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高田馬場の決闘で安兵衛は三年坂を通ったのか

文学と神楽坂

 特定非営利活動法人「粋なまちづくり倶楽部」の神楽坂を良く知る教科書では…

(6) 三年坂
本多横丁を含み、筑土八幡神社へ至る緩やかな坂である。堀部安兵衛が高田馬場の決闘に向かった際、ここを駆け抜けたとも言われる。

 本当に堀部安兵衛が自分の住居から三年坂を通り、決闘した高田馬場跡に向かったのでしょうか。講談「安兵衛 高田馬場駆け付け」では、自宅は京橋八丁堀・岡崎町にあり、八丁堀から高田馬場へと向かったといいます。しかし、本当の自宅は牛込納戸町でした。

 郷土史家の鈴木貞夫氏の『新宿歴史よもやま話』(公益社団法人新宿法人会、平成13年)「高田馬場と安兵衛の助太刀」では… なお、ここでの括弧つきのひらがなはルビに変えています。

 ここで、安兵衛が「何処から高田馬場に駆けつけたのか」について考えてみよう。
 まず、安兵衛は事件後、堀部家の養子に入るについて『父子契約の顛末てんまつ』として事情を書留めるとともに「2月11日高田馬場出合喧嘩之事」を自ら認めた手記が熊本の細川家に伝えられている。これによると、
 元禄元年(1688)越後新発田しばたから江戸に出、牛込元天竜寺竹町(新宿区納戸町)に住んだ。やがて前記の菅野六郎左衛門(区内若葉に住む)を名目上の叔父として親類書を作り、納戸町に屋敷をもつ徒頭かちがしら稲生いのう七郎右衛門の家来速見重右衛門の口入れで稲生家の中小姓になり、元禄七年に高田馬場の助太刀に及んだ、というのである。
 これを根拠付ける、元禄4年の安兵衛自筆の従弟宛手紙が現存し、これに「去春(元禄3年)より唯今に牢人ろうにんにて、住所は牛込元天龍寺竹町と申す所に罷り有り候」と書かれている。また、幕府が作成した元禄期の地図に稲生七郎右衛門屋敷が現在の区立牛込三中の道を隔てた東側角地に記されている。七郎右衛門は1500石の旗本で延宝8年(1680)から元禄10年まで御徒頭を勤めており、時期的にもうまく符合する。
 稲生屋敷から高田馬場まで、2.2キロメートルと意外に近い。安兵衛が高田馬場に駆けつけるのに不可能な距離ではない。
 以上、納戸町の旗本稲生家から高田馬場に赴いた、と考えてよいのではなかろうか。

牛込元天竜寺 図の左上の天龍寺は天和3年(1683年)、火事で類焼し、新宿四丁目に引っ越ししました。その後、天竜寺前は代地でしたが、町並名主付にしたいと願い出、元禄九年(1696)町奉行支配となり、御納戸町と名付けられました。また、払方町の地域も合わせて「元天龍寺前」とも呼ばれていました。

地図➀ 地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間(1673年から1681年まで)

竹町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では「中御徒町通南側は竹町といわれている。これは寛永12年(1635)に天龍寺が召し上げられた跡に、竹薮があったからといわれる」
御徒頭 江戸幕府の職名。若年寄わかどしよりの支配に属し、御徒組おかちぐみを率い、江戸城および将軍の警固に任じた。

地図➁ 現在の地図

中小姓 ちゅうこしょう。小姓は武将の身辺に仕え、諸々の雑用を請け負う職種。中小姓は徒歩で随従する歩行小姓
牢人 主人を失い秩禄のなくなった武士。
稲生七郎右衛門屋敷 「地図➀」では橙色で、「➁現在の地図」では赤色で囲んだ家は稲生七郎右衛門の家です。
意外に近い 稲生屋敷から高田馬場までは徒歩で27分でした。駆け足の速度はほぼ2倍、約14分です。

