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東京のプチ・バリ|ドラ・トーザン

文学と神楽坂

 ドラ・トーザン氏が書いた『東京のプチ・バリですてきな街暮らし』(青萠堂、2009年)の一節です。この本は感じたことを気持ちを込めて書いた随筆と、友達や店舗とのインタビューが主。残念ながら情報は少ないけれど、情緒は一杯あると思います。

  なぜ神楽坂プチ・パリなのか?
      坂・石畳、路地、運河……の魅力

パリを思わせるミステリアスな坂
 神楽坂はとてもパリに似ています。なんといっても共通点は坂。特にパリのムフタール通りモンマルトルは坂の多いところですが、神楽坂はその名の通り、坂の種類には事欠きません。朝日坂袖摺坂軽子坂地蔵坂赤城坂と、主な坂だけでもこんなにあります。私は熱海湯のところから鳥茶屋別亭を横に見て上がっていくフランス坂と呼んでいます。まさにフランス坂と私が命名したようにとてもパリの雰囲気をもっています。
 神楽坂には、他に三年坂逢坂弁天坂、なども、それぞれ表情の違う坂が面白い。

かくれんぼのような細い路地
 そして細い路地のある点。私のパリでの住まい、ムフタール通りと同じで、坂が多く小さな商店街の通りがあって、街のサイズがコンパクトなところです。神楽坂の大好きな三大横丁といえば、毘沙門の向かいから旅館和可菜へ抜ける兵庫横丁本多横丁からさらに入ったかくれんぼ横丁、そして、同じく肉まんで有名な五十番の脇から、本多横丁を右に曲がった芸者新道も、なかなか風情があります。少しアヴァンギャルドみちくさ横丁もいいですね。

迷宮入り(⁉)の石段
 神楽坂の曲がりくねった石段も面白い。
 兵庫横丁の石段の道は途中にもっと細い横道もあって迷子になりそうです。また私の大好きなフランス坂は、小栗通りの熱海湯のところから、S字型に昇っていく石段です。
 まるでモンマルトルのよう。曲がりくねった石段はミステリアス。石段の次に何かあるかわからない楽しみがあります。
 遠くまで見えないから突然未知のものがあらわれる。それが面白い。パリと同じで、新しい発見をする楽しみ。パリもそうだけど一つ場所を決めてスポットを発見するのも、散歩・プロムナードの楽しみです。

運河 日本ではお濠(お堀)
ムフタール通り Rue Mouffetard。パリ5区でレストラン、カフェ、市場などがあり、下町的に混雑して繁栄する地域
モンマルトル この丘を含む一帯の名前。セーヌ川右岸のパリ18区を構成。パリ有数の観光名所。鳥茶屋別亭 フランス坂(熱海湯階段、芸者小路)の中にあります。『拝啓、父上様』1話で、一平が働く料亭「坂下」の勝手口は実はこの鳥茶屋別亭の玄関でした。
フランス坂 ほかに「熱海湯階段」、「熱海坂」、「一番湯の路地」、「芸者小路」、「カラン坂」等という言い方があります。
アバンギャルド avant-garde。フランス語で、軍隊用語の「前衛」から。革新的、前衛的な芸術や芸術家たち。前衛派とも。
プロムナード promenade。散策。散歩道。遊歩道

東京俳優学校と牛込高等演芸館

かぐらむら』の「藤澤浅二郎と東京俳優学校」を読むと「東京俳優学校」や「牛込高等演芸館」についていろいろな情報が入ってきます。

藤澤浅二郎と東京俳優学校
神楽坂通りから光照寺に行く地蔵坂の右手の袋町3番地には、かつて、江戸時代から続く、牛込で第一と言われた寄席があった。夏目漱石が通い中流以上の耳の肥えたお客が集まったという「和良店亭」である。明治41年、新派の俳優、藤澤浅二郎は、この場所に、日本で初めての俳優養成所(後に私立東京俳優学校と改称)を開設した。この頃はまだ、江戸時代の慣習が色濃く、歌舞伎役者の地縁や血縁にある人だけが、芝居を行っていた。けれども文学の多様化により従来の型にはまらない、新しい表現のできる俳優が必要とされていた。

