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東京のプチ・バリ|ドラ・トーザン

文学と神楽坂

 ドラ・トーザン氏が書いた『東京のプチ・バリですてきな街暮らし』(青萠堂、2009年)の一節です。この本は感じたことを気持ちを込めて書いた随筆と、友達や店舗とのインタビューが主。残念ながら情報は少ないけれど、情緒は一杯あると思います。

  なぜ神楽坂プチ・パリなのか?
      坂・石畳、路地、運河……の魅力

パリを思わせるミステリアスな坂
 神楽坂はとてもパリに似ています。なんといっても共通点は坂。特にパリのムフタール通りモンマルトルは坂の多いところですが、神楽坂はその名の通り、坂の種類には事欠きません。朝日坂袖摺坂軽子坂地蔵坂赤城坂と、主な坂だけでもこんなにあります。私は熱海湯のところから鳥茶屋別亭を横に見て上がっていくフランス坂と呼んでいます。まさにフランス坂と私が命名したようにとてもパリの雰囲気をもっています。
 神楽坂には、他に三年坂逢坂弁天坂、なども、それぞれ表情の違う坂が面白い。

かくれんぼのような細い路地
 そして細い路地のある点。私のパリでの住まい、ムフタール通りと同じで、坂が多く小さな商店街の通りがあって、街のサイズがコンパクトなところです。神楽坂の大好きな三大横丁といえば、毘沙門の向かいから旅館和可菜へ抜ける兵庫横丁本多横丁からさらに入ったかくれんぼ横丁、そして、同じく肉まんで有名な五十番の脇から、本多横丁を右に曲がった芸者新道も、なかなか風情があります。少しアヴァンギャルドみちくさ横丁もいいですね。

迷宮入り(⁉)の石段
 神楽坂の曲がりくねった石段も面白い。
 兵庫横丁の石段の道は途中にもっと細い横道もあって迷子になりそうです。また私の大好きなフランス坂は、小栗通りの熱海湯のところから、S字型に昇っていく石段です。
 まるでモンマルトルのよう。曲がりくねった石段はミステリアス。石段の次に何かあるかわからない楽しみがあります。
 遠くまで見えないから突然未知のものがあらわれる。それが面白い。パリと同じで、新しい発見をする楽しみ。パリもそうだけど一つ場所を決めてスポットを発見するのも、散歩・プロムナードの楽しみです。

運河 日本ではお濠(お堀)
ムフタール通り Rue Mouffetard。パリ5区でレストラン、カフェ、市場などがあり、下町的に混雑して繁栄する地域
モンマルトル この丘を含む一帯の名前。セーヌ川右岸のパリ18区を構成。パリ有数の観光名所。鳥茶屋別亭 フランス坂(熱海湯階段、芸者小路)の中にあります。『拝啓、父上様』1話で、一平が働く料亭「坂下」の勝手口は実はこの鳥茶屋別亭の玄関でした。
フランス坂 ほかに「熱海湯階段」、「熱海坂」、「一番湯の路地」、「芸者小路」、「カラン坂」等という言い方があります。
アバンギャルド avant-garde。フランス語で、軍隊用語の「前衛」から。革新的、前衛的な芸術や芸術家たち。前衛派とも。
プロムナード promenade。散策。散歩道。遊歩道

東京俳優学校と牛込高等演芸館

かぐらむら』の「藤澤浅二郎と東京俳優学校」を読むと「東京俳優学校」や「牛込高等演芸館」についていろいろな情報が入ってきます。

藤澤浅二郎と東京俳優学校
神楽坂通りから光照寺に行く地蔵坂の右手の袋町3番地には、かつて、江戸時代から続く、牛込で第一と言われた寄席があった。夏目漱石が通い中流以上の耳の肥えたお客が集まったという「和良店亭」である。明治41年、新派の俳優、藤澤浅二郎は、この場所に、日本で初めての俳優養成所(後に私立東京俳優学校と改称)を開設した。この頃はまだ、江戸時代の慣習が色濃く、歌舞伎役者の地縁や血縁にある人だけが、芝居を行っていた。けれども文学の多様化により従来の型にはまらない、新しい表現のできる俳優が必要とされていた。

「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌
(「和良店亭」の席亭である竹本)小住の夫、佐藤康之助は、娘浄瑠璃の取り巻き「どうする連」の親玉だったと伝えられる。(中略)

洋風二階建ての「牛込高等演芸館」
(佐藤氏は)明治37~8年にはアメリカに遊学し、帰国後の39年暮れ、洋風二階建ての本格的な舞台を備えた「牛込高等演芸館」を新築した。地下に食堂を作り「セラ」という洋食屋を設け、翌年1月には盛大な開館式を行った。今でこそ、食堂の設置は常識だが、まだ、芝居といえば「お茶屋」を通して、という時代だったので人々の目には奇異に写ったという。 藤澤のこころざしを知った佐藤は、演芸館を破格の条件で提供することを申し出た。

東京俳優学校の開設
当初は、(藤澤氏は)西五軒町34番地の宏文学院跡での開校を考えていたが、舞台がないのが懸案だった。佐藤の厚意で、牛込高等演芸館の寄席の時間外を借り切る事になり、準備は順調に進められた。舞台は、間口4間奥行き3間ほどで、広い客席、桟敷付き2階とそれに続く大広間が2部屋。電話も自由に使わせて、舞台裏手奥に中2階の教室も新築してくれた。毎月の家賃は36円だった。生徒の終業年数は3カ年で、入学金5円、月謝は3円である。俳優養成所としてスタートしたが、明治43年3月に「私立東京俳優学校」に改称し、東京市の認可を得た。

