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夏目漱石「それから」|神楽坂

「それから」は明治42年に夏目漱石氏が書いた小説です。
 主人公の長井代助は、悠々自適の生活を送る次男で、その住所は神楽坂。もっと詳しく言うと、地蔵坂、あるいは、藁店わらだなの上で、おそらく袋町に住んでいます。
 藁店など、地名はたくさん出てきても、簡単に忘れてしまいます。なんというか、人間の英知でしょうか。また、この時代の「電車」には、外濠線の路面電車(チンチン電車)と、現在のJR線の中央本線(以前の甲武鉄道)という2つの電車がありました。
 結婚を迫られていますが、本人はその気はありません。ある女性への恋慕がその理由で、まあ、これは大人の恋愛小説ですが、内容について触れるつもりはありません。ここでは問題になるのは場所だけです。
 黄色は普通の注釈、青色の注釈は神楽坂とその周辺のことを表しています。

一の一
 誰かあわただしく門前をけて行く足音がした時、代助だいすけの頭の中には、大きな俎下駄まないたげたくうから、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退とおのくに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。

一の一 「1の1」、つまり「1章1節」です。
俎下駄 男物の大きな下駄

 これはこの本の最初の文です。「神楽坂」はしばらく鳴りを潜め、初めて出てくるのは八章です。
 なお、ここでは青空文庫を基準として使い、部分的に岩波書店の「定本漱石全集」を使っています。

八の一
 神楽坂かぐらざかへかかると、ひっりとしたみちが左右の二階家に挟まれて、細長く前をふさいでいた。中途までのぼって来たら、それが急に鳴り出した。代助は風がの棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、たちまち一種の恐怖に襲われた。戸と障子と硝子ガラスの打ち合う音が、見る見るはげしくなって、ああ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでいた。その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。すると、突然右側のくぐり戸をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ地震だ、大きな地震だと云って出て来た。代助はその男の声を聞いてようやく安心した。
 家へ着いたら、ばあさんも門野も大いに地震のうわさをした。けれども、代助は、二人とも自分程には感じなかったろうと考えた。(中略)
 その明日あくるひの新聞に始めて日糖事件なるものがあらわれた。

神楽坂 新宿区東部の地名。
日糖事件 大日本精糖株式会社の重役と代議士との贈収賄事件。明治42年4月11日から日糖重役や代議士が多数検挙された。新聞でも報道があった。

ああ地震だと 明治42年3月13日に地震が起きました。漱石の日記では

 三月十四日 日[曜]
 昨夜風を冐して赤坂に東洋城を訪ふ。野上臼川、山崎楽堂、東洋城及び余四人にて桜川、舟弁慶、清経を謡ふ。東洋城は観世、楽堂は喜多、臼川と余はワキ宝生也。従って滅茶苦茶也。臼川五位鷺の如き声を出す。楽堂の声はふるへたり。風熄まず、十二時近く、電車を下りて神楽坂を上る。左右の家の戸障子一度に鳴動す。風の為かと思ふ所に、ある一軒から子供を抱いた男が飛び出して、大きな地震だと叫ぶ。坂上では寿司屋丈が起きてゐた。
 今日も曇。きのふ鰹節屋の御上さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着てゐた。派出に見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をして居る方が感じが好い。
八の二
 仕舞にアンニュイを感じ出した。何処どこか遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見ようと云う気を起した。神楽坂から外濠そとぼりへ乗って、御茶の水まで来るうちに気が変って、森川町にいる寺尾という同窓の友達を尋ねる事にした。この男は学校を出ると、教師はいやだから文学を職業とすると云い出して、ほかのものの留めるにも拘らず、危険な商売をやり始めた。やり始めてから三年になるが、いまだに名声も上らず、窮々云って原稿生活を持続している。

アンニュイ ennui。倦怠感。退屈
外濠線 旧江戸城の外濠を一周する路面電車。明治37年、東京電気鉄道株式会社が開業。
森川町 現在の文京区本郷六丁目の付近

十の二
「それで、奥さんは帰ってしまったのか」
「なに帰ってしまったと云う訳でもないんです。一寸ちょっと神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからって、云われるもんですからな」
「じゃ又来るんだね」
「そうです。実は御目覚になるまで待っていようかって、この座敷まで上って来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」
十の五
 三千代の頬にようやく色が出て来た。たもとから手帛ハンケチを取り出して、口のあたりきながら話を始めた。――大抵は伝通院前から電車へ乗って本郷まで買物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷の方は神楽坂に比べて、どうしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方こっちの方へ出て来てみた。この前も寄るはずであったが、つい遅くなったので急いで帰った。今日はその積りで早くうちを出た。が、御息おやすみ中だったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。ところが天気模様が悪くなって、藁店わらだなを上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体からださわって、息が苦しくなって困った。――

伝通院 文京区小石川三丁目にある浄土宗の寺。
電車 路面電車、チンチン電車です
本郷 文京区の町名。旧東京市本郷区を指す地域名
藁店 神楽坂の毘沙門堂の西側から袋町の上に行く通り。藁店横町と同じ。江戸時代から藁や藁細工を売る店があった。

十一の一
 新見付へ来ると、向うから来たり、此方から行ったりする電車が苦になり出したので、堀を横切って、招魂社の横から番町へ出た。そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものは賤民せんみんだと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賤民の方が偉い様な気がした。全たく、又アンニュイに襲われたと悟って、帰りだした。神楽坂へかかると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしていた。その音が甚しく金属性の刺激を帯びていて、大いに代助の頭にこたえた。

新見付 しんみつけ。現在の地図は「新見附橋」交差点。牛込見附と市ヶ谷見附との間にあった昔の外濠線の路面電車停留所名。
電車 路面電車(チンチン電車)のことでしょう。
招魂社 現在は千代田区九段の靖国神社
番町 靖国神社の南西地域で、現在は千代田区1番町から六番町にかけての一帯。もと江戸城警護の「大番組」の旗本の屋敷があった。
賤民 身分の低い民。下賤の民。
蓄音器を吹かして 平円盤レコードが輸入され、大きなラッパ式拡声器がつき、再生することを「吹かす」といった。

十三の二
 彼は立ち上がって、茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛た。そうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を穿いてけ出す様に門を出た。時は四時頃であった。神楽坂を下りて、当もなく、眼に付いた第一の電車に乗った。車掌に行先を問われたとき、口から出任せの返事をした。紙入を開けたら、三千代に遣った旅行費の余りが、三折の深底の方にまだ這入っていた。代助は乗車券を買った後で、さつの数を調べてみた。

