏(はうら)へ乗り越す、蕭々とまた(コツク)()一杯に驟雨(しうう)の来るけはひがする、油虫が愈匍ひ廻るのだ。
 大きな、小笠原特有の油虫である。内地ののやうに(あや)しい(ひほい)こそ立てないが、居るわ居るわ、屋根裏、羽目(はめ)卓子(テーブル)の下、赤い詩集の表紙の上、男女の別ちもなく油さへ塗つてあれば(あたま)の髪の中へまでも、忍び込み、着物(きもの)は噛り菓子皿は嘗める、おしまひには(はね)を開いて飛び廻る、縦横無尽である。それが今(つき)()(しほ)の暗まぎれに時を得顔(えがお)に跳梁する。
 忽ち、甘藍(キヤベツ)褐色(かつしよく)の塊となった。つるつると光り、ゆらゆらと()れ、底の底から無数(むすう)の微かな音響(おんきよう)を立て、輝く光の塊となつて燃えあがつた。動く、動く、一(せい)に動く。油虫が動くのでない。生きた野菜が自分から(ゆら)めき出したのである。と、俎板(まないた)が動く。菜つ切り庖丁が動く。ナイフや肉刺(フオル)はまた豊麗な饗宴の夢でも見るやうに(をど)り出す、まるで貪り足らぬ人間の「食慾」が亡霊となって、肉を切り、マカロニを(すく)ひ上げるやうに、それをがつがつ(をど)らすのである。鍋の中の皿や茶碗は勿論、棚の上の薬味(やくみ)、ソースの(びん)まで生きかへつたやうに音を立て、手が出、足が出て、(それ)()一塊(ひとかたまり)の大きな大きな褐色の虫となつて燃え上る、自分達の重さに傾きかかつた籠の中のトマトは(るゐ)()と一つ一つに(はね)が生へて(ころ)がり出し、箭までが()ぢきれさうに(せい)一杯(いつぱい)の力を出して(ゆら)めき出した。月の光は(いよ〱)らぢゆうむのやうにそれらに新らしい生活力を与へ、露を()らし、素朴な風味と芬香とを(そゝ)ぎかける。欄間(らんま)から流れ込む青いその光が又俎板(まないた)にいつぱい(たか)つてゐる油虫の集団に美くしい幾条(いくすぢ)かの縞目(しまめ)(ゆら)めかした。その縞目が又()えず流動し、蠢動する。
 静物の世界が今色も(にほひ)も響も一緒に真実一念に燃え上がつたのである。
 ――Tonka John! Tonka John!
 甲高(かんだか)なキンキン声を出して、教会との隔ての垣根から誰やら呼ぶ。女の子の声である。リデヤだ。
 ――Tonka John! Tonka John! 居るかい。
 垣根を向うからどんどんと敲く。(たれ)家内(なか)から返事する者がない。油虫の運動がちよとたじろいた。野菜や食器がひたと静止する。
 (そと)は実に麗らかな良夜である。リデヤは垣根の上から真白な(あご)だけしやくつて延び上った。十二三の、鼻の高い、眼の迫つた、髪の赤い、如何(いか)にも悪戯者(いたづらもの)らしい顔付である。
 ――Tonka居ないか、いいもの見せやうか、Tonka!
 Tonka Johnとはこの家の若い主人の幼な名である。南国(なんごく)の生れで、郷里が長崎(ながさき)に近いだけ阿蘭陀(オランダ)なまりがあつて、日本人の名にしてはをかしいけれども、ここではその(はう)が調子よく唇く、それで自身もこのトンカジョンで通してゐる。この青年がこの島に()いて三日(みつか)()の朝、人間よりも大きい(はま)万年青(おもと)が並木のやうに続いて、(にく)の厚い竜舌蘭(マニヲ)(むらがり)が強烈な日光の中に滅法界(めつぱふかい)に大きい海蟹(うみかに)の足の如な()(えふ)を八方に(ひら)いてゐる傍で、砂浜に曳き上げられた黒い()()()の上に竝んで腰を掛けながら、初めて逢つたその娘は()いた、
 ――お前の名は何ていふの、
 ――Tonka John.
 ――Tonkaかい、(あたい)の名はRydia.
 さうして猫のやうに()()()を躍り()えながら、