入学前後の様子
生徒募集の反響は、予想以上に大きく、入学希望者は250名に上った。志願者は、湯島の藤澤邸で面談を受け、11月4日、選抜された35名に対して入学試験が行われた。午前中に学科:倫理、国学、英語又はドイツ語、午後は、実科:表情、しぐさ、台詞廻し、舞台度胸、役どころ、礼儀作法などが、当代一流の先生が並ぶ中で行われた。最終合格者は23名であった。
授業は11月11日から始まり、28日には客席を使って開所式が行われた。顧問の巌谷小波、新派の大御所や劇壇、文壇、劇評家達がずらりと並び、帝劇、有楽座、本郷座の幹部や、牛込区長、神楽坂警察署長も出席した。

授業の内容と生徒達
毎日、一日7時間、びっしりと行われた。学科は午前中で、倫理学、脚本解説、芸術概論、心理学(衣装や扮装の心理)音楽の心理、日本風俗史、有職故事、日本歴史(講師は前澤誠助:松井須磨子の二番目の夫)英語、フランス語。午後は実科で、藤澤による劇術、日本舞踊と扮装術(市川高麗蔵が、ロンドンから取り寄せたクラークソンの化粧箱を持って来て、英語まじりで化粧やヒゲのつけ方などを教えた)長唄(吉住小三郎)声楽(北村季晴、初子)清元(八木満寿女)義太夫(竹本小住)洋画(北蓮蔵)日本画であった。(中略)

赤字、そして閉校
生徒が30人程度で、月100円にも満たない収入では、家賃と講師陣の車代、事務費を出す事など、とうてい不可能だった。藤澤は、不足を補うために活動写真に出演して毎月100円を学校に入れた。当時、活動写真に出る事は「泥の上で芝居をする」として、舞台俳優からいやがられ、一度活動写真に出た者は再び舞台に立つ事は許されなかったが、藤澤だけは同情をもって許された。映画だけでは足りないので、舞台や巡業に休む間も無くなり、学校に顔を出す機会も減っていった。(中略)。
第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった。

『ここは牛込、神楽坂』第7号の「地蔵坂」で、高橋春人氏の「牛込さんぽみち」では

この坂の右側に、戦前まで「牛込館」という映画館があった(現・袋町3)。この同番地に、明治末から大正にかけて「高等演芸館・和良店」という寄席があった。この演芸館に「東京俳優養成所」というのが同居していた。

一方、同じく同号で、作家山下武は

牛込館の前身、牛込高等演芸館では藤沢浅二郎の俳優学校が設けられ、創作試演会が上演されたそうだ

西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

藁店わらだなに江戸期からだな亭という漱石も通った寄席があった。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを独力で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設し、ここの舞台に立つことは俳優を目指す者のあこがれになり、多くの俳優を育てた

と書いています。ただし「独力で高等演芸館に改装」したのは寄席「高等演芸館・和良店」の佐藤康之助氏でした。藁店(明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館)

野口冨士男の『私のなかの東京』ではこう説明されています。なお、野口冨士男が誕生したのは明治44年7月です。

藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店という小さな寄席があった。映画館の牛込館はその二,三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五〇年九月30日発行の『週日朝日』増刊号には、≪明治39年の「風俗画報』を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正時代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。

紅谷研究家の谷口典子氏は「かぐらむら」平成25年4・5月第67号で

高等演芸館は、地域に大きな文化交流の場をもたらせたものの、個人で維持運営するには負担が大き過ぎた。藤沢の俳優養成所も経費がかさみ、莫大な負債を抱えて閉校に追い込まれる。高等演芸館は再度改築され、大正三年六月、人々の憧れの的、帝国劇場を参考に豪華な映画館「牛込館」に姿を変えた。しかし、映画もまだ充分な質量のフィルムが確保出来る時代ではなかった。2年後、廉之助は、日活に自宅を含む土地建物をすべて売却すると興行の世界から姿を消した。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年➆

 また、毘沙門前の🏠毘沙門せんべいと右角の囲碁神楽坂倶楽部とのあいだにある横丁の正面にはもと大門湯という風呂屋があったが、読者には🏠本多横丁🏠大久保通りや🏠軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、🏠毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。
 神楽坂通りにもどると、善国寺の先隣りは階下が果実店で階上がレストランの🏠田原屋である。戦前には平屋だったのだろうか、果実店の奥がレストランであったし、大正時代にはカツレツやカレーライスですら一般家庭ではつくらなかったから、私の家でもそういうものやオムレツ、コキールからアイスクリームにいたるまで田原屋から取り寄せていた。例によって『神楽坂通りの図』をみると、つぎのような書きこみがなされている。

(略)開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門、六代目先々代歌右ヱ門松永和風水谷八重子サトー・ハチロー加藤ムラオ(野口註=加藤武雄と中村武羅夫?)永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生が京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅川清吉氏の“手紙”から)

麻布の龍土軒国木田独歩田山花袋らの龍土会で高名だが、顔ぶれの多彩さにおいては田原屋のほうがまさっている面があると言えるかもしれない。夏目漱石が、ここで令息にテーブル・マナーを教えたという話ものこっている。