電車 これも路面電車でしょう

十四の六
 津守つのかみを下りた時、日は暮れ掛かった。士官学校の前を真直に濠端ほりばたへ出て、二三町来ると砂土原町さどはらちょうへ曲がるべき所を、代助はわざと電車みちに付いて歩いた。彼は例の如くにうちへ帰って、一夜を安閑と、書斎の中で暮すに堪えなかったのである。ほりを隔てて高い土手の松が、眼のつづく限り黒く並んでいる底の方を、電車がしきりに通った。代助は軽い箱が、軌道レールの上を、苦もなく滑って行っては、又滑って帰る迅速な手際てぎわに、軽快の感じを得た。その代り自分と同じみちを容赦なく往来ゆききする外濠線の車を、常よりは騒々しくにくんだ。牛込見附うしごめみつけまで来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影ひかげを認めた。代助は夕飯ゆうめしを食う考もなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。
 約二十分の後、彼は安藤坂を上って、伝通院でんずういん焼跡の前へ出た。(中略)
 神楽坂上へ出た時、急に眼がぎらぎらした。身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げる様に藁店わらだなあがった。
 ひる少し前までは、ぼんやり雨を眺めていた。午飯ひるめしを済ますやいなや、護謨ゴム合羽かっぱを引き掛けて表へ出た。降る中を神楽坂下まで来て青山の宅へ電話を掛けた。明日此方こっちからく積りであるからと、機先を制して置いた。電話口へは嫂が現れた。先達せんだっての事は、まだ父に話さないでいるから、もう一遍よく考え直して御覧なさらないかと云われた。代助は感謝の辞と共に号鈴ベルを鳴らして談話を切った。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確めた。平岡は社に出ていると云う返事を得た。代助は雨をいて又坂を上った。花屋へ這入って、大きな白百合しろゆりの花を沢山買って、それを提げて、宅へ帰った。花はれたまま、二つの花瓶かへいに分けてした。まだ余っているのを、この間の鉢に水を張って置いて、茎を短かく切って、すぱすぱ放り込んだ。

津守 津之守坂。四谷区四谷荒木町(現在は新宿区荒木町)と三栄町の境にある坂。
士官学校 陸軍士官学校。陸軍の士官教育を行った。現在は防衛省などが入る。
濠端 外濠の淵や岸。ここでは市ヶ谷見附から牛込見附まで。
砂土原町 牛込区(現在は新宿区)市ヶ谷砂土原町。
電車 外濠線と比較しているので、これは現在のJR東日本の中央線の電車(右図は、水道橋付近を走る甲武鉄道電車)。明治41年から電車運転を開始
安藤坂 小石川区小石川水道町、現在の文京区春日町一丁目と二丁目の間にある坂。
焼跡 明治41年12月、本堂の全焼があった。
号鈴をを鳴らして 電話機に付いたハンドルを回してベルを鳴らし、電話交換手に会話が終わったことを知らせた。
花屋 創業1835年の神楽坂6丁目の「花豊」でしょうか?

十六の四
 狭い庭だけれども、土が乾いているので、たっぷり濡らすには大分骨が折れた。代助は腕が痛いと云って、好加減にして足をいて上った。烟草たばこを吹いて、縁側に休んでいると、門野がその姿を見て、
「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から調戯からかった。
 晩には門野を連れて、神楽坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。は深く空は高かった。星の色は濃くしげく光った。

門野 代助の書生です。

十六の七
平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たして置いてくれ」と門野に云い置いて表へ出た。強い日が正面から射竦いすくめる様な勢で、代助の顔を打った。代助は歩きながら絶えず眼とまゆを動かした。牛込見附うしごめみつけを這入って、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、
「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合があって見合せる事にしたから、その積りで」と断った。帰りには、暑さが余りひどかったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場あげば筋違すじかい毘沙門びしゃもんまえへ出た。(中略)
 この前暑い盛りに、神楽坂へ買物に出たついでに、代助の所へ寄った明日あくるひの朝、三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしていながら、突然夫の襟飾えりかざりを持ったまま卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度はそのままに三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出てくれと云い出した。口元には微笑の影さえ見えた。横にはなっていたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だったら医者を呼ぶ様に、必要があったら社へ電話を掛ける様に云い置いて平岡は出勤した。

平岡 代助の同窓生で親友
飯田町 「飯田橋」以前の町名
飯田橋 千代田区の北端、外堀に架けられている橋。飯田橋駅東部地区。
揚場 牛込区(現在の新宿区)牛込揚場町。古くは神田川の舟着き場で、荷揚げを行った。地図ではここ
筋違 斜めに交差している。斜め。はすかい。
三千代 平岡の妻。代助から恋慕を受ける。
襟飾 洋服の襟や襟元につける飾り。ブローチ、首飾り、ネクタイなど。

「一七の三」で最後の文章です。

十七の三
 飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。(中略)
 たちまち赤い郵便筒ゆうびんづつが眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘こうもりがさを四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸おっかけて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車とれ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋たばこや暖簾のれんが赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりとほのおの息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗ってこうと決心した。(了)

飯田橋 これは飯田橋駅東部地区でしょう。
郵便筒 郵便ポストのこと

待合「誰が袖」|夏目漱石

文学と神楽坂

 夏目漱石氏が描いた「誰が袖」は何だったのでしょうか? まず漱石氏が書いた「硝子戸の中」の「誰が袖」とその注釈を見てみます。

「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」
「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家あずまやつてね。ちょうどそら高田の旦那真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは。

「定本漱石全集 第12巻。小品」の注釈。誰が袖。匂袋においぶくろの名。「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも」(『古今和歌集』) にちなむ。

 本当にそうなのでしょうか? たかが匂袋を看板につけるのはおかしいと思いませんか。実際には「誰が袖」という名の待合がありました。

 横浜市図書館に富里長松氏の「芸妓細見記」(明治43年、富里昇進堂)があり、待合の部(119頁)として待合の「誰が袖」が出ています。
 また、岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」では「タガソデ」の絵が出ています。

 さらに同号の「夏目漱石と『寺内』」では、「誰が袖…待合。後に「三勝さんかつ」という名に。」と書いてあります。三勝は新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)でここです。

 また大正3年、夏目漱石作の俳句でも

誰袖や待合らしき春の雨
季=春の雨。*誰袖は匂袋。江戸時代に流行し、花街では暖簾につける習慣があった。この句、匂袋をつけた暖簾、そして折からの春雨を、いかにも待合茶屋の風情だと興じたものか。

 俳句は注釈通りではなく、「『誰が袖』は待合らしい。春の雨だ」と簡単に書いた方がいいのではないでしょうか。

 しかし、『定本漱石全集』の注釈が、全くがっかりで、落胆しました。

寺内 神楽坂四丁目の一部。江戸時代には行元寺があり「寺内」とよばれた。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行元寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です
誰が袖 たがそで。「誰が袖」は待合のこと。
東家 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・ふさの夫です。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。

矢来町|「東京物語」辞典①

文学と神楽坂

 現在言語セミナー編「『東京物語』辞典」(平凡社、1987年)からです。最初は矢来町。

文士罷り通る

 私の生家がある東京牛込の矢来町というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来のもみ並木というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
「幻について」色川武大

