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矢来町|「東京物語」辞典①

文学と神楽坂

 現在言語セミナー編「『東京物語』辞典」(平凡社、1987年)からです。最初は矢来町。

文士罷り通る

 私の生家がある東京牛込の矢来町というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来のもみ並木というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
「幻について」色川武大

罷り通る まかりとおる。「通る」「通用する」を強制し、わがもの顔で通る。堂々と通用する。
矢来町 左図を参照
 もみ。マツ科の常緑高木。本州中部から九州の低山に生える。
名残り ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。
リアリティ 現実感。真実性。迫真性。

 もう少しこの文章を読むと(色川武大阿佐田哲也全集・3、福武書店、1991年)

 もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
 小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
 というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
 矢来町にはその頃、某大名の末裔の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友はみなオーバーなので私はその服装が嫌でしょうがなかった記憶がある。
 その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顏が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
 その女の人は、お面をつけていた。

発表誌 昭和54年、「別冊小説新潮」に発表
うじうじ 決断力がなく、思いためらう。ぐずぐず。
某大名の末裔 若狭わかさ国(福井県)小浜藩の酒井邸。
小道 右図を参照
学校 商業学校がありました。

 この本文に対する「解説」は……

 江戸名物の一つ、小浜藩主酒井邸の竹矢来が、明治五年の町名決定に際しそのまま「矢来町」となる。現在の東京の町名で旧地名が残る数少ない町の一つである。
 また明治期の矢来町は、多くの文学者が居住した町としても名高い。「海潮音」の上田敏が明治二十年。「今戸心中」の広津柳浪、実子で『神経病時代』の広津和郎が、二十四年からほぼ十年間居住。その他、小栗風葉川上眉山硯友社組に私小説の極北といわれる嘉村磯多など。
 英国留学より帰国した夏目漱石が、妻鏡子の実家のあるここ矢来町に三ヶ月いて、明治三十六年三月、本郷区千駄木町へ居を構えた。

竹矢来 竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い。

 最後は章の脚注です。

*現在でも都心とは思えぬほど静かな住宅街である。矢来町の中心には地下鉄東西線の「神楽坂」駅がある。本来、「矢来町」駅でもよかったはずなのだが、知名度を考えて神楽坂駅としたらしい。もっとも神楽坂の毘沙門天まで僅か二、三百メートルの距離でしかないが。
矢来能楽堂の近くに、新潮社の社屋がある。創設者佐藤義亮が「中央文壇にあこがれて十八歳の時、裸一貫で上京して以来、新聞配達をやり、牛乳配達をやり……辛酸を重ね、初め《新声社》を起したが倒産、捲土重来を期し改めて文芸出版社、新潮社を設立」(村松梢風「佐藤義亮伝」)した。出版界に大きなトレンドをつくった新潮社がここに出来たのは大正二年のことであった。

矢来能楽堂 1908年、神田西小川町に舞台を設けたが、関東大震災で焼失。1930年に牛込矢来町60の現在地に移って復興。1945年5月24日、空襲で再度焼失。昭和27年、現在の舞台・建物が完成。
捲土重来 けんどちょうらい。けんどじゅうらい。物事に一度失敗した者が、非常な勢いで盛り返すこと。
トレンド trend。動向。傾向。趨勢。風潮

弁天坂|箪笥町

文学と神楽坂

 大久保通りに弁天坂という坂があります。例えば、江戸時代の「町方書上」では

同所南蔵院前脇、町内入口小坂弁天坂、是南蔵院地内名高弁才天安置有之、右故里俗唱來り候哉、縁(起)旧記等無御座候

 小さい坂というのもちょっと違うんでは…と考えますが、拡大する前の道路を考えると、まあ、これもありかぁと思います。

 明治20年ごろの拡大図では

 大久保通りの一部に弁天坂があります。また「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

南藏院なんぞうゐんまへより市廛への入口に坂あり、辨天坂べんてんざかといふ、是、南藏院に辨天堂べんてんだうあるに因りて得たる名なり。

市廛 してん。町にある店。店のある町。市街地。

 横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では

新宿区箪笥町、南蔵院前を山伏町のほうへ上る坂。南蔵院には弁天堂がある。

 山伏町は西にありますので、これは正しいと思います。ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

弁天坂(べんてんざか) 芥坂ともいった。箪笥町の南蔵院前旧都電通り、箪笥町四二番南蔵院の道向いを横寺町の南西部に上る小坂。「府内沿革図書」についてみると、この坂は延宝年中から段坂で、現在と形があまり変わらない。(中略)
その境内に弁天堂があったのが、弁天坂のよび名になったものである。その弁天堂は本尊として尊崇されていたが、戦災後は再建されない。

 これでは弁天坂と袖摺坂を混同しています。これでは袖摺坂と全く同じです。

 東京都も弁天坂の標識をつくっています。ちょうど南蔵院の反対側です。内容は…

 坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には、南蔵院門前にあまざけやおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。
 坂上近くの横寺町四十七番地には、尾崎紅葉が、明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花小栗風葉が玄関番として住み、のちに弟子たちは庭つづきの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。

 また「新修新宿区町名誌」(新宿歴史博物館、平成22年)では

南蔵院前脇から町内入り囗への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)。

 以上、現在、弁天坂と考える坂は、大久保通りの一部だと考えています。

自然主義小説のころ|柳田国男

文学と神楽坂

 日本民俗学の創始者だった柳田国男ですが、10代のころは、新進気鋭の短歌の歌人でした。明治25(1892)年、数えで18歳、やはり短歌の田山花袋(数えで22歳)が初めて柳田氏に会いにきています。二人は親友になりました。それから時は流れ、20代後半から30代には、柳田氏の邸宅での土曜会がでてきました。やがて、この会は自然主義の文士が集まる竜土会になっていきます。これは柳田国男が自叙伝『故郷七十年』で描いた、その当時の会の様子です。

 自然主義という言葉を言い出したのは、田山であったろう。しかも英語のナチュラリズムという言葉をそのまま直訳したのだが、はじめは深い意味はなかったと思う。田山は何か私らの分らない哲学的なことを言い出したりしたが、それはもう後になってからの話であった。それよりはもっと平たく言えば、やはり通例人の日常生活の中にもまだ文学の材料として採るべきものがあるということを認めて、それを扱ってみようとしたといえると思う。
 別に私が田山に話したような奇抜なものだけを書かなければならないわけはない。たとえば二葉亭の「浮雲」や坪内さんの「書生気質」だって、別に変ったところもないだけに、かえって広い意味の自然主義の発端といえないこともなかろう。田山は私の犯罪調査の話ばかりでなく、私が旅行から帰って来ると、何か珍しい話はないかといって聞くことが多かった。私が客観的に見て話してやったのを彼が書いたものの中には、特赦の話以外にも多少注目に値するものもあった。不思議なことには、文学者というものは、われわれの話すことを大変珍しがるものである。想像もできないとかいって感心する。いわゆる「事実は小説よりも奇なり」というわけだろう。それにこちらもいくらか彼等にかぶれて、西洋の写実派の小説などを読んでいるために、そんな例までくらべて話してやるものだから、一時は大変なものであった。そしてとうとう、あすこへ行きさえすればたねがあるというようなことになった。
 小栗風葉など一番熱心に参加した。家があまり困らないものだから不勉強で、代作などを盛んにさせた元祖であった。真山(まやま)青果(せいか)などは初めのうち、ずっと風葉の名前で書いて生活をしていた。青果の方では自分の名で出せるようになるまでは、練習のつもりで代筆をしていたわけであろう。ともかく風葉などは、私のところへ来れば新しい話があるという気で、私に対していたのである。
 それからもう一人は、硯友社の川上眉山(びざん)であった。眉山は家庭が複雑で、気になることが多いためか、酒でまぎらすことが多かった。それに文筆で生活をする必要があって、骨が折れたらしい。しかも硯友社同人の立場にいながら、新興文学の端緒にも触れようという気持が強くて、森鴎外さんのものを片っ端から読んでいた。それに続いては国木田のものなどをよく読んでいた。死ぬ一年か一年半くらい前は、よく私のところに来た。
 それで十人ばかりの仲間が私の家に集まった。土曜日に催したから土曜会ということにしたが、毎週ではなく、たしか月二回ぐらいやっていたと思う。国木田がもちろん陰の黒幕で、島崎君もときどきは加わった。皆が集まった動機といえば、田山ばかりがたねをもらいに行って、うまいことをしているからということであった。明治三十七、八年のころだと思う。欧州でも二十世紀の初めで、英国の文学の一つの変り目にあたり、大陸の文学を盛んに英訳をしだした、ちょうどその時期に当っていた。フランスのドーデのものの英訳などが出始めたので、私が田山にすすめたことを憶えている。船に乗る人が盛んに買ったジャックの船上本などという英訳本が、日本にも来たものである。私は丸善に連絡をとっておいて、手元に届くたびに土曜会の連中に紹介した。この土曜会が後に快楽亭の会になり、三転して竜土(りゅうど)(かい)となったのである。
柳田国男の邸宅