逍遥 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。
白山 はくさん。文京区白山。山の手の花柳界の1つ
遭遇 そうぐう。不意に出あう。偶然にめぐりあう

4.5丁目

田原屋 せんべい 毘沙門横丁 尾沢薬局 相馬屋紙店 藁店 武田芳進堂 鮒忠 大久保通り

観世元滋 戦前の観世流能楽師。生年は1895年(明治28年)12月18日。没年は1939年(昭和14年)3月21日。
羽左ヱ門 市村羽左衛門。いちむら うざえもん。歌舞伎役者。十五代目の生年は1874年(明治7年)11月5日、没年は1945年(昭和20年)5月6日。十六代目の生年は1904年(明治37年)1月15日、没年は1952年(昭和27年)10月2日
歌右ヱ門 中村歌右衛門。なかむら うたえもん。歌舞伎役者
松永和風 まつなが わふう。長唄の名跡
加藤ムラオ 加藤武雄中村武羅夫の2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。
万竜 まんりゅう。京都ではなく東京の芸妓。明治40年代には「日本一の美人」の芸妓と呼ばれたことも。生年は1894年7月。没年は1973年12月。
龍土軒

明治33年、麻布にあるフランス料理。田山花袋、国木田独歩などが使い、自然主義の文学談を交わした龍土会が有名。

 いまも田原屋の前にある🏠尾沢薬局が、その左隣りの位置にカフェー・オザワを開店したのは、震災後ではなかったろうか。『古老の記憶による震災()の形』と副題されている『神楽坂通りの図』にもカフェー・オザワが図示されているので、震災前か後か自信をぐらつかせられるが、その店はげんざい🏠駐車場になっているあたりにあって、いわゆる鰻の寝床のように奥行きの深い店であったが、いつもガラス戸の内側に白いレースのさがっていたのが記憶に残っている。
 記憶といえば、昭和二年の金融恐慌による取附け騒ぎで、尾沢薬局の四軒先にあった東京貯蓄銀行の前に大変な人だかりがしていた光景も忘れがたい。その先隣りが紙屋から文房具商になった🏠相馬屋で目下改築中だが、人いちばい書き損じの多い私は消費がはげしいので、すこし大量に原稿用紙を購入するときにはこの店から届けてもらっている。
 相馬屋の前にある坂の正式名称は🏠地蔵坂で、坂上の光照寺地蔵尊があるところから名づけられたとのことだが、一般には🏠藁店(わらだな)と俗称されている。そのへんに藁を売る店があったからだといわれるが、戦前右角にあった洋品店の増田屋がなくなって、現在ではその先隣りにあった🏠武田芳進堂書店になっている。また、左角に焼鳥の🏠鮒忠がある場所はもと浅井という小間物屋で、藁店をのぼりつめたあたりが袋町だから、矢田津世子の短篇『神楽坂』はそのへんにヒントを得たかとも考えられるが、それについてはもうすこしあとで書くほうが読者には地理的に納得しやすいだろう。
 藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店亭という小さな寄席があった。映画館の🎬牛込館はその二、三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五十年九月三十日発行の「週刊朝日」増刊号には、≪明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。早川雪洲の主演作や、岡田嘉子山田隆哉と共演した『髑髏(どくろ)の舞』というひどく怖ろしい日本映画のほか、多くの洋画を私はここでみている。映画好きだった私が、恐らく東京中でもいちばん多く入場したのは、この映画館であったろう。その先隣りに、たしか都館といった木造三階建ての大きな下宿屋があったが、広津和郎が自伝的随想『年月のあしおと』のなかで≪社員を四人程置≫いて出版社を主宰していたとき関東大震災に≪出遭った≫と書いているのは、この下宿屋ではなかったろうか。そのなかには、片岡鉄兵もいたと記されている。

鰻の寝床 うなぎのねどこ。間口が狭くて奥行の深い家のたとえ
色物 色物寄席。落謡、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席。色物寄席がそのまま現在の寄席になりました。

震災前 関東大震災が起きたときには神楽坂は全く無傷でした。なかには震災後の場所もありえると思います。
駐車場 Pカフェー・オザワは、4丁目にある店舗です。1978年の住宅地図ではカフェー・オザワはタオボー化粧品に変わり、左の駐車場ではありません。
風俗画報 以下の通りです。

L

早川雪洲 早川雪洲はやかわ せっしゅう。映画俳優。 1909年渡米、『タイフーン』 (1914) の主役に。以後米国を中心に、『戦場にかける橋』など多くの映画や舞台に出演。生年は明治19年6月10日。没年は昭和48年11月23日で、87歳。
山田隆哉 文芸協会の坪内逍遥に師事、演劇研究所の第1期生。松井須磨子と同期に。,岡田嘉子と共演の「出家とその弟子」が評判に。昭和11年、劇団「すわらじ劇園」に参加。生年は明治23年7月31日。没年は昭和53年6月8日で、87歳。
髑髏の舞 1923年(大正12年)製作・公開。田中栄三監督のサイレント映画

夢をつむぐ牛込館

文学と神楽坂

1975年9月30日、『週刊朝日』増刊「夢をつむいだある活動写真館」で牛込館について出ています。初めて神楽坂の牛込館の外部、内部や観客席も写真で撮っています。

 