 ――遊びにお出でよ、(あたい)んとこに白い()(ちやう)が居るよ。
 と云つた。而して手に持った貝殻を矢庭に砂の上に(たゝ)きつけて、()け去つた。それからこのリデヤとトンカジョンは、(だい)仲善(なかよ)しになった。
 今もTonka.Tonkaとキンキン(ごゑ)で呼んでるが、(だれ)も返事をしない。リデヤは(もど)かしくなつたか、ヒラリと垣根に()ぢ上つた。而して片足を掛けながら、乱暴にも乗り越して来る。髪をお下げに()らして、ツンツルテンの浴衣(ゆかた)を着てゐる、而して赤ちやんのやうに桃色の三尺を(うしろ)にダラリと(むす)んでゐるのである。それが片手(かたて)(ちひ)さな亀の子を糸に(つる)して下げてゐる。
 そのまま、()けて来て、(コツク)()(のぞ)いたが、(だれ)もゐない。食堂の硝子窓を覗いたが(だれ)も居ない。今度(こんど)は庭を廻つて(うしろ)から応接間の方を覗きに行つたやうである。
 (あか)るいバナナの向うから、
 ――Tonka.Tonkaの馬鹿やい、ヂヨネの伯父(をぢ)さんが南洋から帰つたの知つてるかい、()つちやな玳瑁(たいまい)()を見せてあげるから()てお出で、正覚坊(しやうがくばう)の児なんかとまるで違ふんだよ、ホーラ。
 リデヤ()、中々のお悪戯(いた)さんだ。今度は裏庭(うらには)のバナナのかげから、
 ――ヂヨセ、油虫の化物、教会に亀の子持つてたつて、(なに)がいけないんだい、たゞの(かめ)の子ぢやないんだぞ、玳瑁(たいまい)の子なんだぜ、馬鹿(ばか)肺病(はいびやう)やみ、見てゐろ、お前の(とんが)り鼻に今に()みつかせてやるから、イヒ……
 リデヤ()(なか)()のお悪戯(いた)さんだ。油虫の化物と云つたので、(コツク)()の油虫は一(せい)にヒヤリとしてカサカサ、カサカサと影にかくれた。
 リデヤが()つて了ふと再び(コツク)()の活劇がはじまる。
         *
 野菜や食器の感覚は常に新鮮である。(さかん)に貪婪な油虫にその葉や肉心(にくしん)を蚕食されながら、甘藍(キヤベツ)とトマトは愈フレツシユな滴汁(しづく)滴吹(しぶ)き、香ひを放ち、愈清く(かな)しくなつてゆく。食器は盛んに()められ乍ら、西洋皿は又た盛んに(こうし)や雲雀やアスパロガスの(しゆ)()の豊満な献立(こんだて)を愈白い瀬戸の光沢の(うへ)()り上げ、ナイフは(をど)つて腸詰(ちやうつめ)を切り、フオクは盛んに幻想界にそれを突き刺し乍ら、(いよ〱)光りに光つてゆく。
 月光は愈(コツク)()いつぱいに円弧燈(アークライト)のやうな水々(みづ〲)しい紫色を浴ぴせかけた。新鮮と素朴(たと)ふるものなしである、静かなこの夜の光の(なか)(のこ)るところなく照らされて油虫は一斉に全身を極めて神経過敏に顫はし乍ら、活動し、蠢勤し、集散し、反撥し、時に鏡のやうに反射(てりかへ)し、雪のやうに湧き、焼酎(せうちう)のやうに沸騰し、雨のやうに蕭々(せう〱)と音を降らしつつある。而して見る間に死んだ大蛸の片足を甦らしめ、又見る()
査古体(チヨコレート)(いろ)の甘藍を俎板(まないた)の上に躍らし、トマトをつやつやと(ころ)げさせ、脂じみた食器を微細に光らせ、愈光らせ舞踏(ぶたふ)させ輪舞させつつある。而してロには盛んに大牢(たいらう)の滋昧に(した)(づゝみ)をうち乍ら、霊魂(たましひ)は幽かに法悦三昧境に入りつつある。
 かくてまた一時間が過ぎる……
         *
 ばたばたと窓の外に足音がした。
 油虫はぱつと八方に散乱しながら逃げ走る。ほんの一瞬時である。半は夢のやうに半は感傷的に躍動しつつあつた凡ての静物ははたと静止した。