罷り通る まかりとおる。「通る」「通用する」を強制し、わがもの顔で通る。堂々と通用する。
矢来町 左図を参照
 もみ。マツ科の常緑高木。本州中部から九州の低山に生える。
名残り ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。
リアリティ 現実感。真実性。迫真性。

 もう少しこの文章を読むと(色川武大阿佐田哲也全集・3、福武書店、1991年)

 もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
 小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
 というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
 矢来町にはその頃、某大名の末裔の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友はみなオーバーなので私はその服装が嫌でしょうがなかった記憶がある。
 その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顏が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
 その女の人は、お面をつけていた。

発表誌 昭和54年、「別冊小説新潮」に発表
うじうじ 決断力がなく、思いためらう。ぐずぐず。
某大名の末裔 若狭わかさ国(福井県)小浜藩の酒井邸。
小道 右図を参照
学校 商業学校がありました。

 この本文に対する「解説」は……

 江戸名物の一つ、小浜藩主酒井邸の竹矢来が、明治五年の町名決定に際しそのまま「矢来町」となる。現在の東京の町名で旧地名が残る数少ない町の一つである。
 また明治期の矢来町は、多くの文学者が居住した町としても名高い。「海潮音」の上田敏が明治二十年。「今戸心中」の広津柳浪、実子で『神経病時代』の広津和郎が、二十四年からほぼ十年間居住。その他、小栗風葉川上眉山硯友社組に私小説の極北といわれる嘉村磯多など。
 英国留学より帰国した夏目漱石が、妻鏡子の実家のあるここ矢来町に三ヶ月いて、明治三十六年三月、本郷区千駄木町へ居を構えた。

竹矢来 竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い。

 最後は章の脚注です。

*現在でも都心とは思えぬほど静かな住宅街である。矢来町の中心には地下鉄東西線の「神楽坂」駅がある。本来、「矢来町」駅でもよかったはずなのだが、知名度を考えて神楽坂駅としたらしい。もっとも神楽坂の毘沙門天まで僅か二、三百メートルの距離でしかないが。
矢来能楽堂の近くに、新潮社の社屋がある。創設者佐藤義亮が「中央文壇にあこがれて十八歳の時、裸一貫で上京して以来、新聞配達をやり、牛乳配達をやり……辛酸を重ね、初め《新声社》を起したが倒産、捲土重来を期し改めて文芸出版社、新潮社を設立」(村松梢風「佐藤義亮伝」)した。出版界に大きなトレンドをつくった新潮社がここに出来たのは大正二年のことであった。

矢来能楽堂 1908年、神田西小川町に舞台を設けたが、関東大震災で焼失。1930年に牛込矢来町60の現在地に移って復興。1945年5月24日、空襲で再度焼失。昭和27年、現在の舞台・建物が完成。
捲土重来 けんどちょうらい。けんどじゅうらい。物事に一度失敗した者が、非常な勢いで盛り返すこと。
トレンド trend。動向。傾向。趨勢。風潮

神楽坂の今昔3|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。氏は小説家と随筆家で、1926(大正15)年、日本国有鉄道(国鉄)本社に入社し、1932(昭和7)年には、法政大学高等師範部を卒業しています。

 ◆ 面白い口上とサクラ
 現在は五の日だけ、それも毘沙門さんの前に出るだけだが、当時は、天気さえよければ、神楽坂両側全部に夜店がならんだ。
 まず思い出すのは、バナナのたたき売りだ。
 戸板の上に、バナナの房を並べ、竹の棒で板をたたきながら、「さあ、どうだ、一円五十銭」と値をつけて、だんだん安くしていく。取りかこんだお客に、「お前たちの目は節穴か、それとも余程の貧乏人だな」などと毒舌をはきながら、巧みに売りつける。こちらも、そんな手にはのらない。大きな房が五十銭、中くらいが三十銭まで下がるのを待つ。そのカケヒキが楽しかった。一篭十二貫入りが十篭も売れたものだ。
 万年筆売りの口上は、いつでも倒産の整理品か、火事の焼け残り品にきまっていた。店が倒産して、給料代わりにもらった品だから、二束三文で売るのだという。また万年筆にわざわざ泥をつけて、いかにも火事場から持ってきたように見せかけ、泣きを入れてお客の同情をそそった。
 毎晩同じセリフで商売になったのだから、悠長な時代でもあったし、同時にその品物が、それほどのゴマカシものではなかったわけだ。
 サクラ専門の男がいて、「おー、これは安い。三本もらおう」といって買って行くが、一時間もすると、再びやってきて、今度は五本も買う。
 彼は、万年筆屋専属でなく、カミソリ屋にも頼まれていて、「おや、これはドイツのゾリンゲンじゃないか。日本製と同じ値段だな」などといって買うのであった。
 ガマの油売りもいた。暗記術というのもあった。その他屋台では、すし、おでん、串カツ、それから熊公焼きというアンコ巻きもよく売れていた。カルメ焼き電気アメ、七色とうがらし、小間物、台所用品、ボタン、衣料、下駄などの日常必需品、植木、花、金魚、花火なんでもあった。

口上 口頭で事柄を伝達すること。俳優が観客に対して、舞台から述べる挨拶。
ゴマカシもの いんちきな品。にせもの
サクラ 露店商などの仲間で、客のふりをし、品物を褒めたり買ったりして客に買い気を起こさせる者。
ゾリンゲン Solingen. ドイツ西部、ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。刃物工業で有名
ガマの油売り 筑波山のガマガエルから油をとり、傷を治す軟膏を売る人
あんこ巻き 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子。
カルメ焼き 砂糖を煮つめて泡立たせ、軽石状に固まらせた菓子。語源はポルトガル語のcaramelo(砂糖菓子)から。
電気アメ 綿菓子のこと。

 ◆ 文士と芸者とたちんぼ
 大正から昭和へかけて、牛込界隈には多くの文士が住んでいた。また関東大震災で焼け残った情緒のある街神楽坂へ、遠くからやってくる文士もあった。それらの人たちが、うまいフランス料理を食べさせる田原屋へみんな集まったのであった。夏目漱石吉井勇菊池寛佐藤春夫永井荷風サトウハチロー今東光今日出海、その他、芸能人の顔も見られた。
 このうちの幾人かは、自分のウイスキー(ジョニ赤)を預けておき、料理を取って、それを飲むという習慣だったそうだ。いま流行しているキーボックス・システムのはしりといっていい。
 文士の皆さんも、田原屋だけでなく、神楽坂三丁目裏の待合でお遊びになったと思うが、当時は芸者が千五百人もいた。だから、夕方になると左褄(ひだりづま)をとった座敷着の芸者が、神楽坂を上ったり下ったりする姿が見られた。
 現在は、わずかに二百人である。しかも、ホステスともOLとも区別がつかぬ服装で、アパート住まいの芸者が出勤して来るのだから、風情も何もないのである。
 神楽坂下には、たちんぼと呼ばれる職業の人が二、三人いた。四十過ぎの男ばかりで、地下足袋股引(ももひき)しるしばんてんという服装だった。
 八百屋、果物屋その他の商売の人たちが、神田市場、あるいはほかの問屋から品物を仕入れ、大八車を引いて坂下まで帰ってくる。一人ではとても坂はあがれない。そこで、たちんぼに坂の頂上まで押してもらうのであった。
 いくばくかの押し賃をもらうと、彼らは再び坂下に戻って、次の車を待つのであった。この商売は、神楽坂だけのものだったにちがいない。