柳田国男の邸宅

ナチュラリズム naturalism。自然主義。文学では客観描写を本領とする写実主義。哲学では自然を重視し、すべての現象を科学的法則で説明する。自然論。神学で、宗教的真理は自然の研究で得られるとする。
奇抜なもの 柳田国男が法制局で出会った特赦の例。子供や愛人が死亡し、自分だけが生きる悲惨な実例。
浮雲 小説。未完。明治20~89年発表。知識青年内海文三を通して明治の文明・風潮を批判し、自我の目覚めと苦悩とを写実的に描く、言文一致体の近代写実小説。
書生気質 当世書生気質。とうせいしょせいかたぎ。小町田こまちだ粲爾さんじという書生と芸妓との恋愛を中心に、当時の書生風俗の諸相を写実的に描き、「小説神髄」の理論の実践化を図ったもの
あすこ 牛込加賀町の柳田国男の邸宅。1901(明治34)年から1927(昭和2)年までこの加賀町に住んでいました。
土曜会 明治後期の文学者の集まり。1900年代初頭、東京牛込加賀町の柳田国男邸に田山花袋、国木田独歩、小栗風葉、柳川春葉、生田葵山、蒲原有明などが集まって文学談を交わした。次第に参加人数が増え、1902年1月、麴町の西洋料理店快楽亭の会合からは会場を外に設けた。牛込赤城神社下の清風亭、雑司ヶ谷鬼子母神の焼鳥屋などに移り、柳田国男氏の年譜では1905年7月、麻布竜土町のフランス料理店竜土軒が月例会場となった。近松秋江氏によれば「自然主義は龍土軒の灰皿から生まれた」という。
ドーデ フランスの小説家・劇作家。Alphonse Daudet。1840年~1897年。故郷プロバンス地方の風物を温かな人間味と詩的情緒豊かな作風で描いた。短編集「風車小屋便り」「月曜物語」、小説「プチ・ショーズ」、戯曲「アルルの女」など
ジャックの船上本 不明です。
快楽亭 麹町英国公使館裏通りの洋食店
竜土会 麻布竜土町のフランス料理店竜土軒から

故郷七十年|柳田国男

文学と神楽坂

 柳田国男氏に「故郷七十年」(神戸新聞、1958年)という本があります。民俗学が絡んだ自叙伝の本ですが、森鴎外尾崎紅葉などは普通に書き、しかし、泉鏡花については、かなり大胆な書き方をしています。以下は『定本柳田國男集 別巻3』に出ていた「泉鏡花」です。ちなみに柳田国男の生年は明治8年、泉鏡花は明治6年です。

 「故郷七十年」の1は、泉鏡花、2は自然主義小説について、3は30歳代に住んでいた加賀町、4は河童について、5は浅見淵氏が書く加賀町の家です。

  柳田国男は民俗学者で、市谷加賀町柳田家(よう)嗣子(しし)(民法旧規定で、家督相続人となる養子)として入籍し、結婚しています。

   泉鏡花

 星野家の天知夕影の兩君と、妹のおゆうさんとの住居は日本橋にあつた。中庭のある變つた家で、すぐそばに平田禿木も住んでいた。おゆうさんはどちらかというと、兄の友人などからちやほやされることに、意識的な誇りを覺えるというやうな型の婦人だったやうに思う。後に吉田賢竜君の所へ嫁いだ。
 吉田君は泉鏡花と同じ金澤の出身だつたので、二人はずゐぶんと懇意にしてゐた。よくねれた溫厚な人物で、鏡花の小説の中に頻々と現はれてくる人である。私が泉君と知り合ひになるきつかけは、この吉田君の大学寄宿舎の部屋での出來事からであつた。
 大學の一番運動場に近い、日當りのいゝ小さな四人室で、いつの年でも卒業に近い上級生が入ることになつてゐた部屋があつた。空地に近く、外からでも部屋に誰がゐるかがよく判るやうな部屋である。その時分私は白い縞の袴をはいてゐたが、これは當時の學生の伊達であつた。ある日こんな恰好で、この部屋の外を通りながら聲をかけると、多分畔柳芥舟君だつたと思ふが、「おい上らないか」と呼んだので、 窻に手をかけ一気に飛び越えて部屋に入つた。偶然その時泉君が室内に居合せて、私の器械體操が下手だといふことを知らないで、飛び込んでゆく姿をみて、非常に爽快に感じたらしい。そしていかにも器械體操の名人ででもあるかのやうに思い込んでしまつた。泉君の「湯島詣」という小説のはじめの方に、身輕さうに窓からとび上る 學生のことが書いてあるが、あれは私のことである。泉君がそれからこの方、「あんないゝ氣持になった時はなかつたね」などといってくれたので、こちらもつい嬉しくなつて、暇さえあれば小石川の家に訪ねて行つたりした。それ以来、學校を出てから後も、ずつと交際して来たのである。
 鏡花は小石川に住む以前、牛込横寺町尾崎紅葉の玄關番をしばらくしてゐた。しかし誰でも本を出すやうになると、お弟子でも師匠から獨立するのが一般のしきたりになっていたやうだ。ことに泉君は何となく他の諸君に対する競争心があって、人からあまりよく思われないやうな所があつた。
 酒を飮むにしてもまるで古風な飮み方をするし、あとの連中はまあ無茶な遊び方が多かった。そのいちばんの巨魁小栗風葉で、この連中は「あゝ、僞善者奴が」と泉の惡口をいうものだから、しまいには仲間割れがしてしまつた。
 同じ金澤出身の徳田秋聲君などともあまりよくなく、徳田君の方で無理してつき合っているような様子がうかがえた。徳田君は外國語の知識も若干あつたが、泉君の方は、それは昔風で、たゞ頭がいゝから、他人が譯した外國のものなども、こつそり讀んでいたやうである。いろ/\なことがあつたが、私にとっては生涯懇意にした友人の一人であつた。

とび上る学生 泉鏡花作の『湯島詣』から取った、部屋の外から中に一気に飛び込む場所です。

(にぎや)かだね、柳澤(やなぎさは)、」と(まど)(した)園生(そのふ)から(こゑ)()けたものがある。
        二
 一番(いちばん)(まど)(ちか)柳澤(やなぎさは)は、亂暴(らんばう)(むね)(そら)して振向(ふりむ)いたが、硝子(がらす)(ごし)(した)(のぞ)いて()て、
龍田(たつた)か。」
(たれ)()()るかい。」
根岸(ねぎし)新華族(しんくわぞく)だ、(はひ)れ。」と()つて()(なほ)る。
 同時(どうじ)に、ひよいと(まど)(ふち)()(かゝ)つた、飛附(とびつ)いて、(その)以前(いぜん)器械(きかい)體操(たいさう)()らしたか、()(かる)さ、(かた)()()げて(しつ)(なか)に、()()瀟洒(せうしや)なる(かほ)()したのは、龍田(たつた)()若吉(わかきち)といふのである。
 (あづさ)()(ゑみ)(ふく)み、
堪忍(かんにん)してやれ、神月(かうづき)はもう子爵(ししやく)ぢやあない。」といひながら腕組(うでぐみ)をして外壁(そとかべ)附着(くツつ)いたまゝで()る。柳澤(やなぎさは)椅子(いす)をずらして、
「まあ(はひ)れ、丁度(ちやうど)()い。(いま)其事(そのこと)()いて、神月(かうづき)問題(もんだい)といふのをはじめた(ところ)だ。一寸(ちよつと)(その)休憩時間(きうけいじかん)よ。神月(かうづき)(ひど)辯論(べんろん)(きう)して、き(さま)()るのを()つて()たんだぜ、龍田(たつた)()たらばツて()ういつてな。」

天知 星野天知。ほしのてんち。評論家。小説家。帝大農科大学卒。1887年平田禿木らと日本橋教会で受洗。明治女学校で教鞭を取り、1890年『女学生』を創刊、主筆に。26年、北村透谷らと「文学界」を創刊。のち書道研究に没頭。生年は文久2年1月10日、没年は昭和25年9月17日。享年は満88歳。
夕影 ほしのせきえい。建築家。帝大建築科卒。「文学界」同人となって雑誌経営の実務を担当。大卒後は内務省技師。日光東照宮の修復などに携わった。生年は明治2年11月8日、没年は大正13年3月19日。享年は満54歳。
頻々 ひんぴん。同じような事が次から次へと起こること。
伊達 人目にふれるような派手な行動をする。派手なふるまいなどで外見を飾る。
畔柳芥舟 くろやなぎかいしゅう。英語・英文学者。評論家。明治31年、一高教授。のち「大英和辞典」(冨山房)の編纂に専念。生年は明治4年5月17日。没年は大正12年2月20日。享年は満50歳。
湯島詣 芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中する話。
小石川の家 鏡花が住んでいた場所でしょう。小石川区大塚町57番地です。
巨魁 盗賊などの悪い仲間の首領。

尾崎紅葉の臨終④伊藤整

文学と神楽坂

 伊藤整氏の『日本文壇史』第7巻(講談社、初版は1964年)では尾崎紅葉氏の臨終を詳しく書いています。

 硯友社の社員は当初は4人でした。明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校、現・東京大学教養学部)の学生、尾崎紅葉山田美妙石橋思案と高等商業学校(現・一橋大学)の丸岡九華の4人が創立したのです。同年5月、機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を発行。以降、同人に巌谷小波(いわやさざなみ)広津柳浪川上眉山らが参加、また紅葉門下の泉鏡花小栗風葉柳川春葉徳田秋声等が加わっています。『我楽多文庫』には小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸(どどいつ)などさまざまな作品を載せ、その結果、明治20~30年代の文壇の中心勢力になりました。

 玄関の三畳に集っていた七人の弟子たちへも遺言するというので、皆は二階の八畳の病室へ入った。紅葉は目を閉していた。弟子たちが、
「先生、先生」と口々に呼んだ。
 紅葉は目を見開いた。そして言った。
「まづい面を持つて来て、見せろ。」
 一人一人名前を言え、と言われて、一同は次々と「小栗です」、「です」、「徳田です」、「柳川です」と言った。
 それに一つ一つうなずいてから、紅葉は言った。
「お前たち、相互に助け合って、おれの門下の名を辱しめないやうにしろよ。夜中は忙がしい所を毎夜かはるがはる夜伽(よとぎ)に来て呉れて満足した。どうか病気に勝って今一度生き返り、世話をしてやらうと思つてゐたこともあるが、もういかん。これから力を合せて勉強し、まづいものを食っても長命して、ただの一冊一篇でも良いものを書け……おれも七度生れ変つて文章のために尽す積りだから……」
 すすり泣く声か弟子たちの間に起った。