週刊朝日 むかしの映画館は、胸をわくわくさせる夢をつむぐ(やかた)であった。暗闇にぼおっと銀色の幻を描いた。
 東京・神楽坂にあった牛込館もそういった活動写真館の一つだった。もちろん、今は姿かたちもない。写真を見ると、いかにも派手な大正のしゃれた映画館に見える。
 これを、請け負ったのは清水組。その下で働いていた薄井熊蔵さんが建てた。薄井さんはことし五月、九十四歳で亡くなった。できた当時のことを、聞くすべもない。さいわい、つれそいの薄井たつさん(八四)が世田谷の三軒茶屋近くに健在だときいて訪れた。
「さあね、大正十年ぐらいじゃなかったかね。そのころ広尾に住んでましたけど、いい映画館を造ったのだと言って、そのころ珍しい自動車に乗せられて見に行きましたよ、ええ。まだ興行はやってなかったけど、正面玄関とか館内にはいって見てきましたよ。シャンデリアつて言うのですか、電灯のピカピカついたのがさがっていましたし、たいしたもんでしたよ。行ったのは、それ一回でしたけどねえ」
 なんでも当時の帝国劇場を参考にして、それをまねて造ったというのだが……

観客席

観客席


帝国劇場のことが少し入り

 この牛込館が十年ごろ完成したことになると、震災の時はどうだったのか。あるいはその後ではなかったのか。たつさんの記憶もたしかではない。もっとも神楽坂方面は震災の被害は少なかったともいわれるが……
 文士が住んだ街
 昭和の初期、この館を利用した人は多い。映画プロデューサー永島一朗さんも、そのひとりだ。
「そうねえ、そのころ二番館か三番館だったかな。私は新宿の角筈に住んでいて、中学生だったかな、七銭の市電に乗るのがもったいなくて、歩いて行ったものですよ。当時は封切館は五十銭だったが、牛込館は二十銭だった。新宿御苑の前に大黒館という封切館がありましたよ。
 どんな映画を見たか、それはちょっと覚えてないなあ。牛込館はしゃれた造りではあったが、椅子の下はたしか土間だったですよ」
 おもちや研究家の斎藤良輔さんも昭和五、六年ごろから十年にかけて早稲田の学生だったので、ここによく通ったそうだ。
「なんだか〝ベルサイユのばら〟のオスカルが舞台から出てくるような、古めかしいが、なんだかしゃれた感じがありましたよ。そのころ万世橋のシネマパレスとこの牛込館が二番館か三番館として有名で、われわれが見のこした洋画のいいのをやっていました。客は早稲田と法政の学生が多かったな。神楽坂のキレイどころは昼間も余りきてなかったな。ちょうど神楽坂演芸場という寄席ができて、そこに芸術協会の金語楼なんかが出ていて、そっちへ行ってたようだ」
 この神楽坂、かつては東京・山の手随一の繁華街で、山の手銀座といわれた時代があった。昭和四年ごろから、次第にその地位を新宿に奪われていった。関東大震災前から昭和十年にかけて、六大学野球はリーグ戦の華やかなころ、法政が優勝すると、軒なみ法政のちょうちんが並び、花吹雪が舞った。早稲田が勝てば、Wを描いたちょうちんで優勝のデモを迎えた。
 また日夏耿之介三上於莵吉西条八十宇野浩二森田草平泉鏡花北原白秋などの文士がこの街に住み、芸術的ふん囲気も濃く、文学作品の舞台にもしばしばこの街は登場している。
 だから、牛込館はそういった街の空気を象徴するものでもあった。
 明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向こうに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。
 かつての牛込館あとをたずねて歩いた。年配のおばあちゃんにたずねると、土地の人らしく、「ええ、おぼえてますとも」と言って目をかがやかせる。空襲で焼かれるずっと前に、牛込館はこわされて、消えて行った。そのあとに、今も残っている旅館が二軒。それがかつて若い人たちが、西欧の幻影を追いもとめた夢まぼろしの跡である。

二番館 一番館(封切り館)の次に、新しい映画を見せる映画館

写真は最初の1枚を入れて4枚。牛込館

牛込館内部

牛込館の内部

牛込館の前に記念撮影

牛込館の前で記念撮影

映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館

地蔵坂|由来

なぜ地蔵坂という名前になったのでしょうか。芳賀善次郎作の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』三交社、昭和47年(1972年)によると