ジョニ赤 スコッチウイスキーの銘柄ジョニー・ウォーカー・レッドラベルの日本での愛称
キーボックス・システム 現在はボトルキープと呼びます。酒場でウイスキーなどの酒を瓶で買って残った分を店で保管するシステム。
左褄を取る 芸者が左手で着物の褄を取って歩くところから、芸者になる。芸者勤めをする。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
ホステス hostess。バーやナイトクラブなどで、接客する女性。
OL 和製英語 office lady の略。女性の会社員、事務員。
たちんぼ 道端、特に坂の下などに立って待ち、通る荷車の後押しをして駄賃をもらう者。
地下足袋 じかに地面を歩く足袋。「地下」は当て字
股引 ズボン状の下半身に着用する下ばき。江戸末期から、半纏はんてん、腹掛けとともに職人の常用着。
しるしばんてん 印半纏。襟や背などに、家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から、職人などが着用した。
神楽坂だけのもの 昭和初期まで東京中で見られ、神楽坂だけではないようです。

文壇昔ばなし④|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

             ○

肌合ひの相違と云ふものは仕方のないもので、東京生れの作家の中には島崎藤村毛嫌ひする人が少くなかつたやうに思ふ。私の知つてゐるのでは、荷風芥川辰野隆氏など皆さうである。漱石も露骨な書き方はしてゐないが、相當に藤村を嫌つてゐたらしいことは「」の批評をした言葉のはし/\に窺ふことが出来る。最もアケスケに藤村を罵つたのは芥川で、めつたにあゝ云ふ惡口を書かない男が書いたのだから、餘程嫌ひだつたに違ひない。書いたのは一度だけであるが、口では始終藤村をやツつけてゐて、私など何度聞かされたか知れない。さう云ふ私も、芥川のやうに正面切つては書かなかつたが、遠廻しにチクリチクリ書いた覺えは数回ある。作家同士と云ふものは妙に嗅覺が働くもので、藤村も私が嫌つてゐることを嗅ぎつけてをり、多少氣にしてゐたやうに思ふ。そして藤村が氣にしてゐるらしいことも、私の方にちやんと分つてゐた。しかし藤村には又熱狂的なフアンがあつて、私の舊友の中でも大貫晶川などは藤村を見ること神の如くであつた。彼は私と同じく東京一中の出身であるが、生れは多摩川の向う川岸の溝ノ口あたりであるから、東京人とは云へないのである。正宗白鳥氏は私の藤村嫌ひのことを多分知つてゐて、故意に私に聞かせたのではないかと思ふが、数年前熱海の翠光園で相會した時、今讀み返してみると藤村の作品に一番打たれると云つてをられた。

藤村を嫌い
「春」の批評

 結論を先にいうと、漱石氏による『春』の批評はなさそうです。おそらく、うちうちでの反発はあっても、公になった『春』の悪口はありません。
 まず「漱石全集」(岩波書店、1995年)第16巻「評論など」を調べてみました。しかし、第16巻には何も書いていません。大体、漱石は自然主義の全体についていいたいことがあっても、いえない、いわない。なにせ、自分がやっていた朝日新聞に『春』が出たわけで、あまり批評は書きたくないのです。
 そこで第28巻「総索引」で調査しました。島崎藤村氏全体を調べると、第20巻(日記)416頁(「藤村の食後…を買う」)、第22巻(書簡)[人索](書簡883、書簡1064、書簡1099、書簡1136)、第23巻(書簡)注解(532頁)(「壁」について)と[人索](書簡882、書簡1064、書簡1099、書簡1136)、第25巻(別冊)254頁(「…島崎君の[『春』]が出るまで…私が書かなきやならん」)と519頁(「破戒」とは島崎藤村の小説)に書かれていました。[人索]は「人名に関する注および索引」のことです。
 また「総索引」で『春』(島崎藤村)を調べてみると、書いているのは第23巻(書簡)だけで、内訳は83頁、198頁、206頁、208頁、212頁、 528頁でした。528頁は[人索]で、書簡882、1064、1099、1136の4通がありました。書簡882は『春』を朝日新聞の小説にしたいということが書かれており、書簡1064は、大塚楠緒子宛の書簡で、

藤村氏のかき方は丸で文字を苦にせぬ様な行き方に候あれも面白く候。何となく小説家じみて居らぬ所妙に候然しある人は其代り藤村じみて居ると申候。あれも長きもの故万事は完結後ならでは兎角申しかね候

 書き方は小説家らしくはないけれども、完結がでるまで何も言わないよと、まあ普通の文言です。書簡1099は高浜虚子宛の書簡で

「春」今日結了 最後の五六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心致候。([ついで])を以て大兄へ御通知に及び候。あの五六行が百三十五回にひろがつたら大したものなるべくと藤村先生の為めに惜しみ候。

 逆に考えると、あの五六行だけが良く、残りは最悪となりますが、そこは漱石、感心した文章を読んだと肯定的に書いてあります。書簡1136の小宮豊隆宛の書簡では

今の自然派とは自然の二字に意味なき団体なり。花袋、藤村、白鳥の作を難有がる団体を云ふに外ならず。而して皆恐露病に罹る連中に外ならず。人品を云へば大抵君より下等なり、理窟を云へば君よりも分らずや多し。生活を云へぼ君よりも甚しく困難なり。さるが故に君の敢て為し能はざる所云ひ能はざる所を為す。君是等の諸公を相手にして戦ふの勇気ありや。君を此渦中に引き入るるに忍び ざるが故に此言あり。

と、一般論で自然主義に対する反論がでてきます。しかし、書いてあった島村藤村氏に対する明確な反論はありません。逆に『破戒』では絶賛しかでてきません。(明治39年4月3日の森田草平宛の書籍)

一度だけ

 芥川龍之介氏は「島崎藤村」や「藤村」という名前を『芥川龍之介全集』(岩波書店、1996年)の中で使ったことはありません。「島崎藤村」と関係がありそうな文章は、『或る阿呆の一生』(昭和2年)で出てきます。

四十六 譃

 彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の将来は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかつてゐた。)不相変いろいろの本を読みつづけた。しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な(うそ)に充ち満ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪らうくわいな偽善者に出会つたことはなかつた。が、フランソア・ヴイヨンだけは彼の心にしみとほつた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」を発見した。
 絞罪を待つてゐるヴイヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴイヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉体的エネルギイはかう云ふことを許すわけはなかつた。彼はだんだん衰へて行つた。丁度昔スウイフトの見た、木末こずゑから枯れて来る立ち木のやうに。……