 最後に両者の人数を書いています。

 また、高田馬場の決闘に、村上は弟二人、浪人村上三郎右衛門と中津川祐範に助太刀を頼み五人、菅野は安兵衛、若党角田左次兵衛、草履取ぞうりとり七助の四人。安兵衛の手記は、決闘の場所を馬場の西部としている。

村上 この決闘の一方は伊予西条藩の村上庄左衛門の軍団6~7人。
菅野 他方は伊予西条藩の菅野六郎左衛門の軍団4人。
若党 わかとう。江戸時代、武家で足軽よりも上位にあった身分が低い従者。
草履取 武家などに仕えて、主人の草履を持って供をした下僕。

 なお、決闘前に自宅にいたという根拠も、全くどこにもありません。たとえば、池波正太郎氏の『堀部安兵衛』では、決闘前日は近くの林光寺に外泊したと書いています。同じ作者の『決闘高田の馬場』では、天竜寺の長屋から決闘に行ったと書かれています。住所でも外泊でも三年坂や本多横丁は全く出てきません。つまり、高田馬場の決闘で安兵衛は三年坂を通ったのは、ほぼ間違いなのです。


高田馬場跡

文学と神楽坂

高田馬場跡

文化財愛護シンボルマーク旧跡
高田(たかだの)()()(あと)

      所在地 新宿区西早稲田三丁目一・二・十二・十四番
 西早稲田三丁目一・二・十二・十四番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡である。
 馬場は寛永十三年(一六三六)造られたもので、旗本たちの馬術の練習場であった。
 また、穴八幡神社に奉納するため催された流鏑馬などが行われ、将軍の供覧に入れたところでもある。
 寛永年間(一七一六~一七五三)には馬場の北側に松並木がつくられ、8軒の茶屋があったとされている。土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと思われる。
 また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社の境内には「堀部武庸加功遺跡の碑」が建っている。
   平成三年十一月
              東京都新宿区教育委員会

高田馬場跡

高田馬場跡

高田馬場跡

漱石と『硝子戸の中』19

文学と神楽坂

十九

私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、そのじつ小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、さびってかつさむしく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引しゅびきうちか朱引外か分らない辺鄙へんぴすみの方にあったに違ないのである。

馬場下 馬場下町で、東京都新宿区の町名です
宿場 江戸時代、街道の要所要所にあり、旅行者の宿泊・休息で宿屋・茶屋や、人馬の継ぎ立てをする設備をもった所。
高田の馬場 東京都新宿区の町名
朱引 江戸の図面に朱線を引いて、府内(江戸市内)と府外(郡部)を分けたもの。朱引内は江戸の管轄内、朱引外は管轄外です。馬場下はかろうじて朱引内(江戸市内)になっています(図)。一方、高田の馬場は朱引外です。

馬場下

それでも内蔵くらづくりうちが狭い町内に三四軒はあつたろう。坂をあがると、右側に見える近江屋伝兵衛おうみやでんべえという薬種屋やくしゅやなどはその一つであった。それから坂をった所に、間口の広い小倉屋こくらやという酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛ほりべやすべえが高田の馬場でかたきを打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒ますざけを飲んで行ったという履歴のある家柄いえがらであった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるといううわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北おきたさんの長唄ながうたは何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私のうちの玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過ひるすぎなどに、私はよく恍惚うっとりとした魂を、うららかな光に包みながら、御北さんの御浚おさらいを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をたせて、佇立たたずんでいた事がある。その御蔭おかげで私はとうとう「旅のころも篠懸すずかけの」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。
近江屋 『吾輩は猫である』第7章でも「近江屋」は登場します。『猫』に出てくる爺さんの言葉を引用すると…

「ゆうべ、近江屋おうみやへ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸のくぐりの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずにんだげな。御巡おまわりさんか夜番でも見えたものであろう」とおおいに泥棒の無謀を憫笑びんしょうした」
御北さん 『草枕』では「御倉さん」として登場します。