玄関の三畳 後藤宙外氏の『明治文壇回顧録』によれば

半坪程の土間につづく取次の間は、確か二畳であつたと思ふ

 と書き、一方、鳥居信重氏が『よこてらまち』(新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会)で描く尾崎邸の玄関は

畳二枚に板敷1畳分の玄関

と書いてあります。野口冨士男氏の『私のなかの東京』では

面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである

と書いています。図はここにあります。
七人の弟子たち 七人の名前のうち泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声以外はわかりません。
夜伽 病人の看護、主君の警備などのために夜通し寝ずにそばに付き添うこと。

「直さん、直さん」と妻喜久子の弟の医師樺島直次郎を呼び、モルヒネを多量に注射して死なしてくれ、と言った。樺島直次郎が、あまり興奮するといけない、と言うと、紅葉は憤然として、
「そんなに女々しくちや仕方がない。どうせ命かない者か悶え苦しんで二時間や三時間生きながらへて何になるものか」と言った。
 皆が困り切っていると、彼は言葉をついで、
「理窟の分らぬ奴ぢやないか。この苦しみをして生きてゐたつて、何の役に立つものか。お前等がそんなことを言ふのは。死んだことがないからだ。嘘だと思ふなら死んでみろ」と言った。
 あまり興奮させては、と皆が次の間に下り、樺島直次郎はカンフルにモルヒネを少し入れて注射した。そのあと紅葉は気分が落ちついた。そして何か甘い(あん)のようなものを食べたいと言うので、金鍔(きんつば)を一口食べさせた。
 そのうちに、また小栗、泉と呼ぶので二人が行くと、
「今夜は酒はどうした?」と、いつもの夜伽のことを訊いた。鏡花は、今夜も酒を持って来ました、徳田は、肴として鳥と松茸の煮たのを持って来ました、と言った。
「三十日近くに、えらいな。酒をここへ持って来て飲んだらよからう」と紅葉が言った。
 酒はもう下で皆で飲んでしまった後だったので、改めてそこへ酒を持って来させ、鏡花と風葉の間に置き、紅葉には管で少し口に入れてやり、あとを皆が一口ずつ飲んだ。別れの盃であった。

カンフル 樟脳。しょうのう。医薬名。中枢神経興奮薬で、心運動亢進や血圧上昇をきたす。興奮剤としてカンフル注射液を用いていたが、作用が不確実なため、使用は現在なくなった。
金鍔 小麦粉の薄い皮で餡を包み、刀の鍔に似せて平たくし、鉄板の上で軽く焼いた和菓子

金鍔

金鍔

 そのあとで紅葉が、思案に、
「石橋、是非解剖してくれ」と言った。
 思案が当惑して口ごもると、
「何だ生返事なんかしやがつて。おれを解剖すると新聞屋なんざあ種がふえて喜ぶだらう」と言って微笑した。そのあとで紅葉は、葬式に寝棺を使うと皆より高い位置になって悪いから、駕籠(かご)にしてくれと言い、また遺品の分配のことも言った。朝方の四時半には遺言もお別れも済んだ。
 その頃、突然、すさまじい音を立てて大雨が降りはじめ、雨の中に夜が明けた。
 紅葉が言った。
「石橋、曇天(クラウデイ・ウエザー)だな、なに、(レーン)が降つてる? どうも天気の悪いのが一番いやだ。」
 そして彼は顔をしかめた。
 それから彼は牛乳を少し飲んだ。五六人ががりで寝巻や蒲団をすっかり新しく取り替えたあと、紅葉はよく眠った。
 この十月三十日の朝早く打った電報で、 硯友社員の江見(えみ)水蔭(すいいん)川上(かわかみ)眉山(びざん)広津(ひろつ)柳浪(りゅうろう)丸岡(まるおか)九華(きゅうか)たちがまた駆けつけた。外に長田(おさだ)秋濤(しゅうとう)斉藤(さいとう)松洲(しょうしゅう)角田(つのだ)竹冷(ちくれい)などの友人も来た。午後になって、もう駄目だから暇乞いしようと言って、親戚から順に二人ずつ八畳の病室に入った。長田秋濤は涙を滂沱(ぼうだ)と流していた。柳浪と水蔭が一緒に入ると、紅葉は、目を開いて二人を見、
「遠方をわざわざ、……」と言って、すぐまた目を閉じた。柳浪も水蔭も胸が一杯になり、一語も発することかできなかった。眉山が入って行くと、紅葉は、眉山の我がままについて最後に忠告をした。眉山は泣き出した。
 その夜の十一時十五分、潮の引きぎわに、紅葉は昏睡したまま息を引きとった。

暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
滂沱 雨の降りしきるさま。涙がとめどもなく流れ出る様子

文壇昔ばなし②|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

             ○
紅葉の死んだ明治卅六年には、春に五代目菊五郎が死に、秋に九代目團十郎が死んでゐる。文壇で「紅露」が併稱された如く、梨園では「團菊」と云はれてゐたが.この方は舞臺の人であるから、幸ひにして私はこの二巨人の顏や聲音(こわね)を覺えてゐる。が、文壇の方では、僅かな年代の相違のために、會ひ損つてゐる人が随分多い。硯友社花やかなりし頃の作家では、巖谷小波山人にたつた一囘、大正時代に有樂座自由劇場の第何囘目かの試演の時に、小山内薰に紹介してもらつて、廊下で立ち話をしたことがあつた。山人は初對面の挨拶の後で、「君はもつと背の高い人かと思つた」と云つたが、並んでみると私よりは山人の方がずつと高かつた。「少年世界」の愛讀者であつた私は、小波山人と共に江見水蔭が好きであつたが、この人には遂に會ふ機會を逸した。小波山人が死ぬ時、「江見、己は先に行くよ」と云つたと云ふ話を聞いてゐるから、當時水蔭はまだ生きてゐた筈なので、會つて置けばよかつたと未だにさう思ふ。小栗風葉にもたつた一遍、中央公論社がまだ本郷西片町麻田氏のの二階にあつた時分、瀧田樗陰(ちよいん)に引き合はされてほんの二三十分談話を交した。露伴藤村鏡花秋聲等、昭和時代まで生存してゐた諸作家は別として、僅かに一二囘の面識があつた人々は、この外に鷗外魯庵天外泡鳴靑果武郎くらゐなものである。漱石一高の英語を敎へてゐた時分、英法科に籍を置いてゐた私は廊下や校庭で行き逢ふたびにお時儀をした覺えがあるが、漱石は私の級を受け持つてくれなかつたので、残念ながら聲咳に接する折がなかつた。私が帝大生であつた時分、電車は本鄕三丁目の角、「かねやす」の所までしか行かなかつたので、漱石はあすこからいつも人力車に乗つてゐたが、リュウとした(つゐ)大嶋の和服で、靑木堂の前で俥を止めて葉巻などを買つてゐた姿が、今も私の眼底にある。まだ漱石が朝日新聞に入社する前のことで、大學の先生にしては贅澤なものだと、よくさう思ひ/\した。

菊五郎 尾上(おのえ)菊五郎。明治時代の歌舞伎役者。市村座の座元。生年は1844年7月18日(天保15年6月4日)。没年は1903年(明治36年)2月18日。享年は満58歳。
團十郎 市川団十郞(だんじゅうろう)。明治時代の歌舞伎役者。屋号は成田屋。生年は1838年11月29日(天保9年10月13日)。没年は1903年(明治36年)9月13日。享年は満64歳。
紅露 コウロ。紅露時代。明治20年代の近代文学史上の一時期で、尾崎紅葉と幸田露伴が主導的立場にあった。
梨園 俳優、特に、歌舞伎役者の世界。唐の玄宗皇帝が梨の木のある庭園で、みずから音楽・舞踊を教えたという「唐書」礼楽志の故事から。
團菊 普通は三人で、団菊左。だんぎくさ。明治を代表する歌舞伎俳優、九世市川団十郎・五世尾上菊五郎・初世市川左団次のこと
声音 声の調子。こわいろ。
有楽座 日本初の全席椅子席の洋風劇場。場所は数寄屋橋の東北約150m。1908年(明治41年)12月1日に開場。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼亡。
自由劇場 小山内薫と市川左團次(2代目)が明治時代に起こした新劇運動。「無形劇場」で劇場や専属の俳優を持たない。
試演 試験的に上演や演奏すること。
少年世界 少年読者を対象とした雑誌。博文館発行。1895年1月創刊、1933年10月終刊。
中央公論社 雑誌『中央公論』を中心とする総合出版社。1886年に創立された西本願寺の修養団体「反省会」がその前身。1912年西本願寺から離れ、14年中央公論社と改称。坪内逍遙訳「新修シェークスピヤ全集」 (1933) 、谷崎潤一郎訳『源氏物語』 (39~41) などを出版。
西片(にしかた) 東京都文京区の町名。右上図は現在の西片町。このほぼ90%が昔の駒込西片町。これに駒込東片町・田町・丸山福山町・森川町・柳町の1部が合併し、成立したもの。
 旧麻田駒之助邸は残っています。図を。
一高  昭和10(1935)年までは本郷向ヶ岡弥生町(現・東京大学農学部敷地)にありました。
聲咳に接する 正しいのは謦咳(けいがい)。尊敬する人に直接話を聞く。お目にかかる。
かねやす 東京都文京区本郷三丁目にある雑貨店。「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳で有名。
 つい。素材や模様・形などを同じに作って、そろえること。
大島 大島紬。おおしまつむぎ。鹿児島県奄美大島特産の伝統工芸品、紬織物の一種。高級着物地。
青木堂 文京区本郷5丁目24にありました。1階が小売店で洋酒、煙草、食料品を販売、2階は喫茶店。青木堂はここが本店。なお、牛込区通寺町(現、神楽坂六丁目)の青木堂とは関係はないといいます。