 ここで出てきた「新生」は、谷崎潤一郎氏や当時の見解によれば、島村藤村氏が書いた小説「新生」だというのです。しかし、ダンテの『新生』やルソーの『新生の書』のように別の作品からできているという見解もあります。私もルソーの『新生の書』を直接書いたものではと思っています。ただし、当時の文壇の考えは藤村氏に対する批評だと考えているようです。なお、フランソワ・ヴィヨンは15世紀フランスの詩人で、中世最大の詩人、または最初の近代詩人といわれています。

遠廻しに… これを探すのには非常に難しいと思います。少なくてもはっきり書いた藤村氏に対する批判はなさそうです。

毛嫌い これという理由もなく感情的に嫌う。わけもなく嫌う。鳥獣は相手の毛並みで好き嫌いをするところから。
 島崎藤村の「若菜集」発表前夜の物語で、浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちがモデル。主人公の岸本捨吉には島崎藤村、青木駿一は北村透谷、市川仙太は平田禿木、菅時三郎は戸川秋骨など。
東京一中 府立第一中学校。現在の都立日比谷高等学校。
溝ノ口 神奈川県川崎市高津区溝口(上図)の地域で、JR東日本の武蔵溝ノ口駅があります。多摩川の対側に世田谷区二子玉川が広がっています。
翠光園 以前の熱海翠光園(すいこうえん)ホテルでしょう。場所は熱海市咲見町4番21号で、熱海駅と来宮駅の中間で高台にありました。現在はアデニウム熱海翠光園というマンションに変わっています。右図の左下の赤い矢印です。

文壇昔ばなし②|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

             ○
紅葉の死んだ明治卅六年には、春に五代目菊五郎が死に、秋に九代目團十郎が死んでゐる。文壇で「紅露」が併稱された如く、梨園では「團菊」と云はれてゐたが.この方は舞臺の人であるから、幸ひにして私はこの二巨人の顏や聲音(こわね)を覺えてゐる。が、文壇の方では、僅かな年代の相違のために、會ひ損つてゐる人が随分多い。硯友社花やかなりし頃の作家では、巖谷小波山人にたつた一囘、大正時代に有樂座自由劇場の第何囘目かの試演の時に、小山内薰に紹介してもらつて、廊下で立ち話をしたことがあつた。山人は初對面の挨拶の後で、「君はもつと背の高い人かと思つた」と云つたが、並んでみると私よりは山人の方がずつと高かつた。「少年世界」の愛讀者であつた私は、小波山人と共に江見水蔭が好きであつたが、この人には遂に會ふ機會を逸した。小波山人が死ぬ時、「江見、己は先に行くよ」と云つたと云ふ話を聞いてゐるから、當時水蔭はまだ生きてゐた筈なので、會つて置けばよかつたと未だにさう思ふ。小栗風葉にもたつた一遍、中央公論社がまだ本郷西片町麻田氏のの二階にあつた時分、瀧田樗陰(ちよいん)に引き合はされてほんの二三十分談話を交した。露伴藤村鏡花秋聲等、昭和時代まで生存してゐた諸作家は別として、僅かに一二囘の面識があつた人々は、この外に鷗外魯庵天外泡鳴靑果武郎くらゐなものである。漱石一高の英語を敎へてゐた時分、英法科に籍を置いてゐた私は廊下や校庭で行き逢ふたびにお時儀をした覺えがあるが、漱石は私の級を受け持つてくれなかつたので、残念ながら聲咳に接する折がなかつた。私が帝大生であつた時分、電車は本鄕三丁目の角、「かねやす」の所までしか行かなかつたので、漱石はあすこからいつも人力車に乗つてゐたが、リュウとした(つゐ)大嶋の和服で、靑木堂の前で俥を止めて葉巻などを買つてゐた姿が、今も私の眼底にある。まだ漱石が朝日新聞に入社する前のことで、大學の先生にしては贅澤なものだと、よくさう思ひ/\した。

菊五郎 尾上(おのえ)菊五郎。明治時代の歌舞伎役者。市村座の座元。生年は1844年7月18日(天保15年6月4日)。没年は1903年(明治36年)2月18日。享年は満58歳。
團十郎 市川団十郞(だんじゅうろう)。明治時代の歌舞伎役者。屋号は成田屋。生年は1838年11月29日(天保9年10月13日)。没年は1903年(明治36年)9月13日。享年は満64歳。
紅露 コウロ。紅露時代。明治20年代の近代文学史上の一時期で、尾崎紅葉と幸田露伴が主導的立場にあった。
梨園 俳優、特に、歌舞伎役者の世界。唐の玄宗皇帝が梨の木のある庭園で、みずから音楽・舞踊を教えたという「唐書」礼楽志の故事から。
團菊 普通は三人で、団菊左。だんぎくさ。明治を代表する歌舞伎俳優、九世市川団十郎・五世尾上菊五郎・初世市川左団次のこと
声音 声の調子。こわいろ。
有楽座 日本初の全席椅子席の洋風劇場。場所は数寄屋橋の東北約150m。1908年(明治41年)12月1日に開場。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼亡。
自由劇場 小山内薫と市川左團次(2代目)が明治時代に起こした新劇運動。「無形劇場」で劇場や専属の俳優を持たない。
試演 試験的に上演や演奏すること。
少年世界 少年読者を対象とした雑誌。博文館発行。1895年1月創刊、1933年10月終刊。
中央公論社 雑誌『中央公論』を中心とする総合出版社。1886年に創立された西本願寺の修養団体「反省会」がその前身。1912年西本願寺から離れ、14年中央公論社と改称。坪内逍遙訳「新修シェークスピヤ全集」 (1933) 、谷崎潤一郎訳『源氏物語』 (39~41) などを出版。
西片(にしかた) 東京都文京区の町名。右上図は現在の西片町。このほぼ90%が昔の駒込西片町。これに駒込東片町・田町・丸山福山町・森川町・柳町の1部が合併し、成立したもの。
 旧麻田駒之助邸は残っています。左図を。
一高  昭和10(1935)年までは本郷向ヶ岡弥生町(現・東京大学農学部敷地)にありました。
聲咳に接する 正しいのは謦咳(けいがい)。尊敬する人に直接話を聞く。お目にかかる。
かねやす 東京都文京区本郷三丁目にある雑貨店。「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳で有名。
 つい。素材や模様・形などを同じに作って、そろえること。
大島 大島紬。おおしまつむぎ。鹿児島県奄美大島特産の伝統工芸品、紬織物の一種。高級着物地。
青木堂 文京区本郷5丁目24にありました。1階が小売店で洋酒、煙草、食料品を販売、2階は喫茶店。青木堂はここが本店。なお、牛込区通寺町(現、神楽坂六丁目)の青木堂とは関係はないといいます。