「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌
(「和良店亭」の席亭である竹本)小住の夫、佐藤康之助は、娘浄瑠璃の取り巻き「どうする連」の親玉だったと伝えられる。(中略)

洋風二階建ての「牛込高等演芸館」
(佐藤氏は)明治37~8年にはアメリカに遊学し、帰国後の39年暮れ、洋風二階建ての本格的な舞台を備えた「牛込高等演芸館」を新築した。地下に食堂を作り「セラ」という洋食屋を設け、翌年1月には盛大な開館式を行った。今でこそ、食堂の設置は常識だが、まだ、芝居といえば「お茶屋」を通して、という時代だったので人々の目には奇異に写ったという。 藤澤のこころざしを知った佐藤は、演芸館を破格の条件で提供することを申し出た。

東京俳優学校の開設
当初は、(藤澤氏は)西五軒町34番地の宏文学院跡での開校を考えていたが、舞台がないのが懸案だった。佐藤の厚意で、牛込高等演芸館の寄席の時間外を借り切る事になり、準備は順調に進められた。舞台は、間口4間奥行き3間ほどで、広い客席、桟敷付き2階とそれに続く大広間が2部屋。電話も自由に使わせて、舞台裏手奥に中2階の教室も新築してくれた。毎月の家賃は36円だった。生徒の終業年数は3カ年で、入学金5円、月謝は3円である。俳優養成所としてスタートしたが、明治43年3月に「私立東京俳優学校」に改称し、東京市の認可を得た。

入学前後の様子
生徒募集の反響は、予想以上に大きく、入学希望者は250名に上った。志願者は、湯島の藤澤邸で面談を受け、11月4日、選抜された35名に対して入学試験が行われた。午前中に学科:倫理、国学、英語又はドイツ語、午後は、実科:表情、しぐさ、台詞廻し、舞台度胸、役どころ、礼儀作法などが、当代一流の先生が並ぶ中で行われた。最終合格者は23名であった。
授業は11月11日から始まり、28日には客席を使って開所式が行われた。顧問の巌谷小波、新派の大御所や劇壇、文壇、劇評家達がずらりと並び、帝劇、有楽座、本郷座の幹部や、牛込区長、神楽坂警察署長も出席した。

授業の内容と生徒達
毎日、一日7時間、びっしりと行われた。学科は午前中で、倫理学、脚本解説、芸術概論、心理学(衣装や扮装の心理)音楽の心理、日本風俗史、有職故事、日本歴史(講師は前澤誠助:松井須磨子の二番目の夫)英語、フランス語。午後は実科で、藤澤による劇術、日本舞踊と扮装術(市川高麗蔵が、ロンドンから取り寄せたクラークソンの化粧箱を持って来て、英語まじりで化粧やヒゲのつけ方などを教えた)長唄(吉住小三郎)声楽(北村季晴、初子)清元(八木満寿女)義太夫(竹本小住)洋画(北蓮蔵)日本画であった。(中略)

赤字、そして閉校
生徒が30人程度で、月100円にも満たない収入では、家賃と講師陣の車代、事務費を出す事など、とうてい不可能だった。藤澤は、不足を補うために活動写真に出演して毎月100円を学校に入れた。当時、活動写真に出る事は「泥の上で芝居をする」として、舞台俳優からいやがられ、一度活動写真に出た者は再び舞台に立つ事は許されなかったが、藤澤だけは同情をもって許された。映画だけでは足りないので、舞台や巡業に休む間も無くなり、学校に顔を出す機会も減っていった。(中略)。
第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった。

『ここは牛込、神楽坂』第7号の「地蔵坂」で、高橋春人氏の「牛込さんぽみち」では

この坂の右側に、戦前まで「牛込館」という映画館があった(現・袋町3)。この同番地に、明治末から大正にかけて「高等演芸館・和良店」という寄席があった。この演芸館に「東京俳優養成所」というのが同居していた。