青葡萄②|尾崎紅葉

文学と神楽坂

(うち)から使(つかひ)のある(ごと)に、(こゝ)から上下(うへした)応対(おうたい)するのは(れい)であるのに、今夜(こんや)(かぎ)つて、(かれ)一寸(ちよつと)()ふ。(すこぶる)不審(ふしん)()へなかつた。
不審(ふしん)()へなかつたのは、他聞(たぶん)(はゞか)やうな内密(ないみつ)用事(ようじ)のあるべきを(しん)ぜぬからである。(さう)()(こと)()い、とは(おも)ひながら、如何(いか)なる(こと)()つて()くかも(はか)られぬ(ひと)()である、もしや凶事(きやうじ)などではあるまいか、と不図(ふと)(かんが)へると、何彼(なにか)()しに慌忙(あわたゞ)しく階子(はしご)()りて、上框(あがりがまち)()て、(ふたゝ)び、(なん)だ、と(たづ)ねた。
(かれ)(ます/\)(こゝろ)()りげ気色(けしき)で、
少々(せう/\)申上(まをしあ)げたい(こと)が………。」
自分(じぶん)背後(うしろ)居並(ゐなら)此家(このや)(もの)()かせたくない(ふう)()える。此時(このとき)自分(じぶん)(むね)(あや)しく(とゞろ)いたのである。さて(かれ)入口(いりくち)の一(しつ)(みちび)いて、()たび、(なん)だ、と(たづ)ねた。
()けて()たのか、(かれ)(しきり)(はず)(いき)(した)から、
西木(にしき)(くん)容躰(ようだい)(よろし)くございませんから、早速(さつそく)(かへ)りくださいまし。」
()(こゑ)(ふる)へてゐる。
[現代語訳]家から使いがあるたびに、ここから上下で応対するのは普通だが、今夜に限り、彼は「ちょっと」といった。これはすこぶる不審にたえない。 不審にたえなかったのは、他聞をはばかるような内密の用事はあるとは信じてはいないし、そんなものはない、とは思うが、いかなることが降って湧わくかもわからない。これが人の世だ、もしや凶事などではないが、とふと考える。なんとなく、あわただしくなってきて、階段をおりて、上がりがまちにでて、また「なんだ」と訊ねた。
 彼はますます意味があるような気色で、
「少々申しあげたい事が………。」
と自分の背後にいるこの家の沢山の人には聞かせたくないようだ。このとき自分の胸はあやしくとどろいたのである。そこで彼を入口の一室に導き、三回目の「なんだ」と尋ねた。 駆けてきたのか、彼はしきりにはずむ息の下から、
「西木君の容体がよろしくごさいませんから、早速お帰りくださいまし」
と言う声は震えていた。

不審 疑わしく思うこと。
他聞を憚る たぶんをはばかる。他人に聞かれては困る。世間に知られるとさしさわりがある。
内密 表ざたにしないこと。ないしょ。内々。
何かなしに なんとなく。理由はわからないが。
上框 玄関や勝手口の段差部分に取り付ける化粧材。右図を。
心ありげ こころありげ。意味有りげ。いみありげ。何か特別な意味がありそうな様子。言葉に表さない含みがありそうな様子
 人を表す名詞に付いて、複数の人を尊敬や親愛の意を込めて言い表す。多くの人。
異しく あやしく。怪しく。妖しく。不気味な感じがする。神秘的な感じがする。
過む はずむ。弾む。勢む。呼吸が激しくなる。荒くなる。
西木 西木秋葉。実際は「小栗風葉」氏のこと。

西木(にしき)病気(びやうき)? (なん)だ、(なん)だ、(なん)だ?」
自分(じぶん)渠等(かれら)草稿(さうかう)()()()たぬ(ところ)(いた)ると、一抹(いちまつ)朱棒(しゆばう)(くら)はしながら(つね)絶叫(ぜつけう)する、(その)絶叫(ぜつけう)(もつ)(かれ)(ことば)(なん)じた。
西木(にしき)()ふは、(わが)門下(もんか)秋葉(しうえふ)である。(かれ)は二週間(しうかん)(まへ)から胃弱(ゐじやく)()むで、服薬(ふくやく)をしてゐるのであるが、(この)二三日は(しよく)(つか)へるとて、(かゆ)()つて、坐臥(ごろ/\)してゐたのではないか。今日(けふ)午後(ひるすぎ)まで異常(ゐじやう)()かつたものが、脚気(かつけ)衝心(しようしん)や、脳充血(なうじうけつ)のやうに、(ひと)呼立(よびた)てるほどの劇変(げきへん)のあらう道理(だうり)()い。
容躰(ようだい)()くない」、などゝは、文字(もんじ)(じやう)意義(いぎ)(おい)てこそ(かる)いが、実際(じつさい)は、「死に(ひん)」と()ふやうな場合(ばあひ)(もち)ゐられる、容易(ようい)ならざる(ことば)である。(だれ)大病(たいびやう)(すぐ)()い、といふ電報(でんぱう)(ぶん)は、(おほ)臨終(りんじう)(のち)(もち)ゐられる気安(きやすめ)文句(もんく)()ぎぬ。容躰(ようだい)()くないとは、九死(むづかしい)()ふのを(ひと)()らせる隠語(いんご)である。
自分(じぶん)()解釈(かいしやく)したから、(ゆめ)かと(おどろ)いた。
[現代語訳]「西木の病気? 何だ、何だ、何だ?」
 自分が誰かの草稿を見て意に満たない場所を発見すると、朱筆で打撃を与えつつ、常に絶叫する。同じ絶叫をもって彼の言葉を非難した。
 西木という奴は、つまり、わが門下の秋葉だが、二週間も前から、胃弱でやすみ、服薬をしていた。この二、三日は食がつかえるといい、おかゆを食べて、ごろごろしていたのではないか。今日の昼すぎまで異常のなかったものが、脚気衝心や、脳充血のように、人を呼立るほどの劇変のある道理はない。
「容体がよくない」などとは、文字上の意義こそ軽いが、実際は「死に瀕する」というような場合に用いる、容易ではない言葉だ。「これこれが大病すぐ来い」という電報の文は、多く臨終が終わってから用いられる気安めの文句に過すぎない。容体がよくないとは、難しいというのを人に知せる隠語である。
 自分はそう解釈したから、夢かと驚いた。

一抹 いちまつ。絵筆のひとなすり、ひとはけの意味から。ほんのわずか。かすか。ここでは一回の意味でしょう。
朱棒 朱筆。朱墨用の筆。朱墨の書き入れ。
吃わす くらわす。食らわす。他人に打撃を与える。「吃」は「どもる」「食べる」の意味。
絶叫 ぜっきょう。出せるかぎりの声を出して叫ぶこと。
痞える つかえる。胸がふさがったような感じになる。
坐臥 ざが。座臥。坐臥。すわることとねること。
脚気衝心 かっけしょうしん。脚気に伴う心筋障害。心臓肥大と脈拍数増加が著しく、急性心不全を起こすこともある。
脳充血 脳の血流量が増加した状態。精神的興奮、頭部の加熱、飲酒などが原因の動脈性充血と心臓病、肺気腫、激しい咳嗽などが原因の静脈性鬱血がある。
瀕す ひんす。瀕する。よくない事態がすぐ間近にせまっている。さしせまる。
九死 きゅうし。ほとんど死を避けがたい危険な場合。「九死に一生を得る」とは危ういところで奇跡的に助かる。
隠語 いんご。特定の社会・集団内でだけ通用する特殊な語。例えば「たたき」は強盗、「さつ」は警察など。

如何(どふ)したのだ?」
(われ)ながら震声(ふるひごゑ)(するど)問詰(とひつ)めた。
(かれ)四辺(あたり)(みまは)て、(きは)めて小声(こごゑ)に、
()(しや)(はじ)めました!」
()(しや)! 秋葉(しうえう)(すで)()せり、と()くも(おな)じやうに、(ひし)(むね)(こた)へたが、(たちま)猛然(まうねん)として、(たと)へば、()()ひたる武者(むしや)(ゆう)()したるやうに、
(よし)()け! 医者(いしや)は?」
四辺(あたり)(しの)(こゑ)ながら、(かれ)(みゝ)には破鐘(われがね)(ごと)(ひゞ)いたであらう。(かれ)(はし)りかけた()棯向(ねぢむ)けて、
(ケー)()(まゐ)りました。」
自分(じぶん)(うなづ)くのを()るより(はや)()むで()つた。(ひと)(おどろ)かすまい、と自分(じぶん)(ことさら)従容(しようよう)として(せき)(かへ)ると、
客来(きやくらい)かね。」  と(かく)一人(ひとり)(たづ)ねた。
親類(しんるゐ)のものが()たので、()かずはなるまい。」
何気(なにげ)()(こた)へて、取散(とりちら)してある煙管(パイプ)や、手巾(ハンカチーフ)懐中物(くわいちうもの)などを手早(てばや)(をさ)めた。
()たのは親類(しんるゐ)のものか。天下(てんか)に「()」を親類(しんるゐ)()(ひと)があらうか、口実(こうじつ)()らうに、親類(しんるゐ)とは(いま)はしいことを()つたものである。無心(むしん)ながらも親類(しんるゐ)()つたは、這箇(この)()」を歓迎(くわんげい)せねばならぬ非運(ひうん)(てう)ではあるまいか、と(おも)はれた。
自分(じぶん)綽々(しやく/\)として身支度(みじたく)をした(つもり)であつたが、有繋(さすが)(つね)ならぬ(ところ)()えたか、一座(いちざ)(もの)()はずに()(そば)て、自分(じぶん)(こゝろ)()まむとする気色(けしき)であつた。
就中(なかにも)(つね)から(するど)(イー)()(まなこ)烱〻(ぎろ/\)(きらめ)た。()へば(かなら)(こた)へると()(エチ)()(した)さへ(うご)かなかつた。渠等(かれら)(なに)()(うたが)つたに相違(さうゐ)ないのである。
[現代語訳]「どうしたのだ?」
と我ながら声は震えてるが、するどく問い詰めた。
彼はあたりを見回して、極めて小声で、
「吐瀉を始めました!」
吐瀉とは嘔吐と下痢だ! 秋葉は既に死亡した、と聞くのも同等で、ひしひしと胸にこたえた。だが、たちまち猛然として、まるで傷を負った武者が勇気をだしたように、
「よし、行け! 医者は?」
 あたりを忍ぶ声だったが、彼の耳には割れ鐘のごとく響いたであろう。彼は走りかけた身をねじむけて、
「K氏がまいりました。」
と自分でうなづくのを見るより速く飛んで行った。人を驚かすまい、と自分はことさらに落ち着いて席に帰ったが、
「客が来たのかね。」
と客の一人は訊ねた。
「親類のものがきたので、行かずはなるまい。」
と何気なく答えて、あちこちにあったパイプや、ハンカチーフ、懐中物などを手早く収めた。
 来たのは親類のものなどあるがない。「死」は親類の人ではない。口実である。しかし、親類とは忌まわしいことを言ったものである。気が利かないけれど、親類と言ったのは、この「死」を歓迎せねばならない非運のきざしではあるまいか、と思ったのだ。
 自分はゆとりはあって身支度をしたつもりだったが、さすがに常ならぬところが見えたのか、一座は物もいわずに目をそばめて、自分の心を読もうとする気色があった。
 なかでも常から鋭いE氏の眼はぎろぎろときらめいた。言えば必ず答えるというH氏の舌さえ動かなかつた。彼らは何となく疑ったに相違ないのである。