柴田宵曲|漱石覚え書

文学と神楽坂

 柴田宵曲(しょうきょく)は、大正-昭和時代の俳人で、昭和10年、俳誌「こだま」を主宰し、また俳句に関する随筆や考証物をまとめています。著作に「古句を観る」など。これは随筆をまとめた『漱石覚え書』のうち「神楽坂」の全てです。

 「『漱石覚え書』は、古書通信誌の昭和二十四年十月号から三十七年十二月号にかけて、『藻塩草』の題名のもとに書かれた随筆のうちから、抽出したものであったことは、その『はしがき』にも明らかにせられるごとくである。」と書かれています。したがって「神楽坂」は第二次世界大戦後で、間もない時期に書かれたものでしょう。

     神楽坂

 震災を免れたため、下町か復興するまでの間、特に繁華を示した神楽坂も、今度の戦火で全く亡びてしまった。両側の店の明るい灯影の中に夜店が立って、幅の狭い道をぞろぞろと人の往来するあの町も、何時になったら旧に復するか、今になって考えるといろいろ連想に上ることが多い。
 横寺町の先生と云われた紅葉の家は、神楽坂を上って肴町電車通を突切ってから、左へ曲ったあたりに在ったらしい。あの辺で育った友人などは、子供の時分に太弓場で弓を引く紅葉を見かけたことがあるそうである。紅葉中心の世界が神楽坂に及ぶのは当然であろう。
紅白毒饅頭」に出て来る縁日の描写は、毘沙門の縁日の夜に出かけて行って、ノートに書止めた材料を使ったのだという。御供についた泉鏡花が玄関番になって間も無い頃で、紅葉もまだ二十五歳の若い盛であった。
 鏡花の書いたものに神楽坂が現れるのは珍しくない。彼が半生を回顧すれば、はじめて文学の上に立脚地を与えられた横寺町時代の事が、何よりもなつかしく浮んで来る筈だからである。「春著」という随筆には、紅葉を中心とした当時の世界――未だ志を得ざる門下の士の生活が浮彫のように描かれている。その中に一人混っていた後藤宙外、この人の「明治文壇回顧録」の中にも神楽坂附近の消息に触れたものが屡々ある。
 漱石の小説は「三四郎」を最後として本郷から離れた観がある。これは早稲田南町に移った結果であるが、彼としては自分の生れた町の近くに帰ったわけであった。「それから」の中で深夜神楽坂にさしかゝって強い地震を感ずる一条は、彼自身の経験であることが日記によって証せられる。
 主人公の書生が「今夜は寅毘沙ですぜ」という寅毘沙なるものは紅葉が「紅白毒饅頭」に用いた毘沙門の縁日なので、常でも人通りの多い神楽坂が、この夜は一層のを呈するのである。
「早稲田派の忘年会や神楽坂」という子規の句は明治三十一年の作である。抱月宙外筑水梁川等が「早稲田文学」に筆陣を張った頃であろう。「藁店や寄席の帰りの冬の月 五城」という句の藁店は昔の寄席で、そのあとが後に牛込演芸館になった。この演芸館の事は「それから」の書生も口にしているが、今日ではちょっと説明のしようが無い。文学に現れたところによって、過去の歴史を辿る外はあるまいと思う。

横寺町。右図を。
肴町。現在は神楽坂5丁目です。
電車通。現在は大久保通り。
紅白毒饅頭。神道大成教に属する蓮門(れんもん)教は、コレラや伝染病が毎年のように流行するなか、驚異的に発展し、明治23年、信徒数は公称90万人。翌年尾崎紅葉の『読売新聞』「紅白毒饅頭」などの批判を受け、大成教は光津の資格を剥奪し活動を制限した。30年以降、教団は分裂し消滅。
屡々。しばしば。同じ事が何度も重なって行われる様子。たびたび。
早稲田南町。下図を。漱石山房記念館は現在建築中。
賑。しん。にぎわう。
五城。作は数藤五城氏でしょう。
牛込演芸館。寄席や舞台が中心でした。また私立東京俳優学校もここで開校しています。この場所は牛込館になりました。

 

明治文壇回顧録

 後藤宙外氏が描く『明治文壇回顧録』は、昭和11年に岡倉書房から出版されたもので、尾崎紅葉氏や島村抱月氏の回想は特に生彩が高いといわれています。氏が初めて紅葉氏と会った場所は横寺町で、ここにその一端を載せます。

 明治三十年五月頃、「作家苦心談」の筆記のために、牛込横寺町の尾崎紅葉氏を訪うて、初めて面晤することを得たのである。私は明治二十年頃からの氏の作は大抵讀んで居り、才人であり、好男子であることも聞いて居りましたが、親しく其の人に接して話を聞いたのは、この時が初めてであつた。かねて想像したよりは、強健さうな體格で、身の長も尋常の人よりは高い方であり、態度も何となく男らしく、所謂キビ/\したサツパリとした男ぶりに見えた。文人によくある色の生ツちろい、 弱々とした優男ではなかつた。眼のぱツちりした明るい顔で、活氣にみちて居られた。これは後に門下の某君から聞いたことだが、徴兵檢査の際には砲兵科の甲種合格であつたと云ふことだ。これを以て青年時代の同氏の體格と健康との程度が察しられる。
強い地震  夏目漱石作の「それから」「八の一」で強い地震が出てきます。

 神楽坂かぐらざかへかゝると、ひつそりとしたみちが左右の二階家にかいやはさまれて、細長ほそながまへふさいでゐた。中途迄のぼつてたら、それが急に鳴りした。代助はかぜむねに当る事と思つて、立ちまつてくらのきを見上げながら、屋根からそらをぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲はれた。と障子と硝子がらすおとが、見る/\はげしくなつて、あゝ地震だと気がいた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでゐた。其時代助は左右の二階さかうづむべく、双方から倒れてる様に感じた。すると、突然右側みぎかはくゞをがらりとけて、小供をいた一人ひとりの男が、地震だ/\、大きな地震だと云つてて来た。代助は其男の声を聞いて漸く安心した。
 うちいたら、婆さんも門野かどのも大いに地震の噂をした。けれども、代助は、二人ふたりとも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置しやうかと思案して見た。然し分別をらす迄には至らなかつた。ちゝあにの近来の多忙は何事だらうと推して見た。結婚は愚図々々にして置かうと了簡をめた。さうしてねむりに入つた。
寅毘沙、この演芸館  「それから」の「八の六」に寅毘沙や演芸館が出てきます。

代助は書斎に閉じ籠こもって一日考えに沈んでいた。晩食の時、門野が、
「先生今日は一日御勉強ですな。どうです、些ちと御散歩になりませんか。今夜は寅毘沙(とらびしゃ)ですぜ演芸館支那人(ちゃん)の留学生が芝居を()ってます。どんな事を演る積りですか、行って御覧なすったらどうです。支那人てえ奴は、臆面(おくめん)がないから、何でも()る気だから呑気(のんき)なものだ。……」と一人で喋舌(しゃべ)った。