一方、同じく同号で、作家山下武は

牛込館の前身、牛込高等演芸館では藤沢浅二郎の俳優学校が設けられ、創作試演会が上演されたそうだ

西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

藁店わらだなに江戸期からだな亭という漱石も通った寄席があった。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを独力で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設し、ここの舞台に立つことは俳優を目指す者のあこがれになり、多くの俳優を育てた

と書いています。ただし「独力で高等演芸館に改装」したのは寄席「高等演芸館・和良店」の佐藤康之助氏でした。藁店(明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館)

野口冨士男の『私のなかの東京』ではこう説明されています。なお、野口冨士男が誕生したのは明治44年7月です。

藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店という小さな寄席があった。映画館の牛込館はその二,三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五〇年九月30日発行の『週日朝日』増刊号には、≪明治39年の「風俗画報』を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正時代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。

紅谷研究家の谷口典子氏は「かぐらむら」平成25年4・5月第67号で

高等演芸館は、地域に大きな文化交流の場をもたらせたものの、個人で維持運営するには負担が大き過ぎた。藤沢の俳優養成所も経費がかさみ、莫大な負債を抱えて閉校に追い込まれる。高等演芸館は再度改築され、大正三年六月、人々の憧れの的、帝国劇場を参考に豪華な映画館「牛込館」に姿を変えた。しかし、映画もまだ充分な質量のフィルムが確保出来る時代ではなかった。2年後、廉之助は、日活に自宅を含む土地建物をすべて売却すると興行の世界から姿を消した。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年➆

 また、毘沙門前の🏠毘沙門せんべいと右角の囲碁神楽坂倶楽部とのあいだにある横丁の正面にはもと大門湯という風呂屋があったが、読者には🏠本多横丁🏠大久保通りや🏠軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、🏠毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。
 神楽坂通りにもどると、善国寺の先隣りは階下が果実店で階上がレストランの🏠田原屋である。戦前には平屋だったのだろうか、果実店の奥がレストランであったし、大正時代にはカツレツやカレーライスですら一般家庭ではつくらなかったから、私の家でもそういうものやオムレツ、コキールからアイスクリームにいたるまで田原屋から取り寄せていた。例によって『神楽坂通りの図』をみると、つぎのような書きこみがなされている。

(略)開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門、六代目先々代歌右ヱ門松永和風水谷八重子サトー・ハチロー加藤ムラオ(野口註=加藤武雄と中村武羅夫?)永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生が京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅川清吉氏の“手紙”から)

麻布の龍土軒国木田独歩田山花袋らの龍土会で高名だが、顔ぶれの多彩さにおいては田原屋のほうがまさっている面があると言えるかもしれない。夏目漱石が、ここで令息にテーブル・マナーを教えたという話ものこっている。

逍遥 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。
白山 はくさん。文京区白山。山の手の花柳界の1つ
遭遇 そうぐう。不意に出あう。偶然にめぐりあう

4.5丁目

田原屋 せんべい 毘沙門横丁 尾沢薬局 相馬屋紙店 藁店 武田芳進堂 鮒忠 大久保通り

観世元滋 戦前の観世流能楽師。生年は1895年(明治28年)12月18日。没年は1939年(昭和14年)3月21日。
羽左ヱ門 市村羽左衛門。いちむら うざえもん。歌舞伎役者。十五代目の生年は1874年(明治7年)11月5日、没年は1945年(昭和20年)5月6日。十六代目の生年は1904年(明治37年)1月15日、没年は1952年(昭和27年)10月2日
歌右ヱ門 中村歌右衛門。なかむら うたえもん。歌舞伎役者
松永和風 まつなが わふう。長唄の名跡
加藤ムラオ 加藤武雄中村武羅夫の2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。
万竜 まんりゅう。京都ではなく東京の芸妓。明治40年代には「日本一の美人」の芸妓と呼ばれたことも。生年は1894年7月。没年は1973年12月。
龍土軒