眗す 見回す・見廻す。まわりをぐるっと見る。
吐瀉 はいて、くだすこと。嘔吐と下痢。
犇と 外部からの働きかけが身や心に強く迫ったり感じたりする様子。 寒さがひしと身にこたえる。寂しさがひしと胸にせまる。
徹える 胸にこたえる。心に強く感じる。身にしみる。
破鐘 われがね。ひびの入った釣鐘。その音から、濁った太い大声。
K氏 加藤医師で、紅葉氏の学友でした。
従容 しょうよう。ゆったりと落ち着いているさま
綽々 しゃくしゃく。落ち着いてゆとりがあるさま。
側める そばめる。横へ向ける。横目で見る。
就中 なかんずく。その中でも。とりわけ。
烱烱 けいけい。炯炯。(目が)鋭く光る。
晃く きらめく。煌めく。光り輝く。きらきらする。

春着|泉鏡花①

文学と神楽坂

 大正13年、50歳の泉鏡花氏は、紅葉氏の弟子になったばかりの時を思い出しながら「春着」を書いています。登場人物は全員20歳内外で、若い時期です。

     (はる)()

大正十三年一月
あらたま春着はるぎきつれてひつれて

 少年行せうねんかうまへがきがあつたとおもふ……こゝに拜借はいしやくをしたのは、紅葉先生こうえふせんせい俳句はいくである。ところが、そのつれてとある春着はるぎがおなじく先生せんせい通帳おちやうめん拜借はいしやくによつて出來できたのだからめうで、そこがはなしである。さきに秋冷しうれい相催あひもよほし、次第しだい朝夕あさゆふさむさとり、やがてくれちかづくと、横寺町よこでらまち二階にかいあたつて、座敷ざしきあかるい、大火鉢おほひばちあたゝかい、鐵瓶てつびんたぎつたとき見計みはからつて、お弟子でしたちが順々じゆん/\、かくふそれがしも、もとよりで、襟垢えりあかひざぬけ布子ぬのこれんかしこまる。「先生せんせい小清潔こざつぱりとまゐりませんでも、せめて縞柄しまがらのわかりますのを、新年しんねん一枚いちまいぞんじます……おそりますが、帳面ちやうめんを。」「また濱野屋はまのやか。」神樂坂かぐらざかには、ほか布袋屋ほていやふ――いまもあらう――呉服屋ごふくやがあつたが、濱野屋はまのやはう主人しゆじんが、でつぷりとふとつて、莞爾々々にこ/\してて、布袋ほてい呼稱よびながあつた。

[現代語訳]新春の着物
[俳句] 新春で新人たちは一緒に着物も着、酒も呑み
「少年行」と前書きがあったと思うが……ここで拝借したのは、尾崎紅葉先生の俳句である。ところが、おなじく新春の着物も先生の通帳の金を拝借してできたのだから妙であり、いきさつもある。秋になって肌に感じられる冷ややかさになり、それが次第に朝夕の寒さになり、やがて暮も近づくと、横寺町の紅葉先生の二階に日があたり、座敷が明るくなり、大火鉢も暖かく、鉄瓶の湯は沸騰する。そんな時を見計らって、弟子たちが順々に、こう言うのである。それがしも、襟には垢があり、穴が膝のところに開いている粗末な防寒衣をまとい、正座して、「先生、小清潔とはいえませんが、せめて縞柄だとわかるものを、新年に一枚ぐらい作りたいのです。おそれいりますが、お金を貸してください」。「また浜野屋か」。神楽坂には他に布袋屋という――いまもあるはずだが――呉服屋もある。この浜野屋の主人は、でっぷりと肥っていて、にこにこして、まさに布袋樣という呼び名があった。

春着 はるぎ。正月に着る晴れ着。春に着る衣服。春服。
あら玉 その真価や完成された姿をまだ発揮していないが、素質のある人。「新玉」では枕詞「あらたまの」が「年」にかかるところから「新玉の年」の意味で、年の始め。新年。正月。2つの掛詞でしょう。
きつれて酔いつれて 着物を一緒に着て、一緒に酒も飲んでいる
通帳を拝借 尾崎紅葉から金を借りたことにして
秋冷 しゅうれい。秋になって肌に感じられる冷ややかさ
横寺町 地図を参照。ここに尾崎紅葉氏が住んでいました。また二階は氏の書斎でした。
尾崎紅葉邸の跡
襟垢 えりあか。衣服の襟についた垢。
膝ぬけ 穴が膝のところに開いている。
布子 綿入れのこと。庶民が胴着にして着用した粗末な防寒衣。
畏まる 身分の高い人、目上の人の前などで、おそれ敬う気持ちを表して謹んだ態度をとる。謹みの気持ちを表し堅苦しく姿勢を正して座る。正座する。
縞柄 しまがら。縦か横の筋で構成した幾何学模様
お帳面 帳簿。収支帳。金を貸すことでしょう
浜野屋 神楽坂6丁目にあったようです。新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に「通寺町1番地(現在は神楽坂6丁目 )に牛肉の第十八いろは、通寺町75番地(明進軒の先)に料理屋求友亭など、さすが花柳界が近いので料亭も多かった。まだこの外にも牛込勧工場、呉服の浜野屋、瓦せんべいの近江屋、茶の明治園、蒲鉾の山崎、菓子の小まつ、紙の小松屋、洋酒の青木堂、千とせ鮓、蒲焼の橋本、甘藷の児玉、しるこの松月、缶詰の越後屋、洋酒と煙草の青木堂、乾物の西川、洋傘の東条など目白押しに両側に並んでいたし、東裏通りには宮内省へ納めていた大阪鮨で有名な店があった。」と書いてあります。しかし、これ以上の記録はありません。
布袋 唐代末期で中国浙江省寧波市に実在した仏僧。巨大な太鼓腹にいつも半裸の僧侶は大きな袋を背負い、袋の中に身の周りの持ち物を入れて、放浪生活を送っていました。日本では七福神の一つ。

 が、太鼓腹たいこばら突出つきだして、でれりとして、團扇うちは雛妓おしやくあふがせてるやうなのではない。片膚脱かたはだぬぎで日置流へぎりうゆみく。獅子寺ししでら弓場だいきうば先生せんせい懇意こんいだから、したがつて弟子でしたちに帳面ちやうめんいた。たゞし信用しんようがないから直接ぢかでは不可いけないのである。「去年きよねんくれのやつがぼんしてるぢやないか。だらしなくみたがつてばかりるからだ。」「は、今度こんど今度こんどは……」「かぶつてら。――くれにはきつれなよ。」――そのくせ、ふいとつて、「一所いつしよな。」で、とほりて、みぎ濱野屋はまのやで、御自分ごじぶん、めい/\に似合にあふやうにお見立みたくだすつたものであつた。
[現代語訳] が、浜野屋の主人は太鼓腹を突出して、でれーとして、うちわを雛妓にあおがせているような人間ではない。片膚脱いで、日置流の弓を引く。獅子寺の大弓場で先生と懇意だ。したがって先生は弟子たちにとって必要な金を貸してくれるが、信用がないから直接いっても、くれないのである。「去年の暮のやつが盆を越えてもまだ返していない。だらしなく飮みたがってばかりいるからだ。」「は、今度という今度は……」「うそだろう。――この暮にはきっと入れなよ。」――そのくせ、ふいと立って、「一緒に来な。」で、通りへ出て、浜野屋に入り、自分用と各自の弟子用に似合うように見立てしたものだった。

雛妓 まだ一人前にならない芸妓。半玉(はんぎょく)
日置流 へきりゅう。弓術の一派。近世弓術の祖の日置弾正正次が室町中期に創始
獅子寺 曹洞宗保善寺のことです。江戸幕府三代将軍である徳川家光が牛込の酒井家を訪問し、ここに立寄り、獅子に似た犬を下賜しました。以来「獅子寺」とも呼んでいます。明治39年、保善寺は中野区上高田に移転しました。