十二 化け地蔵の出た地蔵坂   (袋町)光照寺の子安地蔵
毘沙門天の先を左折する。そこを進むとまもなく坂になる。右側の松竹荘一帯は、戦前牛込館という映画館があったところである。
 ここからの坂道を地蔵坂というが、その地名由来にはつぎのような伝説がある。
 この坂には、夜になると時々地蔵様が上ったり下りたりする。この地蔵、人に出会うと声をかけたり、入道姿になって笑い出したりするので近所の人は怖がって夜になると通らなかった。
 これは、坂上左手にある光照寺境内にすむタヌキの化け地蔵であった。光照寺には、鎌倉時代の名作、初代安阿弥作と伝える子安地蔵(延命安泰地蔵)が安置してある。昔はお産と子どもの病気に効験があると人気があり、寺は参詣者でにぎわった。
 ところが 光照寺境内榎林の中にすんでいるタヌキどもは、寺にくる参詣者があまりにも多いので、めったに穴から外に出られない。何とかしてこの人たちが来ないようにと考えた一策だったという。
 享和のころ(一八〇一~三)、近くの払方町に住んでいた武士がこれを聞いて、日暮れにこの坂を通ってみた。ところが案の定、地蔵様が錫杖(しゃくじよう)をガジャンガジャンと突きながら坂を上ってくる。武士はこれこそ例の化け地蔵と思い、すれ違うや否や刀を抜いて切りつけた。するとその地蔵、とっさに持っていた錫杖でこれを受け止めた。武士はまた切りつけようとすると、こんどは「これこれ何をなさる」と声をかけられた。
 よく見ると、それはタヌキではなく、日ごろ懇意にしていた仲間だったのである。武士はわけを話し、自分の粗忽をあやまったということである。懇意な仲間に化けたのか、本物の仲間かは分らないが、この話を伝え聞いた人たちは、それ以後ここを地蔵坂と呼ふようになったという。宝歴年間の「鶏鳴旧蹟志」(著者不明)という本に出ている話である。
[参考] 江戸の口碑と伝説   新宿と伝説

正保2年(1645)、牛込城の跡地に神田もとせいがん前(現・千代田区神田須田町一丁目)から光照寺が移転してきました。光照寺の子安地蔵(木造地蔵菩薩坐像)は鎌倉時代の仏師・初代(あん)()()(快慶)作といわれています。元は近江(滋賀県)のでらにあったのですが、江戸時代に芝・増上寺に移動、正徳年間(1711~16)に増上寺の末寺である光照寺に安置されました。

昭和44年、新宿区教育委員会の「新宿と伝説」によれば

光照寺の子安地蔵は、延命安泰地蔵ともいう。鎌倉時代の名作で、初代安阿弥の作だと伝えられている。
 この地蔵は、もと三井寺にあったもので、後宇多天皇(鎌倉時代。在位1274-87)の皇后がご難産で苦しまれた時、京都中の名僧を集められて、ご安産を祈られたのであるが、あまりおもわしくなかったという。ところがある夜、皇后の枕べに白髪の翁が現れ、「ご難産でお困りのことでしょうから、これをさしあげましょう」といわれ、夢からさめた皇后の手に1つの宝珠があったという。するとまもなくお苦しみが薄らぎ、玉のような皇子をご安産なされたという。その後、この地蔵は、どうした因縁か、三井寺から芝の増上寺に移され、さらに光照寺に安置された。
 昔は、お産と子供の病気に効験あらたかだというので参拝者がたえなかったといわれ、この伝説は、この子安地蔵に結びつけた創作であろう。

地蔵坂 光照寺 散歩 都々逸と写し絵 和良店、牛込高等演芸館、牛込館 ワラダナは1軒それとも100軒 新坂 日本出版クラブ会館

袋町|光照寺

文学と神楽坂

光照(こうしょう)()です。はいる手前で右手は光照寺の碑、左手は新宿区登録史跡があります。場所はここです。 光照寺の碑

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録史跡
(うし)(ごめ)(じょう)(あと)

    所 在 地  新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和六十年十二月六日

 (こう)(しょう)()一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
 堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
 牛込氏は、赤城山の(ふもと)上野国(群馬県)勢多(せた)大胡(おおご)の領主大胡氏を祖とする。天文年間(一五三二~五五)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文二十四年(一五五五)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正十八年(一五九〇)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。
 現在の光照寺は正保二年(一六四五年)に神田から移転してきたものである。
 なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「(しょ)(こく)(りょ)(じん)()(よう)()」、「便(べん)(べん)(かん)()()()の墓」などがある。

平成七年八月     東京都新宿区教育委員会

 では中に入ってみると最初に鐘楼(しょうろう)堂が見えます。やはり説明文が出ています。

 光照寺は慶長八年(一六〇三年)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺寺町に起立、正保二年(一六四五年)ここ牛込城跡に移転してきました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開基の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名から由来するものです。
 鐘楼堂は、明治元年(一八六八年)神仏分離令の発布に伴って各地に起こった廃仏毀釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。その後、六十年の歳月を経て昭和十二年(一九三七年)に復興を見ましたが、昭和二十年(一九四五年)第二次世界大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。
 梵鐘(富樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還され永く境内に保存されていましたが、この度の鐘楼堂の新築により復元しました。

    平成五年(一九九三年)一月 浄土宗 光照寺

鐘楼堂と本堂

水 拝啓、父上様では第9話で出てきます。

石畳の道
  除夜の鐘がゴーンと、神楽坂に流れる。 
 り「2007年の元旦を、僕は1人でアパートで迎えた。
  地蔵坂にある光照寺から響く除夜の鐘が、神楽坂一帯に流れており」
 
神楽坂・裏路地
  門松。
  しんと眠っている。
 り「拝啓。
  父上様。
  除夜の鐘です」

では左側から右側に見ていきましょう。まず、Googleの航空写真です。 ①最初は左奥にある諸国旅人供養碑です。

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 歴史資料 諸国(しょこく)旅人(りょじん)()(よう)()