明治33年、麻布にあるフランス料理。田山花袋、国木田独歩などが使い、自然主義の文学談を交わした龍土会が有名。

 いまも田原屋の前にある🏠尾沢薬局が、その左隣りの位置にカフェー・オザワを開店したのは、震災後ではなかったろうか。『古老の記憶による震災()の形』と副題されている『神楽坂通りの図』にもカフェー・オザワが図示されているので、震災前か後か自信をぐらつかせられるが、その店はげんざい🏠駐車場になっているあたりにあって、いわゆる鰻の寝床のように奥行きの深い店であったが、いつもガラス戸の内側に白いレースのさがっていたのが記憶に残っている。
 記憶といえば、昭和二年の金融恐慌による取附け騒ぎで、尾沢薬局の四軒先にあった東京貯蓄銀行の前に大変な人だかりがしていた光景も忘れがたい。その先隣りが紙屋から文房具商になった🏠相馬屋で目下改築中だが、人いちばい書き損じの多い私は消費がはげしいので、すこし大量に原稿用紙を購入するときにはこの店から届けてもらっている。
 相馬屋の前にある坂の正式名称は🏠地蔵坂で、坂上の光照寺地蔵尊があるところから名づけられたとのことだが、一般には🏠藁店(わらだな)と俗称されている。そのへんに藁を売る店があったからだといわれるが、戦前右角にあった洋品店の増田屋がなくなって、現在ではその先隣りにあった🏠武田芳進堂書店になっている。また、左角に焼鳥の🏠鮒忠がある場所はもと浅井という小間物屋で、藁店をのぼりつめたあたりが袋町だから、矢田津世子の短篇『神楽坂』はそのへんにヒントを得たかとも考えられるが、それについてはもうすこしあとで書くほうが読者には地理的に納得しやすいだろう。
 藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店亭という小さな寄席があった。映画館の🎬牛込館はその二、三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五十年九月三十日発行の「週刊朝日」増刊号には、≪明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。早川雪洲の主演作や、岡田嘉子山田隆哉と共演した『髑髏(どくろ)の舞』というひどく怖ろしい日本映画のほか、多くの洋画を私はここでみている。映画好きだった私が、恐らく東京中でもいちばん多く入場したのは、この映画館であったろう。その先隣りに、たしか都館といった木造三階建ての大きな下宿屋があったが、広津和郎が自伝的随想『年月のあしおと』のなかで≪社員を四人程置≫いて出版社を主宰していたとき関東大震災に≪出遭った≫と書いているのは、この下宿屋ではなかったろうか。そのなかには、片岡鉄兵もいたと記されている。

鰻の寝床 うなぎのねどこ。間口が狭くて奥行の深い家のたとえ
色物 色物寄席。落謡、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席。色物寄席がそのまま現在の寄席になりました。

震災前 関東大震災が起きたときには神楽坂は全く無傷でした。なかには震災後の場所もありえると思います。
駐車場 Pカフェー・オザワは、4丁目にある店舗です。1978年の住宅地図ではカフェー・オザワはタオボー化粧品に変わり、左の駐車場ではありません。
風俗画報 以下の通りです。

L

早川雪洲 早川雪洲はやかわ せっしゅう。映画俳優。 1909年渡米、『タイフーン』 (1914) の主役に。以後米国を中心に、『戦場にかける橋』など多くの映画や舞台に出演。生年は明治19年6月10日。没年は昭和48年11月23日で、87歳。
山田隆哉 文芸協会の坪内逍遥に師事、演劇研究所の第1期生。松井須磨子と同期に。,岡田嘉子と共演の「出家とその弟子」が評判に。昭和11年、劇団「すわらじ劇園」に参加。生年は明治23年7月31日。没年は昭和53年6月8日で、87歳。
髑髏の舞 1923年(大正12年)製作・公開。田中栄三監督のサイレント映画