神楽坂考|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆集『断崖のはての空』の「神楽坂考」の一部です。

-49・4「群像」

 さいきん広津和郎氏の『年月のあしおと』を再読する機会があったが、には特に最初の部分――氏がそこで生まれて少年時代をすごした牛込矢来町界隈について記しておられるあたりに、懐かしさにたえぬものがあった。
 明治二十四年に生誕した広津さんと私との間には、正確に二十年の年齢差がある。にもかかわらず、牛込は関東大震災に焼亡をまぬがれたので、私の少年期にも広津さんの少年時代の町のたたずまいはさほど変貌をみせずに残存していた。そんな状況の中で私は大正六年の後半から昭和初年まで――年齢でいえば六歳以後の十年内外をやはりあの附近ですごしただけに、忘しがたいものがある。
 そして、広津さんの記憶のたしかさを再確認したのに反して、昨年五月の「青春と読書」に掲載された林原耕三氏の『神楽坂今昔』という短文は、私の記憶とあまりにも大きく違い過ぎていた。が、ご高齢の林原氏は夏目漱石門下で戦前の物理学校――現在の東京理科大学で教職についておられた方だから、神楽坂とはご縁が深い。うろおぼえのいいかげんなことを書いては申訳ないと思ったので、私はこの原稿の〆切が迫った雨天の日の午後、傘をさして神楽坂まで行ってみた。
 坂下の左角はパチンコ店で、その先隣りの花屋について左折すると東京理大があるが、林原氏は鳥屋の川鉄がその小路にあって《毎年、山房の新年宴会に出た合鴨鍋はその店から取寄せたのであった》と記している。それは明治何年ごろのことなのだろうか。私は昭和十二年十月に牛込三業会が発行した『牛込華街読本』という書物を架蔵しているが、巻末の『牛込華街附近の変遷史』はそのかなりな部分が「風俗画報」から取られているようだが、なかなか精確な記録である。
 それによれば明治三十七年頃の川鉄は肴町二十二番地にあって、私が知っていた川鉄も肴町の電車停留所より一つ手前の左側の路地の左側にあった。そして、その店の四角い蓋つきの塗物に入った親子は独特の製法で、少年時代の私の大好物であった。林原文は前掲の文章につづけて《今はお座敷の蒲焼が専門の芝金があり、椅子で食ふ蒲どんの簡易易食堂を通に面した所に出してゐる》と記しているから、川鉄はそこから坂上に引っ越したのだろうか。但し芝金は誤記か誤植で志満金が正しい。私が学生時代に学友と小宴を張ったとき、その店には芸者がきた。
 ついでに記しておくと、明治三十六年に泉鏡花が伊藤すゞを妻にむかえた家がこの横にあったことは私も知っていたが、『華街読本』によれば神楽町二丁目二十二番地で、明治三十八年版「牛込区全図」をみると東京理大の手前、志満金の先隣りに相当する。村松定孝氏が作製した筑摩書房版「明治文学全集」の「泉鏡花集」年譜には、この地番がない。
 坂の中途右側には水谷八重子東屋三郎が舞台をふんだ牛込会館があって一時白木屋になっていたが、現在ではマーサ美容室のある場所(左隣りのレコード商とジョン・ブル喫茶店あたりまで)がそのである。また、神楽坂演芸場という寄席は、坂をのぼりきった左側のカナン洋装店宮坂金物店の間を入った左側にあった。さらにカナン洋装店の左隣りの位置には、昭和になってからだが盛文堂書店があって、当時の文学者の大部分はその店の原稿用紙を使っていたものである。武田麟太郎氏なども、その一人であった。
 毘沙門様で知られる善国寺はすぐその先のやはり左側にあって、現在は地下が毘沙門ホールという寄席で、毎月五の日に開演されている。その毘沙門様と三菱銀行の間には何軒かの料亭の建ちならんでいるのが大通りからでも見えるが、永井荷風の『夏すがた』にノゾキの場面が出てくる家の背景はこの毘沙門横丁である。

パチンコ店 パチンコニューパリーでした。今はスターバックスコーヒー神楽坂下店です。
引っ越し 川鉄はこんな引っ越しはしません。ただの間違いです。
正しい 芝金の書き方も正しいのです。明治大正年間は芝金としていました。
 読み方は「シ」か「あと」。ほかに「跡」「痕」「迹」も。以前に何かが存在したしるし。建築物は「址」が多い。

東京理大 地図です。理科大マップ
肴町22番地 明治28年の肴町22番地明治28年では、肴町22番地は右図のように大久保通りを超えた坂上になります。明治28年には川鉄は坂上にあったのです。『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、明治37年、1904年)では「鳥料理には川鐵(22番地)」と書いています。『牛込華街読本』(昭和12年)でも同様です。一方、現在の我々が川鉄跡として記録する場所は27番地です。途中で場所が変わったのでしょう。
ノゾキ 『夏すがた』にノゾキの場面がやって来ます。

 慶三(けいざう)はどんな藝者(げいしや)とお(きやく)だか見えるものなら見てやらうと、何心(なにごころ)なく立上つて窓の外へ顏を出すと、鼻の先に隣の裹窓の目隱(めかくし)(つき)出てゐたが、此方(こちら)真暗(まつくら)向うには(あかり)がついてゐるので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴(ふしあな)が丁度ニツあいてゐるのがよく分った。慶三はこれ屈強(くつきやう)と、(のぞき)機關(からくり)でも見るやうに片目を押當(おしあ)てたが、すると(たちま)ち声を立てる程にびつくりして慌忙(あわ)てゝ口を(おほ)ひ、
「お干代/\大變だぜ。鳥渡(ちよつと)來て見ろ。」
四邊(あたり)(はゞか)る小聾に、お千代も何事かと教へられた目隱の節穴から同じやうに片目をつぶつて隣の二階を覗いた。
 隣の話聾(はなしごゑ)先刻(さつき)からぱつたりと途絶(とだ)えたまゝ今は(ひと)なき如く(しん)としてゐるのである。お千代は(しばら)く覗いてゐたが次第に息使(いきづか)(せは)しく胸をはずませて来て
「あなた。罪だからもう止しませうよ。」
()(まゝ)黙つて隙見(すきま)をするのはもう氣の毒で(たま)らないといふやうに、そつと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも貸さず節穴へぴつたり顏を押當てたまゝ息を(こら)して身動き一ツしない。お千代も仕方なしに()一ツの節穴へ再び顏を押付けたが、兎角(とかく)する中に慶三もお千代も何方(どつち)からが手を出すとも知れず、二人は眞暗(まつくら)な中に(たがひ)に手と手をさぐり()ふかと思ふと、相方(そうほう)ともに狂氣のやうに猛烈な力で抱合(だきあ)つた。