新宿文化絵図-新宿まち歩きガイド。2010年。新宿区。


東京実測図。明治18-20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。


弓場 弓の練習をする所。尾崎紅葉氏の大弓場はここに
お株 その人の得意とする芸。「うまいことを言ってら」「おおぼらつきだな」でしょうか

 春着はるぎで、元日ぐわんじつあたり、たいしてひもしないのだけれど、つきとあしもとだけは、ふら/\と四五人しごにんそろつて、神樂坂かぐらざかとほりをはしやいで歩行あるく。……わかいのが威勢ゐせいがいゝから、だれも(帳面ちやうめん)をるとはらない。いや、つてたかもれない。道理だうりで、そこらの地内ちない横町よこちやうはひつても、つきとほしかうがいで、つまつて羽子はねいてが、こゑけはしなかつた。割前勘定わりまへかんぢやうすなは蕎麥屋そばやだ。とつても、まつうちだ。もりかけとはかぎらない。たとへば、小栗をぐりあたりいもをすゝり、柳川やながははしらつまみ、徳田とくだあんかけべる。しやくなきがゆゑに、あへ世間せけんうらまない。が、各々おの/\その懷中くわいちうたいして、憤懣ふんまん不平ふへい勃々ぼつ/\たるものがある。したがつて氣焔きえんおびたゞしい。
のありさまを、たか二階にかいから先生せんせいが、

あらたま春着はるぎきつれてひつれて

なみだぐましいまで、可懷なつかしい。

[現代語訳] この新春のお祝いで、着物を着て、元日には、たいして酔いもしないのだが、目つきと足もとだけは、ふらふらと四五人揃って、神楽坂の通りをはしゃいで歩いている。……若いのが威勢がいいから、誰も(金を借りて)いるとは知らない。いや、知っていたかもししれない。道理で、そこらの地内や横町にはいっても、芸者たちはかんざしや羽子板をついているが、声を掛けてはくれない。ええい、割り勘だ。蕎麦屋に行こう。と言っても、松の内なので、もりそばやかけそばとは限らない。たとえば、小栗氏はヤマイモの根っこをすすり、柳川氏はホタテガイをつまみ、徳田氏があんかけを食べている。お酌はしないので、あえて世間は恨まない。が、各々その懐中に対して、憤懣や不平には勃々たるものがある。したがって気炎もおびただしい。
このありさまを、高い二階から先生が、
[俳句] 新春で新人たちは一緒に着物も着、酒も呑み
涙ぐましいまで、なつかしい。

帳面 帳簿。収支帳。つまり金を借りていること。
地内 一区域の土地の内。なお、「寺内」と書くとかつて行元寺という寺があり、牛込肴町と呼ばれていた、現在神楽坂5丁目の地域を指す。
つきとほす つきとおす。突き通す。突いて裏まで通す。突き抜く。つらぬく。
 こうがい。女性の(まげ)に横に挿して飾りとする道具。
褄を取る 芸者になる。芸者が左褄をとって歩くことから。
羽子 ムクロジの種に穴をあけ、色をつけた鳥の羽を4、5枚さしこんだもの。羽子板でついて遊ぶ。はね。つくばね。
 以上は芸者や芸妓、雛妓のことです。
割前勘定 これから「割り勘。割勘。わりかん」に。費用を各自が均等に分担すること。また、各自が自分の勘定を払うこと。
松の内 正月の松飾りのある間。元旦から7日か15日まで。
もり もりそば。盛り蕎麦。蕎麦を冷たいつゆをかけて食べる麺料理。
かけ かけそば。蕎麦に熱いつゆをかけて食べる麺料理。
あたり芋 擂り芋。ヤマノイモの根をすりおろしたもの。醤油や酢で食べたり、とろろ汁にする。
はしら ホタテガイ、イタヤガイなどの肉柱を加工した食品。
あんかけ くず粉やかたくり粉でとろみをつけた料理。
お酌 酌をする女。酌婦。一人前になっていない芸者。
懐中 ふところやポケットの中。また、そこに入れて持っていること。
憤懣 いきどおって、発散させず、心にわだかまる怒り。
勃々 勢いよく起こり立つさま。
気焔 きえん。気炎。燃え上がるように盛んな意気。議論などの場で見せる威勢のよさ

春着|泉鏡花⑦

 春着はるぎにつけても、ひとつやつぽいところをおけよう。
 ときに、川鐵かはてつむかうあたりに、(水何みづなに)とかつた天麩羅屋てんぷらやがあつた。くどいやうだが、一人前いちにんまへ、なみで五錢ごせん。……横寺町よこでらまちで、おぢやうさんのはつのお節句せつくときわたしたちはこれ御馳走ごちそうつた。その時分じぶん先生せんせい御質素ごしつそなものであつた。二十幾年にじふいくねんもつとわたしなぞは、いまもつて質素しつそである。だんは、勤儉きんけんだいして、(大久保おほくぼ)のいんしてもい。
[現代語訳] 新春の着物につけても、ひとつ艷っぽいところをお目にかけよう。
 そのとき、川鉄のむかうあたりに、(水何)とかいった天麩羅屋があった。くどいようだが、一人前、並で五銭。……横寺町で、お孃さんの最初のお節句の時、私たちはここでご馳走になった。その時分、尾崎紅葉先生の生活は御質素なものだった。二十数年が経つが、もっとも私なぞは、今もって質素である。この場合は、勤倹と題して、(大久保)の印を押してもいい。

水何 これは岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」によれば、「水文料理」だったのでしょうか。ほかには全くありません。
 初めてであること。初め。最初。
 技量・品質などによる格付け。また、その格。変化・進行している物事の過程の一つ一つ。場面。局面

 その天麩羅屋てんぷらやの、しかも蛤鍋はまなべ三錢さんせんふのをねらつて、小栗をぐり柳川やながは徳田とくだわたし……宙外ちうぐわいくんくははつて、大擧たいきよして押上おしあがつた、春寒はるさむ午後ごごである。銚子てうしいりわるくつて、しかも高値たかいとふので、かただけあつらへたほかには、まち酒屋さかやから、かけにしてばん口説くどいた一升入いつしよういり貧乏徳利びんぼふどくりたれかが外套ぐわいたうちう。おなじく月賦げつぷ……這個このまつくろなのを一着いつちやくして、のそ/\と歩行あるやつを、先生せんせいあざけつて――月府げつぷげんせん。)のしたしのばしたいきほひだから、氣焔きえんと、殺風景さつぷうけいしてるべしだ。……酒氣しゆき天井てんじやうのではない、いんこもつてたゝみけこげをころまはる。あつかんごと惡醉(あくすゐ)たけなはなる最中さいちう
[現代語訳] その天麩羅屋の、しかも蛤鍋三銭というのを狙って、小栗柳川徳田……宙外君が加わって、大挙して店の上に登った。春の寒い午後である。お銚子は効いてこなくって、しかも高値というので、注文は一本だけで、ほかには、町の酒屋の番人にあと払いにと口説き、一升入りの貧乏徳利を誰かが外套の下に(註。外套はおなじく月賦で買ったもの……この真っ黒な着物をつけ、のそのそと歩く人を、先生は嘲って――月府黒蝉と呼ぶ)、勢いで忍ばしたので、威勢のよさと、殺風景なのはよくわかる。……酒気をおびて天井の一点を強く押すのではない。陰にこもって畳の焼けこげを転んでいるのだ。あつ燗で火のような悪酔いは、今や、たけなわである。

大挙 たいきょ。多数のものが一団となって行動すること
銚子 燗をつけた酒を移し入れる器。現代では銚子と徳利はまず同じ意味。
いり はいること。収入。費用。分量やはいりぐあい。かかり
 一定のやり方。作法。きまり。ひとそろい。
かけ 掛け。掛け買い。代金あと払いの約束で品物を買うこと。
 交代して行われる勤務。順送りに入れ替り事に当たること。順番。注意して見張ること。番人。

貧乏徳利 びんぼうどくり。びんぼうどっくり。円筒形の上部に長めの口をつけた陶製の粗末な徳利。
 げん。黒い色。黒。
忍ぶ しのぶ。他人に知られないようにこっそりと何かをする。
勢い はずみ。なりゆき。
気焔 きえん。気炎。燃え上がるように盛んな意気。議論などの場で見せる威勢のよさ。
衝く 細い物で一点を強く押す。弱点などを攻める。刺激する。物ともせず進む。
悪酔い わるよい。酒に酔って頭が痛くなったり、吐き気を覚えたり、まわりの人が不快になる言動をとること
 たけなわ。酣。行事・季節などが最も盛んになった時。

連樣つれさまつ――と下階したから素頓興すとんきようこゑかゝると、「みんなるかい。」と紅葉先生こうえふせんせいこゑがした。まさか、壺皿つぼざらはなかつたが、驚破すはことだと、貧乏徳利びんぼふどくり羽織はおりしたかくすのがある、誂子てうしまた引挾ひつぱさんで膝小僧ひざこぞうをおさへるのがある、なべ盃洗はいせんみづ打込ぶちこむのがある。わたしをついてかしこまると、先生せんせいにはお客分きやくぶん仔細しさいないのに、宙外ちうぐわいさんもけむかれて、かた四角しかくすわなほつて、さけのいきを、はあはあと、もつぱらピンとねたひげんだ
[現代語訳] おつれさまっ――と下階から素っ頓狂な声がかかると、「みんないるかい。」という尾崎紅葉先生の声がした。まさか、本膳料理などの食器はなかったが、すわ、ことだと、貧乏徳利を羽織の下へ隱す人がいる。銚子を股へ挾んで膝小僧をおさえる人がいる。杯をすすぐ器の水を鍋へぶちこむ人がいる。私が手をついて畏まると、先生にとってはお客分で何もないのに、宙外さんも煙に巻かれて、肩を四角にして、座り直して、酒の息ははあはあとして、専らピンとはねた、ほおひげをもんでいた。