小供の時分、門前に万屋よろずやと云う酒屋があって、そこに御倉おくらさんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚おさらいをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前にひかえて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松はまわり一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好かっこうを形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠かなどうろうが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺かたくなじじいのようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、こけ深き地をいて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、ひとり匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかにひざるるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠をにらめて、この草のいで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。

内蔵造 土蔵づくりの家。土蔵のように家の四面を土や漆喰で塗った家屋。倉のように四面を壁で作った家屋。
薬種屋 薬を調合・販売する店。平成21年施行の改正薬事法で登録販売者制度が創設し、薬種商制度は廃止に。
小倉屋 延宝4年(1678年)、初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下の辻で開業。元禄7年(1694年)、二代目半右衛門の頃、堀部安兵衛は高田馬場の決闘の前に、小倉屋に立ち寄り升酒を飲みました。
渡辺翠氏の「高田馬場の仇討」では、江戸時代、米の酒は奈良でしか作られず、江戸では1升3万円かかったそうで(若松地域センター「地域誌 このまちに暮らして」平成9年)、芋酒を飲んだといいます。またこの升は現在まで帛紗に包まれて貸金庫に保管されているそうです。
倉造り 土蔵づくりの家。内蔵造と同じ。
堀部安兵衛 赤穂事件四十七士のひとり。
枡酒 枡に盛って売る酒
長唄 古典的な三味線歌曲
篠懸 修験者(しゅげんじゃ)が衣服の上に着る麻の法衣。この文言は長唄「勧進帳」の歌い出しです。

このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋かじやも一軒あった。少し八幡坂はちまんざかの方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃもあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋とんやの仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際つきあいからいうと、まるで疎濶そかつであった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいの間柄あいだがらに過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水ていすいと好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞ひとぎきに聞いて覚えてはいるが、まとまった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立やたてと帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度にげて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじ、、、だのがれん、、、だのという符徴ふちょうを、ののしるように呼び上げるうちに、しょうが茄子なすとう茄子のかごが、それらの節太ふしぶとの手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。

八幡坂

棒屋 樫材の木工品を作る家。臼、まな板のみならず、大型水車や荷車も作りました。木工品ならなんでもつくったようです。
鍛冶屋 金属を打ち鍛え、諸種の器具をつくることを仕事とする人
八幡坂 高田町の坂。馬場下町から西北に向かいます。西に穴八幡神社があります。下は馬場下町と穴八幡幡神社を地下鉄早稲田駅前から見たものです。八幡坂
やっちゃ場 青物市場のこと。「大言海」(昭和7-10年)によれば「やっちゃば」は「やさいいちば」から訛ったものではないかという。
貞水 講釈師真龍斎貞水のこと

矢立 矢立(すずり)と筆を一つの容器におさめた筆記用具。
ろんじ 六の合い言葉
がれん 五の合い言葉

 どんな田舎いなかへ行ってもありがちな豆腐屋とうふやは無論あった。その豆腐屋には油のにおいんだ縄暖簾なわのれんがかかっていて門口かどぐちを流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗きれいだった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺せいかんじという寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門のうしろは、深い竹藪たけやぶで一面におおわれているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤おつとめかねは、今でも私の耳に残っている。ことにきりの多い秋から木枯こがらしの吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくてつめたい或物をたたき込むように小さい私の気分を寒くした。
豆腐屋

『二百十日』では圭さんの幼時の経験として出てきます。

「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋とうふやがあってね」
「豆腐屋があって?」
「豆腐屋があって、その豆腐屋のかどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だかかねたたく」(中略)
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆をうすく音がする。ざあざあと豆腐の水をえる音がする」
しょう 鉦中国・日本・東南アジアなどで用いられる打楽器。銅や銅合金製の平たい円盤状で、撞木しゅもくばちで打ちます。カンカンと鳴るようです。 