 油虫が消えて了へば、幻想も消える。澄みに澄む月の光に照らさるる静物は矢張り元の静物である。ただトマトと甘藍(キヤベツ)は全く哀れであつた。散々(さん〲)に食ひ荒らされたトマトは新しい傷口(きずぐち)の痛みから光沢(くわうたく)を失ひ、()半分(はんぶん)になり三角になり、或は(はち)の巣のやうに吸ひ()ぶされ、ギザギザとなり、今は籠の中から躍り出づる力もなく、染々(しみ〲)と残りのセンチメンタルな漿液(しやうえき)()らしつつある。甘藍(キヤベツ)はなほさら、葉をむしられ、(しん)()み破られ、色も風味(ふうみ)もなく、悄然(せうぜん)と欄間の青い影と光の縞目(しまめ)に縞づけられて僅かに()めたい残りの葉で胸を掻き合はしてゐる。そして、()面から湧き上つた真青(まつさを)な初一念も何処(どこ)へやら今は白く(ころ)がり放しである。
 足音がぱつたり(とま)つたと思ふと、ふいとその欄間(らんま)のところに、思ひがけない真黒(まつくろ)な顔が現はれた。奥村(おくむら)(此処から十町ほど離れた帰化人の部落)の黒人娘(くろんぼむすめ)のベネの(かほ)である。何で差し(のぞ)くのか暫く閴寂(ひつそり)とした家内の様子(やうす)を窺つてゐたが、ただそつと首肯(うなづ)いて、欄間(らんま)の隙から燃え立つばかりの真紅(まつか)なアマリリスの花を一(ぽん)差入(さしい)れて、又そつと消えて行った。しとしとと砂を踏む足音がする……、而してまたその足音も(かす)かに幽かに消えて行つた。
 油虫はたちまちにその赤い花に密集した。花が又忽ち真黒(まつくろ)になつた。而して苦痛に(をど)り出す……。
         *
 さあて、(いよ〱)油虫の世界である。
 屋根裏(やねうら)の檳榔の葉を伝ふ(かず)(かぎ)りもない油虫が一時に驟雨(しうう)の走るやうな音を立てる。羽目(はめ)の隅から隅まで駈け廻る。焜炉(こんろ)(へり)を辷り上る、(ぎん)いろの湯沸をまつくろくする。コップの(なか)の腐つた牛乳を()める。フライ(なべ)(あぶら)(たか)る。野菜には飽いたか()つたらかして、今度は愈結核菌(けつかくきん)煮沸用(しやふつよう)の大鍋の中に一斉襲撃をする。油虫、油虫、恐ろしい肺病の黴菌がそこにはうぢやうぢや繁殖してゐる真最中(まつさいちう)だぞ、()めたら大変(たいへん)、みんな肺病になって了うぞよ。
 油虫は考へない。ありとあらゆる(もの)に対してただ無闇(むやみ)に密集する。見る間に(コツク)()一杯油虫となるまで満月の光を飽迄も悪用する、人さへゐなければ縦横無尽である。
 油虫は、月に光つては(さゞなみ)の寄せる如く屋根裏(やねうら)から羽目の隅々(すみ〲)、窓、棚、あらゆる静物の上にまた一としきり驟雨(しうう)のやうに走り廻る。誇張すればシネマトグラフの西洋の化物(ばけもの)ホテルのやうに窓の硝子がくるくる廻り、流しが歩行(ある)き、土間が天上(てんじやう)し、はてはくるくると(コツク)()全体(ぜんたい)が廻り出す。さながらさういふ光景である。
 トマトも甘藍(キヤベツ)も今はあったものかは。
 ハレルヤ……ハレルヤ……
 教会では愈おしまひの祈祷(いのり)が済むだと見えて、また平和な讃美歌の合唱がはじまつた。
 今、(コツク)()は全く油虫の世界である。家がゆらゆら動く……
        *
 程もあらせず、(そと)にガヤガヤペチヤペチヤと人間の声がする。(とほ)り過ぎるかと思ふと、さうでなし。ばたぱたぱたぱたと()()むで玄関の戸の把手(とりて)(ねぢ)るが早く、パツとマツチを()る、応接間(おうせつま)にはラムプが(とも)される。人の影が障子にちらつく、やがてガチヤンと(ゆれ)椅子(いす)に腰を(おろ)した(おと)がして、元気な男の声で、
――お(なか)()いた、早くトマトを()つといで。