素頓興 すっとんきょう。素っ頓狂。ひどく調子はずれで、まぬけな様子。
壺皿 つぼざら。本膳料理などに使う、小さくて深いふた付きの食器。
すわ 突然の出来事に驚いて発する語。そら。さあ。あっ。
盃洗 はいせん。杯洗。酒宴の席で、人に酒をさす前に杯をすすぐ器。杯洗い。
子細ない しさいない。仔細無い。さしつかえない。構わない。これといった問題もない。
 髯は「ほおひげ」のこと。
揉む もむ。両方のてのひらで物を挟んでこする。

 ――ところへ……せりあがつておいでなすつた先生せんせいは、舞臺ぶたいにしてもせたかつた。すつきりをとこぶりのいゝところへ、よそゆきから歸宅きたくのまゝの、りうとしたつけである。勿論もちろん留守るすねらつておよしたのであつたが――そろつて紫星堂しせいだうじゆく)をたといて、その時々とき/″\弟子でし懷中くわいちう見透みとほによくわかる。明進軒めいしんけん島金しまきん飛上とびあがつて常磐ときははこはひる)とところを、奴等やつら近頃ちかごろ景氣けいきでは――蛉鍋はまなべと……あたがついた。「いや、さかんだな。」と、火鉢ひばちを、鐵火てつくわめしまたはさんで、をかざしながら莞爾につこりして、「後藤ごとうくん、おらくに――みなみなよ、おれわり一杯いつぱいやらう。」殿樣とのさま中間部屋ちうげんべやおもむきがある。おそれながら、此時このとき先生せんせい風采ふうさい(おも)ふべしで、「懷中ふところはいゝぜ。」とたゝかるゝ。おうじて、へいと、どしん/\とあがつた女中ぢよちうが、次手ついで薄暗うすぐらいからランプをつけた、つりランプ(……あゝひさしいがいまだつてランプなしにはられますか。)それがちやう先生せんせいかたうへ見當けんたうかゝつてた。
[現代語訳] ――ところへ……下から上がっていった先生は、舞台にでるかのように立派に見えた。すっきりして、男ぶりの高いところに加えて、外出から帰宅したままの、りゅうとした着物を着ている。もちろん妻子の留守をねらってここに来たのだが――一同がそろって紫星堂(塾)から出たと聞き、その時々の弟子の財布は洞察すると、よく分かる。明進軒か志満金、よくて常磐(芸者が入る)だろう。やつらの近頃の景気では――蛉鍋ではないか……と、見当がついた。「いや、盛んだな。」と、真っ赤になった欠け火鉢を、着物の股へはさんで、手をかざしながら、にっこりして、「後藤君、お楽に――皆も飲みなよ、俺もワリカンで一杯やろう。」殿樣が下級武士の長屋にやってきたという趣きがある。おそれながら、このとき、先生の風采を考えてほしい。先生は「財布はいいぜ。」と手をたたいた。この手に応じて、へいと答え、どしんどしんとあがった女中が、ついでに薄暗いのでランプをつけた、吊りランプ(……ああ、懐かしいランプ。いまではランプなしにはいられますか。)が、ちょうど、先生の肩の上というところに掛かっていた。

よそゆき 余所行き。よそへ行くこと。外出すること。よそいき。
迫り上がる せりあがる。下から上へすこしずつ上がってゆく。
着つけ きつけ。着付け。衣服、特に和服を形よく着ること。着せること。
紫星堂 詩星堂。
りゅうと 隆と。身なりや態度などが立派で目立つ様子
懐中 ふところやポケットに入れているもの。特に財布・紙入れなど
見通し みとおし。遠くの方まで見えること。他人の本心や考えなどを見抜くこと。洞察。
飛上る 喜びや驚きのために、思わず飛びはねる。
あたり 手掛かり。見当。
はこ 三味線を入れる箱。三味線。転じて、芸者。「はこが入る」
缺け 欠け。かけること。かけていること。かけてこわれた部分。かけら。
鉄火 真っ赤に焼けた鉄。やきがね。
お召し おめし。着る人を敬って、その着物をいう語。
 割り勘でしょう。費用を各自が均等に分担すること。また、各自が自分の勘定を払うこと。
中間部屋 近世の武家屋敷内の長屋。
風采 ふうさい。外部から見た、人の容姿や身なりなどの様子
釣りランプ 天井などからつり下げてあるランプ。
見当 未知の事柄について立てた見込み。予想。大体の方向・方角。

面疱にきびだらけの女中ねえさんが燐寸マツチつてけて、さしぼやをさすと、フツとしたばかり、まだのついたまゝのもえさしを、ポンとはすつかひげた――(まつたく、おたがひが、所帶しよたいつて、女中ぢよちうこれにはなやまされた、用心ようじんわるいから、それだけはよしなよ。はい、とくちしたから、つけさしのマツチをポンがおさだまり……)先生せんせいひざにプスツとちた。「女中ねえや、お手柔てやはらかにたのむぜ。」と先生せんせい言葉ことばしたに、ゑみわれたやうなかほをして、「れた證據しようこだわよ。」やや、とみなかほる。……「れたに遠慮ゑんりよがあるものかツてねえ、……てね、……ねえ。」とあまつたれる。――あ、あ、ああぶない、たな破鍋われなべちかゝるごとく、あまつさべた/\とくづれて、薄汚うすよごれた紀州きしうネルひざから溢出はみださせたまゝ、……あゝ……あゝつた!……男振をとこぶり音羽屋おとはや特註とくちう五代目ごだいめ)の意氣いきに、團十郎だんじふらう澁味しぶみくはゝつたと、下町したまちをんなだちが評判ひやうばんした、御病氣ごびやうき面痩おもやては、あだにさへもえなすつた先生せんせいかたへ、……あゝかじりついた
 よゝつツと、宙外君ちうぐわいくんまらず奇聲きせいふのをげるにれて、一同いちどうが、……おめでたうととなへた。
[現代語訳] にきびだらけの女中さんがマッチを擦って火をつけ、それから本体に点火して、フッと火を消し、まだ火のついたままの燃えさしを、ポンと斜めに投げた――(まったく、お互いが、所帯を持って、女中のこれには悩まされた。火の用心が悪いから、それだけはよしなよ。はい、というその口の下から、つけさしのマツチをポンと棄てる。それがお定まり……)と、燃えさしは先生の膝にプスッと落ちた。「ねえや、お手柔らかに頼むぜ。」と先生の言葉。しかし、女中さんは微笑するような顏をして、「惚れた証拠だわよ。」おやおや、と全員が顔を見る。……「惚れたに遠慮があるものかってねえ、……てね、……ねえ。」と甘ったれた様子もする。――あ、あ、あ、危ない。棚の割れた鍋が落ちかかるように、いや、それどころか、べたべたと崩れて、薄汚れた暖かいネルを膝からはみださせたままで、……ああ……ああ、やった!……先生の男ぶりは音羽屋(特に註を加えると、五代目である)の意気と団十郎の渋みが加わったと、下町の女たちは評価するのだが、御病気のため顔はやつれていて、色っぽくさえも見える先生の肩へ、……ああ、かぶりついた。
 よよっと、宙外君がたまらず奇声というのを上げて、同時に、一同は、……おめでとうと声を上げた。

挿しぼや 小さな火を他の物の間に入れる。
はすっかい 斜っ交い。斜めに。斜めにまじわること。
破鍋 破損した鍋。
あまつさえ さらに別の物事が加わるさま。多くは悪い事柄が重なるときに使う。
紀州ネル 綿生地を起毛させた平織り生地。明治初期に、紀州の瀬戸重助が作り始めた。特徴はやわらかさとあたたかさ。
男振り おとこぶり。男としての容貌・風采。特に、堂々とした男らしい顔だちや態度など。おとこっぷり。
面窶れ おもやつれ。病気や心配事などのため、顔がやつれること。
あだ なまめかしく美しいさま。色っぽいさま。
齧り付く かじりつく。物の端に勢いよく歯を立てる。ぎゅっとかじる。食いつく。

 それよりして以來いらい――癇癪かんしやくでなく、いきどほりでなく、先生せんせいがいゝ機嫌きげんで、しかも警句けいくくもごとく、弟子でしをならべて罵倒ばたうして、いきほひあたるべからざるときふと、つゝきつて、くばせして、一人ひとりすこしくまかる。「先生せんせい……(みづ)……」「なに。」「蛤鍋はまなべへおともは如何いかゞで。」「馬鹿ばかへ。」「いゝえ、大分だいぶ女中ねえさんがこがれてりますさうでございまして。」かたはらから、「えゝわづらつてるほどだとまをしますことですから。」……かねて、おれをおもをんなならば、つかちでもはなつかけでもとふ、御主義ごしゆぎ?であつた。――
 紅葉先生こうえふせんせい、そのとき態度たいどは……

采菊東籬下きくをとうりのもとにとつて
悠然見南山いうぜんとしてなんざんをみる
大正十三年一月
[現代語訳] それ以来――かんしゃくではなく、憤りでもなく、先生がいい機嫌になっていて、しかも弟子をならべて、警句が雲の如くに出てきて、罵倒し、勢いはあたるべからずという時に、つつき合って、目くばせして、一人が座布団から少し身を出して、「先生……(水)……」「なに。」「蛤鍋へおともはいかがで。」「馬鹿を言え。」「いいえ、だいぶ、女中が、焦がれておりますそうでございまして。」そばからも「ええ、わずらっているほどだと申しますから。」……かねて、おれを思う女ならば、目っかちでも鼻っかけでもいこうという、御主義?であった。――
 紅葉先生、その時の態度は……

    菊を()東籬(とおり)のもと
    悠然として南山を見る。
大正十三年一月

警句 けいく。短く巧みな表現で、真理を鋭くついた言葉。
目くばせ 目配せ。目を動かして、意思を伝えたり合図をしたりすること
目っかち めっかち。一方の目が見えないこと。また、両目の大きさにかなりの差があること。
鼻っかけ はなかけ。鼻が欠けおちていること。梅毒になる場合が多かった。
采菊東籬下 悠然見南山 菊を()東籬(とおり)のもと 悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)を見る。東の垣根の下で菊を採り、のんびりと南の山を眺める。陶淵明(365~427)の作。「飲酒二十首 其五」から。
悠然 ゆうぜん。ゆったりと落ち着いている。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑩

 演劇学者で名著『歌舞伎細見』の著者である飯塚友一郎の生家で、別に精米商と質屋をも兼営していた飯塚酒場その坂の右側にあって、現在では通常の酒屋――和洋酒や清涼飲料や調味料の販売店でしかなくなっているが、戦前には官許()()()なるものを飲ませる繩のれんのさがった居酒屋であった。酒の飲めない私もいつか誰かに連れられていって卓の前に坐ったことがあるが、我こそは明日の星よとみずからにたのんだ無名の芸術家たちが、まだ生活水準の低かった労働者と肩を接して安酒の酔いに談論風発していた光景には忘れがたいものがある。
 が、こんど私がそこへ脚をはこんだのは、その横か裏かにあったはずの芸術倶楽部所在地を確認したかったからにほかならない。
 島村抱月坪内逍遥文芸協会と袂を分って我が国最初の新劇団である芸術座を創始したのは大正二年九月で、『サロメ』『人形の家』の上演など主として翻訳劇の紹介に力をつくしたが、翌三年三月帝劇で上演したトルストイの『復活』は、劇中に挿入した中山晋平作曲の『カチューシャの唄』の大流行と相俟って四百回を越える上演記録をうちたてて、演劇の通俗化を批難されるに至った。そのため抱月は研究公演の必要を感じて、四年秋に収容人員二百五十名の小劇場として横寺町十一番地に建築したのが芸術倶楽部であったが、彼は日本全国では死者十五万人に及んだスペイン風邪から肺炎におかされて、大正七年十一月五日に芸術倶楽部の一室で歿した。そして。その死後は彼の愛入で事実上芸術座の舞台の人気を一人でささえていた女優の松井須磨子主宰者となって劇団を維持していたが、八年一月有楽座で『カルメン』公演中の五日未明に、師のあとを追って芸術倶楽部の道具置場で縊死した。
 最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や寺社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので、芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やむなく飯塚酒店に入って三十代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらぴっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。

歌舞伎細見 かぶきさいけん。1926年(大正15)に発行した歌舞伎の研究書。「世界」や題材により系統的に整理・分類し、由来や梗概(こうがい)、参考書がついています。系統的、網羅的な作品はほかに類書はなく、歌舞伎研究に重要な業績です。
官許 かんきょ。政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと
にごり にごりざけ。発酵させただけで(かす)()していない白くにごった酒。どぶろく
繩のれん なわのれん。縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。店先に繩のれんを下げた居酒屋・一膳飯屋など
談論風発 だんろんふうはつ。はなしや議論を活発に行うこと
横寺町11番地 間違いです。9番地が正しい。芸術倶楽部で。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月(ほうげつ)氏と女優の松井須磨子(すまこ)氏を中心に、主に研究劇を行いました。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成しました。
スペイン風邪 1918年から19年にかけて全世界的に流行したインフルエンザN1H1亜型のこと。
主宰 人々の上に立ち全体をまとめること。団体・結社などを運営すること
現場へ行ってとまどった 現在はプレートがあります。

 このへんから早稲田、あるいは大久保通りの先にある若松町一円にかけては明治大正期にわたる文士村の観があって、その詳細はここで追いきれるものではない。が、私は芸術倶楽部の所在地と同時に教えられた尾崎紅葉住居跡だけは、なんとしても尋ねずにいられなかった。それは、私が十数年前に徳田秋声の伝記を出版する以前から果したいと考えていた夢の一つだったからでもある。いや、そう言っては私自身がすこし可哀そうである。私は十数年前にも、そしてつい近年もそのへんを歩いていながら、人様に道をたずねるのがあまり好きではないばかりに、探し当てられなかっただけのことでしかなかった。
 飯塚酒店からさらに二百メートルほど先へ行くと、やはり右側に三孝商店という酒屋がある。横丁をへだてた先隣りは青物商だが、その青物商の前に黒く塗った鉄柵をもつ路地があって、なかは私道だが、その袋路地のゆきどまりの左側が横寺町四十七番地の紅葉旧宅跡で、紅葉時代からの家主であった鳥居家の当主秀敏夫妻が現住している。まず、その家屋の前に掲示されている標識を写しておこう。

新宿区文化財
旧跡 尾崎紅葉旧居跡
明治の文豪尾崎紅葉は、ここに明治二十四年二月から、三十七歳で死去する明治三十六年十月まで住んだ。鳥居家には、今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆二枚がある。
   初冬やひげそりたてのをとこぶり 十千万
   はしたもののいはひ過ぎたる雑煮かな 十千万堂紅葉
旧居は十千万堂と呼び、二階建て。階下は八畳、六畳、三畳と離れの四畳半があり、二階は八畳と六畳の二間であった。戦災で焼失したが、庭は当時のままである。
ここで紅葉は、有名な「多情多恨」や未完の「金色夜叉」などを執筆した。
昭和五十一年九月
                 新宿区教育委員会

住居跡 紅葉氏の住居は横寺町47番地でした。

早稲田
大久保通り
若松町
早稲田通りは青色、大久保通りは赤色、中央やや下の赤の場所は若松町です。
早稲田通りと大久保通り
文士村 若松町の文化人は、区内に在住した文学者たちを使って調べてみると、飯塚友一郎小川未明、岸田国士、国木田独歩、窪田空穂、島田青峰、高田早苗田山花袋、野口雨情、昇曙夢、三宅やす子、宮嶋資夫、矢口達、若山牧水などでした。
三孝商店
青物商
紅葉旧宅跡
この三か所を示します。さらに紅葉氏の塾生が集まった十千万堂塾も出しました。十千万堂塾は箪笥町4~7番地のどこにあるのか、わかりませんが、新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書く「神楽坂と文学」「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」では5番地だといっています。
標識 現在のプレートを示します。

紅葉旧居跡

 折よくご夫妻が在宅されて、なんの連絡もせずにいきなり訪問した私は茶菓の饗応にまであずかるという、まったく予期せぬ歓待を受けた。その上、標識に記されている二句の現物や、紅葉の本名である尾崎徳太郎と印刷された通常の名刺を縦半分に切断したような細長い名刺や、尾崎家の遺族が記念に印刷して関係者に配布したらしい写真帖などもみせられたが、最大の収穫は桝の大きめな方眼紙に鳥居家当主の手で精緻にえがかれた旧居の間取り図であった。
 紅葉宅に泉鏡花小栗風葉柳川春葉の三人が玄関番として住みこんでいたことは幾つかの書物に記載されているが、私は『徳田秋声伝』を執筆したとき三人の起居した玄関の間が二畳か三畳か確認できぬままに終った。その後『日本文壇史』を書いた伊藤整が「朝日新聞」記者のインタビューに応じて私の書いた通りに語っているのを読んで責任を感じていたが、こんどようやくそれも氷解した。面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである。
 標識に《当時のまま》と記されている庭も案内されたが、尾崎家の子女が育つにつれて玄関ではしだいに仕事がしづらくなっていた風葉は、鏡花が祖母と榎町で所帯を持ったあと、尾崎家の地からおりていける地つづきに二階建ての貸家が空いたのに眼をつけて、同門の春葉と秋声にそれを借りて文学修業の共同生活をしようと提案した。その勧誘をした場所が前記の万盛庵で、そのうちに他の門下生も集まって来て紅葉の家塾の観を呈したために、彼等が詩星堂と名づけていた合宿寮が文壇では十千万堂塾とよばれるに至った。文学上ではもちろんのこと、物質的にもなにがしかの援助を受けていたために、紅葉の家塾とみなされたのである。が、その援助にも、かぎりはあった。われわれの先輩作家は、一本の巻煙草を二つに千切って分け合うというような暮しぶりをしていたのである。戦後の作家生活とは雲泥の差が、そこにはあった。塾のあった場所の地籍は箪笥町であったが、「ここをだらだらと下ったところにあったんです」と鳥居家の当主が指さしたその地点は、しかし、垂直な崖に変形してしまっていた。
 徳田秋声の昭和八年の短篇『和解』は、自邸の庭続きに新築したアパート「フジハウス」へ、困窮していた泉鏡花の実弟泉斜汀(本名=豊春)が転がりこんできて急死したのを機会に、鏡花が謝意を表するために訪問したところから、師の紅葉をめぐって長年つづいた確執も解消して、打ち揃って十千万堂跡をおとずれるいきさつを叙したものだが、『和解』という表題にもかかわらず、二人のあいだのしこりは完全に氷解したわけではない。そういう屈折した心理を、たんたんとのべているところに味わい深いもののある作品とみるべきであろう。母堂が朝日坂五条坂とよんでいたという話も、私はそのとき鳥居家の当主からきいた。

榎町 えのきちょう。東京都新宿区にある地名
万盛庵 当時は蕎麦屋。後に鳥料理の川鉄になりました
箪笥町 たんすまち。東京都新宿区の町名で、横に長い町です。箪笥町はここ
和解 昭和8年3月30日、泉斜汀氏の死亡と葬式があり、徳田秋声氏と泉鏡花氏との曰く言いがたい関係を描く作品
朝日坂 泉蔵院に朝日天満宮があるため。http://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/
五条坂 朝日天神は五条の天神様と呼ばれたため。http://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/

二句の現物 新宿区横寺町交友会、今昔史編集委員会の『よこてらまち』(2000年)で、二句の現物のコピーを見られます。

紅葉の二句で現物

フジハウス 徳田秋声旧宅は文京区本郷6丁目6−9。フジハウスは6-2です。空襲はなく、当時のままです。フジハウス1