ふたたび『二百十日』の圭さんの幼時の経験です。

「豆腐屋があって、その豆腐屋のかどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね」
「寒磬寺と云う御寺がある?」
「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪おおたけやぶばかり見えて、本堂も庫裏くりもないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だかかねたたく」
「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんとかすかに敲くのさ。冬の朝なんぞ、しもが強く降って、布団ふとんのなかで世の中の寒さを一二寸の厚さにさえぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃いしだたみと、倒れかかった山門さんもんと、山門をうずめ尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかをのぞいた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具のうち海老えびのようになるのさ」
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」

縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。転じて、居酒屋・一膳飯屋などのこと。
門口 家や門の出入り口
西閑寺 喜久井町にある誓閑寺のこと。今では小さな小さな寺になっています。誓閑寺の梵鐘は天和2年(1682)製作。区内最古の梵鐘です。文化財は2つあります。
御勤 おつとめ。御勤め。仏前で読経すること。勤行ごんぎよう

誓閑寺

漱石と『硝子戸の中』



漱石と小倉屋|牛込馬場下

文学と神楽坂

 牛込馬場下の()(くら)()は酒店で、延宝4年(1678年)、初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下のつじで開業しました。
堀部安兵衛の酒升

 元禄7年(1694年)、小倉屋は2代目で、堀部安兵衛は小倉屋に立ち寄り、升酒を飲み、高田馬場の決闘に急ぎました。米の酒は奈良でしか作られない江戸時代、1升は今の金額で3万円。そこで芋酒を飲んだといいます(平成9年、渡辺翠氏『高田馬場の仇討』、若松地域センター『地域誌 このまちに暮らして』)。また堀部安兵衛の升は現在まで帛紗ふくさに包まれて貸金庫に保管されているそうです。
 う~ん、升に残った芋焼酎も金庫にねむっているわけで、なにか立派になった気がします。

 四つ辻。十字路
帛紗 方形の絹布。進物の上にかけたり物を包んだりする。茶の湯では、道具をぬぐったり盆・茶托の代用として器物の下に敷いたりする絹布。

 さて『吾輩は猫である』第7章では「近江屋」が登場します。

「ゆうべ、近江屋おうみやへ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸のくぐりの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずにんだげな。御巡おまわりさんか夜番でも見えたものであろう」とおおいに泥棒の無謀を憫笑びんしょうした

 また、1907年(明治40年)の『僕の昔』では「小倉屋」がでています。

父親おやじは馬場下町の名主なぬしで小兵衛といった。別に何も商売はしていなかったのだ。何でもあの名主なんかいうものは庄屋と同じくゴタゴタして、収入などもかなりあったものとみえる。ちょうど、今、あの交番――喜久井町きくいちょうを降りてきた所に――の向かいに小倉屋おぐらやという、それ高田馬場の敵討あだうちの堀部武庸たけつねかね、あの男が、あすこで酒を立ち飲みをしたとかいうますを持ってる酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家いえがあった。もう今は無くなったかもしれぬ。

 1915年(大正4年)の『硝子戸の中』14でも「小倉屋」がでています。

(泥棒)は、ひとあやめるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金をせと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今かど小倉屋こくらやという酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性ふしょうぶしょうに、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。
(略)その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日からかすきずがいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしてもうちにはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文もられずにしまった。

『硝子戸の中』19でも小倉屋は登場します。

坂をった所に、間口の広い小倉屋こくらやという酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛ほりべやすべえが高田の馬場でかたきを打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒ますざけを飲んで行ったという履歴のある家柄いえがらであった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるといううわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。

吟醸酒

 なお、小倉屋にはこれ以外のほかのアルコールもはいっています。特筆するものは、ここの商店会連合会の「地ビール早稲田」、早稲田大学・京都大学の「ホワイトナイル」ビール、「ブルーナイル」ビール、吟醸酒「夏目坂」と吟醸酒「高田馬場 堀部安兵衛」などです。

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