1915(大正4)年4月1日「ARS」創刊号に発表。

三年坂|津久戸町

文学と神楽坂

三年坂や三念坂というのはどこをさしているのでしょうか。
新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』では「(()()())町内南角に小坂があり、俗に字三念坂と呼ばれた(『町方書上』)。現在は俗に三念坂という(3年坂とも書く)。」
 
今の津久戸町の面積は非常に大きく、町内はどこかわかりません。では江戸時代ではどこなのでしょうか? 『新修 新宿区町名誌』で津久戸町の「町地は牛込津久戸前町と牛込西照院門前があった」と書いています。西照院を囲むように牛込津久戸前町の年貢町屋は3つあります。「町内南角に小坂があり」というので、3つのうち右下を指すのでしょう。
神楽坂津久戸町の地図 江戸時代 三年坂
つまり、現在では
神楽坂津久戸町の地図 現在 三年坂
現在は交差点「筑土八幡町」から三年坂に入り、それから本多横丁に行き、そのまま神楽坂通りとなって終わります。3年坂の語源については横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』でこう書いています。

三年坂と呼ぶ江戸時代の坂が、旧東京市内に六ヵ所ばかりある。いずれも寺院、墓地のそば、または、そこからそれらが見えるところの坂である。
 三年坂はときどき三念坂とも書く。昔、この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬというばからしい迷信があった。お寺の境内でころんだものは、すぐにその土を三度なめなければならない。もちろん土をなめるまねをすればよいのであるが、わたくしたちも子供のころ、叔母などによくやらされたものである。それをしないと三年の内に死ぬのだと、そのときいつもきかされたものだ。坂はころびやすい場所であるので、お寺のそぱの坂は、とくに人々によって用心された。こうした坂が三年坂と呼ばれたのである。三度土をなめるということは、二たび仏に安泰を念願することである。とにかく、三年坂という坂は、坂のそばに寺か墓地があって、四辺が静寂で、気味の悪いほど厳粛な場所の坂を言ったもののようである。古い静寂なお寺の境内で味わうものと同じような気持ちである。

このため、坂の標柱として、区は不吉な三年坂を黙殺して使っていないようです。

「ホテルゆたか」から本多横丁を背後に全体を見回すと、こうなります。
三年坂 津久戸町 ホテルゆたか
右側はお好み焼きの「広島っ子」、ビストロとワインバーのViande(ヴィアンド)、残りの大部分は熊谷組のビルです。左側はホテル、階段、つづいて酒蕎庵「まろうど」、珈琲専科の「珈瑠で(カルデ)」、 和食の「一邑(いちむら)」、炭火鳥焼の「金太郎」、ねぎの「葱屋みらくる」です。
新宿区津久戸町の三年坂から外に行く階段。
また途中にある階段を上ると新鮮な食材の和食「葉歩花(はぶか)(てい)」が見えてきます。また、その隣の一軒はいかにも立派な花街建築のようです。
三年坂はなにもなかったと思っていましたが、たくさん店は増えてきていました。

本多横丁 軽子坂
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