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大久保通り(筑土八幡町ー神楽坂上ー牛込北町)|拡幅計画

文学と神楽坂

 東京都の予定だったものをあげると、平成31(2019)年度に、「筑土八幡町」から「神楽坂上」を通り、「牛込北町」までの「大久保通り」は、道路の幅を拡張して終了します。幅員は18メートルだったのが、30メートルになります。つまり、小さな小さな道路だったのを、巨大な巨大な都道に変えていくのです。いわばもう1本「外堀通り」ができるわけです。(実際の外堀通りは40メートルあります)。神楽坂も大久保通りの北と南、西と東で、かなり違っている可能性があります。

 ただし、この東京都のWEBは現在なくなっています。以前はありました。(http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2013/11/20nbp500.htm) 予定通りにいかなかったのでしょうね。2020年8月になっても、相当の道路が残っています。

 神楽坂上交差点から飯田橋交差点に行くところでは、店舗がなくなるものもあります。青線が新しい道路ができるはずのことろです。(ただし正確なものはありません。)まず遠くに半分見えるのが消防署です。

 遠くの角にあるフランス料理の「レ・グルモンディーズ FRENCH-DINING」はなくなり、途中の鉄板焼きの「円居-MADOy-神楽坂」やカフェ「ムギマル2」も確実に消滅します。

 神楽坂通りにある「河合陶器店」「山下漆器店」はすでに消滅し、ケーキ店の「チカリシャスニューヨークアマリージュ」もなくなりました。その1軒の東隣り「みんなの買い取りプラザ」はすでに更地になっています。

 また、「神楽坂アインスタワー」では大久保通りの拡幅について明確に出しています。

「ここは牛込、神楽坂」第18号「『寺内』に、超高層マンション計画」

 次は反対側で、牛込北町交差点にいくものです。
「牛込神楽坂駅」のすぐ前に大久保通りがやってきます。しかし、これぐらいです。

 東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)を開き、掲載マップから「都市計画情報」を開き、一番下の「同意する」を選択、「新宿区」を選び、「表示切替」から「都市計画道路」だけに変えると…

都市計画道路

 都市整備局の都市計画道路は知っていました。はるか昔からこの話を聞いていたからです。

 問題は袖摺坂の反対側です。南蔵院の墓地はなくなりません。しかし、パン屋の「MAISON KAYSER 神楽坂店」はなくなります。

 最も不思議なS型に上がる道路(私の命名では新蛇段々)です。どうなるのでしょうか。全く改修はないことはありません。小規模、あるいは大規模な改修があるはずです。その場合にはどう変貌するのでしょうか。

新蛇段々坂

 この拡幅は数十年前からあったものです。それがようやくできる。感無量です。

山下漆器店

文学と神楽坂

 昭和22年から神楽坂で漆器や和家具を売ってきた店です。場所はここ。しかし、東京都の大久保通りを変更し、18メートルだった道路を総計30メートルに拡幅し、この山下漆器店も道路になるという流れは変えられず、平成29年(2017年)2月、閉店し、7月ごろ、更地にしました。下の写真は昔のもの。
 新しい大久保通りは4車線で、その両側に自転車道(幅員2メートル)と歩道(幅員4メートル)を整備する予定でした。平成31年度に完成する予定。(しかし、予定は予定。現在は不明になっています

山下漆器店

かぐらむら」87号(平成28年8・9月)にNPO法人粋なまちづくり倶楽部理事長(山下漆器店二男)山下馨氏が「大久保通り拡幅と山下漆器店レクイエム(鎮魂歌)」として書いています。

 神楽坂5丁目の老舗、多くの顧客に愛されてきた山下漆器店が大久保通り拡幅事業によって近々閉店する。
 この店は開業70年の老舗であり、最近では、ちょいちよいテレビや雑誌に取り上げられる神楽坂の人気店の一つである。特に話題は、大正14年生まれの91歳店主兼看板おばあちゃん、山下弘子のしゃんとした立ち振る舞いで見せる元気ぶりである。(中略)
 ところが、そんな折、突然戦後70年間話題にも出てこなかった都市計画道路大久保通り拡幅事業が決定。拡幅事業エリア内にある山下漆器店は、隣接商店ともども閉店する運命となったのだ。(中略)
 本来、道路づくりはまちづくりと一体的に計画されるべきものである。域内交通とは異なり、通過交通動線としての大久保通りは、コミュニティを壊し、地域を分断し、商店街にダメージを与えるという宿命を持っている。従って、この拡幅計画には、地域へのマイナス面を極力小さくすべき慎重さが必要とされるべきなのだ。
 無駄な都市計画道路計画が全国各地で廃止されている時代にあって、多くの都民の人生を台無しにする事業を進めようとするならば、都知事、行政マンを含めすべての為政者は、よく心してことに当たるべきである。さもなければ、弘子のこころを納得させ、失われる大きな大切なものに対しての償いは出来ない。

と書いています。神楽坂は沢山の都市計画の末に今の神楽坂になりました。しかし、この拡幅計画自体に限定すれば、はるか昔からあったものだと思います。(この計画はあると私も知っていました)。それにしても、黙祷を捧げます。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、会談が行われた昭和63年(1988年)の当時は、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京してきました。

馬場さん それでいよいよ山下さんのところへくるわけだ。
相川さん それで山下さんのところは「伊藤洋品店」ってのがあって、そのあと昭和の代になってからキクヒデさんの兄さんが(店を)出した。いま京都の方にいるのは弟さんでね。兄さんは子どもがないんで京都に帰っちゃった。それで弟さんにキクヒデってのを譲った。中河清一さん(注)と仲がよくってね。いまは弟さんが何年かに一度は中河さんを呼ぶそうですよ。こっちの天利さんの方はもう借りられない、ダメらしいって見切りつけて、神田の小川町へ「キクヒデ刃物店」を出したんですよ。(注)元中河電気店の店主。現在「ゑーもん」の所で営業していた。
馬場さん 神田小川町に行ったがもうなかった。
相川さん そうですか。一度行ったけどね、その後、見ないからいなくなったかな。ところが霊友会に凝っちゃって、もうみんな差し上げちゃってね。娘さんをひとり亡くしたんですよ。それで、中河さんの亡くなったおじいちゃんが「よせとは言わないけど、ほどほどにしとけよ」って言ったんだから。
山下さん 四、五日あとにキクヒデさんが天利さんへやってきて「また貸してくれ」って言ってたって、私が神楽坂へきたあとにそんな話を聞きましたよ。