夢をつむぐ牛込館

文学と神楽坂

1975年9月30日、『週刊朝日』増刊「夢をつむいだある活動写真館」で牛込館について出ています。初めて神楽坂の牛込館の外部、内部や観客席も写真で撮っています。

週刊朝日 むかしの映画館は、胸をわくわくさせる夢をつむぐ(やかた)であった。暗闇にぼおっと銀色の幻を描いた。
 東京・神楽坂にあった牛込館もそういった活動写真館の一つだった。もちろん、今は姿かたちもない。写真を見ると、いかにも派手な大正のしゃれた映画館に見える。
 これを、請け負ったのは清水組。その下で働いていた薄井熊蔵さんが建てた。薄井さんはことし五月、九十四歳で亡くなった。できた当時のことを、聞くすべもない。さいわい、つれそいの薄井たつさん(八四)が世田谷の三軒茶屋近くに健在だときいて訪れた。
「さあね、大正十年ぐらいじゃなかったかね。そのころ広尾に住んでましたけど、いい映画館を造ったのだと言って、そのころ珍しい自動車に乗せられて見に行きましたよ、ええ。まだ興行はやってなかったけど、正面玄関とか館内にはいって見てきましたよ。シャンデリアつて言うのですか、電灯のピカピカついたのがさがっていましたし、たいしたもんでしたよ。行ったのは、それ一回でしたけどねえ」
 なんでも当時の帝国劇場を参考にして、それをまねて造ったというのだが……。
観客席

観客席

 帝国劇場のことが少し入り

 この牛込館が十年ごろ完成したことになると、震災の時はどうだったのか。あるいはその後ではなかったのか。たつさんの記憶もたしかではない。もっとも神楽坂方面は震災の被害は少なかったともいわれるが……。

文士が住んだ街

 昭和の初期、この館を利用した人は多い。映画プロデューサー永島一朗さんも、そのひとりだ。
「そうねえ、そのころ二番館か三番館だったかな。私は新宿の角筈に住んでいて、中学生だったかな、七銭の市電に乗るのがもったいなくて、歩いて行ったものですよ。当時は封切館は五十銭だったが、牛込館は二十銭だった。新宿御苑の前に大黒館という封切館がありましたよ。
 どんな映画を見たか、それはちょっと覚えてないなあ。牛込館はしゃれた造りではあったが、椅子の下はたしか土間だったですよ」
 おもちや研究家の斎藤良輔さんも昭和五、六年ごろから十年にかけて早稲田の学生だったので、ここによく通ったそうだ。
「なんだか〝ベルサイユのばら〟のオスカルが舞台から出てくるような、古めかしいが、なんだかしゃれた感じがありましたよ。そのころ万世橋のシネマパレスとこの牛込館が二番館か三番館として有名で、われわれが見のこした洋画のいいのをやっていました。客は早稲田と法政の学生が多かったな。神楽坂のキレイどころは昼間も余りきてなかったな。ちょうど神楽坂演芸場という寄席ができて、そこに芸術協会の金語楼なんかが出ていて、そっちへ行ってたようだ」
 この神楽坂、かつては東京・山の手随一の繁華街で、山の手銀座といわれた時代があった。昭和四年ごろから、次第にその地位を新宿に奪われていった。関東大震災前から昭和十年にかけて、六大学野球はリーグ戦の華やかなころ、法政が優勝すると、軒なみ法政のちょうちんが並び、花吹雪が舞った。早稲田が勝てば、Wを描いたちょうちんで優勝のデモを迎えた。
 また日夏耿之介三上於莵吉西条八十宇野浩二森田草平泉鏡花北原白秋などの文士がこの街に住み、芸術的ふん囲気も濃く、文学作品の舞台にもしばしばこの街は登場している。
 だから、牛込館はそういった街の空気を象徴するものでもあった。
 明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向こうに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。
 かつての牛込館あとをたずねて歩いた。年配のおばあちゃんにたずねると、土地の人らしく、「ええ、おぼえてますとも」と言って目をかがやかせる。空襲で焼かれるずっと前に、牛込館はこわされて、消えて行った。そのあとに、今も残っている旅館が二軒。それがかつて若い人たちが、西欧の幻影を追いもとめた夢まぼろしの跡である。

二番館 一番館(封切り館)の次に、新しい映画を見せる映画館

写真は最初の1枚を入れて4枚。牛込館

牛込館内部

牛込館の内部

牛込館の前に記念撮影

牛込館の前で記念撮影

映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館