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神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。

神楽坂の地図。石畳と坂

名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 迷信から。神楽坂からはちょっと離れています
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から
神楽坂の通りと坂でさらに多くをまとめています

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神楽坂|かくれんぼ横丁とから傘横丁の由来

文学と神楽坂

この路地裏が「かくれんぼ横丁」という名前になったのは2つの、まあいえる理由があります。

一つは、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では、

この路地内に都で初の五つ子の母の実家があり、実家の路地でこの五つ子がかくれんぼ遊びをしていたので祖父、森川安男さんは「かくれんぼ横丁」と呼んだ

というものです。

もう1つは、山口則彦氏の

やはり料亭街のこの名前は、子供たちがかくれんぼをして遊んだからという説もあるんですが、お忍びで遊びに来たような人を後ろからつけていても、横にちょっと入るといきなり目の前から消えてしまうから、というのが本当のようです。

というものです。

西村和夫氏は『雑学 神楽坂』では

入り組んだ街中で突然前方を歩く人が、家並に隠れて見えなくなるという町に遊び心から地域の住人が付けた愛称である

「神楽坂まちの手帖」第15号の座談会「路地歩きAtoZ」では

持田 (かくれんぼ横丁在住49年のアマチュア写真家) うちの路地をみんな「かくれんぼ横丁」って呼ぶんですけど、あれは住んでる人間が知らないうちに名前がついてたんですね。
金原 (法政大学教授) 誰がつけたんでしょうね。
持田 二十四、五年前に、うちの奥の森川さんって家に五つ子ちゃんが生まれたんです。日本テレビがずっと追いかけて番組を作ったんですけど、その時に森川さんのおじいさんが名付けたそうです。孫たちとかくれんぼして遊ぶから、かくれんぼ横丁って。それがテレビで広まったんですね。
平松 (手帖の編集長) 勝手に名前がついちゃうっていうのは、そこに住んでる側としていやなものですか。
持田 べつに悪い名前じゃないですし、愛称があったほうが親しみやすいと思いますよ。

やはり『森川安男さんが「かくれんぼ横丁」と呼んだ』ほうが正しいようです。

なお、『ここは牛込、神楽坂』では「寿司幸」のある路を『から傘横丁』と名前をつけています。理由は傘がほしてあったから。なるほど。かくれんぼnew

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文学と神楽坂

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『神楽坂まちの手帖』…けやき舎、平松南さんが編集長

文学と神楽坂

『神楽坂まちの手帖』はけやき舎が編集・発行する季刊誌です。03年4月から07年12月まで続きました。第18号が最後です。編集長の平松南氏が体調を崩し入院しました。現在はインターネット用の『週刊 神楽坂ニュース』に変わっています。
 
「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は本当にプロが書いた文章です。
http://blog.livedoor.jp/m-00_33187/
本編で『神楽坂まちの手帖』から参照したものは
神楽坂 長~い3丁目

18号の特集をすべて書いておきます

1号。神楽坂の路地の魅力・全解剖。神楽坂界わい らーめん徹底ガイド
2号。神楽坂でフランスを探す 3号。和が息づくまち・神楽坂
4号。坂を思いっきり楽しむ 5号。坂歩き名人の散歩術
6号。落語と神楽坂 7号。お江戸の歴史と神楽坂
8号。神楽坂の街を支える古建築 9号。街を元気にするクラッシックの音楽力
10号。復活! 神楽坂の水辺 11号。街を元気にする<アートパワー>
12号。昭和三十年代とその周辺 僕らの育った神楽坂
13号。街なかで学ぼう カルチャーで花盛り 14号。神楽坂と本
15号。神楽坂の路地・その魅力の全て 16号。江戸城と神楽坂。
17号。漱石と早稲田・神楽坂 18号。「西歐的」小交差点を神楽坂に探す

つぎは
『神楽坂がまるごとわかる本』
『神楽坂まちの手帳』
『西村和夫の神楽坂』と『雑学 神楽坂』
歴史と地理については

文学と神楽坂

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神楽坂|兵庫横丁 と 兵庫町…想像図なんです

文学と神楽坂

兵庫はひょうごだと兵庫県でいいのですが、へいこ、ひょうご、つわものぐらだと兵器を納めておく倉、兵器庫になります。では兵庫横丁と兵庫町は?新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」で

神楽坂五丁目
神楽坂三・四丁目の西側、大久保通りまでの地域で、神楽坂の両側に広がる。江戸時代は武家地の他、神楽坂の両側および現大久保通りに面した横町の計五か所に分かれて牛込肴町が、神楽坂の北側に行元寺門前および寺地があった。
牛込肴町 家康の関東入国以前からの町屋で、はじめ兵庫町といったがその起立は不明。古くは豊島郡野方領牛込村内にあった村が、その後町屋になつたという。家康江戸入りの際には既に兵庫町と唱え、当時から肴屋が多く住む町屋だった。三代将車掌光の時代 家光御成のたびごとに肴を献上したため、今後は肴町と改めるよう酒井出居から仰せ渡され 町名を肴町とした(町方書上)。兵庫町という名称は、牛込城下にあることから、武器倉庫や武器職人があったためではないかという説がある。(町名誌)

肴町が5つの町に
つまり、兵庫町から肴町に変わり、だから神楽坂五丁目なんだ、でまあ、いいと思います。

ところが、兵庫横丁は、神楽坂四丁目なのです。どうして? はっきりいって、わかりません。だって、長いこと住んでいた人も「ここは兵庫横丁というんだ」と初めて知った人もいます。いまでは相当の人が知っていますが