         所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日  昭和61年6月6日

 神田松永町の旅籠(はたご)()紀伊(きの)(くに)()主人(しゅじん)利八(りはち)が、旅籠屋で病死者の菩提(ぼだい)をともらうため、文政八年(一八二五年)に建立(こんりゅう)した供養碑である。
 はじめは、文政二年(一八一九)から建立までの七年間に死亡した六名の名が刻まれ供養されたが、その後死亡者があるたびに追刻され、安政五年(一八五八)まで合計四十九名の俗名と生国が刻まれた。
 当時は旅先で客死する例が多く、これを示す資料として、また供養塔として貴重なものである。
 なお、当初は「紀伊国屋」と記した台座があったが、現在は失われている。

   平成七年八月 東京都新宿区教育委員会
諸国旅人供養碑諸国旅人供養碑2 ②狂言師「便(べん)(べん)(かん)()()()(はか)」は諸国旅人供養碑のすぐ右奥に建っています。

便々館湖鯉鮒の墓文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク) 新宿区登録史跡 便(べん)(べん)(かん)()()()(はか)

  所 在 地 新宿区袋町15番地 登録年月日 平成二年三月二日

 江戸時代中期の狂言師便々館湖鯉鮒は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延二年(一七四九)に生まれた。
 幕臣で小笠原若狭守支配、禄高一五〇俵、牛込山伏町に居住した。
 はじめ朱楽菅江門下で狂歌を学び、福隣堂巨立と名乗った。
 その後故あって唐衣橘州門下に変り、世に知られるようになった。
 大田南畝と親交があり、代表作「三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中」は、南畝の筆になる文政二年(一八一九)建立の狂歌碑が西新宿の常圓寺にあり、区指定文化財に指定されている。
 文化一五年(一八一八)四月五日没した。享年七〇歳であった。
 墓石は、高さ一五二センチである。

     平成三年一月 東京都新宿区教育委員会

なお、大田南畝、別号は蜀山人はここで転んだら子供が手をたたいて喜び、そこで狂歌を1句詠みました。

こどもらよ笑はば笑へわらだなのここはどうしょう光照寺前

③これから少し前に行くと、奥右筆(おくゆうひつ)の「大久保北隠(ほくいん)」の墓があります。石庭のようにいくつもの石が並べてあり、一見して墓には見えません。徳川家の奥右筆であり、茶道の奥義を極めた大久保北隠の石庭風の墓です。大正6(1917)年没、享年81歳。 奥右筆という肩書きについて右筆(ゆうひつ)とは、武家の秘書役を行う文官のこと。徳川時代には一般行政文書の作成を行う既存の「表右筆」と、将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う「奥右筆」に分かれます。特に奥右筆は表右筆より一段上の位です。将軍への文書取次ぎは側用人か奥右筆のみが行なうことになっていました。 大久保北隠墓④さらに右に進みます。奥田抱生墓 本堂の奥に三角形の形をした奥田抱生墓があります。その墓碑には奥田抱生の一生を概略を漢文で書いたものです。 奥田は文政8(1825)年10月10日生まれ、儒学者奥田大観の子であり、儒大観に学び、文教家で金石学研究家。魚貝や書画骨董を収集し、漢詩漢文を教え、上京して牛込に住み読書・旅行・古器物の研究し、考古学の先駆者です。 著書には「今瓦譜(いまがわらふ)」、「日本金石年表」、「明清書画名家年表」など。 昭和9(1934)年没、享年75歳。

さらに中央に進みます。 森敦の墓森敦の碑文⑥森(あつし)は作家で、明治45年生まれ。昭和49(1974)年、61歳で芥川賞を「月山」で受賞しました。平成元年没。享年76歳。右側にある碑文は

われ浮き雲の如く
放浪すれど こころざし
    常に望洋にあり
      森 敦

⑦本堂左側に東京都教育委員会が案内板2枚を書いています。

木造地蔵菩薩坐像(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 彫刻
(もく)(ぞう)()(ぞう)()(さつ)()(ぞう)
所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日 平成9年3月7日
 (よせ)()造り、(くろ)(うるし)塗り。像高三一センチ。一三世紀末(鎌倉時代)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。
 寺伝によると、この像はもともと近江国()()(でら)にあり、()()()天皇の皇后が弘安(こうあん)年間(一二七八~八八)に、のちの()二条(にじょう)天皇を出産する際、難産であったため、この像に祈ったところ無事出産されたところから「泰産(たいさん)地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺(ぞうじょうじ)に移され、正徳(しょうとく)年間(一七一一~一六)に増上寺の(まつ)()である光照寺に安置され、「安産子育地蔵」として信仰をあつめた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである。

木造十一面観音坐像(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 彫刻
(もく)(ぞう)(じゅう)(いち)(めん)観音(かんのん)坐像(ざぞう)
登録年月日 平成9年3月7日
 一木(いちぼく)造り、素木(しらき)仕上げ。像高七〇センチ。一八世紀末(江戸時代後期)の作品で作者は木食(もくじき)明満(みょうまん)である。明満(一七一八~一八一〇)は、円空(えんくう)とならび称される(ぞう)(ぶつ)(ひじり)で、全国を旅して(なた)彫りの仏像を約千体彫ったと伝えられる。 平成九年五月 新宿区教育委員会