求友亭|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

求友亭はきゅうゆうていと読み、通寺町75番地(今は神楽坂6丁目)にあった料亭です。現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って横丁の右側にありました。
夏目漱石氏が『硝子戸の中』の16章

彼(床屋)はそれからこの死んだ従兄(いとこ)について、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日(きのう)の事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。
「あのそら求友亭(きゅうゆうてい)の横町にいらしってね…」と亭主はまた言葉を継つぎ足した。
「うん、あの二階のある(うち)だろう」
「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、方々様(ほうぼうさま)から御祝い物なんかあって、大変御盛(ごさかん)でしたがね。それから(あと)でしたっけか、行願寺(ぎょうがんじ)寺内(じない)へ御引越なすったのは」
 この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。

ここで「しっきゃ」について。「しっきゃ」は「しか」と同じで「昨日の事と『しか』思われないのに」です。江戸なまりですね。

この「求友亭の横町」はかつて「川喜田屋横丁」と読んでいました。赤の四角で書いたものは求友亭、青で書いたものは川喜田屋横丁です。地図は昭和5年(1930年)の「牛込区全図」です。
川喜田屋横丁と求友亭
川喜田屋横丁と求友亭(75番)

求友亭があった場所。通寺町(現在は神楽坂六丁目)75番

現在の神楽坂六丁目75番に相当する場所(75番はなさそうです)

新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「大正期の神楽坂花柳界」では

 当時待合で大きな所といえば重の井、由多加、松ケ枝、神楽、梅林、喜久川といったところか? 料理屋では末よし、ときわ亭、求友亭だろう。末よしといえば、ここは芸者に大へん厳しくするお出先だ。

正宗白鳥氏の『神楽坂今昔』では

私は學校卒業後には、川鐵の相鴨のうまい事を教へられた。吉熊、末よし、笹川、常盤屋、求友亭といふ、料理屋の名を誰から聞かされるともなく、おのづから覺えたのであつた。

江見水蔭氏の「自己中心明治文壇史」(博文館、昭和2年)では

求友亭の女將は、相川傳次といふ消防夫の頭の實妹で、藝妓にも出てゐた、所謂女傑型の女で有つた。市川小團次とは深い間であつたが、それと知つてか知らずか、谷干城將軍が特別に贔屓にされてゐたのであつた。

以上、求友亭でした。

島田清次郎1|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂

奇矯な流行作家
 大正時代の今日でいうベストセラーを挙げると、夏目漱石有島武郎埒外におくと、江馬修「受難者」(大正五年刊)倉田百三「出家とその弟子」(大正六年刊)島田清次郎「地上」(大正八年刊)賀川豊彦「死線を越えて」(大正九年刊)であろう。これらのうち、今日なお読み継がれているのは「出家とその弟子」だけだ。ベストセラー作品のはかなさといったものを、痛感する。
 弱冠二十歳の無名作家が一躍ベストセラー作家になり、そのかわり三十一歳の若さで精神病院で狂死した「地上」の作者島田清次郎は、だが、ベストセラー作家の地位を保っているあいだ、つぎつぎと奇矯な振舞いにおよぴ、それらの振舞いで当時の文壇にさんざん話題をまいたものだ。その委細は、杉森久英氏の直木賞作品「天才と狂人の間」に尽くされている。ぼくはたまたま清次郎の晩年の姿を一瞥しているので、それを書いておきたいとおもう。当時の新聞紙上を賑わした海軍少将令嬢監禁のいわゆる島清事件を契機にして、ジャーナリズムからすっかり締め出しを食らい、急転直下、零落して行った清次郎の姿は、はなはだドラマティックでもあったからだ。
江馬修
受難者
江馬修えま なかし。大正、昭和時代の小説家。田山花袋にまなび、大正5年「受難者」が評判に。関東大震災後、人道主義から社会主義にうつり、「戦旗」に作品を発表。長編歴史小説「山の民」の完成に力をそそぎました。生年は明治22年12月12日。没年は昭和50年1月23日。85歳。「受難者」は、青春の愛と苦悩を描く長編小説。
倉田百三
出家とその弟子
倉田百三くらた ひゃくぞう。劇作家、評論家。病気のため第一高等学校を中退 (1913)、キリスト教を中心とする思索生活に。1916~17年『白樺』の衛星誌『生命の川』に戯曲『出家とその弟子』を連載、一躍有名作家に。大正期宗教文学ブームの先駆者。生年は明治24年2月23日。没年は昭和18年2月12日。53歳。「出家とその弟子」は、戯曲。大正5年(1916)発表。親鸞の子の善鸞と弟子の唯円の信仰と恋愛問題を通し「歎異抄」の教えを戯曲化。青空文庫で無料で読める。
島田清次郎
地上
島田清次郎しまだ せいじろう。嶋田清次郎。石川県出身。大正8年生田長江ちょうこうの推薦で出版した「地上」が大ベストセラーに。11年の欧州旅行後は精神をやみ、療養中に死亡。生年は明治32年(1899年)2月26日。没年は昭和5年4月29日。32歳。「地上」は、自伝的長編小説。大正8年(1919)、第1部「地に潜むもの」を刊行。以降、第2部「地に叛くもの」、第3部「静かなる暴風」、第4部「燃ゆる大地」を順次刊行。
賀川豊彦
死線を越えて
賀川豊彦かがわ とよひこ。キリスト教伝道者。社会運動家。神戸神学校に入学したが肺結核となり療養。 09年神戸新川で極貧の人々とともに生活しながら伝道。生年は明治21年7月10日。没年は昭和35年4月23日。「死線を越えて」は、長編小説。1920年(大正9)、改造社より刊行。神戸葺合新川で隣人愛を実践し貧民救済に尽力した主人公の半生記。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで無料で読める。
杉森久英
天才と狂人の間
杉森久英2すぎもり ひさひで。第二次大戦後、河出書房にはいり、「文芸」編集長に。昭和37年島田清次郎の生涯をえがいた「天才と狂人の間」で直木賞、平成5年伝記小説に一時代を画した功績で菊池寛賞。生年は明治45年3月23日。没年は平成9年1月20日。84歳。「天才と狂人の間」は、1962年、同郷の作家、島田清次郎を描いた伝記小説。

埒外 らちがい。ある物事の範囲の外
奇矯 ききょう。言動が普通と違っていること。
島清事件 大正12年、島田清次郎氏が海軍少将令嬢舟木芳江と逗子の旅館に宿泊。その後、島田氏に令嬢を脅迫監禁し、金品を強奪したという容疑が持ち上がり、警察は島田氏を拘引、事情聴取を行った。舟木家は監禁事件として訴えたが、令嬢の手紙が決め手となり、二人は以前から親しい関係にあったことがわかり、告訴は取り下げ。この女性スキャンダルは新聞や女性誌に大きく取り上げられ、理想主義を旗印にしてきた島田清次郎は凋落した。
零落 れいらく。おちぶれること。