ただひとつ、下図が頭に張り付いているのでしょう。でも、これは想像図ですよ。大手門も兵庫町もここでは空想で、いわば嘘です。しかも、神楽坂四丁目は江戸の昔は大きな家が建っていて、道路はありませんでした。江戸より前はまったくわかりません。想像図は楽しいので、おおいに出るといいと思います。しかし、区がわからないという場合、わからないのでしょう。でも、でも、ここは私道です。想像図も大歓迎です。ただし、想像だとはっきりいったほうがいいとは思います。また、兵庫町=肴町も正しい。でも、下図の「兵庫町」は正しいこともありえますが、現段階では空想の1つです。牛込城の想像図

神楽坂の通りと坂

神楽坂|兵庫横丁、本当はもっと変えないと

文学と神楽坂

兵庫兵庫横丁は軽子坂(厳密には違いますが)と神楽坂通りをつなぐ路地。昔は本多横丁ともつながっていました。

野口冨士夫『私のなかの東京』では

読者には本多横丁や大久保通りや軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯を逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

石畳・黒塀・見越しの松と、もっとも神楽坂らしい一角です。元は路地の幅は3尺程度でした。この石畳・黒塀・見越しの松の3つについて見てみましょう。

まず石畳ですが、西村和夫氏の『雑学神楽坂』では「坂下の石畳は…下駄履きの女性には敬遠された。下りは危険がともなった。その石畳が、戦後、アスファルトで改修されたとき、地域の要望で石畳は花柳街の路地に移され、黒塀と共に花街に風情をあたえることになった」と書いています。
特に夜に賑わう花柳界では暗い中での足元を確保するという意味合いもありました。今のアスファルトによる舗装技術を持たなかった時代の名残りです。

見越しの松は、塀ぎわで庭の背景をつくり、前面の景を引き立て、道路から見えるように塀の上まで伸ばした状態です。外からも見えるようになる役割があります。

「黒塀」とは柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀のことで、防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効です。日本家屋は昔から木造でした。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出します。

「死んだ筈だよ お富さん」が有名ですが、その前に「お富さん」はこう歌います。
♪ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪
やはり妾さんでしょうか?

さらにすぐに先が見えなくなる路地も効果的です。「和可菜」の家は見えるけれど、それから先は何もわからない。実際には戦後すぐには本多横丁と数箇所でつながっていました。本多横丁で袋小路があったのを覚えていますか? 昔はそこは道で、通れたのです。それが家のため見えなくなり、かえって路地は横に曲がってしまうのです。

また格子戸、打ち水、盛り塩もいい感じを出しています。

格子戸は格子状の引き戸や扉。採光や通風を得ることができます。()ち水は夏の季語で、ほこりをしずめたり,涼をとるために水をまくこと。()り塩は料理屋・寄席などで,掃き清めた門口に縁起を祝って塩を小さく盛ること。格子戸、打ち水や盛り塩はいずれも奈良・平安時代から続いていました。

関係ないのですが、『村上のまちづくり』 案内人:吉川真嗣『黒塀プロジェクト』というのがあります。
http://www.k-shinji.info/originate/kurobei.html

 簡易工法ではありますが、ブロック塀を黒塀に変えるだけで町の景観を変えることができます。平成24年には約390mの黒塀が作られ、今後も延長予定です。また「安善小路と周辺地区の景観に関する住民協定」が締結され、電線の地中化や道路の石畳化を目指して活動が行なわれています。

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黒塀、見越しの松、石畳をすべて使ってます。この地域はすごい。あっというまもなく、いい景観ができる。神楽坂などはこれに簡単に負けそう。

 

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文学と神楽坂

神楽坂|本多横丁の有名な店

文学と神楽坂

江戸中期から明治初期まで、この通りの東側すべては本多家の邸地でした。旗本から最後は大名になり、藩知事になったのですが、廃藩置県にともなって免職となりました。一時「本多横丁」は「すずらん通り」となりますが、昭和50年ごろには元に戻っています。また「すり横丁」ともいわれました。作る料理人のほうが金をなくすというのです。

では、まずなくなった店…というのもおかしいのですが、「旧見(旧検)」がありました。「旧検番」の略で、民政党の一派が作る検番です。「新検」とライバル関係にありました。この芸者新道と本多横丁があう南側、今は「ほてや」の場所にありました。G

呉服屋「ほてや」の開業は大正初期。いまのところにかわるまで、いろいろ変わってきたようです。最初は本多横丁、戦前は三菱銀行の隣、戦後は坂の交差点角の階段を上がったところ、しかし花柳界の反対があり、最後はここです。

次は「たつみや」です。昭和23年開業。うなぎ屋。ジョン・レノンとオノ・ヨーコも来たそうです。常盤新平が直木賞をとった場所もここ。

たつみや

 

さらに進むと、美容院「ラ・パレット」の創業は大正11年。一時本多横丁には髪結いが4軒もあり、「髪結い横丁」とも呼ばれたそうです。創業者は中井よし氏。もともとは日本髪の職人でした。
パレット

鳥せづ」は女将さんがやっています。道路側の神楽坂で80年続く鶏肉店鳥静商店の三代目です。鳥せづは2000年ごろからやっています。

鳥しづ

さらに料亭「」は現在ここには4軒しかない料亭です。
牧

以下はMATU(669)さんの「食べログ」の要約です。

 神楽坂の芸妓渡辺和子さんが一代で築き上げた名料亭で、「牧」はいまだに一見さんお断りの店ですが、料亭の隣に割烹が近年併設し、こちらの店は初回でも予約が可能です。コースは一人12000円以上。カウンター割烹をクリアーすれば次はいよいよ料亭で、女将さんに名刺を渡しておけば、お座敷の予約は多分可能です。芸者は一人呼ぶと5万円ぐらい。後日請求書が来るので、銀行振り込みに支払います。2人で食べてちょっと飲んで5万円ぐらい

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