地蔵坂のいわれになっている子安地蔵は本堂に安置しています。子安地蔵は別の場所で書いています。

阿弥陀三尊来迎図(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画
 ()()()(さん)(ぞん)(らい)(ごう)()
所 在 地 新宿区袋町十五番地
指定年月日 平成十年二月六日
 絹本(けんぼん)着色、木製の板に貼り付けられた状態で、厨子(ずし)に納められている。縦一〇二・二センチ、横三九・四センチ(画像寸法)。
 画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至の二菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎えるために降りて来る)様子を描いたもので、一四世紀後半(室町時代)の作品と推定される。

法然上人画像(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画
法然ほうねん上人しょうにん画像がぞう
指定年月日 平成一〇年二月六日
 絹本(けんぼん)着色、掛軸(かけじく)装されている。縦八九・五センチ、横四一・三センチ(画像寸法)。 浄土宗の宗祖(しゅうそ)法然上人の肖像で、一五世紀後半(室町時代)の作品と推定される。    平成一〇年三月 新宿区教育委員会

海ほおずき

⑦自動車が駐車する場所で光照寺の鐘楼堂の右隣には「海ほおずき供養塔」が建っています。昭和16年7月に東京のほうずき業者が建てたものです。 海ほおずきとはテングニシという巻き貝の卵嚢です。この卵嚢を口に入れてキュッキュと音を出して遊びます。神楽坂の縁日で飛ぶように売れたため業者が供養しました。 ここの檀家にその業者がいて、そこで都内販売同業者41店主が発起人になってやることになり、毎年7月の浅草でほおずき市が終わると供養をしていました。現在住職がひとりで盆に供養しています。

⑧最後に右奥にある出羽の松山藩主(山形県飽海(あくみ)松山(まつやま)(まち))酒井家(大名家)の墓です。広さ150坪におよびます。現在は出入りはできず、外から内部を覗くだけです。 出羽守酒井家の墓石

   お知らせとお願い
此れより先立ち入り禁止

墓石が古く、先の東日本大震災により1部転倒し大変不安定
で危険になっております。
関係者以外立ち入りを禁止いたします。

               当山住職

 平松南氏は 「神楽坂をめぐる・まち・ひと・出来事」の一章でこう書いています。 

 光照寺の住職は、代々直系が継承している。現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。
 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。
 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。
 光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。
 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。末裔さんは恬淡として静寂であった。
 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。

切支丹の仏像については別に書きます。鈴木桃野の墓石の場所はまだ不明です。

新坂

地蔵坂|散歩

文学と神楽坂

地蔵坂(別名、藁坂(わらさか)藁店(わらだな))を下から上まで散歩しましょう。場所はここです。最初は神楽坂5丁目が出てきます。

現在「かぐらちゃか餃子庵」。その前は和カフェ「かぐらちゃか」。さらに前は「もん」で、店長のお父さんが神楽坂2丁目のペコちゃんの店主。以前は「あかつき」でした。

餃子庵

上海ピーマン

なんと神楽坂5丁目の右側はこれで終わりです。代わりに右側は「袋町」になります。

では、神楽坂5丁目の左側は? 「上海ピーマン」は安いと有名。店舗が小さいのも有名。

さらに散髪屋と懐石料理店「真名井(まない)」があります。
G

小林石工店は安政時代でもやっていました。やはり光照寺があるからなのでしょうか。
小林石工店1

以上、神楽坂5丁目の左側です。これからは「袋町」です。袋町は豊嶋郡野方領牛込村と呼びました。この地の寄席「和良店」には江戸後期、写し絵の都楽や、都々逸坊扇歌が進出しています。寄席文化が花開いた場所なのです。
最初は「肉寿司」。肉寿司

以前は八百屋「丸喜屋」でした。いつも野菜や果物でいっぱいになった店舗でした。
丸喜屋2

続いて、イタリア料理店のAlberini。Alberini
鳥竹とりたけの魚河岸料理・鳥料理、そのマンションの奥には「インタレスト」や「temame」など3軒。
temame

ブティック・ケイズは婦人服の店兼白髪ファッション。へー、NHKの「ためしてガッテン」にも出ていたんだ。平成12年の「着やせ術」についてでています。
keys

このブティック・ケイズが入るリバティハウスと、フランス料理のカーヴ・ド・コンマが入る隣の神楽坂センタービルは昔は1つの建物でした。昔は和良店(わらだな)から、藁店・笑楽亭、牛込高等演芸館、牛込館に変わりました。異論があるので別に項を変えて書きます。
カーヴ・ド・コンマ

坂本歯科も今も続き、「ギャルリー(ファン)」はギャラリーブティックでしたが、閉店に。現在は彫刻家具「良工房」になりました。
良工房

また、反対側は小さなカフェがあり、別のヘアーの専門店「ログサロン」。ログサロン
標柱もたたっています。

地蔵坂(じぞうざか)
この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。そこにちなんで地蔵坂と呼ばれた。また、(わら)を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。

ここで標柱の上と下をみておきます。
坂2
上には手焼き煎餅の「地蔵屋」も見えます。
坂1
さらに上に上がって光照寺、反対側には同じ標柱があります。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は…

(13/6/7)→(13/10/13)

地蔵坂|和良店

「和良店」です。2010年の「かぐらむら」今月の特集「藤澤浅二郎と東京俳優学校」では

「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌
江戸で最初に出来た寄席は、寛政10年(1798)、櫛職人の可楽が、下谷神社境内に開いたとされている。和良店亭の設立時期は判っていないが、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都々逸坊扇歌が初看板を挙げ、美声の都々逸に加え、冴えた謎かけを披露し、以後一世を風靡しており、天保年間には「わら新」で、義太夫の興行が行われたという。明治を迎えると、「藁店・笑楽亭」と名前を変えて色物席となる。明治21年頃、娘義太夫の大看板である竹本小住が席亭になり、24年に改築し「和良店亭」とした。
小住の夫、佐藤康之助は、娘浄瑠璃の取り巻き「どうする連」の親玉だったと伝えられる。旧水戸藩御用達で六十二銀行を設立した佐藤巌の長男として、商法講習所(現:一橋大学)で学ぶが、親の銀行を数年で辞め、その後、どうにも腰が落ち着かない。ついに、親が根負けして名流の寄席を持たせ小住との生活を黙認したようにも思える。

都々逸坊扇歌は別に扱います。また、色物(いろもの、いろもん)とはウィキペディアによれば「寄席において落語と講談以外の芸、特に音曲を指す。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字で書かれていたが、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていたのを転じて、そう呼ぶようになった」ようです。

夏目漱石の『僕の昔』では

落語はなしか。落語はすきで、よく牛込の肴町さかなまち和良店わらだなへ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席よせはたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。

ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会では

山本 それから写真屋をなさっていた富永さんに伺ってきたんですが、牛込館の隣には、神楽坂演芸場というのがあって、それが後に引っ越して神楽坂を上りきった宮坂金物店の横の方へ移ったそうです

同号で高橋春人氏の「牛込さんぽみち」では

この坂の右側に、戦前まで「牛込館」という映画館があった(現・袋町3)。この同番地に、明治末から大正にかけて「高等演芸館・和良店」という寄席があった。この演芸館に「東京俳優養成所」というのが同居していた。

一方、同じく同号で 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

藁店わらだなに江戸期からだな亭という漱石も通った寄席があった。

藁店(明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館)

野口冨士男の『私のなかの東京』ではこう説明されています。なお、野口冨士男が誕生したのは明治44年7月です。

藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店という小さな寄席があった。映画館の牛込館はその二,三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五〇年九月30日発行の『週日朝日』増刊号には、≪明治39年の「風俗画報』を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正時代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。

 

神楽坂の通りと坂に戻る場合は…

藁店(わらだな)は1軒それとも10軒

文学と神楽坂

 藁店は「わらだな」と呼んでいます。現在は固有名詞として使っていますが、本来は、一般名詞の「わらを売る店」のことでした。このわらを売る店、どこにあったのでしょうか。いったい何軒あったのでしょう。

 明治20年の内務省地理局の地図をみてみましょう。ここには「わら店横町」がでています。また、坂は地蔵坂です。さらに一個の「・」がついた「わら(だな)」がありました。

藁店。明治20年。内務省地理局の地図

西村和夫の神楽坂』では江戸時代、「善国寺の裏一帯は藁店(わらだな)という菰筵を商う町屋があり賑わいをみせていた」と書いています。藁店は一戸か数軒か、わかりません。なお、菰筵こもむしろとは(わら)やイグサ、真菰(まこも)などの草で編んだむしろ(筵/莚/蓆/席。敷物の一種で、わら、()(すげ)、竹などを編んで作るもの)のこと。
 「東京神楽坂ガイド」では「その藁店が多いから藁坂なのかと想像しています」と書き、ウィキペディアでは「江戸時代には地蔵坂に牛込肴町に属する町屋があり、藁を売る店が多かったことから『藁店(わらだな)』と呼ばれた」と書いています。 これらは数軒あったとかいています。
 一方、「東京10000歩ウォーキング」では「『藁店』の呼称は坂上に近い小林石工店の付近で藁を売っていたからだ」と書いています。一軒でもおかしくありません。
 大げさに言うとかたや数軒、かたや1軒で、すごく大違いがあると思いますよね。 しかし、一番正確な説明は『ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会です。ここで山本犬猫病院の山本氏と小林石工店の小林氏が登場します。

山本氏 藁店というのは、昔、石屋の小林さんあたりで、藁を売っていたからなんですね。というのは、この先の出版社や三沢さんというお宅があるあたりの両側は馬が水を飲むところだったんです。これは区で調べれば分かります。で、馬や牛が通ったわけですが、昔は蹄鉄なんてありませんから、藁を使ったんでしょう。人間のわらじというより、おそらく馬や牛のための藁を商うところがあったんだと思います。
小林氏 で、当時うちの前で、車を引く馬や牛にやる藁を一桶いくらかで売っていたので、あの坂を藁店と呼ぷようになったと聞いています。うちも確か20年くらい前までは、藁店さん、石鐵さんと呼ばれていました。

藁店ワラダナと小林石工店 文政十年(1827)の『牛込町方書上』によれば

里俗藁店と申候、前々ゟ藁売買人居候故、藁店与唱申候

と出てきます。明治維新より40年の昔から「藁店」という言い方は使っていました。なお、ゟは平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)で、発音は「より」です。 どうも「藁店」は石工店の前で、藁を売っていたのは従業員は多くても石工店の前なので一軒、せいぜい二軒もあればよかったと思います。内務省地理局の地図を見るとわら店は1軒だけで、ほかの多数は「わら店横町」になったことも可能です。で、私は、わら店は1軒だけだと考えて、一票を入れたいと思います。まあ、どうでもいいことでした。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は……